特別な日
浮かれていた僕は、翌日の出勤前祖父に会いに行った。
「1週間後、時間を作ってもらえないかな?」
「英治、急にどうしたんだ。」
「会って欲しい人がいるんだ…。」
そして、これまでのいきさつを話した。
彼女に声をかけたくてそれまでの生活態度を改め、それがきっかけで今の自分があることや、僕が度々買ってくるアントルメは彼女が作っていたこと。
当日は、恋人のフリをしてくれと彼女に頼んで連れてくること。
そして、祖父母に彼女の人となりを見定めてもらい、祖父母の御眼鏡に適えば、彼女に結婚を前提としたお付き合いを申し込もうと思っていること。
念のため、彼女の出身高校についても報告しておく。
祖父も祖母も彼女のアントルメをとても気に入っていた。
「あのケーキにはそんな下心があったのか。」
そう笑いながらも、会うのが楽しみだと言ってくれた。
祖父と別れた直後、僕はあるところへ電話をかけた。
『お電話ありがとうございます。Je porte bonheurでございます。』
すぐに繋がり、聞き覚えのある男性の声が返ってくる。
「ああ、立花さん?蘇芳です。予約をお願いしたいんだけどいいかな。」
『蘇芳様、いつもありがとうございます。お日にちはいつでしょうか?』
Je porte bonheurは、フレンチレストランで、子どもの頃両親が帰国するたびに家族で訪れていた。社会に出てからは、取引先との商談や、祖父母との食事で良く訪れる僕の行きつけの店だ。
支配人の立花さんとは、子どもの頃から良く顔を合わせていて、かれこれ15年以上の付き合いだ。
「1週間後、19時は空いてるかな?個室をお願いしたいんだが…それで、今回お邪魔した後、暫く…数年は伺えないと思う。急に仕事でフランスへ行くことになってしまってね。」
『左様でございますか…とても残念です。私ども、必ずご満足いただけるように誠心誠意、心を込めてサービスさせていただきます。帰国後、またお越しいただけるように…。』
「ありがとう。それで、今回は…特別な日だから…。サービスは、いつも通り立花さんと、佐伯君にお願いしたい。」
佐伯君はギャルソンで入店6年目くらいだろうか?彼のサービスは僕好みだった。痒いところに手が届く、しかし、必要以上のことはしない。
僕が自分の店を持つときには是非彼をスカウトしたい、そう思える程に。
『畏まりました。そう仰っていただけると佐伯も喜びます。では、来週、6月○日月曜の19時にお部屋をご用意してお待ちしております。』
それから、エステや美容院まで予約してしまった。
せっかくなので、美しく着飾った彼女を見てみたかった。
普段の化粧っ気のない彼女だって美しい。
コックコートで微笑む彼女の姿を思い浮かべる。
昨日会った彼女はいつも以上に美しかった。
ワンピースを着て控えめな化粧をしただけだというのに。
もし、彼女をもっと磨き上げたら、そして着飾ったらどうなるのだろうか?
僕の好奇心がうずく。
完全に舞い上がっていた。
まるで自分が自分ではないと感じる程に。
そして、舞い上がりすぎて、彼女の連絡先を知らないということに気付いたのは前日の夕方だった。
そのことに気付いた僕は、仕事終わりの彼女に会うべく、自分の仕事を急いで片付け、彼女の働く店へ向かった。
遅かったのだろうか?
僕が近くのパーキングに車を止めて店の前に着いたとき、オーナーらしき男性がカギをかけて帰ろうとしているところだった。
でもまだ、彼女は近くにいるかもしれない。
そう思い探してみると、遠くに彼女らしき人影を見かけた。
僕は急いで追いかけた。近づき、その姿をはっきり捉える。
ああ、やっぱり彼女だった、安心した僕は、追いかける速度を少し緩める。
彼女は角を曲がり、僕も少し遅れて曲がる。
やっと追いつく、そう思った。しかし、そこに彼女の姿はなかった。
その道は街灯が少なかった。曲がった途端に暗くなり、不安が押し寄せる。よく見ると細い路地も多い。人通りも少なそうだ。
「いや、放して、うぅ…。」
彼女の声…?声がした方に走って向かう。
ある路地のほうからビリビリと何かが破れる音がする。
そこには3つの人影があった。
そのうちの1つは…彼女だった。
「夏月ちゃん!」
僕が走って駆け寄ると、慌てて2つの影は走って逃げる。
追いかけようかとも思ったが、そこには酷い姿で座り込む彼女がいた。
震えている。
「夏月ちゃん…。」
よく見ると、彼女の着ている服は破られている。
そこから覗く彼女の白い肌…。
怒りがこみ上げてくる。
僕は着ていたジャケットを脱ぎ彼女の肩にかけた。
「蘇芳…さん?」
僕が誰なのか気付いた彼女の瞳から、涙がこぼれた。
「立ち上がれる?」
手をさし出すと、小さく頷き、僕の手を取り立ち上がった。
履いていたデニムも脱がされかけていたようだった。
彼女は慌ててそれを直すと、声を上げて泣き出してしまった。
そんな彼女を僕は抱きしめてしまった。
彼女は僕にしがみついていた。
彼女は甘い香りがした。ヴァニラのような、カラメルのような香りだった。
「僕が付き添うから、警察に行こう。」
どうにか落ち着いた彼女を車に乗せ、そう声をかけると、彼女は涙を流してそれを拒否した。
「もしかして…知り合いに襲われたの?」
彼女は小さく頷く。
「あの店をやめるのにも関係ある?」
再び小さく頷く。
涙を流して震えていた。
「家まで送るから…。」
彼女がこんなに嫌がる以上、警察に連れて行くのは諦め、家まで送ることにする。
家の前までつくと、彼女がやっと口を開いた。
「ありがとう…ございました…。本当に…助かりました。…でも…なんで…蘇芳さんが…?」
「ほら、明日の約束忘れていないか心配になって。連絡しようにも連絡先聞くの忘れちゃったし。」
「すみません…ご予約の際に…伺っていた…電話番号に…もっと早く…連絡すべきでした…。」
「でも、これでよかったんだよ。僕が来て君を助けることが出来たんだし…。」
彼女はまだ震えて泣いていた。
「此処じゃ怖いよね…。今日は違うとこに泊まった方がいいかな。知り合いなら、ここへ来ないとは限らないし…。」
僕の言葉に、ビクリと反応した彼女を見て、僕は車を出した。
自分の家に彼女を連れて帰る。
「よかったらだけど…これ着て。僕のだからメンズだけど。」
Tシャツとハーフパンツを渡す。
「すみません…ありがとうございます。お借りしてもいいでしょうか。」
彼女が着替えている間、温かい飲み物を用意し、着替え終わった彼女に手渡す。
「今日は、ここで寝て。僕は適当に…友人のとこにでも泊めてもらうから。」
すると彼女は涙目で、首を横に振る。
「1人は…怖い…から、一緒に…いてもらえませんか?」
嬉しかった。彼女が僕を必要としていてくれる事が。
僕はそれに応じる。
「何か見ようか?」
とりあえず、テレビをつける。しばらく僕が洗濯などを済ませてから戻ると、彼女は眠っていた。
彼女を抱きかかえ、寝室のベッドに移動させる。
自分はソファで眠ろう、そう思った。
彼女はやっと落ち着いたようで、安心しきった顔で眠っていた。
その穏やかな寝顔を見ていたくて、ベッドの隅に座る。
「僕に襲われる心配はしないのかい?」
思わず、彼女の唇にキスしてしまう。
目が覚めると、目の前には彼女の顔があった。
昨日、僕はあのまま眠ってしまったらしい。
慌てて、起き上がる。
僕はシャワーでも浴びて頭を冷やすことにしよう。
シャワーを浴びてリビングにもどると、彼女が起きていた。
「すみません、ベッドまで私がお借りしてしまって…。ソファで寝たんですよね?体痛くないですか?」
僕もベッドで寝たから気にしないで、何てとても言えるはずがなく、
「大丈夫だから気にしないで、夏月ちゃんもシャワー浴びておいで。」
昨日のうちに洗って乾かしておいた彼女のデニム、僕が持っている中で比較的細身のシャツをバスタオルと一緒に手渡す。
「何から何まですみません…。」
「シャンプーとか、合うかわからないけど適当に使って。メイク落としは無いけど、洗顔とか化粧水…メンズだけど自由に使ってもらっていいからね。」
「ありがとうございます。メイク落としは必要ないんで…仕事の時は、ノーメイクなんです。私。」
少し驚く。
今日がより楽しみになった。
彼女がシャワーを浴びた後、適当に朝食をとり出掛けた。
ぐっすり眠れたせいか、シャワーを浴びてすっきりしたせいか、朝食をとったせいかはわからないが、彼女の顔にはいつもの笑顔が戻っていた。
家に帰って着替えたいというのを、こちらの我が儘を押し通すため断る。
「祖父母とは、料亭で一緒に会食をすることになっている。僕の我が儘でこんな無理言うんだから、少しでもお礼がしたくて…エステと美容院に行っておいで。予約してあるから。服も僕に選ばせて。祖父母はけっこううるさいから。」
「…なんか、昨日からずっとお世話になりっぱなしですみません。あの、後でもいいので…下着を買いに行ってもいいですか?」
「ごめんね、気が付かなくて。もちろんだよ。予約まで少し時間があるから行っておいで。」
僕は一緒に店に入るつもりだったが、彼女に待っていてほしいと言われたため、残念だが待つことにする。
彼女がエステへ行き、美容院で髪とメイクとネイルを綺麗にしてもらっている間、僕はドレスを選んでいた。
時間になったので、迎えに行く。
想像以上だった。
これであのドレスを着たら…もう楽しくて仕方なかった。
ブティックへ連れて行き、決めておいたひざ丈の深いグリーンのドレスと、それに合わせたヒール、バッグも選ぶ。
彼女は自分で買うと言って聞かなかったが、どうにか宥めて僕が支払う。
そんなこと言われるのは初めてだった。
その場で着替えてもらって…僕の目の前に現れた彼女に見惚れて暫く何も言えなかった。
深いグリーンが彼女の白い肌に映える。とても彼女に似合っていた。
「変…ですか?」
恥ずかしそうに聞く彼女がとても愛おしかった。
「すごく…似合うよ。それに、綺麗だ…。」
何とか冷静さを取り戻す。
「綺麗だけど、物足りない。」
アクセサリーも必要だ。
「もうこれで十分ですから。」
「いや、これは僕の我が儘だから。悪いけど付き合って。」
そう言って、ネックレスとリングも購入する。
危うく、左手の薬指用のリングを買ってしまうところだった。
いっそペアで買ってしまおうかとも思ったが、どうにか自分を落ち着かせて細い、ダイヤが複数あしらわれたピンキーリングを選ぶ。
彼女の左手の小指に僕がリングをはめる。
思わず顔がにやけてしまう。
首には控えめなダイヤのネックレスをつける。
恥ずかしそうに頬を染める彼女はとても可愛らしかった。
完璧だ。
いつもの飾りっ気のない彼女も大好きだが、僕好みに飾った彼女は最高だった。
「夏月、じゃあ行こうか。」
「はい、英治さん。」
祖父母との会食の時間が迫っていた。
彼女に僕を名前で呼んでほしいとお願いすると「英治さん」と呼んでくれた。
今すぐにでもプロポーズしてしまいそうだったが、必死で我慢した。
「こちらが今お付き合いをしている水縹 夏月さん。パティシエールだよ。」
「初めまして、水縹 夏月と申します。」
「夏月、僕の祖父と祖母だよ。」
夏月は緊張しているようだった。
祖父母は夏月を見た途端、驚いた顔をしていた。
きっと夏月の美しさに驚いたのだろう。
祖父母との会食は順調だった。
祖父母は夏月に何かを質問をするでもなく、終始笑顔でたわいのない話をしていた。
食後は、庭園を一緒に散歩したり、お茶を飲んだり、和やかに過ごした。
「英治、楽しかったよ。夏月さんも年寄りに付き合ってくれてありがとう。」
祖父からは少し考えさせて欲しいと言われた。返事は必ず今日中にするからと。
なかなかの好感触だったのにも関わらず、考えさせてほしい、そう言われたの意外だったが、想定の範囲内だ。
少し気になったのが、祖父母が夏月に家族のことを全く聞かなかったことだった。
普通、結婚したいと言ったら家柄とか親の職業など聞きそうなものだが…出身校が出身校なのであまり気にならないのかもしれない。
夏月の出身校は、いわゆる名門のお嬢様高校で、祖母の出身校でもある。
きっとそういうことなのだろう、僕はそう勝手に納得していた。
祖父母と別れた僕と夏月は、車を移動させて、適当に時間をつぶした。
「夏月、ありがとう。疲れただろう?」
「いいえ、とても楽しかったです。素敵なお祖父さまとお祖母様ね。嘘をついているのがとても心苦しかったわ…。」
そう言う夏月の顔は悲しそうだった。
そんな彼女の姿を見ると胸が苦しかった。
「そんな思いをさせて本当にすまない。」
「あ、ごめんなさい。良いんです、私でお役に立てているのであれば…。」
沈黙が流れる。
祖父からの連絡はまだない。
「夏月、僕の我が儘にもう少し付き合ってくれないか?もう少し僕の恋人でいてほしい。」
夏月は少し驚いていたが、嬉しそうに笑うと、「はい。」と返事をしてくれた。
僕は彼女を連れてJe porte bonheurを訪れた。
「ここで食事をしよう。もう予約してあるんだ。」
店に入ると、支配人と佐伯君がすぐにやってきた。
2人とも夏月を見て驚いているようだった。
殆ど表情には出ていないが、一瞬動きが止まったのだ。
僕はこの店が大好きだ。
ここに女性を、個人的な食事で連れてくるのは初めてだ。
取引相手の担当がたまたま女性だったということならばあるが、こうして2人きりで訪れるのは今日が初めてだ。
大好きな店だからこそ、大好きな女性と来たかった。
今日は僕にとって特別な日。
祖父から連絡をもらえさえすれば、ここで告白するつもりだ。
もう、祖父からの答えが「NO」であるかもしれないということは、僕の頭になかった。
佐伯君に案内され、個室に行く。
もちろん僕は夏月をエスコートする。
夏月は少し恥ずかしそうに、僕に寄り添ってくれた。
席に案内され、まずはシャンパーニュで乾杯する。
僕の好きなルイ・ロデレールのブリュット・プルミエ。
ソムリエを目指すきっかけになった1本でもある。
『ワインは値段じゃない。シャンパーニュも値段じゃない。高いものが必ず美味いとは限らない。』
それを教えてくれたソムリエが僕に飲ませてくれた。
彼のおかげで僕は今胸を張ってここにいることが出来るんだ、夏月の隣に。
前菜も、魚も、メインもいつもよりもずっとずっと美味しかった。
夏月の表情はめまぐるしく変わっていた。
幸せそうな顔、楽しそうな顔、美味しそうな顔、和やかな笑顔、穏やかな笑顔、とびきりの笑顔。
「夏月。」
そう呼ぶと、僕を見つめるすいこまれそうなほど澄んだ瞳。
「英治さん。」
そう僕を呼ぶ柔らかい声。
料理が美味しいと、感動の涙を流し、こんな楽しい食事は初めてだと、僕に向けられる笑顔。
そして、なぜか時々垣間見せる淋しそうな、辛そうな顔。
「お待たせいたしました。ショコラとフランボワーズのタルトでございます。本日は福岡県産のフレッシュフランボワーズでお作りしております。」
いつものように佐伯君が最高のタイミングでデセールをサーブする。
「よろしければ本日お2人がいらっしゃった記念にお写真をお撮りしてもよろしいでしょうか?」
僕も夏月も笑顔で応じる。
「デセールはフランボワーズとショコラのマリア―ジュ、英治さんのお好きな組み合わせですね。」
「勝手に決めてしまってよかったかな?夏月もフランボワーズとショコラが好きだって言ってたよね?ここのタルトもフランボワーズのオー・ド・ヴィがいい仕事していてとても美味しいよ。夏月も気に入ると思う。」
クスクス笑った後、皿を眺めていた彼女が僕に尋ねる。
「…Je porte bonheur、このお店の名前ですよね?」
本当は、ここで告白をするつもりだった。
しかし、祖父からの返事はまだない。
不安が僕を襲う。先程までの自信はどこへ行ってしまったのだろうか。
見切り発車で告白してしまいたかったが、もし万が一、祖父にNOと言われてしまった場合、彼女を傷つけてしまうに違いない。
今日1日を夏月と一緒に過ごして、僕の期待は確信へ変わっていたのだから。
彼女も、僕を思ってくれている、僕のことを1人の男としてまっすぐに見てくれているのだと。
彼女に尋ねられた答えは、何とも意味不明な歯切れの悪いものとなってしまった。
「夏月、"Je porte bonheur"の"porte bonheur"は幸せのお守りって意味だよ。"Je porte bonheur"は、直訳すると『私は幸せを運びます』だけど…要約すると『あなたに幸せが訪れますように』って事かな。だから今日、夏月とここで食事をしたいと思った。それで連れてきたんだよ。夏月に幸せになって欲しくて…。
僕にとって、夏月の作るアントルメは幸せのお守りだったんだ。ありがとう…」
本当なら、ありがとうの後に、
『今度は僕が夏月を幸せにするから、結婚を前提に付き合って欲しい。』
そう伝えるはずだった。
彼女の大きな瞳から涙がこぼれていた。
僕の言葉の意味をどう捉えたのだろうか。
暫く俯き、涙を拭くと顔を上げ、にっこり笑って、
「こんなにおいしいタルトは初めてです。」
そう言った。
帰り際、支配人が生成りの台紙に入った写真を渡してくれた。
そこには幸せそうな僕と夏月が写っていた。
「帰国されたらぜひまたお2人でお越しください。お待ちしております。」
支配人の言葉に、彼女は寂しそうに笑って頷いた。
彼女を帰したくなかった。このまま別れてしまったらもう会えなくなってしまう気がしていた。
兄が総支配人を務めるホテルのバーで飲み直すことにした。
今日はもう彼女を家まで送ることは出来ないので、僕も彼女もここに泊まるつもりだ。
もちろん、部屋は2つ用意してもらっている。
まだ彼女には伝えていない。
ワインやカクテルを飲みながらたわいのない話をしていた。
お互い、核心には触れないようにしていたのかもしれない。差し障りの無い何て事の無い会話が続く。
「もうそろそろ出ようか。今日はここに泊まろう。僕はこんなに飲んでいるから送って行けないし。もちろん部屋は2つ用意してもらうから。」
僕がそう言うと、彼女は首を横に振って微笑みながら答えた。
「いいえ、私は帰ります。タクシーに乗れば私1人でも平気ですから。本当にありがとうございました。」
「そんなこと言っても心配だよ。夏月だってかなり飲んでるし、万が一何か起こっても嫌だし。昨日の事だって…。」
昨日、その言葉に彼女の表情が硬くなる。
「多分…もう遅いですし、流石に来ないと思います。ですから…。」
「僕の我が儘に付き合ってもらってこの時間だよ?夏月に何かあったら僕の責任だ。お願いだからここに泊まってくれ。明日の朝、ちゃんと送り届けたい。」
「…わかりました。でも、これ以上ご迷惑になるのは嫌なので、宿泊費は自分で払います。お約束していただけますか?」
「僕の我が儘なんだから、それは出来ない。」
なぜ、そこまで遠慮をするのだろうか。
「だったら、同じ部屋に泊まらせてください。そうしていただけないのであれば私はタクシーで帰ります。」
仕方がないので僕が折れることにした。
とはいえ、僕にとっては願ったり叶ったりだ。
別に、同じベットで寝るわけじゃないし、昨日だって同じ部屋で――というか彼女は気付いていないが一緒のベッドで寝ているんだし、問題ない。
兄が用意してくれていた部屋はジュニアスイートだった。
「なんか飲む?ってもうお腹いっぱいだよね。」
「すごい部屋ですね…。」
「良かったら先にお風呂どうぞ。僕は電話をかけなくちゃいけないから気にしないで。」
「ではお言葉に甘えて…お先にすみません。」
リビングルームのソファに座り、行ってらっしゃいと笑って手を振る。
彼女がシャワーを浴び始めた音を確認してから、僕は電話をかけた。
祖父にかけても出ない。
もう時刻は12時を少し回ったところ。今日中に連絡すると言ったのに、いまだ連絡はない。
僕は待ちきれず、祖母に電話をかけた。
祖母も電話に出ない。
時間を置いて何度かかけると、祖母は出てくれた。
「例の返事を聞きたいんだけれど、まだかな?」
祖母は歯切れが悪い。
『とても素敵な御嬢さんだから、私もあの人も賛成しているの。でもね…。』
「それならなぜ連絡をくれないんだい?」
『返事はもう少し待って欲しいの。』
「さっき賛成してくれてるって言ったじゃないか?」
『あのね、私たちは賛成なのよ。でもね、英一が…。』
「兄さん?なんで兄さんが?」
『お願いだから、返事はもう少し待って…。』
「もういい、おやすみ。」
僕は苛立っていた。
祖父母は賛成してくれているのに、なぜ兄が出てくるのだろう?
兄には関係ないはずだ。
「お風呂、お先に使わせていただきました。ありがとうございました。」
バスローブ姿の彼女が現れる。
彼女を直視することは出来なかった。どうしても目をそらしてしまう。
僕が電話を先程までかけていたせいだろうか。髪もすっかり乾いている。
「先に寝ていて。僕もシャワーを浴びてくるから。」
そう告げて、ベッドルームへ彼女を案内した僕は、とんでもないことに気付く。
ツインではなく、ダブルの部屋だったのだ。
「今日は私がソファで寝ます。英治さんがベッドで寝てください。」
「そういうわけにいかないから。夏月がベッドで寝て。僕がソファで寝る。」
そんなやり取りが何度か交わされた時だった。
「だったら、2人でベッドで寝ませんか?広いですし…私、そんなに寝相は悪くないので…。」
先程の苛立ちをつい夏月にぶつけてしまう。
「夏月、同じ部屋に泊まるって、同じベッドで寝るって…意味わかってる?」
自分で言っておきながら、いたたまれなくなって、僕はバスルームに逃げた。
シャワーを浴びて冷静になろうと努力するが、なかなか冷静になることは出来なかった。
理性が欲望に押しつぶされてしまいそうだった。
そして、兄が口を出していることが腑に落ちなかった。
考えれば考えるほど、冷静になろうと思えば思うほど、苛立ちが募る。
僕は冷静になれないまま、バスルームから出たのだった。