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 二日おき六時に更新

 いのりが眠りに付くまで傍にいてやって、俺はそっと自分の部屋に戻って泥のように眠った。

 あいつの看病をすることは、意外なほどに体力がいった。あいつがなにを求めてくる訳でもない、こっちから話しかけなければ遠慮して言葉も発しないくらいだ。だがそれでも、脚を撫でてやりながら痛がって苦しむあいつを見守ることは、酷く心身をすり減らす。

 本気で苦しんでいる奴の傍にいると、こっちまでつらくなってくる。動いていないのに嫌な汗をかき、口の中はざらざらと嫌な渇きに見舞われる。

 そんな訳で、翌日いつもの時間に目を覚ますのはつらかった。痛む頭を押さえてあいつの部屋を通る時、今も寝ているあいつをそれでもうらやましいとは思えなかったけれど。

 リビングルームでは、カナエさんが一人で突っ伏すような姿勢でイスに座っている。中学生の子供がいることが信じられないほどに綺麗な背中を、机の上にだらりと投げ出している。

 「カナエさん?」

 俺が声をかけると、顔をあげたカナエさんの顔は土色によどんでいた。にやりと裂けるような表情を浮かべて、妖艶にこちらに笑いかけてくる。

 「おーはぁよう。ブンヤくん」

 「文也です」

 俺がいうと、カナエさんは「きひひっ」と奇妙に笑って、俺に袋入りの粉末を差し出してくる。

 「文也くんもどう? 今、お父さんいないでしょ?」

 「なんですか、それ」

 そう言えば、父は今朝は早くに出かけていたんだったか。流石にいつまでも仕事をサボってはいられないのだろう。

 「素敵なお薬」

 「はぁ?」

 「やってらんないよ、そろそろ。こうでもしなきゃやってらんない、文也くんだってねぇ、いやなことの一つもあるでしょう、ねぇ」

 どうやらヘンな薬を服用し、興奮しているといった様子だった。このあばずれが、俺はそう言ってやりたい気持になる。あんたがラリってる間に、娘がどんなに苦しんでいたか。

 「遠慮しときますよ。……今日は朝食はお休みで?」

 「作ろうか?」

 「いいですよ、適当に食いますから。……カナエさん、ちょっと気が大きくなってません?」

 「そうかな……、でへへ。そうかもっ」

 少女のような笑みを浮かべる。白雉と形容しても良いかもしれない。

 「同情しますよ、親父がとんでもない変態ってことは俺も知ってますから。だからってそんなクスリは良くないんじゃないですか、娘さんを叱れなくなります」

 「いのりぃ? あいつは良いわよねぇ、寝てりゃ良いんだからさ」

 からからとカナエさんは笑う。

 「おかーさんだってなぁ、昔はあんなふうにつるつるしてたんだぞーっ。だはははっ」

 言ってカナエさんは立ち上がり際、座っていた椅子をこかしてしまう。そのまま獣のような足取りでふらふらとその場を訪ねると、「おぅーっす、おかーちゃんだぞーっ」娘のいる部屋に向かって大きな声で叫び、それから泡を吹きながら階段へ向かう。

 途中、二階ほどすっころびながら、どうにか階段を上り終えるまで、俺が傍にいてやらねばならなかった。

 「文也くん、ありがとう」

 カナエさんはでへへと幼児そのものの笑みを浮かべる。

 「文昭さんにはこのこと内緒ね。だはははっ」

 俺は溜息を吐いた。あばづれなりに理性があり、学はないが賢くそれゆえに父の正妻にまで納まった女が、クスリ一つでこうまで崩れてしまうのだろうか。

 こういうカナエさんの本性を、父は知っているのだろうか。

 俺がだらだらと階段を降りると、両手だけを使って器用にこちらに這ってくるいのりと出くわした。いのりは俺の視線から逃げるように目を伏せる。

 こうしているのを見ると本当にただの芋虫だ。俺は思った。こいつを見るとこういう背徳的な思考を禁じえなくなる。そのことが、俺をしばし一方的に苛々させる。

 「どうしたんだよ?」

 ベッドからずり落ちて、ここまで一人で這って来ていたのだろうか。扉を一つ開ければ良いだけで、来られない距離ではないかもしれない。しかしそれでもいのりは全身に汗をかいていたし、顔は蒸気してほんのりと赤くなっていた。

 「その、クスリ」

 いのりは机の上に置かれた、カナエさんが俺に差し出したまま放り出した注射器を指差す。

 「ちょうだい」

 「ちょうだいって、おまえ……」

 盗み聞きしていたのか。いや、単純に部屋に向かってカナエさんが叫んだことで、母親がなにをしているのか悟ったのかもしれない。あんな生活をしていれば聞き耳だけは随分と上手くなるんだろう。

 俺の返事を待たずに、いのりは傍にあったイスを介して机に這いよると、器用に手を伸ばしてクスリを奪取する。その動きは植物に張り付いた虫のそれにもよく似ていた。

 背の低い机だとは言え。脚をまったく使えない割に、達者なものだ。いのりはそのまま自分の部屋に戻っていこうとする。あの様子ではベッドに登ることさえままならないだろうに、俺はすかさず祈りの後をつける。当然のことだが、一秒もかからずに追いついた。

 「おい。いのり」

 俺が言うと、いのりはこちらに視線を向けて

 「これがあるとね、痛くなくなって。歩けるの。……本当に死にそうな時だけの、ちょっとしか処方されない一番すごい奴なんだけど」

 少しだけ嬉しそうにそう言ってはにかむ。

 「でもお母さんがたまに使ってて。めったに手に入らないんだ。これ」

 その発言は強烈だった。いのりにとってそのクスリがどれだけ重要なものなのか、容易く想像がついてしまう。そりゃそうだ、何せ歩けるクスリ。失ったものを一瞬だけ手に入れられる魔法の薬だ。彼女にとって大事なものでないはずがない。

 いや。だからって。俺は思う。これを本当にこいつにもたせていて良いのか。そう考えている俺に感づいたのかそうでないのか、いのりはさっとその薬を自分の懐に隠してしまう。

 「ベッド。一人で上がれるか?」

 投げやりな声に、いのりは小さく首を振る。俺はいのりの体を持ち上げてベッドに寝かしつけてやる。いのりは小さな声で「ありがとう」とつぶやいた。


 娘の痛み止めを快感目当てに服用するアバズレ女。マスコミなんかに垂れ込んだら、一ヶ月は持つ話題だろうな。俺はぼんやりとそんなことを考えた。

 歪みすら感じるほど愚かな本質に、大企業を収める父にも取り入れる美しさと、ある種の狡猾さ。娘のいのりと似ているところがあるとすればその人形めいた容貌と、驚くほど不安定なメンタリティの二点だろう。

 まともな母親をしているとは言えないカナエさんだったが、それでもいのりに対する気まぐれな愛情はあるのだろう。いのりは一人で生活ができない。まったく滞ることがない訳ではないが、いのりの生理的な世話も多くは母親がしている。しばしばリンゴや梨なんかの果物を食わせてやっているところにも出くわす。そしていのりは、あの母親のことを間違いなく愛し、同じくらいには憎んでいた。

 カエル道を迂回するようにして学校にたどり着く。俺が教室の扉を開くと、その一瞬だけ教室中の視線がこちらに向けられるのが分かった。

 ほんの一瞬のこと、ふつうなら気のせいだったことにしてしまうだろう出来事だった。しかし俺は同世代の人間にこうした態度を取られることに、ある種後ろ向きな覚悟を持っている。こんな風な視線を向けられることにも、いくつか心当たりがない訳ではないのだった。

 「ねぇねぇ。倉科くん」

 そう言って猫のように擦り寄ってくるのは、いつもの軽薄な笑みを浮かべた金田だった。獲物に擦り寄る猛禽類のような脚運びと舌なめずりに、俺は溜息を吐いた。

 「なにかな?」

 「倉科くんのお父さんってさ、やっぱあの人な訳?」

 「誰だよ、そのあの人って」

 「すっごい会社の社長なんでしょ? 会長? しーいーおー? とにかくそんな感じ」

 「そうだけど」

 俺はすんなりと認めて、それから微笑んだ。金田は何が嬉しいのか「おーっ」と感動したような声をあげた。

 「そうだよね。私、倉科くんがお屋敷から出てくるの見たもん。いや、こんなド田舎にこれ見せよがしにあんなでっかい家が建つもんだからさ、本当もう目障りっていうか……」 

 「悪かったね」

 微笑んで応じる。

 「俺だって恥ずかしいんだよ、あんな別荘……。できれば父さんのことも、隠しておきたかったんだけどね」

 「そりゃ無理ってもんですよ、お坊ちゃん」

 金田はくすくすと笑う。

 「私ら噂話には飢えてるからね。町中の話の的だよ、倉科くんちのこと。また再婚して、それでこっち来たんだよね、あの絶倫社長。もう五回目なんだって。ワイドショーでやってたの、私見たよ。すごいね」

 「やめてくれよ」

 笑ってみせる。俺のその笑い顔の歪さが受けたのか、金田は嘲弄するようにくすくすと笑う。

 「ごめんごめん。……それで、その次の再婚相手ってのは、雑誌に乗ってたあの女の人なのかな? 結構若かったよね。熟女好きだって言われてるのにな、倉科くんのお父さん。意外だよね」

 「……勘弁してって」

 「でも私。あの女の人のこと知ってるよ」

 俺は蒼白になる。金田は頬を裂けそうなほど引きつらせて、身を乗り出しながら言った。

 「私の中学のころの後輩のお母さんなんだよ、アレ……。ねぇ倉科くん、もしかして椋本さんときょうだいになっちゃったのかな? あんな不幸の化身みたいな女と、倉科くんみたいな絵に描いたようなお坊ちゃんがきょうだいって……傑作だよね」

 俺はとにかく拳をあげないことに必死だった。ここでの振舞いが大切だ。この場面での振舞いに、今後の学校生活がどれだけマシで済むかがかかってくる。ここで大衆の前で必要以上にうろたえたり、女を殴るような真似をするのは最悪だ。そう強く自分に言い聞かせる。

 金田が口にした『椋本』というのは、カナエさんの、そしていのりの旧姓だった。俺は歯噛みして金田の方を見る。金田は猛禽類の笑みを浮かべてこちらを見ている。捕らえた獲物をいたぶる猫の顔。俺は抵抗できずされるがまま。

 「椋本さん……やっぱまだ歩けないんでしょ? 後輩から聞いてるもん、まだ学校来ないって。……カワイソーだよね」

 「……そうだな」

 「椋本さんには優しくしてあげてるの? 倉科くん、優しいからきっとそうだよね。かわいそうでしょうがないんでしょ、私だってそう思うもん。……私の後輩だった頃からいじめられててね」

 金田はニコニコとしている。

 「その子が椋本さん……もう倉科くんと同じ苗字だから、いのりちゃんかな? そのいのりちゃんをいじめ始めた理由ってのがさ、また傑作で。そん時その後輩が好きだった男子が、いのりちゃんのこと狙ってたんだよね。だからってなんも分かってない相手にイジメとか、その後輩もそーとーだと思わない? 女の嫉妬、怖いよね」

 俺は俯いて拳を握り締める。金田は容赦するそぶりを見せない。周囲の野次馬の俺を見る目が変わっていく。金田と一緒に俺をあざけるような視線から、哀れむようなそれに。こいつらにとっても、金田は要注意人物なのだろう。

 「階段降りてる最中に思いっきり背中押したりしてたんだって。陰湿でいながら直接的って感じかな? 怨みというよりはただの子供の癇癪だったね。……まぁ私も、後輩に誘われて見に行ったりしたんだけどね。傍観者ってどのくらいから共犯者になるのかな?」

 「さあな」

 「あんまり気分よくなさそうだね。でも大丈夫だよ、いのりちゃんいじめてた後輩。ちゃんと報いを受けたから」

 「……どういうことだ?」

 「鑑別所送られたって。中等初期で、人殺したりしてた人たちと何ヶ月か共同生活……地獄だよね。それで今はもう、どっか知らないところにテンコー。バカだよね」

 金田は嘲るように笑う。

 「その子がね。階段降りてるいのりちゃんの背中を、いつもみたいに蹴り飛ばしてやったらさ。むちゃくちゃぶっとんだらしいんだよね、いのりちゃんの体。脚から落っこちる時すっげぇ嫌な音したんだって。バキバキバキ……っ、てさ。いつかそうなるって、ふつう予想できるでしょ、って感じなんだけど。まぁ嫉妬に目ぇくらんだんだね。かわいそうに、いのりちゃん、気絶してて、両脚ともありえない方向にねじまがっちゃってさ。その子も流石にヤバいって思ったみたいでさ、どうしたと思う?」

 「……知るかよ」

 「とりあえず、傍にあった掃除道具入れに突っ込んだんだって。そうしたら、一応その場だけは騒ぎにならなくて済むっしょ? それで私に相談して来たの。目ぇ覚めたら適当に脅して帰させたら? って提案したんだけど……」

 胸糞が悪い。俺はそのころにはもう、金田に対する嫌悪感を隠せていたかどうかも分からない。野次馬どもは声を出すこともできずに俺たちのことを見守っている。金田は腹を抱えて笑いながら、爛漫と目を輝かせて顛末を語った。

 「それでいのりちゃんのこと、見に行ったんだけど。ヤバいのよ。骨折れてるってのは想像できたんだけど、折れた骨がね、見えてんの。分かる? 白い骨が、折れて、皮膚突き破って外から見えてんだよ? そこまで派手に折った状態で、掃除道具入れなんてとこにぶちこんで、何時間も放置してたんだから……後遺症、残るよね、ふつう。言い訳、しようがないよね。どう見ても上昇酌量の余地なしっていうか、人生終わりって感じでさ。後輩、顔真っ青でさ。私に向かって泣くんだよ、どうしようって……。知らないよって話だよね。私、つい笑ったよ。そいつも、いのりちゃんも……どっちも哀れでおもしろくってさ。まぁ後のことは知ってのとおりだね」

 いのりは歩けなくなり、いのりを蹴った女は報いを受けて鑑別所行き。収まるべきところ収まった、事件は無事に処理された。

 あまりの邪悪さに、俺はどんな感情を抱いて良いのかも分からなかった。怒ろうにもむなしくて、ただただ胸糞が悪い。俺は聞こえないように歯軋りをするしかなかった。吐き気を抑えて、うつむいてる以外になかった。

 「いのりちゃん……まだ学校行けてないんだね。さぞうらんでるだろうな、あいつのこと。……うふふ、今はもう、誰も知らないところまで逃げてるみたいだけど。ちゃんとやり直せたかな、あの子は。ツミを償って、ハンセーして、幸せな未来に向かって今も努力しているのかな……。あははっ」


 その日は酷く気分の悪い一日だった。金田の話の所為である。

 授業中、休み時間中……俺を見詰める教室の視線は好奇と嘲りの入れ混じったもので、これまでのどんな環境で受けたものよりも奸悪だった。ワイドショーでお馴染みの絶倫社長の息子というスキャンダルに、町内で有名な薄幸の少女の義理の兄という要素が加わったのだ。好機の目、あらぬ噂に晒されるのは、半ば当然だとさえ言えた。

 俺は校舎前に設置された自動販売機を、怒りに任せて蹴り飛ばす。そうするときーきーきーと、自販機は狂ったように音を立て始めた。それがまた腹立たしい。機械の分際で人に助けを求めて泣き喚くそいつに、俺は唾を吐きかけてその場を去った。

 最早何のためにこんなに苛々しているのかも分からない。金田の胸糞悪い話が原因なのは確かだったが、そうだとしても、いのりのことでどうして俺がここまで心を痛めなければならないのか。

 俺はただ、適当に自分が疲れない程度に、適当にあいつに優しくして薄っぺらい哀れみを癒していれば良いはずだった。あいつの為に手間をかけてやることはあっても、あいつの為にこんなに不愉快になることは、あってはならないはずだった。

 それが、なんだこの体たらくは。俺は舌打ちする。腹が立つ、腹が立つ、腹が立つ。どうして金田の奴を一発殴ってこなかったのだろうかと、それが惜しくてならない。平気な顔をして、適当にあわせてへらへらと笑っていなければならなかったはずなのに。どうしてここまで激しい感情を持たなければならないのか、もどかしかった。


 家に戻ると、玄関でカナエさんと顔を合わせた。カナエさんはばつが悪そうに俺のほうを見ると、測るような笑みを浮かべてこんなことを口にする。

 「文也くん……学校は終わったの?」

 「ええ。終わりました」

 イライラが顔に出ないよう、勤めて俺はそう言った。

 「カナエさんの今朝のこと、黙ってますから」

 「……え。え、えぇ」

 カナエさんは安堵したようにそういった。

 「ごめんね、いつもはあんなんじゃないの。……迷惑かけたわね」

 「いえいえ。……それよりどこに行くんですか?」

 「ちょっと気晴らしに……明日の朝には戻ると思う」

 なんの気晴らしなのかは、今更聞くまい。俺は一瞬だけ、カナエさんに同情するような気持ちにもなった。家にいれば親父の妙な性癖につき合わされ、一歩外に出ればあの倉科文昭の五人目の妻だと指をさされる。それは父の財力にあやかるための、カナエさんが自ら選択した、選択せざるを得なかったことだ。それでもたまにこうして、薬に頼り、気晴らしに出かけなければならない時はある。

 だがしかし、気晴らしに出かける逃げ場がある分だけ、よほどマシだとは言えそうだった。

 カナエさんを見送った後。机に座ってだらだらと勉強なんかをやって、ただただ時間を消化する。こうしているのは楽だと思う。何か一つのことに没頭しているうちは、いやなことを考えなくて済むからだ。

 ふと問題を解く手が途切れると、俺の心はあらゆる不安と苛立ちに支配される。いつか必ずそうなるとされている、親父の椅子を次ぐ未来。幼いころはただ誇りでしかなかった父の存在が、今ではとんでもなく得体の知れないものに思えた。あの途方もない巨大な存在である父を取り巻く環境に、いつかは俺も放り込まれると思うと、怖くてどうしようもなくなるのだった。

 昔は大きな会社の社長である父が誇りだった。父の息子に生まれたことが俺のアイデンティティの多くを占めていたし、だからこそたびたび行われる環境の変化に耐えてきた。仕事の都合で、母親の都合で、父の気まぐれで……めぐるましく変わる人間関係の中を、あの偉大な父の息子であるという自信一つで乗り越えた。

 子供じみている。途方もなく子供染みている。テレビで、学校で、町で聞こえる囁き声で……父のことを否定されるたびに、俺は自分の大事なものを奪われるような恐怖を感じてきた。薄っぺらい皮を引き剥がされて、矮小で醜悪な自分自身を引きずり出されるような、最悪な心地がした。

 有り余る金に輝かしい将来。全てを持っているお坊ちゃんであるはずの俺の心は、哀れなほどに空虚で何もない。ただ鬱々として、なににぶつけて良いのか分からない苛々をもてあますだけ。こんなくだらない不快感なら、退屈な自己憐憫なら、ないものにして恵まれた境遇を前向きに享受するのが合理的だと、理屈では分かっているはずだったのに。

 ふと。家の門が開く音がした。

 カナエさんが戻ってきたのかと思った。

 そうでないことに気付いたのは、深夜の二時ごろ。家の電話がなる音がしてからだった。ようやく眠れそうな気がしてベッドで横になっていた俺は、ふらりと起き上がって受話器を手に取る。すると、酷く迷惑そうな若い男の声が聞こえてきた。 

 「交番のものです。倉科さんのお宅でしょうか?」

 嫌な予感を感じつつも、俺は「そうです」と答えた。警官はそこで溜息のような音を立てると

 「すぐにこちらに来ていただけますか? 倉科いのりさんがいらっしゃいます。お兄さんの方でしょうか? こんな夜中に女の子が一人で倒れて、痛い痛いって、いいながらもがいているんです。嘔吐もあって。一人では歩けないみたいですから、どうか引き取りに来て下さらないでしょうか」


 交番に行って、いのりを引き取る。パジャマのままで出かけていたいのりは。頭から泥塗れになって苦しげに横になっていた。傍には大きな布製の鞄もある。警察に何度も頭を下げて、いのりを後ろに背負って歩き始めた。

 咄嗟のことで、車椅子を持ってきてやるのを忘れてしまった。こんな見通しの悪い夜に、扱いのなれない俺が押してやるのも危険と言えばそうなのかもしれなかったが。俺はいのりのかわいそうなほど軽い体を背負って歩く。いのりはしっとりと汗ばんだ手で俺の肩に必死にしがみ付いていた。

 「……迷惑かけてごめんね、文也」

 いのりは行った。俺は答えない。かけてやるべき言葉を捜して、疑問を口にする。

 「こんな時間にどこに出かけてたんだ、んな泥まみれになって」

 「……ごめん」

 「俺は質問をしてるんだよ。どうしたんだ」

 「…………」

 言いたくないのか。俺は溜息を吐く。ふと、いのりが携帯していた布製の茶色い鞄に目を落とした。

 手提げ袋みたいな簡素な形状の鞄だった。学校に通っていたころに使っていたもの、そのままだろう。俺がそこについ手をやろうとすると、いのりが懇願するような声で「やめて」とか細くいった。

 「なんだよ」

 「……見ちゃダメ」

 「どうしてもか?」

 俺が言うと、いのりは途端に黙り込んだ。自分が倒れて引き取りに来てもらった都合上、こう言ってやれば強く出られないのは分かっている。意地悪なやり方だったが、しかしそれだけ、鞄の中身は重要だった。

 こいつと初めて会った日のことが思い出される。薬を服用し、脚の痛みを麻痺させて、赤子の血抜きを行っていたこと。

 この夜だって、いのりはあの薬を飲んで外に出かけていたに違いない。そして効き目がどれだけ続くのかを図りかね、一人で歩けなくなって警察署に運ばれた。どれだけ危険なことを自分がしていたのか、分からない訳ではないだろう。

 こいつがそれでもしなければならなかったこと……きっとろくなことではない。それはきっと、類まれなる環境で培われた陰鬱な偏執で、狂気染みた行動だったに違いない。

 「見るぞ」

 「……」

 断れない、そうだろうと思った。家で寝たきりのこいつは、自分が誰からも迷惑がられているものと信じている。そうした不安感がいのりを卑屈な、ただただ従順な性格へと貶めていくのだ。

 だがしかし。こいつのしていることを知って、俺はどうしようというのだろうか。叱り付けてやめさせる? いまさらそんな兄ぶった殊勝なことをしようとは思わない。ただの好奇心? それが近い気がする。こいつの心に開いた深く暗い穴、俺はそいつに首を突っ込もうとしているのだった。

 「あ……っ」

 俺が勝手に鞄の中に手を突っ込むと、いのりはそんな声をあげた。鞄の中で手に触れた感触は二つ。おそらくは袋に詰まっているであろう硬い固形物の感触と、ぞっとしそうな冷たさと柔らかさの、ぶよっとした不愉快な感触の何か……。

 「なんでぇ、これ……」

 月明かりに照らしてみると、ひとつは本当に何の変哲もない植物の球根であることが分かる。袋に入って六個……園芸でも始めるつもりなのだろうか、こいつは。

 しかしもう一つが良く分からなかった。真っ黒で冷たい、ぐにゃりとした感触の物体。スーパーなどで手にする生肉のそれよりも、ずっと柔らかくどろどろとしていて、そして奇妙なほどにひんやりとしている。じっと握っていると、内部で何かが生きているかのように、ぐねぐねと疼くように揺れるのだった。

 目を凝らすと……それが無数の手足の集まりでできていることに気がついた。月明かりに照らされたそいつと目が合う。それはびっしりと袋に詰められた大量のカエルだった。水気を含んだそれは夜の外気に晒されて冷え、ほとんどが死に絶えてうつろな目をしている。それらをぞんざいに突っ込んだビニール袋の口を、不器用な硬結びでぎちぎちに締め上げているのだった。

 「ひえっ」

 俺は思わずそれを取り落としそうになり、なんとか袋に戻した。背後ではいのりが不安そうに震え、泣き出しそうに嗚咽している。こんなものが入っているのならば、見られたくないと思うのは当然の感覚だ。

 「……文也」

 いのりがか細い声で言う。

 「見ちゃった? 気持ち悪かった」

 「ああ、最悪だよ」

 俺ははき捨てるように言った。

 「嫌いになった?」

 「ああ?」

 「あたしのこと、嫌いになった? ……もう、助けに来てくれない?」

 ……俺は一瞬、返答に迷う。どう答えて良いのか、どんな感情を持ってそれに答えるべきなのか、俺は一瞬だけ分からなくなった。

 「別にそんなことないよ」

 かろうじてそう答える。いのりは腕の力を僅かに強めながら。

 「本当に?」

 「本当だ」

 少女の体の柔らかさを感じる。小さくかぼそい息遣いに細く華奢な四肢。冷たく震える体で、離れまいと必死に俺にしがみ付いてくる。

 そのいじましさに、俺は間違った感情を抱いてしまいそうになる。それは最初から、最初にそれを感じたときから、持たないものと決めていた想いのはずだ。

 哀れむのは良い。一方的な哀れみであれば、俺はこいつに対していくらでも注ぐつもりだった。しかしエゴイスティックなその感情の意味を錯覚し、まったく違う何かに当て込むようなことだけは、あってはならないはずだった。なにせそれは絶対に誰も幸せにしない。そういくら自分を律しようとも、奥深くに沈めたはずのその感情は、俺の心に浮上してくる。

 「文也……」

 いのりはか細い声で口にする。

 「文也がいなくなったら、あたし、死んじゃうと思う。ねぇ文也、離れないでね。絶対に、何があっても、あたしからはなれないでね。利っちゃんみたいに、あたしを見捨てたり……しないでね」

 「ああ。分かったよ」

 無理だ。俺は思いながら言う。

 「約束するよ」

 なにを言っている。俺は思った。こいつはほんの少しの付き合いだ。父があのあばずれに飽きて、次の相手を見繕うまでの……それはおそらく、今の俺にはほんの短い、過ぎれば忘れるような時間だけ……。俺はこいつの傍にそう長くはいてやれない。だからこそ情は移らないようにする、何も持たない哀れなこいつに、過度な優しさは与えないようにする……そう決めた。決めたはずなのだ。

 「ありがとう。文也」

 いのりは嬉しそうに俺の頭に顔を押し付けてくる。それから少女のようにえへへと救われたように微笑む。

 「大好きだよ」

 俺は気が狂いそうになる。背中にまとわりつくいとおしいぬくもりを、乱暴に振り払ってしまいたくて、たまらなくて、でもできなかった。


 ベッドの上にいのりを放り出し、体を拭いてやるところまでやってやった。

 いのりはほんの少しだけぐずったような様子を見せたが、やはり体にまとわりつく泥と汗の感触が心地悪いのか、最後までされるがままだった。

 ……今この家に、おまえを守る奴は一人もいないんだぞ。

 俺はそう強く叫んでしまいたかった。この心の暗いところに芽生えたおぞましい願望。ただの種子だったはずのその欲望は、小さくだが芽吹いて明確な想像を俺に与える。それは驚くほどおぞましく、気持ち悪く……なにより情けなのないことだった。

 「文也……?」

 俺の手が止まっていたからだろう。いのりはいぶかしげにこちらを見詰めた。ぱちくりと、何の警戒心も抱いていないその表情。俺はいのりの背中を、パジャマに手を突っ込んで拭いてやりながら笑顔で首を振った。

 「なんでもない」

 できるだろう。俺は思った。俺の考えていること全て、俺は今すぐにでも実行に移すことができるだろう。何せこいつはあらゆる意味で俺に逆らえない。抵抗することも誰に助けを求めることもできない。俺はこいつにとっての守護者にも悪鬼にもなりうる。そのことを知りもしないで信頼したように体を委ねるこいつに、俺は苛立ちすら覚えるのだった。

 「文也。なんかヘンだよ……。ごめん、やっぱり怒ってるかな? こんな迷惑かけちゃって……」

 「いや。良いんだ」

 俺は答える。背中を拭き終えてやると、いのりは自然な動作で転がって自身の前身と、そして四肢を晒す。地獄のような苦痛を刻まれたその両足を、華奢な白さごと俺に差し出してくる。

 「……もしかして。文也、困ってる?」

 おずおずと切り出したいのりのその台詞に、俺は思わず目をむいた。いのりは少しだけ驚いたように目を大きく開けると、少しだけ愉快そうに、しかし恥ずかしそうにはにかんだ。

 「ごめん。あたしたち、男の子と女の子だった」

 もういいよ……、といのりは優しげにそう言った。俺はあっけに取られた。

 こいつ。俺は驚きと共に酷く新鮮な気持ちになった。俺はコイツにこいつに見透かされたのだ。それも、俺自身にとってもあまりに曖昧な、芽生えたばかりのその感情を。卑屈で魯鈍で、何も考えていないようなこいつに、俺は弱みを見せてしまったのだ。

 俺は悔しく、納得がいかず。俺はいのりのパジャマの前を乱暴に開く。「あ……っ」いのりが顔を僅かに赤くしてこちらを見詰めた。

 「文也……」

 「るっせぇな」

 俺ははき捨てるように言った。

 「誰がおまえにどぎまぎするかって」

 白く繊細なその肌に、俺は見入ってしまう。日に晒されていない所為か白すぎて青いその肌は、赤子のように柔らかくなだらかだ。いのりは今更に羞恥の感情を思い出したように、少しあわてたような表情を浮かべた。

 「ま、待って……」

 「拭いてやるだけだ。おまえなんでカエルなんか取ってたんだよ……全身泥だらけじゃねぇか」

 苛々しながら、俺は言う。

 「このままじゃカナエさんに事情聞かれるぞ。ちゃんと綺麗にしとかないと……」

 「そ、そうだね」

 いのりは納得したようにちょんとうなずいた。

 「でも。ごめん……その。文也はいやだよね、こんなの」

 「別に。つかおまえは嫌じゃねぇの? 俺にヘンなことされねぇかとか思わなかったの?」

 「それは……その。思わないよ、あたし、お母さんみたいに綺麗じゃないし」

 「そんなことないよ。おまえ、かわいいよ」

 いのりは一瞬だけ呆然とした表情を浮かべて、次にあわてたように目を伏せた。それから戸惑ったように俺の顔と床の間を行き来させる。

 その分かりやすくうろたえた表情に、俺は先ほどの意趣返しができたようなきがして満足した。こういう奴を相手にする時はけなすより褒めた方が効果的だ、覚えておこう。

 「拭き終わったらとっとと寝ろ。電話番号教えとくから、何かあったらそれで呼んでくれ。薬は枕元に置いとくから、ちゃんと飲むんだぞ」

 「言われなくても、薬はちゃんと飲むよ」

 そりゃそうか。

 「ペットボトルの中身は水か? アクエリアスか?」

 「あたし、ポカリのほうが好き」

 そうかい。

 「他なんか欲しいもんとかある? 安いもんなら買ってきてやるぞ」

 「……え。えと、ゼリーとか食べたいな。あと、展開が気になってる漫画があるの。もうずっと前のだから、続いてるのかどうか、分からないんだけど」

 「買ってくるさ」

 俺は思わず微笑んだ。促すと、自然にあれこれ要求してくるいのりが新鮮だった。おどおどと遠慮しながら、ちょっとしたわがままも怖がって口にできなかった頃と比べると、少し打ち解けたんじゃないかと、身勝手にそう思う。

 いのりのほうが遠慮がって近付いてこなかったのか。それとも、俺がこいつのことを心のどこかで拒絶していたのか……。きっと後者の比重が大きいだろう、俺は思う。ただの自分勝手な哀れみで、こいつと必要以上に馴れ合うことを、これまで俺は望んでいなかったのだ。

 「いのり」

 「なに?」 

 「ごめんな」

 「へ?」

 いのりは意味も分からないというような表情で、目をぱちくりさせるだけだった。

 こいつには分からないのだろう。自分が誰からも見捨てられると早合点しているこいつには、今の俺のような気持ちが分かるはずもなかった。自分のような人間を、他人は当然に見捨てるものだと確信しているいのりには。

 「今度髪、切りに行こうぜ。伸びっぱなしだ。服も買おう。それから、どこか行きたいところとか、やってみたいこととかがあったら言えよ。なんでもしてやれる訳じゃないが、少しのわがままなら聞いてやれる」

 「えと……。文也、ちょっと変」

 戸惑ういのりに、俺は溜息すら吐きたくなった。こいつには分からない。俺がこいつに抱いている感情が。理解すらできない。だからこいつは、こいつはこんな体になってまで、哀れみを請うということがさほどうまくならないのだ。

 もっとそれが上手ければ。それができたら、金田の言うほどにいじめられたりもしなかった。脚をへし折られ歩けなくなることもなく、そのあと母親に頬をはたかれることもなく。もう少し哀れみを受けるのが得意な女なら、もうちょっとはマシだったかもしれないのに。

 「変か?」

 俺がそう聞いてやると、いのりはちょんとうなづいて

 「機嫌が良いときのお母さんみたい」

 と、そう言った。

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