未練 (佐伯視点)
「佐伯、相変わらず酷ぇ顔してるな?昨日もかなり飲んだだろ?」
「関さん……佐伯っち未だに未練タラタラやねん。昨日もみんなで飲んだんやけど…夏月ちゃんが引越しの時要らんからって佐伯っちに布団くれたって話、前にしたやろ?彼女が気ぃきかしてクリーニング出して…佐伯っちのとこに配達してもらうようにしてくれたらしいんやけど…『クリーニング出さないままで欲しかった…』とか、『夏月ちゃんの温もりが…』って未だに嘆くんやで?昨日の変態っぷりはほんまに酷かったなぁ…山田くんもそう思うやろ?」
「昨日の佐伯さんは変態以外の何者でもなかったですね…。」
夏月ちゃんがボヌールを辞めて1ヶ月。
関さんと山田と3人で仕事する事にもすっかり慣れ、忙しくも充実した毎日を送っている。
彼女が辞めてしまった直後は、関さんや山田に向かってうっかり「夏月ちゃん」と呼びかけてしまうこともあったが、今では流石にそんな事は無くなった。とはいえ、仕事中も、ふとした瞬間に彼女を思い出してしまう俺がいた。
彼女とどうにかなりたいとか、自分のモノにしたいとか、そんな感情はもう無い。だからと言って、彼女の存在の大きさや彼女への気持ちをすぐに消し去ることなど出来る訳もなく、思い出しては切なくなり、誰かと酒を飲んでは本音を溢して変態扱いされている。
自分でも、冷静になれば気持ち悪いと思うようなことをうっかり口走っているのだから、変態扱いされるのも無理はない。
「佐伯、蘇芳さんに誘われてんだろ?山田がまともに使えるようになったらここ辞めて良いぞ?じゃないと俺がお前に追い出されそうだからな…俺はここに居座る!だからお前が辞めろ!」
「突然何ですか!?…嫌ですよ。こんないい店なんてなかなか無いんすから…。関さんこそ独立しないんですか?」
「独立する気は無ぇ。ボヌールのデセールが好きなんだよ…俺は。だから佐伯、お前が出て行け…意外と近くにいて仲睦まじい姿見ていた方が早く諦められると思うぞ?」
「…もうとっくに諦めてますから。」
「……強がりたい気持ちはわかるが、無理すんなって。」
俺が彼女に思いを寄せていた事は皆が知っている。あの日、目の前で彼女を奪われて…奪われるも何も、元々彼女の気持ちはあの人にあった訳で、「奪われて」など言う事自体がおこがましいのだが…泣き腫らした俺の顔を見られては仕方あるまい。
最近は忙しいせいか、英さんから電話がかかってくることはすっかり減ってしまった。それをなんとなく淋しいと感じてしまう俺。
関さんの言う通り、近くで2人を見ていた方が早く諦められる気がする。
それも良いのかも知れないな…そんな事を考えながら、いつもの作業を進める。まぁ、そうするよりも、今の生活を送っていく中で自然と彼女への恋愛感情が綺麗サッパリ無くなる方が良いに決まっているんだが…。
周囲はとりあえず次いっとけだとか、可愛い子紹介してやるとか、新しい恋愛をするべきだ…としつこく言ってくるけれど、そんな気はない。
そんな暇があったら勉強したいし、今は仕事に集中するべきなのだ。
そして今日も帰宅後、勉強をしようと彼女が纏めてプレゼントしてくれたファイルを開き、彼女を思い出し、切なくなって…それをここひと月程、毎日繰り返しているわけで…。
***
その後もそんな毎日を送り、更に1ヶ月半が経った。
自分の未練がましさにもいい加減嫌気がさす。
もうここまでになると笑えてくる…。
「何1人で笑ってるんだよ?相変わらず気持ち悪ぃなぁ…。」
そんな姿を不覚にも関さんに見られてしまった。
「相変わらず」って酷くないか?まぁ変態のレッテルを貼られているのだから仕方あるまい…。いや、ちょっと考え方を変えてみよう。違う角度から見れば俺の変態…もとい未練がましいところだってポジティブに捉えられる筈。
それってつまり、『一途』…って事じゃないのか?
随分聞こえが良くなった。とりあえずそういう事にしておこう。なんか元気が出た。
気持ちの切り替え、大事。
「おい…大丈夫か?いきなり無表情になったかと思ったらまた笑って…。まぁ良い…。明日、夕方で上がれ。明後日はうちじゃなくて余所のヘルプな?もう上に話は通してあるから。」
「は?いきなり何なんすか?ヘルプも何も…」
「大丈夫、ここは俺に任せとけ。その分今日は忙しくなるぞー?それに明後日は立花が有給にしてくれるってさ、良かったじゃねぇか。」
「…ヘルプって一体どこに?有給って…そんなシステムうちにもあったんですね…。」
「まぁ一応な…使えるかどうかは別としてあるんだよ、有給。ヘルプに入るのは…」
有給なんてあってないもんだと思っていた。それに対して不満も特にない。この業界なんてそんなもんだろう、その程度の認識。
次に発せられた関さんの言葉に、俺は耳を疑った…。思わず聞き返してしまった程に。
そして、それが聞き間違いでないとわかった途端、思わず顔がほころんでしまう。
ヘルプに入るのはまさかの英さんの店。そしてまさかの夏月ちゃんの手伝い。
「大方想像はついていたが…嬉しからってそこまで顔に出すなよ…流石にこれじゃあいつが気の毒だな…。」
「誰が気の毒なんですか?」
「いや、それはこっちの話だ…気にすんな。それと、明日のランチ夏月が来るぞ?勿論蘇芳さんとだけどな。誕生日だってよ。」
関さんの「こっちの話」というのが気になったが、もうそんな事はどうでも良くなってしまった。
「夏月ちゃんのデセールの仕上げ、俺がやります。」
「そう言うと思った…お前本当に分かりやすいな…これで気付かないあいつも酷ぇよな…だからこそあの人もお前を誘える訳なんだろうけど。本当にあの人は昔っからお前の事好きだよな…立花さんもお前が厨房に入るの惜しがってたし…涼も言う通り佐伯とは確かに仕事がやり易いし…お前が見どころある奴だって理解できなくはないけど…自分の嫁に惚れてる男と嫁を一緒に仕事させるとか俺は無理…。」
「それだけ英さんは自分に自信があるんじゃないですか?…悔しいけどそんなあの人が嫌いになれないんですよね…むしろ以前よりも男前に見えるっていうか…男が惚れる男…みたいな?ずっと俺の事買ってもらってるし…力になりたいと思うんですよ。…!?…って決して変な意味じゃないっすからね!?そう言う顔やめてもらえませんか!?」
関さんの生温かい視線に気付き、慌てて訂正するも鼻で笑われてしまう。
「そんだけ相思相愛ならあれだな、夏月がお前にヤキモチ妬くっていうのも頷けるな…本命の相手にライバル視されるって…終わってるよなぁ…意外と近くにお前の事ずっと見てる奴がいるんだけど…それじゃあ気付いてやれっていっても今はとてもじゃないが無理だよなー?」
「もしかして関さん、ヤキモチ妬いてます?俺、関さんの事も尊敬してますから…。」
「……本当にお前重症だな。俺じゃねぇよ…」
呆れたような顔で関さんが言う。乾いた笑いとはこのことだ、と言わんばかりの笑いと共に…。
俺はおかしなことでも言ったのだろうか?関さんじゃないなら立花さんか?
「そんな事より仕込みだ、仕込み。グラス・ヴァニーユとソルベは…何が少ないって言ってたんだっけ?」
「グリオットとシトロン…それからマングと…グラス・オ・ショコラも明後日までは厳しいっすね…。」
「じゃあそれ山田と仕込んどけ。俺はフィユタージュの続きして…ついでにショコラのタルトのサブレ仕込んどく。明日無いとマズいだろ?丁度フレッシュフランボワーズも旬だしな。」
5種類のグラスとソルベを仕込み終えるとすぐに夜の営業が始まる時間だった。
早いところではボーナスが出た後のせいなのか、たまたまなのか、平日の割にそこそこ予約が入っている。結婚記念日が3組、誕生日が2組、それからプロポーズをするというお客様が1組。
プロポーズをするお客様というのはそう珍しくない。そんなお客様がいらっしゃる度、自分の働く店が「特別」とか「非日常」な店なんだと実感する。そう言えば、涼さんも彼の店を「非日常」な空間にしたいって言っていた…。
毎日ここで働く俺たちにとっては日常でもお客様にとっては非日常の空間。それを演出するのがサービスであり、料理であり、ワインであり…そして締めくくるのがデセールだ。
この仕事はいわば夢を与える仕事。笑顔を与える仕事。
この仕事が好きだ。そしてこの店も大好きだ。ボヌール以上に好きになれる店なんてあるだろうか?少なくとも現時点では無い、そうはっきり、胸を張って言える。
「佐伯、明日ここからそのまま行くことになるから荷物まとめて来いよ。コックコートは貸してくれるから不要…それから、内覧会当日は夜ボヌールに来る感じの服装で来てほしいって。」
「やっぱりそうですよね…一応ジャケットは持っていくつもりだったんですけど…関さん、タイはどう思います?」
「大した荷物になるわけじゃないから持っていったらどうだ?当初の予定と日程も変わってるしなぁ…なんかありそうだよな…手が足りないってお前が呼ばれるくらいだから俺らのほかにも招待客はやっぱそれなりの人数いるって事だろ?だったらむしろスーツでもいいかもしれないよな…。」
「そんな悩むようなこと言わないでくださいよ…。」
「両方持っていけばいいんじゃねぇの?蘇芳さんがこっから帰りに乗せてってくれるみたいだし。」
帰り際、関さんとそんな話をしていると、いつものメンバーが話に入ってきた。
「蘇芳さんが明日来るって佐伯っちのお迎えなん?あーりーえーへーんー。あの人何考えてるんやろ?」
「蘇芳さんと佐伯は相思相愛だからな…嫁が佐伯にヤキモチを妬くほどに…。」
「夏月さん、相変わらず鈍いんでしょうね…でも良かったじゃないですか、篠山さん?」
「宇部ちゃん…私に話を振らんといて!」
内覧会は当初、店の定休日だった。しかし、5月の頭に英さんから連絡があり変更となった。
日曜なのでレストランは「研修のため」という建前で閉め、パティスリーは通常通り営業する。レストランのスタッフも全員が全員招待されているわけでもないので、そんなスタッフが電話を受けたり、普段なかなかできない所の掃除をすることになっている。…といっても、招待されていないスタッフは夏月ちゃんが辞めた後に入ってきたスタッフばかりなので、気の毒だが仕方あるまい。
「さっき服装の話されてたみたいですけど…日曜日、ドレスコードなんてあるんですか?」
「ドレスコード、あるんだよ。言い忘れてたけど、って昨日連絡もらってさ。夜ボヌールに来る感じの服装だそうだ。悪いけど他の奴らにも伝えといてくれ、篠山頼んだぞ?それと当日はここに9時集合。バスも手配してくれるらしい。遅れたら容赦なく置いて行かれるからな…北上、気ぃ付けろよ?」
「…俺、絶対遅刻しませんって!だから遅れても置いて行かないでください!」
「…それ、思いっきり矛盾してるで?相変わらずやな…服装も気ぃ付けるんやで?ダメージ加工のデニムとか絶対履いてきたらあかんからな?」
「大丈夫っすよ?任せといてください!」
北上の「大丈夫」はちょっと心配だが、彼も3年ギャルソンをやってきたんだし…まぁ大丈夫だろう。
しかし、当日あいつには「スーツで来い」というべきだったと皆が後悔することになるとは…この時はまだ誰も予想できずにいた…。
翌日、朝イチでフランボワーズとショコラのタルトを仕込む。
前日、関さんが仕込んでおいてくれたサブレ・オ・ショコラを型に敷き込んで…夏月ちゃんはフォンサージュがすごく上手かった。彼女の見事な指さばきについつい見惚れていた日が懐かしい。
涼さんや関さんも上手いけれど、タルトレット型に関してはやはり彼女が断トツだった。当たり前だけれど、女性である彼女は手が2人に比べると小さい。その分細かい作業が2人に比べて有利なのだろう。同じものでも彼女が仕上げると繊細で美しい仕上がりになる。
1日だけとはいえ、そんな彼女の仕事をまたすぐ側で見ることが出来ると思うと胸が高鳴る。
恋愛感情を差し引いてもそれは変わらないだろう。女の子としてじゃなく、1人の職人としても彼女を尊敬しているし、憧れているのだから…それがあるからこそ余計、彼女への思いを断ち切れずにいることも分かっている。
そして何より、俺なんかよりも彼が彼女に相応しいことも…。
ショコラの香りが立ち込めるオーブンの前、無機質な電子音が鳴るのをただ待つ。そして、それが鳴り響くと直ぐに扉を開けて天板ごと取り出し重石を取り出して再びオーブンに戻す。
見た目以上に重く、そして、迂闊に天板やオーブンに触れてしまおうものなら即火傷しかねないこの作業。あの頃は毎日俺が引き受けていたんだっけ。
特別小柄なわけではないけれど、俺や長身の涼さんに比べたらずいぶん小さいし、細い腕は頼りない。
この作業で火傷するのは肘より下の内側、肌が白くて弱い部分。そこに線を引いたような火傷をしてしまう事が多い。すぐ冷やしても跡は残るし、作業にかまけてすぐに冷やさないことだって良くある。
彼女の細く白い腕に傷が残るなんて嫌だった。
そんな俺の些細な我が儘を理由に引き受けていただなんて彼女は知らないんだろうな・・・。
焼き上がった生地を取り出し、熱いうちにフランボワーズのコンフィチュールを底に塗る。
冷ましている間に、細かく刻んだカカオ分64%のクーベルチュールを溶かし、そこへ温めたフランボワーズのピュレを加えてゆっくり混ぜて乳化させ、フランボワーズのオー・ド・ヴィを加えて静かにまぜて…。
冷めた生地へ静かに流し込み、そのまま常温でゆっくり冷やし固めれば8割完成。
あとは注文が入ってから仕上げるだけ。
フランボワーズを隙間なく乗せ、粉糖をふるい、アングレーズとフランボワーズのソースを添えてグラス・ヴァニーユを盛り付けて…。
6年前、彼女と初めて出会った日、彼女にサーブした一皿もこれだった。
目を瞑れば今も鮮明に思い出されるあの日の光景。
6年後、同じ皿を自分が作っているだなんてあの日の俺には想像も出来なかっただろうな…あの頃の俺は料理人志望だった訳だし…。
「おーい、佐伯、タルト出来たらこっち頼む!山田を手伝ってやれ!」
関さんの言葉に現実に引き戻される。
声をかけてもらわなければ危なかった。危うく感傷に浸ってしまうところだった。
開店前のいつもの作業。
飾り用のチュイールを焼き、熱いうちに型に押し当ててカーブをつける。熱いうちにやらなければカーブがつかずに割れてしまう。慣れるまではなかなか難しい作業だ。
ポイントは1枚の天板に乗せる数を減らして時間差をつけてオーブンに入れること。山田にも何度も言っているもののなかなかバランスを見極められないらしい。俺もそうだったな…と思う。俺の場合、夏月ちゃんが具体的に教えてくれたんだっけ…って俺はそれをしてない。
「これやるよ。良かったら参考にして。1枚にのせる数と入れるタイミングの目安。」
「もらってもいいんすか?…夏月さんの字ですよね…これ?」
「ほかに言うことないのかよ…。」
それじゃあまるで彼女からもらったメモを手放したくなくて隠し持ってたみたいだな…ってただの嫌な奴じゃねぇか…俺。
「変態卒業するんですね…。」
「佐伯、成長したな…。」
山田ぁ…そりゃないぜ…。俺たちの会話を終始聞いていた関さんは大爆笑だ。
「変態卒業」とか「成長」なんて感慨深そうに言われても正直困る…。そのおかげで現実に戻ってこれたのも事実だけどな…。
「特別室1、ご予約のお客様2名様いらっしゃいました。」
「佐伯ぃ、蘇芳さんいらしたってよ。予想通りタルトショコラな。グラスとソルベ、3点盛りにしてフランベでもしてやってこい。あいつの誕生日って事、忘れんなよ?」
ランチのピークを過ぎたころ、英さんと夏月ちゃんはやってきた。偶然なのか立花さんが狙ったのか、あの日と同じ個室。伝票を見た関さん。やはりオーダーは2人が好きだというタルトだった。
「夏月ちゃんまた痩せたなぁ…大丈夫かいな、あの子…。」
「それだけ忙しんでしょうね…昼も夜も…」
「胸は落ちてないってそう言うことだよねぇ…新婚さんだし…毎晩とか羨ましいわ…」
「加奈子も宇部ちゃんも佐伯っちに聞こえたら凹むでぇ?………って佐伯っちいたんかいな!?」
「…いたら不都合ですか?昼間っから相変わらずですね、加奈子さん?」
今まで散々この3人、特に加奈子さんの言動にはドン引きしてきたが今日のは特別酷い。真昼間、しかも酒も入ってなくてこれかよ…周りを見回せば聞こえていたであろうほぼ全員が苦笑い。出来上がった皿をデシャップまで自分で持っていくんじゃなかった…そんな話…所詮あの3人の妄想だろうけど聞いていて気分のいいもんじゃない。こんなことなら山田に頼めばよかった…。
「さ…佐伯さん、夏月さん前より可愛かったですよ?」
「そ…そうやで、めっちゃ幸せそうやったでぇ?」
明らかに宇部ちゃんと篠山さんは俺に聞かれて動揺している。
「佐伯っちは私の気持ちわかるよねぇ?」
「……すみませんけど、まだ仕上げあるんで…。」
加奈子さん…マジで無理。あの人悪魔だ…悪魔が笑ってるようにしか見えねぇ…あそこで同意を求めるとか…あり得ねぇ…マジで怖いよ…絶対俺の反応見て面白がってるよ…。
逃げるように持ち場に帰り、ヴァニラとショコラのグラス、フランボワーズのソルベを練り直して冷やしておいた少し深さのあるガラスの器に盛り付け、再びフリーザーで冷やす。
ガラスのプレートにアングレーズ、そこにソースフランボワーズを数滴たらして竹串ですーっと線を引く。
先程仕上げたタルトをのせて…。
”Happy birthday Natsuki”
チョコレートの文字。
タルトに立てたロウソク。
別容器に盛り付けたグラスとソルベを添え、サーブしたら目の前でフランベして…。
彼女は喜んでくれるだろうか?
「佐伯、ご指名だぞー?用意できてるか?1人じゃ運びきれないだろ、手伝うぞ?」
「関さん、お願いします。」
「関さん、俺も行ってもいいですか?フランベ見たいっす。」
そんなわけで、関さんと山田と3人で個室へ向かう。
「失礼致します。」
「誠治君、待ってたよ?」
「久しぶりー、元気そうだね?」
俺が部屋に入ると、笑顔で手を振ってくれた夏月ちゃん。
篠山さんの言う通り、以前よりも顎のラインがシャープになっている。濃い色のカーディガンを羽織っているせいか、腕も随分細く見える。
左手の薬指に光る2つの指輪が眩しい。
「お待たせいたしました。ショコラとフランボワーズのタルトでございます。本日は福岡県産のフレッシュフランボワーズでお作りしております。今から最後の仕上げをさせていただきます。少々お待ちくださいませ。」
ごく小さな銅の片手鍋に入っているのは温めたフランボワーズのオー・ド・ヴィ。それに火を点け、部屋の照明を落とす。
初めのうちは勢いよく青い炎を上げている型手鍋。その揺らめく炎が少し落ち着いたところで、グラスとソルベにオー・ド・ヴィを小さなレードルですくいかける。
「夏月ちゃん、お誕生日おめでとう。」
「佐伯さん、ありがとう!…すごくいい香りですね、英治さん?」
俺に向けられた笑顔は一瞬で、すぐにその笑顔は彼のものになってしまう。
「急に無理なお願いして申し訳ない。誠治君、明日はよろしく頼むよ?」
「もしかして、助っ人って佐伯さんなんですか?」
「あれ?夏月ちゃん知らなかったの?」
「そうだよ、関さんに無理言ってお願いしたんだよ、本人に言っても多分来てくれないからね?」
「おかげさまで初めての有給をいただきました。」
「佐伯さんが手伝ってくれるならきっと大丈夫です!結構妥協しなくちゃいけないんだろうなぁ…って思ってたんですけど、そうせずに済みそうです。佐伯さん、多分明日はかなりハードになるけどよろしくね?」
「夏月、無理しちゃ駄目だからね?誠治君、夏月はすぐ無理するから止めてやってくれ…全く僕の言うことは聞かないからね。」
「色々都合ってものがあるんです。同じ状況なら関さんも佐伯さんも多分私の味方になってくれるハズですよ?」
無邪気に笑う夏月ちゃんは幸せそうで、そんな彼女はとても美しかった。彼女を穏やかな目で見つめる英さんもまたとても幸せそうで羨ましかった。
そんな2人を見ていても全く苦しくないとか辛くないと言ったら嘘になってしまうが、俺までなんだか幸せな気持ちになってしまったのも事実。
こんな気持ちになるなんて…正直自分でも驚いてしまった。
デセールを嬉しそうに、そして本当に美味しそうに、残さず綺麗に食べてくれた2人。
返ってきた皿を見れば、2人の様子を見なくとも喜んでもらえたのが伝わってくるが、やはり自分の作ったものを目の前で楽しそうに食べてもらうのは良いものだ。
「じゃあまた後で来るから。」
そう言って英さんと夏月ちゃんは店を後にした。




