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婚姻届 (夏月視点)

更新が遅くなり申し訳ありません。

今更ですが今年もどうぞよろしくお願いいたします。

目を開けると外はうっすらと明るくなり始めたようで、天窓からは白み始めた空が覗いている。

時計を見ると午前4時半。アラームが鳴る30分前に目が覚めた。

英治さんを起こさないよう、そっとベッドから抜け出し、かけていたスマホのアラームを解除する。


蛇口から流れ落ちる冷たい水で顔を洗い、髪をきっちりとまとめ、クリーニング済みの真っ白なコックコートに着替えて厨房へ向かう。




ピカピカに磨き上げられて、今は冷たく静まりかえった、誰もいない厨房。

ほんの7〜8時間前までの熱気も、活気も、慌ただしさも嘘みたいだ。


今日は特別な日。

この店が初めて「お客様」をお迎えする。先日の「お客様」とは少しニュアンスが違う。

しかもそれが、自分の大好きな人たちの結婚披露宴で、ちょうど1年前にした約束を果たす日でもある。


桃子さんも、ハルさんも私の恩人だ。

大好きな仕事を楽しいと思えなくなっていた時、嫌いになりかけていた時、私を助けてくれて、救ってくれて、また楽しい、この仕事が大好きだって胸を張って言えるようになったのは間違いなく2人のおかげ。




1年前のあの日、まだ何もなかったこの場所に連れてきてくれて、一緒に良い店を作っていこうって3人で誓った。

あの時想い描いていたものとはいい意味で随分変わっているけれど、皆で一緒にいい店にしていきたいっていう気持ちはあの時と一緒だ。


まさか自分まで結婚するとは思っていなかったけど…。

そう言えばあの前日、酔った勢いで英治さんとの出会いから別れまでかなり事細かにカミングアウトしていたんだよな…。

思い出すだけで、顔面が火を噴きそうだ…。


あの時は、英治さんと会うことなんてもう無いんだろうと思っていたし、まさか英治さんとハルさんがお友達で、桃子さんまで顔見知りだなて思いもよらなかった。

人生本当に何が起こるか分からない。

「事実は小説よりも奇なり」なんてよく言ったものだ。





『あの、結婚式挙げる時、是非私にウェディングケーキ作らせて下さい。』


あの時何気なく言った一言が、まさかこんな形で現実になるとは思わなかった。

桃子さんとハルさんは覚えているだろうか?

口約束だから覚えていなくても仕方ないよね。私が覚えていて、その約束を果たそうとしている、それだけでも充分だけど、覚えていてくれたら嬉しいな…。




冷蔵庫から生クリームを取り出し、ミキサーで泡立てる。

少し緩めに立てたところでスイッチを切り、ホイッパーでクリームの固さを微調整してから、前日仕込んでおいたベースとなるケーキを取り出し、丁寧にナッペする。

サイズ違いの3つのハート。全てを綺麗にクリームで覆ったら、冷蔵庫に戻して落ち着かせる。

組み立ては1人では無理なので、佐伯さんが来てから。

先に進められる事を進めておこう。


シューとタルトレットの生地は天板に等間隔をあけて整然と並べ、予熱が終わったオーブンへ。

焼きムラが出来ないよう、途中で向きや天板の位置を変える。

なんとなくではあるけれど、このオーブンの癖も把握出来てきた。


焼き上がるまでの時間に、緩く泡立てた生クリームに溶かしたチョコレートを一気に加えてシャンティショコラを作り、昨日苺と、同じクリームをサンドしておいた生地の上に塗り広げる。クリームと生地を馴染ませるため冷蔵庫で休ませる。


オーブンからは香ばしい香りがしてきたので、タルトレットを1つ取り出し様子を見る。

一見良さそうにも思えるが、型から外して裏を見ると焼きが甘い。


シューはもう良さそうなので、オーブンから取り出し、焼き縮みを防ぐため天板ごと作業台に打ちつけてショックを与え、内部にこもった蒸気を抜き、金網に乗せて冷ます。


しばらく様子を見て、再びタルトレットを取り出し焼き色をチェックすると良い感じ。こちらもオーブンから取り出し、1つ1つ丁寧に型から外して金網に乗せていく。


3種類のムースには、それぞれのグラッサージュをかけ、綺麗にコーティング出来たものから金色の丸い台紙に乗せていく。

温めたナイフで切り目を入れて、金箔、粉糖、ベリー、ピスタチオ、ショコラなどの飾りを乗せる。


前日、しっかり準備をしていたとはいえなかなか良いペースで作業は進んで行く。

時刻は午前7時になろうかというところ。厨房にも人の気配を感じられるようになってきた。




「夏月ちゃん、おはよう。」

「おはようございます。奥様、えらい早いですね?ヒデはまだですか?」

「佐伯さん、小山田さん、おはようございます。…英治さん?こっそり降りて来ちゃったからまだ寝てるかも…。起こしてきた方が良いですか?」

「居たら居たで煩いのでヒデにはしばらく寝ていてもらいましょうか。起こすのも俺が電話すれば良いだけの話なのでそのまま仕事を進めて下さい。」


やってきたのは佐伯さんと小山田さん。

煩いと言いつつも、それが小山田さんなりの英治さんへの気遣いなんだよね。


「夏月ちゃん、遅くなってごめん。俺は何からしたら良い?」

「全然遅くないよ。この時間で十分助かる。それじゃあウェディングケーキ、プラッターに移すの手伝ってもらっても良いかな?そしたら私、仕上げしたいんだけど他の作業お願いできる?終わったやつにはメモにチェック入れてあるから…。」

「随分進めたみたいだけど…何時からやってるわけ?」

「うーん、5時前くらい?」


そんな時間からするなら声かけてほしかったと呟く佐伯さん。本当に真面目というか律儀だなと思う。

お手伝いに来てもらっているこちらとしては、そこまでしてもらうのは申し訳ない。昨日も遅かったし、早朝からするとか言ったら店に泊まるってこの人なら言いかねない。それは流石に申し訳なさすぎる。




「「いっせーのーせ!」」


シルバーの長方形の大きなプラッターに、最下層となる一番大きなハートのケーキを移動させる。

4本のスパチュラを使って2人がかりでやっとこさ…というサイズ。

佐伯さんにお礼を言って、別々に作業を進める。

更に大きさ違いで、2つのハートを重ねて、それぞれのケーキのボトムに絞り袋に入れたクリームを絞り、色とりどりのフルーツを2段目、3段目の表面を埋めるように敷き詰めていく。

苺、ブルーベリー、ラズベリー、プラム、さくらんぼ、グロゼイユ、グースベリー、杏。

艶出しのナパージュは色止めもかねているのでなるべく手早く作業する。

フルーツのまわりにシェル絞りでクリームを絞り、側面にパイピングを施して…。


これでほぼ完成形だ。

私が出来るのはここまで。あとは直前に、桃子さんとハルさんをモデルに作ったマジパンの人形と2人の名前を書いたクッキーのプレートをを乗せたらばっちりだ。




作業中にも続々と厨房のスタッフが出勤して、8時を過ぎるころには朝の静けさが嘘のように活気づいていた。

厨房を覗けば、不機嫌そうな表情でこちらに向かってくる1人の人物。ある意味予想通りの展開。

間違いなく文句言われるんだろうな…と思いきや、その人物、英治さんは小山田さんに見つかり強制連行されていく。

そんな英治さんと入れ替わるように厨房へ入り、こちらへやってきたのは三田さんとハルさんだ。

2人が抱えた番重にはデザートで出されるプチガトーがきれいに並べられている。


「忙しいとこ悪いがこっちに運ばせてもらうぞー。」


それを見越して、昨日のうちに整理しておいた冷蔵庫には充分な余裕がある。

それに佐伯さんがかなり進めてくれたので作業も一段落着いたところ。ナイスタイミング。


「お、これトップの飾りっすか?」

「おい、三田ぁ…空気読めよ…。」

「もう遅い。桃子にそっくり…俺はもっと男前だがな。」

「いやいや、それは何かの間違いでしょう。」


マジパン人形とハルさんの顔を見比べてニヤニヤする三田さん。

出来ればハルさんには見られたくなかったけれど見られてしまったものは仕方ない。

意外性たっぷりのハルさん渾身のボケ?を冷ややかに突っ込む三田さん。

どうやら桃子さんへのサプライズ挙式&披露宴を直前に控えてハルさんのテンションもおかしくなっているらしい。


「それより、お前ヒデに何したんだよ?酷くヘソ曲げてたぞ?」

「まさか…佐伯と浮気…ぐぉっ…」


三田さんがおかしな声を上げたと思ったら、ハルさんと佐伯さんが同時に彼の腹部にグーパンチを入れていたらしい。

可愛そうだけど、言っていい事と悪い事あるもんね?


浮気するなら、私と佐伯さんよりも、佐伯さんと英治さんの組み合わせの方が余程あり得ると思ってしまうのは私だけでしょうか?


「おそらく寝ている英治さんを放置して仕事始めちゃったのが原因だと思います…」

「それで靖さんに電話で起こされてか…納得。」


苦笑するハルさん。まぁいつもの事だな、なんて言われると非常に複雑です。

思わずため息を吐いてしまう。




「夏月ちゃん!そろそろ時間だよー?」


突然現れた桃子さんに慌ててマジパン人形と名前入りのクッキーを隠すハルさん、佐伯さん。明らかに挙動不審な私。


「あとは俺が三田に引継ぎしとくから…夏月ちゃん支度しておいでよ。」

「そうそう、俺も手伝うし…。」

「蘇芳さん、後は俺に任せて桃子さんと一緒に美しい花嫁…ぐふっ…」


桃子さんの前で「花嫁」というワードを出したためか容赦なくまた2人からグーパンチが放たれた模様。

ハルさんと佐伯さんの真っ黒な笑顔が何気に怖いです。

何が起きたのか把握しておらず、不思議そうな顔をする桃子さん。


「それじゃあよろしくお願いします!桃子さん、行きましょう!」


慌てて桃子さんを連れ出し、厨房の皆さんにもご挨拶をしてヘアメイクと着付けをしてもらうべく店の一角にある控室へ向かう。

店内はすっかり披露宴の為のレイアウトになっており、小山田さんが音響や機材のチェックをヘルプでやってきたホテルの担当の人としている。英治さんの姿はない。




控室に入ると、桃子さんと並んで美容院にあるようなゴツイ椅子に座るように言われ、されるがまま身を任せる。むくみを取るためか、顔を念入りにマッサージされていたのだが、あまりに気持ち良くて時々睡魔に襲われた…というか時々記憶が飛んでいる。

さすがにアイメイクをするときになって寝ないように注意された(起こされた?)が、気が付けば髪は綺麗にセットされ、顔は丹念に塗り込まれたのか、やたら肌がきれいに見える。恐るべし、プロの技術。

でもこの髪型って和服にはちょっと違うような?流行とか知らないからなぁ…成人式とか結構何でもアリな感じだし、それを考えるとそういうものなのかもしれない。


ふと隣を見れば、桃子さんもいつもと雰囲気がずいぶん違う。いつも綺麗なお姉さんだけれど、今日はいつも以上に輝いているよ、綺麗だよぉ…なんてついつい見惚れてしまった。


「はい、よそ見しないでこちらを見てくださいね。力を入れずにそっと目を閉じてください。」


桃子さんに見惚れていたら注意された。

自分ではめったに引かないアイラインを引かれ、同じく自分では絶対に付けないつけまつげまでつけられて、最後に自分好みのリップを塗られ、特殊メイク完了。

数日前のお披露目会と比べると、色は抑えているものの随分派手なメイク。そして別人。それはお祝いの席だからということなのだろうか。




「それでは着替えましょうね。」

「!??」


ヘアメイクが終わった私は、部屋の奥のフィッティングルームへ連れて行かれ、コックコートを脱ぐように言われ、なぜか下着を渡された。

こんな下着、見覚えあるよ…って、聞いてない!話が違う!!

私が着るのはそこに掛けてある着物ですよね!?

ドレス着る人間違ってませんか?と聞けば、間違っていませんよ?と素敵な笑顔で返された。

呆然と立ち尽くす私。ついでに思考も停止中。あれよあれよという間に着替え終了。


「夏月ちゃん…すごく綺麗だよ!!オードリー・ヘップバーンみたい!!」


出来上がった私と1番初めに対面した桃子さんは目をキラキラ輝かせていた。


確かに、よく見ればドレスのデザインはローマの休日の白いイブニングドレスっぽい。1度しか見たことないからうろ覚えだけど…。

ドレスだけじゃなくて髪形も、アクセサリーもそんな感じ。違うのは、ティアラじゃなくて白いヴェールってところ。

桃子さんは、落ち着いたピンクのワンピースを着ている。


そして英治さんはどこ行った?




ひとり静かにパニック状態に陥っている私。


「夏月!おめでとう〜!!」


桃子さんが控室を出て行った後、部屋に入ってきたのは祖母と友人の鞠子だった。

突然の再会に、すごく驚いたけれど、お互い抱き合って喜んだ。


ここ数年、鞠子には心配かけっぱなしだった。彼女曰く、突然音信不通&行方不明になって連絡がつかなくなり、見つかったかと思えば、コミュ障になっていた…とか。

コミュ障と言うのは語弊がありすぎると思う。ただ単に、勝手な思い込みで、英治さんと連絡を取ることを拒んでいただけだ。


「何で?鞠子知ってたの?」

「うん。初めは食事会にご招待って話だったんだけど、ひと月くらい前に春日野さんの披露宴の司会を智也が頼まれて、つい1週間前に夏月と英治さんが同じ日に式だけ挙げることにしたからって聞いた。」

「お祖母様も?」

「ええ。私も1週間くらい前かしら?突然の事で驚いたけれど、夏月の性格を考えたらこの位で丁度いいかしらと思って。」


知らなかったのは私だけみたいだ。

まんまとハメられたみたいで悔しいけれど、お祖母様の言う通り、前もって言われたら私は断っていたに違いない。


「夏月、昔さ、お祖母様とヴァージンロード歩くのが夢だって言ってたよね。」


鞠子から結婚すると報告を受けた時、そんな話をした事があった。突然の事ですっかり忘れていたけれど、それは今でも変わらない。


「お祖母様、よろしくお願いします。」

「そんな…恥ずかしいわよ。」


「僕からもお願いします、アヤメさん。」


ドアが開く音と同時に、声がしたかと思えば、部屋に入ってきたのは英治さんとハルさんだ。


ベージュのタキシードを着た英治さんとチャコールグレーのスーツを着たハルさん。

だけど、よく見るとハルさんの着ているのは普通のスーツとはちょっと違うような?まさかショート丈のタキシード?


「あの…説明してもらえませんでしょうか…。」

「今から結婚式を挙げようかなと…」

「どんなノリですか、それ?」


この人むちゃくちゃすぎる。

って、私も人の事言えないか…桃子さんに同じことしようとしていたんだもんね。


「悪かった…頼んだのは俺だ。」


なんでハルさんが謝るんだろうと思ったら、こうなった経緯を事細かに説明してくれた。


1時間後には、桃子さんも今の私と同じような状況に陥るらしい。

しかも、ご家族、親戚、友人、皆がこちらに既に向かっているとか…私以上に驚くだろう。


次に式を挙げるときは私の希望を聞くから…と英治さんには言われたけれど、結婚式は1回で十分だ。

結婚式に呼びたかった人を全員呼べないのは残念だけど、祖母、桃子さんとハルさん、それに鞠子、佐伯さんも参列してくれるならそれで良い。

披露宴は来年か再来年にしなくちゃいけないみたいだし、今日呼べなかったあの人はその時に呼べばいい。


だけど、なんて言って呼べばいいんだろう。自分が拒んで遠ざけてしまったあの人を。

今更関係を修復したいなんてムシが良すぎるんじゃないか?

もう10年以上も連絡を取っていないんだし、祖母だって今の連絡先を知っているか分からない。

英治さんが一緒に探してくれるって言ってくれて、報告する事をこの間決心したばかりなのに、やっぱり躊躇ってしまう。


うっかり物思いにふけってブルーになってしまった。

ここにいるのは私だけじゃない。これ以上考えるのはやめよう。




「それから、今日こそこれをどうにかしたい。」


そう言って英治さんが取り出したのは半分ほどが記入済みの婚姻届と戸籍抄本が2通。

なかなか役所に戸籍抄本を取りに行けない私の代わりに、祖母にお願いして用意してもらったらしい。


挙式まで微妙に時間もあるということで、婚姻届とペンも受け取り、記入する。


氏名、住所、本籍…。そこまで記入して、ペンが止まってしまう。

父母の名前。婚姻届に実の両親の名前を記入しなければいけないなんて知らなかった。

正直、書くことに抵抗があった。

私が父の名を書いて良いのだろうか?自分が拒んで遠ざけてしまった父の名を。

そして、私を残して出て行った母の名を書くのは気が引けた。しかも、姓は水縹ではない。最早他人だ。


但し書きで、養父母の名前は「その他」の欄に書くように指示があったので、先に指定された場所に、「水縹 アヤメ」と祖母の名を記入する。

父母の欄以外を書き終え、それ以外に記入漏れが無いか探すが、見つからない。




「夏月…?」


心配そうな英治さんの声にハッとしてしまう。

私は意を決してペンを握る。例え、現在良い関係が築けていなくとも、2人が私の実の親である事は紛れも無い事実。

そして、もうずっと会っていない2人の名を記す。

「大倉 賢次」、そして「墨田 月子」。




「ごめん、すぐ戻る。」


何故かそれだけ言い残して、英治さんは控室を出て行ってしまった。

突然の事に呆気に取られていたが、婚姻届の証人の欄が1つ空白である事に気付いた。

もう一方は、既に埋まっている。


「ここ、鞠子に書いてもらいたい。私達も、仲の良い2人にあやかりたいし。」

「もちろん。喜んで書かせていただきます。丁度印鑑もあるしね。」


にっこり微笑んで、ペンを受け取り、彼女らしい美しい文字でスラスラと署名し捺印してくれた。

その隣には、力強い大きな文字で書かれた彼女の旦那様の名前が並んでいた。

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