ある絵師の届けもの - 03
「それで、絵を描けるんですね」
「あぁ。そのための道具だからな」
幸いなことに――というか、できすぎているのではないかと想うように、俺の周囲にはスケッチをするための道具が、いつの間にか現れていた。
少女は、それは初めからあったという。
だが……本当に、そうだろうか?
疑問には想うが、眼の前の無邪気な少女に、それを言うのもためらう。
俺が絵を描くことを、本当に嬉しそうに見つめる少女。
(……不可思議現象を疑うくらいなら、眼の前の微笑みの方が、大事か)
だから、少女を疑いたくなくなっている自分を、俺は感じていた。
「あの……」
「ん、どうしたお嬢ちゃん」
「少し、描いているところを見せてもらっても、いいですか」
「……ちょっとだけだぞ」
別に見られて気恥ずかしいわけでも、手が止まるわけでもない。
むしろ、少女の光りが手元をよく照らすようになり、やや描きやすくなるくらいではあるが。
「けど、少し見たら、さっきの位置に戻ってくれ」
「はわわ、やっぱりお邪魔ですか~」
慌てたようにそう言って距離をあける少女に、俺は苦笑した。
残酷な事実を淡々としゃべるくせに、妙に他人に申し訳ない態度もとる。
手先を止めずに、俺は彼女に聞く。
「自分のこと、描いてもらったことはあるのかい」
「ありませんですね。絵を見るのも、初めてですし」
そういえば、絵の話を聞いたこと自体が初めてだったな。
なら、描いてもらったことなど、あるはずもないか。
「そうか。まぁ、描いてもらったとしても……絵も千差万別だから、お嬢ちゃんが気に入らない可能性もあるし、な」
似せて描いて不興を買うのも、化粧をしてよく見せるのも、こちらのさじ加減ではあるので、難しいところだ。
そもそも、書き手の技量や、受け手の嗜好の問題もある。
だが描いてみなければ、そんなことはわからないわけだから、やらずにいる方がもったいない。
――そう感じながらペンを走らせてきたことを、俺は、実感として想い出してくる。
(そうだ。一つでも多くの、イメージを……って、想っていたんだ)
胸にわきあがる、くすぐったさ。それを感じながら、手を動かし続ける。
線を増やし、絵を描き続ける俺に、少女は意外なことを言った。
「いえいえ。そもそもわたし、自分の姿を見たこともないので」
「……なに?」
一瞬、その言葉に、手を意識を止めてしまった。
自分の姿を見たことが……ない、だって?
「ですから、もし描いてもらったとしても、気に入らないと言うこともないと想いますよ~。リンは自分の姿、わかりませんので」
少女の言葉に、俺はまたしても、絶句させられた。
軽快に動いていた指先も止まってしまい、先へ進めなくなる。
できたのは、口を開いて、問いかけることだけだった。
「え、じゃあ、なにか。お嬢ちゃんは、自分の顔や姿を、ぜんぜん知らないのか。なんで?」
「なぜ、と言われても、難しいですけれど……」
困ったような表情をしながら、少女は言葉を探すように、いったん口を閉ざした。
俺も同様に、手元の指先が止まっている。
――この表情の意味を知るまで、手元を進めるわけにはいかないと想えたから。
少しして、少女は眼を伏せながら、静かに口を開いた。
「リンとスーさんは、ずっとここにいますから」
「それは、さっき聞いたけど……」
「はい。気づいたときから、ずっとこの闇の中に。だから――自分の顔を見る機会は、なかったのです」
淡々と語る少女の言葉に、俺の背筋と意識が、冷たくなるのを感じる。
生まれてからずっと、自分の顔を一度も見たことがない。その、事実に。
(初めて鏡の前に立ったのは、いつだったか)
この暗闇の深さにふるえながら、同時に、俺の中で想い出や記憶が一気に溢れ出る。
毎日のように見ている、鏡。
親に飾り付けられて撮られた、写真。
友人や知人と一緒に旅行に行った時に送られてきた、デジタル画像。
学生の時に同じ美術部員に描いてもらった、似顔絵。
――ちょっと想い返すだけでも、数え切れないくらいの、自分を描き出したものが溢れていた。
俺が住んでいた時代、社会は、むしろ自画像や個人情報の流出が問題となっていたくらい、自己を考えさせられる社会だったのだ。
だが、少女は言う。
――この闇の世界には、自分を見るものさえ、ないのだと。
「そう、か……。自分が可愛いのにも、気づいてないのか?」
「か、可愛いですか!? そんなこと言われると……て、照れますね」
恥ずかしそうに、片手で顔を隠す少女。
その仕草は、見た目相応の恥じらいを感じさせ、妙な郷愁を起こさせた。
少しだけ、口元が微笑む。……苦みは、あるとしても。
しかし、可愛いって概念はわかるんだな。難しい子だ。
そして、その赤面する顔を見ながら、また、古い記憶がよみがえってくる。
浮かぶ顔は、眼の前の少女とは、似ても似つかない。
鋭くこちらを射抜くような眼と、しっかりとした立ち居ふるまいをする、勝ち気な少女の姿。
(俺が似顔絵を描こうとしたら、アイツ、顔を赤くしてどっか行っちまったんだよなぁ)
……可愛いって言ってから、ずっと怒りっぱなしで、失敗したなぁと今でも想ってる。
そのくすぐったさを想い出しながら、俺の指先はまた進み始めた。
正確には、少女の笑顔を見たときから、知らずに手が進み始めていたようだった。
「お嬢ちゃん、いい表情だな」
「は、恥ずかしいセリフは、禁止ですよ~?」
「……だから、その顔を、描かせてもらうよ」
「はえ?」
間抜けな声とともに、少女がきょとんとした顔で俺を見る。
うん、いい。
あどけなく、素直で、愛らしい。
なにより――俺は、教えてやりたい。
少女が喜ぶ姿が、嬉しかったのも事実なのだ。
この世界で、俺がしていたことを、誰かに伝えられる。
それを受け入れてくれる、彼女の微笑みが。
「お嬢ちゃん、俺は君を描いているんだ。だから、もう少し待ってくれ」
「え、リ、リンをですか……!?」
驚きでか、少女の声が高くなる。
今までのほんわりしたものや、冷たいものとも違う、びっくりしたような響きを持った声だ。
「で、でもでも、もったいないですよ! もっと、イラストさんの描きたいものを描くべきですよ!」
「なら、もったいなくないだろう。俺が書きたいのは、お嬢ちゃんだからな」
断定するような口調で、俺は少女は言った。
嘘は言っていない。
それに、これは――ちょっとした、罪滅ぼしでもあるのだから。
「う、それは、そうなら、いいんですけど……」
少女は、しぶしぶといった感じで言葉を収める。
俺はその様子に安心して、絵に戻ろうとすると――。
(……ん? どうしたんだ)
少女は、光を持った指先を天井に掲げるような、妙なポーズを取り始めていた。
「そういえば、どんなふうにすればいいですかね。リン、あんまり難しい表情とかポーズは、難しいかもですが」
真面目な顔で、自由の女神もどきみたいなポーズをとる彼女。
俺は、静かに少女へ答えた。
「笑ってくれよ」
「え?」
「さっき、俺に挨拶したみたいに――笑ってくれよ」
「……」
できるだけ、優しく。
次第に、心地よい形を作り始める手元の絵を見ながら、俺も優しくそう言った。
それが、伝わってくれたのかは、わからなかったが。
「わかりました! リン、あなたへ向けて……微笑みますね!」
少女の答えは、最初にあった時のような、無邪気な明るさを取り戻してくれていた。
「肩肘は、張らなくていいからな」
苦笑しながら、俺は手元の鉛筆を、白い紙へと走らせ続ける。
こんなにも自然に、迷うことなく筆先が進むのは、想い返しても数えるほどしかない。
内心も、不思議なほど落ち着いてきていた。さきほどまでの荒れ狂うような感情が、嘘のようだった。