あるOLの淡い想い - 03(完)
「会社の窓から見える、黒い雲がね……すごかった、のよ」
周囲の皆は驚き、携帯で写真を撮り、次第にどうしようもないと知って絶叫し始めた。
――混乱が、世界を占めていた。わたしの周囲では、そうだった。
「……でも、ね。わたしは、それでもいいか、と考えていたの」
ここで終わりか、と冷めた心で、遠い闇を見つめていた。
先行きが見えない仕事。
その仕事に身を費やした人生。
適齢期を過ぎた身。
周囲は円満の笑みで満ち。
わたしは、独り、残されてしまった。
――あの日、世界は闇に包まれていった。
だから、闇はわたしを誘いにきたのだろうかと、自虐的に受け止めていたことも想い出した。
だから、近づいてくる闇を、受け入れようかと想っていた。
……その、はずだったのに。
「わたしは、けれど、逃げたの」
闇に呑まれることが、死へとつながるのか。
それは、誰にもわからなかった。それがなんなのか、知ることも研究することもできないままに、世界が呑まれていったからだ。
――けれど、死かもしれない、という感覚を受け入れるように、人はなかなか成れないと知った。それには、相応の強さが必要だと、今なら想える。
(……全然、わりきれて、いなかったのよね)
自分を哀れむ程度のわたしには、闇から逃げる程度の強さしか、なかったのだ。
そんなわたしは、もちろん、闇から逃げられるはずがなかった。
なのに――手が、差し伸べられた。
「逃げる途中で、そう。……彼が、助けてくれたの」
今でも、はっきりと想い出せる。
しっかりと握りしめてくれた、彼の腕の温もり。
力強い言葉に支えられ。
抱き上げ、上階へと逃がしてくれた、たくましい身体と。
――するりと抜け落ちていった、彼の腕の温もりを。
闇に包まれ、逃げ続けていた、わたしと彼。
彼は、わたしと仕事をすることも多かった、よくできた後輩。
失敗もしたけれど、わたしの言うことを良く聞いてくれて、しっかりと成長してくれた、大切な子だった。
「……彼、どうしてか逃げてる途中……こんなことを言ったのよ」
――先輩、今だからいいますけど……。
――笑った顔が、とても、好きなんです。
その言葉の意味が、あの恐怖のなかで、まったくわからなかったけれど。
「想い出せば……彼は、そうだった。いつも、わたしの笑顔を、褒めてくれていたのよね」
ほのかに灯る、淡い想い出。
彼が、わたしをどう想っていたのか。
もうわかることはないのだろうけれど。
――少なくともわたしの胸に灯るこの想いは、この闇の中で消えてほしくはないと、そう想えた。
「……想い出して、いただけたんですね」
語り終えたわたしに、暖かい声を少女がかけてくれる。
そして、今度はその言葉の意味が、なんとなくわたしにも察することができた。
「……わたし自身が、光っている?」
周囲を満たす光が、さきほどより、とても強い。
少女が持つマッチの光より、むしろ輝いているくらいに想えた。
そしてその発生源は、他でもない――わたし自身、だった。わたしの内から、闇に負けないような光が、溢れ出ているのだ。
「わぁ、とてもきれいです! 純粋で、きれいな、光……」
わたしを見つめる少女の姿が、さっきよりもはっきり見える。
全身を時代がかった服装でまとめたその姿は、やっぱり、おとぎ話に出てくる外国の少女のようだった。
そして、優しい瞳でわたしを見つめる彼女の姿は、さきほどよりもどこか落ち着いたものに感じられた。
それは――今から口を開こうとする、大人びた表情のせいでも、あるのだろうか。
「……ごめんなさい、お話があるんです」
「お話?」
さきほどまで明るい表情を浮かべていた少女に、影が差した。
その落差に、わたしの胸が重くなる。
――そして語られた、彼女のお話。
――それは、わたしにとって、とても重い話だった。
「あなたの光は、このままだと、また闇に飲まれてしまうんです。ずっと、輝いていられるものじゃなくて」
「なん、ですって?」
突然語られる言葉を、否定したくなったけれど。――彼女が嘘をつけない性格なんだと、わたしはもう、知ってしまっていた。
「でも、あのままだと、消えてしまいそうだったから……」
「消えそう……あぁ……」
わたしには、彼女の言葉に想い当たることがあった。
それは、彼がこの闇に沈んでしまったと考え、心が落ち込んだ時だった。あの時のわたしは、眼の前がかすれ、ひどく重い心地を感じていた。確かに、消えてしまいそうな、そんな気持ちだったのかもしれない。
……あの時、わたしという存在が弱くなっていたから、彼女は声を出したのだろうか。
少女は言いにくそうに、言葉を続ける。
「それと……あなたを照らすスーさんの光も、いつか、消えちゃうものなんです」
「消えて、しまう? その、マッチの、光が……」
むしろマッチだと考えれば、それが当たり前。
今まで、ずっと輝き続けている方が、異常ではあるのだが……。
(……じゃあ、マッチでは、ないのね)
ここまできたら、わたしは認めざるを得なかった。
――でも、疑問はある。
それでは少女は、この闇の中をどうやって歩いてきたというのだろうか。
いつ消えてもおかしくない、か細い光に寄り添いながら、彼女はこの闇しかない世界をただ歩いてきたというのだろうか。
マッチのような存在である光と、心中する気なのか。
そう考えていると、彼女はその答えを話してくれるために、口を開いた。
「だから……お話です」
少女は、一瞬口を閉じてから、再び言葉をつむいだ。
迷いのない瞳を、わたしの視線に合わせて。
「あなたの光を、スーさんにください」
「……え?」
少女の言葉の意味が、わたしには把握できない。
慣れているのか、少女はスーさんと呼ばれる光をわたしに向けながら、説明を始めた。
「スーさんは、あなたの光と同じなんです。だから、スーさんも、いつか消えてしまう」
「闇に呑まれて、しまう?」
「はい」
「……それで、どうしてわたしの光が?」
すっと、少女はわたしへと光を近づける。
すると――わたしの光が、スーさんと呼ばれる光に惹かれるように道を造り、流れていくのが見えた。
「……なるほど、ね」
「はい。スーさんには……みなさんの光を、取りこむことができるんです」
マッチの光へ、吸われるように移動する、わたしの光。
煙のように流れるそれを確認しながら、わたしの心は、なぜか落ち着いていた。
「こうして、旅を続けているの?」
「はい」
「わたし達の、残り香を灯しながら?」
「……はい」
神妙な少女の表情は、さっきまでの明るさと比べるには、とても大人びていて。
――あぁ。この子は何度もこんなことを繰り返して。
――それでもああして、笑っていようとしているのだと気づいて。
(……そんなに、誰かに対して優しく、したことがあっただろうか)
わたしは、過去の自虐的な自分を想い返しながら、そんなことを考える。
そして、眼の前の少女へ語る言葉もまた、心の中で考えて。
ゆっくり、そんな少女のように微笑むために、優しく口を開いた。
「あなたとともに、旅へ出れば……彼にもう一度、会えるのかしらね」
わたしの想いつきに、彼女は首を左右にふった。
「ごめんなさい。お約束は、できないです」
「いいのよ。そう、願いたいだけなの」
どちらにしろ、この闇に飲まれて、ただ消えるだけならば。
――少女を照らす光になるのも、悪くない終わりなのかもしれない。
(闇に潰されてしまった想いを、照らしてくれたから……ね)
わたしは微笑んで、少女に言った。
「大切に使ってね。わたしの、光を」
「……!」
少女の表情に、輝きが戻った。
最初に見たときと同じ、満面の微笑みだ。
――やっぱり、彼女には笑顔が似合う。
「もちろんです! あなたの光で、あなたの彼を探します! それに……わたしもスーさんも、旅を続けます。みなさんの、ために……!」
「そう。よかったわ」
「ありがとうございます!」
お礼を述べると少女は、手元の光をわたしへと近づける。
「よろしくね、ええと……スーさん」
「ありがとうって、スーさんも言ってます」
少女は、わたしからの光を受け取りながら、わたしへと話しかけるのを続けてくれた。
けれど、わたしの意識は――光とともに、少しずつ曖昧になっていった。
「同じ言葉ばかりで、ごめんなさい……。でも、本当に、ありがとうございます」
少女の言葉が、遠くになっていく。
……まるで、壁や距離があるかのような、薄い声に。
「だから、祈っていてほしいんです。リンとスーさんは、きっと、見つけますから」
なにを?
……その言葉を生む力も、もう、口元には残っていなくて。
だから、彼女の想いを聞くために、最後の力をふりしぼる。
「――見つけます。『永遠の光』、きっと、絶対です!」
彼女の言葉がなにを指しているのか、わたしにはさっぱりわからなかったけれど。
――この胸に暖かさを灯してくれた彼女には、それを見つけてほしいと願った。
『――ありがとう』
……最後に聞こえた声は、彼女のものか、それとも……。
***
『……ふむ』
かすかに意識を灯していた部分を含め、闇に眠らされていた彼女の光は、私のなかへと移り住んだ。
ここまで素直に同意してもらい、しかも希望も持っている。
私は、自身のなかの光が、暖かく灯るのを感じていた。
彼女の光は、とても強い。
長い時間を、ともに歩むことができるだろう。
「……あの方の光、とても、きれいでしたね」
かすかな笑みを浮かべながら、少女――リンは、私へ問いかける。
彼女の言うとおり、受け入れた光は、とても上品で美しいものだった。
リンの言葉を受け、私は内心へと想いを馳せる。
ゆっくり、優しく、穏やかに、さきほど吸ったばかりの彼女の光を、味わい巡る。
『とても新鮮で、輝いている。しばらくはこの光で、旅を続けられそうだ』
「それは、よかったです」
リンの安心する表情を見て、私の心と光も、一安心する。
――私は、スーと呼ばれている。
この闇の世界で、リンの姿を彼女として照らすことができる、唯一の存在だ。
リンの手にある、マッチ棒。
その先端から光を放っているのが、私という、意識をもつ光なのだ。
「さあ、スーさん。旅を続けましょう」
ゆっくりと手元へ私を持っていきながら、リンはそう語りかけてくる。
「スーさんのためにも、みんなのためにも、『永遠の光』を見つけないと!」
『ああ。……そうだな』
ちなみに、私の声は闇の世界に響くことはない。
私が鳴らす声は、私の支え棒を持っている、リンにのみ聞こえるだけだ。
『……『永遠の光』、か』
「そうです! どんな場所、なんでしょうね」
想像しているのか、どこか想いふけるような様子のリンを見ながら、私は言葉の意味を考える。
――『永遠の光』。
それが、私とリンが目指している、あるかもわからない理想の場所。
「この暗闇を全部払ってくれるのは、間違いないですよね。あ、もしかすると、スーさんみたいな光がいっぱいいてくれるのかも。そうすれば、スーさんもお話相手に、困りませんよね」
リンの無邪気な笑顔は、その理想を信じて疑っていない。
私も、心のなかで彼女にうなずきながら、しかし怪訝な気持ちで考えてもしまう。
――単語以上のことを、リンも私も、まったく知らない。
――むしろ、その場所が本当にあるのかさえ、わからない。
私とリンがはじめて出会った時から、それは変わらない。
どこにあるのか、今もあるのか、そもそもそれがなんなのか。
私達は言葉を知りつつも、それがなにを指すのかを、まったく知ってはいなかった。
「元気出していきましょう、スーさん!」
リンの元気な声が、私にかけられる。
長い付き合いとなってきた彼女には、私が無口になる理由を悟られてきているらしい。
……注意しなければならないな。
『ああ、すまない。確かに、早く見つけなければな』
「はい! 『永遠の光』があれば、みんないっぱいになって、光でいっぱいになります。スーさんも、もう消えそうにならなくてすみますし……みなさんも、闇に怯えなくて、よくなるんですから」
リンの言葉に、私はその身を輝かせながら言う。
内にとりこんだ彼女の光は、しっかりと根付いて、安定してくれたようだった。
『準備はいいか、リン?』
「はい! あぁ、早く見つからないかなぁ、『永遠の光』……」
――スーと呼ばれる私は、気づいている。
謎の暗闇によって閉ざされてしまった、この世界。
ここは、人間や様々な生命が住んでいた、色鮮やかな世界だった。
――かつての世界の残り香を探し、吸収し、燃やしながら旅を続ける。
――私達は、かつての世界とも、今の世界とも相容れない、狭間の存在だ。
私は、ふと、この身の灯火に考えをはせる。
リンと自分の存在こそが、本当はイレギュラーなのではないか。
わずかに残った光を食い尽くしていく自分たちこそが、本当の暗闇なのではないかと。
……そう、自問してしまう時がある。
『――リンは、本当に『永遠の光』を見つけたいのだな』
「もちろんです! スーさんだって、そうですよね?」
『そう、そうだな……』
私は、リンの言葉にうなずきながら、今も光を絶やさない理由を想い出す。
――世界が闇に喰われ、光が射さないと知った時、私の心は闇に包まれそうになった。
ふみとどまり、旅を続けても、私の光は有限であることを知り、消えそうになったこともある。
その途中で、リンが見つけた同胞の光を奪い、苦悩することもあった。
そんな私が、今でも彼女と旅を続けるのは、なぜなのか。
「世界が照らされれば……ずっと、みなさんとお話できます。わたしは、そんな光のある場所に、行ってみたいです」
彼女は、本当は、出会った全てを照らしたいのだろう。
しかしそれは、自分にも私にもできないのだと知って、この闇を歩くことを決めている。
動けない私のために、リンは微笑みながら、前を歩き続けるのだ。
――全てを照らせる光の存在が、どこかにあると信じて。
『では、行こう。我々だけではない、みなを照らす存在を求めて』
そんなリンのために、わたしは、その身を輝かせる。
熱くもなく、冷たくもなく、燃えることもない。
ただ、闇を払うだけの光として――私は、今日も魂を灯らせる。
「はい、行きましょうスーさん!」
そして、私の輝きで――彼女の笑顔も、また灯るのだ。
――暗闇が満ちる世界のなか、わずかな目覚めを消灯へと導く、かすかな光。
――狭間をさまよう存在を知るのは、その光を持つ少女と、光を喰らうその光自身の意志。
我々は、今を歩く。
かすかな光がつなぐと信じる、果てのない闇の道を。