十話 ペンライ・カジノ
京子がペンライ・カジノに出かける日の午前中に、黒豹からの荷物が届いた。中身はシンプルながら背中の大きく開いた赤いドレス、黒いショール、ヒールの低いパンプス。
ゴム素材に張り替えられている靴底を見て、京子はとりあえず満足する。これならば走るのに不都合はない。
午後五時ごろ。それらのアイテムを身に纏い、いつもより濃いメイクをした京子は、ポイズンハイドレートの正面から出ていこうとして、うっかりシェリーに捕まってしまった。
「どうしたのその格好」
「ちょっとカジノに」
「珍しい。デート? 誰と誰と?」
「その……、昔の同級生と」
京子は言い淀み、適当な嘘をついた。これからペンライ・カジノで荒事に備えます、とは言いにくかった。
「そっか……、いってらっしゃい」
どこか嬉しそうな口調と視線に若干の罪悪感を覚えつつ、京子はポイズンハイドレートを出発し、タクシーで目的地へと向かった。
新港地区のIRには五つのカジノがある。それらは全てホテルに併設されており、敷地内外にあるテーマパークや劇場、温浴施設、結婚式場などと併せて、シャングリラ・リゾートと呼ばれる広大なエリアを形成している。
ペンライ・カジノはその中でも最大のものであり、収容人数やホスピタリティの質は、ラスベガスやマカオの一流カジノにも劣らない。
リゾートに繋がる橋を渡れば、そこは沈滞の中にある日本とは思えない、まったくの別世界となる。
オールド・チャイナタウンの主要な魅力をアジア的な賑やかさとするならば、シャングリラ・リゾートのそれは莫大な資本を背景としたスケールの大きさだ。
立ち並ぶホテルの豪華さは言わずもがな、光る軌道の上を走る遊覧用のモノレール、高さ三十メートルに及ぶ人工の滝、道行く人々には、ホログラムのAIアバターが案内を申し出る。
いくつかある広場の地面には巨大なディスプレイが埋め込まれていて、観光客たちが送った無数のメッセージがリアルタイムで流れ続ける。
訪れているのは七割が外国人。旧中国から、欧米から、近ごろは発展著しい東南アジアからの客も多いようだ。比較的リーズナブルな遊び場もあり、あまり金を持っていない若者でも、雰囲気に馴染み、衛兵力に目をつけられさえしなければ、そこそこ楽しく過ごすことができる。
リゾートの売り上げは、ほんの一部が税金として日本政府に渡り、残りの大半がイースト・シャングリラ社、ひいては潘俊豪の懐に入る。さらに一部が華南軍閥に流れているとの話もあるが、その真偽は定かでない。
シャングリラ・リゾートの一等地。京子はペンライ・ホテルのロータリーでタクシーを降り、慇懃な従業員を横目にエントランスをくぐる。
巨大なシャンデリアの照明煌めく華やかなロビーには、これからの遊興に胸をときめかす老若男女がたむろしていた。京子がロビーを横切ると何人かが振り返り、その姿を目で追った。
広いロビーをぐるりと見渡していくと、奥の壁に寄りかかり、ウィスパー越しに誰かと通話中の柏木がいた。艶のある灰色のスーツに黒いシャツ。ネクタイは薄い金色。
着こなしはともかく、どう見てもヤクザな稼業の人間にしか見えないが、ペンライ・カジノの客層を考えれば、そういった格好が必ずしも不自然とは言えない。
京子が近づくと、向こうもこちらに気づき、通話を終えて手で挨拶した。
「いいねその格好。似合ってる似合ってる。ただショールはちゃんとかけといた方がいいね。二の腕回りがその……か弱い女性のソレじゃないから」
「ゴリラって言いたい?」
「そこまでは言ってない。ただちょっと堅気には見えないっていうか」
「ヤクザっぽさならアンタも同じでしょ。緒方さんは?」
「まだかかるらしいからゆっくり待とう。エスコートしますよ、麗しいお嬢さん」
慣れた仕草で京子を先導し、柏木は遊技場へと足を踏み入れた。
そこは高級感のある紫を基調とした内装に、光とざわめきが溢れた騒がしい空間だった。よりグレードの低いカジノほどではないが、ここもまたある種のギラギラした欲望に満ちている。
演出に凝ったスロット、着飾ったディーラーが回すルーレット、玄人風のプレイヤーが火花を散らすブラックジャック。確率が計算できるゲームでは、AIの使用が禁止されている。比較的新しい電子遊戯も見かけるが、カジノではやはり、対人のギャンブルが好まれているようだ。
仕事でなら何度か来たことはあるが、京子はギャンブルに嵌まる性質ではなく、個人的にプレイする機会はほとんどなかった。普段やりとりしているものがものだけに、チップの交換に大した興味が湧かなかったのかもしれない。人の気配があちこちにあるのも好きではなかった。
「ポーカーやる? 緒方さんポーカー好きなんだよな」
「ルールよく知らない」
カジノの客に見えるよう、一応三〇〇ドル分はチップに換えてある。しかしどのみち、京子は遊技場に長く滞在するつもりはなかった。フロア中央にある大きな階段を昇り、やや落ち着いた雰囲気の上階を目指す。
ほんの少し喧騒が遠くなった二階。京子は薄暗く落ち着いたジャズクラブを探す。電子的なアバターが歌うところもあるが、人間のジャズシンガーと奏者がいる場所を選んだ。ついてくる柏木を追い払うでも誘うでもなく店に入り、ブース席に腰を落ち着ける。
内装には木と鉄が多く使われていた。コンセプトは一九世紀のアメリカだろうか。
「サラトガ・クーラーを」
「俺はモヒートね。ラム少なめで」
ボーイにそう告げて、京子はぼんやりと店内に目を遣った。時間が早いせいか、席はあまり埋まっていない。何組かいる客も、落ち着いた高齢の人間が多かった。
「京子さんは、二年前まで黒豹にいたんだっけ?」
「そうだよ」
「じゃあ入れ違いかな? もしかしたらどっかで会ってるかもしれないけど」
「そのときは髪も黒かったし、もう少し長かった。これは出てから染めた」
京子は自分の髪の毛をつまみ、指先でねじった。
「なんで?」
「変装と、気分を変えるためと」
「でも、シャングリラは出なかったし、稼業も変えなかった。その辺理由が気になるわけよ。俺としては」
「詮索してくるね」
「詮索したくなるでしょ。顔も綺麗、バカでもない。シャングリラの外でも生きていけるし、中でやってくにしても選択肢は色々ある。大の男ボコボコにできるまで鍛えて、実際仕事でボコボコにして、そこまでするモチベーションはなに? って思うわけ」
「…………」
「話してくれてもいいじゃん。三〇ドル貸してるんだし」
「今チップで返してもいいけど」
「まあでも、無理には聞かない」
そのとき、シンガーが一曲歌い終えた。場が静まり、ステージの端から誰かが現れた。
豊かな白髪。品のいいスーツ。やや小柄で痩せぎすながら、堂々とした佇まいの老人が、ゆっくりと中央に歩み出る。京子は思わず鋭い目線を向けた。
潘俊豪。しかし本人そのものではなく、高解像度のホログラムだ。この老人はこういった形で、シャングリラの各地によく現れる。だから京子は幾度もその姿を目にし、嫌が応にも細部を記憶することになった。
とりわけ印象的なのが、内戦のさなかに傷を負い、義眼になったという右目だ。瑠璃色の瞳に金の縁取り。俊豪はそれを一切隠すことなく衆人に晒す。
ホログラムはカジノを訪れた客に歓待の言葉を述べ、この一夜が素晴らしいものとなるように、とワイングラスを掲げた。像として映し出されただけの、虚ろなグラスを。
「もしかして、アレが因縁の相手?」
京子の視線を追った柏木が言った。その声に揶揄するような響きはなかった。
「父親が公安で、シャングリラの内偵をしてた」
「公安か。俺らに負けず劣らず危なっかしい仕事だね」
「それで俊豪に目をつけられた。見せしめに両親とも首を切られて、それが家のテーブルに置かれてた。実行犯は捕まってないし、もう捜査もされてない」
「大陸のヒトは容赦ないねェ」
「それで、あのとき壁に書いてあった文字が……」
俊豪のホログラムが消えたのと同じタイミングで、京子は言葉を切った。
「なに?」
「また今度ね」
「ドラマみたいな引き方するなァ。もう三〇ドル出せばいい?」
「アンタはなんで緒方さんとこいんの」
「俺?」
「そう。顔がよくなくてバカだから?」
「言うねぇ」
それから柏木は妙な形に顔を歪め、腕を組んで考え込むような仕草をした。
「親がヤクザで、抗争で死んで。まあそれは死んでもしゃあないって感じで、復讐うんぬんってモンでもないし。そんとき高校通ってたんだけど中退して、盃受けて」
「緒方さんが親?」
「いや、盃は違うとこ」
「ああ、幹ってヤツね」
「そんな感じ。正直俺も全体図はごちゃごちゃしすぎて、幹とか枝とかよく分からんけど。ただ、死んだ父親――ああ、血の繋がってる方ね――その組は、黒豹と割と近かったんだよ。
で、抗争で滅茶苦茶になっちゃったから、里子に出されたわけ。こうやって考えると堅気になる道もなくはなかったけど、そうしたところで、今どきいい生活ができるかというと……、ビミョーとこだね」
現代日本において特別な知識も技術も持たない若者は、外国人労働者やAIと低賃金の仕事を奪い合うことになる。それこそ、二、三千円の貸し借りにさえ気を遣うような経済状態の人間も少なくはない。物質的な豊かさという点で考えるなら、黒豹で使い走りをする方がまだましなのかもしれない。
「で、あとは緒方さんとこでスパルタ式に鍛えられて、下働きしたり、撃ったり撃たれたり」
「ふーん。将来はもっと偉くなりたいとか」
「薄っぺらいと思われるかもしれんけどね。俺、過去とか未来とかはあんまり考えてなくて、今が楽しければいいタイプなんだよ。セツナ的って言うのかな、学校もつまんねぇつまんねぇ言ってたし、元々の組でもおんなじこと言ってたし。
そういう意味では最近結構自由にさせてもらってて楽しいこともある程度できるから、悪くないよね」
もしかすると黒豹という組織の風土や緒方の人柄が、柏木に合っているのかもしれない。伝統的なヤクザ組織とは、いかにも相容れなさそうだ。
「京子さんも楽しいことないの、復讐以外にさ」
「あんまり興味ない」
「人と喋るのは嫌いじゃなさそうだけどね」
柏木の言葉は、京子にとって意外だった。
「……そう見える?」
「緒方さんとの会話見てるとね。俺ともなんだかんだつき合ってくれるし」
両親が死ぬ以前は、確かに社交的な方だったかもしれない。それよりあとは、目的意識が先行し過ぎていて、楽しむ、あるいは楽しんでいるという意識を持ったことはほとんどなかった。
「まあ、そうかもね」
曖昧に肯定する。
「話変わるけど、この仕事が終わったらどうすんの」
「私? やることやったら出ていくよ」
「シャングリラを?」
「そう」
「もったいない」
「さっきは出ていかない理由がどうとか言ったくせに」
「そうだっけ」
気の抜けたように笑ってから、柏木はウィスパーで現在時刻を確認した。
「そろそろパーティーグッズ取ってこようかな」
「私も行こうか」
「へーきへーき。それに男子トイレだし、一緒に行ったら目立つよ」
柏木が席を立ち、京子だけがブースに残された。ステージではシンガーが次の曲を歌いはじめた。遠く過ぎ去った昔を想いながら、見知らぬ都市で孤独に過ごす女の歌だ。手元のグラスで氷が溶けて崩れ、カランと音を立てた。




