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忘れエヌ人

作者: 日南田 魚王

「 忘 レ エ ヌ 人 」

 

 1

 大阪中ノ島の美術学校を卒業した青井津根は故郷の徳島には帰らず自分が描きたい絵画とは何かという課題と向き合いながらひとり小さな木造のアパートで暮らしていた。

 卒業後、就職はしなかった。幼い頃から絵を描くことが好きで、少年の頃は毎日暇な時間があれば絵を描いた。将来は画家になりたいと自然に思うようになり、青年になると大阪の美術学校へ入学したいと両親に言った。

 父の亨は自分の鉄工所を継がせるために地元の商業学校に行かせる予定だったから大阪の美術学校に行くのを反対した。

 しかし母の佐代子がそんな父を説得させ、津根を美術学校へ行かせた。佐代子は病気がちで、いつも母屋の窓辺の部屋で寝ていた。津根は子供の頃、そんな母の横で畳に横這いになりながら絵を描いては出来上がるとそれを見せて母を喜ばせた。佐代子はそんな息子の気持ちを思い、或る夜、反対する夫の亨を枕元に呼び寄せた。

「ねぇ、亨さん、あの子、津根のことですけど、大阪に行かせてあげるのは嫌かしら。私はこの通り病気がちであの子に何もさせてあげることが出来なくて申し訳なく思っています、だからせめてあの子のしたいことをさせてあげたいと思っているのだけど。私ね、自分の人生で何か出来ることがあるとしたら、それは津根が本当にしたいことをひとつでも叶えさせてあげることしか出来ないと思っています。そう、私の命があるうちにひとつでも何か叶えさせてあげたいと思って。亨さん、あなたの気持ちを知って話をする私は、きっとあなたに愛される資格が無いのかもしれませんね。」

 佐代子は少し咳き込みながら夫に言った。亨は佐代子のほうに寄りながら背中をさすり、彼女の肩に薄いピンク色のカーディガンをかけて静かに佐代子の横顔を見て黙っていた。

 そして亨は佐代子の説得に黙ったままやがて静かに席を立って、僕は君の言うとおりにするよ、と言うとひとり工場に行った。

 その晩、彼は一晩中工場で仕事をした。工場の機械の音が時折高い音を立て、田園に森に鳴り響いた。その音はどこか心を推し量るような寂しい音だった。佐代子は少し寂しげな微笑をして、そんな亨の気持ちを察しながら窓から降り注ぐ月光を瞼に受けて眠りについた。

 佐代子は体調の良い日には三面鏡の前に腰を掛けて化粧をした。幼い子供だった頃の津根はそんな母の横で化粧をする姿を見るのが楽しく、そして嬉しかった。母の化粧をした顔は美しかった。

 父も襖の向こうから化粧をした母を見て、母もそれに気づくと二人で微笑んだ。もし誰かが微笑む二人を見れば、未だに二人には美しい恋が続いているのだ、と思うだろう。

 そんなふたりの視線が津根を挟み、そして決まって最後に、家族皆で微笑んだ。津根は慎ましくも美しいそんな家庭の愛情の中で育った。

 初めての大阪での夏には故郷には帰らなかった。津根は一人時間を惜しむように絵を描いた。自分が努力して頑張っていることが何よりも母への精一杯の感謝だと思った。

 ただ時折鉛筆を止めては、窓から伸びる雲を見て故郷の母を思った。そして、流れる雲が消えると静かに再び絵に向かうのだった。

 佐代子は美術学校に入学した翌年の冬に亡くなった。

 大阪に行く自分を故郷の駅のホームまで見送ってくれた姿が、津根が最後に見た母の元気な姿だった。

 大阪に出て行く津根を父に寄り添いながら見ていた母の顔はとても誇らしげだった。

 早く咲き始めた桜の花弁がひらひらと空に舞う中を津根に頑張りなさい、と言う母の最期の言葉と唇の動きが、瞼の裏で輝く涙の粒の中で輝いた。

 雪が降る通夜の夜、津根はひとり棺の中で静かに眠る母の顔を見つめた。

 母は父を説得したとき自分の死期を知っていたのかも知れない。

 そして自分の短い生涯が終わることを父に告げたのだろう。

 自分の生涯は短く儚く終わる、病気がちだった自分は母親らしいことを息子に何一つ出来なかった。

 だからせめて息子には自分の夢を叶えさせる為、輝く未来の世界に送り出してやりたいと思ったに違いない。

 津根は母の唇に薄い紅を塗った。

 死に顔は安らかな表情でとても美しかった。

(母は、誇りある美しい人だった)

 津根は棺に眠る母の姿を見て、より一層そんな母の為に画家になりたいと強く心の中で思った。

 学校を卒業しても就職をせず、父の帰郷の催促も無視してそのまま大阪に留まったのもそんな理由からだった。そしてひとりで絵を描く日々が続き、やがて美術学校を卒業してから三年目の夏が訪れた。

 2

 今年の大阪の夏は暑い、路面電車の手摺を握りながら津根は、そう思った。

 汗が額から滴り落ち、亜麻色のシャツが汗で背中に張り付いた。

 汗ばむ背中ほど厭なものは無いと思いながらシャツを引っ張ると僅かに出来た背中とシャツの隙間に路面電車の窓から吹き込む風を入れた。

 ガタゴトと音を立てて小さな街の隘路を進む路面電車に乗りながら、津根は車窓の外を眺めた。

 窓の向こうに夕暮れの橙色に染まりだした化学品工場の煙突が見えた。

 空に伸びた幾つかの黒い煙突からは鉛色の煙が昇り、それが雲と一緒に風に流れていた。

 その雲の向こうに夕陽が見えた。

 そして見えたと思ったら、電車は急に狭くなる家々の壁を擦れるように抜けてゆき速度を落としやがて静かに停車場に着いた。

 津根は停車場で降りる人達に続きながらホームに降りると、乗っていた路面電車が過ぎるのを待って路に埋め込まれた鉄のレールを小走りに跨いで路を渡った。

 路を渡ると今度は狭い路地の通りに入り、そして通りを抜け煉瓦造りの階段を上がり陸橋に出た。

 カンカンと鳴る踏み切りの音が津根の耳に聞こえた。

 立ち止まるとまたシャツが、吹き出る汗で背中に張り付くのが分かった。

 今日はどうしようもない暑さだ、と思いながら津根は橋を渡ると、後ろを振り返った。

 振り返ると先程見えた煙突から空へと昇る鉛色の煙は切れて、その下に澄んだ夕暮れの空が見えた。

(もう皆仕事の終わる時間なのだ)

 津根は瞼を薄く閉ざして遠くの夕暮れの空を飛ぶ鳥達の群れを見た。

(故郷の父も鉄工所の機械の電源を落とし、母屋でひとり今夜の食事の準備をしているかもしれない)

 そう思うと津根は少し、すまなさそうな表情をして路を歩き始めた。


  3

 画家になるという夢は津根が思うようには簡単には行かなかった。

 卒業後、様々な公募展に出したり、画廊へ絵を持ち込んだりしたが良い結果は得られなかった。

 時折、街の通りで卒業した友人達と会うと色んな話を耳にした。

 美術学校を卒業した友人達は皆それぞれ自分の才能を磨くため努力をしていた。

 或る友人は美術館主催の公募展の厳しい審査を経て入選し、また違う友は東京銀座の画廊で個展を開き美術関係者達の賞賛を受けるなど、皆それぞれ自分の評価を少しずつ社会の中で高めていた。

 津根はそうした友人達の活躍と出世をひとり横目で静かに眺め、やがてそうした友人達との距離が少しずつ出来ているのを感じていた。

 昨日も、或る美術館主催の公募展の落選通知が津根の手元に届いた。

 津根はそれを受け取ると両手で丸めてアパートの窓を開けて力一杯に通りに投げ捨てた。

 津根の周辺を孤独と寂しさが覆い始めていた。


  4

 一週間が過ぎた或る日の午後、画材屋から戻ると津根は胸ポケットから一枚の紙を取り出した。

 それを津根はピンで壁に留めた。その紙は秋に関西で開かれる公募展の申込用紙だった。

 作品があれば出してみたいと思って手にとったが、果たしてできるだろうかと津根は思いながら暫く黙って見ていたが、やがて視線を外すと同じ壁にかけられた便箋を見た。それは三日前に届いた父からの帰郷を促す手紙だった。

 便箋を手に取ると津根は、そのまま静かに押し黙ったまま父の筆跡を見て(父さん、すいません)と心の中で呟いた。

 津根は、今後どうするべきかと思っていた。これから先、結果が出ないままここにいてもどうしようもないことは十分分かっていた。

 故郷に帰るのは容易い。しかし津根は母が送り出してくれたこの世界で結果を残さず、為すべきことを為さないままでは母の墓前には行けないと思っていた。

 母が導いてくれたこの世界で素晴らしい絵を描き、そして素晴らしい画家になり母の墓前の前に立ちたかった。

 津根は壁に背をもたれかけて部屋の中を見回した。

 部屋には木製のイーゼルと数枚のデッサン、そして落選して戻ってきた作品が散らばっていた。

 その向こうに母の死後、実家から持ってきた三面鏡が見えた。

 津根は母の形見である三面鏡に残る母の優しい愛情を思うことで、孤独と寂しさで倒れてしまいそうな自分の心を乱さないでいることが出来た。

 壁にもたれかけていた津根の背中が段々と下へと滑り、やがてごろりと横になると瞼を腕で抑え、そして畳にうつ伏せになった。

 自然に涙が溢れた。行き詰っていた。

 三年も過ぎて何もできていない自分への悔しさも溢れていた。

 津根は友人達の作品を見る度に自分と違うものがあるのを感じていた。

 友人達の作品には作品のひとつひとつに明確な主題が在った。

 或る友人の作品には裸婦を通じて表現される生命の輝きがあった。また別の友人の絵には都会の人々の孤独や哀愁など、皆作品の中に明確な主題があり、それが見る人の心を惹きつけた。

 しかし津根の絵には見るものを惹きつけるものがなかった。

 津根の描く絵はただ上手いだけであり、それ以上のものが無かった。

 津根は揺れて消え掛かりそうな自分の情熱の炎を閉じた瞼の中で見つめていた。

 しかし見つめても何も見えなかった。

 津根は起き上がると、アパートの窓から外を見た。

 隣の屋敷との小さな通りの僅かな空間に夕暮れに暮れ始めた空が見えた。鳥達の群れが弧を描いて空の彼方へと消えた。

(住処に帰るのだろうか)

 津根はそう思うと、立ち上がり部屋を出た。

 夜の帳が訪れるまで、夏の長い夕暮れの中を歩きながら自分の考えを静かに思索したいと思った。

 秋の公募展が過ぎれば、もう来年まで何もないことを津根は知っていた。


  5

 鳥達はゆっくりと森のある彼方へと飛び立ち、夕暮れの雲が西へと流れて行った。

 津根はゆっくりと思索の時間の中を進んだ。

 木々の夕暮れの陽光の中で差し込む陽の光をみて、コロー、モネ、ピサロやルノワール達の印象派たちの筆跡を思った。

 自然の光りを表現することに情熱を燃やした巨匠達の心を自分の心の筆で撫でてゆく。

 壊れかけた煉瓦造りの建物達、そしてセルリアン青色のドアやバーミリオン朱の錆びた郵便ポストの前ではブラマンクや佐伯祐三達の殴りつけるような色彩の野獣派の画家達のことを考えた。

(自分が巨匠達や活躍している友人達のような素晴らしい仕事をするためには何を主題にすればいいのだろう、自分が寄り添いながら歩いていくべき主題とは何なのか、ブラマンクに一喝されてそれまでの全てを捨てた佐伯祐三のように僕も何かにぶつかり自分自身が破壊される事で、芸術的な主題を得ることが出来るだろうか。もしかするとその答えは自らの近い内に在って、僕はそれを見落としていないだろうか)

 夏の銀杏の木々の通りを津根は自問自答を心の中でしながら思索の時間の中を歩いていった。

 影は段々と夕暮れの橙色と混じりながら、少しずつ夜に向ってその先が混じり合う様に長く細くなっていった。

 そうしているうちに津根は大きな屋敷の塀沿いを歩いていることに気がついた。そして足を止めると自分のアパートに近くにこうした屋敷があったのかと思った。

 津根は歩き出した。

 その時、屋敷の塀の向こうから日傘を差した女性が現れた。日傘が夕暮れの陽光に染まっていた。

 ゆっくりとした動作で彼女は夕陽の光りの中に現れた。津根は一瞬立ち止まった。

(あれは)そう思うと、こちらに向ってくる彼女を見た。すれ違い際に彼女は微笑を口元に浮かべながら津根に会釈をした。津根も彼女に会釈をした。

 津根は視線を彼女に追うように振り返り、すれ違って去っていく彼女の後姿を見続けた。彼女の膝下で夕暮れに染まって揺れる白地のワンピースの裾が、津根の心を繋いで離さなかった。

(なんて、美しい人なのだろう)

 津根は彼女が出てきた門の前で表札を見た。

 表札には菊池と書かれていた。津根は自分の部屋向うに財閥の屋敷があるのは知っていたが、そこに娘がいることは知らなかった。

(菊池財閥の令嬢か)

 そう思うと彼は表札から視線を外し歩き出した。

 津根の頭上の空を鳶が鳴く声が響いた。その声は低い街の屋根に沿うように響き、やがて夕暮れの雲と共に彼方へと消えていった。

 令嬢の美しさに触れた津根は、高まる心臓の鼓動を抑えつつ自分の部屋と戻って行った。


  6

 その夜、満月では無かったが月が輝き明るい夜だった。津根は自分の自画像を描こうと思い、室内の明かりを落とし三面鏡を窓辺に動かして開いた。

 あの令嬢と会った自分の揺れ動く心と表情を暗闇の中で僅かに差し込む月の光りの下で描きたいと思った。

 いつも絵を描くとき窓を閉め、そしてカーテンで部屋の外から明かりが入り込まないようにしていた。そうすることでより強く自分の心の世界に閉じこもることが出来た。

 だが今晩の自分は冷静に自分を描けるだろうか、自画像を描くレンブラントの様に冷静な観察ができるだろうか。あの令嬢に会って浮ついた自分が部屋を閉じ、より強く自分の心の世界に入り込んだところで自分の心が浮ついた世界に冷静な自分が居るとは思えない。

(少し、夜風に当たり心を落ち着かそう)

 そう思うと自分の心の火照りを冷まそうと思い、窓を開いた。夏の風が吹いた。

 カーテンが揺れて夏の夜風が部屋に吹いてくると津根の心の火照りが揺らぎ、そして部屋に母の化粧下の匂いがした。懐かしい匂いだった。

 津根は三面鏡の左右の鏡を動かし、自分が映るようにした。

 その時、鏡に外の風景が映った。外の夜の暗闇に明かりが見えた。

 津根はその明かりを凝視して、外を見た。

 窓からは何も見えなかった。津根はそれでイーゼルを置き、デッサンに取り掛かろうとした。

 そして三面鏡に映るその明かりを消そうとしてもう一枚の鏡を動かそうと手を伸ばした時、明かりの中に動く影が見えた。

 津根はその明かりをもう一度見た。するとその明かりの側で読書をする人が見えた。

 津根はどきりとした。

 そこに見えたのは夕暮れの散歩で出会ったあの令嬢だった。

 彼女はパイル地の寝間着で椅子に座りながら、薄い明かりの中で本を読んでいた。月光の明かりが彼女の透き通るような美しい肌を照らしていた。

 津根は心が張り裂けそうになった。

(これは、どういうことだろう)

 津根は再び、窓から外を見た。今度は少し身体を乗り出し角度を変えて外を見た。

 通りの奥が見えた。そこに壊れた道路の反射鏡が在った。壊れた反射鏡に明かりが映っていた。

(あれに、明かりが映っている)

 津根は反射鏡に映っている明かりの先を探した。津根の視線に一棟の母屋が見えた。

 津根のアパートの窓は人一人がやっと通ることが出来る小さな通りを挟んだ隣の屋敷の壁より上にあった。

 そしてそのすぐ内側に一棟の母屋が見えた。

 それは身体を乗り出して分かったが、良く見ると母屋から明かりが漏れているのが分かった。

(あそこに令嬢がいるのだろうか)

 津根はそう思ってもう一度三面鏡を見た。

 三面鏡には令嬢と彼女の後ろにある大きな化粧台の鏡が見えた。

 彼女の部屋の化粧台の鏡に映る彼女の姿を三面鏡の鏡が捉えているのだと津根は思い、再び三面鏡の鏡を凝視した。

 三面鏡の鏡には、令嬢の部屋の鏡を通して暗闇の中で凝視する自分の姿が見えた。

 自分の姿は室内が暗い為、室内の明かりの下で映る令嬢のようにはっきりと映っていなかった。

 令嬢はそれで気がつかないのかもしれなかった。津根は暫く途方にくれたように鏡を見ていた。

 鏡には読書をする美しい人が映っていた。恐ろしい偶然が津根と令嬢を繋いでいた。

(これは犯罪だ)

 津根はそう思うと、三面鏡の扉を閉じた。閉じた後、額を三面鏡の扉につけたまま、途切れて早くなる心臓の鼓動と煩悶する自分が暗闇の中で石のように動かなくなるのを感じた。

 そして津根は急いで部屋の窓を閉めると、四肢を丸め頭から布団を被った。

 暗闇の底に落ちるまで頭にはあの令嬢の読書をする姿が離れなかった。


  7

 翌朝、津根は起きて直ぐにイーゼルに架けられた画用紙に向って鉛筆でデッサンを始めた。

 あの令嬢の姿が自分の魂の鏡から消えないうちに描こうと指を動かした。

 力強く動く指が、津根の心の水面の上に風を起こした。

 その風は一筋の渦を巻いた疾風となって津根の心の鬱蒼と茂る森の木々の影を抜け、そして蒼い空へと向うと太陽に反射して急降下し、やがて急峻な崖の頂にいる一匹の鷹の嘴に当たった。

 鷹は翼をゆっくりと広げた。

 津根の心の世界にいた孤独な鷹が目を覚ました。

 彼は急峻な崖の頂きから飛び立ち、風を受けた。太陽と向かい風を受けながら森や湖面を滑るように抜けた。

 やがて鷹の目がその視線の先に美しい獲物を捕らえた。鷹の目はやがて津根の目となってその獲物に向かった。

 鷹が自由に空に描く線は美しかった。

 無数の感情に乗った線達が重なりあう度に、津根は言葉を漏らした。

 漏れた言葉は歓喜で震えて揺れそうな指先を押さえ、自分の心を夜の冷気を帯びた波ひとつ立たない湖面の水面のようにさせた。

 津根は呟いた。

(嗚呼、あの人の美しさよ、時よりも早く僕の側を去ってくれるな、あなたは完成された人であっても、それに対峙する僕は未熟な存在なのです。あなたは急峻な頂で僕を見ている。まるで僕が頂まで辿り着くのを待っているかのように。でも僕は登りはじめたばかりなのです。そんな僕に手を伸ばさず、頂の上で流れる宇宙の星を見ているあなたの瞳の奥に、あなたがこの世界で生きる為の理由を知っているものだけの孤高と尊い美しさを僕は知ったばかりなのです。嗚呼、あの人の美しさよ、時よりも早く僕の側を去ってくれるな、もう一度言おう、美しさよ、時よりも早く僕の側を去ってくれるな)

 デッサンは夕方まで続いた。喉も腹も渇きも空腹も感じなかった。

 夕暮れに令嬢のデッサンは出来上がった。

 津根はそれを手に取った。

 デッサンは素晴らしい出来上がりだった。今まで津根が美術学校で描いてきたデッサンとは明らかに違っていた。

 自分が煩悶して揺れ動く心が出ていた。自分でもそれが分かった。津根の指先は木炭の粉や鉛筆のために黒くなっていた。

 津根は光りを浴びたいと思った。今日という日が終る前に、美しい夕暮れの夕陽を浴びたいと思った。

 津根はアパートを出た。

 そして夕暮れの空の下をふら付く足で屋敷のほうへ出かけた。津根は考えていた。

 自分の描くべき絵画とは何かという課題について答えを見つけ出せたのではないかと思った。

 そう彼女なのだ。

 いや、彼女のデッサン通じて感じたもの、そう、それは女性が持つとても尊い美しさなのだ。

 自分は幼い頃、母を見てただ側に居たのではない、それは化粧をして美しくなる女性の姿に無意識に心の中で歓喜して感動して側を離れることが出来なかったのだ。

 なんということだろう、答えは自分の近くにあって、大きく美しい刺繍の施された黒いベールに包まれていたのだ。

 彼女と向き合ったデッサンの時間がそのベールを剥ぎ取って、自分の心の足元に横たわる答えを見つけてくれたのだ。それを自分は今確信したのだ。

 津根はそれを思うと、指が震えた。

 夕暮れの陽が眩しかった。

 津根は令嬢の屋敷の門の前で立ち止まった。そしてゆっくりと門を見上げると、心の中で叫んだ。

(これは地獄の門だ。罪を犯した者だけが、この門を潜りあの人に会えるのだ。オーギュスト、あなたが創り出した地獄の門は、此処にもあった。この僕の面前に、ひっそりと静謐さを保っている!!)

 津根は歓喜に震える自分の指を強く握ると、歩き出した。

 夕暮れの中を津根は背を曲げて、歩いてゆく。津根は鏡に映った令嬢の姿を心に描いた。

(彼女の美しさを、僕だけの画布の中で占有したい。誰にも彼女の美しさを簒奪されたくない。それが名だたる画家であっても、彫刻家であろうとも、この僕だけがその美しさを伝えるものでなければならない。自分だけが知り得た彼女の美しさは、僕だけの秘密の色で彩られ、そして自分の命が途切れてもこの世界に永遠に残らなければならない)

 夕暮れに染まる自分の影の上を、一台の大きな黒塗りの高級車が通り過ぎようと速度を落とした。

 津根はその車の窓を見た。そこに誰かと話をする令嬢の顔が見えた。津根は過ぎ行く車をやり過ごすと屋敷の塀を折れ、影を踏むように歩いていった。


  8

 それから数日、津根は多くの過去の偉大な巨匠達の作品を模写した。

 ダ・ビンチ、ミケランジェロ、ドガ、マネ等多くの巨匠達の模写は津根に多くのことを学ばせた。

 津根は無我夢中で模写をした。喜びに溢れていた。そして巨匠達の素晴らしい仕事の一つ一つは改めて素晴らしく、絵画とはなんと素晴らしい純粋な喜びに満ち溢れているのだろうと思った。

 津根が学んで得たことは自分の心に住まう鷹が草原の空を飛ぶために準備だった。

 それは緑の草原に住む小さな美しい一匹の兎さえも見落とさぬ為の準備であり、そして見事にその柔らかな肉を狩る狩人としての気高い誇りだった。

 鷹は静かに嘴を鍵爪の鋒を磨いた。

 津根は美しさを狩る狩人になりつつあった。

 津根は屋敷の前を毎日歩いた。しかし令嬢と会えなかった。会えないとわかると失望が津根の心を覆い、そして美しさを渇望する乾きが津根の心の内側から湧き出た。

 心が乾けば乾くほど、鷹の目は細くなり体はしなやかになり翼は無駄な肉が落ちていった。

 美しい獲物を狙う準備は出来つつあった。

 この前描いたデッサンの美しさは既に津根の中から消えていた。

 それはもう遠くに押しやられた。

 既に食らいついて腐食し始めた死肉に鷹が興味を持つことはなく、狩人としての興味は新しい獲物を見つめていた。

 やがて乾きが静かに津根の中でこれ以上ないという時を迎えた。

 獲物は母の三面鏡の中に今晩いるだろうと思った。

 津根は知っていた。

 屋敷の前を歩く度、街行く人々が、今晩菊池家の屋敷で当主の誕生を祝う祝賀会が開かれることを話していた。

 多くの各界の著名人が訪れる日に、あの美しき花が置き忘れられることはない、津根はそう思いながら屋敷の門を通り過ぎた。

 既に幾人かの来訪者の姿が見えた。

(美しい人よ、僕はあなたに今晩会いたい、しかし三面鏡を開きあなたを見ることは犯罪に違いない、それでも僕は今日まで磨いてきた心の鷹の嘴で鍵爪の鋒で、あなたの美しさを狩り、そしてそれを画布に描きたい、嗚呼、しかし犯罪に等しい行為と引き換えに美しさを得ることができるとは、芸術はなんと恐ろしいのだろう。僕は今晩母の三面鏡の前でのたうち回るような魂の苦悶で身が焦がれるだろう)

 津根は部屋のドアを閉めると椅子に腰掛け、手にした鉛筆の鋒をナイフで削り、イーゼルに新しい画用紙を掛けた。

 9

 月が輝いていた。

 満月の月光が津根の瞳に降り注いでいた。

 津根は三面鏡の前で鷹のように鋭くなった視線で再びこのパンドラの箱を開くべきか、僅かに残る自分の良心と最後の格闘をしていた。

 自分の理性が令嬢を覗き見するという犯罪に向おうとする欲望を抑えていた。

 喉が渇き、肉体と魂が疼くのを、津根は三面鏡の扉を押さえながら耐えていた。

 激しい欲望が自分の魂と肉体を動かそうとしている。

 美しさを画布に留めたいと思う強烈な画家としての欲望が自分の背から無数の悪魔の腕を伸ばして津根が理性で抑えている指の一つ一つを剥ぎ取ろうとしていた。

(罪を背負って、美を獲るのが画家なのだろうか、それともこれは自分のエゴなのだろうか)

 津根はこの苦しみから救われようとして、母を思った。

 母の美しい顔を思った。

 窓辺に差し込む陽光のなかで美しく微笑む母の微笑を思った。

 しかし母の微笑はやがて黒い漆黒の闇の渦に落ち、そして黒い渦から令嬢の微笑と薄く閉じられた睫毛の下から覗く令嬢の黒い瞳が現れた。

 弦楽器の緊張した弦が切れる高い音がした。

 ひとつ指が剥ぎ取られた。

 自分の理性がひとつ地獄に落ち、悪魔の力に占領された。

 津根は煩悶した。

 津根は思った。

 もし今の自分の魂が肉体の形となって姿を現せば、ロダンの地獄の門に纏わりついて身体を捩じらせて苦しむ罪人達のひとりとしてそこに居るだろう。

 屋敷からバイオリンの奏でる音楽と人々のさざめく笑い声が聞こえてきた。

 バイオリンの音の中にピアノの音が聞こえた。

 ショパンのノクターンだった。

 人々の音楽に触れて安らぐ息の根が聞こえてきた。その音楽を破るように纏わり付く罪人の一人が津根に囁いた。

(彼女の美しさは時が過ぎるよりも早く君の側を離れるだろう、ためらうことは無い、君は、君が欲することをなせばいい、それに君は既にひとつの罪を犯しているではないか)

 声は嗤いと共に消えた。

 津根は言葉を呟いた。何と言ったか分からなかった。

 津根は唾液と共に言葉を垂らすと、暗闇で目をぎょろりと動かした。

 そして扉を押さえている自分の指を見た。

 指は黒い無数の影に覆われていた。無数の腕が扉を押さえている津根の指を全て剥ぎ取り、津根の背中を押して地獄へと繋がる煉獄の階段へ叩き落した。

 扉はゆっくりと開かれた。

 開かれた三面鏡のなかに、令嬢は居た。

 彼女は美しい赤いビロード地のドレスを着て立っていた。

 彼女は背中を見せ、やや振り返るようにして鏡に映る自分の姿を見ていた。

 自分は詩人ウェルギリウスと共に地獄と煉獄を巡り、全てを言葉に留めようとするあのダンテと同じように、煉獄の螺旋状の階段を彷徨いながら頂に輝く彼女の美を描くのだ。

 津根は震える指を噛むと、吼えた。声にならない叫びが続いた。

 津根の心の中の鷹は草原を飛んだ。

 草原は紅蓮の炎に包まれていた。

 炎は自分が巻き起こしていた。鷹の翼は炎を纏っていた。

 草原に白い兎が見えた。

 草原を燃え広がる炎から逃げていた。

 鷹は地面の土くれが見えるまで低く飛び、そして獲物に向かった。

 焦げる草の匂いがして獲物の白い獣毛を確認した。

 津根の眼は細く開かれ、鋭くなった。全てを記憶しようと鏡を見つめた。

 令嬢の美しい背中のラインと何かを誰かに話しかけたくて動きだそうとする唇。透き通るような肌の白さや纏め上げられた髪の下に見えるうなじの美しいライン。

 津根はそれを脳裏に焼き付けた。

 その時令嬢の視線が止まった。いや彼女の視線が津根の瞳と合った。

 煉獄の階段を踏み外した。そう、思った津根は螺旋の階段を踏み外し、暗い底に落ちるのを感じた。

 津根は急いで三面鏡の扉を閉めようとした。

 しかし令嬢の視線は津根を見て、微笑んだ。地獄の花が咲いて、死の微笑が津根を包んだ。

(煉獄の頂で、あなたを待ちましょう)

 そう、呟く声が聞こえるような微笑を残して令嬢の姿は鏡の前から消えた。

 津根はそれから部屋の窓を閉じて、陽が昇る時も、陽が沈んでからも、幾日も冥界の亡者のように蠢いた。蠢きながら眼だけが時に厳しくまた優しくなってはその都度、色彩を画布に叩き付けた。

 津根は煉獄の螺旋上の階段を登りながら、少しずつ険しい急峻の頂へと登って行った。

 階段を登る度、自分が令嬢に近づくのが分かった。

 やがて津根は最後の階段から頂へと昇った。その頂で令嬢は陽の光りを受けていた。

 津根は近づくと、最後に彼女に微笑した。

 彼女もまた津根に微笑んだ。それで最後の美しい破片が揃い、絵が完成した。

 津根は三面鏡の扉を閉じて、アパートを出た。

 眩しい夏の陽が目に飛び込んだ。気がつくと一週間が過ぎていた。季節はまだ夏のままだったが、どこか秋の気配を感じた。

(それでも大阪の夏は、やはりあつい)

 そう思うと津根はふらつく足で通りに出た。

 光の世界に久しぶりに出た。

 鷹は空に去った。

 鷹が描いた軌跡を津根は画布に残し、自分は煉獄の旅から戻ってきたのだ。

 そして津根はこの絵を秋に開かれる公募展に送ることに決めた。

 ⒑

 豊穣の季節に津根のもとに入選の通知が来た。津根はそれを眺めながら亡くなった母のことを思った。

(母さん、僕は少しだけ進むことができました)

 津根は母の三面鏡の前で手を合わせた。

 三面鏡は最後に絵を描いた日から扉を閉じたままだった。津根はその扉をそっと手で撫でた。

 津根には心にわだかまりがあった。それは芸術のためとはいえ、令嬢を盗み見したという罪悪感だった。

 あの夜令嬢と視線があったことから、津根は彼女も自分のことを知っているに違いないと思った。

 その後、津根は令嬢の屋敷の門の前を通ることは避けていた。

 しかし、こうした結果が出た以上、彼女に侮蔑されようともこの事実と感謝の言葉と気持ちを彼女に伝えたいと思った。

 それでも煩悶する自分を落ち着かせるまで時間が掛かった。

 秋には沢山の雨が降った。豊穣の雨だった。

 そして雨が降り止む頃に虫たちの声も消え、季節は冬が始まろうとしていた。

 津根は或る日、夕暮れを待って令嬢の屋敷に向った。

 群青色のコートの襟を立てながら路を歩くと、街の向こうに沈み行く冬の夕陽が美しかった。

 橙色に染まる路上の上を落ち葉が風に吹かれ、空へと舞って行った。

 屋敷へと向う路が見えた。

 枯れた銀杏並木の路を進みながら津根は行き交う人々が多いことに気がついた。

 それも皆誰もが喪服を見に纏っていた。

(誰かが亡くなったのだろうか)

 津根はそう思いながら、屋敷の門の通りに出た。門の前に沢山の喪服を着た弔問者達の姿が見えた。

(令嬢宅で誰かが亡くなったのだろうか)

 津根は駆け足でその側まで行った。門の前には黒い垂れがあった。

 津根は弔問客の輪の外からそれを見た。

 奥で読経を上げる僧侶の姿が見えた。津根は隣の婦人に声を掛けた。

「すいません、菊池財閥の当主が亡くなられたのですか、それとも誰か血縁の方が亡くなったのですか」

 婦人は津根のほうを見るとええ、と言った。

「菊池家の令嬢がお亡くなりになられたのよ。婚約者の方との軽井沢からの帰りにお二人が乗られた車が県境の峠でスリップして道を踏み外し崖の底に落ちて、そのまま二人ともお亡くなりになったの」

 津根はそれを聞くと後ろに倒れそうになった。そして二、三歩後ずさりするとゆっくりと路上に腰を掛けた。

 先程の婦人が、あなた大丈夫?と声をかけてくれたが意識が遠のいていく頭の中で、その言葉が最後まで聞きとれなかった。


(最後)

 葬儀は多くの人が集まった。津根もその中に一人居た。

 屋敷の門から白い布を被せられた棺が出てくると参列した人々のすすり泣く声が響いた。

 津根はその中で棺が過ぎて行くまで手を合わせていた。そして棺を載せた車が出て行く姿を見終わると、アパートの自分の部屋に戻った。

 そして三面鏡を開いてひとり鏡に映る自分の姿を見ながら、涙が零れ落ちていくのを見ていた。やがて両手で顔を覆うとひとり咽び泣いた。

 鏡には津根の泣く姿がいつまでも映っていた。やがて三面鏡は泣き続ける津根と左右の鏡に母とあの令嬢の姿を残して、静かに閉じられた。


  雪の降る日、公募展に入選した絵が戻ってきた。津根はその絵を待っていた。

 津根はその絵が戻るのを待って故郷の徳島に戻ろうと思っていた。

 そして津根は引越しの準備に取り掛かり聖誕祭の日に部屋の鍵を閉めた。

 その日、空から白い雪が降り始めた。

 津根は令嬢の屋敷に向って歩きだした。やがて雪が少しずつ積もりだした路を歩きながら屋敷の門の前に立った。

 門は閉じられていた。

 津根は瞼を閉じて深くお辞儀をした。

 津根は葬儀の後、知ったことがあった。

 津根が絵を出した公募展の後援企業のひとつに菊池財閥の名前があった。

 そして令嬢の婚約者の実業家のF氏はその公募展の主事の一人だった。

 おそらく全国から集められた沢山の作品を令嬢と見たことだろう。その中に津根の絵もあった。

 津根はその絵を見て微笑んで指を指す令嬢の姿を思った。

 彼女はきっと見ただろう、煉獄の螺旋階段を歩きそして頂に辿りついた孤独な鷹が描いた一枚の小さな絵を。

(答えを教えてくれたあなたに、僕が出来た唯一のことはあなたの美しさを小さな画布に残すことだけでした)

 津根はこの絵の表題を当初「K令嬢」としていたが、それを門の前で捨てた。

 一片の雪の結晶が津根の頬の上に落ちて溶けた。

 津根は何かを拾い上げるように雪の降ってくる空を見上げた。

(そう、この絵は「忘れえぬ人」が主題に相応しい)と、津根は思った。

 自分の作品を東欧の有名な画家イワン・クラムスコイの「忘れえぬ人」と同じ題名に決めると、津根は静かに雪の中をやがて歩き出した。

 そして最後にもう一度、津根は屋敷のほうを振り返ると、ありがとうと呟いた。

 遠くで鷹の翼の羽毛が雪の上に落ちる音が聞こえた。


 もう後数時間で故郷へ向かうフェリーが出る時間だった。

(終わり)


 



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― 新着の感想 ―
[一言] 生も死も、希望も絶望も、とてもとても高い所から。 混じり合っているのに、 澄んだ美意識が広がっていた。 かなしくて凄く孤独だけど、熱が包んでいる。 信念が生まれる瞬間を、見た気がした。 …
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