鏡の中の妖精 ――白銅鏡の秘密ーー
平成17年9月、大森啓二は養老の滝に来ていた。
平日とあって、観光客は少ない。現在は滝の近くまで車で行ける。便利になったが、大森はあえて麓の大駐車場に車を止める。養老の滝から流れ落ちる川は養老山脈の麓を蛇行する。やがて揖斐川に合流する。
川の流れは急激である。泡沫を上げてせせらぎの音も喧しい。川に沿って歩く道には、休憩所や土産店が軒を並べている。滝まで徒歩で約15分。
9月に入ったばかり。まだ暑いが、滝への道はヒンヤリとした空気が漂う。肌に心地よい。ゆっくりと歩く。滝の下に出る。激しい泡沫、忙しない爆音、風の音も掻き消える。
滝の高さは30メートル余、幅4メートル程。
その昔、元正天皇が行幸、”美景以って老を養うべし”として命名。年号も養老改めたとの言い伝えがある。川の名も養老川。
大森啓二、37歳。
2年前に妻を亡くす。妻の雪絵は養老町の産まれ。生家は彼女の父が死んでから人手に渡る。ここは今4階建てのアパートが建っている。昔日の面影はない。
大森が結婚したのは15年前、妻が19歳。
大森は高校卒業後、名古屋駅西にある電化製品の量販店に就職。5階建てのビル。業界では中堅クラスの会社だ。社員は50名。
大森は裏方の仕事に従事している。地下の倉庫に運び込まれる商品の整理、入荷の記録を担当。大森が勤務して3年目、多良雪江が就職。
会社の方針として、新入社員は男女共に、3か月間、商品の整理や荷造りの仕方を叩き込まれる。商品マニュアルは徹底して教え込まれる。売り場でお客に尋ねられても即答できるよう指導を受けるのだ。
大森の担当の下に多良雪江が配属される。2人は惹かれるようにして恋に落ちる。雪江が入社して1年目に結婚。
多良雪江は名前のように色白の女性だ。瓜実顔で髪が長い。大きな瞳に、形の良い鼻、受け口で、ほんのりと赤みのさした頬、物静かで、時折、悲しそうな表情になる。中肉中背、殻にこもったような雰囲気だが、動作はきびきびしている。
彼女は知人の紹介で入社している。故郷の養老町にいても大した仕事もない。幼い頃に母を失っている。男手1つで育てられている。高校卒業後、彼女は名古屋に移り住む。父親1人を残しての就職は後ろ髪を引かれる思いだ。その為に休日は実家に帰っている。結婚後2人は養老町で休日を過ごす。
雪江の父が死ぬ。実家が無くなる。それでも2人は1ヵ月に一回は養老町に行く。滝を見ながら過ごすのが習いとなる。
今――、大森は1人で滝を眺めている。昔日の妻との思い出にふける。1ヵ月に一度は養老の滝を見る。それが大森の日課となっている。
大森啓二は常滑で産まれ育っている。家族は両親と兄、姉の5人暮らし。大森は就職と同時に自立。常滑の山方町にある一戸建ての借家に移り住む。そこは高台で西側からは常滑港、その向こうに飛行場が眺められる。
借家は築50年。古いが広いし、家賃も安い。結婚後、雪江との愛の巣となる。結婚しても、2人は同じ職場で働く。朝家を出る。通勤電車に揺られる。大森の仕事場は地下、雪江は3階のパソコン売り場。昼食時に顔を合わせる。夕方の帰宅も同じ電車。
幸福な生活は15年続く。
そして・・・。ジ・エンド。
大森は岩場に腰を降ろす。瀑布の飛沫を浴びる。霧と化した飛沫は清々しい。眼を凝らして滝を見る。吸い込まれるような錯覚に襲われる。水が上から下へと落ちるだけの現象だが、見飽きがしない。空は雲1つもない。空気も乾燥している。滝の周囲は程よい湿気と冷気が漂っている。
30分程して腰を上げる。川に沿った狭い道をゆっくりと下る。途中、休憩所でコーヒーを飲む。年配のマスターとは顔なじみになっている。店の前には沢山の土産物が並んでいる。大小さまざまな瓢箪が置いてある。
2年前までは妻と一緒だった。今、1人で飲むコーヒーは味気ない。店の奥に等身大の鏡がある。大森の姿が写っている。
大柄で頑丈な体。半袖シャツから剥きだした腕は逞しい。7・3に分けた髪、肉厚の唇。がっしりとした鼻、面長で精悍な顔つきだ。しかし全身に漂う雰囲気は寂しい影がまとわりついている。
大森は根が真面目で一本気だ。与えられた仕事はきっちりとこなす。上司の信頼は厚い。
店の中は大森だけ。
「大森さん、養老ランドにね、骨董市が開かれましたよ」
一度寄ってみたらと、マスターの声。
テレビで何でも鑑定団が出てから、骨董に興味を持つ人が増えている。大森は骨董品には興味はないが、1昔前の電気製品を見ると、興味半分で買ってしまう。
「そんなゴミを買って・・・」雪江から揶揄されることもあった。
マスターに言われて、行ってみようかと考える。養老ランドは養老公園の手前にある。どうせ帰り道だ。急いで帰る理由もない。
養老ランドは休日には親子連れでに賑わう。遊園地や催し物の会場では、色々な演劇が行われる。会場の一角の建物内で、好事家が持ち寄った骨董品が展示してある。値段の付いた名札が目に付く。売り手との値交渉も楽しみの1つとなっているようだ。
建物の広さは約300坪。
今日は9月になって最初の火曜日。大森の職場の休日だ。さぞかし場内はガランとしているに違いない。そう思って自動扉を開ける。城内は元々倉庫だった。天井が高い。吊り下げられた蛍光灯が明るい。クーラーが程よく効いている。
入場者は百名ほど。意外と賑やかだ。年配者が多い。若い男女がチラホラいる。ロの字型に並べた棚が所狭しと置いてある。その1組が出展者1人の持ち場となっている。出展者はロの字の棚の中で、椅子に腰かけている。
出店物で圧倒的に多いのは焼き物だ。大きな壺から抹茶茶碗まで、場内の3分の1を占めている。次に多いのは掛け軸、屏風類だ。その他西洋の磁器類、時計、昔懐かしいブリキの玩具、宝石類、ネックレス、指輪もある。水晶玉、絵画、あらゆる骨董品が展示してある。
・・・暇つぶしに丁度良い・・・
大森は広い場内を見て回る。値段は高い物で数百万円、安くて千円内。テレビでなんでも鑑定団が出てから、骨董品ブームに火がつく。小さい頃、大森は切手の収集に興味を持った。切手は記念切手が次から次へと発行される。やがて興味を失くす。
場内の北、奥の隅に柵を2列並べただけの”店”がある。
出展は”鏡”数は20点ぐらい。古代の青銅鏡から明治時代に西欧から輸入された婦人用の鏡台など。値段も2~3万円程度。鏡に興味を持つ好事家はいないのか、鏡を手に取ってみる人がいない。
――いないというよりも、観客の誰1人として、”店”に眼をむけようとはしない――
大森はひかれるような気持ちで、鏡の前に腰を落とす。棚の向こうに出店者の老人がいる。折りたたみ椅子に腰を降ろして、壁にもてれかかっている。白髪の落ちくぼんだ眼が寂しげだ。暇を持て余している風体だ。
大森は品物をざっと見る。中に異色な鏡が目に付く。銀色の円鏡だ。銀製の鏡なのか、珍しい。
「これって、鏡ですか?」値段は3万円。直径30センチぐらい。ずっしりとして重い。高いのか安いのかは判らない。古代の銅鏡のような、裏面には模様がない。正面が荒い。触ると、白い粉が手につく。
「いえ、白銅です」老人はポツリと言う。愛想もない。冷やかしなら他でやってくれ、そんな雰囲気だ。
「白銅・・・」
大森は後日白銅について調べている。
ニッケルを20パーセント以上含んだ銅合金。白銀色で耐食性、強度に優れている。一般には貨幣や装飾品に使用される。鏡に利用するのは珍しい。
銅鏡は江戸時代まで使用されている。主に青銅鏡。現在の鏡のような光沢はない。反射率も悪い。
銅は青錆が浮いてくる。鉄のような腐食性の錆ではない。薄い膜の錆が出る。錆が浮かないように、常に手入れが必要となる。白銅も同じである。
この白銅鏡はずいぶん古い物のようだ。両面に白い錆が浮いている。手に粉のように付着するのはそのためだ。
買ってみようという気になる。
「これ売ってくれますか」財布の中からお金を出す。
老人は、大森の顔をじっと見る。買い手がついて喜んでいる顔ではない。鏡を手放してよいのかどうか、当惑している。
「これで何するの?」
「何って、鏡でしょう、これ」まごついたのは大森の方だ。肉厚の唇がだらしなく開く。
「錆びてるから、写らないよ」嫌に素っ気ない。売る気はあるのか、当惑した大森の顔。
老人は大森の顔を穴の開くほど見る。
「買ってくれるのはいいが、後でいらんと言われても困るよ」
「そんな事しません」
鏡だから磨いてきれいにする。鏡として飾っておく。大森も言葉に老人の顔がほころぶ。
「3万円ね!」老人の顔付が厳しくなる。
大森は思わずはっとする。いくらか負けてもらうつもりだった。心の内を見透かされて、どぎまぎする。黙って3万円出す。
場内を見て回って時――。
「叔父さん、これ負けてくれや」
「お客さん、かなわんなあ、じゃ、これでどうお?」
ソロバンならず、電卓のキーを叩いての値交渉が行われていた。一か所だけではない。あちらこちらで値引き合戦が繰り広げられる。値引いて当たり前、客の方も値交渉を楽しみに来ている。
老人は金を受け取る。また元の穏やかな表情に戻る。
白銅鏡そのままを手渡しする。
「しっかり、心をこめて磨いてね」必ず良いことが起こるという。大森は深々と一礼する。
場内を出る。買ってよかったかどうか、迷いが生ずる。どうして買ったのか、衝動買いをした後の気まずさが残る。
家に帰る。6帖2間に6帖の台所。風呂場、トイレ付きの一軒家の借家。建物は古い。亡き妻との新居でもある。
今は――ただ一人。出迎える者もいない。再婚話もあるが、その気にもなれない。
大森にはこれと言った趣味はない。古い電化製品を買っては修理するくらいだ。勤務先の売り場に置かせてもらう。懐古趣味?の人が結構買っていく。後はテレビを観たり、酒を飲んで寝るだけ。
養老からか帰って、白銅鏡を机の上に置く。直径30センチ、厚み3センチ。円形、裏側は凹凸、とりたてて特徴がある訳ではない。
・・・いつ頃の物なのだろうか・・・白い錆を気にする。鏡面を見たり、ひっくり返したりする。
――年代を聞いておけばよかった――
老人のムツッとした顔を思い出す。
――このそんな事、俺に判る訳ないだろう――老人の声が聞こえてきそうだ。
人の話によると、骨董品にはかなりの贋作があるという。それも巧妙で素人目には判らない。あの場内の骨董品もかなりの贋作があるに違いない。
ヒョッとしたらこれも・・・。
大森は改めて白銅鏡を見る。たとえ偽物でもいい。
納得して買ったんだ。思い直して、ずっしりとした感触を味わう。使い古しの紺のタオルを出す。鏡の面を拭く。青い布地に白い粉、錆がつく。拭いても拭いても白い錆が出る。裏面の凹凸の方を拭く。
拭けば拭くほど、磨けば磨くほど、鏡に愛着が湧いてくる。愛しい物でも眺める様に見つめる。丹念に拭いていく。
白銅鏡は硬質性だ。余程の事がない限り傷はつかない。それは充分に承知している。
だが――傷つきやすい物にでも触れる様に、包み込むように撫ぜていく。タオルを通じて、大森の手は優しく労りの心が伝わる。
鏡が自分の体の一部になったような錯覚に陥る。かと思うと、女人の肌をさするような感覚に囚われる。
・・・雪江・・・はっとして我に還る。机の上のデジタル時計を見る。タオルで拭き始めて2時間が経過している。大森は驚く。まだ2~30分しかたっていないと思っていた。
タオルの青い生地は真っ白だ。
白くなったタオルをゴミ箱に捨てる。新しいタオルを取り出す。白い錆は出なくなった。白銅鏡は少し”垢抜け”してきた。汚い白が消えている。淡い雪の白さが目立ってくる。だが鏡の面は物を移すのには、まだは度遠い。
11時。就寝。白銅鏡を枕元に置く。
普段はなかなか寝付かれない。酒を飲んで無理に眠りの底に沈める。しばらくウトウトして熟睡に入る。
今――白銅鏡を拭き終わる。ほっと息をつく。どっと疲れが出る。眠気が襲う。フラフラと床に入る。あっと思う間もなく熟睡に墜ちる。
不思議な夢を見る。
青い空が広がっている。太陽が眩しい。見渡す限りの緑の山々だ。草原がある。広く大きい。部落がある。茅葺き屋根から煙が立ち上っている。戸数百戸くらい。広場がある。男女が屯している。男に服装は麻布の長い筒袖。袖を紐で括っている。袴を穿いている。紐で膝上を結んでいる。頭髪はみずら、耳元で髪を束ねている。
女は縦縞模様の裳に上着を着ている。倭丈布の帯で結んでいる。
遠くに川が流れている。田や畑が拡がっている。雑草のような繁殖力だ。無造作に種を蒔く。乱雑に実を結ぶ。米も麦も逞しく茂っている。山には木の実が豊富にある。
男女が戯れている。賑やかの笑いがはじける。
夢の中の大森は、この光景を俯瞰している。遠くから眺めたり、近くに寄ったり・・・。
はち切れんばかりの女の笑顔が目に付く。
――雪江――大森は叫ぶ。自分の声は判る。大地の瑞々しい匂い。川のせせらぎ、風の音も明確に意識できる。冷たい空気、男女の肌のぬくもりも伝わってくる。
夢見の感覚はある。夢の中で自分が動いている。その光景の中の1人として存在している事も・・・。
大森は叫ぶ。女は振り向かない。彼の声が聞こえないのだ。その姿さえ女には認識できないのだ。大森は女の腕を掴む。掴んだ筈なのに女は大森の手の中からすり抜けていく。
・・・雪江は生きている・・・。大森の夢の中で、彼女は清冽な美しさを誇示していた。
はっとして眼が覚める。時計を見る。5時・・・。
大森は催眠から醒めたように眼を開ける。
夢見の光景は生々しい。風景、男女の戯れ、雪江の表情全てが鮮やかの印象として、脳裡に蘇る。
普段、大森の夢見の印象は薄い。夢だと思っていても、目覚めると何も思い出せない。夢の内容も暗い。酒を飲んで寝るせいか、起床後精彩がない。起き上がるにも時間がかかる。
枕元の白銅鏡を手に取る。慈しむように胸に抱く。清々しい眼覚めだ。白銅鏡を枕元に戻す。ウンと背伸びする。一気に起き上がる。体中に気力が漲っている。
2年前までは妻と朝食を摂る。共に家を出て電車に乗る。同じ会社でも職場が違う。夕方5時に2人して退社して家路に就く。毎日活気に溢れ充実していた。
――あなた達、いつまでも新婚気分ね――揶揄されろ程の中だった。
その活気が蘇る。
――雪江が自分の中にいる――否生きているのだ。その思いが生々しく実感できる。
・・・孤独ではない!・・・
大森は仕事に精を出す。夕方慌ただしく帰宅する。
夕食は会社の近くの食堂で済ます。いつもなら一杯ひっかけて、夜遅くに帰る。
いそいそと白銅鏡を取り出す。恋人にでも会ったように手に触れる。
――雪江の化身――大森の眼が潤む。
タオルや柔らかな布地を用意している。丹念に心をこめる。白銅鏡を磨く手に力がこもる。
2日たち、3日が過ぎる。大森の心は白銅鏡を磨くその一点に集中している。酒も飲まない。寂しさを紛らわせるための夜遊びもしない。
――大森さん、近頃張りが出てきたね――
新しい彼女でも出来たと違う?会社の同僚から冷やかされるほど明るくなっている。
10月になる。鏡はわずかであるが光りを反射するようになった。大森の顔も輪郭が判る様になっている。
夢見も、初めて鏡を磨いた日以来”続き”を見る様になっている。
”続き”という表現は適切ではない。古代の風景、雪江のいる夢の世界は、現実の世界と同じように毎日が連続している。夢を見る度に大森の意識はその中に溶け込んでいる。
日本の、倭と呼ばれたころの時代なのだろうか。大森が夢の中に溶け込んでいるとき、光景はいつも昼の明るさだ。
”雪江たち”とは会話は出来ない。出来ないが心に触れる事は出来る。
時間をたつのも忘れて鏡を磨く。その代償のように、夢の世界は鮮烈な美しさを保っている。
10月中旬、会社は好景気で、3泊4日の社内旅行が行われる。大森も参加する。
朝7時に家を出る。白銅鏡を机の引出しの中に、風呂敷に包んで入れる。
・・・しばしの別れ・・・大げさな表現で呟く。愛しい恋人と別れるような気分だ。
旅行は楽しい。1泊2拍と過ぎる。夜の宴会は明け方までどんちゃん騒ぎ。鏡の事も念頭にない。飲んで謡ってバカ騒ぎに明け暮れる。バス旅行だから気楽だ。3泊が過ぎる。4日目の夜、帰宅。
旅行疲れで鏡の事も忘れて床にもぐりこむ。翌日から出社。朝食も摂らず家を出る。仕事に精を出して退社。この時初めて鏡の事を思い出す。
帰宅して5日ぶりに机の引き出しから風呂敷包みを取り出す。
――久し振りのご対面――そんな気持ちで風呂敷を開ける。
あっ!大森は戦慄する。鏡は白い錆を吹き出している。まるで、買った時と同じ状態に戻ってしまっている。
・・・そんなバカな・・・わずか5日ではないか。こんなに錆を吹くなんて、常識では考えられない。
手に持つ。チクチクした感覚が伝わってくる。手に触れるのを、鏡が拒絶しているような感じなのだ。
家の中の空気も冷たい。雰囲気も暗い。鏡に見放された辛さが全身をおう。鏡を磨く気力もない。
――夢、雪江――大森はすがる思いで布団にもぐりこむ。
寝れらない。ウトウトするが、すぐに眼が覚める。悶々として布団の中で身を反転する。
枕元に鏡を置いてみる。神経がざわついてくる。興奮して頭がさえてくる。肉体の疲労が取れない。気分も悪い。
それでも夜中1時、2時になると、ウツラウツラする。突然頭を殴打されたような衝撃が走る。全身がビックとする。頭の上の方から”怒り”のような感情が響いてくる。それが衝動となって、大森の神経に触る。
上半身を起こす。鏡を見る。暗闇なのに、白い光りが冷たくはなっている。意志ある眼の輝きのようだ。怒りを放出して訴えかけている。
・・・鏡は生きているのか・・・恐れと驚きが大森を揺り動かす。大森は起き上がる。姿勢を正す。タオルの端切れを取り出す。鏡を拭く。
・・・ごめん・・・恋人にでも話しかけるように身を入れる。怒りの荒々しさが消えていく。慈しみの波動が伝わってくる。大森は時間の経つのも忘れる。
はっとして我に還る。時計を見る。明け方の5時。鏡をそっと枕元に置く。就寝する。たちまちのうちに深い眠りに堕ちていく。
――輝くような青い空、新鮮な草原、若い男女の戯れ――
雪江がいる・・・。夢の中で大森は胸の張り裂けんばかりの喜びに浸る。
・・・ここが俺の本当の世界・・・
夢の中の世界では大森は傍観者に過ぎない。冷たい水、そよぐ風、肌のぬくもり、すべて実感できる。夢の世界の一員のように振舞う事も可能だ。
それでも夢は夢だ。時がたてば現実の世界に引き戻される。
ぱっと眼が覚める。時計を見る。午前7時。長い睡眠をとった後のようだ。爽快な目覚め。僅か2時間だけの眠りなのに・・・。
枕元の鏡を見る。3時間ぐらい磨いただけなのに、白い錆は消えている。鏡は光沢を放っている。光りが優しく反射している。
大森は鏡を抱きしめる。
10月下旬の休日、大森は養老公園に向かう。目指すのは養老ランドの骨董市。場内の片隅に走る。白銅鏡を売ってくれた老人に会うためだ。その場所は空の段ボールが山積みになっている。側で古銭を売っている”おじさん”に尋ねる。
「9月に、ここの隅で鏡を売っていた人は?」
おじさんは怪訝そうな顔で大森を見る。
「そこは昔から段ボール箱よ」何言ってんだ。買わないならあっちへ行った。商売の邪魔をするな。犬でも追い払うような言い方だ。
仕方なく、事務室に駆け込む。事情を話す。顔の丸い女の子は驚いている。曰く、棚で囲った場所を貸している。片隅を貸した事はない。それにそんな老人、見たこともない。
「でも、実際に・・・」大森はあくまでも食い下がる。白銅鏡を見せる。事務員は迷惑そうな顔をする。諦めて場内を後にする。
近くの喫茶店に入る。コーヒーを飲む。
古銭売りのおじさんは、9月の時もあの場所にいた。鏡を売っていた老人を知っている筈なのに・・・。それを知らないとはどういう事か、嘘をいっているとは思えない。
理解に苦しむが、これ以上の詮索は無用とすべきだ。
鏡を取り出す。・・・お前、どこから来たの・・・
鏡が答える筈がない。
この時以来、大森の表情に変化が現れる。
物の怪に憑依されたような凄みが漂う。元々寂しい影がまとわりついている。仕事は人一倍熱心。人を寄せ付けぬ厳しさがあった。体も大きい。精悍な顔付だ。側に寄るのがはばかられる。声をかけるのは、大森が息を抜いた時だ。その時ばかりは穏やかな表情になる。冗談も飛び出す。人を笑わせもする。
――変わった――
大森を知る者は一抹の不安と恐れの眼で大森を見る。仕事に人一倍熱心なのは以前と同じ。
――今の大森は――
側に寄ってみて戦慄する。眼がつりあがっている。ぎらついて底光りしている。ぞっとして思わずあとずさりする。
休憩時間――あらぬ方向を見ている。眼孔が動じない。同僚が声をかける。大森は上目使いで彼を見る。氷のような冷たい視線だ。表情だけが穏やかだ。
1つの事に集中しているとき、大森の表情は別人になる。
・・・死人の相・・・思わず身震いしたくなる。声をかける。
「何か・・・」大森の声は重い。地の底から湧き上がるような声だ。抑揚がない。
「いや、別に・・・」声をかけた者は肌寒さを覚える。その場をそそくさと立ち去る。
余程のことがない限り、誰も相手にしなくなる。仕事は熱心だ。上司も文句を言わない。定時に出社して、定時に退社する。
・・・一杯どうだ・・・以前なら同僚の気軽な声が飛んだ。
今・・・、声をかける者はいない。底知れぬ異様な雰囲気がある。威圧するような大きな影が発散している。
名古屋駅西の繁華街は、夕刻、人の波でごった返す。大森の足は機械仕掛けのように真直ぐ歩く。人の流れも目に入らない。
時折、やくざ風の男が肩をいからせて突っ込んでくる。大森の肩にぶつかる。
「何しゃがんだ、てめぇ!」やくざ風は威嚇する。次の瞬間大森と眼が合う。息を飲んで眼をむく。恐怖の色が現れる。
「お見それしやした」やくざ風は、小さくなって踵を返す。
大森は無表情な眼でその後を追う。切れ長の眼、濃い眉、大人しく真面目な表情が消えている。深い恨みと憎しみ、その不気味な影を漂わせている。
大森は操り人形のように電車に乗る。脇目もふらず家路に就く。
家の中で彼を待つのは”白銅鏡”
夕食はコンビニで弁当を買ってくる。風呂に入る。白のスポーツウエアーに着替える。タオルの切れ端で白銅鏡を磨く。
養老の骨董品会場に行って以来、不思議な事が起こる。鏡は僅かであるが物を写すまでになっている。
・・・お前どこからきたの?・・・
大森は恋人にでも囁くように丹念に磨きをかける。床に就くのは夜3時頃。鏡に触れるのは5~6時間。明けても暮れても鏡と差向う毎日となる。
鏡は光沢を増す。鏡の中に白い物が映し出される。鏡は物を写す道具だ。家の中に白い”物”はない。亡き妻が持参した家財は道具は」柾目模様だ。
注意深く見ると、白いものは鏡の中で動いているのだ。
・・・何だろう・・・初めの内は好奇心いっぱいだった。もっとはっきり見ようと、鏡磨きに一層ん力が籠る。
白・・・?どうやら服装のようだ。雪絵の住む世界の住人と同じ服装と思えた。ただ1つ大きな違いは、雪江の髪は肩までしかない。
鏡に写る女、その姿がはっきりしてくる。髪が腰まである。高貴な女人なのか、顔も雪のように白い。雪江も肌が白かったが、それよりもまだ白い。輝くような純白さだ。
大森は茫然と見惚れる。夜中3時。横になる。たちまちのうちに熟睡。夢は輝くように明るい。明らかに雪江にいる世界ではない。いつの間にか世界がすり替わっている。
周囲は山また山。大きな樹木が生い茂る。枝葉の間から燦々と陽が射し込んでいる。
大岩がある。その上に女が立っている。純白の裳の上に純銀色の上着を左前に着込んでいる。腰まである髪の黒さが際立つ。
大きな澄んだ瞳。大森を見ているのだ。
夢の中?大森は大岩の前に立ちすくんでいる。輝くような美女を見上げている。
大森はこの不可思議な世界にいる。樹木に触ることが出来る。枝の葉や素足に伝わる枯れ葉の冷たさも実感できる。
「お前はだれじゃ?」女の澄んだ声。名を名乗る。
「あなたは・・・」女の大きな瞳を見ながら誰何する。
「私は、鏡の妖精・・・」女は手を差し伸べる。
「お前だね。鏡を磨いてくれているのは」白いしなやかな手が大森の武骨な手を取る。軽く持ち上げる。大森の身体が中に浮く。女の側に立つ。妖精の豊かな頬が大森の顔に触れる。暖かな感触だ。
「鏡を磨いておくれ。銀色にキラキラ光るまでに・・・」
妖精は大森を抱きしめる。驚愕の事実を囁く。
白銅鏡は古代、妖精がまだ”現実の世界に”に存在していたころに作られた。妖精は敵に殺される。魂が白銅鏡に閉じ込められる。長い年月が過ぎる。錆によって、妖精は鏡の中に封じ込められる。鏡を磨いて初めて、妖精の魂は自由を得る。
完璧に磨き上げよ。この世界も、私もお前に上げよう。
妖精は嫣然と笑う。大森の顔を両手で挟む。桃色の唇を大森の口に押し付ける。
「ああ・・・」大森の肉体に衝撃が足る。全身を突き抜ける快楽が迸る。
「私が欲しけれ・・・」
大森は酔いしれる。頷いて、妖精の腕に抱かれる。妖精はにっと笑う。
その時だった。大森の心の中に、どす黒い邪悪な力が入りこんだ。人智を超えた大きな力。この時から大森は異様な雰囲気を漂わせる。近寄る者は恐怖におののく。
朝となる。寝具から飛び起きた大森は、もはや過去の人ではない。何物も恐れない。何人をも屈服させる。肉体に秘められた巨大な力が湧出する。
この日から、大森の身体は機械仕掛けのように行動する。感情は表情に引き出さない。
――死人の相――会社の同僚が評したように、何人に対しても無表情。
だが束の間の休息の時だけ、大森の本性が顔をのぞかせる。和やかな、冗談を飛ばす大森の真の姿だ。
退社、帰宅。夕食後、文字通り物に取りつかれて鏡磨きに邁進する。
「大森さん、家賃お願いします」大家が玄関の引き戸を開ける。振り向きざま、大森はにっと笑う。手は休めない。
・・・死人が笑った・・・
大家は身震いする。上がり框を見る。いつの間にか家賃通帳と現金が置いてある。大家は眼を見張る。家賃通帳にハンコを押すと、そそくさと退散する。
平成18年3月、大森は突然会社を退職する。
驚いたのは彼の現場主任だ。何とか彼を引き留めようとする。大森の不気味な眼と合う。現場主任は背筋が寒くなる。黙って見送る。
大森はすでに職場仲間からも孤立ししていたのだ。同僚とも打ち解けた会話もなかった。死臭を漂わせたような雰囲気、恐れられ煙たがられていた。
――やめる――と言われてホッとしたのは周囲の者たちだ。
だが――、現場主任は大森の並々ならぬ技量を認めていた。
家電量販店は競争が激しい。1円でも安く仕入れて販売しなければならない。その為には大量仕入れが原則となる。ただ安いからと言って何でも仕入れてよい訳ではない。
パソコン、テレビ、冷蔵庫、その他白物と言われる家電製品は流行の浮き沈みが激しい。新製品も1年もすると中古品扱いとなる。大量に仕入れて売残りが出ると大変だ。出血大サービスで売りさばく事になる。その分収益が落ちる事になる。
大森の仕入れは的確だった。売れ残りがほとんど出ない。会社のコンピューターには、厖大なデーターが蓄積されている。商品の仕入れと販売の動向。月間ごとの売り上げ商品の変化。それらのデータから、商品の仕入れと販売を予測していく。簡単そうに見えるが、勘と経験がものを言う。
大森の予測は適切だった。現場主任は大森を重用していた。現場主任の失望をよそに、大森はさっさと職場を後にする。
昨年の10月以降、今年2月下旬まで、大森は不眠不休で鏡を磨いてきた。1日の睡眠時間3時間。しかも朝9時から夕方5時まで、仕事場で疲れも見せず立ち働いている。
1月、2月と鏡の妖精はますます鮮やかになる。その美しさは大森を魅了してやまない。
白銅鏡――何の変哲もない、銅とニッケルの混合物。磨けば磨くほど透明度が増してくる。深みのある、汚れのない湖面を見るようだ。
鏡を凝視する。妖精の白い姿が大森を見詰める。鏡の中に吸い込まれてしまう。その錯覚に思わず我に還る。
鏡を見る度に巨大な影が濃くなっていく。はじめ影は淡い幻のような存在だった。意識すらしなかった。影は日増しに大きく濃くなっていく。宿主の大森の心は片隅に追いやられていく。
2月も末になる。巨大な影はすでに大森の心と肉体を支配している。大森の自我は押しつぶされる。心の深奥の牢に容れられる。何とか存在を許されるのみだった。
3月下旬、持ち物をすべて売り払う。家賃も清算する。軽4の中古車を購入する。手に持つのは”白銅鏡”のみ。
夜――常滑を出発する。両親や兄弟にも別れを告げていない。目指すは、鏡の妖精の棲むところ、養老の西側にある笙ヶ岳。
常滑を出たのが夜8時。笙ヶ岳まで約3時間。車を運転するのは大森の肉体。心は黒い影。
常滑から知多市、東海市の臨海工業地帯を縦断する産業道路をひた走る。
大森の心は不安の中にある。僅かに開かれた意識の窓。その小さな隙間から車の前方を見るのみ。
・・・湾岸道路を走らないのか・・・大森は不審に思う。
多少金がかかっても有料道路を走った方が早いのだ。
車は大江を抜ける。桑名、四日市方面の名4国道を走る。平日の夜だ。大型車の通行が多い。木曽川、長良川の大橋を渡る。桑名から国道258号線にのる。多度大社の鳥居を遙か左手に見る。今の大森の眼力は夜目にも優れている。
海津郡南濃町に入る。近鉄線こまの駅の踏切を渡る。
この時、事件が起こる。
改造車10台を連ねた暴走族が南下してくる。甲高いフォーンを鳴らす。軍服を着た若者がいる。日の丸の鉢巻をしている。助手台のドアから身を乗り出している。
16メートル幅の道路一杯に車を連ねている。傍若無人に走り回る。角材を手にする。行く手を遮る車や人を無造作に打ち据える。その度に喚声が沸き起こる。
通行中の車は難を避けようと、道端に寄せる。
大森の車は平然と道路を走る。暴走族の車と対峙する。心の中の大森は冷や汗をかいている。
・・・何故車をよけようとしないのだ・・・
暴走族の車が急ブレーキをかける。大森の軽四の前で止まる。車の中から数人の若者が飛び出す。角材やチェーンを振りかざす。口々に大森を罵っている。速足で歩いてくる。
大森は大儀そうに車から降りる。彼の大柄な体は異様な雰囲気を漂わせている。街路灯の灯りでそれが際立っている。
恐れを知らぬ若者たちは数に物を言わせている。年端の行かぬ女もいる。彼らは勇者?然として大森や彼の軽4を打ち据えようとしている。
その時だ。
凄惨な光景が展開する。暴走族の改造車が宙を舞う。突風にあおられたように、車は天高く舞う。と見る間もなく地上にたたきつけられる。窓ガラスが粉々に砕ける。地上に落ちた車は、道路端にまとめられて鉄の塊となる。
若者たちは仰天する。お互いの顔を見つめる。得体のしれない恐怖が彼らを襲う。
勇気?ある若者が憤然として大森に襲い掛かる。チェーンを振り上げたその時、チェーンが宙を舞う。若者の肉体が風に舞う木の葉のようにくるくると舞う。大地にたたきつけられて、失神する。
破壊された車からガソリンが漏れる。車が火を吹く。数台の車は次々と火にあおられる。昼を欺くような明るさが闇夜を切り裂く。
十数人の若者達は恐怖心にあおられる。角材やチェーンを放り出す。もつれるような足で逃げ出す。年の頃は17,8.中学生と思しき女もいる。けばけばしい化粧をしている。いくら威勢を張っても、所詮は子供だ。悲鳴を上げて逃げ惑うのみ。
大森はゆっくりと車に乗り込む。アクセルを踏む。もはや彼の行く手を遮る者はいない。
暴走族を見ようと集まった群衆は蜘蛛の子を散らす様に逃げ惑う。余りの惨状に気を失う者もいる。
大森の車は何事もなかったように、北上する。
大森は泣いている。肉体を乗っ取られ、心の中の小さな空間に閉じ込められている。鏡を磨いた事を後悔している。初めて鏡を枕元に置いた日、素晴らしい世界と雪江を夢に見る。鏡を磨けば磨くほど、夢見は身近になった。
社内旅行から帰る。鏡に錆が浮く。
この時から夢の中から雪江が消える。雪江に会いたくて鏡磨きに拍車がかかる。霊に憑依される。2月末日、鏡は完璧な輝きを放つ。巨大な霊が大森の肉体を支配する。
・・・あなたは誰ですか・・・大森は叫ぶ。巨大な影は答えない。黙々と前進していく。邪魔する者は容赦なく押しつぶしていく。人間技ではない。
――魔――としか思えない。
”魔”の行く先は養老方面。肉体の眼から映し出される光景の、感覚、触覚、視覚は、大森の心に伝わるからだ。
車は養老町に入る。名神高速大垣インターを超える。大森は”養老の滝”方面に向かうとばかり思っていた。そうなら、近鉄養老線の踏切の手前、南濃町を左折する筈だ。後は養老鉄道に沿って北上するだけだ。
大垣インターを過ぎる。すぐにも左折する。名神高速道路に沿って走る。6キロ程先、宇田で高速道路のガードをくぐる。2キロ程行くと養老町だ。
何のことはない。ぐるりと大回りしている。養老町の北外れ龍泉寺方面に向かっている。県道南濃関ケ原線に乗る。
・・・何と無駄な事を・・・先程の踏切手前の南濃町を左折すると、そのまま関ケ原線に入る。わざと大回りしているのか。大森には”魔”の真意が判らない。養老公園や養老ランドを避けているとしか思えない。
道路はやがて、また高速道路と並行して走る。このまま直進すると関ケ原インターに出る。広瀬橋の手前で左折。2キロ程走る尾国道365号に出る。
萩原、和田、一ノ瀬を通過。上石津第2トンネルを抜ける。下多良町を通る。多良町から左折。大洞谷を駆け上がる。ここは養老山脈の中だ。養老の滝の裏側、笙ヶ岳の山中だ。曲がりくねった道を約5キロ走る。やがて道が無くなる。車を乗り捨てる。後は歩きだ。
3月とは言え、夜間。肌寒い。鬱蒼たる樹木の中を速足で歩く。寒さは感じない。息使いも荒くない。超人的な歩行だ。歩くというより駆け足だ。崖地を身軽に這い上がる。
・・・どこへ行くのか・・・大森は叫ぶ。叫んだつもりでも物理的な声にはならない。手に風呂敷包みを持っている。白銅鏡が入っている。
笙ヶ岳は海抜908メートル。大洞谷から登りつめる。胸を突く坂だ。鉄人のような体力が必要だ。大森は大柄な体とは言え、スポーツからは縁遠い。それでも息が切れない。易々と登坂を跳躍していく。
空には星が瞬く。月はない。風が出ている。木の枝の擦れる音がする。ほとんど漆黒の闇だ。山中の夜は異様な雰囲気に包まれる。物の怪が跳梁する。
古代、人々は陽が沈むと同時に家に閉じこもる。夜は物の怪が徘徊する。夜中、外に出ると気がふれる。異界に連れ去られると信じていた。
現代人はそれを嘲笑する。夜を光輝で満たす。我が物顔で歓楽に溺れる。物の怪は人々の心に侵入する。現代人はそれを知らない。
大自然のただなか、闇の世界に没入する。その時初めて戦慄するのだ。大森も闇の世界に包まれて身震いしている。
大森の身体を支配する巨大な影は歓喜している。故郷に還った喜びが”魔を支配している。光りがないのに、大森の身体は”道”に迷わない。的確に走り続ける。
笙ヶ岳の山頂に辿り着く。大森は歓喜の叫び声を発する。狼の遠吠えのようだ。一瞬大地が震撼する。大きな風がないのに、山頂の空気が吹き荒れる。
――闇の中の物の怪が喜び騒いでいる――
大森は気配で、眼に見えない力を感じている。
笙ヶ岳からは、北に名神高速道路が光の帯のようにみえる。東に養老町の町の灯が遠くに輝いている。
闇夜なのに、大森の足は迷いがない。大きな岩肌の一角の前で足を止める。一抱えもありそうな巨石が横たわっている。重さも2,3百キロはありそうだ。
大森は片手を動かす。巨石が宙に浮く。
不思議な事だが、心の中の大森は、肉体の眼を通じて外界を見ている。人間の視力なら、全ては闇の中だ。巨大な影”魔”の視力で見ている。暗視鏡を通じてみる様に、闇の世界が鮮明に見える。
巨岩が真綿のように宙に浮く。岩のあった所が、ぽっかりと穴が開いている。人1人がくぐれる広さだ。
大森は中に入る。巨岩が元あった位置に降りてくる。穴が塞ぐ。穴は下の方に続いている。
百メートル程下る。洞窟の中に出る。家が一軒分入るほどの広さだ。地面に白い”物”散乱している。よく見ると人骨だ。大森は身震いする。
――ここは、我ら、瀬族の墳墓じゃ――
魔が初めて口をきく。古代、一族は死んだとき1つ所に葬られる。
墳墓と聞いて、・・・ここで死ぬのか・・・大森は絶望する。
自分の身体でありながら、勝手に動いている。しかも車や岩を宙に舞わせるほどの霊力を持っている。
大森は無造作に人骨を足で払いのける。彼は作業服にスニーカーを履いている。3月とは言え、夜の山中は空気が冷たい。凍える寒さだ。
今の大森には寒さの感覚はない。息の切らずに山を登りつめる。体力の消耗も感じない。全身に圧倒的な力が漲っている。
・・・これから我らの世界に行く・・・肉体は必要ではない。人間は死を恐れる。だが死の向こうに、限りなく素晴らしい世界がある。
大森は地面に横たわる。洞窟の天井も壁も金属のように黒光りしている。
・・・ここが俺の墓場か・・・死にたくはない。思い切り叫ぶ。声にならない。抵抗しようにも体が言うう事を聞かない。
その時だ。体の中から”霊”が抜ける。張り詰めて、充実した気力が急激にしぼんでいく。
――魔が体から抜け出した――
体が自分の物になった。喜びも束の間、激しい痛みが体中を襲う。魔の気力で体が持っていた。オーバーヒートしたエンジンのようだ。人力の限界を超えて酷使されてきた肉体は、今――ボロボロの状態で横たわっている。しなびた筋肉・百歳を超えた老人の肉体そのものだった
激痛が大森を襲う。余りの痛さに失神する。意識が遠のいていく。深い奈落の底へ堕ちていく。
大森の魂は肉体を離れる。
そして――
場面は一変する。
樹木の木漏れ日が眩しい。眼を見張るような大木がうっそうと茂っている。森の中の広々とした場所である。そこだけが太陽が燦々と降り注いでいる。
台形の大きな岩がある。目の覚めるような美女がたっている。腰まである長い髪、純白の裳、純銀の上着を左前に着ている。白い肌が際立っている。澄んだ大きな瞳、高い鼻梁、面長の顔立ちは日本人離れしている。
その横に大きな男が立っている。髪は総髪。大きな眼が周囲を睥睨している。野獣のような目だ。頬骨が張っている。顎は逞しく突き出ている。麻の貫頭衣を着ている。腰を帯で結んでいる。鼻梁が発達している。顎髭が荒々しく伸びている。右手に振りかざした直刀。彼はおのが力を誇示するかのように吠える。
2人の周りには無数の男女が喚声を上げている。貫頭衣を着た者、上半身裸、腰に皮衣をつけた者、髪や髭はは伸び放題。。女はほとんどが貫頭衣。髪は後ろで束ねている。
――我らが巫女様がお戻りになられた――
大男が叫ぶ。集まった群衆から歓声が起こる。
大森は離れた場所からこの光景を見ている。彼は貫頭衣を着ている。裸足だ。髪は女のように後ろで束ねている。白銅鏡を手にしている。
・・・俺は生きていたのか・・・
喜びも束の間、
――ここは何処だ。あの人たちは誰だ――
大岩の上に立った白い肌の女、夢の中に現れた女。
――鏡の中の妖精――大森は夢の中にいるのかと錯覚する。
白い肌の紙の長い美女の眼は大森に注がれている。彼女を取り囲む群衆も、大男も大森を無視している。というよりも見ていない、と言った方が適切だ。
――夢ではない。お前は私の世界にいる――
妖精の声が耳朶に響く。
・・・私は・・・大森は呟く。自分が何処にいるのか見当もつかないのだ。
――お前は死んだ。この世界で生まれ変わった――
妖精の声は無情だ。彼女はこの世界に還るために、大森の肉体に宿った。彼を道ずれにして。
後々知った事だが――
この世界は人間界(物質界)とは異質だ。魔の世界と、人は言う。妖精はこの世界の支配者、大男や、群衆は妖精の眷属。
時間のない世界――この世界でも季節は巡る。だが誰1人として歳をとらない。子供を産む事もない。死ぬ者もいない。永遠のサイクルを繰り返すだけ。
欲しいい物は労せずして瞬時にして手に入る。”想う”だけでよい。造ることもしない。畑を耕す事もない。行きたい場所が、想像するだけで忽然と現れる。
大森は白銅鏡を手に入れた事で、異界に来てしまった。鏡の中に閉じ込められた妖精が、鏡から解放される。自分の世界に戻った。彼女は嬉々として、大男や群衆の歓迎を受けている。
集会は森の中で行われる。普段の生活は草原の中だ。群衆の棲む家は、丸太を組み合わせただけの粗末な物。壁は杉皮や桧皮。窓もない。十数人の家族が1つ屋根で暮らす。そんな家が平原のあちらこちらに点在する
妖精=巫女の棲み家は豪華だ。大男や主だった者が集まる大広間がある。壁も床も一枚板で敷いてある。明り取りの窓もある。
大広間の奥に部屋が4つ。1つは巫女の祈祷のための物。2つの部屋は巫女の私室。最後の部屋は大森の部屋。
巫女の住居を取り巻くようにして、数十棟の家がある。大男の住まいや、彼の従者たちの家だ。彼らは巫女の警固と数万にのぼる住民の監視を兼ねている。
日本がまだ秋津島と呼ばれていたころの古代の想念の中で妖精は生きている。大森は大切にされる。白銅鏡を肌身はなさず持っている。妖精は気が向くと大森を抱く。
妖精は惜しげもなく、雪のような裸体を開く。大森の身体を包み込む。蕩けるような快楽に襲われる。しびれるような感触が全身を包み込む。体力が漲る。活力にあふれる。
人間の世界のセックスと違う所は、交接の後のけだるさがない事だ。
大森は妖精の”肉体”に溺れる。この世界のすばらしさを実感する。季節はいつまでも穏やかだ。野や山には小動物が戯れる。暑さ寒さを感じない。
行きたいところには瞬時に行ける。海――を思うと、目の前に広大な大海原が展開する。だが海や湖は死んだように波静かだ。海面は鏡のようだ。
大森がこの世界に来て、長い年月が過ぎる。変化のない毎日に大森の心は倦み始めている。
妖精は日増しに活力を蓄えている。優しい表情がとげとげしくなっている。
大森がこの世界に入り込んだ当初、人々の暮らしは平穏だった。争いもなければいがみ合いもなかった。
妖精の表情が嶮しくなるにつれて、住民の間に争いが生じる。やがて住民同士の殺戮が発生する。人が人を憎む。騙し、脅かしが日常茶飯事となる。
外では、微風が嵐に変化する。雨風が住民の生活を脅かす。雪が降る。雷雨が発生する。海は三角波を立てる。小動物は人間を恐れて近ずかなくなる。空は厚い雲に覆われる。激しい風と雨の日が続く。
妖精の白い肌が黄味を帯びてくる。眼が怒りの為に爛爛と輝く。憎悪がむき出しとなる。
・・・何に対して怒っているのか・・・
妖精にはもはや以前のような優しさはない。男女の営みはすでにない。近寄りがたく、毒々しい雰囲気を漂わせている。
大森は鏡を抱きしめたまま、部屋に取り残される。ここに居る限り身の安全は保障される。妖精は邪の表情だが、大森には一抹の優しさを抱いている。
部屋にいながら、大森は妖精や住民、外の世界の出来事の全てを見る事が出来る。
――益荒男、用意は良いか!――
妖精は巫女としての威厳を保っている。大男を呼び下す。
「これに!」益荒男は炯々とした眼で妖精を見る。彼に従う配下が数百人。勢揃いして、妖精の檄を待つ。
――我が活力、すでに猛々し――妖精は長い髪を振り乱す。”今こそ、我が一族の怨み、晴らす時が来た”
住民は殺し合いを続けている。勝ち残った者が妖精の元に馳せ参じる。その数、雲霞の如し。皆鬼の形相だ。
大森は脳裡に展開する光景に戦慄する。
ーー何が起ころうとしているのか――生きた心地がしない。
外の世界はすでに暗黒だ。黒い雲が垂れ下がる。雷雨が激しく大地にたたきつける。肌をつき刺すような寒さが襲う。
我身は安全とは言うももの、恐怖心が募る。
数千人の鬨の声が大地を震わす。怒号の雷鳴が大地に稲光りを叩きつける。
――この世界は私の物――妖精の怒り、憎しみ、怨みがそのまま、この世界に表出しているのだ。
この時、大森は見てはならぬものを見てしまう。
妖精の姿が一匹の大蛇と化す。真っ赤な眼光が、したたる血のように動く。益荒男や彼に従う男達の姿も無数の蛇と化す。真っ赤な口を開ける。のたうち回る無数の蛇は、大蛇に従って、森の奥へと消える。
漆黒の闇が世界を覆っている。大森の目の前に幻影が展開する。生き残った無数の住民。彼らは妖精が消えた後、悲惨な状況に置かれる。”想う”だけでは食物は与えられない。その力は妖精のものだからだ。彼らは餓鬼のように食べ物を求めて迷い歩く。骨のような手足、唇は縮んでめくれ上がる。歯だけが異様に白い。大きな口を開ける。眼孔を見開いた眼が宙を泳いでいる。異様に膨れたお腹。
1人が倒れる。数人が襲い掛かる。手や足を食いちぎる。樹の皮、草、食べられる物全てを食い尽くした後、最後は人肉を漁る。親が子を、子が親を食い殺す。
地獄絵図さながらの光景が繰り広げられる。幻影の中で、大蛇と化した妖精は見ている。稲妻のような舌を、カッと出す。
――憎しみ合え、苦しめ、殺しあえ――
妖精の声だけが大森の脳裡に浸み込んでくる。恐怖におののきながら、白銅鏡をしっかりと握り締める。
意識が遠のく。
――鏡を手放すな――
妖精の声が凛として響く。妖精は復讐の大蛇と化している。長い年月、雪辱に耐えてきた。今こそ、怨み憎しみの情を漲らす。憎悪の情は愛の力よりも強い。
瀬一族の憎しみを一身に背負う。
――復讐が終わったら、可愛がってやろうぞ――
妖精の声は厳しい。それも束の間、大森は深層の世界に落ち込んでいく。
青い空が拡がっている。太陽が眩しい。えんえんと続く緑の山々、広大な草原。見渡す限りの田や畑。労働に精を出す男女の群れ。遠くにある部落。茅葺き屋根の窓から立ち昇る煙。屯する男女。男は麻の長い筒袖。袖を紐で括る。袴をはき、紐で膝上に結ぶ。頭髪は”みずら”耳元で髪を束ねる。
女は縦縞模様の裳と上着、帯は倭文布、髪は肩までしかない。後ろで束ねている。
戯れる男女の中に雪江がいる。大森の姿も彼らの中にいるが誰も気づかない。
・・・雪江・・・久し振りの妻の姿。手に触れる。呼びかけもする。反応はない。大森は失望する。
その時だ。黒龍と化した蛇の群れ。妖精やその一族の怨霊が、この世界に侵入する。大地は地響きを起こす。天は黒雲が日光を遮る。雪江達村人の不安な表情。
田や畑で稲を刈る人々、その顔に恐怖の入りが表れる。稲光と共に激しい雷雨が襲う。逃げ惑う人々、我先へと家に飛び込む。
・・・これが復讐か・・・大森の辛苦は頂点に達する。
・・・妖精に何があったというのだ・・・この凄まじい怨みは尋常ではない。
・・・妻はどうなる・・・夢見の中で大森は激憤する。
――お前は私の物。あの女の事は忘れよ――後でたっぷりと可愛がってやる。
・・・どうして、こんな復讐をせねばならぬ・・・
こんな光景は見たくないのだ。
逃げ遅れた数人の男女が稲光に直撃される。無惨な光景。大森は眼を瞑る。
――お前の知った事か――
妖精はこの世界の住人を根絶やしにするというのだ。
妖精の圧倒的な力の前に、大森はなすすべがない。
目の前で男が、女が、黒龍と化した蛇に食い殺される。竜巻が田や畑を荒らしていく。家を吹き飛ばす。
――この世界の民に、我らは殺され、虐げられ・・・――異界へと追放された。
――我は迫害された民の巫女、瀬織津姫なり――
瀬織津姫――神道の大祓いに登場する謎の神
”高山の末短山の末より、さくなだりに落ちたぎつ、速川の瀬に坐す、瀬織津姫という神、大海原に持ち出でなむ”
大森の目の前で展開する光景は凄惨そのものだ。
古代日本には、縄文時代以前から定住するアイヌ系原住民がいる。その他朝鮮半島からの渡来人、南方から陸続と北上する民族の群れ。彼らは時に融合し、時に離反して日本列島に定着していく。
これら民族を大まかに、農耕民族、狩猟民族に大別できる。人口密度が拡大するにつれて、民族間の勢力争いが激しくなる。領土と食料の争奪戦争である。
瀬織津姫は狩猟民族の巫女。一族の長でもある。彼らは山々を渡り歩く。広大な地域に点在する為に、組織力に難がある。
一方雪江達、農耕民族は、食料生産の為に一か所に定住する。団結力、組織力に優れている。
雪江の旧姓多羅は、先祖を遡ると鉄器生産の踏鞴に行き着く。
狩猟民族――山の民は自然にある物を直接活用する。その為分業化が未発達となる。鉄器も獣の捕獲用の道具しか作らない。
片や農耕民族――部落民は人為的な食料生産だ。備蓄用の倉庫や家屋の建築。、その為の道具の発達。農耕地の拡大の為に、野や林を切り拓く。分業も盛んになる。
踏鞴は大量の鉄器生産を可能にする。鉄器の生産は食料生産に弾みをつける。人口が増加する。領土も拡大する。
山の民と部落民との対立は時間の問題となる。この2つの民族の融和は難しい。対立が先鋭化する。争いの修羅場は激しくなる。
山の民――瀬一族の領土が侵略されて久しい。争いは些細な事件か発端となる。
山の裾野が切り拓かれていく。山の民は段々と山の奥へと追いやられていく。力関係では、山の民は部落民に対抗できない。まともにぶつかりあえば、山の民は潰される。それを望まない山の民の長老達は部落民との共栄共存の道を模索する。
だがいつの世も、それを良しとしない勢力がある。感情の赴くまま、相手を圧倒せねば収まらない連中だ。血気に逸り、憎悪をむき出しにする。
若者の血の気の多さは、非難されるべきではない。多情多感が若者の特性だからだ。だが敵への対抗処処置が直情的になる。忍耐を知らない。憎悪の発散が暴力的になる。結果、悲惨な現実が待ち受ける事になる。
数十人の若い山の民が、弓や槍、直刀を振りかざして山を降りる。血気盛んな彼らは田や畑を荒らす。部落民を殺害する事で、相手を威嚇できると信じていた。部落に火をつける。殺傷を働く。相手に恐怖心を与える。瀬織津姫と長老達から称賛されると信じて疑わなかった。
英雄的行為、彼らの頭の中には短絡思考しかない。
瀬織津姫は笙ヶ岳、養老山、関ケ原一帯に勢力を保持している。東側には長良川、木曽川の2大河川が伊勢湾に注いでいる。その一帯は広大な草原が広がている。それも、元々は山の民の領土だった。
百年、2百年と経つ。後から侵入してきた農耕民族によって制圧されていく。山の民は養老山脈の奥へと追いやられていく。ついには養老山脈の南、員弁郡や桑名方面さへも手放す事になる。
現在の藤原町、上石津町あたりも農耕民族の支配地と化す。この近辺に、雪江の先祖多良氏の名前が残るように、鉄器の生産地である。鉄を支配する者は国を支配する。
一般に青銅器時代が、鉄器時代より先行していると言われる。だが真の意味では鉄器時代の方が先行している。鉄器は青銅よりも産出しやすく、生産しやすい。長い年月、鉄は錆で原型をとどめなくなる。
鉄を支配した農耕民族は領土を拡大していく。10年、20年と経つうちに、山の民はじりじりと支配地を失っていく。農耕民族への憎悪はいやが上にも高まる。ついに憤怒は爆発する。若者の暴走は歯止めが利かない。
現在の養老にあった部落民の家々が山の民に襲われる。夜間の襲撃だ。部落は火に海と化す。田や畑は踏みにじられる。多数の部落民が殺傷される。
夜明けとともに、暴徒と化した若者の集団は、意気揚々と山の奥へ凱旋する。
凄惨な悲劇はこの時から始まる。
養老町の部落民は石津族と呼称している。極めて好戦的な民族だ。彼らの先祖は朝鮮半島から渡ってきた須佐之男命だ。
彼らの先祖は出雲地方から定着していく。九州を征服、余勢をかって、近畿、中部地方に進出。従わぬ者は武力で従わせる。彼らは自らを石族と称した。
奈良、天理市に鎮座する石上神宮は石族の総社だ。祭神は布都御魂大神=スサノオの子ニギハヤヒだ。
伊勢の国は元々石と呼ばれていた。後世石族の支配から脱した後、いしからいせに名が変わる。
石津族は無暗に他民族を征服する訳ではない。出来る事なら平和裏に共栄共存を謀ろうとする。だが敵対する部族には容赦はしない。
瀬織津姫を指導者と仰ぐ山の民は、瀬族という。養老地方には一ノ瀬、二ノ瀬、前ケ瀬などの地名が残っている。
耕作を荒らされ同朋を殺戮された石津族はすぐにも軍事行動を起こす。彼らは単に復讐を目的としてはいない。同朋が殺されたという大義名分を掲げる。瀬族の領土に侵略する。
彼らは鎧を身に着けている。指導者の号令のもと、一糸乱れず行動する。弓や槍、直刀、鉾はひとを殺傷するための道具だ。
片や、瀬族の弓、槍、直刀は鹿や猪などを殺すための道具だ。彼らが身に着けているのは、獣の皮だけだ。山野の地形に明るいとはいえ、戦闘能力に乏しい。
初戦は石津族を迎え撃つという形で行われる。組織力を誇る石津族の圧倒的な勝利で終わる。本来ならば戦いはそれで終わりだ。
だが、石津族の目的は領土侵略、支配地の拡大だ。敗れた山の民は農奴として使役する。
戦いは不利と見た山の民は山奥へ後退する。彼らは負けたとは思っていない。暗夜、石津族の部落に忍び込む。家屋に火を放つ。今で言うゲリラ戦法を駆使する。
石津族も黙ってはいない。部落の要所に篝火を置く。登楼をつくる。見張りを置く。秋の収穫が終わる。冬に入る。軍隊を組織する。鐘を鳴らして山狩りを行う。手あたりしだいに樹木を伐採する。材木は家屋や箸、道具類の用途に利用できる。
樹を切り倒す事で瀬族を追い込むことが出来る。山を住みかとする動物たちも山奥へと逃げ込む。山の樹から採れる実は豊富にあるとは言え、大量に逃げ込んだ動物たちの食料となる。
冬眠前の動物たちは栄養分を体内に蓄える。木の実は冬を待たずに枯渇する。人間も食糧難に襲われる。動物を殺して食肉とする。動物の数が激減する。
瀬族は追い詰められていく。
1年、2年と経つ。瀬族は養老山脈系の山々を追われる。関ケ原を超えて伊吹山山系へ移動する。
伊吹山には別種の山の民が棲息棲息している。そこへ瀬族が流れ込んでくる。大量の難民を抱え込んだようなものだ。山の恩恵は常に一定だ。人口増加は食料の需要と供給のバランスを崩す。本来ならば瀬族を受け入れる事は困難だ。
山の民は瀬族の巫女、瀬織津姫の威霊を恐れている。彼女の霊力は圧倒的な力を持っている。石津族に敗れたとはいえ、雨を呼び風を起こす神力は、山の民の畏敬の的なのだ。
それに――、瀬族が敗れると、次に侵略されるのは自分達なのだ。
伊吹山中に、多賀や近江の山々から、同族が結集する。瀬織津姫を中心にして、一気呵成の勢いを盛り上げる。奪われた領土奪回を目論む。
大がかりな争いが伊吹山の麓で行われる。石津族も近隣の部族が呼応する。激戦となる。長い闘いの末、山の民は敗れる。一部は石津族の農奴となる。大半は山中に遁れる。
瀬織津姫は殺される。死体は海に流される。
伊吹山については、日本武尊が伊吹山の毒気で倒れる話がある。以下大祓祝詞
――気吹戸に坐す気吹戸主と云う神、根の国、底の国に気吹放ちてむ。如此気吹放ちては、根の国、底の国に坐――
戦いは終る。山の民は征服される。彼らの怨念は地の底を這うが如く、長く後世に伝えられる。
殺され、死体を海に流された瀬織津姫の怨霊は死後も石津族を脅かす。数年も経たぬうちに、暴風や長雨に襲われる。旱魃が稲作を涸らす。
石津族の長老達は瀬織津姫の霊異を恐れる。伊吹山脈の麓に伊夫岐神社を建立。瀬織津姫の霊を慰める。
だが、天変地異は一向に収まらない。手を焼いた石津族は最後の手段を試みる。スサノオの子、ニギハヤヒの秘宝が用いられる。
ニギハヤヒは神武天皇以前に、日本を征服した開国の祖である。
天理市の石上神宮に十種神宝が収められている。
十種神宝は別名瑞宝ともいう。
――瀛津鏡、辺都鏡、八握剣、生玉足玉、死反の玉、道反の玉、蛇以礼蜂以礼、品物以礼――以上の十種である。
その昔、ニギハヤヒ命が、天つ神の詔をもって、――もし痛む処あらば、茲十宝をして、一二三四五六七八九十(ひい、ふ、み、よ、い、む、な、や、こ、とお)と請いて、布留部由良由良止、布留部、比く為さば、死人も生き反えらん――と教え諭して授けられた神宝である。
瀛津鏡の霊力を用いて、瀬織津姫の霊を鏡の中に閉じ込めようとする。
鏡は白銅鏡であることが条件。
鏡は、天照大神が、孫の二二ギ命な授けられた時に、この鏡を我が事(天照大神)と思えと諭したと伝えられている。
鏡は単に物を写す道具ではない。人の霊を封じ込める神宝として用いられている。三種の神器の一つ、鏡は天照大神の霊異を封じ籠めた神器なのだ。
白銅鏡は青銅鏡より、鏡としての機能が高い。巫女を神懸かり状態にする。瀬織津姫の霊が乗り移る。巫女に鏡を見せる。再び神懸かりとなる。巫女が失神する。この時、瀬織津姫の霊が鏡に憑依する。
鏡は厳重に封印される。瀬織津姫の故郷、笙ヶ岳に埋蔵される。白銅鏡は白い錆をふく。鏡の中に封印されたのは、瀬織津姫だけではない。彼女に扈従する益荒男の霊も封印される。
この2柱の神は、あの世で自分達の国――瀬族が支配する国を持っている。だが、鏡から錆を省かない限り、2柱の神は瀬族の国に入ることが出来ない。
こうして石津族の国は平安が保たれる。
長い年月が流れる。盗掘者によって白銅鏡が掘り返される。好事家の手に渡る。鏡が磨かれる。瀬織津姫の霊力が蘇る。再び猛威を奮う。
石津族もあの世に”国”を創る。復讐の鬼と化した瀬織津姫の怨霊は、あの世であろうと、この世であろうと猛威を奮う。
石津族の子孫が白銅鏡を手に入れる。再び地下に埋蔵する。百年、2百年と歳月が流れる。鏡を掘り出す者が現れる。鏡を磨く。瀬織津姫の怨霊が息をふき帰す。鏡の争奪戦が繰り広げられる。
こうして、2千有余年の歳月が流れる。
――あの世の、石津族の神々達は、瀬織津姫の霊力に止どめを刺すべく秘策を練る――
その昔、踏鞴族の巫女だった女を、この世に送る。多良家の娘として成長する。多良雪江だ。大森の妻として短い生涯を終える。大森に使命を与える。大森はその事に気付いていない。
雪江達の世界が蹂躙されていく。黒い雲が竜巻を呼ぶ。滝のような雨が降り注ぐ。雷鳴がとどろく。突風が吹き荒れる。稲がなぎ倒される。茅葺き屋根が燃える。川は水かさを増して氾濫する。田や畑を根こそぎ押し流す。
人々は逃げ惑う。ある者は洪水に飲み込まれる。ある者は雷で倒れた樹木の下敷きになる。
あの世の世界は想念の世界だ。死人で、あの世に生まれ変わった時、生きていたころにやり残した事がある。
出世したかった。大金持ちになりたかった。好きな人と一緒になりたかった。一国一城の主になりたかった。生きていたころの欲望をかなえる世界、それが想念の世界だ。
1つの団体、組織に属していた人は、あの世でも同じ組織の中で、生きていた時と同じ生活を送る。
あの世――想念の世界は、各個人、各団体が1つの世界を創り上げている。本来それぞれの世界は干渉し合う事はない。
だが、並外れた霊力を持つ瀬織津姫は石津族に深い怨みを抱いている。彼女の怨念は、あの世の石津族の世界に深刻な影響をもたらす。
それを封じ籠める方法はただ1つ、白銅鏡を破壊する事だ。物質界=この世ではどんなものでも破壊可能だ。
2千有余年に渡って白銅鏡が破壊されなかった。そのたった1つの理由――鏡には瀬織津姫の霊が封じ込められている事だ。錆が浮いて、その霊力が低下しているとはいえ、鏡を持った者の心に多大な影響を及ぼしている。鏡を持つ者は鏡を磨くことに一心不乱となる。瀬織津姫の霊力によるものだ。
大森は笙ヶ岳の山頂の洞窟に閉じ込められた。彼の生涯はそこで尽きる。幾多の白骨死体と同様、彼の死体も腐乱する。肉は殺げる。白骨するのも時間の問題だ。
彼は今――想念の世界で生きている。
――大森――図太い声がする。大森はハッとする。
彼は瀬織津姫の館の部屋にいた。突然激しい睡魔に襲われる。夢を見ているような感覚。瀬族と石津族の葛藤が目の前で展開される。
――私の送った思念はどうかな――声は優しい響きを伴う。古代の歴史が理解できたかという。
気が付くと、大森は2つの世界の狭間にいる。
1つは雪江達の世界。無数の黒龍に侵略されている。天変地異に大地が慟哭している。石津族の人々の命運は風前の灯だ。
今1つは瀬織津姫の世界。天は光を失う。地は冷気が吹きすさぶ。この世界で生きている者はいない。
瀬織津姫の館だけが孤高のように建っている。
大森は2つの世界を同時に見ている。彼はすでに2つの部族の争いを知らされた。
――大森――再び太い声がする。目の前に輝くような球体がある。その中から、頭髪が”みずら”、筒袖の上着を着た老人が現れる。
・・・どこかで見たような・・・大森は老人を凝視する。
「私を見忘れたか」老人の声は瑞々しい響きがある。
「鏡を売ったのを忘れたか」
「あっ」大森は出かかった声を詰まらせる。白髪で落ちくぼんだ眼。
――大森――老人の声は図太いが優しい。呼び捨てだが心根のこもった響きだ。
「鏡を砕いてはくれぬか」
白銅鏡は瀬織津姫の依り代だ。この世界に存在していても彼女の霊は鏡の中にある。鏡を破壊する。瀬織津姫の依代は消える。同時に彼女の想念の世界も消える。
瀬織津姫の霊は物質界に、再び生まれ変わる。
「ですが・・・」大森は躊躇する。鏡を手放すと、大森の命は”この世界”から消滅すると聞かされている。それは恐怖以外の何物でもない。大森は白銅鏡をしっかりと抱きかかえる。
大森のいる所は、2つの世界の狭間、厳密にいえば空間にいる。上も下もない。宙に浮いているような感じだ。2つの世界は、映画のような2次元的な世界ではない。現実の世界のように、上も下もある。暑さ寒さ、太陽や星、月すらある。物質世界と同様に無限の広がりを持つ3次元世界なのだ。この2つの間に、老人と大森がいる。
――我らの世界を救ってはくれぬか――
老人は卑下するのではない。毅然と大森を直視している。
「あなたは一体・・・」
老人は穏やかな表情をしている。暗い背景にあって、光輝を放っている。
「私は、石津族の先祖神、ニギハヤヒ・・・」
大森は声をあげる。彼こそ、日本全国に点在する数万の神社の主祭神なのだ。現天皇家の先祖神を祀る神社は約2割、残り8割の神社が、ニギハヤヒ、その父スサノオの神を主祭神としている。
天皇家の主祭神と称する天照大神こそ、ニギハヤヒなのだ。彼の正式名は天照国照彦天火明櫛玉饒速日命(あまてるくにてるひこあめのほひかりくしたまにぎはやひのみこと)。
「鏡を砕いた後、私はどうなります」
ニギハヤヒの神の言葉は以下の通り、
鏡を手放した大森の霊体は瀬織津姫の世界の悪霊から迫害を受ける。この世界=想念の世界で殺される。
あの世=物質世界に生まれ変わる。寿命は30年。唖として生まれ、死ぬまで苦難の連続。18歳の時、物質界に再生した瀬織津姫と出会う。彼女は盲目として生を享ける。彼女もまた30代で生涯を閉じる。1人の人間の霊としてこの世に舞い戻る。
――私の妻は、今どこに――大森の声と共に目の前が開ける。
穴倉に逃げ込んだ雪江達は瀕死の状態にある。穴倉は貯蔵室だ。数十人が身動きできぬほどに避難している。瀬族の魔物達は石津族を滅ぼさんと、刻一刻と迫っている。
大森は鏡を砕こうと決意する。
その時だ――。
――お前は何をするつもりだ――瀬織津姫の厳しい声が言下する。
大森はハッとする。あわてて周囲を見渡す。彼は一瞬の内に、瀬織津姫の館の”部屋”にいた。
大森の目の前に巨大な黒龍が渦を巻いている。真っ赤な眼が爛爛と光っている。大森は板の間に腰を降ろしている。黒龍の不気味な眼が睨んでいる。大森は身動きできない。
――鏡をどうするつもりだ――声が怒っている。
――砕こうと思っています――
――何を考えておる――お前は死ぬんだぞ。黒龍の脅し声。大森は答えない。
――ここに居るのが怖いか――
――怖い、もう嫌だ――大森は泣き出しそうな声を出す。
黒龍の姿が変化していく。瀬織津姫の白い姿が現れる。彼女は白い手で大森の顔を挟む。
戦いはもうすぐ終わる。我らの勝利は間違いなし。石津族を滅ぼせば、また元の世界に還る。
鏡を大切に持って、待つがよい。
瀬織津姫は嫣然とほほ笑む。彼女の唇が大森の口をふさぐ。蕩けるような感触が大森を襲う。陶然とする。鏡をしっかりと抱きしめる。
――それでよい――お前は私の物。今しばらく待て。
瀬織津姫が消える。部屋の中にいる。とはいえ漆黒の闇だ。外は風が不気味な音を立てている。大森は耳をふさぐ。
・・・あなた・・・
「雪江か!」大森は顔を上げる。あたりを見回す。黒い空間にぽっかりと穴が開く。明るい点が見る見るうちに大きくなる。その中に雪江の姿が現れる。肩まである髪が乱れている。衣服も破れ、顔は汚れて、見るも無惨な姿だ。
・・・私達を助けて・・・悲痛な叫びだ。
鏡を砕く事で、大森は30年間物質の世界に戻る。その後彼は雪絵たちの世界に入る。
――あの世で再び夫婦になる――
鏡を砕く事に大森はためらう。瀬織津姫の妖艶な美しさの虜になっている。
それに――、怖いのだ。鏡を砕く。瀬織津姫の禍々しい姿に襲われる。”この世界”で死ぬ。激しい苦痛に襲われると聞く。
大森は雪江の姿を見まいと、眼を瞑る。
目の前が急に明るくなる。
――多良雪江と言います。よろしくお願いします――
大森は地下室の倉庫にいる。山のように積み上げられた電気製品の山。事務室の中で新入社員3名が勢ぞろいする。3ヵ月後には販売部に配属される女性達だ。商品知識、在庫調整、仕入れ、遠方の客への配送。3人の新入社員を大森がみっちりと仕込む。
大森はこの年22歳、多良雪江19歳。
雪江はおかっぱ頭、化粧気のない顔、どことなく翳のある表情。色の白さが際立つ。
瀬織津姫の世界の大森は、今、雪江と出会った最初の光景の中にいる。
この時大森は雪江を見て胸をときめかす。激しい恋に陥る。
あの時の新鮮な感覚、その記憶が蘇生する。
・・・雪江・・・胸を掻きむしられる思いだ。
雪絵の美しさは清楚だ。大森を見詰める熱い眼差し。華やかさはない。道端に咲く一輪の花の美しさだ。
雪エと結婚。短いが楽しい日々。その思い出が次々と、目の前に展開される。
大森の眼に涙があふれる。
・・・もう一度、雪江と一緒になりたい・・・
大森の脳裡に、森の中の大岩が描き出される。
一瞬にして彼の身体は大岩の上にある。瀬織津姫と益荒男が立つ岩だ。
激しい風が吹いている。凍える様に冷たい。滝のような雨が降り注いでいる。暗く閉ざされた世界。
瀬織津姫と益荒男、その配下の者、全てが石津族の世界に侵入している。
大森は白銅鏡を高く掲げる。一瞬にして大岩にたたきつける。彼の脳裡に描かれるのは砕け散る鏡のイメージだ。
――この世界はすべて想念――思い描いた事はすべて現実となる。鏡は鈍い音を立てる。激しい勢いで鏡は砕け散る。
笙ヶ岳の洞窟の中、大森の腐乱死体。その懐の中の白銅鏡が真っ二つに割れる。
この時、激しい雷光が大森の身体を撃つ。
――お前は何をしたのじゃ――
あれ程鏡を大切にしろと言ったのに!。
巨大な黒龍が大森の身体を巻き付ける。きりきりと肉を裂く。骨を砕いていく。瀬織津姫の眷属、小さな黒龍が大森に襲い掛かる。
大森の恐怖と苦痛は頂点に達している。手や足がもぎ取られる。体中の骨はバリバリと音を立てる。頭の骨も、もはや形骸をとどめない。小さな蛇に食いちぎられる。
想念の世界は、物質の世界と異なる。
肉体が死んでも、意識は健在だ。研ぎ澄まされた感覚は一層鋭敏になる。大森の意識が消滅するのは”この世界”が消えると同時だ。。
鏡を失った瀬織津姫と益荒男、2つの霊は鏡の消滅と同時に”この世界”からも消える運命にある。
益荒男とその配下、この世界の住民は、瀬織津姫の想念の産物だ。
瀬織津姫が消える。”この世界”の全ても消え去る。
大森の意識=霊も消えていく。
後に残るのは無限の空虚
石津族の世界に明るさが戻る。殺された人々も”復元”する。事件など何もなかったかのように平穏な暮らしになる。
平成19年1月、養老の滝近く、白石で1人の男の子が生まれる。唖であった。時を同じくして、白石から1キロほど離れた京脇で女の子が生まれる。盲目であった。
養老の滝のすぐ近くにある養老神社、この一帯は、石津族の聖地である。
――完――
お願い――この小説はフィクションです。ここに登場する個人、団体、組織等は現実の個人、団体、組織とは一切関係ありません。
なおここに登場する地名は現実の地名ですが、その情景は作者の創作であり、現実の地名の情景ではありません――