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僕らの店とシンデレラ

その日以来、僕と涼は更に打ち解け、今まで以上に深い話をするようになっていた。

そして、彼と2人の時、僕は酒が入るとみっともなく泣いて、未練がましく彼女について、彼女への思いについて何度も何度も涼相手に話していた。

初めのうちは、黙って聞いていてくれた涼だったが、流石に毎度同じ話ばかりすると僕に意見をするようになっていた。


「なぁ、ヒデ。好きな女に靴なんて贈っちゃいけないんだよ。」

「…そうかのか?」

「その靴を履いて遠くに行っちまうんだよ。」

「………僕は自分で自分の首を絞めていたのか…。」


「ネックレスとかリングって…束縛の象徴だ…。」

「………夏月は僕に縛られたくなかったのか…。」


「ヒデ、お前面食いだな…。」

「………それは涼君に言われたくないよ。…夏月は性格が可愛いんだ…。」


「…毎度服を出してきて思い出に浸るのはやめろ…変態の自覚があるなら1人の時にしてくれ…。」

「………嫌だ。今こうしていたいんだ…夏月のぬくもりが恋しい…。」

「そんなんでぬくもりなんて感じられるわけないだろ…ほら、しまうぞ。」

「!?…涼君、僕の夏月に触らないでくれるかい?」

「…重症だな。言っておくがそれは布切れだ…。」


実はそんなやり取りも楽しくなってしまっていた。

涼のおかげで、随分楽に過ごせるまでになっていた。

とはいえ、僕の彼女への思いは変わらなかった。

寧ろ今までよりも大きくなっていった。


彼女を思うと嫌な事だって、辛いことだって、キツイことだってどうってことなかった。

手紙を読み返して泣くことも以前よりも少なくなった。

穏やかな気持ちで夏月の写真を眺められるようになっていた。


仕事にも以前より余裕が出てきた。

ソムリエの仕事はもちろん、僕の本来の仕事にも熱が入る。






渡仏する1年程前、僕は企画書を出していた。

社内で新規事業のアイディアの募集があった。


嫌らしくも、僕はそれを利用して自分の店を持とうと考えた。

僕の思い出の土地はワイン用のブドウの産地だった。

そこにレストラン、ワインにこだわったレストランを持ちたい。

近くには直営のホテルもある。

敷地内にチャペルも建てて、そこで結婚式を挙げてレストランで披露宴をする。

新郎新婦及び参列者はホテルの宿泊客になり得る。

そのホテルでも式を挙げることは出来るが、チャペルが小さいから改装するとかしないとかそんな話もあった。しかし、その小ささがアットホームで良いと好評でもあったので話は流れていた。

普段はレストランとして営業し、宿泊客の夕食を僕のレストランで食べられる宿泊プランを作ってもいいと思う。

そんなことをプレゼンしていた。


最終候補まで残っていたが、結局僕の案は採用されなかった。

まぁ、仕方ないだろう。

私利私欲満載だったからな…。


しかし、どういうわけか、仮とはいえ、6年後の開業の話が持ち上がった。

面白いから祖父が出資すると言い出し、少し先で良ければ、土地を譲りたいという人が現れたらしい。


その店の構想を、改めて計画書としてまとめ、祖父へメールで送信する。






「なぁ、涼。帰国したらどうするんだ?」

この日も僕は涼と2人、仕事終わりに酒を飲んでいた。

「とりあえず、ボヌールでしばらく働くよ。」

彼は2年後に帰国する。

「帰国して3年後、予定ある?」

「予定は未定だ。希望としては自分の店の話が進んでいればいいんだが…。」

「なぁ、僕の店で働かないか?」

僕は彼の腕に惚れていた。

「ヒデの店?初耳だぞ?」

今までずっと話していなかった。

僕の実家のことも、祖父のことも、僕の店のことも。

僕はソムリエで、1件の店を任されていた、そうとしか伝えていなかった。

「今まで黙っていてすまなかった。」

こうして、僕は自分の実家や祖父、仕事の事、帰国後開業予定の店のことを話し、涼にデセールを任せたいことを伝えた。


「すまない…すごくいい話だって思う。でも、やっぱり店を持ちたい。パティスリーを…。」

涼の答えはNOだった。


涼を諦めきれない僕は、祖父への計画書を書き直した。

チャペルと、レストランと、パティスリーを同一の敷地へ建てる。

パティスリーを別にすることのメリットをひたすら並べる。


数日後、祖父からOKが出た。

そして、そこまで熱意があるのなら僕に会社を立ち上げろという。

グループの子会社で、経営もやってみろと。



「涼、話がある。」

仕事終わり、僕は涼に声をかける。

僕の部屋に来てもらう。

今日はアルコール抜きだ。


「真面目な話だ。ちゃんと聞いてほしい。」

「お前の店の話なら、答えは変わらない。…俺がこんなこと言うのもおかしな話だが、ヒデの店のデセール、彼女に頼んだらどうだ?」

考えてもみなかった…そうだ、僕は彼女の作るアントルメが大好きだったんだ。

急に気持ちが高ぶる。

彼女を探す口実にもなるし、会う口実としても十分だ。

それならば、もし万が一彼女がほかの男とどうにかなっていたって堂々と声をかけられる。

「涼君…素晴らしいアイディアだ…。」

おっと、今話すべきはこんな話ではない。


「今日は、君に改めてお願いしたいことがある。以前の話は忘れてくれ。そのうえで、これを見てほしい。」

僕は祖父に出した計画書を涼に見せる。

初めは無表情で読んでいた彼の表情が、険しくなる。

「これ、どういうことだ?」

「今から5年後、つまり涼が帰国して3年後だ。僕は店を持つ。その店の隣に、パティスリーがあったらいいなと思っている。結婚式のウェディングケーキや引菓子を卸してくれるような店がね。ついでに、僕の店のデセールについてもアイディアを出してくれるようなシェフパティシエがいたら最高だと思っている。」

「つまり…。」

「僕と一緒に店を持たないか?場所は不便だが、それなりの集客は見込めると思う。」

「すごくいい話だと思う。願ってもいない話だ。」

涼は歯切れが悪い。

急にこんな話をしても信じてもらえないのだろう。

「出資者は僕の祖父だ。僕は子会社を立ち上げる。その会社がレストランとパティスリーの経営をする。僕のパートナーになってくれないか?」

涼は眉間を抑えていた。顔も非常に険しい。

「すまない、混乱している。すぐには返事できない。考えさせてくれ。」

当たり前だろう。

「ああ、もちろんだ。小林さんにも相談してくれ。信じられないようであれば、担当者から実務的な話が出来るように手配する。出資金を出せとも言わない。真剣に、前向きに考えてほしい。」






その後はすぐ、バカンスの季節で、僕らにも10日ほどの休暇が与えられた。

その間、涼は恋人に会いに一時帰国した。


僕は、知り合いの紹介で、コーディネーターを手配して、ワインの産地を回っていた。

そのコーディネーターは、日本人の父とフランス人の母をもつハーフの真理恵さんという女性だ。

僕よりも1つ年上の真理恵さんは、ワインにも詳しく、仕事も出来た。

彼女のコーディネートは素晴らしく、収穫の多いバカンスとなった。






バカンスも終わり、通常の生活が戻ってきた。

ある日の仕事終わり、涼に話しかけられる。

「ヒデ、話がある。」

そして僕は涼の部屋へ行った。

「桃子にはまだはっきりとは言っていない。親には話した。ヒデがアポ取ってくれた担当者とも、会長とも話した。それで、俺はこの話を受けようとおもう。いや、俺にやらせてくれ。」

涼の返事は、僕の望んだものだった。

「本当か?嬉しいよ。よろしく頼む。」

固く握手を交わす。

そして、いつも通り、2人で飲むことになった。

僕はこうなることを薄々気づいており、お気に入りのシャンパーニュを、ハーフボトルだが用意していた。

あの日、夏月と飲んだものだ。

「こんなグラスしかないかいいか?」

そういって持ってきたのはステムの無いワイングラスだった。

僕の家にかえれば、フルートグラスもあったのだが、たまにはそういうのも悪くない。


久しぶりに涼と酒を飲んだせいか、いい返事をもらって緊張がほぐれたせいか、僕はいつも通りの醜態を涼に曝していた。


「あの日、ボヌールで夏月と飲んだのがこれなんだよ…。」

「そうか。なんか噂になってたぞ。商談王子がお姫様連れてきたって。」

「あれから1年経っているのにか?みんな暇なんだな。」

「それだけヒデが女連れてくるのが衝撃だったってことだろ?そういえば、佐伯、厨房にいたぞ。前菜担当してた。篠山と。」

「そうか…それは残念。佐伯君も僕の店にギャルソンとしてスカウトするつもりだったんだけどな。で、篠山って誰?」

「関西弁の女、少しぽっちゃりの。」

「ああ、彼女ね。僕彼女苦手。」

「お前そればっかだな。基本例のお姫様以外は苦手なんだろ、どうせ。」

「夏月がお姫様か…。僕のお姫様。うん、夏月はお姫様だよ、しとやかで、優しくて、儚くて…美しい。僕の夏月はどこへ行ってしまったんだろうか…。」

「だいぶ酔ってるな、自分に。」

「ほっといてくれ。どうせイチャイチャしてきたばかりの涼に僕の気持ちなんてわかるはずがないんだしな。」

「…相変わらずだな。…しとやかで、優しくて、儚くて、美しい…幻のお姫様か。」

「ああ、朝起きたらいなくなってるしな。本当に幻のようなお姫様だ。」


それから涼は最近のボヌールのことを詳しく話してくれた。

僕のお気に入りの佐伯君のこと、春から入った若いギャルソン2人組のこと、新しいメニューのこと。

それからレストランの裏の通りに出来たパティスリーの事。

涼の彼女で、僕が女性スタッフの中で唯一好感を持てた小林さんはパティスリーで販売のチーフを任されていること。


そんな話を聞いているうちに、思い出される幸せな時間、美味しい料理。

ボヌールには行きたいが、今はまだ訪れる自信がない…立花さんの別れ際の言葉が…今の僕にとっては残酷だった。


『帰国されたらぜひまたお2人でお越しください。お待ちしております。』


今、夏月はどこで何をしているのだろうか。

僕を思って泣いているのだろうか。

あれから一年。

他の男と出会って恋をしているのかもしれない。

誰かの腕に抱かれて、あの日僕に向けたような柔らかな微笑みを、僕ではない誰かに向けているのかもしれない。

僕には好きな人がいる、その好きな人が自分自身だと知らない夏月は僕の幸せを願って身を引いた。

僕を諦めて、他の男と幸せになっていたって不思議ではない。


なのに、僕は彼女がまだ僕のことを思ってくれているのではないか、そんな都合のいいことばかり考えてしまう。






涼に良い返事をもらって以降、2人で飲むときの話題はもっぱら店の話だった。

お互いの店のイメージや方向性、外観から内装のイメージ、メニューについていろいろな事を話したが、僕の好みと涼の好み、イメージも方向性もとても近く、どんどん2人の希望が固まっていく。

それを、僕の信頼できる部下に伝え、話を進めてもらう。

まとまった休暇が取れれば、一時帰国をして、担当者から進行状況の説明を聞いて、建築家との打ち合わせ、候補地の下見など忙しく過ごしていた。

どんなに忙しくても僕は、帰国する度、夏月を探していた。

1人暮らしの部屋は僕が渡仏した直後に引き払っていた。

昔祖母と暮らしていたという家は、相変わらず定期的に手入れをされていようだったが、人の気配はなかった。

やはり、ごくたまに若い女性が訪れているという。

彼女の友人に尋ねても、相変わらず夏月とは連絡が取れないという。

しかし、新しい仕事を始めたこと、元気だということが書かれた年賀状が届いた事を教えてくれた。

年賀状に書かれた住所は、昔祖母と暮らしていた家の住所になっていたそうだ。


祖父母は、僕が未だに夏月の事を忘れられないということを知ると、悲痛の表情で僕を見つめた。

祖父母が夏月を探す、必ず見つけると言ってくれたが断った。

僕自身が探すことに意義があるのだ。

僕のついた嘘が招いた結果なのだから。

渡仏直前は様子のおかしかった兄も、また以前の様な、穏やかで真面目な兄に戻っていた。

今思うと、その頃の兄は、かつて荒れていた時の兄と通ずるところがあったような気もする。

兄も、僕に対して、協力すると申し出てくれたがやはり僕は断った。






フランスに戻り、涼に進んだ話の報告をして、そこからまた突っ込んだ希望やイメージを2人で話して、それを詰めて日本にいる担当者に伝えて、話を進めてもらって…それを繰り返して、僕と涼の店の話はどんどん具体化していく。

かつて、夢物語に近かったそれは、もう夢ではなかった。

数年後に実現する現実なのだ。


僕と涼は以前にも増して2人で飲むようになった。

あまりに仲が良いため、僕らが出来ているんじゃないかと店の一部のスタッフに誤解されるほどだった。

もちろん、全力で否定した。

涼には結婚を考えている女性がいるし、僕には今も思い続けている女性がいると。

涼が、僕が彼女の靴を大切にしまっていると暴露をしてくれたおかげで、夏月は勝手に『シンデレラ』呼ばわりされ、一時帰国する度、皆に『シンデレラが見つかるといいね』などと言われることになってしまったのだが、男に興味があると思われても厄介なのでそれで良しとした。

思い出すだけで寒気がする。

もう男に口説かれるのはごめんだ。


酒が進んで僕がべろべろに酔うと、僕は涼以外のスタッフがいても『シンデレラ(夏月)』への思いを話すようになってしまっていた。

以前は涼と2人の時にしか話していなかったのに…。

帰国前の1年になると、涼でさえ流石に聞き飽きたようで、夏月の話だけ(・・)を聞き流すというスキルを見事に身につけていた。それでも、何も言わずただそばにいてくれる、それだけで僕は嬉しかった。

おそらく、涼に一方的にでも話すことで、心のバランスをとっていたのだろう。







そして月日はあっという間に過ぎ、涼は帰国した。

僕達の店のオープンまで3年。

涼の帰国後、僕達の店のことはある程度涼に任せることができたので、僕の一時帰国の回数が減った。

その分の時間を店で出すワインの候補探しに使っていた。

以前お願いしたコーディネートの真理恵さんを頼り、数回、ワインの産地を巡っていた。


彼女は、パリ在住だが、仕事でリヨンに立ち寄ると、僕を訪ねるようになっていた。


以前仕事を依頼した際教えた住所を頼りに、僕の部屋へも何度か来ていた。

あまりいい気はしなかったので、1度も家には上げず、必ず外へ出かけてワインを飲みながら話していた。




涼が帰国して1年ほど経ったある休みの日、僕は日本人のギャルソンの鈴木君と、ジャンと3人で僕の部屋で早い時間から飲んでいた。

そんなときに彼女はやってきた。手土産にワインを持って。

突然の女性の訪問に、手が離せなかった僕の代わりに応対した鈴木君とジャンは少し驚いていたが、仕事の話をしに来たということ、彼女がワインを持っていたということを知ると、僕が許可する前に彼女を家へ迎え入れ彼女を交えて飲み始めてしまった。

そのことに苛立っていた僕は、3人から少し離れ、1人キッチンで飲んでいた。

こっそり、夏月の写真を眺めながら…。


3人は楽しそうに話していた。

鈴木君とジャンが真理恵さんに質問して、彼女が答える、と言った会話を繰り返していたかの様に思える。

いつの間にか、ジャンは1人で飲んでいた僕のすぐそばに来ていたようだ。

不覚にも全く気付かなかった。


「イデアル、俺にもシンデレラの写真みせてヨ。」

その言葉に、鈴木君も敏感に反応する。

「!?なんだって?俺も見たい~!ヒデ、見せろって。」

「…シンデレラ?」

「そう、イデアルの忘れられない女性。酔うといつも彼女の話するヨ。」

「そうそう、ナツキ〜、ナツキ〜って未練タラタラ。今でも彼女の靴、大切にしまってるって話ですよ?ガラスの靴じゃないし、両足揃ってるらしいけど…ついでに靴も拝みたい~!」

ジャンも鈴木君もすっかり酔っぱらい、かなり性質(タチ)が悪そうだったので、おとなしく写真を見せることにする。あくまで写真だけ。


靴は見せるものか。ただでさえ、下ろしたてだったであろう夏月の気配(?)が薄い靴なのだ。時間の経過と共に、更にそれが薄れて来ているというのに、他人に触らせるなんてあり得ない。


「……まじか…想像以上に美人…。」

「オー!ヤマトナデシコ!可愛いね!綺麗だね!イデアルにはもったいないヨ!」

「………。」

それぞれに勝手な感想を口にする。


「ヒデって面食い?」

夏月の写真と、コーディネーターの真理恵さんの顔を交互に見ながら鈴木くんが言う。

まぁ、確かに真理恵さんも美人だ。僕の好みじゃないがな。


「夏月は見た目も可愛いけど、それ以上に性格が可愛いの。それに声も可愛い。もう全てが可愛い。僕にとって最高のお姫様(プランセス)だ!」

「スタイルも良いしネ!綺麗なバストだネ!」

「おい、ジャン、僕のシンデレラ(夏月)をそういう目で見るな。」

この変態め。という僕も十分変態だがな!

「でもなんで別れたんだよ?」

鈴木君、そこは突っ込んじゃいけないよ?

そもそも付き合ってないし…告白する前に姿を消しただなんて言えない。


「…まぁ、色々あるんだよ。」

とりあえずそう答えて、この話を終わらせる。

これ以上話したくなかった。ジャンや鈴木君に話したら面白おかしく変換されてしまうに違いない。

真理恵さんはさもつまらなそうな顔をしている。

急に僕たちだけで盛り上がってしまったのだから仕方ないだろう。それを思いっきり顔に出すのもどうかと思うが…。


その時、僕の携帯に着信があった。

夏月のウェディングケーキをプレゼントした友人からだった。

日本は真夜中のはずだ。


僕は、ベランダへ出て、電話を取る。

『ヒデ、すまない。妻に代わる。』

久しぶり、元気だったか?そっちはどうだ…そんな挨拶を一通り済ますと、友人は彼の妻と電話を代わった。

どうやら僕に話が有るのは彼女のようだ。


『お久しぶりです。蘇芳さんに謝らなくてはいけない事が有るんです…。』

友人の妻、鞠子さんは泣いていたようだ。

『…実は、夏月の連絡先を知っていて隠していました。3年前からです。』


鞠子さんの話によると、3年前、丁度僕が一時帰国する直前、偶然夏月に会ったらしい。

その時、電話番号を教えてくれた。ただし条件付きで。

その条件とは、僕に番号を教えないこと。

鞠子さんは、僕が夏月と連絡を取りたがっている、会いたがっていると伝えてくれたそうだが、夏月は『英治さんと合わせる顔が無い』と連絡先を僕に教えることを泣いて拒んだ。

髪を短く切った彼女は、ほとんど笑わず、笑っても無理をして作った笑顔だった。

そんな夏月を見て、鞠子さんはとても僕に連絡先を教えることなど出来なかったという。


夏月が鞠子さんに教えたのは電話番号と、今もパティシエールをしているということのみで、今住んでいる住所や、具体的にどこで働いているかは教えてもらえなかった。

それ以降も毎年年賀状は届いたが、差出人の欄には相変わらずかつて暮らしていた家の住所が書かれていたらしい。


そして、今日夫婦で外出中、ばったり夏月に会ったそうだ。

随分髪は伸び、元気そうだったが、笑った顔がとてもさみしそうだった。

僕の事を話すと、やはり合わせる顔が無いから連絡先は教えないでほしいと言っていた。

3年前と同じところに勤務しているそうだが、部署が変わって尊敬できる先輩のいる恵まれた職場で、毎日が楽しく、仕事に打ち込んでいる。

結婚もしておらず、恋人もいない。

好きな人はいるのか尋ねると、泣きそうな顔で分からない、そう言った。


そしてその時、友人は妻が夏月の連絡先を知っていたのに、僕に隠していたことを知り、夫婦喧嘩の末、泣きながら僕に電話をかけて今までの事を教えてくれたのだ。

ただし、夏月の連絡先は彼女との約束があるので教えられないとのこと。


「僕のせいで、すまなかった。夏月がそう言うのなら、僕が鞠子さんから聞くわけにはいかないよ…。夏月が元気ならそれで良いんだ。仕事を頑張っているんだね…恵まれた職場で楽しく仕事をしていることが分かって嬉しいよ。それだけで十分だ。ありがとう。連絡先はいいから、また夏月に会ったらどんな様子だったか教えてもらえるかい?」


僕も泣いていた。

声が震えていたのできっと彼女も気付いたことだろう。


『…夏月は今でも蘇芳さんの事が好きなんだと思います…。』


最後に鞠子さんが言ってくれた言葉は、例え嘘でも嬉しかった。


彼らには、僕と夏月のあの日の経緯(いきさつ)を、話していない。

ただ、僕が高校生の頃からずっと夏月を好きだった事を僕の友人は知っている。

そして、僕の気持ちは自分で直接伝えたいから、彼女には言わないで欲しい、そうお願いしているのだ。

鞠子さんは、夏月が僕の事を好きだということに、結婚披露パーティーの時に気付いたらしい。

あの時、僕と夏月の歯車がうまく噛み合わなかっただけで、今でもお互いを思っている…。それを知っているから友人夫婦は僕に協力してくれているのだ。


夏月に今も拒絶されているのは辛かったが、元気に、好きな仕事を今は楽しいと思えている事が嬉しかった。

それだけで十分だ。


結婚もしておらず、恋人もいないという情報だけでも大きな収穫。


そして、もしかしたら夏月もまだ僕を思ってくれているのかもしれないということを知り、胸が熱くなった。


2年後、レストランオープンの際は、彼女にデセールを任せたい。

そう強く思った。






涙を拭き、気持ちを落ち着かせ、部屋に戻ると、鈴木君とジャンはいなかった。

ワインとつまみを買いに行ったという。

ワインが欲しければ、いつもなら僕のセラーから勝手に開けている2人なのにおかしい、そう思っていると、

「ここに無いシャンパーニュが飲みたいと言ったの。」

そう真理恵さんが言った。

なんか嫌な感じだ。


「ところで、今日はどういったご用件でいらしたんですか?出来れば用が済んだらお引き取り願いたいんですが。明日は仕事なんで、遅くまでここで飲まれると困るんですよ。」

我ながら嫌な感じだ。

これじゃ人の事言えないな。

「ヒデ、そんなに怒らないで?それにいつも言ってるけれど、マリエって呼んでくれない?」

「別に怒って無いですよ。機嫌が悪いだけです。」

ウフフ、さっきの電話、悪い知らせだったの?そんなことを呟きながら彼女は笑った。

「もうすぐ休暇でしょ?その過ごし方の提案。仕事の話よ、仕事の話。今年は予定が埋まるのが早くて…声かけてくれないから、埋まる前にこちらからお得意様のヒデに声かけとこうと思って。」

彼女はバッグから資料を取り出し、僕に渡した。


魅力的だった。

行きたいと思った。


「今日持って来たワイン、美味しいでしょ?このワイナリーのものよ。どうかしら?」

ぜひ行きたい。

「それでね、日程なんだけど、ここで1泊2日かこっちで2泊3日はどうかなって思うんだけど。早くしないと宿泊先の確保が難しいから、出来たら今日返事が欲しいわ…。」

確かそこは両方休みのはずだ。

2泊したい気もするが、彼女と3日一緒に過ごす自信が無いので1泊にする。

実は彼女が苦手だ。

初めはそんなこと無かったのだが、仕事やプライベートで顔を会わせれば合わせる程、そう感じるようになってしまった。

仕事は素晴らしいけれど、どうも話が合わない。

なぜか苛々させるような言動が多い。

挑発するような態度だったり、やたらとボディタッチされるのも不快で仕方なかった。


「じゃあここで1泊2日、お願いします。」

「あら、2泊じゃ無いの?残念。そしたら全部回るのは無理だから、優先順位つけといてくれるかしら?」

その後も何かブツブツ言っていたが聞き流して、行きたいワイナリーに優先順位をつけて渡す。

「毎度ありがとうございます。ではこれを元に練り直すわね。用は済んだけど、まだ帰らないわよ?せめて、2人が戻ってきて、お願いしていたシャンパーニュ飲んでからでもいいでしょ?」

その時、鈴木君とジャンが戻ってきた。

僕はほっとする。


それから、どうにか強引に1時間後には全員帰ってもらい、僕は夏月との思い出にどっぷり浸りながら眠りについた。

絶望の手紙を取り出した時、僅かに違和感を覚えたが、僕を拒絶しながらも、夏月が僕の事を思っていてくれているかもしれないという、酷く苦いがほんのり甘い、そんな複雑な感情が僕を支配していたため、あまり気にも留めることはなかった。

夏月が置いていったリングも、ネックレスもあの日と同じように輝いていた。

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