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私の過去と引き抜きの話

週に1度の更新を目標に頑張りたいと思っております。

よろしくお願いいたします。

「なぁ、お前アントルメ作るのが好きだって言ってたよな?パティスリーに戻ってこないか?俺のオンナになるなら2番手にしてやるからさぁ?デセール担当じゃ誕生日ケーキ作れないだろ?」


またか。

もういい加減にして欲しい。


休憩室のソファに押し倒される。

抵抗しようにもなかなか上手く行かない。


「もう30過ぎてんだろ?抵抗するなって。彼氏もいないなら男に不自由してんだろ?時々相手してもらえばいいからさ?パティスリー(こっち)に来いって。」

シャツのボタンが飛ぶ。

ああ、買ったばかりだったのに…。

下着はカップ付きのキャミソールで良かった…ブラだったら帰り道困るもんね。


「ったく色気のない下着だな…そりゃ男もいないわけだ。綺麗な顔といい体してんのに勿体ねぇ。」

ほっとけ。

あんたにゃ関係ない。


こうなったら最終手段。

こういう時、護身術を習わされていて良かったと実感する。

まぁ習っていたのは中学生とか高校生の頃だけど?

身体が覚えたものって結構忘れないのね☆なんて呑気な事を考えていたら、ガチャリという音と共に休憩室のドアが開いた。


次の瞬間、私を押さえつけていた男が消えた。

と思ったら殴られて飛ばされていたようだ。


パチリ。

部屋が明るくなる。


この人には見られたくなかった…。

私を正当に評価してくれているこの人だけには…。





私は水縹 夏月。

みずはなだ なつき、と読む。

幼い頃は「水縹は鼻水だ〜」とからかわれて嫌いだった名字も今は嫌じゃない。

31歳、独身彼氏なし。

仕事はパティシエール。

今は、フレンチレストラン『Je porte(ジュ ポルト) bonheurボヌール』のデセール(デザート)を担当している。

2年前までは、レストランに併設するパティスリーで働いていた。

その時の上司が、先程私をソファに押し倒した男だ。

既婚で子どもだっているのに全くふざけている。

今回が初めてじゃないし、何度か例の最終手段で切り抜けて来たけれど、その度に私の仕事での待遇は悪くなっていった。

誰かのミスの尻拭いをさせられるならまだいい方だ。

他人のミスを私のミスにされることも多々あった。

主に私の代わりに愛人になった新人の子のミスの濡れ衣だったから、私のせいにするには不自然にもほどがあるし、分かる人には分かってもらえたから平気だったけれど…。

任されていた仕事の担当から外されて洗い場に回されたり、おかしな噂(男に興味ないのは女の子が好きだからなんだって〜)とか流されたり、もちろん給料もなかなか上がらないし、クレームの対応は完全に私の係だった。

もうウンザリだった。


当時からパティスリーのスーシェフ(2番手)だったその上司が、来春シェフに昇格するそうだ。

まだだいぶ先の話だけど。

それで私に自分のポストをくれてやる、だから愛人になれ、そういうことらしい。

そんな奴の下で働くなんて真っ平御免だ。



そんなウンザリするような部署から救ってくれたのが、先程私を助けてくれた人なのだ。

2年前、フランスでの修行から帰ってきた彼は、何故か私を指名して彼のアシスタントにしてくれた。

彼は私の仕事に対して正当な評価をしてくれたし、もちろんセクハラもなかった。給料も格段に上がった。

ザ・職人――そんな妥協を許さない仕事のやり方には物凄く尊敬していたし、長身でスレンダーな美形なので目の保養にも最適だ。



そんな人に無様な姿を見られてしまった。

この人だけには見られたくなかった。






休憩室の電気がつけられた途端、嫌な元上司はそそくさと逃げるように部屋から出て行った。

パティスリーはもう皆帰った後だったし、そんな時に休み明けに使う特殊な包材――大型のケーキの箱――を分けてもらいに1人で行った結果襲われてしまったのだが、相手も他に人がいるはずがない、そう思い油断して部屋の鍵をかけていなかったようだった。

それが幸か不幸か、私の恩人に助けられ、こんな姿を見られる羽目になってしまったのだが…。

「おい、水縹、大丈夫か?」

シャツのボタンを拾い集める呑気な私に、彼は少し呆れた様だった。

「ええ、私も若くないですし、あの人はそういう人なんで慣れてます。それにここに来る前の店でも割と良くある事だったんで…。」

ここの前の店の方がむしろ酷かった。

若かった分、精神的ダメージも大きかったし…。

春日野(はるひの)さんに助けてもらわなかったら、どうにか自力で切り抜けるつもりでしたが…助かりました。ありがとうございます。」

ペコリと頭を下げると、呆れた顔で見つめられた。

「大体こんな時間に何しに来たんだ?自力で切り抜けるって、逃げられなかったらどうするつもりだったんだ?全く。お前に仕事辞められたら困るのは俺だ。相方探すのも色々大変なんだからな。」

辞められたら困るなんて嬉しい!

もしかして、私って結構買われてる?

「学生時代、護身術を習っていたので逃げるのは得意です。ここには、休み明けに使う包材分けてもらおうと思って来ました…。」

ガチャリ、ドアが開く。

「涼?ここにいるの?」

あれ?この声…

「桃子さん?」

「夏月ちゃん?」

なんでここに桃子さんが?

パティスリーの販売のチーフの桃子さんはとっくに帰った筈では?

しかも、春日野さんの事、下の名前呼び捨てで呼んだよね?

桃子さんは私がパティスリーにいた頃から販売のチーフだった綺麗なお姉さんで、不当に扱われる私の強い味方だった。

彼女もまた私の恩人だ。

そんな人にまたしてもこんな格好見られるなんて…。

それより、この2人は付き合ってるのか?

そうならば私と春日野さんのこの状況は非常に不味い。

勘違いさせてしまっては本当に申し訳ない…。


「ねぇ夏月ちゃん、もしかして…。」

「あの、これはその、春日野さんに危ないところを助けてもらったわけで、決してこの方と何かあったわけでは…。」

慌てる私に溜息をつく春日野さん。

「桃子、佐藤とすれ違ったんだろ?お前の想像通りだ。あいつ、水縹に愛人になったらスーシェフにしてやるなんてほざいてたぞ。桃子に言われた時は信じられなかったがまさか本当に襲われてるとはな…何度もあったならちゃんと上に報告しろ。全く…。」

「嫌です。上には言いません。今やめてもいいことありませんから…30過ぎたらなかなか雇ってもらえないんですよ?」

再び彼の溜息が聞こえた…。


桃子さんには何度が酔った勢いで元上司の佐藤スーシェフの事は愚痴っていた。


2人は桃子さんの忘れ物を隣の建物まで取りに来たらしい。

そんな時に私が1人で入って行くのを見かけ、桃子さんの用事が終わっても出てこない私を心配して、春日野さんが様子を見に来たら案の定、と言うことらしい。


「ねぇ、涼…やっぱりあの話、夏月ちゃんも誘うべきだと思う。」

「でもそしたら誰に任せればいいんだ?」

「そんなのどうにでもなるわよ。貴方の前にデセールだった田中くんもパティスリーにいるんだし…。」

何やら2人は相談を始めた。

私のことを話しているらしい。

一体誘うって何に?

任せるって何を?

田中くんって、私と交代でパティスリーに異動した彼?

「おい、水縹、明日休みだよな?予定あるか?」

「え?一日寝るつもりですけど?」

「じゃあ、夏月ちゃん、今から飲みに行くわよ!今夜は帰さないから!」

「??」

よくわからないけれど、2人と飲みに行くことになった様です。






2人に連れて来られたのは朝まで営業しているバールだった。

「ここ、5時までやってるのよ、だから仕事終わりでよく来るの。

料理も美味しいし、ワインも美味しいしリーズナブルでオススメよ。」

桃子さんはそう言って、白ワインのボトルと料理を数品頼んでくれた。


とりあえず、チーズとワインで乾杯する。

チーズもワインも美味しい。

それでこの価格は超良心的!

雰囲気もいいし、今度は1人で来よう。

なぜ1人かって…?

学生時代の友人は皆結婚してるし、前の店で私は嫌われ担当だった。パティスリーの時は時々桃子さんに誘われて出かけていたけれど、デセール担当になってからは終わりの時間が合わなくて一緒に出かけることがなくなってしまった。

それに私を救ってくれた春日野さんに認められたくて残って勉強していたから、仕事終わりで出かけることが皆無だった…。

我ながら虚しい生活だ…。


「ところで、お2人はいつからお付き合いされていらっしゃるんですか?」

ブハッ…あれ、春日野さんがむせた?

「ねぇ、夏月ちゃん?一緒に飲んでた頃話したこと覚えてる?」

「まさか?!遠距離の彼が春日野さんですか!?」

「そうそう、大正解!実はね、涼にパティスリーに仕事のできる奴いないか?って聞かれた時に夏月ちゃんを推薦したの〜!前任の田中くん、もともとパティスリー志望だったらしいし、涼と合わなかったのよね。」

意外な事実。

私、実力を買われた訳じゃなかったんだ…ちょっと落ち込む。


「桃子の勧めも有ったけどな、パティスリーの厨房見てて、お前の立ち位置っつうか扱いに違和感有ったんだよ。何で仕事のできるお前が雑用で、仕事の出来ないチャラチャラした小娘がどうして仕上げ任されてるのか…。お前はそんな状況でも不満も言わず、自分の仕事――雑用こなしながら、仕上げが間に合わない小娘のフォローまでして、店にも立ってただろ?

実際あそこを回してるのはこいつなのかって思ってお前に決めたんだよ。多分桃子の推薦なくてもあの中で選ぶのはお前だったな。」

う…嬉しい。

「今日やっと分かったよ。お前が佐藤の酷い誘い断ったからそんな扱いだったんだって。あの子娘、愛人だったんだろ?」

ご名答!そうです、あの子厄介だったよ〜。

「夏月ちゃんが涼に連れて行かれた後、結構な間こっちはグチャグチャだったのよ〜。愛人ちゃんの仕上げは遅くて酷いし、洗い物は常に満杯だし、作業台は汚いし…店が忙しくなってもフォロー出来る人はいないわ、クレーム対応を厨房に回したらお客様更に怒るわで大変だったわ…。夏月ちゃんがいなくなってからみんながやっと気付いたのよ、厨房…だけじゃなくてパティスリー全体を回してたのは…忙しくて殆ど顔を出さない関シェフでも佐藤くんでもなくて夏月ちゃんだって。佐藤くんもいなくなって困ってたから今日またあんな形でだけど引き抜こうとしてたんだし…。」

あっちはそんなに大変だったんだ…。

私は新しい仕事をこなすのに精一杯だったよ…。

「実は佐藤に水縹を返せって何度も言われたんだよ。もちろん断ったけどな。」

返されても困る!戻りたくない!

「断って下さってありがとうございます。もうあんなところに戻りたくありません。お願いですから、まだ暫くデセールで、春日野さんの下で働かせて下さい。」

これが私の本音だ。

なりたくてなったパティシエールだけど、仕事が楽しいと心から感じられたのはこの2年と、前の店であのお客様がいらした時だけだった…。


「そこで、話があるんだが…。」

春日野さんが口を開く。

「俺はそのうち店を辞めて独立する。…1年後オープン予定だ。桃子も連れて行く。水縹、お前も来ないか?」


突然の出来事に頭が真っ白になる。


「店の事を考えたら、お前を連れて行けない。俺が辞めたらお前にデセール任せるつもりだった。

能力的には欲しいんだよ、俺も桃子も。ただ、場所が場所なんでそう簡単に誘えなくてな。

でも、今日あんな事があって、俺らがいなくなったらお前がデセール担当続けられるか怪しいだろ。

それで桃子と相談して声かけることにした。

すぐに返事しろとは言わない。だけど明日予定地の下見に行くからお前も来い。」

私の能力を買ってくれている。

しかも、私の尊敬する人たちに、恩人の2人に…。

こんな嬉しい事は無かった。

「もちろん、お2人にどこまでもついていきます!」

私は選手宣誓の様に右手を高く上げ、思わず椅子から立ち上がり腹から出した声で宣言してしまった。

店内に居合わせた人が皆、こちらを振り向く。

ああ…やっちまった…。

桃子さんは大爆笑。

春日野さんは呆れ顔。

「おい、よく考えろ?引越ししないと無理だぞ?交通の便も悪いぞ?よく言えばリゾート地だが悪く言えばド田舎だぞ?家族とも相談しろよ?恋人はどうする?確実に遠距離だぞ?」

矢継ぎ早に注意される。

よし、応戦だ!

「よく考えました。お2人がいなくなったら間違いなく私は佐藤にどうにかされます。あいつの下で働くなんて、そんなの真っ平御免です。

引越しは嫌いじゃないです。うち、荷物少ないですし。車の免許もあるんで交通の便悪くても平気です。あ、時々運転してるんでペーパーじゃないですよ?

基本休みは寝てるのでド田舎でも問題ありません。家族ですけど、両親はどちらも海外にいて基本的に私に興味がないですし、私は祖母に育てられたんですけど、私がやりたい事を応援してくれてます。盆と正月に会いに行けばOKです。もちろん、数日ズレても平気です。年に2回会いにいけばいいんです。

彼氏なんてものは存在しませんし、恋心なんてものも5年前に封印しました。憧れの人に一度だけ抱いてもらって、その思い出だけでこの先やって行こうと決めたんです。結婚願望もありません。以上です。」

よし、言い切ったぞ!

おっと、春日野さん、開いた口が塞がらない。


「ツッコミどころが満載だな…。まあいい、明後日早めに出勤しろ。パトロン(オーナー)と話さないとな。」

やったー!

連れてってもらえるのね!

レッツゴー、新天地。

「ありがとうございます。これからもよろしくお願いします!!精一杯頑張ります!!!」

「嬉しいー!!夏月ちゃんよろしくねー!!!店舗のフォローも期待してるからね。」

私達は再び、今度は辛口のスプマンテで乾杯した。






「夏月ちゅわーん、おねーさんはさっきの話で引っかかることがあるんだけどぉ?封印した恋心って何ぃ?憧れの人だとか、抱いてもらったとか、聞き捨てならない事をいって無かったぁ?」

桃子さんは酔うと一人称が『おねーさん』になる。

私も大分回ってるけどね!

気づいたら、ワイン赤白とスプマンテ、フルボトルで開けてたよ!

手元のグラスは…カクテルか?

そう言えばキール頼んだんだった…。


「前の店、嫌な思い出が圧倒的に多いんですよ。初めの2年は女だからって理由でヴァンドゥーズ(販売員)でした。職人志望でしたが厨房に入れなかったんです。それについては不満は全くないと言えば嘘になりますが、割と普通のことだし、それはそれで楽しかったんでいいんです。

でもね、今日みたいに厨房に入れる様にシェフに掛け合ってやるから抱かせろ、そういう奴がいたんですよ。もちろん断りましたよ?

それで2年経って、厨房に入れてもらったんですけど、また仕事任せてもらえる様に掛け合ってやるから抱かせろ、そうなったわけです。

まぁパティスリーにいた頃みたいな感じで、しかも佐藤みたいなのが2人もいたんですよ。

で、愛人ちゃんみたいな子もやっぱりいて、私は雑用を必死でこなしました。

ミスの濡れ衣耐性も、クレーム対応もこの頃習得しました。

愛人ちゃんみたいな子を出し抜くには自分の仕事をきっちり、しかもスピーディにやって、彼女達のフォローをする体で仕事を奪うしか無かったんですよ。

もしくは、店に出て、お客様の希望を聞いてちょっと手を出すとか。飾りをもっと華やかにして欲しいと言われたら、追加料金さえいただければやってOKだったんで、ヴァンドーズだと自分で出来ないんで厨房に仕上げを回すんですけど、私はパティシエールでそれが出来たんで、店から回ってくるそう言う飾り付けは全部私が勝手に担当してました。

大口の注文も積極的に取ったんですよ。そうすれば、手が回らなくなって私にも仕事を振ってもらえるんで。

アントルメにお誕生日のプレート付けるのも好きでした。

店の誰よりも上手に書ける様に努力もしました。

なので、お客様にご指名いただけるまでになったんですよ。

お誕生日のプレートは水縹さんに書いてもらいたいって。

憧れの人もそう言っていつも私に声をかけてくださいました。


そんな感じで必死で頑張っていたんで、シェフからはそれなりに認めてもらえたんです。

最後の1年はお誕生日のケーキは任せてもらえる様になりました。

いわゆるショートケーキのデコレーションですね。

キャラデコとか似顔絵のデコも、私が予約を取ったりご指名頂ければ作らせてもらえる様になったんです。

でもね、認めてくれる人よりも、私を嫌う人の方が多かったんですね。

そんなに大きくない店です。

佐藤みたいな奴が2人に、その愛人が3人とか4人?入れ替わりも早かったんでもっといたかもしれません。それから、私より早くに厨房に入ってた男の子達よりも先にキャラデコとかオーダーメイドの物作らせてもらえる様になったんで私は彼らにとっても目の上のたんこぶというか、かなりうざい存在だったようです。

それだけじゃなくて、あるヴァンドーズの子からも反感買ってたみたいで…。

彼女も、私の憧れの人が好きだったんですよね。なのにその方は来店される度に私ご指名でオーダーしてくださるんで、面白くなかったらしいんですよね。


前の店辞めたきっかけなんですけど、それまでは抱かせろと口で言われるだけだったのが、ある時帰り道に暗い路地に連れ込まれて襲われたんです。

幸い、護身術でどうにか切り抜けました。

翌日辞表を出しました。

そのままいなくなるのは悔しかったんで、1ヵ月後祖母と同居しなくてはいけなくなった事にして…祖母は入院中で退院したらお世話しなくちゃいけないことにしました。

もちろん実際はすごく元気でしたよ。今もバリバリ働いてますし。

それに私にご指名でウェディングケーキのオーダーもありましたから、それだけは絶対作りたかったんです。

1ヶ月かけて引き継ぎもきっちりして、襲ってきた奴には何も無かった様に普通に接して辞めたんです。

丁度辞める1週間前、高校時代の友人が結婚して、2次会に出席しました。

そこに私を指名してくださるお客様…憧れの方もいたんです。

彼は新郎の友人だったんですね。

その日、彼からウェディングケーキを頼まれて、私が作ったんですけど、そのケーキが2次会で使われていて、すごく嬉しかった…。

メッセージプレートが、あだ名だったんで、友人って気づかなかったんです。

新郎は智也さんでと友人は鞠子って言うんですけど、

''TOM&MARY Happy wedded life.''

って注文だったからてっきりトムとメアリーって外国人カップルなんだろうなって思ってたら日本人、それもまさか私の友人で。

私が現れて憧れの方もすごく驚かれていました。

私も、私の友人も私が作ったケーキだって事にみんながビックリして…ケーキは皆喜んでもらえました。

世間は狭いねって話したりもして。

その時、私はこの人のこと好きなんだって、ずっと好きだったんだってやっと気づいたんです。

嫌な思い出ばかりだけど、そんな店でやってこれたのは彼が来店されるたびに私を指名してオーダーしてくださるからだって…。」

前の店の話をするのは初めてだった。

今まで、面接以外ではあまりいい思い出がないからと話すのを拒んできた。


「なんで封印しちゃうわけ?告白しなかったのー?」

桃子さんは少し落ち着いた様だった。


「2次会の後、2人でお話ししました。1週間後に辞めること、理由は言えませんでした。本当の事も、嘘つくのも嫌だったんです。

それから今までのお礼も伝えて、私を指名してくださるから今まで辛くても頑張れた事をお伝えしたんです。

そしたら、その方も、私のケーキだと仕事が凄く上手くいく、幸運のケーキだと言ってくださいました。

そして彼も私に別れを言うつもりだったって仰るんです。

2週間後に海外へ修行に行くと。

そして彼は私に、私の作るケーキが大好きだった、そう言ってくださいました。


それから、厚かましいけれどお願いがある、そう仰ったんです。

1日だけ、恋人の振りをして欲しいと。

お見合いの話があったので断ったそうなんですが、それならその恋人を連れて来い、そう言われ困っていたそうです。

自分には恋人はいないが好きな人がいる、そう仰っていました。

恋心に気づいた日に失恋したわけですよ。超スピード失恋です。笑っちゃいますよね。

でも、嘘でも、1日だけでも恋人になれるならそれで心機一転新たな仕事捜しをしよう、そう思えたんです。

彼氏とか居なくてのが当たり前で失恋も平気になっていたんですよ。

かつていた唯一の…学生時代の彼氏は、付き合って割とすぐ友人に寝取られました。

しかも10代で出来ちゃった結婚までしましたよ?

その2人、別れるのも早かったですけどね。

で、再度私に付き合えとか言うわけですよ?もちろん即丁重にお断りしましたけど。

男運ないんです、私。

もう彼氏なんていらん!そうなりますよ。


話が脱線しましたが…。

2次会の一週間後、つまり私が仕事を辞めた翌日ですね、1日だけ彼の恋人になる約束をしました。

2次会の日はそのまま別れました。

酔いも回っていたし、すっかり連絡先を交換するのを忘れていたんです。

帰り道に気付いたんですが、店にいけばオーダーの時に聞いていた番号があるからいいか、そう思ってました。それで翌日こっそり彼の番号を控えて帰りました。

残りの1週間も精一杯働きました。シェフは送別会をしてくださると仰ったんですが、辞める理由が理由なのでご丁重にお断りしました。

お酒入って襲われたら厄介ですものね。

最終日、仕事が終わって、オーナーとシェフと話をして、今までのお礼を一応お伝えして帰ったんです。

他のスタッフよりも帰りが遅くなりました。

1人で帰りました、まぁいつものことだったんですけど…。

途中、嫌な2人が待ち伏せしていたんですよ。佐藤みたいな奴等ですね。

『最後にやらせろ』そう言って、2人がかりで襲われかけたところを、彼に助けてもらいました。

連絡先を交換していなかったので、翌日の事を私が覚えているか確認しに来たそうです。

助けてもらったのは有難かったのですが、今日みたいにシャツのボタンはなくなるし、シャツの下にキャミソールやタンクトップを着ていなかったし、下に履いていたデニムも脱がされかけてでもう最悪でした。

彼には下着見られるし、仕事を辞めた本当の理由もばれちゃいました。

しまいには警察に行こうって言うのを、泣いて拒否しました。

その日は凄く怖くて1人で自分の家に帰れなくて…そしたら彼の家に連れていってくれたんです。

それで、自分は友達のところに泊まるからって言うんですけど、私は1人になるのも怖かったんですね。朝まで一緒にいてもらいました。

その日は何もありませんでした。

翌朝、シャワーを借りて、彼の服を借りて出かけました。

恋人の振りをするにしても、ご家族にはキチンとした格好で会いに行かなくてはいけません。

彼はどこぞの御曹司っぽかったです。

私はブティックへ連れて行かれ、エステに連れて行かれ、美容院に連れて行かれました。

上質な服や靴に身を包み、髪もメイクもネイルまで綺麗にしてもらって、彼と並んでも見劣りしない程磨いてもらった結果、私じゃないみたいでした。

それから彼に縁談を持ってきたというお祖父様とお祖母様にお会いして、恋人の振りを無事終えて、夜は彼と2人で食事をしました。

それが…今の店"Je porte bonheur"です。

彼との思い出の場所で今働いています。

春日野さんからデセールに誘ってもらった時は凄く嬉しかった…。幸せな思い出の場所で働けること。しかも、正当に評価してもらったのも、セクハラされない職場も初めてだったから…パティシエールになって良かった、心からそう思えました。仕事も楽しかったですし。

パティスリーに桃子さんがいなかったら私はデセール担当になる前に辞めていたと思います。桃子さんのお陰で初めて職場に『自分の居場所』を手に入れました。

そんなお2人だから、是非ついて行きたい、そう思いました。

このまま残って、そんな思い出が穢されるのは嫌です。

絶対連れて行って下さい。」

なぜか桃子さんが泣いていた。


「『"Je porte bonheur"のporte bonheeurは幸せのお守りって意味。"Je porte bonheur"は…要約すると…あなたに幸せが訪れます様に、そう言う意味なんだよ。だから今日ここへ連れてきた。』

彼は私にそう教えてくれました。

今までで1番美味しいと思える食事でした。涙が出るほどに。

それから、場所を変えてお酒を飲んでお話ししました。かなり飲んでいて、とても帰れそうになかったので、その日はホテルに泊まりました。

彼は2部屋とってくれようとしましたが、一日中お金を使わせてばかりで申し訳なかったので、同じ部屋で良い、そうでなかったら帰ります、そう言って同じ部屋に泊まりました。

彼は困っていたようです。

『同じ部屋に泊まるって意味わかってる?』

そう言われました。

私は頷きました。

前日あんなことがあったし、寧ろずっと憧れていたあなたに抱いてもらって嫌な記憶を上書き修正したい、そう言いました。

好きな女性がいる人に言うのは失礼だってわかっています。

私はあなたに助けられました。

あなたが来てくれるから嫌なことがあってもがんばれました。

そんなことも言ったと思います。


私は幸せでした。

実はその時が初めてでした。


どさくさに紛れてずっと好きだったって…自分の気持ちも伝えました。


そのままその日は眠りました。

夢の中で彼は私のことが好きだと言ってくれました。

それだけで幸せでした。


朝、いつもの癖で5時前に目が覚めました。

好きな女性がいる彼に申し訳なくて、彼が寝ている間に私は部屋を出ました。

手紙に…と言っても部屋に置いてある便箋と封筒で、なんですけど、自分の気持ちとお礼を綴って残しました。

それから、10日間引きこもって、仕事を探しました。

その時、Je porte bonheurが新しくパティスリーを出すって知って今に至るって訳です。」




私はいつの間にか泣いていた。

桃子さんも泣いていた。

春日野さんは複雑な顔で私達の顔を交互に見ていた。


「なんでパティシエールになろうと思ったんだ?」

沈黙を破ったのは春日野さんだった。


「お菓子に救われたんです。幼い頃、両親が離婚しました。それで私は祖母に預けられました。毎日泣いていました。

ある時、泣いている私に知らない男の子――祖母の友人がお孫さんと遊びにいらしていたらしいです――、私より少し年上の男の子が綺麗なまあるい、色鮮やかなマカロンを私に差し出してくれたんです。

今から25年位前です。マカロンなんて見たことも食べたこともありませんでした。

フランボワーズのマカロンでした。

甘くて、酸っぱくって、凄く香りが良くて、幸せな気持ちになりました。

それが忘れられなくて…です。

私がマカロンに癒されたから…私もそんな風に誰かを救えたら…そう思っています。」

残念ながらその男の子の顔は覚えていない。

でも、マカロンの味と香りは鮮明に覚えている。

いつか彼にもお礼を言いたい、その時に自分が作ったフランボワーズのマカロンを渡せたら…そう思った事もあったな…今となっては、そんな昔の事を相手が覚えている筈も無いし、迷惑だろうと思っている。


「もう、今日は潰れるまで飲むわよ!嫌のことはぜーんぶ忘れて、明日から心機一転夢に向かって頑張りましょー!!幸せな未来に、かんぱーい!!」

スプマンテをボトルで注文し、桃子さんの音頭で再び乾杯した。


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