一話 雨のシャングリラ
二〇二八年。例年になく寒い夏が去り、暗い秋がやってきた。数か月続いている不順な気候は日本全 国を陰鬱に覆い、昨今なにかと塞ぎがちな人々の気持ちをさらに沈ませた。
好天と呼べるのは月の内せいぜい七日か八日。それ以外は靴底のように重たい雲が全天に立ち込め、しばしば長い雨が、建物の屋根や壁、戸板や窓ガラスを延々と叩き続けた。
この日も相変わらずの雨。未明から降りやまない細かな水滴が、景色すべてを鈍色に煙らせていた。
シャングリラ西部、以前には野毛と呼ばれ、現在は無風地帯と呼ばれるエリアの隅に小さな修理工の店がある。店先のサッシは錆びつき、表には看板すらかかっていない。
昼なお薄暗いこの場所を通りがかった者は――もし興味を持ったとして――ここがなにを商っているのか、そもそも営業しているのかさえ分からないだろう。
修理工といっても、電子機器の修理や、ビルの配線工事を請け負っているわけではない。
かつては陸上自衛隊に所属していたという、気難しい、職人肌の店主を訪れるのは、誰も彼もが血と暴力の臭いを纏う、うしろ暗いところのある人間ばかりだった。
このとき訪れていたのもそういう種類の人間だったが、大多数の顧客とはいくつかの点で異なっていた。
今回修理工が整備を依頼されていたのは、シャングリラでよく出回っている安価な自動拳銃ではなかった。
旧中国産の精密な部品を使用し、正規の工場で生産された個人防衛火器、あるいはサブマシンガンとも呼ばれる銃器だった。
護身用、威嚇用としてあまりに高威力であるそれには、ごく簡単なカスタムとして、グリップ彫られた胡蜂のマークと、単純な細いものに換えられた照星が備えつけられていた。
突起の少ないコンパクトなシルエットと艶のない黒いカラーリングは、銃の携行性と秘匿性を高めていた。
客の容貌もまた、平均的な顧客とは異なっていた。まずなんといっても女性であること。ベリーショートの髪は鮮やかな緋色に染められており、その下にある肌の色はごく薄い。
顔や首筋をよく見れば分かる透明感ときめの細かさは、この女性がまだ二十歳を少し過ぎた程度だということを示していた。顔貌は使う銃同様、精密なパーツから構成され、美人と表現して一向に差し支えない。
あえて欠点を挙げるならば、ごく薄いそばかすがあることと、琥珀色の鋭い三白眼が相対する人間に威圧感を与えることだ。
もしよくよく瞳を覗き込んだ者がいれば、その奥に他者の理解や共感を拒むような、深い闇が凝っているのを見るだろう。しかしそれはこの店の客に限らず、シャングリラであまり珍しい特性とは言えない。
「相変わらず丁寧に使ってるね、京子ちゃん」
雑多な工具や部品、マニピュレーターが散乱した店の奥で、店主と客は機械油で黒ずんだ作業台を挟んで座っていた。五十代も半ばに差し掛かろうという店主は、整備の終わった銃を作業台の上に出し、客に手ずから確認するよう促した。
「高価かったから、大事に使わないと。商売道具だし」
京子と呼ばれた女性は、自身がホーネットと呼ぶ銃を手に取り、落ち着いた、ややハスキーな声で言った。
その態度にはどこか達観したようなところがあり、二十代女性特有のはにかみや浮つきが、大きく削ぎ落されているようでもあった。
「今回は、少し摩耗してた部品を取り換えただけだ。支払いはドル?」
「ドルで」
「なら一五〇だ」
京子は薄い財布から数枚のドル紙幣を取り出し、作業台の上に置いた。
シャングリラに流通する貨幣は三種類。信用度順に並べると、アメリカドル、電子通貨のニューロ、日本円となっている。
シェアでは利便性の高いニューロがトップを占めているが、使用履歴が個人情報と紐づきやすいため、現金を好む人間も多い。店主や京子のような、暗い場所を歩く人間は特にそうだ。
「こないだ緒方さんが来たよ。相変わらず酔狂な銃使ってるね」
「あの人馬鹿だから。アレ、人間に撃つヤツじゃないでしょ」
その言葉を聞いた店主は小さく笑った。しかし世間話らしきものはそれで終わった。両者とも口数が多い方ではなく、途切れがちなやりとりも、別段気まずさの現れというわけではない。
「傘ないだろ。一本持ってきな」
店の入り口には、骨組みの錆びついたビニール傘が数本、無造作に置かれている。科学技術が飛躍的に進歩しても、傘の基本的形状は店主が生まれたころから変わっていない。
「近いから平気」
京子はホーネットを小さなボストンバッグに入れ、席を立って店を出た。
現在の時刻は午前十時。雨はまだ止む気配を見せていない。とはいえ京子の住処はここから歩いて五分ほどで、傘を差さずに歩いても大して問題はない距離だった。そもそもの性格からして、雨に濡れる程度のことは気にしない。
着ていたパーカーのフードを被り、雨の無風地帯を行く。摩耗し歪んだアスファルトに溜まった雨水が、足元でぱしゃりと音を立てた。
桜木町駅の裏手にあるこのエリアは、三十年前からほとんど発展を見せず、横浜中華街と新港地区を中心とした一帯がシャングリラと呼ばれるようになってからも、どこか時代に取り残されたような、うらぶれた雰囲気が漂っていた。
夜になればまだ多少の賑わいを見せるが、今の時間帯にはそれもなく、もの寂しさに拍車がかかっている。
当然、出歩いている人間もほとんどいない。この時間でも人通りがあるのは、桜木町駅を挟んで反対側。
そこには昼夜問わず観光客が集まり、金と欲望を灯りに換え、それにまた人が集まる、というサイクルが成立している。無風地帯にはそれがない。
雨で煙る閑散とした道を進む京子は、営業時間外の店の軒先に、自分と同じく傘を差さない人影を見た。彫りの深い顔をしたジャンパー姿の男が、無遠慮な視線をこちらに投げかけている。
このあたりでは見ない顔だった。男は十メートル離れた場所からでも感じ取れる、どろりとした剣呑なオーラを纏っていた。それでも京子は歩みを止めずに、道路の中ほどを歩いていく。
「スカーレットか?」
三メートルほどの距離に近づいたとき、男が訛りの強い英語で京子に尋ねた。その右手は、不自然に膨らんだジャンパーの右ポケットに入れられている。
「なに? 聞こえなかった」
京子は表情を変えず、無警戒を装ってさらに一歩近づく。男がポケットから手を抜いた。握られていたのは、黒光りする自動拳銃だ。安物だな、と京子は判断した。
「フードを脱げ」
男が威圧的に命じる。京子はそれに答えず、持っていたボストンバッグを一度、これ見よがしに持ち上げ、ぱっと手を放した。そこに目を向けた男に向けて、素早い踏み込みからの回し蹴りを放つ。
よく鍛えられた長い脚が、雨粒を弾き飛ばしながら鋭く閃いた。強烈な一撃を受けた男の手から、銃がもぎ取られて宙を舞う。
勢いを落とさず、京子は身体をもう半回転させた。今度は高く上げた左の踵を、不作法な男の顎に叩きつける。奇襲から立ち直る前に追撃を受けた相手は、脳を揺さぶられて意識を失った。
眼球をぐるりと裏返し、顔面から水たまりの中に倒れる。
京子は視界の端に、先程歩いてきた道に立つ二人目の男を捉えていた。容貌からして今倒した男の仲間だろう。
二人目の男はこちらに背を向けて逃げ出した。距離三十メートル。今からホーネットを取り出して後頭部を撃ち抜くのも容易だったが、京子はそうしなかった。
相手が銃を抜いていなかったからではない。ねぐらの近くを銃声で騒がせ、血で汚すのは嫌だったからだ。
逃げていく男はそのままにして、倒れている男に目を戻す。死んではいないようだが、完全に意識を失っていて、ぴくりともしない。当分は目を覚まさないだろう。
「月華、なに人だと思う?」
京子は右耳に装着しているウィスパー――スマートAIがインストールされた、イヤーカフ型の多機能端末――に呼びかけた。
『98.8%でアジア系 。フィリピン人かな』
少し鼻の詰まったような、眠たげな女性の声が映像からの分析結果を告げた。
足で顔を転がして人相を確認する。覚えはなかった。ジャンパーのポケットを探ってみる。財布はあったが、身分証らしきものは見当たらない。それから紙幣、あとはシート状になった青っぽいシール。
幻覚剤か、禁煙用のニコチンパッチか。絆創膏ということはないだろう。
「指名手配犯だったりする?」
『検索中――いや、違うみたい』
立ち居振る舞いや銃の扱いからしても、おそらくは有象無象の類だろう。しかし京子がその身元を気にしたのは、その言動に気がかりなことがあったからだ。
男が口にしたスカーレットという名前は、いつからか京子つけられていた異名だった。シャングリラに暗躍する緋色の影。どこにも所属せず、誰にも味方しない。
柳葉刀を担いだ福建マフィア二十人を蹴りだけで殺したとか、ロシアのスナイパーと千メートルの距離で対決したとか、大袈裟な尾ひれのついた噂はあるが、詳しい正体を知る者はいない。
もちろん京子はスカーレットという名前を自称したことなどない。伝え聞く噂も八割までがまったくの虚構だ。しかし安易な嘘に踊らされる人間と関係するつもりもないので、流言をあえて正すようなことはしない。
実際のところ、この二年でこなした仕事は三十件と少し。ある程度選り好みをしているので、舞い込んだものはその倍ぐらい。
噂になるよう派手なものもあれば、誰にも知られず終わる地味なものもあった。一人を殺せばいい場合もあれば、複数の場合もあった。
結果として慈善のような仕事もあれば、依頼人に裏切られたような仕事もあった。首尾よく終わったものもあれば、致命的でない程度にミスをしたものもあった。
しかしどのようなケースであれ、多かれ少なかれ誰かの恨みは買っている。
この男も、数いる売り手の一人だろうか。多分、なんらかの組織に所属する人間ではあるだろう。
顔まで知っていて確認したのか、あるいは赤い髪の人間に目星をつけて、片端から声をかけていたのかは分からない。
記憶を探ってはみるが、やはりピンとくるものはない。もっとも京子は、誰にどれだけ恨みを買っているということを、いちいち覚えているわけではない。
なんにせよ、このあたりも物騒になった。