開店準備 (夏月視点)
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今回、短めですがご了承ください。
銅鍋の中でふつふつと音を立てる半割のさくらんぼ。
厨房に漂うヴァニラの甘い香り。
時々灰汁をすくいながら、焦げ付かないように絶え間なく混ぜ、真紅のとろりとした状態になるまで煮詰めていく。
煮詰まったらそれをあらかじめ煮沸消毒してシナモンスティックを1本入れておいた瓶に流し込んでいく。
1瓶1瓶蓋をして、鍋に瓶ごと入れて、再び煮沸消毒。
それがすんだら取り出して、一つ一つ丁寧に水滴をふきとってゆく。
粗熱が取れたら小さくカットしたクロスを蓋にかぶせ、リボンで丁寧に結んで…。
さくらんぼとヴァニラとシナモン、ブルーベリーとカシス、アプリコットとはちみつ、3種のプラム、白ブドウとルバーブ、赤ブドウとドライイチジク、リンゴとキャラメル、白桃とヴァニラ、ローズマリーと苺、ドライフルーツと赤ワイン、フランボワーズとチョコレート…。
この2週間ほど、地元の食材を使って、私は1日中コンフィチュールをひたすら炊いている。
マリア―ジュ。
そんなコンセプトに合わせて、店で出すコンフィチュールも2種以上の素材を組み合わせたものばかり。
ハルさんの店の商品として出すほか、小瓶に詰めたものを、開店記念のノベルティとしてお客様に配るのだ。
ハルさんのパティスリー"Le pêcher"では、白桃とヴァニラ、または3種のプラムを、英治さんのレストラン"La rune d'été "では、ドライフルーツと赤ワイン、またはフランボワーズとチョコレート、どちらかのコンフィチュールをお買い上げまたはお食事されたお客様にお選びいただきプレゼントする。
ハルさんのパティスリー"Le pêcher"、つまり桃の木にちなんで桃系のコンフィチュールを2種、英治さんのレストランはワインに力を入れているということでワインを使ったものを2種、そんな基準でピックアップした。
フランボワーズとチョコレートのコンフィチュールには、ほんの少し…味に深みを持たせる程度にワインを使っている。これが選ばれたのにはワインを使っているということ以外の理由もあったりする…それは英治さんと私の思い出。
幼い日のマカロン、英治さんが好んで購入していたムース、2人であの日ボヌールで食事した際に食べたタルト、再会した際に私が作ってお出ししたデセール…。
それらはすべて、フランボワーズとチョコレートの組み合わせ。
甘くて、酸っぱくて、ほんのり苦くて、そこにワインの奥行きが加わって…。
そんな”マリア―ジュ”を、"La rune d'été "でまた楽しんで頂けますように…。
そんな願いが込められている。
「夏月、キリのいいところで上がれよ…。」
「嫌です。ハルさんと桃子さんがこちらで作業している限り、私も働かせて下さい。」
「お前なぁ…。」
「出来るだけ早めにノベルティ終わらせたいんですよ。休み明けに持ち越したくないっていうか。来週は…ヌガティーヌとかクラクランもなるだけたくさん用意しておきたいですし…飾りのショコラも作りだめしたいですし…週の後半からは焼き菓子の仕込みだって始まるじゃないですか?今日のうちにいいとこまで進めて…頑張りたいんです。」
現在、夜の10時を少し回ったところ。
明日、明後日と引っ越しなので仕事が出来ない。
あと2回炊いてしまえばコンフィチュールは終了。予定数の数のノベルティも用意できるのだ。
ヌガティーヌやクラクランはムースの中に忍ばせたり、飾りに散らしたりするアーモンドの砂糖菓子。これからデセール用のムースも仕込み始めるので、その前に用意しておく必要がある。休み明けはその作業から始めたい。
「向こうの仕込みは向こうでしろよ?やり辛いのは分かるけどさ…。」
「そ…それは否定しませんけど…休み明けもこっちで働かせてください…。ほ、ほら、設備だってこっちの方が整ってるし…やっぱりハルさんとか桃子さんと一緒だと仕事が捗るというか…。」
「……気持ちはわかるが、俺の身にもなってくれ…というかあの変態をどうにかしろ…って噂をすれば何とやらだな。」
ハルさんが大きなため息を吐く。
振り向くと、英治さんが立っていた。
私が作業をしているのはハルさんの店の厨房。お菓子を作る為に設計され、機材も、道具も、動線も、英治さんの店の厨房よりも、お菓子を作るのには向いている。
英治さんの店だって、すごく立派で、設備も充実している。デセール用に作業スペースが別室で用意もされているし、オーブンだって、フリーザーだって、ミキサーだって充実している。ボヌールと同じかそれ以上の設備。すごく恵まれた環境なんだけど…。
ぶっちゃけ仕事がし辛い。
原因は…英治さん。
今はまだ、メインの仕事がハルさんの店のお手伝いで、同時進行でできるものや、一緒にやってしまった方が効率の良いものは英治さんの店の仕込みもこっちで一緒にした方が効率が良いからと言って何とか逃げている。
オープンの日は動かせない。進められるだけ進めておきたい。来月には内覧会も2回程あるし、仕事が押すと非常に拙い…。なるだけ効率良く出来る環境で仕事がしたいのだ。
「夏月。もうそろそろ上がろうか。」
「英治さん…抱きつくのはやめてください。」
「一応、状況を確認しているよ?今、夏月は火も使っていないし、刃物も持っていないし、作業をしていないじゃないか?もうこんな時間だよ?」
「こちらにも都合があるんです…仕事の邪魔はやめて下さい。」
お願いだから後ろから抱きつくのはやめてほしい。
はっきり言って…いや、言わなくても邪魔だ。気が散る。周りの目を考えて欲しい。
彼の言い分としては、言っただけではなかなか聞いてくれない私が悪いと言う。私の手を止めるための彼なりの強硬手段らしい。しかしこちらにはこちらの都合やペースがある。それにしたって、抱きつくのはナシだろう。他のスタッフの目もあるし…。プライベートと仕事は分けてほしい。
彼に声をかけられたとき休憩をとらなかったり、上がらなかったりすると抱きつかれるのだ。
ハルさんのところの厨房であれば、その確率がわずかながら低下するし、それを見られるのがハルさんと桃子さんだけで済む。
現時点で彼の店にいるのは、彼が個人的に引っ張ってきた人たちだから、休憩時間や仕事終わり位多少イチャイチャしてもOKだと彼は言う。来月になって、人が増えたら絶対しないから今は大目に見てほしいとか…。
私としては、彼が抱きついているとき、休憩時間という認識はないし、もともとが彼の個人的な知り合いといってもスタッフはスタッフ。それに、仕事中、私と彼は恋人や夫婦ではなくてオーナーとパティシエール。「上司と部下ですよ?セクハラじゃないですか?」と言ったらものすごく不機嫌になってしまった。
「俺は夏月の意見に賛成。」ハルさんはずっとそう味方してくれているが、聞く耳を持たない英治さん。
話し合いしようにもはぐらかされてしまって話し合えていない。
明日明後日がチャンスかなとは思っているが…はたしてうまく話しあえるのだろうか?
「あと2回…ドライフルーツと赤ワインのコンフィチュール炊いたら上がりますから…それでノベルティもお終いなのでやらせてください。」
「というわけだ、ヒデ。やらせてやってくれ。」
「蘇芳さん、私からもお願いします。」
桃子さんとハルさんの後押しもあり、渋々ではあるがOKしてくれた英治さん。
1時間後に来るからと、彼の店に戻って行った。
銅鍋に、赤ワインとはちみつとドライフルーツ…レーズン、プルーン、イチジク、アプリコット、カレンズ、オレンジのコンフィなどを刻んだものを入れる。ふつふつと根気よく煮詰めて煮詰まったらシナモンとクローブを振り入れてひと混ぜして完成。これを小さな瓶に詰めて…煮沸。
瓶詰と煮沸はハルさん、桃子さんにお願いしてもう一度同じ作業を繰り返す。
パンやジャムに付けてもおいしいし、チーズと合わせるのも美味しい。お勧めはコンテ。もちろんクリームチーズとかフロマージュブランなんかにも合う。それから、ポークのグリルとかお肉料理にも美味しそう。
2回目のドライフルーツと赤ワインのコンフィチュールを炊いている途中で英治さんはやってきた。
「いいねぇ…この香り。」
厨房に充満するワインとドライフルーツの甘くて芳醇な香り。
煮詰まったところで、スパイスが入り、さらに香りが華やかになる。
華やかな香りごと小さな瓶に閉じ込めて…お客様がふたを開けた時に再び華開くのだ。
英治さんも手伝ってくれたので、日付の変わる前になんとか終わらせることが出来た。
私と英治さんは、彼の運転で私の祖母の旅館へ向かった。
1人暮らしの部屋から、新居へ引っ越す間、私は祖母の私室のうちの1つを借りて寝泊まりしている。英治さんは、彼のお祖父様の経営する系列のホテルの1室に…かと思いきや、私と一緒がいいと言って祖母にお願いして、私が借りている隣の部屋に寝泊まりさせてもらっている。
それも今日で終わり。明日からはレストランの3階に作られた住居スペースで暮らすことになる。
家具と家電は、2人で相談して手配済み。明日、届くことになっている。
調理器具や食器はとりあえず私が使っていたものを使う。独り暮らしとは言え、仕事柄いろいろ集めていて、割と充実しているので暫くは問題ない。とはいえ、やっぱりいろいろ買い足したいものはある。もう少しサイズの大きな鍋とか、便利グッズとか。
引っ越しの片付けが早めに終われば買い物に行こう、そう約束しているのだが、果たして行けるのだろうか?
お互いの持ち込む荷物はそんなに多くない。特に私はとりあえず必要な物だけを持って行って、あとは祖母のところに置かせてもらうことになっている。持っていくのは仕事関係で使う本や資料と衣類だけ。片付けは早いだろう。
英治さんの多くない、というのがどの程度なのかが疑問だが、うまくすれば明後日は1日買い物に費やせるかも…なんて思ったらウキウキしてしまった。
祖母を起こさないように静かに帰宅して、順番にシャワーを浴びる。
寝る前に少し話をして、キスをして、それぞれの借りている部屋へ行き、布団を敷いて寝る。
それがここ1か月の仕事が終わってからの過ごし方。
明日からはどんな生活になるのだろうか?
期待に胸を膨らませて、私は眠りについた。




