姫と熊と幽雅な日常
それから水瀬は放課後欠かさず俺の教室に来た。何をするでもなく、ただマシンガンのように話して帰っていく。彼女はよく喋る人であると同時によく笑う人だった。
「あ、先輩だ。 はおー」
移動教室の際、廊下を歩いている途中、彼女に出会う。彼女は満面の笑みで手を振ってきた。眼鏡を左手の指でクイッと直し、こちらも手を挙げて返した。
「なんなんだよその挨拶は」
「知らないのですか? 今私の中で流行っているのです」
あまり豊満とは言えない胸を逸らして彼女は誇らしげに言った。大きくないとは言えども、華の女子高生として見れば標準である。
「知らねぇよ。 お前の中の流行だなんて」
「先輩なら、それでも先輩ならわかっててくれると思ったのに」
「どれだけお前は俺に期待してるんだよ」
「いやー、先輩なら主人公補正でヒロインの考えていることなんてお見通しだと」
誰が主人公だ。もし、俺が主人公だとしたらこんな地味な主人公はいないと思うぞ。と言うよりも今自分で自分をヒロイン認定しやがったなこいつ。図々しい奴、一瞬思う。
「……でお前は次の授業、移動教室なのか?」
「さしずめ先輩はお花摘みですか?」
「それは女の子に適用される言葉だろ……」
「そうですよね、先輩はウンチもおしっこもしないんですもんね」
「おれはどこかのアイドルかっての。 つか、女子がウンチとそういう言葉を人前で言うな」
別に理想を彼女に説きたいわけではないが、女の子の言葉遣いは美しい方がいいと思う。ただし、現実世界限定の話だが……。俺は水瀬の頭にチョップをすると、彼女は少しだけ唇を吊り上げたように見えた。俺はそのまま別れを告げる。
「じゃあな、俺はもう行くわ」
「ちぇ、先輩はつれない男ですね」
頭をおさえながら、水瀬は口を尖らせた。
「普通の男の人なら、こんな美少女とは一分一秒多く一緒にいたいと思うはずですよ――」
そこまでいうと、水瀬は口を抑えて後ずさった。
「先輩、もしかしてホモなんですか!?」
「なんでそうなんだよ……」
「きゃー、おーそーわーれーるー」
棒読みで水瀬は叫んだ。本当、よく笑う女の子だった。笑顔が絶えないというか、一度笑えばその調子でずっと笑みを浮かべ続ける。そして何より、笑顔が似合う人だった。
「なんで少し嬉しそうに言ってんだよ」
「そりゃ決まってますよ。 ホモが嫌いな女子なんていませんから」
「なんだよその理屈は」
「だってあれですよ、レズが嫌いな男の人もいないでしょ?」
だから、どういう理屈だ。とういうより、さらっと自分の性癖を晒しやがった。
「先輩は私みたいなかわいい子が百合っ子だったら萌えるんでしょ!?」
百合がどうとか、バラがどうとか、俺にとってはあまり興味のない話である。ただ、この目の前の水瀬が女の子に責められているところを少し想像してみると、そそるものがあるという点においてはどうにも否定できない気がした。弱気な水瀬というものも見てみたい気がするのだ
「ほら、今やらしい目をしてましたよ!」
ビシッと俺の顔面に指をさすと、彼女は誇らしげに叫んだ。
「人を指さすなよな」
「話を逸らさないでください。 私、えっちぃのは嫌いです」
「どの口が言うんだよ」
というよりも思春期の男性向け漫画の台詞を当然のように言わないでほしい。
「この口ですよ」
そう言って背伸びをし、迫って来ようとする彼女の頭を俺は上から押さえつける。彼女の身長は俺の肩にも届かないぐらいだったので頭をつかむのはたやすかった。
「うー、先輩身長高いです。 夢は全国制覇ですか?」
「そうそう、これが俺の原点なのだ。 ……ってやかましいわ! お前がチビなんだよ」
「平均はありますからね! この木偶の坊先輩! 杉花粉野郎!」
彼女は俺の手を振り払うとそう叫ぶ。いくら、俺の名字が杉村だからってひどすぎではないだろうか。杉花粉野郎なんて言われたこと、人生上一度もないレベルだ。
「お前、言っていいことと悪いことぐらい――」
俺が彼女に報復のチョップを手を繰り出すと、蝶のように鮮やかにさけられてしまった。その上、華麗に俺の横を通り過ぎ、走り去っていった。
……ほんと見た目はクールそうなくせして中身は子供っぽいやつだな、と俺は思う。いや、確信する。途中で振り返った水瀬がこちらに向かってあっかんベーをしてきたのだ。そしてうふっと笑うと角を曲がり、その姿を消した。
追いかける気もない。怒る気も失せた。ただ、彼女と一緒にいれば物語は否応なしにでも進むことになるんだろな、と感じただけだった。廊下を吹き抜ける風は少し甘酸っぱい香りがした。
***
「お前さぁ、あのミズセレイと喋ってたよなぁ!?」
授業が終わった瞬間、隣にいた奴が話しかけてきた。そう、確か柔道部出身。その熊みたいなずんぐりとした体とは裏腹に人懐こい笑顔を浮かべているところなどが女子に人気があるらしい彼。名前は確か――
「――棚前、だっけか?」
「……? 何が?」
キョトンとした顔で彼が聞き返した。質問を質問で返すななどとは言わないあたりが彼のリア充(リアル生活が充実している人種のこと)度が高いことが示された。
「いや、名前がさ。 なんだっけなーって」
頭をかきながら俺は言った。この手のグループの人間と関わるのは少し苦手である、が嬉しいとも感じられた。
「あ、俺の名前!?」
そう、と言う代わりに俺は二回ほど頷いて見せた。すると、彼はその評判の人懐こい笑みを見せて笑った。
「惜しい、実に惜しいねー。 いやー、本当残念だよ」
「あ、やっぱ違ってたか……」
「やっぱってなんだよ、やっぱって」
健康的で白い歯を見せて彼はさわやかに笑いつづける。それに比べ、俺の方には気持ち悪い引き笑いしか浮かばなかった。ほとんど話すのは初めてだというのに彼はすでに打ち解けた雰囲気をだしていた。
「気を悪くしてたら謝るわ。 俺、人の名前を覚えるの苦手なんだ」
軽く手を合わせて彼を拝んでおく。こうやって拝むことによってリア充にあやかろうなどということを考えていたわけではない。
そもそも、俺はそこまでしてリア充になりたくないのだ。俺のような根暗な人間は、彼らのような明るいグループに属してしまうと、人間関係に悩んでそのうち自殺するのが関の山である。全く持って、偏見からの予想でしかないのだが。
「おいおい、怒っている風にみえたか?」
眉毛と唇の端を吊り上げたまま、彼は聞いてきた。その細まった目の奥はとても笑っていた。裏表のない素敵な人物というのは、こういう彼みたいな人なのではないだろうか。人当たりがよくて、誰にでも打ち解けられ……。 そんな彼にどうにも嘘をつけそうにもなかった。
「いや、笑っているように見える」
「だろ、こう見えてゲラなんだ」
熊のような外見とは裏腹にその中身はかなりいいらしい。さながらはちみつ大好きで赤いセーターをいつも着ている某キャラクターといったところか。
「で、何の話だっけ?」
「お前あれだよ。 水瀬零の話だっつの」
「水瀬……か。 あいつがどうしたんだよ」
「いや、どうやってあの子とお近づきになったのかなぁって思ってさ。 杉村さ、さっき水瀬さんと話してただろ?」
脳裏にあっかんベーをした水瀬の小憎たらしい顔が浮かんだ。確かに俺たちは話していた、が話し始めたのもつい最近のことであり、なぜ話し始めたのかもよくわからないままである。そんな関係の俺に聞かれても答えられることはあんまりないと思うのだ。
「よくわかんないんだよなぁ。 俺と水瀬のその辺のことって」
物語が唐突に始まるように俺と彼女の関係も突然始まった。それに関係と言っても捕まえ役と捕まえられ役と言ったわかりやすい関係でもなく、ただただ馴れ合うだけの関係だ。多分、彼女一人だけだろう、俺が馴れ合っている相手は。
「どういうことだよ」
目の前の好青年熊モドキが聞き返してくる。彼の穏やかな目は純粋な好奇心で満たされていた。
「なんて言うんだろうな、洞窟できれいなお宝を見つけたと思ったらそのまま生き埋めになったみたいな」
「よけいわけわかんねーよ」
俺の言ったたとえ話に彼はへらっと笑った。
「とりあえずさ、その事含めて自分で水瀬に聞いたらいいんじゃない?」
そう言って眼鏡を人差し指でクイッとあげた。すると彼はその大きな手を目の前でぶんぶんと振った。
「無理無理っ! だってお前、水瀬零っていったら校内美少女ランキング四位の逸材だぞ! それにあのクールな感じを思い出してみろよ!」
彼は巨大な手で自分の体を抱きしめて震えあがった。
「――すぐさま切り捨てられて終わりじゃねぇか」
「なんか、お前水瀬のことをすごい勘違いしてないか?」
あの女は言葉で一刀両断するような奴ではないだろう。どちらかと言えば冗談を言って手玉に取るようなタイプだ。うふっと笑いながらお手玉している姿がすぐさま目に浮かぶ。
「いやいや、お前の方だぜ勘違いしているのは。 あいつのあだ名知ってるか? “氷点下のお姫様“だぜ? とにかくクールなことで有名なんだからさ」
…………氷点下のお姫様、か。どうやらこの前言っていた周りが押し付けるミズセレイ像がうんたらかんたらという話は本当だったらしい。それに俺以外の前では極氷の姫様演じているのですって。これはおもしろいことを聞いた、今度会ったらこの話で彼女をからかえるな。
そして、ある一つの疑問も深まった。なぜ水瀬は俺に絡んできて、なぜ俺にだけあのウザったい素の顔を晒すのだろうか。もしかしたら、自分は彼女にとって特別な……なんてありえないか。
「だからさ、杉村と水瀬が話しているのを見て俺は驚いたんだぜ。 あの水瀬があんな顔して笑うんだって」
「……あんな顔、ドヤ顔のことか」
「それもそうだけどさ、あんなにコロコロ表情が変わるところなんて見てて圧巻だった。ままるで変顔20面相、みたいなさ」
「それを言うなら怪人20面相だろ?」
もしかしたら彼なりのボケだったのかもしれない。としても、変顔20面相はあまりにも水瀬に失礼だ。そう、彼女に当てはめるなら美顔20面相、もしくはしたり顔20面相である。そして、ここまで考えて俺はあることに気づく。
俺はそれなりに水瀬のことを気に入っているのだ。
「お前も結構面白い奴だよな」
そう言って目の前の熊モドキヒト科は白い歯を見せて笑った。
「そうか、いつも自分の席で本を読んでて人付き合いもそんなにない根暗野郎だと自分では思っているからな」
「まぁ、そうなんじゃない? お前の中ではさ。 俺はそう思わなかったけどな」
「そう言ってくれてうれしいよ」
乾いた言葉が出た。彼の言葉に棒読みで答えるつもりはなかった。褒め言葉に慣れていないからだけではない。いつものことである。
自分の後ろにもう一人の自分がいる感覚。そいつは無表情で何も感じていないのだ。乾いている。乾かしてくる。人の好意を嬉しいと思わせてくれない。ニヤリともしない俺のせいで、罪悪感すら湧いてくるのだ。
「世界は自分からしか見えない。 どう感じられても、どう思われてもその気持ちを完璧に理解することはできない。 だから他人に理解してもらおうと他人を求める。 そしてやっぱり理解できなくて傷つけあう。 ま、だからどうしたってことだけどさ」
固くなった俺の様子を見てか彼はそう言った。そして、ふっと笑う。
「お前は面白い奴だよ。 あの水瀬が面白くないやつと話すわけがないだろ?」
「どうだろうな」
俺もふっと笑った。ああ見えて彼女の頭の中は結構お花畑である。この目の前の熊もお花畑な頭を持っているが。
「とにかくだ、俺はお前のことを恋愛マイスター杉村と呼ぶことにした」
手で拝むようなポーズをつけて俺に向かって頭を下げ始めた
「なんなんだよそれ、つか止めろ」
手で頭を押さえてはみるが、さすがに熊を素手で止められる人間はいないのだ。俺の腕ごと彼は俺を拝み倒した。
「よし、これでいけそうな気がする」
「なにがだよ」
苦笑交じりに言う。本当に人懐こい奴だ。人懐こすぎて怖いくらいに。
「俺さ、ヒョウリさんのこと狙っているんだ。 だから、恋愛の神様杉村に願掛け」
いつの間にか恋愛の神様にまで格上げされていた。少なくとも、水瀬とは恋愛関係に発展しそうにはないと思っていたが、周りからはそうは思えないらしい。氷点下のお姫様が誰か知らない男と仲良くしているのはどうにも由々しき事態らしい。これまで、廊下だとか一目につくところで話すこと自体がなかった。そのほとんどは教室での出来事で、誰かに見られるということが噂話のようになるだなんて夢にも見なかった。
こうなると少し、水瀬と人目に付くところで話すことに否定感がわいてくる。俺は静かに暮らしたい、鑑賞されるよりも鑑賞したい側なのだ。
「ヒョ、ヒョウリ……」
「あれ、お前知らねーかよ。 隣のクラスのやつだよ。 ほら、体育の時間一緒だろ?」
ぼやっとイメージが頭の中で作られる。そう、ポニーテールで眼鏡を掛けていたような……? パッチリなお……目め?
「あー、駄目だ。 半分ぐらいしか出てこない」
鑑賞したい側と言ったな。あれは嘘だ。
「おいおい、それでも恋愛の神様かよ」
知らねぇよ、お前が勝手に決めたことだ。
「ま、いいさ。 今度教えてやるよ」
「……あぁ、今度な」
俺と彼の前に“今度”という言葉は来るのだろうか。派手なグループ所属の彼と、根暗グループの俺。そこに相違点はない。
だけれども、彼は良い奴なのだ。話しかけることぐらいは平気でする。今日、彼には新しい友達ができたようなものだ。それでも、俺にとっては。俺にとってはどうなのだろうか。
「お、そろそろ教室に戻らないと遅れるな」
「そうか、もうそんな時間か。 行こうぜ、杉村」
そう言って彼は二カッと笑った。本当、末恐ろしい奴である。もし俺が女だったらすぐさまに恋に落ちてしまいそうだ。熊のような外見にさわやかな中身。これがギャップ萌えというものか。
「……棚前」
「だから名前が違―う」
一瞬で迫ってきた巨大な手のひらに頭を掴まれる。そして、万力のように締め付けられた。
「俺の名前は棚町だ。 健気小町って呼んでもいいぞ」
どこがどう健気なのかは理解に苦しむが、これだけは言いたい。
「そ、そうか。 お前、美少女だったのか……」




