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二日おき六時に更新
人生で一度だけ自殺を試みたことがある。
死んでしまいたくなるような出来事自体はたびたびあった。俺でなくとも決して珍しいことではないだろう。ちょっと転校先の学校で馴染めなかったり、親友だと思っていた奴に手ひどく裏切られたり、父のことで担任の教師からたびたび嫌味を言われたり。それでも俺はある程度達者に自分を誤魔化して生きて来た。いのりのように妙な妄想に支配されるようなこともなく、投げやりになって何もかも放り出してしまうこともなく、健康で優秀な大会社のお坊ちゃんとしてそつなく生きて来た。
あとにも先にもくじけたのはその一回だけ。
四番目の母親のときだったと思う。その母親に原因があった訳ではない。あの父を相手にストレスを抱え込みながら他の誰より長く持ったのだから、忍耐力もある人だった。俺とは適度な距離をおいてくれたし、顔を合わせるのがつらくない程度に会話もあった。学校もしばらく変わらなかったので、高校入試を経ても同じ時間を共有できる友人を獲得できていた。
そんな状態だったから、そこで気持ちが負けそうになったのもただの偶然なのだ。ラクダの背中が決壊する最後の荷物のように、たまり続けていた鬱積がたまたまその時に臨界点を突破したというだけの話。おだやかだった父の嫁がたびたび血相を変えて現れて、おまえの父親はアタマがおかしいとんでもないクズだとヒステリックにわめきたてるようになったある日のこと。俺はとんでもなく面倒な気持ちになって、父とその人と三人で過ごしていたマンションの最上階に足を運んだ。
高層マンションから見下ろす吸い込まれそうな景色は、俺を狂わせてやまなかった。見ているだけで、その高さから落下していく自分の姿が脳裏に過ぎる。そうして深く深く暗いところまで落ちていくことができたならば、鬱積に満ちたこの日常に戻ることは二度となくなるだろう。そんな空想どおりに、ふらりと丙を乗り越えて、自分を取り巻くあらゆる息苦しさから逃げ出してみようかと、そう考えた。
その時の俺には、そこから落ちてぺしゃんこになることは救いでしかなかった。ぺしゃんこの体になってしまえば、もう誰も俺を苦しめに来ることはないだろう。ここから落ちてしまえば、ここから落ちて一人死体になってしまえば、面倒なこと全てから開放される。そう考えて、丙を乗り越えようとして
どうしようもなく割に合わないことに気付いた。
どうしてこんなに苦しんだ俺が、みじめったらしく死んでいかなくてはならないのだろう。そう考えると、酷くやるせない気持ちになった。俺が死んだら、父の尻を追いかけ続けるマスメディアの連中がこぞって死体に群がるに違いない。クラスメイトたちも皆、知った風な顔で俺に同情したつもりになるだろう。俺が一人で死んだところで、世界はただそれを他人事としておもしろがるだけに過ぎない。少々ばかり突飛な星に生まれついた俺の死を、歪な笑みではやし立てるに過ぎない。
そう考えると、途端にバカらしくなった。俺をこんな風に追い詰めた連中が、俺を苦しめたこの世界は、一人で逃げ出した俺を見て嘲って笑う。俺はただ飲み込まれただけだ。誰に対したものともつかぬ呪詛を叫びながら、しかしそれを聞きとめるものもなく、一矢報いることもなく、ただの弱者として踏み潰されるだけ。
ふざけるな。
みんなぶっ壊れちまえば良い。俺は願った。俺の死で、父さんやその嫁や俺を嘲ったもの全てを苦しめられるのであれば、どんなに良いものかと考えた。しかし実際、俺のちっぽけな魂にそれだけの価値はなく、どう足掻いたところで俺はこの状況から抜け出すことも、漠然とした憎悪の感情を晴らすこともできたい。
何の力もなく、何もできない哀れな虫けら。一匹の小さな芋虫。
びゅうびゅうと、吹き荒む風に頬を叩かれて、俺はようやく我に返った。自分がとんでもなく卑屈で冒涜的な、暗い慟哭を抱えていたことを自覚する。そして、知ってしまえばそれは自分の中で扱い切れるような気がした。この燃え滾る炎のような感情があれば、この先どんなにつらいことが待ち受けようとも、安心していられるような、そんな気がした。
これからの俺に待ち受けるもの。それを全て受け入れて、耐えて、耐え抜いて、それでも耐えられなくなった時は、この炎で目に映るもの全てを焼き尽くしてしまえば良い。何もかも、この手が届く範囲のすべてを、むちゃくちゃにしてしまえば良い。
きっと俺が本当に耐えられなくなった時、炎は手元にあるだろう。その炎はおそらく今よりもいっそう熱く静かに、俺の心に灯っているはずだ。俺はその時のことを焦がれた。いつか必ず訪れる、何もかもが破壊されるその瞬間のことを考えて、少しだけ癒されたような、そんな気がした。
「文也……文也ってば」
声が聞こえる。小さなぬくもりが俺の肩に添えられて、上半身をゆする。俺がぼんやりと目を凝らすと、心配げにこちらを覗き込む車椅子に乗ったいのりの姿があった。
「……大丈夫? なんか、ぼーっとしてたみたいだけど」
「大丈夫だ。問題ない」
俺は誇るような顔でそう言った。ドヤ顔というセンテンスが流行っているが、そんな感じだ。少し古いネタかもしれなかったが、いのりは少しだけ愉快そうに微笑んでくれた。
「何考えてたの?」
「つまんないことだよ。……本当にな」
言って苦笑する。もしかしたら、あの出来事から数ヶ月しかたってないかもしれない。
あの時感じた小さく曖昧な破滅願望。それに火をつける時が来たのかもしれない。もちろんこんなことで本当に世界が滅ぼせるなどとは思えないが、それでももしかしたらと願ってしまう。学校でも上手くいかず、五番目の母親はこれまででも突き抜けて奔放な人物で、おまけに俺以上に鬱積したイカレたいもうともできた。ちょっとくらいの奇行には付き合ってやっても、それでもしも万が一本当に世界が滅んでも、かまわないのではないだろうかとそう思う。
「今日。決行するんだろ?」
俺が尋ねると、いのりはちょんとうなずいた。
「文也が集めてくれたお陰で、必要なものが全部集まったから」
「気にするな。大した手間じゃない」
究極自分の奥歯を引っこ抜くことも、実は考えていない訳ではなかった。まったく持って気が当てられたと言って良い。こいつのように、荒唐無稽な目的に向かって必死になっている奴を見ていると、ついこちらも羽目を外したくなってしまう。淀みと鬱積に満ちた日常から離れ、激しくも清涼な風を浴びることは爽快だった。カエル取りも、奥歯を手に入れるための交渉も、そうした開放感の中にあった。
……もしかしたらこいつも、それを味わいたいが為に様々な奇行に身を投じていたのかもしれない。
「いつやるんだ?」
「いつでも良いよ」
いのりは少しだけ、吹っ切れたような顔をして言った。
「なんかね。今はすごく落ち着いてるの。素材を集めていた時は、早くしなきゃ、早くしなきゃって、すごい焦っていたんだけど。もうなんかどうでも良い。多分、文也がいるからだと思う。今はなんだか、こうして決行前の時間を文也と楽しみたいくらいの気持ちでいるの」
「そうかい」
俺は笑った。
「そうだよ。……世界の終わりを見届けるには、一人より二人の方がずっと良い。二人で手を握り合いながら、狂っていくみんなを静かに見下ろすの」
意外な程にロマンチストなその発言に、俺は少し困った気持ちにもなる。
その想像は魅力的かもしれない。俺はついそんな風に思ってしまう。頭の中だけなら、それは素敵な空想だ。だがしかし、終わり行く世界の中で、はたして俺はこいつの共犯者でいられるのだろうか。
「もっとも。おまえの計画が達成されたら、その時は俺もおまえも気が狂って死ぬことになってるんだがな。その邪神とやらが光臨するなり、計画の達成を喜ぶ暇もなく、狂って死ぬ」
「大丈夫だよ。それは」
いのりは不適に笑う。
「魔力に守られた人間は、魔王のおぞましい姿を見ても、少しの間だけ正気を保っていられるからね。……そうだ」
言いながら、いのりは車椅子をこいで台所に向かっていく。
俺が後ろからそれを押してやる。いのりの言うとおりに冷蔵庫の前まで着てやると、引き出しの上側にガムテープで引っ付けられた瓶を二つ取り出す。こうして隠してあったのだろう。瓶の中には、どちらも真っ赤な液体が少量だけたゆたっていた。
「こっちがあたし」
言って、いのりは片方の瓶を俺に差し出してくる。
「こっちが文也。ちょっとで良いらしいから。水に薄めても良いし、お酒に混ぜても良い。最初だし、きついと思うけど、お薬だと思えば全然平気だよ」
「……お。おう」
俺はそう答えるしかない。
「マジでやんのか、これ」
「うん。必要だと思う」
「おまえ。これ今まで飲んでたのか?」
「あの時集めた分は、もうほとんど。残ってるのはこれだけ。……今じゃもう馴れた」
言いながら、いのりは瓶から直接、ちろちろと舌の先で舐めるようにして赤い液体を嚥下していく。冷えている方がきついような気がするが。
「どうする、文也?」
「どうするって……」
期待と不安の混ざった目でこちらを見るいのり。こんな露悪的なお遊びに、自分が付き合ってくれるかどうか、それを尋ねているのだ。血を飲む行為は計画に必ずしも必須ではない。しかし世界の終わりを共に見届けるために、こいつにとって重要なファクターであることは間違いない。拒めばがっかりされることは間違いなかった。
「……ちょっと待ってろ」
毒を喰らわば皿までも。なんとなく、こいつの悪趣味に付き合ってみたい気持ちがしていた。今ならこんな異常な行為であってさえ、こいつと一緒に楽しめるような気がした。
いのりは安心したような、嬉しそうな顔をして俺を見詰めた。俺は食器棚から硬貨なワイングラスを取り出すと、いのりから受け取った瓶の中身をそこに注ぐ。どうせやるなら、とことんまでも露悪的に、吸血鬼にでもなったつもりで血を飲んでやりたい気持ちになったのだ。
「……妙なことするね」
「いいか。俺はドラキュラ伯爵だ。捕まえてきた処女の生き血を、これからじっくりと味わうんだ」
言って、ワインに口をつける。ぞっとしそうな冷たさと、さび臭い匂いが口の中に広がっていく。暖めた方がまだ飲みやすかったかもしれない。
それでも一息で飲み込んだ俺を見て、いのりは感嘆の表情を浮かべた。
「すごいね、文也」
「まぁな……。結構キツいぞ、これ。……もう二度とやりたくはないな」
「そんな機会はもうないよ。だって、これから世界は滅ぶんだから」
「そうなるといいな」
俺は微笑んで言った。いのりは僅かに眉を顰め、頬を膨らませる。この期に及んで、自分の計画を信じていないことがご不満らしい。
「ところでいのり?」
「ん?」
「瓶が二つあるのはどうしてだ? っていうか、あん時の赤ん坊の血はだいたい飲んじまってたんだろう? それにしちゃ随分と余ってたみたいだが。どんだけ採血したんだ、おまえ」
「ああ……文也に飲んでもらったのは、その……別の奴だから」
「なんだ。別の奴って……」
「えっと……。その。男の人にはそっちのほうが効果が高くて。あたしがそれ飲んでも絶対意味ないし、だから」
「だからって。なんだ、俺が飲んだのは何の血だ?」
それからいのりは少しだけうつむいて、それからつぶやくように
「……処女の生き血」
「は?」
「だから、処女の生き血だよ。……あれ読んだのなら知ってるでしょ? 本人がそうじゃないなら、魔力を得るにはそれが一番良いって……」
「そりゃまぁ、そんなこと書いてあったような気がするが……。でもそれどうやって採取したんだよ。処女の生き血ったって、適当に取って来たんじゃそんな保障はどこにも」
「……大丈夫。保障は、ちゃんとある」
いのりは顔を真っ赤にしてうつむいている。
その意図が掴みかね、しばし放心し、それから俺はようやく真相に気付いてぎょっとした。
……こいつ。まさか。
「てめぇ。……なんてもの飲ませやがるっ」
「だ、だって。その、それで良いはずで……。文也が一緒にやってくれるっていうから、早く手に入れなきゃって思ったんだけど……それしか思いつかなくて」
しどろもどろになるいのりに、俺は溜息を吐くしかなかった。
「まぁ良いよ」
「……? 文也?」
「得体の知れない奴の血よりもマシだ……。おまえ、変な病気とか持ってねぇだろうな」
「持ってないよっ! ……というか、今更それ、心配する?」
「確かにな」
もっともな話だ。それを心配するくらいなら、端から他人の血液なんて飲むべきではない。それは最高に危険な行為だからだ。
それ以前に。俺たちはこれから世界を滅ぼすために出かけるのだ。今更健康に気を使ったところで意味はないだろう。
「……これ。どれくらいで効果がでるんだ?」
「ん? そんなに時間はいらない、と思うよ。でも、数時間から半日くらいが一番望ましいって、どっかに書いてあった気がする」
「そうか……じゃあそうだな」
俺は時計の方に目をやる。時刻は午後の四時過ぎ程をさしている。
「これからちょっと寝ておこう。それで、日付が変ったくらいに実行する。それで良いか?」
「……うん。そうだね。そうしようか」
いのりはそう言ってはにかんでみせる。
「場所はもう決めてるのか?」
「うん。……決めてる。あの本を読んだときから、ずっと」
こいつにとっては悲願であろう、世界の滅びが訪れる。
それは誰にも訊かれることのない慟哭で、弱く何もできない二匹の芋虫の祈りと叫び。
それが聞き入れられないことを知って、こいつはいったい何を思うのだろうか。どんな感情を抱くのだろうか。
願わくば。その失敗が哀れなこの子を少しでも変えてくれることを。魂を尽くした叫びさえ儚く掻き消える世界にこの子が押しつぶされないよう、もう少しの間だけ、俺がこの子の傍にいられることを。
深夜二時四十分。いのりを廃墟ビルの屋上に運ぶ。
そこはまだまともに歩けていた頃のいのりが、よく一人で遊びに来ていたところらしい。当時の彼女は、この廃墟ビルを自分だけの空間として誰にも教えずに守り切り、その屋上から町を見下ろしていたのだそうだ。
まずはいのり屋上に運び、次に車椅子を上まで運ぶ。もろもろの儀式の素材は最後だ。もちろん羊皮紙の本もきちんと持ってきてある。
「クスリ。まだあるのに。歩けるのに」
いのりは言う。俺は首を振った。
「あれって歩けるようになるだけじゃないだろ。せっかく世界の滅びとやらが見られるのに、アタマがラリってたんじゃしゃーねぇよ」
こいつの脚はいつ限界を迎えるか分からない状態にある。松葉杖を使っても歩けない程痛む足を妙な薬で酷使して、こいつは無茶をしすぎた。俺の目が黒いうちは、これ以上無茶をさせる訳にはいかなかった。
いのりの体は本当に中学生かと不安になるほど人形のように軽い。食事の場に出てくることもなく、寝たきりの生活がこいつをこんな体にさせたのだろう。不健康な軽さを示すこいつの体を抱きとめながら、俺は不憫でならなかった。
いのりの案内に従って屋上に付く。四方には小さな突起があるのみで、高さも七階分あり、飛び降り自殺にはなんとも向きそうな按配だった。
「ごめんね文也。重かったでしょ?」
「いいや。軽いもんだ。おまえはちゃんと残さず飯を食え。死ぬぞ」
そう言ってから一階に戻り、車椅子と儀式の素材を回収する。それから屋上に戻ると、いのりがぼんやりと淵からビルの下を見下ろしていた。
灯のともる町並みは人々の生きている証だった。静かな風に煽られるままに、いのりの中では青い炎が燃えているのだろうか。これから滅ぼすつもりの世界を、人々が往き付いている町並みを見詰め、こいつは何を感じるのだろうか。
「……最後に。なにか思うところがあるのか?」
俺は尋ねる。いのりはこちらを振り向いて、考え込むようにして
「ちっぽけだなって、思ってた」
「なんだそりゃ」
「ここから見えるのが、あたしが這いずってた世界だって、思えなくなるの。這い回るだけの世界は本当にうるさくて、ぐちゃぐちゃしてて、そこにいるだけで怖かったのに、ちょっと高いところから見下ろすだけで本当にちっぽけ。おっきな石を持ち上げてきて、どーんって叩き落してあげたら、簡単に全部壊れちゃいそうな、そんな気がする」
確かにそうだ。俺はうなずく。この小さな灯のひしめく中に、父さんやカナエさんや金田が往きついていることが意外でならない。俺たちが生きていたあの世界が、こんなにも遠く、ちっぽけな中にあることが信じられない。
そう思うのは、物理的な高さによるものだけではないだろう。ある意味、このビルの屋上は今、神の視点でさえあるのだろう。世界の終焉に心から取り組み、実行にまで漕ぎついたいのりだからこそ、暗闇の中でぼんやりと浮かび上がる人の世界に対してそんな感想を抱くのだ。
「終わらせてくれるかな」
いのりはぼんやりとしながら
「こんな小さな、こびりついたコケみたいなところで、あたしは苦しんでいたんだね。……終わらせてくれるかな。テレビのスイッチを消すみたいにして、嫌だったこととか、憎くて狂いそうになったこととか……神様が全部消し去ってくれるのかな」
俺は何も言わなかった。何故なら、全ての答えを知っていたからだ。こいつの願いが叶えられないことを、俺はどうしようもなく予知していたから。
この世界がとんでもなく脆くてくだらないものでしかないことは間違いないだろう。いったいここにこびりついている何人が、世界の滅びを願ったことのある人間だろうか。それは意外に少ないのかもしれないし、想像するよりもずっとずっと多いのかもしれない。しかしそれを願った連中のほとんどが知っている。こんなろくでもない世界でも、自分達の力ではどうしようもないことを。
「始めよう。文也」
いのりは言った。
「これからあたしは悪魔に祈る。この世界を終わらせてくれって、お願いする」
「分かった」
俺はいのりの体を持ち上げて、車椅子の上に乗せてやる。それから持ってきた鞄から各種の素材を取り出すと、羊皮紙に書かれたとおりに並べていく。
白いチョークで、まずは六つの魔方陣を書いていく。六亡星の形をした陣を六つ、円を書くように並べていく。広い屋上を一杯使って、真ん中に大きなスペースができるように、それを書き終えた。
それから鞄の中の素材を一つ一つ六亡星の中に並べていく。猫の頭蓋骨。カラスのくちばし。長い紐。いのりと金田の奥歯。植物の球根六つ。そして、散々と苦労させられた原因である、六百六十六個のカエルの眼球のホルマリン漬けが、最後に並んだ。
「できたぞ」
いのりは、流石に緊張した様子でうなずく。
「あたしを陣の真ん中まで運んで。……そこで詠唱を始めるから」
俺は黙っていのりを六つの六亡星の真ん中に運ぶ。それからそっと陣から離れた。
屋上の隅で、俺は見守ることにした。こいつがしてきたことの結末を。類まれなる意志力で、心の底から世界の終わりを願ったこの子の顛末を。
いのりは空を見詰める。星一つない、真っ黒な空だった。天に向かって落ちていくことができるのならば、この黒色の空は海なんかよりも限りなく深く、底なしで、どこまででも沈んでいくことができるだろうと思われる。それほどにどす黒く濁った空だ。その中で、欠けのない円を描く大きな月だけが、俺たちの世界を見下ろすようにして我が物顔で爛漫と光り輝いていた。
「白雉の神アザトース」
両手を掲げ、いのりは叫び始めた。
「あたしはここにいるよ。あたしはここで、あなたのことを呼んでいるよ。あなたのことを待っているよ……ここに来てよ。今すぐに、聞こえてるでしょう?」
月に向かっていのりは叫んだ。空は何も答えなかった。小さな地球にこびりつく虫けらの、悲鳴にも見た慟哭の叫びは、深い空の中にはかなく消えうせていく。
「聞こえないの? これがあなたの名前でしょうっ? あたしが呼んでるだ、他でもないあたしがっ! 来てよ……早く来てよっ! 来ないなんて許さない、今すぐにここに来て、この世界を滅ぼしてよ。ねぇ……ねぇってばっ!」
いのりは涙を流しそうに叫んでいた。それは胸が苦しくなるほど痛ましい叫びだった。小さな体で、精一杯空に体を向けて、何もかもを滅ぼす醜悪な邪神を求めて慟哭する。虐げられ、何もかもを失って、愛されず、ただひたすら哀れな芋虫は世界の終わりを、いもしない神に願って泣き叫んでいた。
こいつ自身、分かっているのかもしれない。自分の声の届く先に何もないことを。それでもこいつはあきらめ切れないのだろう。こいつの希望は終末だけで、こいつの愉悦は滅びと破壊だけ。ここまできてそれを奪われて、こいつは何に気付くだろう。そこで感じる絶望は、いったいどれほどのものなのだろう。
「……いのり」
俺が声をかけると、いのりは息を吐き出してからこちらに視線を向ける。
それから、小さな子供にするように、にこりと優しく微笑んだ。
「大丈夫だよ、文也」
俺はぞっとしたものを感じる。
「ちゃんと来てくれるから……世界が滅びるのは今日。それはもう決まったこと。世界中の人と一緒に、消えられるよ。みんなと一緒に死んで行けるよ……だからね、もう、大丈夫だから」
こいつがこんな目をしているのを過去に、見たことがある。自分の言っていることに何の疑いも抱いていない人間特有の、深く清涼な、澄み切った瞳。
狂人の瞳は濁り切っているか澄み切っているかのどちらかという。
いのりの表情は、間違いなく狂った人間のそれだった。ほとんどたった一人でこんなおぞまし実験に手を染め、バカげた作業に取り組んで成功させ、心の底から世界の破滅を望んでいる。それをイカれていると言わずになんと言おうか。こいつのその目は狂人のそれだ。強くまっすぐな意思をたたえた、狂信者のそれだ。
「……いい加減にしろっ!」
いのりは吼える。天に向かって
「呼んでいるのが分からないっ! ふざけるなっ! ここに来いっ! ここに来て、このクソったれた世界を壊せっ! さもないとあたしがおまえのことをぶっ殺してやるっ!」
小さな体のそこにそんな迫力を秘めているのだろうか。いのりは有無を言わさぬ口調で、魔王と呼ばれる邪神に向けて、怒鳴りつけるように言い放った。
「来いよアザトースっ! ここに来て、あたしに従えっ!」
その時だった。
真っ黒な無限の沼のようだった夜空の水面に、僅かに波紋が起こったのが見えた。その波紋は少しずつ大きくなって、中から飛び出してくる巨大な存在を余地させる。いのりのいる場所の天辺あたりから立ち上った波紋は、大きな津波のようになって空一杯に広がっていった。
樽に注いだ水を両手で引っ掻き回したように、真っ暗な空がぐねぐねとうねる。やがてそのうねりは一つの流れになっていき、その中央に大きな亀裂が入ったのが見えた。
その隙間から、名状しがたき冒涜的な存在が顕現する。
「……嘘だろ」
俺は目を剥かずにはいられなかった。
気がつけば、歯を食いしばっている。指先一本でも動かすことが、無償に恐ろしくて仕方がなかった。僅かにでも動いてその存在に気付かれることが恐ろしく、俺は微塵も動けずに腰を抜かしている。
おぞましさのあまり叫びだしそうになる。しかし恐怖がそれを許してくれない。吐き気がする。血と一緒に体の中にあるものを全て吐き出してしまいたくなる。自分の中にあるものを何もかも全部外に出して、皮と骨だけの体になって、全身を取り巻く恐怖の疼きを取り去ってしまいたかった。そうしないと今にも狂ってしまいそうだ。
いいや。それすらも無駄かもしれない。こんな冒涜的なものの存在を知ってしまって、どうやったら自分は救われることができるというのか。世界には、こんなものが、いる。それが狂おしくて仕方がなかった。おぞましくて仕方がなかった。
「あはははっ。あはっ。あはははははははっ。あはははははははははははっ。あはっ!」
魔方陣の中央で、狂信者の叫びが聞こえてきた。血の涙でも流すようにしながら、歓喜の笑みで狂ったように空を見上げる。自分が呼び出した怪物を、いのりは狂気的な笑みで迎え入れていた。
「やった……っ。やったよ文也っ! あたしはやったよ……。この世界に、光臨したんだ。あたしの望んだ怪物が、世界の滅びが、ここに来たんだっ!」
あまりにも冒涜的な、見るに耐えないその姿は、一見するとうねる触手の塊のように見える。カスカスに乾いた巨大な触手の先から、幾重にも触手が分裂し、その先からさらに巨大な触手が生えてくる。終末の怪物は、そのようにして触手を少しずつ、少しずつこの地上に向かって差し伸べていた。そしてその隙間から、どこを見ているともつかない盲人のもののようなぎょとりとした眼球が、生涯かけても数え切れないほどの数、滴って、細い神経のツルにかろうじて吊り上げられている。
盲人の眼球が、一斉に動いた。何も見えていないはずの眼球の群れは、しかし何らかの力によって一斉にある一点に向けられる。
そこには自らの名を示す魔方陣があって、自らの背徳者たる少女の姿がある。無限にも等しい数の目玉は見詰めるまでもなくいのりを剥いていた。今にも朽ち果てそうな今にも崩れ去りそうに乾き切った眼球の群れの中心で、いのりは恐れる様子を見せない。ただ狂ったような表情で、自らの呼び出した邪神に向けて叫んだ。
「……もっと降りて来いよっ! そんなのはあなたのほんの一部分でしょう? もっと降りてきて! そのおぞましい姿をみんなに見せてっ! その狂おしい声を聞かせて! その大きな触手ですべてをなぎ払って。世界中の人たちに、あなたが来たことを知らしめて、全てを終わらせてっ! 早くっ!」
いのりの叫びに、魔王が反応した。乾き切った全身を震わせて、擦り切れるような金切り声をあげさせる。それは人間の耳が聞き取るにはあまりにも巨大なはずの声だったが、しかし俺はたしかにその咆哮を聞き取った。それは何の意味もない。赤子の鳴き声にさえ程遠い、虚無そのものの叫び声だった。
枝分かれする職種がぼろぼろと肉片をこぼしながら地上に降りてくる。俺の視界から、月が消えた。街の明かりが消えた。世界中の光という光が取り払われて、狂った怪物のみが存在感を放っていた。肉片の塊はついには地上へと到達し、歪なほどに細長いぼろぼろの触手が俺たちの程近くに振り下ろされる。
「……っ!」
そこにはいのりがいた。魔方陣の中心で悪魔を読んだいのりの顔に、巨大な触手が突き出されていく。俺は思わずいのりの方に駆け寄った。動かないはずの体で駆け寄った。震えて動かない体で、這い蹲るようにいのりの元に駆けつけて、その冒涜的な光景を俺は目にした。
いのりの右の瞳に、怪物の腕が差し込まれている。いのりは自分の顔に両手をやって、痛みにこらえるように歯を食いしばっていた。その表情には戸惑い。だがしかし恐怖はなかった。世界の滅びを受け入れ、怪物を待ち望んだこいつに恐れるものは何もなく、受け入れられないものなど何もなかった。
怪物は満足したように体を震わせると、無限の瞳でいのりの方を再度見詰めた。その時の怪物の表情は何故か、優しく微笑んでいるように、俺には思われた。
いのりの目の中に、怪物の触手が差し込まれている。いのりは苦痛にもだえるように息を吐き出した。俺はいのりに駆け寄って、その体を支えてやる。最後まで付き合うと決めたのだ。俺は怪物の姿を改めて間近で捉えた。ぼろぼろのかすかすの、巨大でおぞましいだけで、もろく崩れ去ってしまいそうな哀れな姿をしていた。
魔王は慟哭した。無数に枝分かれした触手を震わせると、先ほど差し込まれた一本の触手が、いのりの目玉の中に吸い込まれていく。毛玉でも解くようにして、怪物の体がするするとほどけ、いのりの目玉に向かって巻き取られていった。
それは無限に続くかに思えた。勢いを増す触手にいのりは最早息もしていない。完全に気を失って、舌を突き出して死体のようになっている。俺はいのりが壊れないように抱きしめた。注ぎ込まれる触手に耐えられるように支えてやった。
怪物の姿が小さくなっていくのに、どれだけの時間がかかっただろうか。その恐怖的な光景は宇宙の終わりまで続くかのように思われた。感じたこともないほど長く濃密な、星の寿命を無限に繰り返すかのような時間が終わり、触手の最後の一片はビルの屋上の角に接触しそこを僅かに削ってから、いのりの目玉に吸い込まれて姿を消した。
「…………っ」
そして静寂が訪れる。
空はうねりを失って元の深さを取り戻し、月が再び姿を見せる。町の灯が光を取り戻し、何事もなかったかのように静かな風が吹く。
気がつけば、魔方陣が掻き消えていた。魔王の名を示すはずの六つの要素はそこから姿を消していて、ただ真ん中でいのりだけが残されている。魔王はビルの角っこを僅かに削り取ったことのみを痕跡とし、いのりの瞳の中にその姿を隠した。……否、消えたのだ。
俺はいのりの顔を見る。
気を失ったいのりは、しかし魔王を完全に取り込むことによって、苦痛から開放された安らかな表情をしていた。まるでこの世の全ての苦しみや悲しみから、憎悪や野望、世界を滅ぼすという妄想からもさえ解き放たれた、赤子よりも尚純粋な寝顔を浮かべている。
酷く幸せそうなその顔を見て、俺は安心して頭を撫でてやる。すると、いのりはどこか得意がるように、目を閉じ意識を失ったまま、えへへと無邪気そうに微笑んだ。