六十三柱目 ブラッディフェスタ
「テロぉ? ホーリ・リードで?」
「ああ、それでこっちに応援を求めている。どうする?」
「どうするって言ったって……」
ベッドで身を起こし、手触りの良い肉を手の平でこねくり回して弄びながらブッキーの連絡を聞いている。
「まあ、やるしかないわな。一応同盟もあるし」
「それにしても……馴染んだなレクト」
「んー、まあさすがにな。というか触り心地が良すぎるんだよこれ。これは魅了されないわけが無い」
どっぷりとした重量感とふわりとした膨らみ、軽い力で容易に指が沈み込む柔らかさ。
こうして捏ねているだけで、見る見るうちに燃え尽きたはずの情欲が再び熱を取り戻していくのを感じる。
「……仕事の前に、もう少し楽しんでおくか」
「私の仕事は済んだ。戻る」
「ブッキーもたまにはどう?」
「……良い性格になったな。いろんな意味で」
そう言うと、ブッキーは退室してしまった。
やはり胸が小さいのがコンプレックスなのだろうか。気にすることは無いというのに。
引き篭もり特有の白い肌、小さく形の整った尻は何よりも愛らしい個性だというのに。
さて、今は目の前の大物を集中的に堪能するとしよう。
すやすやと寝ているのがまた愛らしい魔女の、その豊かな果実を。
シッポリスッキリした後、俺はホーリー・リードへと派遣するためのメンバーを募ることにした。
適当に報酬を用意し、傭兵を複数人。
レクスに用件を伝えると、喜んでドゥルガーと共に参加すると返事が来た。
あとは黒の太陽から戦士を数名引き抜いて
「テロの内容はこうだ。走行中の列車を爆破し、物資を強奪、乗客のうち数名が殺害、拉致される。一人が正教の名の下に主に食糧などを持っていったらしい。その後は救援に来た兵士を狙撃で次々と殺していった」
「狙撃、というとやはり過激派のアレでしょうか」
「レクスと戦った時に乱入してきたもう一人か。面倒な相手だ」
「私たちと一緒の暇を持て余しているんだろうさ。でも私たちなら造作も無くぶっ飛ばせるぜ?」
「まー、そりゃそうなんだけどな。向こうから来るならまだしも、これ絶対おびき寄せられてるだろ」
ガタンゴトン、列車は未だに封鎖中の区間へと進んでいく。
「乗客には手を出さずとも、来る救援は皆殺し。食料もしこたま奪われて時間的余裕も無い。明らかにこっちを誘ってる。目当ては俺たちなのか、もしかしたらこれすら時間稼ぎかも……あー考えるのめんどくさい」
「いい感じに怠惰だな。まあ気軽に臨んで、手軽に収めちまおうぜ。私だって仕事なんてする柄じゃないしな」
ガタンゴトン。揺れる列車に揺られながら、ふと強い衝撃が体を浮かす。
俺だけでなく、正面に座るリムル、横に座るリステアも浮いている。
ああ、そうか。つまりこれは……脱線だ。
ぐるりと回る車内の中で、咄嗟にリステアを頭から抱き締める。
そのまま椅子や天井でステップを踏んで、なんとか地面と平行を保った。
結局、天井が下にくる形で列車の回転は止まった。
「リステア、大丈夫か?」
「はい、おかげさまで」
「見せ付けてくれるなぁ」
リムルの恨めしそうな言葉に苦笑で応えて、窓を開けて外へと出る。
「とりあえず件の狙撃には注意して……っと!」
思わず手が反応して、飛んできた何かを掴んだ。
棒状の感触、見ればそれは一本の矢だった。
「弾丸じゃない……報告には狙撃ってあったよな」
「はい、報告書には発砲音もあったと」
「やっぱ囮か……?」
万里に続くかのような壁には見事に穴があいている。
状況からしてロケット弾でも打ち込まれたように見えるが、ではどうして銃弾ではなく矢が……。
「敵から聞けば分かることさ!」
「あっ、リムル!」
リムルが単騎で飛び出してしまった。
矢が飛んできた方向、即ち穴の空いた壁の向こうにある雑木林に。
「……とりあえず、待つか」
「よろしいんですか? 手伝わなくて」
「よくよく考えてみれば、王様って自ら動くようなもんじゃないしな」
リムルが雑木林に突っ込んでから、15分くらい経ったか。
聞こえてくる小鳥の声と、優しく頬を撫でる風が、世の平和さを語りかけてくれるようだ。
リムルのハッスルした声さえなければだが。
「結構かかってるな。手伝ったほうがいいのか?」
「悪魔が死なないというのであれば、声が聞こえている限り問題ないのでは……」
「それもそうか」
なんてことを話しているうちに、雑木林から何かが出てきた。
それは全身を真っ赤に染めて、右手になんぞ人型を引きずる小悪魔の姿だった。
「あー、暴れた暴れた。っていうか少しは手伝えよな!」
「トマト祭かよ」
「どっちかというと血祭り? いや、思った以上に脆くてな。一人しか生け捕り出来なかった」
さっきからピクリとも動かないが、どうやら生きているらしい。
「確かに外傷はないけど、ショック死でもしたんじゃないか? 死体なら埋葬してやらないと」
「い、生きてる! 生きてるから埋めるのは勘弁してくれ!」
正教の残党と言う割にはすぐに根を上げた男から話を聞く。
どうやら今の正教は過激派の集まりと、そいつらに脅されて泣く泣く従わされている不憫な奴等で構成された組織らしい。
とはいえ過激派はぶっ飛んでいるとはいえ、戦闘能力の高い奴は数えるほどしかおらず、こいつらもただの人手らしい。
「そうか、リムルが殺してしまった奴らの中にもそういう不憫な奴も混じっていたんだろう」
「まあしょうがないだろ。敵だし。こっちに矛を向けといてそりゃあないぜ?」
それもそうだ。万が一リステアに傷を付けられたら俺でも皆殺しにしたくなるかもしれないし。
まあ、それはいい。今は目的を知るのが先決だ。
「目的……異教徒を殺すってことだけしか」
「異教徒を殺すって……いや、まさか」
「本当だ。あいつらはもう壊れてやがる。自分達が殺されるまで、少しでも異教徒を殺しつくすこと。それがあいつらが生きる理由なんだ。列車の奴らを拉致したのも、そのための人手を補充するためで……」
「まったく、惚れ惚れするくらいクレイジーだな。ってことは何? 救援を皆殺しにしたのも、俺たちをおびき寄せるとかそういうんじゃないの?」
「お、俺たちは異教徒を殺すってことしか聞かされてないんだ。頼む、もう俺は何もしないから見逃してくれ」
「じゃあアダマスとかがどこに居るのかも知らないのか? 銃器の扱いが得意の奴の居場所とか」
「そうだ。列車で拉致された奴等ももうここにはいない。どっか連れてかれちまった」
「……そういうことか。虫かよあいつらは」
つまり、ここに居たやつらは全員捨て駒だったというわけだ。
一定の人数さえ殺せればいい。弾や矢をつかいきるか。全員死ぬかしたらそれで終わり。
人を拉致して人手を増やして、次の襲撃の準備が出来るまでの時間稼ぎになれば御の字と。
「分かった。お前はもう列車の奴等と合流しろ。もう少ししたら救援が来るからそれまで待ってろ」
「あ、ああ! 本当にありがとう! 名前を聞いてもいいか?」
「俺はレクト、そっちの血塗れはリムル。こっちの銀色の女神はクリスティア・ミステアだ。さっさと行ってくれ」
何度も何度もお礼の言葉を繰り返した後、男は乗客が残る列車の方へ線路に沿って歩いて行く。
俺たちは救援が来るまでの見張りをして、到着と同時にお暇させてもらった。
とりあえず作業完了の報告とかするために、エリザの元を訪れた。
「つまり、あいつらの目的は最終的に俺たちを皆殺しにすることだ」
「なるほど……思った以上に根にもたれているということですわね」
「いっそ掃討しては? これ以上被害が出るのを看過しても」
リステアの言うことがもっとも理想的ではある。
だが、今どこに居るかも分からない奴らを探し出すのも面倒だし手間だ。魔境は統率が取れる奴らの集まりではないし。
下手にホーリー・リードと合同で動くとこっちのやつらが迷惑をかけそうだ。
「どうするかなぁ」
「相棒、ここは参謀に相談してみるか?」
「それもそうか。ここは知恵を借りる」
「参謀……羨ましいですね。こちらにも参謀が居れば」
「参謀っていっても悪魔だぞ? 魔の手を借りたいか?」
苦笑するエリザを他所に、リュックサックから本を取り出す。
「というわけでブッキー、何か案ない?」
「魔境側としてはWANTED扱いでいいだろう。賞金稼ぎ志願者が血眼になって探してくれる。そっちでも賞金稼ぎを募ればいいだろう」
「こちらでは賞金稼ぎを認めていないので……急遽募っても集まるかどうか」
「まあ、元正教ではそうだろうな。だからそうして悪い物を溜め込む」
エリザは言い返す気も無いらしい。
ブッキーも余計なことを言わないでほしい。気まずくなるから。
「ふむ、となると……そうだな。そっちで雇ってもらうしかない」
「こちらで雇う、とは?」
「お前達が賞金を出し、こちらの賞金稼ぎを雇う。お前たちは守りを固めている間、魔境側の賞金稼ぎが正教残党を駆逐する」
「でも、同盟の内容は互いに不可侵だと……」
「残党の存在は互いにとって不利益だ。共同作業の条件としては妥協点だろう。そちらとて、残党から被害を受けただろう。民の納得も得やすいはずだ」
「なるほど……では、それで行きましょう」
どうやら決まったらしい。
そろそろ飽きてきた。帰りたいと思っていたところだ。
「詳細は金の面もあるのでクロも交えて決める。そちらはせいぜい金を積んでおくことだ」
「ええ、お願いします」
「いいんですかエリザ。国庫に余裕がないのでしたらそう伝えた方が」
「ありがとうリスティ。でも心配は要りませんわ。私の国の民草は、誰もが誇り高く、優しい心の持ち主なんですもの! 自慢の民ですわ!」
エリザは相変わらずだった。
怯え竦む者を慰め、勇ましく戦う者を讃え、励み務める者を富ませ、貧し飢える者を守る。
王でありながら、自分も皆のうちの一人なのだと、親身に寄り添い、統率し引率する。
「というわけでレクト、もう少し付き合ってくださいな」
「えぇ……」
「レクト、私からもお願いします」
「分かった。いくらでも付き合ってやる」
というわけで正教残党血祭り祭、通称ブラッディフェスタ開催。
雑木林に潜伏していたこともあって、森を重点的に探すことになった。
ガルゥ率いる野生動物や魔物の類さえも捜索に加わっているため、密林の中にはもう隠れる場所はないはずだ。
空からの捜索は鳥類。クロが光物の王冠や空き缶のプルタブで鳥類を買収した。
これに加え、魔境でも指名手配とし、報酬を用意すると傭兵の類が面白いくらいに食いついた。
物好きな連中だが、血生臭い匂いのあるところが好きな連中なのだから仕方ない。
そういうズレた奴のための魔境なのだから。
指名手配は残党全員。一人につき3000の歩合制。
特にアダマスを仕留めた場合は3000万と額が跳ね上がる。
逆に人質や拉致被害者を殺すとマイナス1万。さすがに相手が攻撃してこない場合に限るが、その辺りは慎重にやってもらいたいところだ。
「特にレクスは張り切ってた。すぐに見つかるだろう。その間、俺たちはこっちで優雅に待たせてもらう」
「魔境に戻らなくても大丈夫なのでしょうか」
「別に問題ない。あそこには重要なものってのが何一つ存在しないからな」
魔境における重要なものなんて、せいぜい俺。もっと言えば俺にとってはリステアだけだ。
悪魔は基本的に死なないし、邪教の奴等も上手くやるだろうし、こっちが手間をかける必要は無い。
「俺たちはこうやってシャレオツなカフェで上手いコーヒーを飲みながら、優雅に進展を待つのさ」
「なるほど」
「相棒は本当に怠惰だな」
「褒め言葉として受け取っておく」
そうしてしばらく過ごし、数日が経過した。
「暇だなぁ。何もしたくないけど」
「でも、ほら、溜まってんだろ? 久々に私のプリケツに欲情してもいいんだぞ相棒?」
「いつ動かないといけないのか分からないのに、無駄に体力を使わせようとするな」
「怠惰って他の欲望に対する耐性が高いから厄介だな」
「番長ー! どこっすか番長ー!」
ふと鴉の声が聞こえたので、俺は支払いを済ませて店の外に出る。
空を見上げれば、ぐるぐると円を描く様に飛び回るクロの姿があった。
「おーいクロ、こっちこっち!」
「あっ、番長! 大変ッす、ヤベェッすよ!」
「報告は簡潔に、短く分かりやすく、主要から順番に区切って言えって言ってるだろ。どう大変だってー?」
「港町の方がアイツラに占拠されたっす! 人質を盾にして聖女クリスティアを引き渡せって言ってるッす!」
「……はーッ!?」
港町。そうか、港町か。
そういえばそっちのことすっかり忘れてたな。エリザがなんか上手くやってくれてるものかと思ってた。
「分かったー! お前は傭兵どもをそっちに集めてくれー。俺も港町に向かうからー!」
「わーかったっすー!」
飛んでいくクロを見送って、俺はリムルの方を見る。
「お前はエリザにこのことを伝えてくれ。俺はリステアと一緒に港町まで行く」
「粗品でも添えて送り出すのか?」
「送り出さねえよ。あそこだってこっちのモンが誰も居ないってわけじゃない。なんとかなる」
「あいよ。気ぃつけて」
「お前こそ、知らない人について行っちゃダメだぞ」
「私は子供か!」
見た目は子供だろうに、と思いながら、微笑むリムルに釣られて笑ってしまった。
「じゃ、また後で」
「おう!」
俺はリムルと別れて、リステアと共に駅に向かい、列車に乗り込んだ。
おそらく手前で封鎖されてるかしてるのかもしれないが、徒歩や馬車より断然速い。
途中、まだ修理されてない壁や脱線したままの列車を通り過ぎて、呆気なく港町の駅に到着した。
「封鎖もされてない。占領されてんのは町の一角なのか?」
「……いいえ、どうやら誘い込まれたようです」
列車の扉が開くと、同時に数人の武装した兵士が乗り込んできた。
肉厚な剣が座席を切り裂き、頑強な盾が窓をぶち破る。
「全員、我々正教が身柄を拘束させてもらう! 抵抗さえしなければ基本的に危害は加えない!」
「うわ、ずるっ。基本的って……」
「ん? ってぇ!? せ、聖女クリスティアがいる!?」
「銀髪と青眼……間違いない、この方か」
ガツガツと歩み寄って、二人の兵士がリステアを見下ろす。
「聖女・クリスティア・ミステアですね。ご同行願う」
「さて、露払いでも……?」
立ち上がろうとすると、リステアは手で俺を制した。
なんのつもりだリステア。なにをするつもりだ?
「私に何か御用ですか?」
「エリザベス女王にご退位いただく。そしてアダマス・アレクサンドを新たな王とするための交渉材料となっていただくのです」
「なるほど……分かりました」
俺は何も言わない。リステアのことだ、考えあってのことだろう。
「私は基本的にあなた達に逆らうつもりはありません。大人しくここであなた達の言うとおり、アダマスの元へと案内されるのもやぶさかではない。ですが、条件が一つ」
「条件?」
「こちらの片は私のボディガードです。私やエリザと友好を持つ一人でもあります。彼と一緒でならば、あなたたちの案内に従いましょう」
なるほど、そういう考えか。
っていうかこいつら俺のこと知らないんだな。神を降して有名になった、いわば宿敵のはずだが。
もしかしてこいつらも拉致された国民なのか。
「……分かりました。ではご同行ください」
マジかよ。リステアはこちらを見て、俺は頷くしかない。
やっぱりアシストっていうのは大事だよな。うん。人間一人じゃ立ち行かないもんだな。ここまで気転が利くのもリステアくらいのものだが。
しばらく歩かされると、懐かしい建物が見えてくる。
教会と、シェアハウスだ。
そういえばまだアイツらはこっちに住んでいるんだっけ。
もう誰がどこで何してるのか全然わからないけど、まあ前よりは過ごし易くなったはずだ。
何より、いざと言う時に逃げ場があるというのは得られる安心感が断然違う。心の余裕は大事だ。
神社みたいな長い階段を昇って、そこそこ立派な教会に辿り着く。
大きく重厚な扉が、教会には似つかわしくない、亡者の呻きにも似た音を立ててゆっくりと開かれる。
奥行きの広い教会の中、その最奥にいるのは紛れもなくアダマスだった。
威風堂々と立つその様は根城で勇者を待つ魔王のようだ。
「やっぱり君もついてきたんですね。レクト」
「もちろん。リステアの隣には常に俺がいる。俺とリステアを別つことは出来ないと知れ。正教残党の首魁よ」
「正教残党の首魁……ひどいものだ。あんなに最高の勇者だと持て囃されて、あんなにも人に尽くしたのに、今ではそんな呼ばれ方をされるなんて」
「苦労や努力は必ずしも望んだ結果をもたらすとは限らない。知らなかったのか?」
「噂には聞いていましたけど、これほど理不尽だとは」
レクスとは違った意味で天才だったからなのだろうか。致命的な挫折というのをしてこなかったのだろう。
しかして、この現実はあまりに厄介で、理不尽で、不条理で救いようが無いのだと理解してもらえたか。
「それで、いまさら俺の嫁に何の用だ?」
「端的に言えば生贄、あるいは依り代になって欲しいんです。我らが神の顕現の手伝いをしてほしい」
「なるほど」
そんなことだろうと思った。ほとんど予想通りだ。
ただ、問題はその先なんだよな。
「その後はどうする」
「神を再臨し、再びこの世を善と秩序の世界に戻す。悪が決して蔓延らない世界を目指します」
「それで、その先に何があると?」
「その先、ですか?」
何を言っているのか分からないと、アダマスの首を傾げる動作が物語る。
「善と秩序、なるほど素晴らしいな。面白いかどうかはともかく、素敵な話だとは思う。だが、お前は何のためにそれを求める」
「簡単なことです。悪を滅し、秩序を遵守する人々ならば、目を覆うような惨劇は起こらない。欲に溺れた愚かな行為が無くなれば、痛ましい悲劇もありえない。誰もが当たり前の幸せを、当たり前に享受できる。子供でも分かることですよ」
「だが、そんなことが無理なことくらい、夢見がちの子供だって分かると思うんだがな」
「そんなことはない。人々が欲を戒め、正しさを胸に生きようとすれば、神は幸福をお与えくださる。僕たちはそのために励むべきです。それは貴方も同様だ」
それが無理だというのだ、勇者アダマス。
なにせ、人が欲を戒めたなら……。
「人が、欲を戒めるものとしたならば、そいつはもう人間じゃない。というか生き物としてダメだ」
「人間、生き物として、ダメ……」
「生き物が生き物である以上、何らかの欲はあるはずだ。食欲、性欲、睡眠欲……欲望は可能性だ。欲望を果たすために力を求め、技を磨き、知を蓄える。そうやって欲望を満たし、享楽と快楽で人生を彩ることこそ醍醐味だろう」
「そのために、弱者が虐げられ、優しい善人が傷つけられる。それを許すのは悪だ」
まあ、んー、そうか。そうだな。それは悪だな。
「あー、でもなアダマス。お前は少し勘違いをしている。俺たちが推しているのは大罪であって、大悪ではないんだぞ」
「同じじゃないか。罪だというなら悪だ」
「違うのだアダマス。大罪とはいうものの、それは神の意に背いたから罪と冠されただけで、存在そのものが絶対悪だなんてことはない。お前の悪を軽蔑する行いは傲慢に、談じようとする意思は憤怒に相当するものだ」
「そんな馬鹿な……そんなはずはない!」
必死に被りを振って、俺の言葉を否定しようとしている。
そんな筈はないと、考えることもなく盲目的に。
「俺の言葉を無視し、考えることを放棄するのは怠惰だ。ひたすら盲信に浸ろうとするのは暴食。色欲も、人間なら誰もが持ち得るものだ」
「嘘だ、そんなのは嘘に決まっている。虚飾で僕の心を謀ろうとしているんだ!」
葛藤していることが、俺の言に一理あると思っている証拠だ。
見ていて不憫になってくる。人の信条に唾を吐きかけるなんて、そもそも俺の趣味じゃあない。
「だが、大罪でも人は救える。現に俺たちの創った魔境は、今まで窮屈な思いをしていた奴等には好評だ。お前の善を思う心も、間違いなく人を救う素質を秘めている」
「励ましているつもりかい。僕を惨めだと哀れんでいるんだね」
「そ、そんなことないぞ。ほんとほんと。それにな、俺だって胸糞悪い惨劇を目にしたらなんとかしたくなる。お前もそれでいいじゃないか」
「僕の正義と君の欲望が、同じものだと言いたいのかい?」
「正義だの悪逆だの、善だの悪だのなんていう価値観は一旦捨ててみたらどうだ。正義だけでは人は満たせない」
アダマスはよろけて壇に瀬を預け、俯いて動かなくなった。
辛いだろうな。辛いに決まってる。
自分の信じていたものを、誤りだと指摘されてなお冷静でいられるのは、それこそ傲慢なる盲信の徒。
狂信者ですら激昂するところだというのに、自分しか信じない俺みたいな奴ははなから人の話など聞いたところで戯言なのだ。
「アダマス、お前なら……」
俺の言葉を遮ったのは、耳を劈く銃声だった。
だが、それよりも、隣で何かが倒れる音のほうが鮮明に聞こえた。




