別れと出会い
冷静になれないままの僕を、夏月はリビングのソファに座って待っていた。
携帯を確認したが、祖父母からの着信もメールもなかった。
気付くと僕は、またその苛立ちを夏月にぶつけてしまっていた。
「夏月、同じ部屋に泊まるって、同じベッドで寝るって…本当に意味わかってる?僕だって男なんだよ?」
夏月は僕をまっすぐ見つめて頷いた。
「わかっています。」
「昨日あんなことがあったのに平気だって言うの?」
夏月は僕からずっと目をそらさなかった。
僕もそんな夏月から目をそらすことが出来なかった。
夏月はもう1度頷いた。
「あんなことがあったからこそ、です。」
「どういう意味?」
聞かずにはいられなかった。
「嫌な記憶を消したいんです。」
震えて涙声だった。
「だから、寧ろずっと憧れていたあなたに…抱いてもらいたいんです。あなたに抱かれて、嫌な記憶を上書き修正したいんです。」
夏月は泣いていた。
「好きな女性がいる人にこんなことをお願いするのはとても失礼な事だってわかっています。」
今言ってしまいたかった。
でも、この状況で、酒に酔った状態で告白するのは嫌だった。
中途半端なプライドが邪魔をしていた。
祖父からの返事がまだだったというのも多少はあったが、それ以上に、僕の変なプライドのせいだった。
彼女にはきちんと、誠意をもって伝えたかった。
恰好つけたかった。
「私はずっとあなたが好きでした。私はあなたに救われました。あなたが来てくれるから嫌なことがあっても頑張れたんです。」
夏月はまっすぐ、僕に気持ちをぶつけてくれたというのに…。
僕は、そうすることができなかった。
告白は中途半端なプライドが邪魔をしていたくせに、理性は欲望に打ち勝つことは出来なかった。
僕は無意識に夏月を引き寄せ、抱きしめていた。
その柔らかな唇にキスをし、バスローブを脱がせ、抱きかかえてベッドに座らせる。
「念のためもう一度聞くけど、本当に意味わかってるんだよね?僕も男だから、やめて欲しいって言われても、もう後戻りできないよ?」
白い肌、豊かな胸、美しいくびれ。
それを目で見て、肌で感じてしまった今、もう後戻り出来るはずもなかった。
僕を見上げる夏月は、頷く。
「大好きなあなたに抱いてもらえたら…私は幸せです。」
まっすぐ僕を見つめる瞳からは大粒の涙がこぼれていた。
指で涙を拭い、優しいくキスをする。
優しく触れるだけにするつもりだったはずのキスも、あっという間に激しくなってしまう。
彼女も、僕に応えようとしてくれている。
それが嬉しかった。
夏月が僕を求めてくれている、それだけで幸せだった。
僕は夏月に夢中だった。
彼女のぬくもりも、柔らかさも、甘い吐息も、ぎこちなさも、すべてが愛おしかった。
狂ってしまいそうだった。
実際、狂ったように彼女を求め続けていた。
もう理性なんてものは僕の中に存在していなかった。
「英治さん…。」
「夏月?」
彼女が僕を呼ぶ、甘い声に酔っていた。
「英治さん…大好きです。」
「僕もだよ…夏月。」
疲れたのか、酒のせいなのか、事を終えると夏月はあっという間に眠ってしまった。
美しい寝顔だった。
ふと見ると夏月の首筋や胸元にはたくさんの小さな痣が残っていた。
僕の携帯には、祖父からの着信と、メールが残っていた。
『夏月さんとの交際を認める。幸せにしてあげなさい。』と。
僕は、眠っている夏月の唇に口づけをそっと落とした。
「僕もずっと好きだった。大好きだった。愛している。僕が幸せにするよ。」
そう耳元で囁いて、夏月の隣に横になり目を瞑った。
昨日は飲み過ぎたのだろうか、頭が痛い。
時計を見るともう9時をまわっていた。
隣に視線を動かすが、夏月の姿はそこになかった。
シャワーでも浴びているのだろうか?
起き上がり、部屋の明かりをつけ、僕はあることに気付く。
そして思い出される昨夜の彼女のぎこちなさ。
急に罪悪感に苛まれる。
初めて…だったのだろうか。
もっと優しくすればよかった、きちんと告白してからにすればよかった。
そんな事考えてももう終わってしまった事でどうにもならない。
無理やり気持ちを切り替える。
きちんと気持ちを告げなければ、本当のことを話さなくては。
もしかしたら先に目が覚めた夏月は、僕を起こさないように配慮してくれているのかもしれない。
それに気づき、起きてリビングへの扉を開ける。
そこに夏月はいなかった。
シャワーを浴びているのだろうか?
しかしシャワーの音はしない。
恐る恐るバスルームの扉を開けてみるが夏月の姿はどこにもなかった。
リビングへ戻ると、デスクの上には、1通の手紙と、昨日彼女にプレゼントしたはずのネックレスとリングが置かれていた。
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英治さん
このような形で、お礼とお詫び、そしてご挨拶を済ませることをお許し下さい。
私は貴方にいくら感謝しても感謝しきれません。
好きなことを仕事にしていたはずなのに、辛く苦しかった私を救ってくれたのは貴方でした。
貴方に声をかけられ、お話し出来るのをとても楽しみにしていました。
いらっしゃるのがわかっている日は、今か今かと心待ちにしていました。
貴方の笑顔が見たくて、喜んでもらいたくて、アントルメを作るのにもどんどん熱が入ってゆき、お陰様で、以前よりも随分上達したと実感しております。
友人の結婚披露パーティーで、私の作ったウェディングケーキを見つけた時は、本当に驚きました。
そして初めて目にする、ダイレクトな反応に心が踊りました。
そんな機会を与えて下さりありがとうございます。
そして、あの日、あの場所で貴方にお会い出来て、お話し出来て、幸せでした。
また、一昨日は危ない所を助けていただき、心より感謝しております。
英治さんが助けてくれなかったら…そう思うと、恐ろしくて震えが止まりません。
昨日は魔法にかかったような、本当に幸せな1日でした。
化粧っ気のない、地味な私に魔法をかけて美しくしてくださったこと。
自分が自分では無いようでした。
お祖父様とお祖母様との会食は本当に楽しかったです。お2人にも宜しくお伝えくださいませ。そして、いつか私の代わりにお2人にお詫びをしていただけませんでしょうか。
それから、貴方とたわいもない話をしたり、一緒に過ごせたことも素敵な、幸せな思い出となりました。
Je porte bonheurでの食事は、今まで頂いた食事の中で1番美味しいと思える食事でした。
心も、お腹も満たされる美味しい料理と、素敵なサービス、貴方のその笑顔に私は癒されました。
本当に楽しく、本当に幸せな時間でした。
今まで、私にとって、貴方の笑顔が幸せのお守りだったのだと思います。
これからは、貴方とJe porte bonheurで食事をした素敵な思い出を心に仕舞い、私の幸せのお守りにして頑張っていきます。
私は貴方に改めてお詫びをしなくてはいけません。
好きな女性がいらっしゃる貴方に、私はとんでもない我儘を言いました。
本当に失礼な事を言ってしまったと、貴方を傷つけてしまったのではないか、後悔させてしまったのではないかと心苦しいです。
あんなご無理を言って、本当に申し訳ありませんでした。
心より、お詫び申し上げます。
しかし、私自身は後悔していません。
貴方の温もりを、貴方の腕の中で感じられたこと。
とても幸せでした。
嫌な事を全て忘れ去ってしまう位幸せでした。
ずっと大好きだった、憧れていた貴方とこのような形でも、肌に触れることが出来たこと。
例え偽りでも、恋人として過ごした1日は、私にとって人生最高の日となりました。
貴方に、「夏月」と呼ばれるたび、私が貴方を「英治さん」と呼ぶたび、私の心は舞い上がって、天にも昇る気持ちでした。
最後になりましたが、お言葉に甘えて、ドレスと靴とバッグはありがたく頂戴いたします。
ですが、アクセサリーは受け取れません。
置いて行っても、英治さんが困ってしまうのはわかっているのですが、置いて行かせて下さい。
本当はこのような事は、直接言わなくてはいけないことだと理解しております。
しかし、私は、貴方への気持ちを抑えてお話しする自信がありません。
貴方と一緒にいたら、もっと貴方を求めてしまうでしょう。
どんどん欲が出て来てしまうことでしょう。
しかし、貴方には好きな女性がいらっしゃいます。
私が貴方のそばにいてはいけないのです。
ですので、このような形で、お別れさせて下さい。
貴方が思いを寄せる女性と結ばれますよう、心よりお祈り申し上げます。
貴方に幸せが訪れますように。
さようなら。
水縹 夏月
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ホテルの名が型押しされた便箋に、整った美しい文字で、便箋3枚に渡り綴られた彼女の言葉。
それは、僕にとって絶望だった。
自分のついた嘘の愚かさと、その嘘により彼女を酷く傷つけてしまったであろうことへの後悔と恐怖。
言葉の端々から伝わる僕への思い――本来なら甘く、心地よいはずの、僕に向けられた感情は、彼女にとって酷く苦く辛いものになってしまった。
いや、僕がそうさせてしまったのだ。
電話をいくらかけても圏外で繋がらない。
僕はすぐに荷物をまとめ、部屋を飛び出し、彼女の部屋まで車を走らせた。
そこに人の気配は無かった。
彼女が働いてた店に行き、何食わぬ顔で、彼女を呼んで欲しいと頼む。
するとシェフが出て来て、彼女は祖母の看病をする為に退職をしたと言う。
流石に、祖母の家の住所や本籍などは教えてもらうことが出来なかった。
それから、先日結婚した僕の友人の奥さんに、夏月と連絡が取れないかお願いしたが、僕と同様、連絡がつかなかった。
彼女は、夏月が学生時代祖母と住んでいたという家の住所を教えてくれた。僕はすぐにその住所へ向かった。
そこには最近手入れされたであろう形跡の残る立派な庭と、立派な日本家屋があった。
しかし、人気はなく、近所の人に伺うと現在は人は住んでいないが、ごくたまに、若い女性が家の手入れをしに来るという。
また、半年に1度ほど、庭師が庭の手入れをしに来るとの事だった。
その若い女性とはおそらく夏月なのだろう。
その合間に、何度も夏月の携帯へ連絡をする。しかし決して彼女へ繋がる事は無かった。
何度かけても圏外のアナウンスに繋がる。
それも夕方になると、『おかけになった電話番号は、現在使われておりません』というアナウンスに変わってしまった。
為す術もなく、僕は途方に暮れてしまった。
それから1週間、僕はどうにか荷物をまとめ、借りていたマンションの部屋を引き払った。
彼女が残していったあの日着ていたデニム、僕のシャツ、可愛らしいバレエシューズと小さなバッグを僕は無意識のうちにスーツケースにしまっていた。
そして、いつもネックレスとリングと手紙を持ち歩き、暇さえあればリングとネックレスを眺めていた。
もちろん、Je porte bonheurで撮ってもらった写真も大切に持っていた。
毎日、彼女の部屋とかつて住んでいた家を訪れたが、彼女や他の誰かが訪れた形跡はなかった。
彼女の友人にも、何か分かれば連絡をしてもらうようにお願いしたが、音沙汰がないようだ。
そうこうしているうちに、渡仏の日がやってきてしまった。
空港には、見送りのため、機嫌のよい祖父母と、なぜか不貞腐れている兄が来てくれた。
飛行機の時間までまだ少しあったので、4人でお茶を飲むこととなった。
「その後どうだ?今日は、夏月さんは仕事かね?」
「ずいぶん疲れた顔をしているけれど、大丈夫?寝る間を惜しんでまで彼女と会っていたのかしら?」
祖父母は無邪気に僕に尋ねる。
避けられない質問だとわかっていた。
でも、僕は答えることが出来なかった。
「おい、英治?」
僕の様子を見た祖父母の表情が険しくなる。
「まさかフラれたのか?」
少しだけ口元をゆるませて、さも愉快そうに聞いてくる兄に苛立ちを覚える。
僕は手荷物の中から、大切にしまってあった彼女の残した手紙を無言で祖父に差出した。
祖父は読み終わると無言で祖母へ手渡した。
祖母は読みながら泣いていた。
そして、読み終わると丁寧にたたんで封筒にしまい、僕に手渡した。
こんな内容の手紙を他の人に見せるのもどうかと思ったが、自分の口で説明できなかった以上、こうする事しかできなかった。
「お願いだから、彼女を探したりしないでほしい。それは僕自身でするべきだと思う。僕がついた愚かな嘘がすべての始まりだ。」
どうにかそれだけ言うと、僕は席を立ってチェックインをするべく出発ロビーへと向かった。
今回の渡仏の目的は2つ。
まずは、自分自身の勉強のため。
そして、6年後オープンを目指す僕自身が立案した店のワインの買い付けのため。
僕の慕うソムリエの紹介で、リヨンの星付きレストランで働かせてもらえることになっていた。
慣れない環境、新しい仕事、言葉の壁。
以前留学していたことがあると言っても、7年のブランクがある。
しかも接客業。
勉強するべきことはいくらでもあったので、気を紛らわすことができた。
気を紛らわさなければ、とてもまともに仕事なんて出来そうに無かった。
気を紛らわすのに必死で、仕事のことばかり考えていた僕は、仕事の覚えも早く、あっという間に店に馴染んでいた。
その店は、比較的日本人を多く受け入れている店で、僕のほかに3人の日本人が働いていた。
ギャルソン、料理人、パエィシエ。そしてソムリエの僕。
居心地の良い店で、国籍関係なくスタッフは仲が良かった。
それでも、同郷のよしみというのは大きく、仕事終わりによく4人で飲むようになっていた。
中でも、僕よりも3か月ほど先に渡仏したパティシエとは気が合った。
彼は付き合い始めたばかりの恋人を日本に残してきたという。
ギャルソンと料理人の2人にはそういった相手がおらず、遊びたい放題で、僕もしょっちゅう女遊びに誘われていたが、とてもそんな気分にはなれなかった。
断っても彼らは強引に俺を連れて行こうとする。
彼は、そういう時決まって僕を助けてくれた。
同じ年の彼は、どちらかというと物静かで、必要以上に笑わない男だった。
真面目で、センスも良く、考え方の近い彼とはすごく気が合い、話していても楽しく、一緒にいてとても楽だった。
お互い、自分のことをあまり話すタイプではなかったし、相手のことを聞くタイプでもなかったので、彼の以前の勤務先を知ったのは出会って半年後のことだった。
その日、僕は彼と2人、僕の部屋で飲んでいた。
翌日は店が休みで、安くて美味いワインを見つけた俺は、彼と2人、かなりの量を飲んでいた。
彼は春日野 涼。フランス人が彼の名を呼ぶと『リョウ アルイノ』となる。
僕は蘇芳 英治。フランス人が僕の名を呼ぶと『イデアル スオウ』となる。
名前で、Hの発音をしてもらえない仲間というのも僕らが仲良くなるきっかけの1つだった。
「まったく、ジャンって普通に英語しゃべってるくせに、僕の名前の時は発音できないって言って『イデアル』って呼び続けるんだよな…。」
「ああ、それ分かる。鉄板のジャンあるあるだな。」
そんなたわいのない話をしていた。
「ああ、もう空か。白でも開けよう。」
もう何本目だろうか。先ほどまで飲んでいたワインはコルクではなく、スクリューキャップだった。
手元にソムリエナイフが見つからず、僕は机の上を探す。すると、1通の手紙がハラハラと彼の手元へ落ちてしまった。
「なんだ?これ。」
よりにもよって、便箋は封筒から出されて、広げられていた。
昨夜、僕自身が読み返して、机の上に置いたまま探し物を始めてしまっていたことを思い出した。
どうにか勉強などして気を紛らわしていた僕だが、眠る前の時間はどうしても彼女の事を考えずにはいられなかったのだ。そんな時は決まって彼女の残した手紙を読み返していた。
「ん?これってヒデ宛ての手紙か?こういう字だったのか…。」
封筒に書かれた僕のフルネームを見て、涼が僕に尋ねる。
どこかで見たことがあるような…そう彼が呟いた気もした。
「ああ。絶望の手紙。でも僕の宝物。」
彼の手から取り返そうという気力さえなく、そう答える。
「意味不明だな…絶望の手紙って…まるで不幸の手紙だな。誰かに回したりするのか?その絶望の手紙ってやつは。」
そう言って、彼は読まずにたたんで、僕に手渡してくれた。
そして、封筒の文字を改めてじっくり眺めると、僕に再び尋ねた。
「まさか、ヒデが商談王子なのか?」
「は?意味がわからない。」
「ヒデ、Je porte bonheurって知ってるか?フレンチの。」
「ああ、昔からよく行ってた。こっち来る前は月1くらい。」
「そこで商談してただろう?」
「ああ?仕事の打ち合わせとか取引先との会食でよく使ってたな。でもなぜ涼がそんな事を知ってるんだ?」
「俺、ここに来る前はボヌールでデセール作ってた。商談王子ってのは、お前のあだ名だよ。」
全く酷いあだ名をつけられたものだ。
「誰だよ?そんなのつけたやつ。」
「加奈子さんって話だけど?ってわかるか?」
「ああ、彼女ね。僕彼女苦手。」
「俺も苦手だ。」
「今のお気に入りは佐伯君。もう2年程ずっと彼と立花さんのサービスしか受けてない。女性はね…面倒で。小林さんだけかな、好感持てるのは。」
「…俺の彼女だよ、小林桃子。」
「へぇ…うん、なんかわかる気がする。そうか…涼がボヌールでデセール作っていたのか。僕は、フランボワーズとショコラのタルトが好きだったよ。ほかの物も美味しかったけれどね。」
そこから一気に話はJe porte bonheurの事になった。
スタッフのこと、料理のこと、デセールの事。
そして、僕の頭の中には、あの日の、夏月と訪れた日のことが思い出されていた。
「なぁ、ヒデ。」
「なんだ?」
「お前、結婚とか考えてる?」
「………考えてる、というか考えていた、というか。」
「は?」
「僕のことはいい。涼はどうなんだ?」
「俺、帰ったら31なんだよ。桃子は同じ年だ。帰ったらすべきなのか迷っている。自分の店が持ちたい。だからそれが叶ってから…目処が立ってからにするべきなのか。そうはいっても、いろいろあるだろう?店が持てる保証もないのに待たせるわけにもいかないし。大体、付き合い始めたと思ったら3年遠距離って時点で罪悪感があるのに、さらに待たせるのかって…。」
「甘いよ。涼君。そんな君の悩みがうらやましいよ。」
完全に酔っていた。
今までどうにか紛らわしてきていた彼女への気持ちが溢れてしまっていた。
「僕は、高校生の頃、ある女の子に恋をした。一目ぼれだ。でもその頃の僕は最低な男で、自分自身が恥ずかしくてとても彼女に声をかけられなかった。だからまともになろうと努力した。それがきっかけで、今この仕事をしている。やっと声をかけられると思えた時、彼女を見つけられなかった。だから仕事に打ち込んだ。そしたら数年後、偶然彼女を見つけたんだ。彼女はパティシエールになっていた。彼女の働く店に通い、じわじわ距離を縮めて行った。告白しようと思った時に、フランス行きが決まった。告白しようにも、家庭の事情というか特殊な教訓があって、祖父母の許可を取ってからでないとできなかった。焦った僕は、嘘をついた。好きな人がいるから見合いをしたくなくて、断るのに恋人がいると嘘をついた、そしたらその恋人を連れて来いと言われたのだが僕には恋人がいない、だから1日恋人のフリをしてくれと。それを彼女は快諾してくれ僕に1日付き合ってくれた。いろいろあって翌朝起きたら彼女は消えて音信不通。酔いが覚めたら本当のことを話すつもりでいたのに、話す前に行方不明。こっちに来るまで出来る限りさがしても見つからない。…これを読んで僕の絶望を味わってくれ。」
僕は泣いていた。
涼に先程の手紙を渡す。
黙って受け取った彼は便箋を取り出し、読み始める。
手持無沙汰になってしまった僕は彼女と写った写真を眺めていた。
「絶望の手紙…でも宝物…か。その通りだな。」
「きっと夏月はもっと苦しんでいるんだよ。本当は、ちゃんと告白っていうかプロポーズして、こっちに呼び寄せるつもりだった。僕の予定では、今頃は一緒に住んでいるはずだったんだよ。自業自得だ。始まりは僕のついた嘘だ。今でも鮮明に覚えている。夏月の、声も、香りも、感触も。毎日、手紙を読み返して、夏月の着ていた服を抱きしめて、夏月にプレゼントしたアクセサリーを持ち歩いて、毎日、写真の中の夏月に話しかけているんだ。未練がましいというのを通り越して、最早変態だよ。あの日の夏月はとても幸せそうだった。でも、時々すごく辛そうな顔を垣間見せていた。それがどういうことだったのか、はっきり気付いた時にはもう遅かったんだよ。この写真はとても幸せそうだ。本当なら今もこんな笑顔を僕に向けてくれて、ここに一緒にいるはずだったんだ。でも、僕がついた嘘のせいで…。」
僕はみっともなく泣いていた。
家族にだってこんな姿は見せたことはなかった。
それから2人で煽るように酒を飲んだ。
涼は何も聞かず黙っていてくれた。それが僕には有難かった。