ある絵師の届けもの - 02
(そうだ。この闇が、迫ってきて)
俺もアイツも、平穏な日常の中にいて、だからなにも気づかぬ内にとりこまれてしまった。
押しつぶされ、アイツと離されていくのを知りながら、俺はなにもできなかった。
考える時間もない内に……俺の意識は、塗りつぶされてしまったのだ。
――嫌になるくらいの、汚れなき暗闇の色に。
「リンにも、スーさんにも、わからないのです」
そう言って、少女は困ったような表情を浮かべた。
(俺の、呟きに、か?)
答えを求めたわけでは、なかったのだが。
「そうか。それは、そうだよな……」
――もしかするとこの少女も、あの闇にのまれてしまった一人なのかもしれない。
(あの闇が嫌いなのが、マッチの光だとはね)
なら、逃げられた人なんて……どれだけ、いるんだろうな。
納得してうなずきながらも、不安は消えない。もちろんアイツのことも、頭から消えたわけではない。
(……じゃあ、光がないと、どうにもならないのか)
今のままでは、この闇を歩くことはできないとわかった。
残念なことに、俺の身体には、この闇を照らすような道具は何一つ持っていない。タバコでも吸っていれば、ライターでもあったのかもしれないが。
「そのマッチの予備は、ないのかい?」
少女の手元を見ながら、問いかける。既製品のマッチによく似たそれは、しかし、変わらない光をずっと保ち続けている。
(超持続マッチ。……聞いたこともないけど)
だが少女は首を振って、俺の問いを否定する。
「スーさんは、スーさんなので。代わりは、ありません」
「代わりがない? だって、マッチだろう」
「もう、言ってるじゃないですか。スーさんは、この、スーさんだけなのです。代わりの方は、おられないんです」
言い聞かせるようなその言葉に、俺は戸惑いながら聞き返す。
「ばかな……。ずっと、そのマッチ棒一本で、光っているって言うのか」
「はい、そうです」
薄い微笑みを浮かべて頷く少女。
――俺の知らないだけで、ずっと光り続けるようなマッチが、開発されていたとでも言うのか。
驚きに言葉を続けられない俺は、じっと、少女の光を見つめ続ける。
……少女が言うとおり、マッチを代えるような様子は、確かにずっとなかった。
なら、言っていることは本当なのだろう。
「……驚きだが、そういったものも、作られていたんだな」
少女が持っている明かりは、この一本だけなのだとわかった。
なら、譲ってもらう、というわけにもいかないだろう。
少女もまた、俺と同じ状況に代わりはないのだから。
「だが、それじゃあ……どうにも、ならないじゃないか」
かといって、俺の焦りが消えるわけもない。
むしろ、アイツの存在が気になって仕方なくなってきている。
(早く、探しにいかなきゃ、いけないのに)
ふと――俺の胸中に、ある考えが浮かぶ。
光がなければ、闇を進むことはできない。
なら、光は、どこにある――?
意識せず、おれは少女の手元の光を、凝視していた。
心のなかに、今までの俺にはない、なにかがささやくような感じもあった。
喉を鳴らし、衝動に従うか、迷い始めた時。
「――お話が、あるのです」
少女が口を開く。
同時に、彼女の顔にも、変化が現れた。
「お話……?」
先ほどまでの、のどかで柔らかい口調とは異なる、真剣で透き通った響き。
同じ少女とは想えない声に、俺は意識を持っていかれた。
どこか落ち着いたその響きは、俺の心にわいた闇を、忘れさせてくれる効果があった。
そして――少女が語った、その内容は。
「――」
「――」
――俺の中にあった闇が、違う形で、俺自身へと跳ね返ってくるものだった。
少女の説明を、一通り聞き終え。
俺は……毒を込めた調子で、少女へ言葉を放った。
「そんな話を、信じろってか?」
少女が語る内容は、いわゆる、余命宣告だった。
しかも、俺に選択権はない。
少女と、少女の光が下す、俺への一方的なものだった。
「ごめんなさい」
「……」
――話としては、簡単なものだった。
俺がこうして闇のなかで形と意志を保てているのは、少女の手元の光のおかげ。不思議なことだとは想ったが、納得はしていた。さきほどの、闇になでられたような冷たさが、少女の光で和らいだのは事実だったからだ。
つまり――少女の光がなくなれば、俺の存在は、消える。
あの闇が、俺をまたとりこんでしまう。
それに、少女の真摯な様子から、嘘を言っているようには見えなかったというのもある。
「俺が、消える……だって?」
だが――すんなりと受け入れられるほど、俺は、できた人間ではない。
「はい。あなたがこの世界にいられるのは、スーさんが照らしていられる時だけなのです」
少女は付け加える。
「でも……スーさんも、いつかは消えてしまうのです。だから、その……」
「その、なんだ?」
ここまでくれば、驚きはしない。
少女にはやや冷たく当たってしまうが、先を促すように、視線を向ける。
「あなたの姿も、同じなのです。いつかは、消えてしまうもの。でも……」
「でも?」
「スーさんは、光を貯めることができるのです。みなさんの、姿形を、受け入れることによって」
「姿形を、光を、受け入れる……?」
少女の言葉の意味が、俺には理解できなかった。
だが、しかし、少女がなにを求めているのかは――残念ながら、わかってしまったような気がした。
「つまり、お嬢ちゃんは、俺に……どうして、ほしいんだ?」
理解しながらも、俺は、その答えを自分から言う気にはなれなかった。
卑怯だとは想いながらも、少女の口から、その言葉を聞きたかった。
――そして、ゆっくりとつむがれた、少女の言葉は。
「……あなたの光を、わたしとスーさんに、いただきたいのです」
「はっ」
想わず、声が漏れ出て。
――心にわいた安心感が、冷たく、乾いたような気がした。
「お嬢ちゃん、さ。……おとなしく、命を差し出せって言われて、出すやつはいないぜ」
「……はい。それは、もちろんです」
「だったら、お嬢ちゃんはどうする? このまま、俺を見捨てていくのか。それとも、俺がごねたら、無理矢理にでもなにかするっていうのか」
俺は、常日頃だったら絶対に言わないような口調で、少女に言葉を投げ放つ。
「それは……」
苦しむような彼女の表情に、俺の中のなにかが、ざわつくのを感じた。
(もし……俺が光をあげずに、消えちまったら、どうなる?)
ふっと浮かんだ考えを、俺は、トーンを抑えて確認する。
「そうしないと、お嬢ちゃんも、呑まれちまうのか」
ためらいながら、少女は、ゆっくりと頷いて。
「……はい」
そう、小さく答え返した。
なら――と、納得はできないが、理解はできる。
「めんどう、くせぇ」
ぽつりと呟いた俺の一言に、少女が心配そうな顔を向ける。
「え、えぇ、と……」
その顔を見て、想い出す顔がもう一つ。
「……こういう言い方してるから、アイツに怒られるんだな」
「アイツ、ですか?」
「お嬢ちゃん、俺の言ったことは、別に俺だけのものじゃねぇ」
言い訳のように、俺は少女へ向かってそう言った。
さきほどまでの怒りは、俺の中で少し落ち着いていた。
――どのみち、少女を怒鳴りとばし、悲しませたところで、この世界に光が戻るわけではない。
俺の命が延びるわけでも、アイツが見つかるわけでも、ない。
なら、と俺は考える。
頭の中で、アイツならどう言うかを、想い起こしながら。
「今まではどうか知らないが、いつか、俺が言ったようなことを言うやつが出てくる。しかも、もっと悪質に、周到に、お嬢ちゃんを誘うような手口でな」
「はい。それは、わかっています……」
「……?」
弱く微笑みながらうなずく少女の表情に――俺は、勘違いをしているのかもしれないと気づく。
彼女は、俺のようなひねくれ者と、もう何度も出会っているのかもしれない。
彼女に浮かんでいる笑みは、先ほどまでの無邪気さとは違う……知っている者の、微笑みだ。
だから、つい、言ってしまった。
「だから、言っといてやる。その時の答えは、探しておいた方がいい。俺みたいに……諦めが、良いやつばかりじゃないからな」
「はい、ありがとうございま……え?」
まっすぐな視線から眼を背けながら、俺は言った。
「……どうやるのかは知らないから、まかせる」
「……ありがとうございます!」
少女が深々と頭を下げるのを見て、俺は恥ずかしくなり、わざとらしく声を上げた。
「しかし、せっかく目覚めたのに……俺は、消えるしかないってのか」
アイツも探しに行けず、自分の目標も叶えられず。
この、色気も技巧もない、真っ黒な単色に呑み込まれろと言うのか。
「冗談、じゃねぇ……!」
少女のために、無駄に消えるくらいならと納得はできるが……。
(せっかく目覚めたのに、なにもできないのも、くやしいな)
そう。さっきから俺は、どこか落ち着かない自分を感じていた。
アイツにも注意されていたくらいだから、態度や性格にクセがあるのは自覚していたが、今の俺は普段よりもさらにひどかった。
――この、暗闇のせいなのかもしれない。全てを否定するような、一面の闇。
幾千もの色や表現を用いて、俺は自分の内にある形を表現し、周囲の人々と歩んできた。俺は世界を表現し、世界は俺にさまざまな想像力を与えてくれた。
二本の腕と、十の指先。それらの先端で、俺は、たくさんのイメージを紡いできたんだ。
(だが、その世界は……もう、どこにもない)
俺がかつて、関わっていた世界。
それを否定するように、この世界の黒は、絶対性を押しつけてきている。
どうにもならない、そんな一方的な押しつけが、俺を焦らせるのかもしれなかった。
「あの……あなたは、なにをされていた方なんですか?」
少女が突然、そんなことを聞いてきた。
タイミング的に、昔のことを想い出していた時だったから、スキをつかれた感じだ。
「それを聞いて、どうするんだ?」
純粋に、そう想って問い返した。そんなことを聞いて、少女はどうしようというのか。
すると、少女は明るい笑顔を浮かべて、俺の問いに答えた。
「リンは、お話を聞きたいのです。出会った方達と、できるだけ」
お話。
その言葉の違和感に、俺は戸惑いながらも聞いてしまう。
「それは……なんでだ?」
だって――消える者達の話を聞いて、何の得がある?
そう想って聞いた俺に、少女は微笑みを浮かべたまま、返答した。
「はい。リンは、この暗闇の中で目を覚ましてから、この世界しか知らないからです」
明るく伝えられた内容は、だが、頭にしみるほどに聞き流せないものでもあった。
「なん、だって……?」
「ですから、みなさんのお話を、少しでも聞きたいのです。リンは……この暗闇でない世界を、もっと、知りたいのです♪」
「……」
俺は、黙ってしまった。答える言葉が、すぐに想い浮かべられなかった。
(あんなに、色と変化に満ちた景色を、か)
俺が過ごした世界を、少女は眼にしたことも、感じたことも、嗅いだこともないのだと言う。
「お話、か」
彼女の言葉から、俺は、自分ばかりを不幸だと感じていたのだと自覚する。
胸の内のざわつきが、少し落ち着いてきたことが、わかった。
「でも、勝手なお願いだというのも、知っています。ですから、無理にとは……」
少女はそう断りを入れてきたが、俺は無視して言った。
「イラストレーター」
「え?」
「イラスト……わかりやすく言うと、絵かな? それを描いて、生活している。言い方を代えるなら、絵描き、かな」
当たり障りのない言葉で、俺は自分の職業を説明した。
ネットや広告などで、いまや良く耳にする単語にもなっている、イラストレーター。
デフォルメしたキャラクターを描いたり、主体となる文にあわせた絵を描いたり、要望にあわせて多様なキャラを描きわける。
――それが、俺の主な仕事だった。
いろいろと細かい違いはあるのだが、絵描きと言えば、広義では合っているだろう。
そう想って、彼女の顔を見てみると――意外な表情が浮かんでいた。
「えに……いらすと、さん、ですか?」
両手の先を頭の上に当てて、悩む少女の姿。
きょとん、という表現が似合う少女の姿を見て、俺はためらいながら口を開く。
「もしかして……わからないのか?」
「はわわ、ごめんなさい~」
必死に謝る少女の姿に、俺は一つ息をつく。
絵やイラストという概念が、わからない。
その事実に戸惑いながら、どう説明したものかと頭をひねる。
「絵、っていうのは――そうだな」
説明をしようとして、俺は、口ごもった。
なぜなら、ここには説明するために必要な、被写体がまったくないからだ。
だから、闇の中で想像をこらしながら、俺は簡単に説明せざるをえなかった。
「眼に見えるものや、見えないものとか、そういったものを……描いた人の形に見えるように、紙などに刻みつけたもののことだ」
「……???」
少女の顔に、さらに怪訝な表情が浮かんだのが見てとれた。
実際、俺も自分で説明しながら、伝えられている自信はなかった。
両腕が、もどかしい。
この手に紙とペンがあれば、一瞬で伝えられるというのに。
周囲に眼を配るが、やはりそこには一面の闇ばかり――と、想っていたのだが。
「……ぁ」
足下に、ひっそりと置かれていたそれを持ち上げて、少女に向かって差し出す。
「具体的には、そうだな。……俺がお嬢ちゃんを、このスケッチブックに鉛筆で描けば、絵になるんだよ」
説明を理解してくれるのかはわからなかったが、少女は俺の説明に、驚きの声を上げる。
「ほええ~! そんなことが、できるんですか!?」
「できるできる」
「すごいです! イラストさん、すごいです!」
「イ、イラストさん……」
少女のネーミングセンスにちょっと汗をかきながら、俺は取りあげたスケッチブックと鉛筆を手元に置いた。
「……ん?」
一息つくと、俺は今更に、自分がつかんだ物に意識が向いた。
そしてそれが、かつての世界で見慣れたものだと、ようやく気づく。
(愛用していたスケッチブックと、鉛筆だ)
それらが一式、手元にそろっている。
「これは……俺の?」
「先ほどから、大切にされていましたね」
「最初から、あったのか?」
俺は、手元でスケッチブックと鉛筆を確認しながら、彼女に聞き返す。
最初からあったようには想えなかったが、うなずく少女の様子は、嘘をついているようには見えない。
(ぼーっとしていたのは、確かだけどな)
確認してみると、やっぱり、俺がよく使っているメーカーのものだ。だが新品のようで、中には真っ白の紙が並んでいるのみだった。
「残念だな。写生したスケッチが、見せられたかもしれないのに」
「すてっち?」
「スケッチだ、スケッチ。お嬢ちゃんが見たがっている、世界を描いたりした絵のこと、かな」
散歩がてら、周囲の景色などをスケッチしていたことを想い出す。
気の向くままに、想いのままに、少しばかり自分の気持ちをこめた、その時々の風景。
仕事ではない、自分のための時間は、とても落ち着くものだった。
「だが、これは確かに……俺の時間を、想い出させてくれるな」
スケッチブックの手触りと、鉛筆の感触。
俺は、心が落ち着くのを感じた。
あの世界にあった身近なものは、全て、この闇に塗りつぶされてしまったと想っていたからだ。
「ありがたいもんだな、見捨てられてないって、想えるのは」
「……よかったです」
「ん? なにがだ」
「イラストさん、とっても良いお顔をされていますよ」
少女に言われ、俺は口元を右手で隠してしまう。
そこで感じた指先で、ゆるんだ口元を確認する。
……仕方ないじゃないか、と考えつつ、そんな顔を知っているのはアイツだけでいいとも想ってしまう。
恥ずかしくなった俺は、一つ咳払いをして、スケッチブックを改めて開いた。
「じゃあ、これで絵を描いてみるか」
「わぁ、ほんとですか!」
心から嬉しそうな声を上げる少女の姿に、俺もつられて笑みを浮かべてしまう。
――本当に、明るく笑う少女だった。こんな闇の中には、もったいないくらいに。