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二日おき六時に更新
「あの子。最近一人で外出てない?」
ある日。父のいない朝食の席でいのりさんは唐突にそう尋ねてきた。
「なにかあったんですか?」
父がいないときの朝食は少しだけいい加減だ。それでもこれまでのどの母親が作る食事よりもおいしい。いのりの奴も横着せずに食べにくれば良いのに。
「なんか部屋にものが増えてるし。こないだなんて髪切ってたじゃない、まぁ似合ってるから良いんだけど」
「俺が連れ出してるだけですよ。だいたい、あいつが一人で外に出るなんて、無理な話です」
それもそうね……とカナエさんは納得したようなそぶりを見せる。それは確かに、そぶりだけのことなのだろう。あのクスリでいのりが短い間だけ歩けるようになることを、カナエさんが知らないはずがない。
「娘をいつもありがとうね、文也くん。……本当に感謝してるのよ」
おそらく本心からそう言って、カナエさんはどこかへ出かけていった。いのりのところに行ってやれば良いのにと思う。この人は父のいないはたびたびこうして外に出かけていく。父からもらったたくさんの『お小遣い』を使い切るには、おそらく時間がどれだけあっても足りないのだろう。
俺はいのりの分の朝食を盆に載せ、あいつの部屋をノックする。あくびをしながら乱暴に何度も叩いてやって、しかし返事がないことに苛立った。
家に寝たきりのいのりだったが、朝は六時ごろに起きて夜は早く九時には寝る生活習慣を送っている。本人は寝たいときに寝ているそうなのだが、抜け切れない習慣が自然にそうさせてしまうらしい。それに加えてしょっちゅう昼寝までしているのだから、たいした眠り姫だった。
そろそろ学校に行く時刻なので、起きるまで待っていてやる訳には行かない。無理矢理たたき起こして飯を食わせるか、ベッドの隣の机にでも置いておいてやるかしよう。そう思いながら扉を開き、今夜もうなされるように眠っているいのりの前に行く。
「なんだよ……」
布団からは乱しているパジャマの裾を見れば分かる。泥がついている。自分で落とそうとはしたようだが、それでも少し汚れていた。昨日は夜中に俺の目を盗んで出かけていたらしい。
この後に及んで、こいつには俺に隠してやりたいことがあるようだった。そもそもがこいつは結構な秘密主義者で、それでも俺はある程度こいつとは理解しあえたと思っていたのに。
怒りとも咎めともつかない、奇妙な感覚が俺を襲った。なんとなく裏切られたような、そんな寂しさ。何かしたいことがあるのならば素直に俺に頼ってくれれば良い。俺に隠しているようなことがあるならば、話して欲しい。どうしてもそんな感情を持ってしまうのだった。
分かっている。俺がどれだけこいつの理解者たろうとしたところで、及ばないことは当然ある。こいつにだって一人でやりたいことややるべきことはあるはずで、誰もが当たり前の権利として持っているように、それは容易く踏み込まれて良いものではないはずなのだ。
「ちくしょう……」
暗い感情だ。俺は思った。暗いし、自分勝手だ。しかし出かけるなら声くらいかけてくれないと困る。また一人でぶっ倒れられたら、困るのは助けに行かなければならない俺だ。それに万一カナエさんがいる時に家の電話が鳴ったら、あいつにとって最悪の事態となってしまうではないか。
そう思い、俺はいのりのベッドの下に目を向ける。こいつの習性の一つとして、外から収集してきた『妙なもの』は全てここに隠す癖がある。中学時代の教材などの荷物の合間に、カナエさんに見付からないように巧妙に隠しているのだ。ここを見れば、昨日こいつがなにをしてきたかが分かる。
俺はそこを漁る。寝ているいのりを起こさない範囲での捜索だったため、全てを見て回ることは不可能だった。中でも目を引いたのはホルマリン漬けにされた無数の、おびただしい数のカエル。他には解剖用メス、工具用ペンチ、ゴム手袋、もがれた鳥のくちばし、大型の鍋、平たい木片、植物の球根など。およそ一つの目的の為に集められたとは思いがたい、意味不明な代物の数々だった。
いったいこいつはなにをするつもりなのだろう。
思いながら、夢見の悪そうないのりの寝姿を見詰める。義理の妹の寝顔を見るなんて、決して良い趣味とは言えなさそうだ。さっさと立ち去ろうとしたときに、俺はそのことに気付いた。
「なんだよ、これ」
それはいのりの枕元の置かれた一冊の本だった。真っ黒な装飾のない一冊で、偉く分厚い。分厚いが、ページ数はたいしたことがなさそうだった。そう思ったのは外側から見て分かるようにページの一枚一枚がぶわぶわと不恰好に厚かったから。どうみても紙でできているとは思いがたいそれを、俺は思わず手に取った。
むわっとした、獣の匂いが漂ってくる。羊皮紙かなにか、獣の皮でできているのかもしれない。偉く高そうな、特別な材質でできた一冊だった。どうしていのりがこんなものを持っているのか。俺は興味を惹かれてそのページを開く。
そして目をむいた。
何が書いているのか、まったく分からないからだ。これまでに見た事のない記号の羅列……というよりただの落書きのようにしか見えない。一つとして機知のもののないねじれた記号が、無秩序にただただ見開き一杯に広がり、不気味なことといったらこの上ない。
本を閉じようとすると、間から何枚かのノートの切れ端が滑り落ちる。拾い上げてみると、そこにはその本に書かれているものと同じ記号と、アルファベットや日本語がメモされている。いのりの字だ。解読でも進めているのだろうか。
枕元にぞんざいに、手から滑り落ちるようにしておかれていた本。いのりは眠る前までこいつを眺めていたのだろうか。
『りっちゃんの本に、書いてあったから』
赤ん坊の血を抜いた理由を尋ねたとき、いのりがそんな風に答えたのを思い出す。
俺は大いに興味を惹かれて、悪趣味なことと知りながら、それを自分のポケットに忍び込ませた。ただ単に、あいつの暴走を止めるためなんだと、自分に言い聞かせながら。
朝学校に向かい、教室に入ると今度は冷たい失笑が漏れた。
以前体験した好機の視線ともまた違う、嗜虐的な笑み。俺は冷や汗が流れるのを感じつつ、自分の席に向かう。その傍には案の定と言うべき相手、金田が猛禽類の笑みを俺のほうに向けていた。
「おっす。倉科くん」
にやにやとした声で言う金田に、俺は「なんだよ」とぶっきらぼうに話しかける。金田は少しだけ愉快そうな顔をして、俺の席に開かれたその雑誌を指差した。
そのページには一対の男女の後姿を取った写真が貼られていて、俺は思わず目を剥いた。見間違いだったらどれだけ良いだろう。その男女の片割れは俺の父さん。そしてもう一つ信じがたいことには、その父さんが連れている女性がカナエさんとはにてもにつかない女性だったことだ。
教室中の笑い声が耳朶を打つ。俺に憚るようにして行われていたそれが、今ではこっちに指をさすようにあからさまに行われている。あいつだ、あいつがあの絶倫社長の息子だ。あのワイドショーでやっていた、芸能誌で特集されていた、あいつの息子。あいつの……。
「倉科くん」
金田が腹を抱えながら口にする。
「君のお父さん、元気すぎるっしょ。ねぇ倉科くん、今のお母さんって何人目ぇ? もうすぐ次のお母さんになるかもしれないよ、これ……」
それから金田は俺のほうに顔を近付けて、嗜虐的な笑みでこういった。
「すごいね」
俺はその時、なにが起きたのか一瞬理解することができなかった。
気がつけば、自分に右腕に妙な手ごたえがあった。衝撃と、痛み。そして違和感。俺は無意識のうちに、こちらに顔を近付けてくる金田を腕で振り払っていた。金田はその場で脚をもつれさせ、机に手を付いて呆然とした顔を浮かべている。
教室が静まり返る。俺は視線に晒されながら口を開く。
「やめてくれよ……」
俺は言った。懇願するような、自分でも情けないと感じるような声で言った。実際、それは金田に許しを請うていたものに違いない。
もうほっといてくれ。もう俺に興味を持たないでくれ。それだけが俺の願いだった。俺の周囲を探っても、綺麗なものは何もでてこない。俺にとって胸をはれるようなものは、強く格好良い企業家の父の姿は、小学生のころにとっくになくなってしまっていたから。
そんなものなら探らないで欲しい、見ないで欲しい、興味を持たないで欲しい。
「……あーあ。倉科くん、やっちゃたね」
金田はぺろりと舌を出しながら言った。
「私怒ると怖いんだよ? 倉科くん、私のこと嫌いなのかな? こんなことで女の子に手をあげるなんて、最低だよね。これからなにされたって……文句言えないよね」
「殺してやる」
俺は自分が何を言っているのかも理解できなかった。
「おまえは死ぬべき人間だ。殺してやる」
「はぁ? それいうならあんたの親父がそうだろうがよ。何人も女たぶらかして、弄んでよ? ただ金持ちなだけの、ただの生涯発情期のクソ犬じゃねぇか」
再び、俺が手をあげると、金田は流石におびえたような表情を見せた。しかしすぐに虚勢を張るようにして挑発を続ける。
「私なんも悪いことしてないじゃん。ただ、倉科くんに真実を教えてあげただけ。でもそんなにショックだったの? 倉科くんにとっては、お父さんの恋人が変わるなんてしょっちゅうなことでしょ? 一丁前に汚らわしいとか思ってる訳? それとも、前の母親っていうのがいのりちゃんのお母さんだったから、それで?」
「なにを……」
「倉科くん、前もいのりちゃんのこと、訊いて来たよね。気になってるの? それで離れ離れになるのが嫌なの? そりゃ心配だよね、いのりちゃんのお家また母子家庭になっちゃう。役立たずの障害者の娘と見てくれが良いだけのアバズレ女と、また二人きりになっちゃう……心配だよね」
「やめろ」
「いのりちゃんのお母さん、倉科くんのお父さんの心を引き続けることはできなかったのかな? いっそのこと、娘のことも差し出しちゃえば良かったのにね。あの絶倫社長、そういうシチュエーションにも燃えるのかな? ねぇ倉科くん、ちょっと提案してみたら? いのりちゃんかわいいからきっと大丈夫、うまくいく……」
「やめろっつってんだよっ!」
俺は大声で、自分でもおぞましいほど感情的な声でそう叫んだ。
そこで金田が怯んだような表情を見せる。怒鳴られることくらい予想ができただろう。それでも怖気づいてしまうくらいに、俺のその声は感情的で醜悪だったのだ。
教室中の人間が息を飲むように俺のほうを向く。俺は歯を食いしばる。これ以上耐えられない、これ以上ここにはいられない。
俺は鞄を手にとって教室を飛び出した。入り口付近に立っていた数人が、あわてたように道を明ける。
心の中で呪詛を叫び続けながら、俺は泣きたい気持ちで学校を立ち去った。
家にたどり着くと、そこにカナエさんや父の姿はなかった。
父が外で仕事をしているのかどうかも曖昧だ。なにせ、あんな記事を見せられたばかりなのだ。父が登場しているあらゆるメディアから距離を取っていた俺には、いつから父が新たな相手を見つけていたのかも分からない。どれだけ本気なのか、カナエさんに対する気持ちはどれくらい残っているのか、冷静に勘定できるほど俺は父の本質を理解していない。
思い知らされる。俺は何もできない、奔放な父に対し何もすることができないのだと。何もできないまま、ただただ晒しものになり続けるしかないのだと。
俺は絶望的な気持ちになった。今ならいのりの言っていたことも理解できる。『世界中の人と共に消え去りたい』と、純粋な目で言い放ったいのりに、もう少しだけ共感してやれるような気がした。
ふとポケットの中に入れてきた例の本のことを思い出す。
羊皮紙で書かれたそれを取り出して、俺は溜息をついた。結局これを持ち出してしまった。あいつにとって大事なものかもしれないものを、勝手に。酷く幼稚なことをしてしまったものだ。謝って返さなくてはならないと思いながら、俺はいのりの部屋の前をノックする。
「いのり。起きてるか……」
返事はない。まだ寝ているのかと思いつつ扉を開けると、そこにいのりはいなかった。
いつも彼女が横になっているベッドは無人で、他にいのりの居場所など検討がつくはずもない。また、一人で出て行ったのだ。そう思うと俺の心の中に暗い感情が訪れる。
……なにを勝手に。
あいつを外に出していたら、いつかとんでもないことになるのではないだろうか。脚の悪いあいつが地面に倒れているのを、もし下劣な男にでも見付かったら。妄想だが杞憂ではないだろう。極めて現実的な危険性として、それはあいつに横たわっている。彼女はそれに驚くほど無頓着に、なにを目的にか俺に黙って町を一人で徘徊している。
俺は例の羊皮紙の本を取り出す。そして意味不明な記号の羅列されたそれを開いた。隙間からいくつもいのりの字が書かれたメモが飛び出す。このメモだ。俺は思った。ここにいのりの目指すものがある、いのりをとめる方法が書かれている。
いのりのメモにあるのはこれらの記号の解釈の仕方と、それと個人的なものらしきいくつかの落書きだった。その一つは自分の行ったことのある範囲で書かれた偉く小さく曖昧な地図で、『カエル道、文也から教わった』などと書かれていて俺をいらつかせた。
本当のことを言うなら、一刻も早くあいつを探しに行った方が良い。しかし俺はその羊皮紙の本に魅入られて動けなかった。あいつを動かすもの、あいつを駆り立てるものが書かれているだろうこの本の中身が。俺は気になって仕方が無かった。
俺は鞄の中からノートと筆記用具を取り出す。いのりの書いたメモを取り出して、その暗号文の解読を始めた。
『この世界にはたくさんの神様がいます。まさに神としかいいようのないような、酷く冒涜的でおぞましい超存在の数々が、我々の知らない宇宙にはそれはたくさん生息しているのです。
それらは小さな虫かごを管理する気まぐれな飼育者のようなものです。あるものは積極的にその虫かごに恵みを与え、またあるものは気まぐれにそれを嘲弄し、あるものは一切の興味を示しません。一つ言えることは、それらの神様のうちのどれもが、我々の矮小な世界など簡単に握りつぶしてしまえるような膨大な力を有しているということだけです。ちょうどそう、我々が特に気負うことなく小虫を踏み潰すように、有害無害を問わず殺菌を手洗いしてしまうように。
薄汚く矮小な我々の地球は、そうした神々の温情と無関心によって成り立っています。気紛れに軽く指ではじいてみたり、覗き込むようなことはあっても、粉々に砕いてしまうようなことはしないのです。当然、それは今日このときまでがたまたまそうだったというだけで、私が次にインクを注ぎ足すまでに、世界が滅ぼされない保障すらありません』
ひとまず、かろうじてここまでは読めた。俺は痛む頭を抑えてノートにシャープペンを走らせる。
今の文章は二十六の記号によって成り立っている。それらが全て横書きであり、また読点ではなくアポストロフィであったことから、いのりはそれらがアルファベットに対応していることを知った。メモにはそう書かれている。
それらの記号一つ一つにアルファベットを総当りで当てはめることによって、いのりはその暗号めいた文章を翻訳することに成功したのだった。暗号だとすれば偉くお粗末な内容だったが、それでもただの中学生でしかないいのりに読み解くのは容易くなかったであろう。増して、やっとの思いで翻訳したそれは、中学英語のレベルを遥かに超えた英語文なのだ。俺ですら、翻訳サイトの助けが必要だった。
『私はそれらの超越的な神々に興味を持ち、その実態を知るために、この地球上で観測されたあらゆる魔術、喚起術を調べていました。そのあまりにもおぞましき調査結果を、私はついにこの一冊の本に託すことに決めたのです。
これからこの本は、世界に一冊しかない世にも冒涜的な魔術書と化して行くことでしょう。私はこの本の次の持ち主となる者が、私と同じ底なしの暗黒を宿した狂信者であることを望んでいます。この本を手にするものは、この文章を読解できるだけの知能を有し、かつ異形の神々を自ら従えんとする地獄そのもののような精神性を持っていなければなりません。
この文章を読んでいるあなたがもしもそうでないのならば、すぐにこの本を手放してください。どこか静かな山の中か、朽ちた砦に穴を掘り、この本を埋めておくのが良いでしょう。もしかしたら誰か相応しい狂信者がこの本を掘り出して使うかもしれません。もしもあなたがそれを望まない、この醜くちっぽけな地球の永久を望む哀れなるカエルに過ぎないのであれば、やむを得ません。今すぐにこの本を焼き捨ててください』
ページが進むたびに使われる記号が一新される。これだけ多くの記号を考え付く作者もそうだが、それを一つ一つ解き明かしてメモするいのりも相当なものだ。
どれだけの時間がかかったのだろうか。俺は考える。暗がりの、一人ぼっちのベッドの上で、何かを求めてこの本にかじりつくいのりの姿を。この本を解き明かすことで無二の望みが叶えられると信じ、果てしないパズルを解き続けるいのりの心を。
こいつの解読に没頭することが、おそらくはいのりの心を支えていた。俺は思う。脚が動かなくなり、全てを奪われたいのりはこんな本にでも縋るしかなかった。羊皮紙に描かれたこの曰くありげな文章に心奪われ、膨大な時間をかけてその分析をしていった。
やはりあいつはアタマが良い。性格こそむちゃくちゃで行動こそ短絡的だが、ある一つの事柄に対して発揮できるバイタリティは中学生離れしている。この集中力をもっと他の事に使えていたら、それなりに明るい未来があったかもしれない。脚の良し悪しに関わらず。
『私がこの本を書く理由は一つ。それは神々の喚起召喚による、この小さな小さな世界の滅亡です。
このように矮小で醜く退屈な石ころの上に、コケのごとく張り付いて生きる人間たちの惨めさに、私は絶望しているのです。牢獄の中で私は、自分に代わって終焉をもたらすものの為に、託すべきこの本を書いていきます。混沌とした眠りの夢に宇宙という泡を浮かべる、おぞましき神々のことを。私はこれから記していこうというのです』
また記号が一新される。俺は次のメモを取り出して、記号をアルファベットに書き直す作業を進める。これだけで十分に果てしない。しかし俺は続ける。こうすることで、あいつのことを少しでも理解できるような気がしたのだ。これを読み解くことで、あいつの心の底にある暗闇の、その本質に少しでも近づけるような、そんな気がしたのだ。
『彼らは人間には発音しようもない極めて特殊な名を持っています。人間の拙い認識能力ではとうてい及ばないほど長く、詠唱するだけでこの星が終わりを迎えるほど複雑な名を。
名前というものの持つ役割は、神々のものでも我々のものでも根底的には変わりません。つまり、その名を正しく呼び、その声を彼らに届けることさえできれば、このちっぽけな地球に神々を呼び寄せることは可能になります。
もちろんそれは容易なことではありません。神々の名前は我々人間にとって冒涜的で、その一端さえ口にすれば、即座の発狂は間違いありません。ならば初めから狂った人間であれば神々の召喚が可能なのかと言えば、それも異なります。神々の名前を人間の言葉で指し示すのに必要な時間は、星の寿命よりも長いのです。
私は神々の名前をとにかく簡略化することを考えました。正しく名を示すことができずとも、それが自身のことであると彼らに認識させることさえできれば、十分に神々はこの地球に現れうるのです。そして、長きに渡る研究の末、我が身の発狂と引き換えに、いくつかの短縮例を得ることができたのです。
もちろんできるのは名前を呼んで、来てもらうことだけですから、それを呼び出したものが神々の力を利用することは容易ではありません。むしろ神々は気安く自分のことを呼んだ術者に怒り狂い、この宇宙ごと術者の存在を消し去りにかかるかもしれません。そうでなくとも、神々の持つ極めて形容しがたい祖形をその目に見たものは、残らず発狂しその曖昧な精神を崩壊させるに違いありません。神々の放つ音、神々の放つ匂いから気配まで、あらゆるものは全ての存在を狂わせます。それは決して逃れることのできない運命なのです。
ですから、人の身を持つものが世界を滅ぼそうとするならば、神々に特別な命令を下す必要はありません。そもそも人と神が意思を疎通させるなどということは、相手があの賢きニャルラトであっても不可能です。ちょうど人間が殺菌の気持ちを理解しないように。理解しようともしないように。彼らは我々の前に現れるだけで、そのおぞましい姿を人間たちの前に晒すだけで、全ての罪深き心をこの世からかき消してしまうのです』
ファンタジックで、仰々しい。しかし、魅力的な読み物だと言えた。曰くありげに羊皮紙に書かれていることといい、難解な暗号によってつづられていることといい。内容がもう少し浮世離れしていなかったら、信じてしまいそうになるほどだ。
俺は考える。この腐った世界を片手で仰ぐようにして吹き飛ばす圧倒的な存在のことを。この世がただの水辺に浮いた泡のような矮小なものでなく、小指ではらうようにして簡単にかき消されるものであるのならば、どれだけ救われる話だろうかと考える。
全て、なくなるのだ。俺を苦しめ、迷わせるもの全て。俺を醜くおぞましき社長の息子に仕立て上げる父さん。俺のようなものを指差して笑う金田のような人々。カナエさんのような何度も入れ替わる偽者の母親。愛されることも救われることもなく、ただただ俺を哀れませるいのり。それら全てを内包するちっぽけな世界が、テレビの電源でも消すようにしてただただちっぽけに消え去っていくのならば。なんと救われる話なのだろうかと、甘美な妄想を禁じえない。
いのりはそれに飲まれたのだろうか。
これから自分が生きなければならない醜悪な運命を受け入れられず、自らを苦しめてきた憎い世界の終焉にこそ、希望を見出した。
いのりは本気でそれを願い、行動している。
この世界を滅ぼすために。
「……バカげている」
バカげている。バカげてい過ぎる。あいつはこんなくだらない読み物を信じたのだ。信じて、そして本気でこの世界の終焉とやらを望んでいるのだ。自分が死に、自分が憎むもの全てが死に、関係ないものも全員死ぬ。そんな結末があいつの望みか。こんないかがわしい本に頼ってでも手に入れたい、あいつの生きる希望、最後の祈りだというのか。
『これから説明するのは白雉で盲目の神、魔王アザトースの召喚方法と、それに必要となる彼の神の名の簡略化です。
アザトースというのは私が彼の神を示すために便宜的につけた名前ですが。その本来の名前はあらゆる神々の中でももっとも冒涜的で、複雑で、この世界に存在する全ての樹木を切り倒して紙を作っても、その一端すら描写し得ないものです。何故ならアザトースは全ての神々の中でも最上級に位置する概念であり、あらゆる神々の始祖であり父である存在だからです。
この世界はアザトースの見る夢に過ぎないと言われています。アザトースは混沌というゆりかごの中で目を閉じて眠り、その形容しがたくおぞましい夢の内側で、あぶくのごときこの世界を作り上げています。
アザトースは無数に枝分かれした巨大な触手という姿でこの世界に存在し、今は長き眠りについています。アザトースの名前を呼び安眠を妨げたものは、その大いなる怒りに触れることになり、周辺宇宙ごとその存在を消し去られることとなります。
私はこの大いなる神の召喚に尽力しました。アザトースに関するあらゆる文献を読み漁り、ニャルラトの言葉の断片を集め、その名前を指し示す方法を考え続けました。そして、アザトースの存在を限りなく簡略化し、彼にそうとわかる形で指し示すもっとも適切な、合理的な方法を、私はついに完成させるに至りました。
検証した訳ではありませんので、不確実な方法です。しかし同時に、理論上は失敗の余地のない、アザトースをこの世に光臨させうる今のところもっとも現実的な手段であることも間違いありません。
まず、アザトースの存在を指し示すためには、以下の六つの要素を記号として用います。
・カラスのくちばし一つ
・長さ二百七十七センチメートルの紐十七本
・ヒトの奥歯二つ(ただし同一人物のものは使えない)
・植物の球根六つ
・カエルの眼球六百六十六つ
・猫の頭蓋骨一つ
これらを上記の順序で円形に並べ、一つ一つを六亡星以上の魔方陣で囲ってください。猫の頭蓋骨とカエルの眼球が隣接する並びであれば、円の形や大きさは問いません。
こうして作られた円がアザトースの真名の簡略化となります。術者はこの円の中心に立ち、可能な限り強い思いを込めてアザトースに祈りましょう。アザトースのいる宇宙の果てまでその祈りを届かせるには、相応の魔力と精神力を要しますが、あなたがまことに世界に絶望した狂信者であるならば、必ずや成し遂げることでしょう。
また、魔力を高める為に、事前にある程度の準備をしておくのも効果的です。魔力の絶対量を高めるためには意思の力がもっとも重要ですが、膨大な魔力を研ぎ澄ましさらに強力なものにするためには、純粋で清らかな血が必要となります。術者の年齢は低ければ低いほどよく、男性よりも清らかな女性の方が良いでしょう。術者の条件が不利である場合、処女の生き血や肉、臓物などを食べておくのも重要です。術者自身が乙女であるなら、赤子の血液などを摂取するのがより良いでしょう』
理解した。全て理解した。あいつのしていることの意味を。あいつが何のために、なにをしようとしてるのかも。
全て繋がった。俺は目を剥いていのりの部屋に向かい、ベッドの下を漁る。ホルマリン漬けにされたカエル、植物の球根、カラスのくちばし……。そして最近近所で起こっている、歯抜きのジャックと呼ばれる変質者の正体。専務の孫の生き血を集めていたこと。
あいつは本当にやるつもりなのだろうか。……やるつもりなのだろう。あの体で、あの脚で、生半可な覚悟でここまでできない。百を超えようというカエルを捕獲し、赤子から生き血を集めることなどできもしない。あいつが必要なものを集め切るのが先か、その前に誰かに見付かってとがめられるのが先か。
……俺はどうするべきなのだろう。
あいつの目論見は全て分かった。このまま放置していれば、あいつがさらにとんでもないことをし始めるということも。条件の中には人間の奥歯が必要だと言うことも書かれている。歯抜きのジャックの正体はあいつだ。この先にあいつにどんな未来が待ち受けるのか、それは容易に想像がつく。
迷っていると、家の扉を開こうとする音がした。がちゃがちゃとドアノブを弄り回し、次に鍵を差し込む音が聞こえてくる。思えばあいつに家の鍵を持たせてやったのは間違いだったかもしれない。あれがなければ、あいつだってそう軽々しく外出はできないはずだ。
扉が開かれる。俺は部屋を出て、玄関口へと向かっていく。そこには両手を真っ赤に染めたいのりが立っていて、呆然とした表情で俺の手元、羊皮紙の本を見詰めていた。
「文也……?」
いのりは猫の死骸を両手にぶら下げていた。意外な程、それは重たいのだろう。両手で抱えるようにして持ったそれは、流れ落ちる血液をまとって真っ赤になっていた。俺は羊皮紙の本の内容を思い出す。こいつの望みである神の召喚には、確か猫の頭蓋骨が必要となったはずだ。こいつは俺が学校に行って帰ってくる僅かな時間で、薬を服用して外に出たのだ。
「おまえ……」
「その本」
いのりは猫の死骸を取り落とす。そして俺の手元を指差した。
「どこにあったの?」
俺はぞっとして手元の本に視線を向ける。いのりはこれまでにないほど必死の形相で、警戒するようにこちらを覗いていた。小さな体で今にもこっちに突っ込みたくて仕方がないのを、懸命に抑えていると言った風情。
俺は唾を飲み込んで、まずはいのりにその本を手渡す。いのりは本を手に取ると、そのまま俺の手首を掴んで、繭を顰めて
「どこにあったの?」
「おまえの部屋だよ」
俺は答える。
こいつに屈してはいけない。俺は思った。こいつがどんなにか暴れまわろうと、そんなのは子供の駄々でしかない。そんなものに屈してはならない。
「その猫の死骸はなんだ? おまえ、外にでていったい何をしているんだ?」
「……文也には関係ない」
「関係ないことないだろ。俺はおまえの家族だっつったろ? っつうかそんなこと、許されると思ってるのか?」
「カエルのときは何も言わなかった」
「おまえの身に関わるだろうが。カエルは集めんのはただの変なガキで済む。猫殺しても器物破損で済む。赤ん坊の血を抜くのも、ぎりぎりでただの悪戯で済むんだろうが。子供の奥歯をペンチで引き抜いたら、それはもう社会的に許されることじゃない」
「……どうして知ってるの?」
いのりは信じられないと言う顔をする。
「解いたんだね……。迂闊だった、もっときちんと隠しておくべきだった。文也がそこまでやるなんて、思ってもみなかった」
そう言って、いのりはポケットに手を突っ込んだ。中から取り出された銀色の物体が折りたたみ式の刃物だと俺が気付いた時には、いのりはそれを突き出してくる。以前のようながむしゃらな振り方ではなかった。目の前の俺を殺すという明確な意思の篭った刺突行為だ。それは正確に俺の胸元に突きつけられ、心臓部を狙ってくる。
俺はその場を飛び退るしかなかった。間一髪。俺は冷や汗を浮かべる。間違いない、こいつは俺を殺すつもりだった。今の一瞬、こいつは俺を殺すことができた。避けなければ死んでいた。そのことを何度も何度もアタマの中で反復し、俺は目の前の少女に恐怖を覚える。前々からどこかおかしいとは思っていたが、ここまで明確な殺意を向けられたのは初めてだった。
「いのりっ!」
正気に戻れ。俺は強くそう呼びかける。いのりははぁはぁと息を吐いて、ほとんど泣き出しそうな顔になりながらナイフをこちらに向けている。今すぐに踏み出したいが、怖くてそれもままならないといった様子。
「待て……落ち着け。ここでそんなもん振り回してもなんにもならないって……分かるだろ?」
「だって……」
いのりは目を伏せて震える。そして再び目をぎらつかせると、ナイフを逆手に構えてじりじりと距離を詰めてくる。
「バカだろ」
まともにやって勝てる訳がない。さっきのをかわした時点で勝負はついているのだ。俺が飛びついてくるいのりの胸元を突いてやると、いのりはその場で容易く転倒して床に頭を打ち付ける。それからいのりの上に馬乗りになり、手にしたナイフを迅速に取り上げた。
「おまえ今本気で俺のこと殺そうとしやがったなっ!」
俺が叫ぶと、いのりは恐怖に引きつらせた表情で
「だって文也……見ちゃったんでしょ? りっちゃんの本。分かっちゃったんでしょ? あたしが何をしようとしてるのか」
「分かってるよ」
俺は言う。
「おまえおかしいよ。マジであんなの本気にしてんのかよ?」
「うるさいっ!」
いのりは慟哭する。
「あれが偽者だったら他の方法を考えるだけだもんっ!」
「何を言って……」
「絶対にみんな殺してやるんだっ! あたしをこんなにしたあいつらを、それを見ながら笑ってた連中も……お母さんも、殺してやるんだ。生まれたことを後悔させてから、死なせてやるんだ……。だからどいて、そこをどいてよ、文也」
そう言っていのりはむちゃくちゃに暴れまくる。俺からナイフを取り替えそうと必死になる。俺がどれだけいのりを押さえつけようと、こいつは狂ったように血走った目でもだえるだけだった。
実際、こいつは少しおかしくなっているんだろう。俺は思った。例の薬の影響もあるのかもしれない。カナエさんが麻薬か何かのように服用するだけのものではある。
「どけって言ってるのっ! 分かるでしょ? あたしは絶対に止まらないの、止まるわけにはいかないっ。あなたを殺してだって、何もかも全部ぶっ壊してやるんだ。だから文也だって容赦しない、邪魔するんだったら容赦しないっ」
「じゃあここで死ぬか?」
俺はいのりに向かってナイフを突きつけてみせる。
「おまえが何がなんでも世界を滅ぼすってんなら、ここで死ぬか? 死ぬまでとまらないんだろ? じゃあ俺がここで殺してやるぜ、なぁ?」
そう言ってやると、いのりは僅かに逡巡するような表情を見せる。息絶え絶えに、顔を真っ赤にしながら俺の持つナイフを見詰めている。その瞳には恐怖や焦りといったものはなく、純粋に今のこの状況を吟味する冷静さが備わっていた。
「どんなにしたっておまえが止まらないってことは分かるよ。でもここでとめなきゃおまえはいつかとんでもないことやらかしちまう。その前に俺がおまえを死なせておくことは、間違いじゃねぇよな」
「ふふ」
いのりは微笑んだ。
俺はその微笑の意味が分からない。そのままいのりはけらけらと、あざけるようにして笑い始める。俺はおののいた。本当に狂ったのかと思った。いのりは腹を抱え、苦しそうになりながらもげらげらと笑い続ける。
とうとう息が切れるまでそれを続けて、疲れたように息を吐き出す。はぁはぁと、小さな唇で苦しそうに喘いだ後で、いのりは挑発的な表情で俺を見詰めた。
「できるの、文也?」
俺はぞっとするのを禁じえなかった。
「文也にそれが、できるの? 知らなかったよあたし、文也がそんなに強い人だなんて。脅しでもそんなことが言えるなんて……もっと甘っちょろい、よわっちょろい人だと思ってた」
「なんだと……?」
「ねぇ文也。本気で人を殺したいと思ったことってある? ないでしょ? そいつのことを考えるだけで死にたくなって、殺したくなってしょうがないって人、いないでしょ?」
いのりは頬を緩ませる。
「あたしはいるよ。何人も。でもそいつらのうちの誰ひとりでも、あたしはまだ殺せてないんだ。殺そうとすらできたことない。いつか殺すって誓ってるだけ、生まれてきたことを後悔させてやるって、決めてるだけ。……それなのに、優しい文也にあたしが殺せるわけ、ないでしょ?」
そう言ってぞっとするほど愛らしい表情で、いのりは俺に笑いかける。俺は呆然としていた。呆然として、ただ曖昧にナイフをいのりに突きつけたまま静止してしまう。目の前にいる小さな女の子が、明確に俺とは別の場所にいることを実感できた瞬間だった。
その時だった。
いのりが鋭く手を伸ばし、俺の両目を指先で貫く。小さく細い親指と中指。それらは強い力で俺の瞳を圧迫し、俺を怯ませる。強い抵抗感と恐怖感、俺は前も見えずにすくみあがり、跳ね除けられる力のままにその場を転がってしまう。
いのりがそこに馬乗りになる。俺の右手から刃物を奪い取ろうとする。俺は強引にいのりを引き剥がして距離を取る。
「てめぇ……」
目をこする。なんとか前がみえるようになる。今のは本気でつぶしにかかっていた。いのりにもう少し心得があれば、いやもう少しだけ運が悪ければ、俺は両目の視力を失っていただろうと思われた。
「……ダメね」
いのりはゆらゆらと足りあがり、めまいを覚えるようにし頭に手をやった。
「口止めできなかった。……殺せなかった。今のが多分、最後だったのに。……クスリももう、長く持たないのに」
言いながら、いのりはその場に膝を突く。
「いのり……」
「甘いよ文也。甘い、甘い……それとも本気にしてないの? 二回もあたしに殺されかけて、それでもあたしを放っておくの?」
「放ってなんて……」
「……ここまで何もして来なかったのが、よくわかんない。赤ちゃんから血を抜いていた時とか、カエル取りに行ってた時とかに、あたしを止めなかった意味がわかんない」
「それは……」
好きにさせてやろうと思っていたのだ。それがこいつの生きる目的であるなら、こいつにとってああして狂ってみせることが一種の癒しになりうるのならば、好きにさせてやりたかったのだ。
俺はこいつに不思議と共感できてしまうのだ。色んな物を失って、代わりに逃げ場のない苦痛と不安をたっぷりと与えられ、這い回るだけのこいつの気持ちが。理解できてしまう。だから取り上げられなかった。取り上げたくなかったのだ。
これまでは
「……もうダメね」
いいながら、いのりは苦悶の表情を浮かべる。それからばたりとその場を倒れ付し、うねうねと上半身だけでその場を這い回る。苦痛に耐えるようにしながらその場に手を付くと、こちらを向いて微笑んだ。
「文也。あたし、芋虫になる」
そういった時のこいつの顔は、ある種の諦めと決意に彩られていた。
もしかしたら、そこには覚悟があったのかもしれない。自分の境遇としていることを照らし合わせて、どん底に落ちる覚悟をこいつは決めていたのかもしれない。俺にはわかる。こいつは冗談を言っているのではないと。
「文也と一緒にいられない。その本を見られちゃったから。だから最初から全部やり直す。全部ぶっ壊すのを最初から、一人でやり直す。芋虫になって、這い回るみたいにして生きて、いつか世界を壊す。みんな殺す。殺すんだ」
ぞっとするほど黒々く濁った目でそう言って、最後にいのりはちょっとだけ、少女らしい表情を見せる。
「今までありがとう文也。でも優しいのはもういいよ」
言って、いのりは這うようにして玄関口に向かった。その背中から明確な拒絶の意思を感じ取れる。引き止めて欲しいのではない。こいつは母親や俺のいるこの家よりも、これまでに接してきたクソッ垂れた日々よりも、世界の滅亡という狂った理想を優先したのだ。このまま芋虫のように這い蹲って生きながら、俺の元を離れて一人でそれを行うと決めたのだ。
ここでこいつを引き止めて、なんになるのだろうか。こいつは絶対に止まらない。止まれないのだ。それしか持っていないかのように、バカげた夢を追いかけるしかない。何もかもに絶望し、世界の滅びを祈り続ける一匹の哀れな芋虫。
「待てよ」
俺が言っても、いのりはとまらない。分かっている。こいつは死ぬまでとまらない。
「外に出るって? バカ言えよ。の垂れ死ぬだけ……いやそれすらできるもんか。いのり、バカなことは止せ。ゆるさねぇぞ」
とまらない。俺はいのりの元に追いすがり、回り込む。いのりは黒々とした目で俺の方を見上げる。そして俺の足元にそっと手を触れ、小さな口で俺の指に歯を立てた。
「ぐあっ」
俺が脚を引っ込めようとするが、いのりは必死でそれに食らいついてはなれない。人差し指から薬指まで、引きちぎれそうな激痛が襲う。俺は乱暴にいのりの頭を蹴りつけてそれをなんとか離させようとする。
最早、こいつを慮る気持ちなどなかった。ただ指の千切れる痛みから逃げる為に、俺は醜くもがいていのりを蹴りつけた。いのりは目を瞑って俺の指にくらいつく。何とか引き剥がした頃には、血液が靴下からにじんだ。
それが拒絶の合図だったのだろう。いのりはその場で座り込み、もだえる俺の脇を抜けていく。不恰好に玄関のノブに手を伸ばし、苦戦しながら扉を開けると、這うようにして俺の元から放れていった。
昔。一度だけ家出というものをやったことがある。
あれは三番目の母親のときだったと思う。三番目の母親は、二番目の母親よりもいくらか年上で、俺に対する接し方も他の母親のときと比べて何倍も上手で丁寧だった。
その母親の何が気に食わなかったということもない。彼女が連れていた姉となる娘は、俺によくしてくれた。再婚を繰り返す父親に対する失望も、この時はまだ実感として備わっていた訳ではない。ただ漠然と、自分の置かれた環境を呪い、耐え難く忌避する感情だけがあった。
当時の俺は風呂に入るのが嫌いだった。自分の家族でもない女が使った浴槽、自分の家族でもない女が体を拭いた手ぬぐい。そうしたものを使うのがこらえ切れなかったのだ。飯を食うのも同じだ。同じ食器の中の料理を口にすることが、耐え難くおぞましいことのように思えたのだ。
だから俺は風呂に入ることを嫌がっていつも不潔だったし、三番目の母親とその娘と一緒に食事を取る苦しさから、いつも腹を空かせてやせぎすだった。
それはもちろん三番目の母親が特別不浄で不潔に見えたという訳ではない。当時中学生だったその女の娘は気遣いのできる綺麗な人だった。ただその時の俺が特別に過敏で、複雑な感情を抱く年齢だったというしかなかった。血の繋がらない相手と家族という距離感で過ごすことを受け入れるだけの強さも、抗いがたい嫌悪感を言葉にして訴えるだけの無邪気さも、その時の俺はどちらも持っていなかった。
だから逃げ出した。
決して賢い子供ではなかった俺は、自分のしていることがただの癇癪に過ぎないことが分からなかった。親父に見付かり、連れ戻されることを恐れるあまり、電車を利用して遠くへ遠くへと旅立った。
目指すのは最初の、本当の母親と一緒に過ごした土地だった。そこはその時の住居から遠く離れた場所にあり、そんなところを目指せば困ることになるのは当然のことだ。路銀の計算すらまともにできず、泣きながら一晩を野宿で過ごした。
目を覚ます前にすぐに警察に引き取られ、連れ戻された家で、父は俺に向かって優しく微笑んだ。
『もう大丈夫だぞ』
俺は錯覚した。父が幼く小さな俺の苦痛を、父が的確に理解してくれているのだと。この父は、俺が自身でもよく理解できていない、自身のおかれた環境に対する憂鬱を、綺麗に取り払ってくれるのだとそう思ったのだった。
『あの女とはもう別れた』
しかし、父の口から出たのはそんな台詞だった。
『家出したのはあの女が苦手だったからだろう? それとも娘さんのほうか? どっちでも良い。飯を食う時に、おまえがなんだか気まずそうにしてたのには、気付いていたからな。でも、もう大丈夫だ』
このときだった。俺が父に尊敬以外の感情を覚えたのは。明確に、父に対して失望を抱いたのは。
時刻は正午近くを指していた。
いのりが外に出てから数時間が経過している。そのうち自分から戻ってくるだろうと考えたのは失策だった。俺のほうから探しに行って連れ戻せるかどうかはともかくとして、もとより放っておいて良いような奴ではないのだ。
癇癪を起こした子供というものは往々にして意固地になる。いのりみたいな偏屈なガキなら増して。
いのりが出て行ってからというもの、カナエさんも父も家に戻ってこない。カナエさんには連絡を入れておこうかと思ったが、あいつが後で折檻を受けることを考えるとそれも気がとがめた。
這い回るようにして道路を転がるあいつの姿を想像して、不憫に感じる。あいつだって今頃は、家を出てしまったことを後悔しているはずだった。今はまだ意固地に凝り固まっていても、いつか必ずそう思う時が来る。そうなった時、あいつの性格なら戻るに戻れないということだって考えられる。それ以前に、あんな小さな、何もできない女の子が一人でいて、悪意ある人間の毒牙にかかってしまうということは、決して杞憂ではないはずだった。
しかし、それらの心配は余計なお世話かもしれなかった。
俺はあいつの拒絶の意思に満ち溢れた表情を思い出す。あいつは俺に追いかけられることを望んでいなかった。そのことを示すために、俺の足に向かって噛み付くことさえしてみせた。奴の決意は本物かもしれない。このクソッたれた家から、歪み切った母親からも離れて、自分一人で世界に幕を下ろすというあいつの決意は、決して一過性のものではないかもしれなかった。
……だがもしそうだとして、あいつに何ができるというのか。
あいつの考えは全て妄想だ。もしもあいつが本当に一人で這い回りながら全ての素材を集め、世界を滅ぼす神とやらの召喚を試みたとして。実際に何かが起こる可能性はゼロパーセントでしかないのだった。
「……ダメだ」
どちらにしろ、考える余地はない。自分から戻る気がないのならば、こちらからあいつを連れ戻さなければならない。その時はいくらか灸を据えてやる必要があるだろうと俺は考えた。どちらにしろ、あいつのやったことは相当にふざけている。あれだけのことをされて愛想を尽かさない自分の甘さに、参ってしまうほどだった。
そう思い、出かける準備を始めようとした時。唐突にチャイムの音が鳴り響いた。
期待と共にドアを開けようとして、ふと思いとどまる。今のあいつにチャイムなど押せるものなのだろうか。なにか道具を使えば違うかもしれないが、それよりも這い蹲った状態で不恰好にドアを叩いた方が早いのではないだろうか。
そう思いながらドアを開けると、そこにはいのりが通っていた中学に身を包んだ、口元を嫌な感じの笑みに吊り上げた少女の姿があった。
「やぁどうも」
少女はにやにやとしながら鷹揚にそう言って、勝手に玄関へと入っていく。俺はその前に立ちふさがり、毅然とした声音でこう言った。
「勝手に上がるんじゃない。どこのどいつだ。言っておくが、今は忙しい。用があるなら後にしてくれないか」
「その忙しい理由というのは、あなたのかわいらしくも哀れないもうとさんを迎えにいくことですか?」
俺が目を見開くのを見て、少女は唇を嘲るような形に吊り上げる。
「驚いたようですね。無理もありません。あなたがどこまでわたしのことを知っているのかは分かりかねますが、それでもこうして姿を現したのは初めてなのですから」
「……誰だ、おまえは」
「わたしはナイヤ。あなたの妹さんとはお知り合いですよ」
「……中学の同級生か」
「そういうことにしておきましょう。あなたにそう納得していただけたのなら、このように無様な召し物を着てきた甲斐もあったというものですからね」
「いったい何の用だ? さっきも言ったが、俺は忙しいんだ」
「いいんですか? わたしを無下にしてしまって」
「知るか。話を訊いてやるから、まずはそのふざけた口調をやめろ」
「怖い怖い。……ですがあなたこそ、いったい誰に向かって口を訊いているのです?」
ナイヤとやらはそう言って肩をすくめた。困った奴だとばかりに眉を顰めて、明らかに見下した様子を見せる。ただの中学生がするものにしてはあまりにも人を小ばかにしたその態度に、俺は思わずカチンと来るものを感じた。
「なんだと……」
「自分がどれだけ矮小な存在なのか、気付いていらっしゃらないと思われる。いやはや、困りますよ。この星屑の人間とかいう種族はね。ノミのように矮小な視野しかもたない癖に、自らのことを高尚で価値のある存在だと錯覚する程度の脳味噌はあると来たもんだ。取るに足らない下等種族の分際で、幸福なことです」
「……何を言っている」
「失礼。あなたの幸福な思い違いまで訂正してさしあげるつもりはありません。あまりにも可愛そうなのでね。わたしだってあなたのような哀れな雑菌に付き合ってやる程、退屈凌ぎの手段に困っている訳ではありません」
あっけに取られている俺を見もせずに、少女は脇を抜けていく。それから鷹揚にこちらを向くと、偉そうな態度で顎をしゃくった。
「椋本いのり、いいえ、今は倉科いのりだったかな? あなたのいもうとさんの部屋を教えてください」
「……てめぇ。ふざけた奴だな、何もんだ」
「あなたのように下等なものでないことはまちがいありません」
「……ふざけんなら帰れ」
「いいえ。目的を果たすまでは帰るつもりはありません。早くわたしに帰って欲しいのならば、わたしに協力するのがあなたにとってもっとも合理的な判断でしょう。改めて尋ねます、あなたのいもうとさんの部屋はどこですか?」
「おまえがしていることは不法侵入だ」
いって、俺は両手を構えてナイヤとやらに詰め寄ってゆく。ナイヤはふんと鼻を鳴らして。
「おおっと、怖い怖い。そんなにいもうとさんの部屋を見られるのが嫌ですか? あの子が何をしているのか、知っている訳でもないでしょうに」
「これが最後の警告だ。おまえのしていることは不法侵入だ。ガキは今すぐに学校に戻れよ」
「お断りします。仕方がありませんね、あなたのいもうとさんが今、どこにいて何をしているのかをお教えします。いもうとさんの部屋を見せるのは、その引き換えでかまいません。どうですか?」
俺は思わずその場で立ちすくんだ。
「……何故いのりの居場所を知っている?」
「理由が必要ありますか? ああ、信用ならないようですね。心配要りませんよ。あなたごときにわたしが嘘をつく理由がどこにあります? この交換条件はただの思いやりだと思ってください。あなたがわたしを気持ちよくもてなせるようにするためのね」
「何故知っているのかと訊いているんだ?」
「彼女はわたしを信用しています。くたびれたあの子が真っ先にわたしを求める程度にはね」
「……おまえ。一之瀬理沙か?」
「ようやく気付かれたのですか? 会ってすぐ気付いてもおかしくないことだと思うのですが。あなたは人間の中でも特に魯鈍な部類に入りそうだ。重ね重ね幸福なことです」
「いのりに妙なことを吹き込みやがったのはおまえらしいな」
「妙なこととは。ですがそうですね、魔王の召喚方法は、わたしが吹き込みました」
「……おまえがやった出鱈目な本の所為で、あいつがどれだけのことをやらかしたと思っている?」
ついつい怒り口調になってしまう。こいつがどんな意図でいのりにあんな本を手渡したのかは分からない。しかし口ぶりからいうと、あの本がどういった内容なのかは知っていた様子だった。ナイヤと名乗る少女は嘲るように微笑みながら
「出鱈目ですか。まぁそうでしょうね、あんな本はただの出鱈目です。どこにでもいる狂信者の空想した、どこにでもある偽の魔術書」
ナイヤはあくまでも嘲るような笑みを崩さない。
「わたしはそういったものに踊らされる人間を見ると、たまらなくなるのです。神の怒りに自ら触れようとするものを見ていると、もうおかしくて。特にあなたのいもうとさん、アレは本当に傑作ですよ。愚王の目覚めを本気で試みる人間というものを、さしものわたしも見たことがなくて」
くすくすと、ナイヤは声に出して笑う。ふざけるな。俺は暗い怒りを覚えてナイヤを睨む。
「黙ってろ。おまえがあいつを笑っていいはずがない」
「おやぁ? 随分と妙なことをいわれますね。あなた、もしかしてあの子のことを少しでも理解しているつもりになっているのですか?」
「……なんだと?」
「だとしたら教えて差し上げますよ。あなたはあの子のことを何一つ知りません。あの子が抱え込んでいる絶望の、その一片たりともあなたは理解できていません」
その時ナイヤが見せた嘲りは、今まで見せたどの表情よりもおぞましいものだった。今までの癪に障るような、ただ人をなめた人間が尊大に喋っているというだけの表情ではない。実際に俺の知らない何かを知った人間が、明確な根拠を持って嘲弄しているのが理解できた。俺は思わず黙り込んで唾を飲み込む。
今までふざけているだけだったナイヤも、明確に自分がペースを握ったことを理解したらしい。ナイヤは愉快がるように俺を見て、嘲るように喋り始める。
「最初はね。あの子は自害を試みていたんです。……死はあなた方が神に対して持つ唯一の優位性です。わたしたちの役割に死は含まれていませんから。あなた方のような不完全な存在の持つ唯一の救い。ですが彼女はそれすら行えませんでした。寝たきりの体で、どうあがいても自力で死を選ぶことは、当時の彼女にはできませんでした」
それはそうだろう。俺は思った。あいつがいつ『動ける薬』とやらの悪用を思い至ったかは知らない。カナエさんのいないところであんな危険な薬に手を付けるのは、あの気弱な少女には難しかったはずだ。
「あの子はわたしに、殺してくれと頼み込みました。それを受け入れても良かったのですがね。しかしそれではあまりにも退屈だというものです。わたしはそこら辺の狂信者が書いた魔術書を彼女に差し出し、それを翻訳するように言いました。間も無く彼女はそれに没頭しましたね。下等な脳みそしか持たない人間にしては、たいしたものだと思いましたよ。そうした彼女をわたしは好きだったのですけどね」
「……それで。おまえは何がしたかったんだ?」
「あの子の意思の強さを確かめたかったのです。知っていますか? 悪魔を呼ぶのに必要なのは、あの本に書かれているようなくだらない儀式ではありません。増して、魔王の召喚にカエルの眼球が必要だなんてふざけている。それに相応しいだけの強い意志の力さえあれば、祈りは届くものなのですよ。それがどんな禍々しいものを呼び込むかは別としてですがね」
「分かるように言え。おまえはあいつの友達だったんだろう?」
「面倒なのでそういうことで良いでしょう。そのことがどう関係するかどうかは別として、そうですね。あの子が悪魔を呼ばせることで、あの子のはかない生命に少しだけ光を添えようとしたのは事実です。あのくだらない本の記述に従って、実際に悪魔を呼ぼうと足掻くあの子の姿は、本当に滑稽でしたよ。……もっとも、翻訳がなされる途中ですっかり飽きてしまったのですがね」
「……じゃあ何で今日、ここに来た?」
「あの子が本気でカエルの眼球をかき集めているのを見たからです。泥まみれになりながら沼に埋もれるあの子は、何も知らない人間たちにとっても滑稽に写るようですね。……まぁ他にもいろいろと妙なことをやっているみたいでしたから、その興味本位でここを訪れたというわけです」
話は分かった。ようするにこいつは外でいのりを見つけて、それを保護した後、興味本位でここを訪れたのだ。倉科屋敷と言えば場所はすぐに分かっただろう。
「……良かった」
俺は溜息をついた。
「どうしました?」
「……いいや」
良かった。
とりあえずあいつは今、過去の友達に再会し、彼女の手によって保護されている。その事実は俺にとって大きな救いだった。これであいつは痛みにもだえることも、さらし者にされることもない。
「あいつは今どうしてる?」
「……? まだカエルをあさってますよ」
それを訊いて、俺は信じられない心境になった。
「どうしてあいつを保護してやらない? 友達じゃなかったのか?」
「友達ですって? ああ、確かにそういったかもしれません」
「……もういいっ。今からそこにいく。おまえはとっとと失せやがれ」
「しかしわたしには目的が……」
「うるさいっ」
俺が恫喝するようにそういうと、ナイヤはしぶしぶといった様子で肩をすくめる。
おとなしく出て行くつもりになったのだろう。玄関に向かって歩き始めるナイヤだったが、ふと振り返って。
「いもうとさんは公園前の沼地にいます。道路の方ではありません、たんぽぽ公園前の沼地の方です。それから、脚の痛みを訴えていたようなので、薬の方も処方してあげてください」
「……ああ?」
「それと。あの子は成否に関わらず魔王召喚を行うまでは、それ以外の何も目に入らないでしょう。あの人目を気にする性格で、人目も憚らず沼に手を突っ込んでもがいているのですから、あれは相当な執着です。あの子から儀式を取り上げることは、あの子の全てを取り上げるものだと思ってください。儀式が成功するにせよ失敗するにせよ、彼女にとってはどちらも尊い結果であり、絶対に奪われてはならないものです」
そういい残し、嘲るものナイヤは荘厳な足取りでその場を去っていく。
最後までいけ好かない奴だなと思いながら、俺はナイヤにいわれたとおりにいのりの部屋で薬を手に入れた。それからナイヤに教えられた公園前の沼地に向かうため、家を飛び出した。
ナイヤに教えられた公園前の沼地はこの家から比較的近くにあった。這い回ることでしか前に進めないいのりがたどり着けるぎりぎりの範囲だった。
「……なんで文也がくるの?」
泥だらけで沼から引っ張り上げられ、薬を飲まされてからいのりは口にした。
「おまえの友達にここを教わったんだよ」
「りっちゃん?」
「そうだ」
いのりは少しだけ遠い目をしてそう言った。ひさしぶりに再開できた、かつての親友。あんなふざけた女と、どうしてこいつは交流を持ったのだろうか。
「どうだった?」
いのりはぼんやりとした様子でいった。流石に疲れきっているのか、家を飛び出してくる前と比べたら随分とおとなしくなっている。
「どうだったって?」
「りっちゃん。どうだった」
尋ねられ、俺は正直な感想をこぼす。
「ありゃアタマがおかしいな」
「そう」
くすくすと、いのりは無邪気に笑う。どこか嬉しそうな表情は、友人を誇るようですらあった。
「相変わらずだったなぁ、りっちゃん。……自分のことニャルラトの化身だと信じ込んじゃってるんだよ。もうしばらく会ってないから、きっとまともになってると思ったんだけどね」
「なんだ、そのニャルラトっていうのは?」
「りっちゃん。自分のこと『ナイヤ』とか『ナイ』とかいわなかった? 無帽の神、嘲るものナイヤラトホテプ」
「は?」
「りっちゃんが好きなオカルトに、そういう神様がでてくるの。尊大で賢くて、とっても偉くて、自分以外のすべてを哀れんでて、嘲ってて、たまに人間の姿でこっちに降りてくるの」
「……おまえが呼びたがってる邪神とやらも、そういう類なのか」
「……うん」
いのりはそこでぼんやりとうなずく。俺は溜息をつきたくなりながら、
「いのり……おまえが考えていることは……」
「分かってる」
静かにいのりは口にする。
「バカげてるって言いたいんでしょ? 分かってるよ。見苦しいよね、こんなの。みんな笑ってるよ、こんな泥まみれの芋虫のことなんて。指をさされて、気のおかしい人だと思われてる。というか、きっと、あたしはちょっと、おかしいんだろうね」
悟ったようにそういういのりに、俺は息を飲む。そうとも。自分のしていることを一番理解しているのは、他でもないこいつでなくてはならない。これだけのことをやらかして自分のことを客観しできていないようでは、もう本物の狂人というしかない。
すれすれできちがいに堕ちるのを免れている、こいつはまだまともだ。まともだから、先ほどあんなふうに俺のことを拒絶しなくてはならなかった。こいつが自分自身の行為を全て肯定しているのならば、俺の元から離れ、一人になる必要なんてなかったのだ。
「……さっきはごめん。文也。やらせて」
いのりはつぶやくように、うつむいたまま口にする。
「もうちょっとだから……。文也にも迷惑かけたけど、もうほとんど全部、必要なものは集まったから」
「……六百六十六個だろ? んなもん、どうやって集めたんだ」
「知ってるんだ。文也やっぱりアタマいいね。メモがあったら? あたし何ヶ月もかかったんだよ」
いのりは口元に笑みをたたえて
「地道な作業だったよ。カエル、触れるようになるのがまず大変だった。次に、殺せるようになるのが一番大変だった。捕まえて、暴れないように手足千切るか、握りつぶしてから、小さなメスで目玉をえぐるの。……大変だったよ。大変だった」
「……やっぱおかしいよおまえ」
「そうだよね。……うん、そうだと思う。でももう集まった。あと、足りてないのは、人間の奥歯だけ」
言って、いのりはポケットから一本のペンチを取り出す。
「……おまえ。どうしてそんなもの……」
「どこで獲物が手に入るか分からないからね。ずっと持ってたんだけど……。多分、最初っからこうするしかなかったんだね」
「おい……」
「大丈夫。やり方は知ってる。あとは、覚悟を決めるだけだから」
「……やめとけ。どうせ、できやしない」
「そう思う?」
言って、いのりはぞっとしそうな笑みを浮かべた。
どこかしら露悪的で、悪戯っぽい笑みだった。爛漫とした明るさとは裏腹に、その大きな瞳は煮詰めた墨汁のように真っ黒なほどに濁り切っている。
いのりはそっと自分の口の中にペンチを差し込んだ。とめようと手を伸ばした俺に、いのりは謀るかのように唇を曲げて見せた。口にそんなものを突っ込んだ状態で、ある意味でこいつは自分を人質にとっている。
「……っ」
いのりは僅かに眉を顰める。自身の奥歯にペンチをあてがったその手は、こらえがたく小刻みに震えていた。
「やめろ……危険だ」
俺はいのりの両肩に手をやった。
「正気になれ。な。自分の歯ぁ抜くなんて、んなことふつうはできる訳ねぇんだ。やめろ」
「らいじょうぶ」
いのりは舌ったらずに言う。
「こんなのは、たいしたいたさじゃらい。ちょっとこわいだけ。怖いだけだから。へいきだから」
言って、ペンチを握ってない方の右手を握り締める。
一瞬だけ目を閉じ、いのりは決意と共にそうするかのように、自分の左手に右の拳を叩きつけた。
「……っ!」
左手首が曲げられる。いのりは泣き出しそうに顔をしかめながら、ペンチを取り落として絶句した。
「おい!」
うつむいたまま、いのりは両手を握り締める。しばし痛みに耐えるようにそうしていてから、大量の血液を口から吐き出した。
べちゃりと地面に落ちた血溜まりの中には、確かに一本の白い歯が浮いている。いのりは得意そうに俺の方を見た。そっと血溜まりの歯を拾い上げると、もう一度血を吐いてから、誇らしげに言う。
「できたでしょ?」
口元に血を滴らせながらそういういのりに、俺はぎょっとするしかなかった。
「……バカだよ」
俺はほとんど泣き出しそうに言った。
「バカだよ……おまえは」
そう言っていのりの口元の血を拭ってやる。いのりはどこか満足そうにそれを受け入れていた。
いのりはベッドの下から次々に色んなものを取り出した。植物の球根。瓶詰めの眼球。袋に入った紐。腐りかけたくちばし。おびただしいほどの数の、カエルの死骸死骸死骸。
意外な程に、その死臭は近くでかいで見なければ分からないものだった。それらのほとんどが既に干からびてしまっていたというのもあるのだろう。ホルマリンに漬ける知恵が備わるまでは、彼女も相当に苦労していたらしい。瓶に浮いた眼球の数が合っているのかどうか見た目にはわからなかったが、それはいのりが正確に帳簿をつけていたらしい。
キッチンで。ぐつぐつと、鍋が煮える音が聞こえてくる。
車椅子に乗ったいのりが、切り落とした猫の頭を煮詰めている。真剣そのものの表情でそんな狂ったことをしているこいつを見ていると、なぜかいじましい気持ちになった。
「できたよ」
言いながら、いのりは湯を捨てて中から熱そうに猫の頭蓋骨を取り出す。
「結構生々しいね。匂いもすごいし」
「あんまこっちに見せるな」
「ごめんごめん」
いのりはくすくす笑った。
それから鍋を片付けて、部屋を換気する。いつカナエさんが帰ってくるのかも分からない。もっとも、いつものパターンに当て込めば、少なくとも今日の深夜までは帰らないであろうことは間違いなかった。いのりもそれを分かっているんだろう。
俺がいのりの世話を始めるようになってから、あの人は前にも増して家を空けるようになった。娘の介護という重荷から、一時的な開放感を味わっているのかもしれない。
その時間も、もうそんなには残されていないのかもしれない。俺は思った。いのりと俺の間に残された時間は、もしかしたらあと僅かなのかもしれない。お父さんがカナエさんに、今の生活に飽きてしまえば、俺といのりは赤の他人になる。それはいつか必ず、どうしようもなく訪れるのだ。そしてそれは程近く迫っているように感じられる。
「……文也?」
いのりは心配げにこちらに話しかけてくる。
「どうしたの。難しい顔して」
俺は憮然とした顔でそれを黙殺する。
「なぁいのり。おまえはどうするつもりなんだ?」
いのりは首を傾ける。
「その儀式とやらをするのは良い。……何をしたっておまえを止められないことは分かってる。だけど、もしその儀式が失敗に終わって、世界に滅びが訪れなかったら、おまえはそのあとどうするつもりなんだ?」
「決まってるよ」
いのりは淡々として
「別の方法を探すだけだよ。……この方法がダメならまた違った方法を考える。それでもダメならまた別のことをする。だから、あたしが生きているうちに、きっと世界は終わりを迎えるよ」
それからいのりは少しだけ寂しそうに笑った。
「やっぱり文也は、こんなのが上手くいくとは思ってないんだね」
「……まぁな。だけれど、別に上手くいっても良いような気はしてる」
いのりは意外そうに首をかしげる。
「好きじゃないからな。この世界のこと」
俺は苦笑した。少しだけこいつに愚痴を言ってみたい気持ちになった。日々、漠然と抱え込んでいるどうにもならない世界への愚痴を、こいつになら話せるようなそんな気になった。
「この世の中は、酷く悲惨で、理不尽で、すごくじめじめしてる。どんなところにいたって、気がついたらたいていのことは嫌いになってる。なにが飛び出してくるか分かんなくて、すごく怖くて、憂鬱だ」
「……しょうがないよ」
ぼんやりと口にされたいのりの言葉に、俺は苦笑する。
「そうかもな」
いのりの言うことはもっともだ。しょうがない。どうせ俺たちはこのくだらない星屑の上で、こびりついたコケみたいにして生きているしかないのだ。どうせ逃げられないのなら、与えられた環境を受け入れる方が合理的なはずだ。
逃げられないから我慢して、適応して、限られた中でしょうがなくがんばっているのだ。でもだからこそ、たまに疲れると、どうしようもなく願ってしまう。何もかも全部ぶっ壊れて、こんなくだらない生活から俺を解放してくれないかと。
「文也みたいな人でも、そんなこというんだね」
「そりゃどういう意味だ?」
「五体満足で、すごいお父さんがいる。勉強もできて健康で優しくて……そんな人でも、あたしみたいなことを考えるんだなぁって」
言いながら、いのりは台所の処理を終える。あとは猫の残った首から下を俺が処分してやれば完璧だろう。
いのりの言うことはもっともだ。こいつみたいな本当に弱音しか浮かばないような状況にいる奴からすると、俺みたいな恵まれた奴の弱音は、片腹痛くすら感じるのかもしれない。
良い家柄に良い教育。約束された将来。
「バカ言えよ。結構胸糞悪いんだぞ、社長の息子ってのは……。おまえ、ネットばっか見てるんだからちょっとは知ってるだろ、俺の親父のこと」
「……そうだね。ごめん。分かるよ、文也だってやっぱり、死にたくなったりすることってあるんだね」
「おうよ。あって当たり前だ」
「全然違うのにね、あたしたち。考えてることは一緒なんだね」
いっていのりはおかしそうにくすくすと笑う。単純に、ほの暗い感情を共感できたことを喜んでいるようだった。
しかしながら、こいつと俺では、日々味わう憂鬱の濃度が違うはずだ。俺はこいつのように本気で世界を滅ぼそうだなんて、バカな妄想を抱いたりしない。そんなものにすがりつかなくても、卑屈な感情とは上手く付き合っていける。だがしかし、それでもこいつの絶望に、少しだけ共感してやることはできた。
だから協力してやれる。
その邪神召喚の儀式とやらに。狂人すれすれの茶番に付き合ってやれる。
「……手伝ってやるよ。その邪神召喚とやら」
俺が言うと、いのりは驚いたようにする。
「本当にっ?」
「ああ。いまさらだが、おまえ一人じゃ危なっかしくてしょうがない」
「ありがとうっ!」
屈託のない笑み。爛漫と輝いたその瞳からは、しかしどす黒い濁りが消えることはない。
「大好きだよ文也。一緒に見ようね、世界の終わりを……。生まれたことを後悔しながら、アタマがおかしくなって無様に死んでいくあいつらの姿を……一緒に見てようね。絶対に、絶対に終わらせるから。みんなみんな死ぬんだ……壊すんだ。うふふ」
本心から嬉しそうに笑い、世にもおぞましい妄言を吐いてはしゃぐ姿に、俺は哀れみを感じるしかなかった。それが叶わない願いだと、分かってしまっていたから。
ある休日。足りていない分のカエルを漁る。
眼球を集めるいのりの帳簿によると、残り二十七つの眼球が必要なことが発覚したらしい。どうして奇数になるのかと訊いてみたら、摘出の際にミスがあったということだった。
自分で行くといういのりだったが、もちろんそんなことをさせられる訳もなかった。もとより、あの劇薬はリハビリを想定して処方されたものではない。副作用として一時的に歩けるようになってしまうだけで、ただの強烈な痛み止め、いっそ神経毒といってしまってもかまわないものだ。
パンクした車輪で車を走らせれば無理が来るように、変形した脚ではそう長くは歩けない。使い続ければもう一度骨が皮膚を食い破る日も来るだろうし、また正常に歩けるようになる見込みは確実になくなっていく。もっとも、いのりがそんな希望をはなから捨ててかかっているのは見ていれば分かることだったが。
沼に脚を突っ込み、カエルをひったくっては握りつぶし、袋に詰める。
やってみれば分かることだが、カエルを握りつぶすというのはぞんがいに神経のいる作業だった。動いているもの、生きて表情を見せるものをぐしゃぐしゃにするというのは、とんでもなく気の疲れる作業だった。
作業を終えて、俺は汗をかきながら沼からあがる。一息つくと、どこか恐れるような表情でこちらを見ている少女の姿を発見した。
「倉科くん……何やってるの」
金田だった。私服姿で身を引いて、こちらから僅かにあと退るその姿は、なんだかたわいもないもののようにも見える。俺は苦笑して財布を取り出した。
「来てくれたか」
「そ、そりゃあ」
「悪いな。こんなこと頼んで……クラス中に言ってみたんだが、おまえしかいなくてさ」
「……うん」
言って、金田はポケットから小さな小瓶を取り出す。
そこにはいっていたのは、一本の白い奥歯だった。小柄なその歯は金田が小さい頃集めていた自分自身の乳歯のはずで、俺は金銭と引き換えにそれを受け取ることになっていた。
学校を受け渡し場所にしなかったのは、こいつ自身がそれを嫌ったからだ。おそらく、そんな奇妙な売買に関わっているのを知られたくなかったからだろう。言い値で買い取る上にそんな条件を飲んだのだから、もう少しきちんと渡してくれても良いだろうに。
何枚かの万札を握らせると、金田は放り投げるようにして乳歯をこっちに渡してくる。
「サンキュ」
俺は微笑む。金田は気持ちの悪いものを見る目でこちらに視線をやった。
「ねぇ倉科くん……もしかしたアタマおかしくなっちゃった?」
「さぁな。変な奴の影響で、ちょっとばかし当てられたのは事実かもしれないな」
「……あたし。これから金田くんのこと、そういう人だと思うことにするから。学校でも、もう話し掛けて来ないでね」
「ははは」
できたらそっちからも話し掛けて来ないで欲しかった。
どっちにしろ、これから俺は学校では酷い笑いものになるだろう。元からあれだけ目立っていた上に、あちこちに『乳歯を取っているやつがいたら、それを売ってくれないか』と頼み込んで回ったのだ。さぞかし気持ちの悪い奴だと思われたことであろう。
得意の聞き耳で俺の奇行を知った金田が吹っ掛けてきてくれなかったら、全ては無駄になっていた。恥をかいて、それで終わりだというのではあまりにも悲惨すぎる。
「それじゃ。俺はこれで」
言って、手を振って分かれようとする。金田はげんなりとした顔で
「……最後にこれだけ聞きたいんだけど。倉科くん、何をしようとしているの?」
そう尋ねられ、俺は肩をすくめて答える。
「くだらない世界を滅ぼす」
自分で言っておかしくて、つい口元で笑ってしまう。
その微笑みが不気味だったのか。金田は不気味がるように眉をしかめていた。