ある絵師の届けもの - 05(完)
……少しして。
俺と少女を照らす空間には、鉛筆が紙を走る音だけが、静かに響いていた。
「不思議なもんだな」
白い紙へと鉛筆を走らせていると、筆先に生気がこもっているのが感じられる。
その黒鉛が描き出す絵は、まさしく生に迫るであろう、不思議な迫力に満ちている。
俺は、確信していた。
これほどまでに、自分の描きたいと想う線の運びと、描かれる絵のイメージが、一致したことは今までなかった。
まさしく、絵と筆先と自分が、一体化している。
――そう、感じることができる。
そして、さっきの少女の絵のように、光を放ってもいた。
鉛筆で描くたび、その一線一線が、まるで意志を持つかのように光を帯び始める。といって、描きづらくなることもない。
俺の描くイメージは、しっかりと定まっていた。
――アイツの顔は、あの日以来、一度も描いていなかった。
そう想えば、この時のために、描き残したものだったのかもしれない。
「いいねぇ。こんなにもノっているのは、初めてだ」
俺は笑いながら、自分の全てが絵に変わっていくような感触に、興奮していた。
「……はい。わたしも、嬉しいです」
だが、言葉と違い、少女の表情はどこか晴れきらないものだった。
「大切な方がモデルだから、でしょうか」
少女の様子に、少し俺は寂しくなる。
わずかな間しか話していないが、わかったことがある。
――この少女に、悩む顔は、似合わないということだ。
「笑ってくれよ、お嬢ちゃん。でないと、このノリが墜ちちまうとも限らねぇからな」
「はわわ、すみません!」
そう言って、少女は努めて冷静に、笑顔をふるまうようにしてくれた。
感覚が、鋭敏になっている。
だから、か。
「なぁ、お嬢ちゃん」
「はい、なんでしょうか」
「これからも、旅を続けるのかい」
「もちろんです! わたしとスーさんは、『永遠の光』を見つけるまで、一緒に旅をするって約束してるんです」
「なら一つ、頼みがあるんだ」
「はい、喜んで!」
力いっぱい元気に微笑む少女へ、俺は言った。
「届けてほしいんだ、この絵を」
「この、絵を……」
「ああ。俺が描いた、最後の絵だって、な」
俺の言葉に、少女はすぐ答えなかった。
少し迷ったような時間の後、少女は改めて口を開いた。
「はい。お届けするのは、どんな方なのでしょうか」
答えた声は、とてもしっかりしたものだった。
そして少女は、二つの意味で、俺の言葉を否定しなかった。
だから俺は、少女の問いに答えた。
「俺のもっとも大切な妻へ、お願いするよ」
「わかりました」
「だが、届けられなくても……気にするなよ」
それは、なぜか言っておかなくてはいけない気がした。
「……!」
「これは、俺が自分のために、そしてアイツのために描いている絵だ。だから、お嬢ちゃんが気に病む必要はねぇ。もし、アイツに出会えたら、でいい」
少し瞳をあげて、少女へウインクを送る。
強ばっていた少女の顔が、少し柔らかくなるのがわかった。それでも、どこか申し訳なさそうな色は消えていなかったが。
――本当に、嘘をつくのが下手なお嬢ちゃんだ。
「だから、アイツのところへ連れて行ってほしいんだよ。俺が俺であった証明を、見届けてくれたお嬢ちゃんの手で、な」
「はい。必ず……ご一緒に」
それが、俺の聞いた、最後の少女の言葉だった。
――俺が、次に自分の意識を取り戻したのは、筆を置いた時。
――けれど、そこにはもう、俺の姿はなかった。
***
ばさり、こんこん……と、物の落ちる音が響く。
闇の中で、地面があるのかも定かでない、この空間。
男が持っていたスケッチブックと鉛筆は、彼の消滅とともに、地面へと身を横たえた。
「……イラスト、さん」
呟きながら、リンは男のスケッチブックを、その手で取り上げる。
見れば、そこには男が最後に描いていた絵が、しっかりと刻まれている。
周囲の闇を払うような、美しい光とともに。
『美しい絵だな』
スケッチブックに向かって照らしてくれているからなのか、私もその絵を見ることができた。
……自分の眼がどこにあるのか、我がことながら、未だに私にもわからないのだが。
その絵は私の視界に、しっかりと映し出されていた。
「はい。本当に……」
リンはうなずきながら、器用にスケッチブックをめくる。
今、リンの手には、二枚の絵がある。一枚は、我々が見たことのない、彼の妻の絵。もう一枚は、最初に描かれたリンの絵だった。
『リン、どうした?』
「な、なんでもないです……ちょっと眼が、変で……」
リンは、自分の描かれた絵を見ながら、涙を流していた。
「わたし、こんな顔してたんですね。なんか、面白くて、変ですね」
描かれた一枚のスケッチには、見る者を魅了する笑みを浮かべたリンが、幸せそうに描かれていた。
「こちらの絵も、ステキですね。……こめられた光が、とってもまぶしいです」
リンが言うもう一枚の絵の光は、リンを描いたものよりも、強い光を発していた。
その光は、しかし、当然とも言えた。
男が最後の一欠片になるまで、筆先から光をそそぎ込み続けた、その結果なのだから。
だからこそ――リンは、顔を曇らせて、言った。
「お届けできないのが、本当に残念で……申し訳ないです」
『……』
私は、なにも言うことができなかった。
絵の光は、自然と私の方へ、吸い寄せられるように集まっている。
そして、その光が私へと同化する度に……絵の全体像は、次第に薄くなり、形を失っていくのが見てとれた。
――生み出された光の形が、残ることはない。
いつも最後には、私とリンだけが、この闇に残されるのだ。
「……イラストさんの光が消えないうちに、見つけたいですね」
『そうだな。みなのためにも』
「うん。リン、忘れません。イラストさんを、アイツさんを。それに……この顔を」
リンは、絵の中の自分を見つめながら、祈るように呟く。
「これが、リンなんだって……嬉しくなるの、教えてもらったから」
次第に、二枚の絵の光が、さらに弱まっていく。
私が、自分の光を維持するために、彼の光を吸っているからだ。
絵に全てをこめて光となった、彼の意志を取り込むために。
「スーさん。リンは……嘘をついて、しまいました」
『……すまないな、リン』
「いえ、悪いのはリンなんです。でも……自分の顔を、見たかったのです。それに、イラストさんの描く、本当に大切な人の光を」
『リン……』
もし、私の光が鏡のように、彼女の顔を映す力があれば――こんな顔にさせることも、なかったのだろうか。
だが、それでも……とも考えてしまう。
彼女は、彼のために、嘘をつくだろうと。
簡単に見破られてしまうだろうが、そのぎこちなさで、彼女は彼の望みを叶えてあげようとするのだろうと。
――彼が望んだ生き方を、想い出させるような消え方をさせるのだろうと、私にはわかるのだ。
「だから、リン、忘れません。イラストさんのことも……イラストさんに、大切な人がいることも。もちろん、この絵のことも」
ぎゅっと、リンはスケッチブックを抱きしめる。すると、私の光と絵の光が混じり、リンの周囲に蛍のような光が舞う。
――断片化していく絵の輝きが、私の中でゆっくりと、暖かい光になる。
少しして、その場に残ったのは、私の光だけとなった。
リンの手元には、彼の描いた絵も、そこから生まれていた光も、なにも残ってはいなかった。
リンは、手元を寂しそうに見つめた後、ぎゅっと眼を閉じ――言った。
「みなさんに、笑ってほしいから。――スーさん。『永遠の光』を、見つけましょう」
そう言って、眼を見開いたリンの顔には、いつもの笑顔が浮かんでいた。
『ああ。では、行こうか』
「はい!」
私が光を揺らめかせるのを合図に、リンもまた、闇の世界へと足を踏み出した。
――あてのない旅路は、続く。
この闇の道がどれだけ続いているのか、私にもリンにもわからない。
知っている者に、出会ったことすらない。
だが、彼の描いた笑顔は、私とリンの心にも光を灯してくれた。
「――自分の顔、いつでも見れるようになりたいですね」
『私もだ。私も、自分以外の光に照らされる日を、夢見るよ』
彼のためにも、まだ、輝けるのならば。
私達は、彼が描き続けた世界の形を探して、歩き続ける。
――彼が残してくれた想い出の光は、私達の胸にあるのだから。