運命の日 (英治視点)
『お電話ありがとうございます。Je porte bonheurでございます。』
「もしもし、蘇芳と申しますが立花さんいるかな?」
『申し訳ございません。立花は今外へ出ており不在でして…もう30分ほどで戻ると思うのですが。』
「じゃあ君で良いよ、今日、4名で個室をお願いしたいんだけど、何時が空いてるかな?」
『少々お待ち下さいませ………21:00で宜しければご用意できますが…いかがでしょうか?個室でなければお好きなお時間でご用意出来るのですが…。』
「21:00で良いから個室をお願いしたい。ところで君はギャルソン?入って何年目?」
『え?僕ですか?…ギャルソン3年目の山田です。』
「じゃあ、サービスは君と立花さんにお願い出来るかな?」
『畏まりました…ありがとうございます。21:00にスドウ様4名ですね。ではお待ちしております。お気をつけてお越し下さいませ。』
シャルルドゴール空港から約12時間のフライトを経て7ヶ月ぶりに日本へ帰国した。
空港に着いてすぐ僕は電話をかけた。
レストランの予約を取る為に。
5年ぶり…もう数カ月で6年経つのか…それほど久しぶりにかける電話だった。
てっきり、聞き慣れた声が聞けるものと思って少し楽しみにしていたのに、当てが外れてしまい少し残念だった。
まぁ仕方ない。どうせ行けば顔を合わせるはずだし。
若いギャルソン…山田君と言ったかな?僕の名前を間違えていた…珍しい名字なので、よく有ることだし、立花さんを指名している時点で彼なら僕だとすぐ気付くだろう。
電話を取ったのが立花さんだったら、あの時の写真をまたもらえないかお願いするつもりだった。
我ながら未練がましいと思う。
僕は散々迷った挙句、夏月に僕の店に来て働かないかと誘おうと思っている。
もし、彼女が同僚のパティシエとどうにかなっていて、断られたら、僕は潔く諦める…とは言い切れないかも知れないが、身を引く覚悟でいる。
もしそうなってしまうことになるとしても、どうしても思い出せない彼女の幸せそうな笑顔をもう1度見たかった。
それを見なければ、諦めるに諦められない気がしていた。
しかしながら…今回の帰国の目的は夏月ではない。
夏月の話は、全てを引き払って帰国してからの話。
今日は、僕の店に出資してくれると言う祖父母の友人に会う。
せっかく出資者に会うのだから、一緒に店を出す涼の働く店で食事をして、彼のデセールを食べてもらいたい。
そう思ってボヌールヘ予約を入れた。
決して写真の為ではない、とだけはっきり言っておこう。
今回会う祖父母の友人は、僕の初恋の「なっちゃん」のお祖母様でもある。
25年前の話だと言うのに、なぜ今更僕はなっちゃんに会ってみたいと思ったのかはわからない。
信じたくない現実を突きつけられて綺麗な思い出に縋ってみたくなっただけかもしれない。
相手にしてみたら迷惑極まりない話だろう。
それにまだなっちゃんに会えると決まったわけではない。
出資してくださる方にお会いした際、「なっちゃん」の事は自分で頼めと言われている。まぁ当たり前と言えば当たり前の話。今日この席を設けてもらっただけでも有難い。
ただ、現時点で出資の話が出る意図がイマイチよくわからないのだが、それに乗せられてホイホイ帰国したのは僕だ。
僕と会わせる為の口実と考えるのが自然だろうか?
それでもイマイチ腑に落ちない気もする。
まぁ今考える必要の無いことだ。考えるのはやめよう。
祖父に無事到着したことを連絡し、21:00にボヌールを予約したことを伝える。
21:00に現地集合となった。
今から向かうと少し早いが荷物も預かってもらいたいし、久しぶりだしスタッフと話もしたい。
忙しそうなら隅で待たせてもらえば良い…というわけで早めに行くことにする。
「Bonsoir!ご予約はございますでしょうか?」
「ああ、21:00に4名で個室をお願いしている。少し早くなってしまったので、適当に待たせてもらってもいいかな?」
「かしこまりました。スドウ様ですね?お荷物お預かりいたしましょうか?」
「お願いするよ。」
荷物とコートを預けて、ウェイティングルームのソファに腰をかけて待つ。
スタッフの顔ぶれもずいぶん変わってしまったみたいだ。
5年という時間の長さを実感する。
皆忙しそうにしているので、誰かをつかまえて話すのはやめることにする。
帰り際、佐伯君だけでも呼んでもらって話せればいいか。
そんなことを考えて過ごしていたら予約時間の5分前となっていた。
「蘇芳様!お久しぶりでございます。山田が大変失礼をいたしました…。ご用意が整いましたので、宜しければお部屋までご案内いたします。」
珍しく立花さんが慌てている。
いつも冷静なのに…少し笑ってしまった。
きっと僕が来るってちゃんと連絡がされていなくて、名前も間違っているしで慌てているんだろう。
「部屋はまだ良いよ。全員揃ってから案内してくれるかな?」
「畏まりました。」
写真の事を頼むなら今が好機なのだが、何と言って頼めば良いのだろうか?
無くしてしまったので欲しいとでも言うべきか…彼女との事を聞かれたらどうしたものか…。
「立花さん、あの5年前の写……。いや、何でもないんだ。」
迷いながらも聞きかけて…その途中で祖父母とその友人がやって来たので聞くのをやめた。
「Bonsoir!蘇芳様、お待ちしておりました。上着、お預かりいたします。」
立花さんのサービスはやはり好きだ。
さりげなく、自然に、そして流れるようだ。
「ではご案内いたします。こちらへ…。」
僕は祖父母の友人に会釈だけする。
自己紹介などは個室へ行ってからの方が良いだろう。
案内されたのは、あの日彼女と食事をした部屋だった。
出来たらこの部屋で無い方が有難かったのだが仕方あるまい。
案内されると、立花さんは一礼して去って行った。
どうやら他のテーブルを担当しているようだ。
席に着き、時間も遅いので、挨拶する前に山田君にオーダーをする。
軽めのコースと、まずは軽めの白ワインをグラスでお願いする。
祖母が一緒の時はいつもこれだ。
「デセール、面白そうだね。」
「はい、こちらは本日までの限定メニューでございます。」
日本人は限定に弱い。
結局皆が同じものを注文する。
”Mon premier amour”つまり、私の初恋…か。
「なっちゃん」は僕の初恋の女の子。良く出来た偶然だな…。
今日のデセールにはピッタリかもしれない。
ワインと共にすぐに前菜が運ばれてきた。
そう言えば以前聞いたときは佐伯君が前菜を任されていると言っていたな。
これも彼の作品なのだろうか?
「英治、こちらは私達の友人のアヤメさんよ。」
「ご挨拶が遅くなり申し訳ありません。蘇芳英治です。この度は、私の店に出資してくださるそうで…本当にありがとうございます。」
「随分ご立派になられたのね…あの日の事を昨日の様に覚えているわ…。水縹アヤメです。こちらこそきちんとご挨拶していなくてごめんなさいね。」
僕は耳を疑った。
この人の名前…。
「あら、どうしたの?」
「あの、お名前…水縹さんと仰いました?」
「ええ、水縹アヤメです。」
「まさか…夏月の…あの なっちゃん が…夏月?」
「ええ、夏月の祖母です。英治さんはあの子をご存知なの?」
色々な記憶が一気に押し寄せてくる。
あの日、夏月と会った祖父母は、彼女の名前を聞いてどこの誰かすぐにわかったんだ。
知っているから彼女の家の事や家族の事を聞かなかった…聞く必要がなかったんだ。
そして、彼女がいなくなってしまった時の痛ましげな顔。
必ず探すというのも探す当てがあっての事だったんだ…。
「あの子はマカロンをくれた男の子があなただって気付いていないようね。お正月に帰ってきたとき、マカロンをくれた初恋の男の子に会ってお礼が言いたいって言っていたのよ。今、やりがいのある仕事に就けているのはその子のお陰だからって。あのマカロンがきっかけでパティシエールになったの。」
僕は驚きのあまり何も言えずにいた。
なっちゃんと夏月が同一人物だったこと。
彼女の初恋の相手が僕だったこと。
僕がソムリエになったきっかけが彼女だったように、彼女がパティシエールになったきっかけも僕だったこと。
「はるくん――なんて呼んだらもう失礼ね。英治さんなら、あの子を楽にしてあげられるかしら…。」
アヤメさんは、急に苦しそうな表情になった。
「もう5年以上前の話よ。ある朝、酷い顔をしたあの子が、私のところに連絡も入れずに急にやってきたのよ。目も当てられないような状態で…10日ほど引きこもって泣いて過ごしていたかしら。ずっと好きだった人にお別れをしてきたって…その方は他の女性が好きだから…側にいたら自分の物にしてしまいたくなるから、それではいけないからって…。」
苦しかった。胸が押しつぶされそうだった。
改めて自分が彼女にしたことの愚かさに気付く。
いたたまれなかった。
「その後、あの子は新しい仕事を見つけて私のところを出て行って、3年くらい前から仕事が楽しい、やりがいがあるって…すっかり元気になったと思って安心していたんだけど…去年の夏にね、その方をやっと忘れられそうだって言い出したのよ…でもお正月に来た時、あの子はまだその男性を忘れられずに…今でも思っているわ。」
あんなに酷い事をしたというのに、それでも彼女は僕を思っていてくれると言うのだろうか…。
申し訳なくて、苦しくて…それでも嬉しかった。
「その男性に出会えたのも、マカロンをくれたあなたのお陰だって、そんなこと言うのよ。見ているこっちが辛くて…浮いた話も聞かないし…だから、あの子に会ってあげてほしいの…。」
僕は泣いていた。
ただ静かに涙が頬を伝う。
「英治…さん…、どうしたの?」
慌てて涙を拭き、深呼吸をして気持ちを落ち着かせる。
「申し訳ありません…。5年前、夏月に嘘をついて傷付けたのは僕です。夏月に会わせていただけませんか?」
それだけ言うのに精いっぱいだった。
「どういうこと?仰っていることが良くわからないのだけど…。」
アヤメさんは戸惑っていた。
そんな彼女へ、僕に代わって祖父母が事細かに説明してくれた。
「ずっと黙っていてごめんなさい。英治も、夏月さんの事をずっと思っているのよ。こうなってしまったのは、私たちの責任でもあるの…。英治が自分で探さなくては意味がないというから本当の事を言えなくて…。」
祖母までが申し訳なさそうにアヤメさんに頭を下げてくれた。
「こちらこそごめんなさい…。きちんと話を聞こうとせず、縁談を断ったりして…まさか、お断りしている理由の方との縁談だったとは思わなかったわ…。散々お断りしていたのに…こんなことを言うのも失礼ですが、夏月とお見合いをしていただけないかしら?」
祖父母は僕と夏月がうまくいかなかった原因が自分たちにあると思い、どうにか僕たちを合わせようと画策してくれていたらしい。
しかし、アヤメさんは相手が僕だと知る由もなく、いつまでも過去の恋を引きずっている夏月に見合いをさせることは、彼女自身の為にも、見合い相手の僕に対しても良い事ではないと断り続けていたそうだ。
僕の帰国後に、かつて僕と夏月が初めて出会ったあの場所で見合いをする話がまとまった。
それからは、僕のフランスでの話をしたり、最近の夏月の話を聞いた。
夏月は、どこかのフレンチレストランでデセールを担当しているらしい。
店を聞いても、どこかは教えてくれないそうだ。
『どこの店か教えちゃったら愚痴だって言えなくなっちゃうもん。』
そんな理由で、以前働いていた店も知らなかったそうだ。
僕は、アヤメさんのある話にショックを受けていた。
勝手な思い込みで自分の気持ちを押し殺して…あの子の昔からの悪い癖なのよ。
あの子の両親は、あの子が5歳になる年に離婚したの。
あの子の母親、私の娘が原因…いいえ、元々の原因は私のせいね。結婚を考えるような恋人がいたのに別れさせて別の男性と結婚させたのよ。
娘婿は、娘にはもったいないくらい良く出来た方だったわ。
離婚の直接の原因も、娘にあったのに、嘘をついて全て彼のせいにして…娘が恥をかかないようにって。
娘は夏月を引き取るのを拒否したわ。父親に似ているから…って。
彼は、夏月を引き取って育てるつもりだったのよ、もともと娘よりも彼の方が夏月を可愛がっていたし、あの子も父親にとても懐いていたわ。でもね、無理を言って私が引き取ったの。彼には、若いころ諦めた夢をかなえてもらいたくて…とても夏月を連れては叶えられないし…それに私が夏月を手放したくなかったから…。
泣いてばかりいたあの子も、英治さんのお陰で笑うようになって…あっという間に大きくなった。
17になる直前、今まで何の音沙汰もなかった娘が急に夏月を引き取るって言いだしてね。
結局、直接話をした結果、夏月が嫌だと言って話はなくなったのよ。
その時…実際どんなことを言われたか知らないけれど、その時からなの。母親に酷い事を言われたらしいわ。あまり笑わなくなった…笑っても作り笑い…。
それまで、父親からは夏月宛に定期的に手紙が届いていたわ。夏月はそれをとても楽しみにしていたし、返事も書いていた。でもそれ以来手紙を読むことも書くこともなくなってしまった。
彼はね、高校卒業後の進路も真剣に考えていてくれたわ。
夏月がパティシエールになるなら、留学したらどうかって誘ってくれたの。
修業したいなら、紹介もできるし、語学も教えるし、面倒も見るからって。
それをずっと楽しみにしていたはずなのに、結局夏月は断って、成人の頃会いたいと言った父親に会うことさえ拒否したの…。
先程の話を聞いて、そんなことを思い出してしまったわ。
そのうち、あの子と父親を会わせてあげたいと思っているの。
その時は、英治さん、あなたも力を貸してくれないかしら――。
夏月はどんなことを言われたのだろうか…彼女があの日見せた悲しそうな、苦しそうな顔の原点なのだろう。
僕に彼女を癒すことが出来るだろうか。
僕がつけてしまった心の傷だけでなく、母親につけられてしまった深い傷までも。
そのために、彼女に会ったらあの日の事をきちんと謝ろう。
僕の気持ちをきちんと伝えよう。
僕は、今日が何のための会食だったのかすっかり忘れてしまっていた。
祖父母の目的は、おそらく僕と夏月を再会させるための第一歩だったのだろう。
アヤメさんにも本当の事を言えなかったため、出資の話を持ちかけ、彼女の都合に合わせて今日会うことになったのだ。
涼のデセールを食べてもらうため、ボヌールを予約した事を思い出した僕は、メインの皿を下げに来た山田君にお願いをする。
話に夢中になってしまい、すっかり食べるペースが遅くなってしまっていた。
「山田君、悪いがデセールは担当者にサービスしてもらいたいんだ。それに、少し話もしたい。伝えてもらえるかい?」
「畏まりました。食後の御飲み物はいかがいたしましょうか?」
「紅茶をデセールと一緒に…早めにいただけるかな。」
祖父母もアヤメさんも紅茶派だそうで、僕もそれに合わせて紅茶をお願いする。
暫くすると、ティーセットを持った山田君が戻ってきた。
「デセールはすぐにパティシエールがお持ちいたします。今からお紅茶をお入れしてもよろしいでしょうか?」
今、パティシエールと言ったか?つまり女性だ…涼ではないのか?
「山田君、デセールの担当は涼じゃないのか?」
「申し訳ございません、春日野は1月末で店を辞めまして…夏に独立する予定なんです。」
せっかくボヌールを予約したというのに…まぁ、美味しかったので良しとしよう。
「まったく、相変わらず詰めが甘いぞ。そのくらい確認しておけ。」
祖父に笑われてしまった。
もうひと月も前に辞めていたのか…せっかくだから明日、涼に会ってから帰ろう。そう思った時だった。
「失礼いたします。大変お待たせいたしました。
『Mon premier amour〜ショコラとフランボワーズのムースとマカロンにあの日の思い出を添えて〜』
でございます。」
この声…急に胸が締め付けられる。
夢…だろうか…目の前で、祖母とアヤメさんにサーブするコックコートの女性こそ、僕が会いたいと願ってやまなかった女性――夏月だった。
「あら、どうして貴女がこんなところにいるの?」
アヤメさんも目を見開いて驚いている。
「おばあ…さま?」
それ以上に驚いたのか、彼女は鳩が豆鉄砲を食らったような顔で立ち尽くしていた。
そんな時、不意に後方から聞き覚えのある声がした。
「夏月ちゃん…これもサーブお願い…」
声の主は佐伯君だった。
僕は夏月を目で追う。佐伯君から皿を受け取った彼女は祖父にサーブした。
誰だか気付いたのだろう。祖父母を見て明らかに動揺している。
そして…僕の前に皿を置いた彼女と目があった。
僕も彼女も見つめあったまま動けなかった。
「夏月、こちらは私の古くからの友人よ。蘇芳 英臣さんと春乃さん。お会いしたことがあるでしょう?」
「夏月さん、お久しぶりね。」
アヤメさんと祖母に声をかけられた夏月は、はっと我に返ったようだった。
夏月の顔が青い。
「ご無沙汰しております。その節は…大変失礼なことをいたしまして、本当に申し訳ありませんでした。」
そう言うと、夏月は深々と頭を下げた。
彼女は、いまだに祖父母に嘘をついていたことに罪悪感を抱いていたのだろうか。
それが僕の胸をさらに締め付けた。
「そんな、頭を上げて頂戴。謝らなくてはいけないのは私達の方なのですから。貴女が英治の恋人ではないことは知っていたのよ。英治に頼まれて恋人のフリをしていることをね。」
夏月は混乱しているようだった。
青い顔が険しくなっていく。
「お話し中大変申し訳ございません、差し出がましいようですが、よろしければデセールをお召し上がりください。是非、最適な状態で召し上がっていただきたいのです。」
佐伯君だ。
彼の気遣いは素晴らしい。
すっと入ってきて、さっと引いていく。
決して邪魔ではない…が、今は余計な事をしてくれたものだ。
「夏月ちゃん…こっちにおいで…。」
佐伯君が、夏月の手を引いて部屋の隅へ連れて行ってしまった。
僕は呆然としてしまった。
そんな僕を気にすることもなく祖父母たちはデセールを楽しみ始めた。
「それもそうだね。いただこうじゃないか。」
「あら、この組み合わせ、懐かしいわね。」
祖母が無邪気に笑っている。
「夏月の初恋はマカロンをくれた男の子なのよ、フランボワーズとショコラのマカロンが好きな、ね。
あなた、いつかあの男の子にお礼がしたい、自分の作ったマカロンを渡したいって言ってたでしょう?それが今、叶ったのよ。」
Mon premier amour〜ショコラとフランボワーズのムースとマカロンにあの日の思い出を添えて〜
皿にのったフランボワーズとショコラ、2色のマカロン。
艶やかなグラッサージュをまとったハート形のムース。
ハート形にカットされた苺、フランボワーズ、ブルーベリー。
”Mon premier amour”――夏月自身の初恋の話なのだろうか?
このマカロンは、あの日僕があげた『げんきがでるまほうのおかし』なのだろうか?
このムースは、ショコラとフランボワーズのムースだという。
僕が大好きなショコラとフランボワーズのマリア―ジュ。
振り返る。
まだ呆然と立ち尽くす彼女の手を佐伯君が握っていた。
なぜ、佐伯君がまだ手を握っているのだろうか?
夏月の瞳から、大粒の涙があふれ出した。
気付くと、佐伯君から夏月を引き離し、きつく抱きしめていた。
一度腕を緩め、彼女の涙を拭いた。
近くで彼女の顔を見たかった。
夏月は5年前と変わらず美しかった。
「夏月、結婚して欲しい。」
突然のプロポーズに、僕自身も驚いていたが、彼女は更に驚いていた。
言い訳がましいが自分の気持ちは伝えた。
彼女は再び涙を流して立ち尽くしていた。
僕の隣に椅子をもう1脚用意してもらい、夏月を座らせる。
「英治さん、貴方も夏月の作ったデセールを食べて頂けるかしら?このマカロンはあなたに幼いころいただいたマカロンを、このムースは貴方のことを思って作ったものだそうよ。それにこの名前。この子の中ではもう返事が決まっているのだと思いますよ。」
アヤメさんに促され、僕も座りデセールに手を付ける。
繊細な食感の甘くて酸っぱい、フレッシュさを感じるフランボワーズのマカロン。
あの時のものよりもずいぶんビターな、口どけの良いガナッシュがたっぷり挟まれたショコラのマカロン。
フランボワーズのオー・ド・ヴィがよく効いたショコラのムースの中には、フランボワーズのジュレと、フルーティなワインのジュレが閉じ込められていた。
それらに彩りを添えるフレッシュなベリー。
さまざまな食感、香り、甘味、酸味、苦み…。
夏月が僕を思って作ってくれた一皿。
今まで食べたどんなものよりも美味しかった。
心が温かくなった。
涙が止まらなくなるほどに。
「ずっと…気持ちを押し殺していました…。去年の夏、やっとその気持ちと向き合って、もう諦めようと思いました。でも、無理でした。
今でも、英治さんが大好きです。忘れられません…。
でも…結婚は…すぐには出来そうもありません。しばらく忙しくなるので会えるかもわかりません…。」
夏月も僕を思っていてくれた…それを彼女の口から聞けた僕は、天にも昇るような気持だった。
もう、15年も夏月を思っている。
それが多少伸びたってかまわない。
「それでも構わない。何年でも待つよ。」
僕にとって、今、目の前に夏月がいる、それだけで十分過ぎる程幸せだった。
「私は、もうすぐここを退職します。その後は、今度独立する先輩の店で働きます。その先輩は、私の恩人で、その人の期待に応えなくてはいけません…。八ヶ岳へ引っ越します。だから、本当になかなか会えないと思います。それでも、いいですか?」
『間違いなく夏月ちゃんが好きだ。そういう目をしていた。』
夏月と同い年の同僚のパティシエ。
『佐伯がベタ惚れで、俺と桃子の目標は連れて行くまでに佐伯とくっつけること。』
涼が連れてくると言った変わり者のパティシエール。
『夏月ちゃん…こっちにおいで…。』
彼女の手をしっかりと握る佐伯君。
「もしかして、その先輩というのは…涼…はる…春日野、春日野 涼なのか?」
そう尋ねると、夏月は頷いた。
「夏月、やはり待てない。すぐにでも結婚しよう。」
すぐ側にいられるというのに、なぜ待つ必要があるのだろうか。
それに、帰国するまでの間、夏月の側にいるのは僕じゃなくて佐伯君だ。
ウカウカして彼にとられてたまるものか。
「涼を誘ったのは僕だ。僕の初恋も君だった。だから思い入れのある…君に出会った八ヶ岳で自分の店を持つことにしたんだ。高校の時、毎朝駅で見かける、初恋の女の子によく似た君が気になって気付いたら好きになっていた。実際君があの時の女の子だったのは先程知った。
ずっとそばにいられるんだよ。なのに、待てるわけないだろう?だから今すぐにでも結婚してほしい。」
夏月は驚いた後、あの日のように、幸せそうに笑った。
夏月の大きな瞳からはまた大粒の涙が零れ落ちていた。
あの日の、あの写真の夏月の笑顔を僕はやっと思い出すことが出来た。
「はい。」
涙を流しながらも、にっこり笑う夏月が愛おしくて、強く抱きしめていた。
「蘇芳様ご無沙汰しております。ご挨拶が遅くなり申し訳ございません。」
「佐伯君、また君に会えて嬉しいよ。君のサービスが大好きだったからね。」
「この度は、ご婚約おめでとうございます。お2人の、思い出のシャンパーニュをプレゼントさせてくださいませんか?」
佐伯君は今までに見たことのないほどひどい顔をしていた。
泣き腫らした真っ赤な目をしていた。
彼の愛する女性は、突然現れた昔の男にプロポーズされ、OKしてしまった。
それを目の当たりにしてしまった今、泣かずにいられるだろうか?
それでも、こうやって僕の前に現れて、祝福してくれるのが彼らしいというか、プロというか、僕の大好きな佐伯君だった。
「ぜひ、佐伯君と立花さんにも一緒に祝って欲しい。」
残酷なようだが、彼を尊敬しているからこそ一緒に祝って欲しかった。
フルートグラスにシャンパーニュを注ぎ、佐伯君と立花さんにも渡す。
あの日飲んでいた、僕の好きなシャンパーニュをきちんと把握して持ってくるあたりが真面目な、気の利く佐伯君らしい。
「おふたりの、再会と、変わらぬ愛を祝して…À votre santé!!」
佐伯君の音頭で乾杯したのだが、先程とは違って晴れ晴れとした顔をしていた。
「蘇芳様、ご婚約おめでとうございます。」
立花さんはそう言うと、僕と夏月にあの日の写真を手渡してくれた。
その写真を眺める夏月は、写真の中で幸せそうに笑う夏月よりもずっとずっと幸せそうで、ずっとずっと美しかった。




