灰になってしまった笑顔
バカンスの季節。
僕はTGVを乗り継ぎディジョンに降り立った。
そこで真理恵さんと合流し、レンタカーを借り、彼女の運転ででカーヴを回る。
今回は、今まで実は訪れたことのなかった有名どころを巡る、観光ツアーに近い旅だった。
既に何度か彼女とは色々な地方のカーヴを回って店に出すワインを探していたのだが、掘り出し物を探す目的で無名に近いところばかり回っていた。
その度に今回のコースを回ってみたいと僕が漏らしていたのを覚えていた彼女がプランニングしてくれたのだろう。
それを直接売り込みに来るあたり、仕事ができるというか、抜け目がないというか、プランニングを含めて、とにかく優秀なコーディネーターであることに間違いはないと思う。
カーヴでの見学と試飲、ワインの購入、畑の見学、ついでに城の見学、また違うカーヴを見学して試飲して…1日で4件のカーヴを回り、10本以上のワインを購入し、昼食にも夕食にもワインを飲み、宿に着くころにはかなり僕は酔っぱらっていた。
脳の処理スピードがかなり落ちていた。
その頃はまわりの状況の半分も把握出来ずぼーっと過ごしていたようにも思う。
真理恵さんは運転があるので、カーヴ巡りの間はもちろん夕食も1滴も飲まず、僕に付き合ってくれた。
すごく有難かったけれど、彼女自身もワイン好きなので申し訳なく思っていた。
それを伝えると、今日は仕事だし、このコースはドライバーをつけて回る事もよくあるので気にしないでくれ、宿に着いたらちゃんと付き合ってもらうから、と言ってくれた。
宿に着き、チェックインを彼女に任せ、案内されるがまま部屋に入る。
広くはないが、清潔感のあるツインの部屋。
僕の荷物だけでなく彼女の荷物も運びこまれる。
「今日1滴も飲めなかったんだから今から付き合ってもらうわよ?」
そう言ってバッグから赤のフルボトルを取り出す。
ああ、そういうことか。それで彼女の荷物も僕の部屋に運び込まれたわけだ。
一瞬、同じ部屋に泊まるのかと思ってしまった…そんな訳ないよな…その時はそう思っていた。
気が付くと、テーブルの上にはワイングラスやチーズまで用意されており、彼女がコルクを抜き、グラスに注いだワインを僕に手渡してくれた。
「À votre santé!」
しっかりしたフルボディの赤…タンニン強め。落ち葉とか苔むしたような香り。
なんとか認識出来るのはこの位。残念ながら味はよくわからない…だいぶベロベロだ。
僕が買った中にも同じものがあったはず…後日、コンディションのいい時にちゃんと味わって飲もう。
「ねぇ、なんでシンデレラの事がそんなに好きなの?」
ボトルの3分の2が無くなったころ、彼女は唐突にそんな事を僕に尋ねる。
「理由なんて必要ですか?」
彼女の問いに答えるのが億劫だった僕は投げやりに返す。
「興味があっただけ。そこまでヒデが執着する理由はなんだろう?って。私にはシンデレラなんてたいした女に見えなかったし。確かに、それなりに綺麗な顔だけれどね。身体だってどうってことないじゃない?」
真理恵さんにそんな事を言われる筋合いなんて無い。
「君は夏月の事何も知らないだろう?そういうことを言うのはやめてもらえないか?不快だ。」
ぐっとこらえる。不快どころじゃない。非常に腹立たしい。
ところが彼女はしれっと返す。
「別にこないだの写真を見た感想を述べただけよ?そんなにいい女ならちゃんと理由を教えてくれない?」
彼女にそんなことを話す義理などないし、話したくもなかった。しかし、ここまで挑発されて言い返さずにはいられない僕もいた。
僕は夏月がいかに魅力的で、可愛らしく、素晴らしいかをベラベラ喋っていた。
一緒にいるだけで癒される。優しく、しとやかで、気遣いが素晴らしい。顔も美しいが、それ以上に所作が美しい、心だってそうだ。微笑んだ顔も、満面の笑みも、少し膨れた顔も、真剣な顔も、悲しそうな顔も可愛らしい。
他に仕事に対する姿勢だとか、彼女の作るものに至るまで、かなり僕は熱弁をふるっていた。
真理恵さんの質問に真剣に答えているというのに、彼女はつまらなそうに聞いていた。
「ふーん。それで?どうせ逃げた女なんでしょ?一晩を共に過ごし、あなたに抱かれておきながら逃げた女。なのになんでそこまで彼女との思い出を美化しているわけ?」
どういうことだろう…なぜそんなことを知っている?
「ヒデに好きな女がいるから身を引くみたいなこと言って、本当はどうなのかしらね?彼女、あなたじゃ満足できなかったんじゃないの?寝てから逃げるってそういうことじゃない?」
あの日、あの手紙に感じた違和感…ジャンと鈴木君を買い物に行かせ、真理恵さんはあの手紙を読んでいたのだろうか…。
「本当にヒデの事が好きで、あんな重たい手紙書くくらいだったら泣いてすがりつけばいいのにね。逃げるにしてもアクセサリーだって置いていくことないのに。あんなもの置いて行かれたって迷惑なだけじゃない?…もしかして、靴だけじゃなくてそのアクセサリーもヒデは大事にしているのかしら?手紙も取っておいてるくらいだからきっとあるんでしょうね。ここにも持ってきてたりして…フフフ。」
彼女は手紙を読んでいた。
あの手紙を読んだ上で、夏月を侮辱し、僕の気持ちを踏みにじり、バカにしたように笑う。
いったい何がしたいのだろう?
全く理解できなかった。
「あら?こんなところにまで写真持ってきているの?」
いつの間にか、勝手に僕の鞄を開けて写真を手に持っていた。
「何をするんだ?」
僕が動くよりも先に、彼女はボヌールで撮ってもらった僕と夏月の笑顔の写真を台紙からはがしてビリビリに破き、灰皿に入れてマッチの火をつけた。
「こんなものがあるから忘れられないんでしょ?もっと早くにこうするべきだったのよ。」
写真は一瞬にして灰になる。
突然の出来事に何もできず、僕はただ茫然と立ち尽くしていた。
そして涙だけがとめどなく流れていた。
「私がシンデレラを忘れさせてあげる。」
彼女に急に口をふさがれ、続けざまに彼女の舌が僕の口に入ってくる。
「ふざけるな。もう顔も見たくない。今すぐ出て行ってくれ。自分の部屋に戻れ。」
どうにか力づくで引き離し、きっぱり言い放つ。
すると彼女は笑い始めた。
「自分の部屋?そんなものないわよ?この部屋しか取っていないもの。それに今からなんて部屋取れないわよ?今日は満室らしいし、近くに宿もないわ。」
何てことだ。
彼女と一晩同じ部屋で過ごさなくてはいけないということなのだろうか。
あまりに腹が立って、僕が部屋を出ていくという選択肢はなかった。
疲れ果て、酔っ払っていた僕は、もう彼女がこの部屋にはいないものとして過ごすことにした。
さっさとシャワーを浴び、寝る。
大切なもの――あの日夏月が身に着けていたアクセサリーは鍵付きのキャリーに仕舞った。
彼女に何か言われても答えず、目も合わせず、背を向けベッドに横になる。
酒のせいかあっという間に眠ってしまった。
朝起きて僕は驚愕した。
同じベッドで彼女が眠っていた。
彼女は何も着ていなかった。
そして…僕は半裸だった…。
吐き気に襲われた。
耐えられなかった。
シャワーを浴びて横になったところまでは思えているが、その後の事は何も覚えていない。
僕は何をしていたのだろうか。
気分はただひたすら重く、暗く、この上なく悪かった。
シャワーを浴び、服を着ていると、彼女が目覚めた。
「昨日の夜はすごく楽しませてもらったわ…。」
そう、嫌らしく意味ありげに笑うとシャワーを浴びにバスルームへ行ってしまった。
僕はどんな顔して夏月に会えばいいんだろう。
恐ろしかった。
僕が荷物をまとめていると彼女がバスルームから出てきた。
もうこれ以上彼女といることなどできない。
「悪いがもう帰る。もう真理恵さんの顔は見たくない。仕事を頼むこともない。今回の代金は全額振り込んである。もう僕の前に姿を現さないでくれ。」
僕は1人、タクシーを手配してもらい、TGVを乗り継ぎリヨンへ帰った。
彼女とはこんな形で縁を切ることになってしまったのだが、実はワインの買い付けで僕は真理恵さんを結構頼りにしていた。
しかし、もうこれ以上彼女と関わることは僕には無理だ。いくら仕事でも、もう彼女への信頼もあの写真のように灰になって消えてしまった。
店のオープンまで2年を切った。
予定の3分の1程の買い付けは済ませて日本へ送っているが、残りはどうしたものだろう。
残りの休日で、僕なりに色々調べ、その結果、ある一人の日本人のネゴシアンにたどり着いた。
たまたま彼はレストランに出入りしている業者とも知り合いで、大方の人となりは接触前から知ることが出来た。
彼とはメールでのやり取りから始まり、そのうち電話で相談をするようになり、半年も経つ頃には、都合を合わせてそのうち実際に会ってみよう、と言うことになった。
実際に会ってみると、物静かで優しそうな50代後半の男性だった。
彼――大倉賢次さんは、ワインに対してストイックなまでに真面目で、頑固で、彼の作るワインに僕はすっかり惚れ込んでしまった。
僕が1年後の夏に日本で店を出すこと、そこで出すワインを探していること、それに対して全面的に協力してくれるという。
彼の作るワインだけで無く、僕の欲しいワインのイメージと希望の価格帯を伝えると、たくさんの候補を僕の部屋へ送ってくれるという。
選んだワインは知り合いの生産者や業者から買い取り、まとめて日本へ手配してくれるそうだ。
「よかったら、今年の秋、実際に仕込みを見に来ませんか?」
そんな嬉しい誘いまで…なぜ、そんなにも僕に良くしてくれるのだろうか…。
それを尋ねると、
「なんでしょう…若いころの自分を見ているようで…そんな理由です。」
悲しそうに笑った。
ちょうどその頃、僕は働いているレストランのパトロンに、帰国を延期して来年の春まで働かないかと誘われていた。
同僚のソムリエが店をやめてしまっていたのだ。
迷っていたが、僕は大倉さんの誘いもあったので、滞在の延長を決めたのだった。
僕がそうこうしている間にも真理恵さんは何度か僕の休みを狙って僕の部屋までやってきたようだった。
僕が外出していることが多かったが、部屋にいる時には居留守をしてどうにかやり過ごした。
偶然にも直接会わずに済んでいた。
部屋に来ても会えないとなると、彼女は客として店へもやってきた。
なるべき彼女を避け、どうしても接客をしなくてはいけないときはお客様に対する最低限の対応で乗り切った。
お互い大人な対応だったので、周りにも何かがあったなど気づかれず、ジャンと鈴木君に至っては、彼女が来ると楽しそうに接客していたので、僕が接触する機会も減り、かなり助かったとも言える。
「ヒデ、話したいんだけどいいかしら?」
「僕は何も話すことありません。」
ある冬の日、仕事終わりに店を出ると、彼女が待っていた。
「あの時のこと、謝りたいの。」
そう言われては流石に追い返せず、適当な店に入って話すことにした。
「謝られても、許す気はありませんよ。僕にとって、あの写真がどれだけ大切なものかあなたは分かっていたはずですよね?」
無表情だった。そこに感情などなかった。もはや怒りすら沸いてこなかった。
「ええ、もちろん。だからああしたの。」
あり得ない。理解出来ない。
「私、ヒデが好きなのよ。あなたに私だけを見てほしくて…それが理由。」
薄々そんな気はしていた。
しかし、僕にとって彼女の好意は不快でしかなかった。
酷いようだが、それ以上でもそれ以下でもなかった。
「諦めてください。僕は夏月以外愛せません。」
例え、夏月がほかの男を愛していようとも、今の僕は夏月以外の事を考えられなかった。
「それでもかまわないと言ったら?」
「僕は無理です。」
きっぱり言い放つ。
真理恵さんは泣いていた。
「せめて今まで通り、仕事でも会えないかしら?」
「すみませんが、あんなことされた以上無理です。あなたに対する信用も信頼もあの日の写真のように灰になって消えてしまったんですよ。それにあの日、僕とあなたには何もなかったんでしょう?」
あの時、酒も抜けきっていない寝起きの僕は動揺してしまったが、冷静に考えたら何もなかったと考える方が自然な状況だった。
「ごめんなさい…その通りよ。どうにか襲うつもりで…そしたらあなたなら同情して付き合ってくれるんじゃないかって思った…でも、寝言で何度もシンデレラの名前を呼ぶあなたを目の当たりにして、その気が失せたわ…だからあの日は何もなかった…けれど諦めきれず足掻いた結果、あの状態で朝を迎えたの。バカな女でしょ?」
彼女の口から何もなかったと聞けて安心する。
例え分かり切った事でも…あの状況では万が一ということもある。
「お願い、また会うことは出来ないかしら?」
「すみません。とても無理です。例え、あの写真を元通りにしてもらったとしても無理です。あなたの仕事ぶりは尊敬していました。とても優秀だったと思っています。それでも会いたくありません。あの日、夏月をあなたが侮辱したことを思い出すだけで腸が煮えくり返りそうです。」
僕は感情を殺して彼女に告げる。
「今までありがとうございました。では失礼します。」
それ以来、彼女が僕の前に現れることは無かった。
大倉さんが僕に送ってくれたワインの量は凄まじい量だった。
秋までに選んで返事をすれば良かったのだが、とても1人でどうにかできる量ではなかった。
僕は、鈴木君とジャンに意見を聞きながらワインを選んでいた。
もともと彼らとは仲が良かった。
しかし、それだけではなく、いつの間にか鈴木君もジャンも僕の店で働くことになっていた。
僕は鈴木君のサービスを尊敬していた。
好みとしては、ボヌールの佐伯君の方が好きだが、鈴木君は佐伯君と遜色ないほど素晴らしいギャルソンだった。
ジャンは、バーテンだったが、ワインについての知識も豊富だった。
下手なソムリエよりもずっと技術も知識もあったし、僕らと仲よくしているうちに、いつの間にか日本語がペラペラになっていた。
もともと、昔日本人女性と付き合っていたとかで、片言の日本語を喋っていたのだが、もう日本で普通に仕事を出来るほどの語学力を身に着けていた。
僕らは休みの度に、僕の部屋に集まりワインの試飲を繰り返す。
後から比べやすいように、項目ごとに特徴をまとめられるように用紙を作り、3人の感想を書き込んでいく。
地道な作業だが、その作業を繰り返し、どれをどの程度仕入れ、どの程度力を入れて販売するのか、当面の目安を考えながら選定をしていく。
毎回、前半はそんな感じで真面目に取り組んでいるのだが、どうしても後半は愉しく飲んでいた。
そんな時、僕が夏月の話をするのはもはや鉄板だった。
僕の店のオープンまで1年を切った。
夏の休暇、半分は帰国して話を進め、、残りの半分は2人を巻き込んでワインの選定をして着々と準備は進んでいた。
僕の店で出すワインの9割が決まり、その日も僕等は昼間っからワインを開けて、分析をし、それが終わりワイワイ飲んでいるときの事だった。
僕の携帯に友人からの着信があった。
以前かかって来た電話もこの時間だった。日本では真夜中であるはずの7:00PM。
僕は2人に一言告げ、ベランダに出て電話を取る。
いつも通りの何気ないやり取りを終えると、友人は切り出した。
『夏月ちゃんを見かけた…。すごく綺麗になってたよ…。』
先日友人は夏月を見かけたらしい。
『すごく楽しそうに笑ってた…。』
「それは良かった…。」
なんだか嫌な予感がする。
『…男と一緒だった。』
やっぱり…そんな気がしていた。
別に何もおかしな事など無い。
あれから5年も経っている。今ままで、男の影が無かった方が不思議なくらいだというのに、僕の胸は抉られたようにズキズキと痛む。
夏月は、僕の恋人でも、まして婚約者でも無い。
彼女が何処の誰と恋愛しようが結婚しようが僕がとやかく言う権利も筋合いもない。
夏月は、僕が夏月を好きだということを知らない。夏月は、僕が他の女性を愛している、そう思い込んで身を引いたくらいだ。
普通ならば、僕を忘れる為に新しい恋をもっと早くにしそうなものなのに。
あんなに魅力的で可愛らしい彼女を、男が放って置くはずが無いのだから…。
『優しそうだった。顔も悪くない。妻に話をしたら、彼女に連絡して色々聞いてくれた。彼は同じ歳の同僚だそうだ。彼もパティシエで、一緒に勉強の為に食べ歩きをしていたらしい。付き合っているわけでは無いし、彼女自身には恋愛感情は無いが、彼のことは人として好きだそうだ。気遣い上手で、真面目で仕事面でも尊敬出来ると。…あくまで 彼女には 恋愛感情が無いだけだ。相手は間違いなく夏月ちゃんが好きだ。そういう目をしていた。』
勉強の為の食べ歩き…僕だって、散々真理恵さんとワイナリーを回ったじゃないか。それと何ら変わりはない、寧ろあちらの方がずっと健全で有るに違いない。だというのになぜ、こんなに重く、ドロドロとした感情が湧き上がってくるのだろうか…。
『それと…非常に伝え難いことなんだが…彼女は、ヒデの事を…忘れようとしているらしい。やっと忘れられそうだ、そう言っていたそうだ…それから、今のところ誰とも結婚をするつもりはない、仕事が楽しければ一生独身でもいい、そんな事まで言っていたって…。あの時、ヒデと夏月ちゃんの間には一体何があったんだ?』
僕は友人の質問に答えられなかった。
ただ涙だけが頬をつたう。
それでも、何か言わなくては、そう思ったが上手く言葉に出来なかった。
「…ありがとう。彼女が笑っているならそれで良いんだ…。」
そう伝えるので、精一杯だった。
『ヒデ…泣いてるのか…?』
「悪い、今来客中なんだ…また連絡するよ。」
僕は一方的に電話を切った。
来客を理由に電話を切ったというのに、僕はジャンと鈴木君が2人で飲んでいる部屋へは暫く戻ることが出来なかった。
僕の心は葛藤をしていた。
夏月を僕の店に誘うか誘わないか。
もし、誘うのであれば、帰国後会えるように友人夫婦に頼んで良いものか…。
いや、その前に自分でどうにか探すべきだろう…。
同僚のパティシエ。
おそらく、毎日顔を合わせ、仕事とは言え1日の殆どを夏月が一緒に過ごしている男。
恋愛感情はなくとも夏月は彼に好意を持っている。
僕は連絡先も教えてもらえず、彼女に拒絶されてもう5年以上会っていない男。
かつて夏月は僕に恋愛感情としての好意を向けていてくれた。しかし、今はその存在を忘れたいのだという。
夏月を思う気持ちでは、パティシエの彼に勝つ自信は有る。
長ければ良いというものではないが、もう15年も彼女をただひたすらに思っているのだから…。
だが、夏月の気持ちはどうなのだろうか…。
帰国まで、まだ半年以上ある。
その半年で、夏月が彼を男として好きになってしまいそうで怖かった。
こうなる事はいくらでも想像していたのに…。
5年で帰るつもりが、結局6年近くまで延長する事にしたのは僕自身で、当初の予定ならば、今頃は日本で僕の店の準備をしていたはずだ。
もし、予定通り帰っていたら、夏月を笑顔にしていたのは僕だったのだろうか?
"La lune d'été"
僕が自分の店に付けるつもりの名前。
それすらも、今となってはそう名付けて良いものか躊躇われる。
もう既に、その店名で手続きも進めている。
今であれば、何とか変更も可能だろう。
だが、響きも気に入っているし、店のロケーションにもピッタリだった。
葡萄畑越しに見る、夏の月は美しい。
祖父も、涼も、好きな女の名前を自分の店に付けるなんて馬鹿な男だと思っているだろう。
僕だって初めは、我ながらなんで馬鹿なんだろうと思っていた。
もともと、『La lune d'été』は、企画書のためにとりあえず付けた名前だった。
会社で、新規事業の募集があった頃は、夏月との距離を縮めようと必死で彼女の働くパティスリーへ通い、アントルメをオーダーしまくっていた時期だ。
ノリと勢いで付けた『La lune d'été(仮)』、あくまで(仮)であり、企画が通ったら、店名はきちんと考え直すつもりでいた。
しかし、そんな事をすっかり忘れていて、それを思い出した頃、建設予定地が決まった。
その場を目で見て考え店の名を考え直そう、そう思ってバカンスの季節に一時帰国した際、予定地を訪れた。
飛行機の関係で到着が夜だったのだが、早く見たくて真っ暗な中足を運んだのだった。
そこには美しい満月があった。
たくさんの星が煌めく中、最も大きく、白く美しく輝く月が僕を照らしていた。
その景色を見てしまったら、他の名前など付けられなくなってしまった。
躊躇ったところで、それ以上の名前なんてあるはずないのに…。
そう思う程気に入っているのに、なぜこんな気持になってしまうのだろうか。
こんな時、写真でも良いから彼女の幸せそうな笑顔が見たかった。
思い出そうとしても、僕の頭の中に浮かぶのは悲しそうな彼女の顔ばかり。
昨日まで、いや数時間前までは、笑顔の彼女が脳裏に浮かんでいたというのに…。
「イデアル?」
「ヒデ…泣いてるのか?」
いつまで経っても部屋に戻らない僕を心配して2人は僕の様子を見に来たらしい。
「もう5年も会っていないんだろ?もう諦めろよ…。」
「他にも可愛い子はいるヨ、友達紹介しようか?」
2人は、僕を慰めてくれているようだ…。
「真理恵さん、彼女はヒデの事好きみたいだったし…彼女と付き合ってみたら良いんじゃないか?」
「彼女は…無理だ。実は…あの写真…なくしたんじゃ無いんだよ。彼女に破って燃やされた…。それだけじゃない…。彼女は夏月を侮辱したんだ…。」
思い出しただけで吐き気がする。
あの時の彼女の嫌らしく笑った顔。彼女の口から吐き捨てられる酷い言葉。
「…悪かった。でも、そもそもなぜそこまでシンデレラに執着するんだ?」
そんな事今まで考えた事無かった。
それでも、少し考えて整理して口にしていく。
「自分でも分からない。昔の僕なら適当に遊べる女なら誰でも良かったのにな。
今の僕があるのは彼女のおかげ。ソムリエになって、自分の店を持てるようになりそうなのも、ここで今まで頑張ってこれたのも、彼女の存在があってこそ。なぜだろう…忘れられないんだよ。彼女を好きになったきっかけは、僕の幼い日の初恋の女の子に似ている、ただそれだけだったのに…。」
それから、僕は僕の初恋の、女の子の話をした。
僕が1番好きだったフランボワーズのマカロンを渡すと泣いていた彼女が笑顔になったこと。
その笑顔がとても可愛くて、僕は彼女にフランボワーズのマカロンを全てあげたこと。
その時以来彼女に会うことは無かったが、今でもピンク色のマカロンを見る度に彼女を思い出すこと。
その日の夜見た夢は、幼い日の僕が泣いている女の子にピンク色のマカロンを渡す夢だった。
翌日、仕事に行くと、ジャンがフランボワーズとショコラのマカロンを僕にくれた。
それを食べたら、僕は少し温かな気持になった。
あの時の彼女もそうだったのだろうか。
なっちゃんはどんな女性になっているのだろうか…。
彼女に会ってみたくなった。
今までそんな事1度も考えた事無かったのに…。
なっちゃんは、祖母の友人のお孫さんだったはずだ。
今度祖父母に連絡した時、会ってみたいとお願いしてみよう。




