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両親の話 (夏月視点)

「夏月、何言ってるんだい?一緒にご挨拶してもらわないと困るよ?」

「えっと…私は裏方で頑張りますので…ご挨拶は英治さんと小山田さんで…。あ、もちろんお料理の追加なんかで店に出た時は失礼があってはいけないのできちんとするつもりですよ…?」

「コックコート着たままで?」

「ええ、私はパティシエールですから!この仕事も制服も大好きなんです!ほら、ウェディングケーキだって私カットして振舞わないといけませんし…。」

「…涼の仕事取るつもり?」

「少なくなったら追加だって…」

「それは三田君の仕事。」


数日後に控えた親会社の関係者向けのお披露目会。その席に私はスタッフとして裏方で働くのか、それとも英治さんの婚約者としてお客様をお迎えするのか…私と英治さんの予定が思いっきり食い違う。

私はもちろん前者のつもりでいた。…というよりも、後者という選択肢があるなんて思ってさえいなかった。




お披露目パーティとか関係者向けの内覧会的なものと言えば…華やかで…キラキラしていて…社交辞令が飛び交って…女性は着飾って…美味しい料理はあるけれど思うように食べられない、そんなイメージ。…ネガティブな意味で。


実は昔…と言っても子どもの頃、祖母に連れられてそういった席に何度か出席した事がある。

普段着ないような派手目のワンピースやドレス、少し成長すると着物なんかも着せられて、祖母の後ろについて歩いて、常に愛想笑いを浮かべ、話しかけられたら差し障りのないように答えて…というのを必死でこなしていた記憶がある。


あの頃、祖母のオマケとしてでさえ行きたくなかったのに、主催者の婚約者としてお迎えするなんて私には荷が重すぎる。


知的な会話なんて無理です。親会社の事なんて何も知りません…。忙しいのに今から勉強って言われても困ります!…それに、そんなところに着ていけるようなドレスなんて持ってないですよ?英治さんにあの日見立ててもらったドレスはありますけど…それじゃあちょっとカジュアルですよね?

という訳で、お断りさせていただきます!


「あの…私には荷が重すぎます。ずっとお菓子の事ばかり考えていたので、知的な会話なんて無理ですし、マナーや振る舞いだって自信ありません…それに着る物(ドレス)だって…。」

「夏月のマナーや振る舞いついては全く問題ないよ?祖父母のお墨付きだからね。知的な会話なんて必要ない。この店の事や料理、ケーキの話をしたら良いんだから…。着るものはもうアヤメさんに見立ててもらっているし、着付けもお願いしてるから。」


う…なんかしてやられた感が…。祖母に見立ててって和装か…祖母のところには腐る程着物があるからなぁ…。着る物が無い!と主張して断る道は絶たれた…。


「それに、僕の両親にも紹介したいし…。」


英治さんのご両親…?いらっしゃるだなんてきいてないです!…って普通に考えたら関係者か…ははは。

そんな事よりも!ご両親という存在をすっかり忘れていた事に気付いた。

最低だ…。


私は幼い頃から祖母に育てられていて、もう長いこと親になんて会っていないし、親なんていないもんだと、特に母なんて死んだものだと思って過ごしてきた。

自分がそんなだし、開店の準備やら引越しバタバタしていたし、『英治さんのご両親≒英臣さんと春乃さん』な感覚でした。


本当に申し訳ない気持ちでいっぱいです…。慎んでお詫び申し上げます。


「…というわけだから。そんなに大袈裟に考えないでいつも通りで良いんだよ?」


そんな感じで、いつの間にやら英治さんに上手いこと丸め込まれてしまった私。


「ではその様にご連絡…じゃなくてヒデが会長に直接電話してくれ。そういう事でお疲れ〜。」




小山田さんが軽やかな足取りで帰った後、私達もすぐに帰宅した。帰宅と言っても階段上がるだけだけど…。帰宅後、軽く飲みながら、ご両親についての話を聞いた。


「ほら、僕と夏月が初めてあった時…あの頃から離れて暮らしてて…もう27年か。淋しくなかったと言えば嘘になるけれど、そういうものだと思っていたし…祖父母の手前、それなりに我慢はしていたんだと思う。何より両親と離れてすぐに…夏月に会ったのも大きい。」


リビングの中央に置かれた革張りのソファーに2人並んで腰掛け、しっかり冷やしたブルゴーニュの白を飲みながら懐かしそうに語る英治さん。


「僕よりも小さい女の子が泣いているのに僕が泣くわけにはいかなかったからね…。それに僕は年に数回とは言え両親に会えたんだから…。」


そう言ってピンク色のフランボワーズのマカロンをそっと持ち上げ眺める。


「『げんきになれるまほうのおかし』だったんだよ、あの時のマカロンは。『1度食べたら、さみしいことがあっても、辛いことがあっても、乗り越えられるんだよ』…そう言って両親が持たせてくれたんだ。

僕らの教育は祖父が決めていたから…両親はあんまり口は出さなかったけれど、子どものことはちゃんと把握して気にかけてくれていた。ポイントを押さえるのが上手いんだよ…誕生日には多少前後したけれど会いに来てくれていたし…電話は頻繁にくれたし。

そういえば夏月にも昔会ったことがあるらしいよ?20年前、そこのホテルが開業する時のパーティ。今でもはっきり覚えているって言ってた。『マカロンのなっちゃん』は僕の初恋の女の子だって両親も知っていたからね…。」


20年前…残念ながら英治さんのご両親にお会いしたことも、八ヶ岳のホテルのパーティに行った事も私は覚えていなかった。


「鴇色の着物を着て、アヤメさんの後ろをぴったりついて回る笑顔の可愛い、穏やかで清楚な印象の女の子だったって。…お披露目の時夏月に会うのをすごく楽しみにしているって。」


マカロンを齧り、にっこり笑って…。でもすぐに、少し困った様な顔で私に尋ねてきた。


「夏月は…夏月のご両親に結婚の報告をする気は無いのかい?」






それは、私が考える事を避けてきた問題だった。




私が5歳になる年の春、両親は離婚した。


普段は忙しくてなかなか会えないけれど、お休みの日は必ず父と2人で出かけていた。

たくさん遊んでくれて、色んな話を聞かせてくれる優しいお父さん。

お父さんっ子だった私は、毎朝、父に「お仕事に行っちゃ嫌だ」と泣いていた。父が大好きで、ずっとそばにいて欲しかったからだ。しかしそれが許されるはずもなく、毎朝父は困った様な笑顔で「行ってきます」と「今度のお休みは◯◯に行こうね?」と言いながら、私の頭をとても優しく撫でてくれたのを覚えている。




母は普段あまり笑わない人だった。よくわからないけれど、忙しそうにしていたイメージがある。なので私はお手伝いさんにお世話してもらったり、遊んでもらう事が多かった。


だけど時々、母は私を連れて出かけた。

そんな時私は決まって、フリルやリボンがふんだんにあしらわれ、ギャザーのたっぷり入った洋服を着せてもらい、髪を巻いてもらっていた。

そして、母と私の洋服やバッグ、靴を買いに行くのだ。

私は普段あまりかまってくれない母と出かけられるのがとても嬉しかった。そこでは、普段なかなか見られない母の笑顔が見ることが出来るのだから…。

私が洋服を試着するたび、母は嬉しそうに笑った。「可愛い」と言って抱きしめてくれた。私は、笑って抱きしめてくれる母が好きだった。

母に好かれたくて、可愛いと言ってもらいたくて、母の前では極力わがままは言わず、母の言うことを聞いて、常にニコニコ笑うよう心がけた。




しかし、ある時から私は祖母と2人で暮らすようになった。どういう経緯でそうなったのかは覚えていない。

その頃は毎日泣いて暮らしていた。


だけれど、ある日を境に私は変わった。




それはよく晴れた暖かい春の日で、庭に植えられた桜は満開。風がそよぐ度、その花弁がはらり、はらりと優雅に舞い落ちていた。


『げんきになるまほうのおかし』


それをくれた男の子、つまり英治さんと出会って私は笑えるようになったのだ。




私が笑えるようになると、時々ではあるが、父と電話で話しをさせてもらえるようになった。

小学校にあがって文が書けるようになると、手紙のやり取りをするようになった。

私は父からの手紙が来るのが待ち遠しくて、郵便物のチェックは私の日課となった。

父から届く手紙は、いつも決まって同じ封筒で、アルファベットで宛名が書かれ、見慣れない切手が貼られていたのですぐにわかった。それを見つけると私は飛び跳ねて喜んでいた。


中学生の頃、『げんきになるまほうのおかし』がマカロンという物だと知った。そして、自分でも作れるようになりたい、そしていつか、私にそれをくれた男の子に私が作ってプレゼントしたいと願うようになった。


その頃、父がフランスのパリに住んでいて、ソムリエという仕事に就いている事を知った。


高校に入った私は、フランス菓子の勉強をしてパティシエールになりたいと本気で思うようになり、父へも手紙でそれを相談していた。

すると父は、高校卒業後、「一緒に暮らさないか」と誘ってくれた。パリの料理学校に通い、卒業後はどこかの店で修行すればいい、語学も教えるし面倒だって見るから…と。

ずっと会っていないとは言え、大好きな父。舞い上がるほど嬉しくて、卒業後は父の元へ行くつもりで、私はフランス語の勉強を始めた。通学する電車でも毎日テキストを読んでいた。

父への手紙も辞書や語学の本とにらめっこしながらフランス語で書いてみたり、電話でも発音を教えてもらったりして…卒業して、父と一緒に暮らす日を心待ちにしていたんだ…。




ところが、ある日、10年以上音沙汰の無かった母が私を訪ねてきた。

何かと思えば、私と一緒に暮らしたい、親子としてやり直したい、そう言われた。

母は再婚していて、再婚相手との間に子どもが1人いるそうだった。

ある日突然現れて、新しい父親と、いつの間にか産まれていた10歳の弟と一緒に暮らして家族にならないか?なんて言われても困る。

それに、私にはパティシエールになる夢がある。


それに私の父親は、大好きなお父さんただ1人だけ。


私は母の話を断った。

そして父の元へ行く事を打ち明けた。


すると母は逆上した。逆上した母の口から出てきたのは母親としてあるまじき言葉と父に対する誹謗中傷だった。


「あなたなんて産まなきゃ良かった」

「あの頃は言うことを聞く人形みたいで可愛げがあったのに」

「父親があなたの世話をするのはどうせ金目当てよ」

「父親と一緒に暮らす?もしあの人に恋人でもいたらその女と3人で暮らすの?」


幼い頃の私は、母にとって「娘」では無く、「言うことを聞く着せ替え人形」だったのだ。

母の言葉に酷く傷付けられた私は、母だけでなく父まで信じられなくなってしまった。


それ以来、私が父に手紙を書くことも、父から私宛の手紙が届く事もなくなった。


フランスへ留学し、父と暮らすことを断る事さえ自分でせずに祖母に押し付けたのだ。

高校卒業後は、家から通える製菓学校へ進学し、1年祖母の旅館の手伝いをした後、洋菓子に携わる仕事に就き今に至る。




私には10年以上後悔している事がある。


なぜ、あの時母の言葉を鵜呑みにして父との関係を一方的に絶ってしまったのだろうか?

なぜ、父を信じようとしなかったのか?


二十歳の誕生日に1度だけ父と電話で話した。その時、父は会いたいと言ってくれたのに、私はそれを拒んでしまった。その時既に、母が言ったことは誹謗中傷で出まかせだって分かっていたはずなのに…。




母に結婚の報告をするつもりはない。


でも…父には…会いたいと願っても良いのだろうか?

一方的に関係を絶っておいて、今更親子としてやり直したいだなんて、ムシが良すぎるのではないだろうか?

それではまるで、(あのひと)と一緒ではないか…。


父に報告したい。

父にも祝ってもらいたい。

あわよくば、親子としてやり直したい。


でも、まだ心の整理が出来ていない。

父に拒まれるかもしれない、私にはそんな覚悟が出来ていない…。

自分は父を拒んだというのに…そんな事言うなんて私は本当に身勝手だ。





私は英治さんにこの話を打ち明けた。

お酒のせいもあってか、話しているうちに感情が高ぶり、気付けば嗚咽をあげて泣いていた。


「ゆっくり考えていこう。ちゃんとした式は店が軌道に乗ってから…まだはっきりした時期も決まっていない訳だし、焦らなくて良いんだよ…それまでに覚悟を決めて、覚悟が出来たらパリにいるお父さんを一緒に訪ねよう。そして、式に出席してもらえるようお願いしよう。もし万が一、断られても大丈夫。夏月には僕がいるから…。ずっと側にいて、ずっと愛し続けるから…。傷付いても僕が癒してあげるから…。だから、そんなに恐れないで…。」


英治さんに抱きしめられ、彼の腕の中で落ち着きを取り戻した私は、涙を拭いて頷いた。

焦らなくていい、ゆっくりでいい、恐れなくていい…それがどんなに心強かった事だろう。

私には英治さんがいる。

だからきっと大丈夫。

すぐに…ではないけれど、私は父に結婚を報告する事を決心した。

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