ある絵師の届けもの - 01
――少なくとも、描くものに困ったことはない。
見えるもの全てが、魅力的で、不確実で、愛おしい。
それらの一瞬をとらえ、自分のイメージを練り込み、白い空間に映し出す。
写真によく似た、けれども、こちらの方が何千年も先輩である技術。
……俺は、好きだった。
無心になりながら、自分にとっての世界を、描き続けることが。
だから、そんな時間が終わってしまう可能性なんて、考えたこともなかった。
……俺と、俺の世界を見てくれる幸せが、常にいてくれること。
大切な人と場所が、途切れることがないのだと、なぜか信じこんでしまっていた。
――それが奇跡なのだと、忘れてしまうくらいに。
「おはようございます!」
「お、おはよう……」
うすぼやけた頭で、聞こえてきた声に答えかえす。
……ひどい悪夢を見て起きたときのような、気だるさ。
(こんな目覚めは、久しぶりだ)
徹夜をした時ですら、めったにない感覚に、気持ちが沈み込む。
必死に身体の重さをとろうとするけれど、頭や視界と同様、ずっとぼんやりしたまま。
「え、っと……君は……」
それでも、かすむ視界で眼の前の相手に話しかける。
……おそらく、人であろう、そのぼんやりした姿に。
「はい、リンの名前はリンといいます♪」
「リン……?」
聞いたことのない名前に、聞き覚えのない声。
声の感じからは、まだ幼いような感じも受けるが……よく、わからない。
(少なくとも、違うな)
俺がよく呼んでいた、アイツの名前ではない。
ぼやけた頭だったが、それははっきりと想い出せる。
「俺は……眠って、いたのか」
一人呟いて、次第にはっきりしていく視界で周囲を見やる。
眼の前には、小さな明かり。ぼんやりと、眼の前の姿を半分照らすくらいの、ほんのちっぽけなもの。
(……懐かしいもの、持ってんなぁ)
明かりの元は、眼の前の少女が持つマッチの光らしかった。
――ずっと持ってるみたいだが、熱くないのか?
怪訝に想いながら、薄暗い視界のなかで、少女に眼を向ける。
暗闇の中で淡く浮かぶ少女の姿は、どこか時代錯誤的だった。言うなれば、ゲームやアニメに登場する街の少女というか、地味なのにどこか目立つ不思議な格好をしていた。
「いいデザインだな……」
地味ながらも、全身をやわらかく包む衣装デザインは悪くない。むしろその大人しさは、柔らかい色彩と相まって、見る者にとって惹きつけられもするだろう。
軽い吐息をして、感心する俺に。
「ほえ、どうかされましたか?」
「……いや、なんでもない。独り言だよ」
つい、職業病が出てしまった。
過去の依頼で、少女のようなキャラクターデザインをしたこともあったから、つい分析するような眼で見てしまった。
そんな俺から見ても、彼女は愛らしく映る、魅力的な姿をしていた。
「……って、生身の人間じゃねーか」
「???」
怪訝な顔をされてしまった。
――いかん、ちょっと疲れているのか。仕事のしすぎか。
「ああ、ごめんな。お嬢ちゃん、俺を起こしてくれたのかい?」
そうだ、と俺はふと想う。
もしかするとこの子は、疲れて寝ている俺を、起こしにきたのかもしれない。アイツがそんなドッキリをするとは想えないので、もしかしたら別の……。
――そこまで考えた俺の推測を、少女は、ある一言で切り落とした。
「はい。スーさんの光で、あなたの姿を照らしてます!」
「……スーさん?」
今度は、俺が怪訝な顔をする番だった。
スーさん。まるで、人やペットにつける名前のような、そんな響き。
(どこにも、そんな形はなさそうだけどな……?)
彼女が言うスーさんとは、いったい、なんなのだろうか。
「えっと、その……スーさん? ってのは、どこにいるんだい」
結局わからず、少女に問いかけてみると。
「こちらですよ~、スーさんです!」
「……いや、マッチだろ」
少女が手元を勢いよく突きだしてきたので、俺は想わず身を引いてしまった。
だって……仕方ないだろう。マッチの炎を人に向かって突き出してくるなんて、危ないことこの上ないじゃないか。
身を退きながら否定した俺に、少女は少しだけ眉をよせて、怒ったように言葉を続けた。
「違いますよ、スーさんはスーさんなんですよ~」
(スーさん……マッチが、か?)
頬を膨らませて怒る少女は、とても愛らしい。真剣にマッチへ肩入れしている姿は、ちょっと不安にもなるが。
「……まぁ、起こしてくれて、助かったよ」
ひとまず、スーさん? のことは、置いておくことにする。少女がマッチの光をなぜそう呼ぶのか、まったく読めないためだ。
今、先に考えなきゃならないのは……いったい、今が何時で、何日なのか。
(スケジュール管理も、仕事のうちだってのにな)
自今管理がなっていないから、こうなる。自分を責めながらも、眼と頭のかすれを消すことも忘れない。
(よし。もう、いいか)
心の中で頷いて、よいしょ、とオヤジ臭い声を上げながら両足で立とうとする。
「あ……!」
――それは、驚きに満ちた彼女の声と、同時だった。
――俺の頭部と首筋を、ナニカが撫でていったのは。
「ぅ、わっ……!?」
想わず驚きの声を上げて身を屈め、両膝を地につけてしまう。
すると――ずるり――と音がするような、妙な感触。
(音がしたわけでも、ないのに)
頭と首から何かが剥がれるような感触は、薄気味悪いもので。
「あ……はぁ……?」
不安を吐き出すような、俺の呟きに。
「すみません、リンが屈んでいたばっかりに」
謝るように、優しく語りかける少女。
手元の光が俺の顔に当たるように、手を伸ばしてくれていた。
まるで、今ナニカになでられた首元を、暖めてくれるかのように。
少し背伸びしたような彼女の仕草と、慌てたような顔が、ぼんやりした俺の意識に染み込んでくる。
「あのあの、あなたの背がちょっと高いので、リンもスーさんも光が届かなくて。ごめんなさい」
「いや……。なんで、君が謝る?」
二度も謝られて、逆にこちらが罪悪感を感じてしまう。
「でも、スーさんが当たらないと、彼らはあなたを元に戻そうとするのです」
「かれ、ら?」
少女の言葉が、なにを指しているのか。
――気づきながら呟いた俺の背中に、また、不気味な感触が走る。
「はい」
少女の瞳を見返してから、俺は、彼女の背後へ視線を向ける。
――なぜ、今、こんな暗闇の世界にいるんだ。
(寝る時間を間違えたか?)
周囲を見回しても、星の輝きは空に見えず、街の灯りが点いている様子もない。
では、夜じゃないのか……とも想うが、陽の光がないのもおかしい。
この暗闇は、いったい、何なのだろうか。
(耳も、おかしくなっちまったのか)
動くものの気配もない、とても静かな世界。それだけが、ずっと広がっているように感じられてくる。
俺の視界に見える、べったりと塗り込められた、純色の黒。
隠蔽色としては申し分のない、あらゆるものを覆い隠すことのできる、純粋な一色だけが満ちる世界。
(俺は……この理由を、知っているような気がする)
――少しだけ、頭がはっきりしてきたような気がする。
自分が起きる前、最後になにをしていたかを考える。
確か、自室にいて……いつもどおり、仕事をしていたはずだ。画材やメモ、パソコンに資料、伝票やウェブカメラなどの仕事道具が満ちているはずの、俺の仕事机。
だが周囲には……何一つ、見あたらない。俺の仕事を支えるそれらや、衣服。食事のアトや、飲みかけたペットボトルも、なにもかも存在しない。
「……アイツは」
そして、今更ながらに自分のことを想い出し、気づく。
想い出して、自分に対して、怒りがわいてくる。
――今の今まで、アイツの存在を忘れていたことに。
「おい、あんた。アイツを……いや、女性だ。こう、大人の女性を、見なかったか!?」
「ほ、ほえ……」
詰め寄るような俺の言葉に戸惑うようにしながらも、少女はゆっくりと口を開く。
「すみません。リンはあなた以外、ここでは見ていないのです」
「あ、あぁ……すまない」
つい、強い語調で言ってしまったためか、少女が驚いてしまっている。
だが、俺は胸のざわつきを抑えることが、できなかった。
なぜなら、俺の人生で天秤にかけるほどの大切な物が、何一つ見あたらないのだから。
「こうしてはいられない。探しに、行かなきゃ」
「探しに、ですか?」
「ああ、お嬢ちゃんには申し訳ないが、この……」
言いながら、背中の方へ振り返る。
そして、俺は――立ち尽くした。
なぜなら、そこに広がっていたのは。
(夜、じゃない。なんだ、これ……!?)
光の全くない、一面の闇だけ。
それに加え、俺は感じていた。
この闇の中に、さきほど俺をつかんだ、正体のわからないナニカが潜んでいることを。
「スーさんの光に、当たってください」
少女の声に導かれるように、ゆっくりと身体を元へ戻す。
彼女の手元の光に当たると、なぜか、身体が安心を感じているのがわかった。……気のせいなのかもしれないが、身体が冷えているような気がする。その理由が暗闇のせいなのかどうか、俺には、わからなかった。
「これは……なんなんだ? どうして、こんな」
呟いて、俺は記憶を振り返る。
――少しして、想い出した。
あの、突然に始まった恐怖を。
闇がただ世界を覆い、塗りつぶしていった日のことを。