十二話 脱出
ウィスパーの向こうからは広東語の怒鳴り声が聞こえる。京子は英語も中国語もかなりの程度まで習得していたが、興奮した人間の聞き取るのはさすがに困難だった。ただ、間違いなく口汚い罵倒だろう。それはやがて悲鳴に変わった。
「これ、緒方さん死んでも私たちの責任じゃないよね?」
「俺もそう思う」
三階手前の踊り場に到達すると、上階からの銃弾がカーペットを抉った。止まればそのまま釘づけにされてしまう。京子はホーネットで応射して、階段の上に陣取っていた二人を斃した。
勢いをそのままに、緒方と鎮氷がいるはずのVIPフロアまで駆け上がる。空間に満ちた殺気が、鋭敏になった神経をピリピリとつついた。
密談がおこなわれていた部屋の場所は記憶している。京子と柏木がそこへ向かうと、開いたドアの中から激しい怒声が聞こえてきていた。部屋の外にいた二人がこちらに気づき、発砲してくる。廊下の角で身体を隠し、牽制を続ける。
『よーし来たな。こっちも出るぞ』
京子たちの到着を察知した緒方がウィスパー越しに呼びかけてくる。攻撃に晒されているはずだが、その声には一片の恐怖もない。直後、京子は部屋の中から、なにか大きいものが飛び出してくるのを見た。
人間の身体、具体的には意識不明の董鎮氷その人だ。受け止めた衛兵力の一人が、勢いを殺し切れず床に倒れる。
京子が想像するに、緒方は鎮氷を殴って気絶させたあと、彼を人質にしていたのだ。京子たちが到着しなかった場合どうするつもりだったのかは分からない。そして今、人質を乱暴に放り投げ、もしくは蹴り飛ばして攻勢に転じたのだ。
次いで重そうな木製の椅子が一脚、ドア付近の衛兵力に襲いかかった。京子と柏木はそれを好機と見て射撃を加える。その場には六人の衛兵力がおり、うち二人はボディアーマーを着用していたが、貫通力の高いSCAP弾の直撃には耐えられなかった。次々と致命傷を負い、折り重なるようにして倒れていく。
無力化した敵の身体を踏むようにして、緒方が悠然と姿を現した。
「遅かったなお前ら」
「もう滅茶苦茶だよ。なにやってんの」
京子の言葉に悪びれもせず笑ったあと、緒方は柏木から銃を受け取った。安全装置を外し、その銃身をうっとりと眺めている。
「やっぱこれがないとな」
「銃はいいから。で、どこから出るつもり?」
「非常口、と見せかけて従業員用の搬入口だな。車を置いてある」
搬入口に辿り着くためには、一階の遊技場を経由していく必要がある。京子たちは気絶したままの鎮氷を放置して、階段の方へと戻った。
しかしその途中、階段を上がってきたらしい数人が廊下に広がり、京子たちの進路を塞いだ。うち三人は黒い長方形の盾で身体を隠し、背後の二人を護っていた。
ライオットシールドではない。射撃を弾かれてから、京子はそれに気づいた。
「防弾シールドだ。SCAPじゃ貫通けん。牽制し続けろ」
緒方が低い声で言い、銃を構えた。
彼が使うバジリスクは見るからに旧式の、鈍重なシルエットを持つリボルバーだ。構造は自動拳銃に比べて単純、そして極めて丈夫。
強ければ強いほどいいというアメリカ的ロマンを追い求めたような一品で、緒方が言うには、これを使うのは象や水牛を相手にするハンターか、ネジの外れたバカだけとのことだ。
銃身八インチ。重量約一三〇〇グラム。使用するのは445スーパーマグ弾。聞くからに頭の悪そうな名前ではあるが、その運動エネルギーは、一般的な拳銃に使用されるSCAP弾や9mmパラベラムと比べ物にならず、平均的なライフルすらも凌駕する。
緒方が発砲した。銃声とすら言い難い破壊的な爆音に、隣の柏木が首を竦ませる。大口径の弾丸は防弾シールドを貫通し、その向こうにある人体に風穴を開けた。
続けざまにもう一発。風穴が二つ。
防御があるという安心感を崩された敵は動揺した。その隙を縫い、ホーネットとマンティスが装甲の隙間を穿つ。京子の耳からバジリスクの残響が消えるころ、そこには五つの死体が残った。
「おし、走れ走れ」
緒方に促され、柏木とともに階段を降りる。一人がカバーし、その隙に二人が進む。 空間は広いが、視界が通るのはせいぜい三十メートル。京子にとっては動く人間の頭部を撃ち抜くのも容易な距離だ。
バラバラとやってくる衛兵力を撃って斃し、後退させながら、交互に距離を稼いでいく。
一階フロアは聞こえてきた銃声で騒然となっていて、正面入口方向に逃げようとする客が押し寄せていた。ざっと見積もっても数百人はいる。恐怖ではなく、押し潰された痛みで声を上げている者もいた。
「健一、グレネード投げてやれ」
柏木が勢いよくスモークグレネードを放る。それは二十メートルほど飛んで床に落ち、群衆の足元で大量の煙を撒き散らした。フロア全てを煙らせるには到底足りないが、パニックを助長するには十分すぎた。群衆の悲鳴や怒号が一際大きくなる。
あの様子ならば、正面玄関からの増援は警戒しなくてよさそうだ。京子たちは踵を返し、カジノの奥に向かう。
しかし当然、これで終わるはずもなかった。正面がダメならばと、建物の裏手から人員が投入されてくる。事前に待機していた人数は知れないが、あと三分も足止めを喰らえば、百人やそこらが簡単に集まってくるだろう。
フロア裏の出口まで三十メートルあたりに来たところで、カードゲームのテーブルやスロット台越しに銃弾が飛んできはじめた。
「分かれて攪乱する?」
京子が言う間にも、隠れている柱が銃弾で削られていく。
「搬入口って一か所だよな?」
柏木が言った。
「そうだ。俺が先についても、三十秒しか待たんからな」
緒方が答える。
京子は敵がいるらしい場所のシャンデリアに目星をつけ、十五メートルほど離れたそれの留め具に狙いを定めた。引鉄に力を込めると、ホーネットから吐き出された銃弾が留め具付近の天井を破壊し、重いシャンデリアを落下させる。
大きな音を立てて砕けたクリスタルガラスが広範囲に散らばり、敵の弾幕がほんの一瞬緩んだ。そのタイミングを逃さず、三人は一斉に飛び出した。
遮蔽から遮蔽へ移動しつつ、京子は搬入口に繋がるドアを目指す。柱を一つ越えたところで、ボディアーマーを着た衛兵力と鉢合わせた。
京子は素早く相手の懐に入り込み、顎に頭突きを見舞った。狙いの定まらない銃口から放たれた弾丸が、ゲーム用のELディスプレイを粉々にする。バランスを崩したところに足払いを食らわせ、倒れた頭をパンプスの爪先で蹴り飛ばす。
どこかでバジリスクの爆音が響いた。緊迫した様子の広東語も聞こえる。流れるBGMだけが妙に呑気だった。
再び走り出した京子の先に、スロット台の陰から飛び出してこようとする男が見えた。失踪する勢いのまま跳躍し、顔を覗かせた男の胸に膝をめり込ませる。勢いでドレスが派手に破けたが、恥じらっている暇はない。
着地した京子の頭上でガラスが砕けた。勢いそのままに転がって、弾の出所に射撃を見舞う。膝蹴りを受けた男にもとどめを刺した。残弾はあと四発。
十メートル先のドアは既に開いている。数秒先に到着した柏木が、こちらに銃を向けていた。
マンティスから放たれた銃弾が京子の脇を通り過ぎる。背後で誰かの倒れる音がした。京子は振り返ることなく、ドアへと到達する。
「オッス、元気してる?」
「いいから早く行って」
柏木を押し込むようにして、STAFF ONLYのドアをくぐる。真っ白な短い廊下の先に、次のドアが見えた。それを蹴り開けるようにして進むと、ようやく搬入スペースと思しき場所に辿り着いた。
広い場所には何台ものトラックが停まっていた。右から轟音が聞こえ、京子はそちらに目を向ける。出会い頭の衛兵力を、緒方がバジリスクで撃ち抜いたところだった。
「車はこっちだ。俺が運転する」
用意されていたのは白い四輪駆動車だった。京子と柏木が乗り込むと、緒方が車を急発進させた。既に開いているゲートを通過し、道を封鎖していた車の列をこじ開ける。
屋外に配置されていた衛兵力が射撃を浴びせてくる。弾丸が窓に穴を空け、ドアをへこませる。しかし多くがカジノ内へ入っていったのか、追手は思いのほか少なかった。
「あーあー、強引なんだから」
柏木が言う。京子は助手席の背もたれを掴んで頭を下げ、衝撃と射撃に耐えた。
やがて四駆は邪魔な車を押しのけて、道路を加速し始めた。大通りに合流するが、なお二台が追い縋ってくる。
京子は砕けたガラスを払い、窓から身を乗り出した。真夜中の風を背後に浴びながら、小さな照星の向こうに追手の運転席を捉える。車の揺れに呼吸を合わせ、トリガーに力を込めた。
二十メートル以上離れた車内は暗かったが、運転が乱れたことで命中を確認した。追手の車は大きく蛇行しながらもう一台を巻き込み、カジノの灯りと一緒に、遥か後方へと取り残されていった。
「このままメシでも食いに行くか」
緒方が冗談めかして言った。
「なんか今日は魚の気分だなァ俺」
「……ねえ、窓がないから風がすごい入ってくるんだけど」
闘争の興奮が醒めるにつれ、疲労と寒さが意識される。京子は柏木からジャケットをむしり取り、安全な場所に着くまで両脚をさすって過ごした。




