La lune d'été
ある秋の日、僕は、有休を取って2泊3日でブルゴーニュへ出かけていた。
ネゴシアンの大倉さんがワインを仕込むというので見学兼お手伝いさせてもらう為だ。
この為に、滞在を延長したとも言える。
大倉さんは彼が信頼する農家から買い付けた有機栽培の葡萄を使ってビオワインを作っている。
仕込みはステンレスの樽を使っているが、熟成にはフレンチオークの樽を使っている。
ワインにもこだわりがあるが、ボトルも軽量化したものを使ったりコルクも再生コルクを使うなど、環境に配慮するというこだわりもお持ちだ。
生産量は多くはないが、僕を気に入ってくれたらしく、毎年決まった量を優先的に卸してくれるそうだ。
僕が到着した時は、赤ワインの仕込み中だった。
「やはり人の目で見ることが大事なんですよ。悪いものは取り除かなければ、それが全体に影響を与えてしまいますからね。」
そう言って、自らの手で、傷んだ葡萄を取り除いていく。
僕もそれに倣い、選別をする。
その日は1日、その作業で終わってしまった様なものだが、なんとも言えない充実感があった。
その後は機械で果汁を絞る。
残った皮や種は飼料になったり、グレープシードオイルの原料になるらしい。
搾りたてのワインの元も飲ませてもらった。
「不思議でしょう?これがあのワインになるんですよ。とは言え、実際に今回のものがどう化けるかはまだ分かりませんがね。」
その日は早めに休み、翌日に備えた。
翌日、午前中は前日同様葡萄の選別を手伝った。
午後からは、施設の見学と、今後の話をした。
彼の作るワインと、以前送ってもらい、鈴木君とジャンと3人で飲みまくり、決めた事を大倉さんに伝え、彼のアドバイスをもとに手直しする。
大方の話がまとまったのは、もう夕食の時間になる頃だった。
「あとは夕食でも取りながらゆっくり話しませんか?蘇芳さんの店の話ももっと聞きたいですし。」
大倉さんは料理まで振舞ってくれた。
男の料理ですが…と言って振舞ってくれたのは、ブッフブルギニョンとチーズとパン、そしてワインだった。
飾り気は無いが、素材の味がストレートに伝わる、美味しい料理だった。
チーズも彼のワインによく合う。
「レストランにお勤めの蘇芳さんに気に入っていただけて光栄です。」
今日頂いているワインは、そう言ってはにかむ大倉さんの人柄が出ている様な温かくも力強いワインだった。
「ところで、店名を伺っていなかったのですが、何て名前の店なんですか?」
そういえば彼と僕の店の話はあまりしていなかった様に思う。
具体的なワインの話ばかりだった。
「実は、まだ決めかねているんです。なぜ迷いがあるのか、自分でも明確にわかりません。」
夏月の話を友人に聞いたからなのは確かだが、それを詳細に述べよと言われても、何となく、としか言いようがなかった。
「どんな名前なんですか?」
「"La lune d'été"です…。」
「夏の月、ですか…。」
"La lune d'été"
直訳すると『夏の月』。
後付けだが、立派な理由だってある。
「ええ。土地が決まった時、一時帰国して見に行ったんです。近くの宿へ泊まって翌日行くつもりだったんですが、翌朝まで待てずに宿に向かう途中立ち寄りました。季節は夏で、驚く程満月の美しい夜でした…。」
「夏の月…"La lune d'été"…素敵な名前ですね。良いじゃないですか!そんな素敵な店で私のワインを置いてもらえるなんて嬉しいです。」
遠くを見る、穏やかな目が印象的だった。
「いっそ、そちらに卸すワインの名前もそうしてしまおうかな…。通常の物よりも熟成を少し長くして…今飲んでいただいているのが自分用にそうやって置いておいたもので、その方が断然香りが良いんですけどね、どうしても仕込などの兼ね合いでそれが出来なかったんですけど、今年は出来そうなんですよ。…どうでしょうか?」
話は思ってもみない方向に動き出してしまった。
オリジナルの、ビオワイン。
店の売りにもなる。
願ってもいなかった話だ。
「本当に良いんですか?こちらとしては、願ってもいなかったようなありがたい話です。」
「オープンは来年夏ですよね?これから瓶に詰める予定の物であれば、もう少し寝かせてからでも、オープンにも間に合うはずです。エチケットのデザインはどうしましょうか?」
「ブルーのグラデーションにすることは可能ですか?中央が薄い水色でで、外側に行く程濃くなって縁は濃紺で…"La lune d'été"は、シルバーの箔押し…字体は、クラシカルな感じで…。」
何故だろうスラスラとイメージが口をついて出てきた。
「まるで、夜空に浮かぶ白い月みたいですね。」
僕のイメージを的確に表現してくれた。
正直驚いた。
彼は僕が自分の若いころに似ていると言っていたのは、感性も含めてなのだろうか…。
「こんな感じでどうでしょう…あくまでイメージですけど…。」
大倉さんは、タブレットを取り出し、すぐさまイメージを図にしてくれた。
それは僕がイメージしたそのままだっった。
「せっかくですから赤はボルドーというかシックな赤からピンクへのグラデーションにしてゴールドの箔押しの文字にされては?」
そしてイメージ以上の提案までされた。
彼が即席で作った赤のエチケットには僕の名字の色が、白のエチケットには彼女の名字の色が使われていた。
「まさに、僕のイメージピッタリです…それを、このエチケットの様な素材で…。」
僕も大倉さんも気分が良くなり、ワインがすすむ。
「ところで、蘇芳さんはご結婚されていないんですか?」
「ええ、5年程前に結婚を考えた女性はいましたが…すれ違いというか、まぁ色々ありましてこの有様です。」
友人からの電話を取って以来、彼女の話をすると辛かったのだが、今日は不思議と辛く無かった。
「そうですか…独り身も気楽で良いですよ。思いっきり仕事が出来ますしね。」
そして豪快に笑う大倉さん。
彼は58歳、現在独身だと言う。
「実はね…お恥ずかしい話なんですが、日本にいた頃は家庭を持っていたんですよ。妻とはお見合い結婚で、可愛い娘がいました…。色々ありまして、離婚の話が出た時、これが最後のチャンスと渡仏を決意しました。娘を引き取ってこっちで育てるつもりでいたんですけれどね…そういうわけにもいかず、結果的に夢を叶える為に安定した生活も、娘も捨て、親兄弟からも縁を切られて、今の僕があるんです。
渡仏して以来親兄弟や妻や娘には1度も会ってはいませんが、唯一今でもやり取りがあるのが元妻の母なんですよ…。不思議な話でしょ?もうここ10年程は年賀状のやり取りと、出来上がった僕のワインを赤白1本ずつ送って、お礼状が返ってくる、ただそれだけなんですが…。娘の成人前は、時々写真を送ってもらっていました。」
初めて聞く身の上話。
複雑な味のワインには、大倉さんの人生が影響しているのだろうか?
「娘が成人をしたのを機に、1度、電話で話しをさせてもらいました…面会を申し出たんです。そしたら、会いたくないって言われてしまって…。仕方ないですよね。結果的に自分を捨てた父親に15年たって、いきなり会いたいなんて言われても…。」
彼は、そう話すと悲しそうに笑った。
彼も僕と同じ様に、大好きな人に拒絶された人間だった。
「元妻の母はね、あの子が結婚する時は、僕に連絡をくれるそうです。あの時、僕は娘を捨てたわけではない、だからあの子を祝福する権利はある、そう言ってくれました。その時、特別なワインをプレゼントしたい…だから蘇芳さんの店の為のワイン"La lune d'été"をプレゼントしてもいいでしょうか…。」
彼のさみしそうな笑顔を見ていると、僕は苦しかった。
なぜかは分からない。
でも、彼への答えははっきり決まっている。
「もちろんです。あなたのワインなんですから。」
僕は自然と微笑んでいた。
暫くは忙しいので、1月中にはすべてを手配して、僕の帰国前には届くようにすると大倉さんは約束してくれた。
彼のおかげで、ずいぶん楽に、充実した内容でワインを揃え、仕入れることが出来た。
それだけではなく、価格も良心的だった。
「日本にいらっしゃることがあれば、是非僕の店に立ち寄ってください。オープンの際には案内をお送りしてもよろしいでしょうか?」
「もちろんですよ。必ず伺わせていただきます。なかなか行けないとは思いますけど…それまで覚えておいてくださいよ、私の顔。」
僕は大倉さんのさみしそうな笑顔が忘れられなかった。
時間が過ぎるのは早い。
気が付けば新年を迎えてから随分過ぎ、僕の店のオープンまで半年を切っていた。
そろそろスタッフについても考えなければいけなかった。
近くのホテルから何人か来てくれることは決まっていたし、厨房の各部門の主要なスタッフも大方決定していた。
デセール担当者を除いては…。
未だに、夏月を誘うか迷っていた。
恋人候補は同業者。
しかも今の職場が楽しいという。
5年前の辛い恋の、しかも忘れたいと思っている男の誘いになんて乗るなんて思えなかった。
そこで、僕は嫌らしくも保険を掛けることにする。
夏月がダメだった時、涼の知り合いに頼めないだろうか。
今日はボヌールの定休日。電話に出てくれるはずだ。もし出なくても、折り返してくれるはず。
7回ほどコールした時、涼は出た。
お互いの近況について軽く報告した後、本題に移る。
「涼、こっちのデセール担当者が未だ決まっていないんだ…ギリギリまで彼女を探すつもりでいるんだが、僕と連絡を取ることを拒否しているうえ…恋人ではないらしいが、親しくしている男がいるそうなんだ…。望みは薄い…。涼の知り合いで適任者いないか?」
ストレートに頼む。
余り回りくどく言うのも未練がましくて嫌だった…今更だが…。
『ああ、丁度良いのがいるぞ。女だけどな。』
女性か…あまり気が進まない。
自分で言うのもおかしな話だが、僕はモテる。
スタッフにそういう目で見られると仕事に支障をきたしかねないので嫌なのだ。
「僕に色目を使うような女ならお断りだ。」
『そういうことならあいつは大丈夫だろう。』
意外な答えだった。
『かなりの変わり者だ。だが、優秀だ。あいつと組むと非常に仕事がやりやすい。負けず嫌いで、努力家で、打たれ強くて、神経図太くて、体力もそこそこある。もともと俺の後釜任せようと思ってたんだけどな、惜しくなって連れて行くことにした。結構器用だぞ、センスもいい。俺の店で出すつもりでメニュー考えさせたら全部ボヌールで採用されちまった。あいつの作ったムース、多分お前の好きな味だぞ。』
僕の頭の中には、やたらでかくてゴツく、性格のキツそうな顔の女性が思い浮かんでいた。
うーん、万が一そんな女に思いを寄せられたら面倒そうだ。
「ちなみにビジュアルは?」
興味本位で聞いてしまう。
『そうだな、身長は高くもなく低くもなく。割と細身。顔はどちらかと言えば美人。仕事中の顔は仏頂面でだいぶ怖いがな。本人は仕事に生きるとか言って恋愛に興味なさそうだけど…佐伯がベタ惚れで、俺と桃子の目標は連れて行くまでに佐伯とくっつけること。今のところ順調だ。だからお前なんて眼中にねぇよ。絶対。』
あの佐伯君が惚れる女か…面白そうだ。
しかも、聞くところによる性格も、悪くない。
佐伯君の彼女なら余所の男になびくなんてないだろう。
佐伯君自信はサービスだけじゃなくて人柄も素晴らしいし、男前だからな。
「面白そうな子だね。涼のお墨付きならその子に任せようかな。」
『ああ、仕事ぶりは保障する。でも変わりもんだぞ。』
どの辺が変わっているかは教えてくれなかったが、なかなかの人材のようだ。
僕は満足して電話を切った。
その直後、僕は日本で準備を進めていてくれる部下に連絡を取った。
デセール担当者は涼の知り合いにお願いできること、それから大倉さんが残りのワインを船便で発送してくれたことを伝える。
『今、会長がお見えなんです。お話があるそうなので、御電話変わります。』
祖父と話をするのは久しぶりだ。
そう言えば、前回話した時、マカロンの女の子に会いたいと言ったんだっけ…忙しくてすっかり忘れていた。
話とはなんだろうか?その答えなのだろうか?
『英治、頑張っているようだな。ところで、お前、今月中か来月の初めまでで一時帰国出来ないか?』
突然のことに驚く。
第一、僕の帰国は2か月後にまで迫っているのに、なぜ今なのだろうか?
「4月になってからではいけないのですか?」
『ああ、なるべく早い方が良い。』
「何のために帰国しろと仰るのでしょうか?」
理由を聞かなければ帰ることは出来ないし、理由を聞いても、理由次第では帰ることは出来ない。
そろそろ荷物も纏めないといけないし、それなりに忙しいのだから。
『英治の店に出資してくださるそうだ。』
出資の話はありがたいが、そもそも、今でなくても大丈夫なはずなのに、なぜなのだろうか?
『出資者は、私たちの友人だ。以前、お前が会いたいと言っていた御嬢さんの祖母だよ。』
それならば喜んで帰りたい、そう思ってしまった僕がいた。
『御嬢さんに会わせていただけるかは、英治が直接お願いしなさい。なぜ今なのかは、友人の都合でね。彼女は今、小さな宿を切り盛りしているんだよ。それで、3月中旬から4月になると忙しくて時間を作れないそうだ。』
「日程を調節してまた連絡します。」
そして、数日後、僕は2月末に一時帰国することを決意し祖父に連絡を入れたのだった。
3章Vinはこの話で終了となります。
お読みくださった皆様、ありがとうございます。




