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スカーレット・ホロウ  作者: 黒崎江治
ミッション3 信じる者
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十三話 愚か者の末路

 その日、京子は悪夢を見た。両親が殺されたときの夢だった。


 京子はマンションの前に立っていた。それは横浜市内の新興住宅地にあった。両親と一緒に幼少期を過ごし、愛されて育った家。当時はのどかで、温かな場所だった。


 しかし今、夢の情景は全てモノクロームで、音はどこか遠くから響いてきているように聞こえた。


 マンションの前には人だかりができている。警察官が予防線を張っていた。京子はこの後なにが待ち受けているかを悟ったが、決まっている結末を覆すことはできない。引き裂かれるような痛みと恐怖を胸の内に感じながら、近づいていく。


 本当はここで警察官に保護されたのだ。しかし今、京子を見ている者、止める者はいなかった。人垣を通り抜けて、エントランスをくぐる。


 部屋は七階にあったが、京子はいつも階段を使った。エレベーターを待つより、駆け上がった方が早かったからだ。息を切らせて玄関のドアに手をつく京子を見て、母は笑ったものだ。しかし今回そうならないことを京子は知っていた。


 叫び出したかった。逃げ出したかった。しかし足は部屋へと向いた。玄関のドアは開いていて、戸がゆらゆらと揺れていた。誰かに頭を掴まれ運ばれているように、京子は玄関を通り抜け、リビングに入った。


 景色にノイズが混ざり、揺れ、ぼやけた。


 直接聞くことはなかった悲鳴や苦痛の声。直接目にすることはなかった殺害現場。残忍で無感情な犯人の黒い姿。それは今や資料室の奥底に押し込められ、再び顧みられることのない記録から、京子が再構成し得た記憶だった。


 京子はテーブルの上に立てられた父の首を見た。母の首を見た。二つの間に挟まれた自身の首を見た。その瞳だけが見開かれ、怒りと憎悪の炎を宿していた。


 瞳は京子を責めているのだった。お前が止めなかったから。お前が気づかなかったから。お前が弱かったから。その感情は首を見ている京子にも乗り移り、激しく精神をかき乱した。責める心と責められる心が混然となり、頭が破裂しそうになった。


 助けを求めるように視線を逸らせば、広東語で書かれた壁の血文字が目に入った。当時もぼんやり意味は分かった。あとで調べて正確な意味を知った。


『愚か者の末路』


 それは大小に複製され、壁を侵食していった。


 愚か者の末路。愚か者の末路。愚か者の末路。愚か者の末路。愚か者の末路。


 そこで京子は目を覚ました。


 過去に何度も似たような夢を見た。だからもう、いちいち叫んで目覚めるようなことはしない。しかし当然のことながら気分は最悪だった。動悸もした。


 首をひねって時計を見ると、午前九時を少し過ぎたところだった。身を起こし、緋色の髪をぼりぼりとかきながら、ため息とともに悪夢の余韻を吐き出す。


 ペンライ・カジノで大立ち回りを演じてから一週間。新しい動きがあるまでの待機を命じられた京子は、ポイズンハイドレートの店舗と自分の部屋でほとんどの時間を過ごしていた。


 緒方から聞いたところによれば鎮氷は死なず、シャングリラ内の病院に運び込まれたらしい。アスール・カルテルとの癒着は既に暴露されているため、彼はこのまま表舞台からフェードアウトしていくことになるだろう。


 となれば、あとは嵐航の息がかかった何某とやらが、当面の間衛兵力の実権を握ることになる。潘俊豪を暗殺するという計画が、また一歩前進したのだ。


 しかしその実感が、京子には乏しかった。顔も知らない人間たちによって物事が動いているというのは、あまり気分が良くなかった。自身の力だけでは俊豪に届かないのだ、ということを突きつけられているようだった。


 だからなのか、近頃の眠りはいつにもまして浅い。おまけにこの悪夢だ。


 ふと、部屋隅のELディスプレイに目を遣る。月華のアバターである黒ウサギが、傍らに大量のモザイクを積み上げていた。


「調子悪いの?」


 京子は尋ねた。


『エラーチェック中。ハイリスクと評価されたものが14件。詳細見る?』


「見ても分かんないから……。シェリーさんに頼むよ」


『ごめんねぇ。よろしく』


 座ったまま前屈して太腿の筋肉を伸ばす。二十秒ほどそうしてから、裸足のまま廊下に出た。音程の外れた歌を口ずさみながら熱いシャワーを浴び、髪を乾かす。短い髪は面倒がなくていい。身体を清めると、気分は少しだけましになった。


 部屋で服を替えて一階に降りる。既にシェリーが起きてきていた。


 ポイズンハイドレートの営業時間は午前一時までで、店のクローズや翌日の準備は三十分もあれば終わる。最後まで手伝ったときでも、京子は二時ごろに寝てしまう。シェリーはその後も四時か五時まで起きていることが多いようで、十時前に活動する姿を見るのは珍しかった。


「おはよう。コーヒー飲む?」


「うん」


 朝食の準備をシェリーに任せ、京子はテーブル席に座ってしばしぼんやりする。天井に備えつけられたスピーカーからは、電子音声のアップテンポな曲が流れている。音量は控えめで、寝起きの耳に優しい。


「そういえば、月華が調子悪いんだった」


「わかった。あとで見たげる」


 京子が使っているウィスパーとそこにインストールされている月華は、二年前シェリーに貰ったものだ。彼女はその使用法に熟達しているだけでなく、ソフトウェアのメンテナンスもこなせる。シェリーの過去を詳しく詮索したことはないが、かつてはエンジニアか、それに近いことをしていたのだろう。


 そのうちコーヒーが入り、フレンチトーストが焼き上がった。シェリーはそれを京子の席まで運び、自身も対面に腰かけた。


「最近、大変みたいだけど」


 シェリーがやや上目遣いで言った。京子のコーヒーには、既にミルクが入っている。


「色々ね」


「また緒方さんのところで仕事してるんでしょ?」


 緒方のことを、シェリーはどのくらい知っているのだろう。京子自身はあまり話した覚えがない。とはいえ緒方はこの辺りの顔役だから、どんな人物かぐらいは誰でも知っている。


「そんなことしなくても、生きてく道は色々あると思うんだけど。私がもっと教えてあげてもいいし。シャングリラの回りなら、飲食店もそんなに悪くないし」


「危ないのは分かってるよ」


 フレンチトーストをフォークで切り分け、口に運ぶ。彼女がこんなに説教じみた態度を取るのは珍しかったので、京子は若干の戸惑いを覚えた。


「……あなたがはじめてここに来たときを覚えてる」


 シェリーは京子から視線を外し、遠く過去に目を遣った。


 京子ももちろん忘れてはいない。無断で黒豹を出て、それでもシャングリラは出ず、頭を冷やそうとたっぷり数時間彷徨った。


 夕方になり、結局黄金町の近くまで戻ってきているではないかと気がついて、脱力したのを覚えている。空き腹を抱えたまま佇んでいると、買い出しから戻ってきたシェリーに声をかけられた。


「あのとき、あなたは会いたい相手がいるって言った。でもそれが殺したい相手なんだってことはすぐに分かった。目つきがね、これ以上ないくらいに物騒だったから」


「危ないとは思わなかった?」


「私が? ううん。それよりも、あなたが若い女の子だったから。ここで捕まえておかないと、どんな酷い目に遭うんだろうと思ったの。


 私も会社を辞めたあとだったから、もしかすると、独りぼっちの仲間が欲しかったのかもね。あのときはショックだったし、落ち込んでた。でも今は、これでよかったと思ってる」


 シェリーはマグカップを両手で包み、その中身を覗き込む。しばらくそうしてから目線を上げ、京子を真っ直ぐに見つめた。


「京子、あなたの目的はとても危険。危険すぎる」


 京子はしばらく黙っていた。うっかり棘のある言葉を吐いてしまわないよう、注意深く口を開いた。


「私の親が殺されたっていうのは話したっけ」


「いいえ。でもなんとなくは察してた。その黒幕を殺したいんだってことも」


「ほかの人にとってはどうか分からないけど、私は父さんのことも母さんのことも好きだったから、いなくなってからどうやって生きてくかなんて、まったく想像したこともなかった。


 だから父さんと母さんが殺されて、空っぽになってからは、その相手を殺してやるんだって気持ちだけでなんとかやってきた。それを支えにして生きてきたし、それがあるから今も動いてる。


 危険だからっていって、ほかのなにかに替えられるものじゃない。愛とか、笑顔とか、仕事へのやりがいとか、そういうものを無理やり詰めて、意味があるとは思えない」


 ゆっくり、一つ一つ、京子は自分の考えを言葉にした。恩人を傷つけたくはなかった。しかし自分の思いをないがしろにされるのも耐え難かった。このことに関しては、特に。


「だから続けてる。止めるつもりはない」


「それじゃあ、復讐が終わったら空っぽに戻っちゃう」


「そうだね」


「京子はそれでいいの?」


 またしばらくの沈黙。


「少なくとも、今はそれでもいいと思ってる。……シェリーさん。私のこと、もし迷惑だと思うなら――」


「そういうことじゃない、そんなことは言わないで。私は、少しでもあなたの力になれれないかと思って……」


「ありがとう。でも気持ちだけで。ウィスパーのことだけでもすごく助かってるし」


「そんなのは全然手間じゃない。私がすごく立ち入ったことを言ってるのは分かってる。これは私のエゴかもしれないけど、あなたに傷ついて欲しくはないから」


 それから少し考える素振りを見せてから、シェリーはポケットから一枚の紙片を取り出した。京子は差し出されたそれを受け取り、目を落とす。


民間警備会社(P M S C) ユピテル 大尉 ドミニク ブラッドフォード〉

 英語で書かれた名刺だ。ロゴは雷を振り上げる半裸の男。


 ユピテルの名は京子もよく知っている。和訳では警備と表記されているが、その仕事の多くは軍事に関わるものだ。早い話が、組織化された傭兵である。


 組織の黎明期に中東や北アフリカでの紛争を経験し、二〇〇八年からはじまった中国内戦で大きな発展を見た。内戦が終結した現在でも、中国大陸諸都市に再進出した外資系企業の安全と権益を守るため、広い地域に部隊を展開している。


 ドミニクという名前にもまた覚えがあった。彼はポイズンハイドレートをときたま訪れるアメリカ人だ。シェリーとは旧い知己であるらしいが、直接話したことはほとんどない。


「転職の世話?」


 京子は内モンゴルの乾燥した町の中、アサルトライフルを持って佇む自分の姿を想像した。到底実感の湧くものではないが、田舎の介護施設で働くよりはまだしもありえそうな光景だ。


 名刺から目を上げてシェリーを見る。


「ううん……これも危ない仕事だから。でもいざというとき、頼れる人が必要でしょ?」


「……ありがとう」


 名刺をポケットに入れ、朝食の残りを流し込む。居心地の悪い席を早々に離れ、自分の食器を洗い、そそくさと自室に戻る。


 寝直す気にもなれなかった京子は、黒豹の事務所に顔を出し、少し身体を動かすことにした。


 ホーネットを携え、ポイズンハイドレートをあとにする。結局、月華のメンテナンスは頼みそびれてしまった。


 空には厚い雲が垂れ込めている。午後からは雨との予報が出ていた。

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