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 二日おき六時に更新

 朝は父とカナエさんと三人で朝食を食べる。カナエさんが用意してくれたハムエッグの味付けは、カレーのときと同様これまでの母親で今のところ一番素晴らしいものだった。

 「文也くん。褒めすぎよ」

 俺が正直な感想を述べると、カナエさんは嬉しそうにはにかんでそう言った。

 「ところで文也。いのりちゃんとはもう会ったのか?」

 その名前が父の口から出て、カナエさんの表情が少しだけ引きつったのが分かった。俺はそれにうなずいて見せてから、父に向けて僅かに目配せをする。

 これでも俺たちはきちんと親子なのである。こんな風にしてやったら、俺がなにを言いたいのかはだいたい通じる。父は少しだけ複雑そうに目を伏せてから、すぐに箸を手の取って新妻の料理に舌鼓を打ち始めた。

 「それじゃ。私ちょっと用事があるから。お皿は水につけといてね」

 そう言ってカナエさんはぼんやりと立ち上がる。父の為に朝食を作ったは良いが、すぐに眠くなったというところだろう。父はそれを察してかにこにこと笑ってカナエさんを見送る。元は夜の水商売で生活していた身の上だし、朝早起きする習慣などないのだろう。

 それから親子二人には奇妙な沈黙が訪れる。これは互いが意図してやっているもので、破ろうとするタイミングもほとんど同時だっただろう。だが偶然にもそれに先んじたのは父のほうで、それは俺が口を開きかけたちょうどのタイミングだった。 

 「いのりちゃんのことで、なにかあるのか?」

 「うん」

 カナエさんにはあの子の話をしないことに決めていた。彼女がそれを望まないだろうから。親子のことは二人で勝手に解決して欲しい。俺に興味があったのは、義理の妹に対する今後の身の振り方に対してだった。 

 「どんな子だった?」

 「変わってた」

 「……変わってた。ふむ、確かに言われて見ると、少しそうなのかもしれないな。まぁでも、ずっと学校にも行けずに車椅子でリハビリ生活だ。おまえの周りの同世代とは、少し考え方が食い違うのも当然だろう」

 「違うんだ。そんなんじゃない」

 そう、そんなんじゃない。初対面でナイフを振りかざしてくるようなことをさして、少しの食い違いという表現は適切ではない。

 「何かあったのか?」

 父はいぶかしげな表情をする。俺は一瞬、あのことを話すべきかどうかで酷く迷った。

 ナイフを隠し持ち、それで赤ん坊の血抜きを行う。バレたと思ったら、口封じを行うために見境もなく切りかかる。

 とんでもない奇行だ。集中的で適切なメンタルケアが必要な、重度の精神患者に違いない。常識的にはこのことを父かカナエさんのどちらかに話しておく必要があるのだろう。だがしかし……

 「どうしたんだ……?」 

 父が眉を顰めていった。突然黙った俺に困惑しているのかもしれない。

 「話せないようなことなのか」

 「ごめん……父さん」

 俺は素直に謝った。あの時のあいつの表情が思い出される。不安と恐怖に表情をぐちゃぐちゃにして、すがりつくような目を向けたあいつのことを。

 あのことを父には話せない。それはもちろん、ちゃんと話しておくべきことなんだろうが、俺はあいつと約束してしまっている。子供をあやす方弁みたいな約束でも、守ってくれると信じきっている奴を裏切るのは気分が悪かった。

 「……難しい子だ」

 父は真剣に悩んでいる様子だった。

 「あの子はたいへんに難しい子だ。若い身空で歩ける足をなくして、学校にも行けず、家で悶々としているばかりの毎日だ。文也、おまえがあの子の為にしてやるべきことが何か分かるか?」

 「分からない」

 はっきり言って不気味だった。あの砂に塗れたキャンディのような、濁りきった瞳を思い出す。おぞましく、近寄りがたく……何よりも哀れに思えてならなかった。

 「それはな。あの子に関して責任を持ってやることだ」

 「なんだよ、それは」

 「あの子がああなった理由とはおまえは無関係だ。だから歩けないあの子に関して、おまえに直接的な責任はないのかもしれない。しかしおまえは曲がりなりにもあの子の兄だ。兄として、責任を持ってあの子に接するんだ」

 言っていることは分からなくもない。しかし俺には今ひとつ実感をもてなかった。そうした義務感やおざなりな責任感で、面倒を見切れるような女には思えない。だいたいにおいて、父さんの言っていることには一つ重要な何かが抜けているのだ。人が人に関わる時に、家族が家族に立ち会う時に必然的に付きまとうはずの、重要な事柄が。

 「分かったよ。父さん」

 適切な反論が思いつかず、俺はそう答えた。父さんはそれだけ言うと表情を変えずに立ち上がると、食器をシンクに漬けることもせずに自室に向かった。あれはあれでもう一眠りするつもりかもしれない。昨夜はお楽しみだったようだし……などとつい下世話なことを考えてしまう。

 俺は食器を運んで父の分も水に漬け込んでおいてから、洗い物をするべきかどうかを少し迷った。時間がない訳ではなかったが、それはカナエさんの仕事と立場を一つ奪ってしまうような気がした。

 今日も妹は食事に出てこない。いったいいつ食べているのだろうか。

 ふと気になって、出かける前に俺はあいつの部屋に向かった。窓からの光で薄明るい部屋にそっと体を差し込むと、ベッドの上に横たわるやけにちっこい娘が目に入った。決して良い夢を見ているようにも、ぐっすりと眠っているようにも見えない。そもそも眠りに落ちたのがついさっきのようにも見える。

 ベッドの傍には折りたたみ式の車椅子がぞんざいに置かれている。これに乗れば学校にだって行けるはずなのに、どうしてこいつは眠っているのだろう。そもそもこいつは自分で歩けるはずだ。薬さえ飲めば。あの母親はそのことを知っているのだろうか。

 少女が寝返りを打つと、その真っ白い脚が布団から漏れ出した。両足ともに、灰色のギプスが添え木のようにくっついている。これがついたままでは脚を折り曲げるのすら困難だろう。昨日はついていなかったそれが、つい気になって俺は見入ってしまう。そして思わず息を飲んだ。

 最初はただの治療の跡ではないのかと思った。しかし違う。その傷はごく最近、或いはほんの数時間前に付けられたもののようだった。証拠として傷跡からは生々しく血がにじみ、白いベッドに痕跡をつけている。どうして今まで気づかなかったのか。俺は思わず顔を近付ける。白く細い脚、本当にこれで歩いていたことが不思議になるくらいに頼りない脚。そこにあったのは釘を突き刺したような、ほの暗く真っ赤な穴っぽこだった。

 昨日はあれから、父とカナエさんはすぐに寝室に向かって眠ってしまったはずだ。となるとこの子は、あの出来事があってから自らこの脚をこんな風に傷付けたのだろうか。

 よく見ればその傷は一つではない。新しいものはその一つだけだったが、釘のような鋭利ななにかを使ったものならば、刺したような傷から裂傷までが、その白い脚に無数に刻み込まれている。付近を探せば釘とかなづちでも見付かるかもしれない。だが俺はそれを見つけることをしなかった。これ以上はもう良いと、忌避の感情が競りあがってきた。

 部屋を出て、俺はでかける準備をする。とにかくいったんこの家から出て、こいつのことを意識から切り離してしまいたかった。


 学校までの行き道は最悪だった。どうしてもあいつのことを考えてしまうというのもあったが、それ以上にしんどかったのは沼に面した道路を自転車で走る時だった。

 そこには驚くほど多くの蛙が、両側の沼を行き来するように跳ね回っていた。父が新妻とたわむれる場所に選んだのは、静かで少し泥臭い田舎だったが、まさか通学路にこんなところがあるとは誰も思うまい。

 飛び跳ねる蛙はどこにでもいるような、親指の先より少し大きいくらいの蛙だった。ちょうど時期だというのもあり、蛙は驚くほど元気にそこを跳ね回っている。下手に自転車を走らせればそれらはタイヤに巻き込まれて、簡単に死に絶えてしまうだろう。実際、もう二匹ほどそうしてしまっていた。

 何も分からず、ひき潰されてしまった蛙が哀れでならなかった。立ち往生していると、背後からクラクションの鳴る音が響いて、俺は思わず自転車を移動させて道を明ける。車に乗っていたのは三十くらいの若い男で、陰気そうな視線をこちらに投げかけるや、蛙たちを盛大にひき潰しながら車を走らせて行った。

 もう良い時刻なのに、ここに通学者がいない理由が良く分かった。俺は蛙の死体のこびりついた道路に背を向けて、少し遠回りになる道を選択する。今は蛙をこれ以上ひきつぶしてしまえるようなメンタルはもてない。

 ふと考える。

 ひき潰されていったあの蛙どもは、いったい何を考えてくたばっていったのだろう。否、そんなことを考える暇も、あいつらにはきっと与えられなかったに違いない。ただ、彼らにとっては天災にも等しい大きな力に、何も分からずただなぎ払われただけなのだ。

 だがしかし、その中で一瞬だけ、タイヤと接触してから完全にくたばるまでに、その理不尽な死を認識する暇があったなら、いったいやつらはどんなことを願うのか。

 ふとそんなことを考えて、答えは出ず、すぐにそう思ったことさえ忘れてしまった。


 「カエル道、とおった?」

 朝のホームルームのうちに転校の挨拶も終えて、ぼんやりとしていた俺に話しかけてきた女がいた。昨夜のナイフ女とはまったく別物の、安心するほど正常な目をした、どこにでもいそうな少女だった。

 「いや。道の前ですぐに回れ右だよ、あんなところ」

 「やっぱり、それがふつうですな」

 きひひ、女は笑う。

 「えっと。倉科くんだよね」

 「そうだよ。えと、君は?」

 「金田だよ。よろしくね」

 そう笑顔で切り出され、流石に握手は求められなかったものの、俺は笑顔でそれに答えた。あんな当たり障りのない挨拶で俺に興味を持ってくれたのならば光栄だったし、こういったつながりは大事にしないといけないと知っていた。これからの人間関係を豊かにするためには、どんな些細なことでも人との接触は丁寧にしなければならない。

 「酷いでしょ、あのカエル道」 

 「そうだね。間違えて何匹かひいちゃってさ」

 「本当に? うわっ、最悪じゃん……。気持ち悪いよね」

 無残にもひき殺されて尚そんな感情しか抱かせない蛙に哀れなものを感じつつ、俺は笑顔を浮かべた。

 「ところであのカエル道には、ちょっとした噂話があってですな」

 「ほうほう」

 調子を合わせてやると、金田は愉快そうな口ぶりで話し始める。この短いやり取りで、酷くなれなれしい態度を取ってくる。これも一種の社交性だろうと思った。

 「あのね。あのカエル道を車で走ってた人がいるんだけど、目の前を別の車がちんたら進んでてさ。その人は前の車を見て、蛙をつぶさないように走ってるんだと分かったんだよね。そんな奴って今でも結構いてさ。前の車に載っていたのは若い女の人だったんだけど、その人は遠慮なくクラクションをぶっ放したわけ。したら女の人、びっくりした様子ですごい速さでその場を走り出してさ。あまりに尋常じゃない様子だったんで、その人が地面によく目を凝らしてみると……」

 「どうだったの?」 

 「女の人が走ってたところに、ふつうに走ったんじゃ絶対にそうはならないというような量の死骸が、びっしりと」

 「ひえっ」

 薄気味の悪い話ではあった。俺は気持ち悪そうな表情で「やめてくれよ」といってみせる。金田はけらけらと悪趣味な笑みを浮かべていた。

 「この町って本当にそういういやな噂ばっかりなんだよ。まぁ他におもしろいこともないっていうだけなんだけどね。そもそもあのカエル道だって、なんでわざわざ轢かれに飛び出してくるのかわかんないしさ」

 「だよね。おとなしくしてりゃ良いのに」

 「そうなんだよね。あとね、今朝のニュースは見ましたか?」

 「いや。見てないけど」

 「なんかね、変質者が出没しているみたい。おっかないねー」

 変質者とはおだやかでない。俺は僅かに興味を引かれて金田の方を見る。気味の悪い噂は得意なのだろう、金田はまたしても楽しそうな様子で

 「あのね。小さな子供ばかりを狙う変質者がいるって話でね。後ろから襲い掛かって、組み伏せたあと、口の中にペンチを突っ込んで何かしようとするんだって。狙われた子は全員危機一髪で逃げ出してるみたいなんだけど」

 「閻魔大王みたいだな」

 「興味があるのは舌なのか、歯なのか。切り裂きジャックの歯医者さんバージョンだったりしてね」

 たいして笑えない冗談だった。俺はからからと愛想笑いを浮かべる。金田は愉快そうに笑う。くりくりと愛らしい目をしているのに、こんなに楽しげに妙なことを話すものだから台無しだった。


 家に戻る。自分の部屋に戻ると、鞄を放り出してベッドに大の字になった。

 転校した最初の一日はだいたいがこんな感じだった。もっとも、今回は随分とマシなほうだったと思う。特にいやなちょっかいをかけてくる奴がいた訳でもなければ、教室自体が荒廃しているということもなかった。授業もそれなりにきちんと行われたし、教員の方も家庭教師を呼ぶよりは良いと思えるだけのものはある。強いていうなら、金田の話ぶりが妙にねっとりと耳に残っているという程度だった。

 歯抜きのジャックというセンスのないあだ名を付けられた、町の不審者のことをふと考える。これの元となった切り裂きジャックという殺人鬼は、高度な医学的知識を用いて体を分解し、臓物を丸ごと持ち出すという所業を犯したようだ。切り裂きジャックの歯医者バージョン、といえばなるほど悪趣味だが合致するセンテンスだった。もしも目的がその名のとおりなのだとしても、未遂で終わっているらしいのだが。

 俺はぼんやりとその場を立ち上がった。緩慢に部屋を出て、義妹の部屋へと向かって歩く。名前すら曖昧にしか覚えていない妹だったが、その印象は強烈に過ぎた。このまま気味の悪いものとして意識の外に追い出したまま生活をしても良かったが、それには今朝父さんに言われたことが引っかかる。

 そっと妹の部屋をノックすると、中から思わぬ声で返事が返ってきた。

 「あら。文也くんじゃない、早かったわね」

 その声に応じて部屋に入ると、義妹のベッドの前で腰掛けるカナエさんの姿があった。カナエさんは皿の上にいくつかに切り離したリンゴを落としながら、顔だけは器用にこちらに向けて話をしている。その後ろには、目をぱちくりさせてこちらを見詰める義妹の姿があった。

 「せっかくの親子水入らずだったのに、邪魔しちゃいましたか」

 俺は本気で気まずくなってそう言った。そうだとも、なんだかんだとこの二人は親子なのだ。こういった中睦まじい瞬間があって、当然といえば当然だ。

 カナエさんは曖昧に笑って

 「良いのよ。文也くんには代えられないわ」

 と、少し反応に困ることを口にした。

 「はぁ。それはどうして」

 「良いから良いから」

 カナエさんは手招きする。俺は進められるままに、カナエさんが立ち上がったイスにそのまま座った。なんとも居心地が悪い。

 「リンゴ、食べる?」

 「いえ。今は」

 「そうかしら。ごめんね」

 そう言ってカナエさんは自分で切ったリンゴをパクつく。

 「あんたも食べなさいよ。元はといえば、あんたに食べさすために買ってきたんだからね」

 そう言われ、義妹は「うん」とおそるおそると返事をしてからリンゴに手を付けた。口を大きく開けてリンゴを頬張り、そして幸せそうな表情を浮かべる。その瞳に昨日見たようなどす黒さは残ってなくて、俺は酷く安心するものを感じた。

 それはあまりにふつうの女の子だった。母親にリンゴをむいてもらい、それを食べて照れながら喜ぶような。舌鼓を打つその仕草は外見相応にかわいらしかったし、何かとあって気だるくなっていた俺の心を僅かになごませてくれもした。

 「いのり、文也くんにちゃんと挨拶はしたの」

 カナエさんが言う。何度か聞いていたこいつの名前、今思い出した。いのりというのだ。

 「え、えと。こんにちは」

 いのりはびくびくとこちらに頭を下げる。

 「もっとちゃんとする」

 「はい」

 「いいですよ、そんな」

 俺は思わず手を振った。

 「おまえも楽にしてろよ。……一応、きょうだいなんだから」

 いうと、いのりは今ひとつ実感がわかないという様子で目をぱちくりとさせる。カナエさんは少しだけ眉を顰めて、それからあからさまなつくり笑いで「ごめんねぇ」とそう口にした。

 なんだか据わりが悪い。

 「ところで。あなたたちもう会ってるの?」

 「ええ。一応は」

 「そうなの、いのり」

 「う……うん?」

 いのりは曖昧に首をかしげる。あの出来事を、覚えていないという風ではなかった。ただ、出来事が出来事だけに、曖昧にぼかさなければならないことなのだろう。彼女は母親に悪さがばれることを極端に恐れている。殺される、などとつぶやくほどに。

 「ちょっと話をしただけですけど。でも良く打ち解けました。何せ年が近いですし……」

 「そう……? だったらお願いなんだけど」

 カナエさんがニコニコと俺に進言する。

 「この子に勉強を教えてくださらない。ほら、この子ったらずっと学校いってないから、今からじゃどうしようもないのよね」

 俺は少し考えて、言った。

 「いいですよ。それくらいなら」

 今のいのりの様子を見るに、四六時中ナイフを持って暴れだすということはなさそうだった。特に首を横に振る理由もない。ここで断っては父さんの言いつけを破ることになってしまう。

 「俺に教えられることは限られてますけど、中学くらいのことまでなら、なんとか」

 「文也くん、結構良いところに転入したんでしょう? 少なくともあたしよりはできるわよ」

 それはそうだろうな、と俺は思った。

 なんとなくなごやかな雰囲気が三人の間に流れた……ような気がした。カナエさんはさっきから視線を俺といのりの間で忙しく行き来させているし、いのりはおどおどとした様子を崩さない。

 おどおどとした様子を見せるいのりに、俺は小さく視線を向けた。いのりは曖昧にこちらを振り向くと、こう切り出した。

 「いいよ、勉強なんて見てもらわなくても」

 そこで、カナエさんが僅かに目をむいたのが分かった。

 「いまさらやったってどうしようもないもん。それに、文也も本当は迷惑なんだよね……。あたし、大丈夫だから」

 遠慮から来た発言なのだろう。それから、自分自身に対するちょっとしたひねくれ。本当はこの少女は、切実なほどに人とのつながりを求めている。俺にはなんとなくそのことが分かってしまった。こうも遠回りに何度も事柄を補強するような言い回しをするのは、どこかで「そんなことないよ」と言って欲しいからなのだ。

 それが分かっていた俺は、だからいのりの発言をどこかで否定してやろうとした。しかしその前に

 「このバカモンっ!」

 いって、カナエさんがいのりの頬をはたいた。残酷なほど小気味良い音がして、いのりの真っ白な頬が赤く染まっていく。

 「あ……っ」

 いのりは悲痛な声をあげて、信じられないというように自分の頬に手をやり、母親の方に空虚な視線を向ける。カナエさんはまくし立てるように

 「ごめんねぇ文也くん。内の子本当バカでね、文也君のせっかくの好意を無駄にするようなことを……。っていうかいのり、今文也くんのこと呼び捨てにしなかった? ねぇ」

 いわれ、いのりは今にも泣きそうな顔でカナエさんを見詰めた。もう一声怒鳴られれば、容易く決壊してしまいそうな哀れなその表情。俺はあわてて間に入るように言った。

 「ちょっと待ってくださいよ、カナエさん」

 この人は娘のことになると冷静さを欠いてしまう。俺はそう感じた。普段はもう少し利巧な人なのだが、いのりのことへ話が向かうと子供のように不機嫌になったり、偉く感情的になったりする。彼女の存在は、カナエさんにとってもっともデリケートな部分なのではないかと、俺はそう思った。

 「全然大丈夫ですから、俺……。ねぇ、高校が変わってちょっと勉強が忙しいみたいな話をしたばっかりだから、こいつだって多分遠慮して……」

 俺がそう言ってなだめると、カナエさんはどんよりとした様子でいのりの方を見てから、すぐに引きつった笑みを浮かべて俺のほうを見る。その表情はともすれば、昨日見たいのりの形相よりも恐ろしかった。

 「あらそぉ? だったら良いのよ、でもごめんね、気を悪くしないでちょうだい」

 「いえいえ……そんな」

 気を悪くするなら会ったばかりのころさんざん俺の名前を『ブンヤ』と読み違えた時だと思ったが、口にはしなかった。カナエさんはそれからにらみつけるようにいのりのほうを見ると

 「いのり。今度こんな粗相をしたら、ただじゃおかないからね」

 いのりはかわいそうなほど何度も頭を下げる。懇願するような様子だった。

 「それじゃ文也くん、私はその……ちょっと用事があるから。こんな辛気臭いところさっさと出て行って良いのよ……それじゃ」

 言って、カナエさんは今度は逃げるようにしてその場を去った。いたたまれなくなった、といった様子である。

 「弱ったな……」

 父に捨てられることを恐れるあまり、俺まで腫れ物扱いするような母親は何人か見てきたが、この人はちょっと段違いだった。思えば、この人が誰よりも料理を達者に作るのも、熱心に家事に打ち込むのも、金持ちの父への執着の表れなのかもしれない。

 それにしても、この気の使いようは異常だった。あの父の相手をしているのがどれだけ疲れることなのか……それを考えれば納得できなくもないような気がする。女と二人きりになったときの父の姿を俺は知らない。父がどれだけわがままを言って女を困らせるのか、俺は想像したくもなかったからだ。

 「あの……文也……さん?」

 いのりがおそるおそるといった様子で俺に話しかけてくる。 

 「……文也で良い」

 俺が言うと、いのりは困ったように「あぅ……」と口をつぐんだ。そうか、こういわれたらこいつの立場だと酷く困るわけだ。俺は納得する。そして背後のちっぽけな少女が酷く哀れに思えてきた。

 「好きに呼べよ。……それと、こないだのことはちゃんと誤魔化しといたから」

 そう言って頬の傷を指差してみせる。これの理由をでっちあげるのは難しかった。

 「ど、どうやって誤魔化したの?」

 「……使ったことのない部屋の扉を開けたら、気圧差でかまいたちが発生したと言ってみたら、なんとかなってしまった。専務にもだ。赤ん坊の傷もそれで解決。いくら酔っ払っていたといっても、俺……あいつらが日本有数の企業の社長と専務だなんてとても思えねぇよ」

 単に深く考えなかっただけなのだろう。俺が本気で嘆いてみせると、いのりは「そ……そう」と気のない返事をするだけだった。

 こいつはさっきからびくびくおどおどとした態度を崩さない。両手で布団を握り締めて、母親に叩かれた痛みに耐えるようにじっと涙をこらえている。俺は一人にしてやるべきかどうか少し悩んで、それができないであろう自分に気付いた。

 何故できないのだろうか。簡単だ、こんな哀れな存在を置いて出て行けない。ただのエゴイズムだとしても、とりあえず何かしてこの場を去りたいという思いは強かった。

 「……気晴らしでもいくか?」

 俺がそう提案すると、いのりは「へ?」と気のない返事。

 「散歩とか行かないのか? おまえ……その脚じゃほとんど外出れない……だろ?」

 余計なお世話だっただろうかと思わなくもない。俺が軽くその場の車椅子を目で追うと、いのりも意味を理解したらしい。するといのりは僅かに感極まった様子で

 「う、うんうんっ! い、いく。いく」

 と嬉しそうに言った。そんなに散歩が嬉しいのだろうか。

 俺はいのりの前に車椅子を組み立ててやり、そこに座るのを手伝った。どうすれば良いのか分からなかったが、いのりのほうから俺の手を借りて、這うようにして車椅子に体を収めた。器用なものだったが、一人では乗れないというのにも同じくらいに頷けた。 


 車椅子を押して外に出て、その移動手段が偉く不便なことに気がついた。段差があれば迂回、坂道があれば苦戦。普段当たり前に行き来している家の庭が、酷い障害物だらけの場所であることを気付かされた。父のやつも、少しは考えて別荘を買わなかったものだろうか。

 「おまえさ」

 「うん?」

 「あん時は自分の足で歩けてたみたいだけど……あれって今は無理なのか」

 「……無理。死んじゃう」

 いのりは言った。

 「今こうしているだけでも痛いのに。立って、歩いたりしたら死ぬ。痛くて死ぬ。絶対、死ぬ」

 三回も強調するほどのことらしい。俺は疑問に思って

 「痛み止めは、効果ないの?」

 「あるよ、っていうかいつも飲んでるよ、朝昼晩。切れたら脚、千切れそうになるし。……だけどそれあったって、立ったりなんかしたら痛くてもうダメ」

 「痛い痛いって……理由はそれしかないのか」

 俺が無神経にそういうと、いのりは少しだけ目を伏せた。

 「……ねぇ文也。本当の痛いって、どういうものか知ってる?」

 そういわれて、俺は少しだけ肝の冷えるものを感じた。安易に突っ込みすぎたな、と。

 下腿骨骨幹部骨折の後遺症、変形治癒。詳しいことは分からないが、とにかく立つだけで脚に無理が来るほど骨がねじれてしまっているらしい。皮膚から大部分が露出するほどぐにゃぐにゃにひんまがって、一度は使い物にならなくなった骨の部品を、体裁だけ取り繕って無理矢理にはめなおしたというような状態。そんなもので立って歩こうとすれば、さぞや途轍もない激痛に襲われるであろうことは想像に難くない。

 話では聞いていた。しかし、納得できないことがあった。

 「じゃあこないだのあれはなんだったんだよ」

 俺が聞くと、いのりはどういう訳かはにかんで答えた。

 「あれはね……特別なクスリがあるの」

 「なんだ、その特別なクスリってのは」

 「それ飲んだらね……なにも痛くなくなるんだよ。しんじゃいそうな痛さでも、何にも感じなくなるような……。釘さしても平気なんだから」

 そう言って嬉しそうに笑う。自分が強くなったような、そんな気持ちにもなるのだろう。

 「だからって釘刺すのはやりすぎだろ。アタマおかしいよ。おまえ」

 「しょうがないじゃない。そうでもしないと紛らわせない時があるんだから」

 俺は再び言葉に詰まる。

 「その痛くないクスリっていうのは……今は使えないのか?」

 「もうないよ。めったに手に入らないんだから」

 なんとなく怪しい匂いもした。それはまともなクスリなのかと聞きたくなった。それはつまり、神経毒のようなものなのではないか。気を失うほどの激痛を感じなくさせて、ひん曲がった脚でよちよちと無理矢理歩いているのに過ぎないはずだ。パンクした車輪で自動車を走らせれば、いつか車全体が壊れるように、そんなものを使い続ければいつかとんでもないことになるのではないか。

 そう思いはしたが、詳しいことは聞けなかった。単純に、これ以上首を突っ込んで、やけどを負うのが嫌だったからである

 「おまえ。一日なにして過ごしてんの? 学校いってないんだろ?」

 「ケータイあるから」

 「友達とメール?」

 「……やだよそんなの」

 え。俺は再び困惑して

 「携帯で将棋とかしてる。ネット繋がってるから、小説とかも読む。それでも毎日、すっごい、暇」

 「だろうな」

 俺は思ったとおりにそういう。いのりは素直に共感を示してもらえたことが嬉しいようだ。

 「何もしないと暇でしょうがないの。考えたくないこととか、考えちゃって……そればっかり。気が狂いそうになる」

 「もう狂ってんじゃないのか?」

 俺が言うと、いのりはどこか曖昧な笑みを浮かべた。

 そこで訪れた静寂はともすれば意味深で、俺にとって決して居心地の良いものではなかった。正直なその一言がいのりに強く響いてしまったのかと、少しだけ心配になったりもした。

 「キャラピラーって映画の話を、ネットで知ったの」

 いのりは唐突にそんなことを切り出した。

 「戦争で、拷問にあって、両手足を切断された男の話。その人はだるまみたいな状態で母国に帰り、軍神としてたたえられるんだけど、それでもやっぱり家で寝たきり。ずっと奥さんが世話をするんだけど、その奥さんもその……そのうち、面倒見切れなくなって、その男の人をいじめるようになるの」

 「偉く陰気な話だな、それ。見たのか」

 「見てないよ」

 怖いもん、いのりはつぶやくようにそういった。そしていのりは続けて

 「あたし、思ったんだ。その男の人は、家で寝たきりで何もできない状態で、いったい何を願うんだろうって」

 「なにを願うってそりゃ……どういう意味だ?」

 「そのまんまの意味。ずっと寝たきりで、奥さんにもいじめられて、愛されなくて、それでも何もできなくて。つらいよね。すごくつらいよね。きっと何かを願うはずだよ。神様に、願うはずだよ」 

 いのりの言葉が少しずつ熱を帯びていくのが分かった。その言葉に込められた熱気が、いつか見たあのナイフを振りかざす姿にシンクロして、俺は思わずその場を立ち止まっていのりを見る。

 「芋虫になったその人はなにを願うんだろう? その人はなにが望みなんだろうって……。考えて、そしたらもしかしたらあたしと一緒かもしれないって、そう思ったの」

 「なんだ、それ」

 「世界中の人と一緒に消え去りたいなぁって」

 俺は溜息も出ない。自分の発言になんの疑問も抱いていない人間独自の、酷く落ち着いた澄み切った声色。それでいて彼女の言葉からは、心の中の混沌具合がありありとよく伝わってくる。

 「なんであたしだけなのかなぁ。ずるいよね。あたしなにもしてないのにね。……そんなことないのかなぁ。うんやっぱり違う気がする。色んな人に迷惑かけたし、今だってお母さんのお荷物だし。だけどやっぱり許せない奴はいるよ。そいつだけは許さないって奴はいるよ。……絶対に殺してやるんだって思える奴は、たくさん、いるよ……」

 卑屈な台詞を垂れ流したかと思ったら、前後の脈絡なく唐突に呪詛を吐き散らす。こいつは、少しおかしい。俺は思った。

 「あ……。ごめんなさい」

 いのりはそこで申し訳なさそうに言った。

 「また愚痴っぽくなったね。ごめんなさい、うっとうしかった?」 

 「うっとうしかったさ。でも、良いよ。また聞いてやるから」

 「そう……ごめんね、ありがとう」

 「いいって。俺ら、いちおうきょうだいなんだし」

 我ながら偉く無責任な、薄っぺらい台詞だなと思いつつも。

 「おまえ。このあとどっか行きたいところとかある?」

 「え……。ないよ。その、あたしこの辺来たばっかりで良く知らないし」

 「前の家と目と鼻の先じゃないか」

 「そうだけど……」

 脚の動かないこいつにしてみたら、確かに月より遠い距離なんだろう。俺は哀れに感じる。

 「文也の知ってるとこが良い。どっかある?」

 「ねぇよ。カエル道と学校と公園と……。くらいだな」

 「……カエル道っていうのは?」

 いのりが最初に興味を示したのはそこらしかった。俺はあの潰れたカエルだらけの場所を思い出し、眉を顰めた後

 「その名のとおり。両端の沼からカエルがばたばた飛び出してな。道ではねてるんだよ、それも大量に……。とうてい良いところじゃない」

 「そう……」

 いのりはその様子を想像するように目を閉じた。それからしばしその想像を楽しむように唇を歪ませると、ぞんがい明るい声でこういった。

 「つれてって」

 「つれてけって……その、カエル道にか?」

 「そう。……遠いかな?」

 「いや。遠くはないが」

 そんなところに行きたがってどうなる? 俺は困惑しつつも、こいつの望みをかなえてやることしかできない。ただなんとなく、ぼんやりとこんなことを尋ねるだけだ。 

 「どうしてそんなとこに興味があるんだ?」

 「別に」

 そうとしか言わない。ただまぁ、カエルに興味があるというのが恥ずかしいだけなのかもしれないが。

 俺は車椅子を押しながらカエル道へと向かう。いのりはそれきり何も喋らなくなった。ただぼんやりと、空なんか見上げながら少しだけ楽しそうにしているだけだ。それはおおいに結構なのだが、退屈した俺はいのりに話しかけた。

 「なぁ。いのり」

 「なに?」

 「おまえ。あの時赤ん坊の血ィ抜いて、なにをしてたんだ?」

 俺が言うと、いのりはしばし沈黙して

 「別に。たいしたことじゃないよ」

 「なんだそりゃ」

 「えっと……言わなきゃダメ……?」

 俺はしばし考えて

 「できれば聞きたい。そもそも、意味があることなのか?」

 「だから、たいしたことじゃないって……」

 「たいした理由なくあんなことできるのか?」

 いのりはそのまま黙り込む。こうしてやれば何か話し出すかと期待していると、いのりはすさまじく小さな声で

 「りっちゃんの本に、書いてあったから」

 「は?」

 俺は面食らって口をあけた。

 「りっちゃん。歩けたころの友達。今、もういないけど」

 「いないって?」

 「知らない。もうしばらくお見舞いに来ない。前はしょっちゅうきたのに、ちょっとずつ来なくなって、今はもうずっと待ってるけど、こない。またくるよって言われたけど、こない」

 「……それが?」

 「その子の本にあったから」

 「どういうことだ」

 「えっと……」

 それ以上は話したくないらしい。俺がそれ以上追求しないでやると、「ありがとう」と小さな声が返ってきた。

 カエル道に差し掛かってからも、いのりは何も言わなかった。道の端っこの安全なところで、ぼんやりとカエルの姿を眺めている。コンクリートの上を飛び跳ねる哀れなカエル共を、特に楽しそうでもなく、酷く真剣な様子で鑑賞していた。

 「楽しいか?」

 俺が尋ねる。いのりがゆっくりこちらを向いて、何か答えようとしているうちに、一台の車が通り過ぎていった。

 「あ……」

 タイヤのあとにそって、おびただしい数のカエルの死体がその場に張り付く。

 「うっわぁ。ひでぇ」

 自動車がタイヤを回転させるごとに、巻き込まれたカエルの死骸が細切れになってあちこちに排出される。その一部はべちゃべちゃと道路に飛び散ったり、元の沼へと戻っていったりもした。あの一台で、何匹ものカエルが死んだに違いない。

 自転車に、自動車に、轢かれては次々と死亡していくカエル。轢き殺されていくのと同じ数だけ産み出され、生み出された数だけ轢き殺される運命のカエル。こいつらはいったい何のために産まれ、何のために道路を飛びはね、生きているのか。

 いのりはどこか真剣な表情で、しかしぼんやりとカエル共を見詰めていた。俺が声をかけてみても気のない返事をするばかりで、よくできた映画にでもかじりつくように、口をぽっかりとあけたままでカエルどもに夢中になっている。

 「変な奴」

 俺が思わずそうつぶやく。いのりは一瞬だけ、不満そうに俺のほうを見詰めると、すぐにどうでも良くなってカエルのほうに視線を戻す。

 あくびをし、俺はカエルを、というよりカエルを見続けるいのりを鑑賞する。いのりはカエルを一匹一匹指差しながら、小さくハミングでもするかのように「にじゅうなな、にじゅうはち……」カエルの数を数えている。

 三百三十いくらまで、それは続いた。そうまでしてようやくいのりは満足したように

 「もういいよ。ありがとう、帰ろう」

 「ああ」

 俺はいのりの車椅子を押して、家へと戻る。こいつの操作は思っていた以上に大変な作業だ。こいつの散歩に付き合うのはたまにで良いかなと、ぼんやりとそんなことを考えた。


 つらい夜になると思っていた。引越し先での新しい生活に不安を覚えながら、今日一日の振る舞いをひたすらに吟味するだけの、陰気で哀れなばかりの暗い夜になると思っていた。新しい母親ができた日、初めて当たらしい学校に行った日、俺はいつもいつも不安に身を焦がしながら夜を迎えるのだった

 しかしその日、布団に入った俺には、そういった感情はわいてこなかった。転校生になるのにも慣れたということなのかもしれないし、単純にそれなりに環境に順応したような気がしたからかもしれない。

 だだ、いつもの不安感とは別の、苛々とした感情が訪れていた。その正体がなんなのかは分からない。自分の振る舞いとはまったく別のところで、俺を不愉快にさせる何かがあるような気がするのだ。どっちにしろ、俺は眠れていなかった。

 新しい生活の、なにが不満な訳でもない。家事の上手なカナエさん、哀れな妹、相変わらずの父、変哲のない学校。俺はいつもどおりに適当に無難に振舞って、波風立てぬよう次の環境までやり過ごすのだ。それを何度も繰り返す。くたばるまでだらだらとそれを、繰り返す。

 それを考えると、思わず舌打ちが漏れた。どうして俺がこんな面倒なことを続けなければならないのかと。冗談でも死んでしまいたいと口にできる人間の気持ちが少しだけ理解できた。

 そう言えば、あいつは死にたくならないのだろうか。

 ふと、そんなことを考える。それから、すぐに鼻を鳴らした。決まってるじゃないか。そりゃ口に出さないだけで、死にたい時だって何度もあっただろう。布団の中で芋虫のように丸まって、おもしろいことは何もなく、手に入るものは何もなく、母親にさえ頬をぶたれながら、びくびくおどおどと日々を過ごしている。生きていたってしょうがないはずだ。いのりだって、死にたいはずだ。

 死にたい気持ちで一杯だからこそ、いのりはそれを紛らわすために奇行に走るのだ。そう考えると少しだけあいつのことを理解できた。自分の足を釘で傷つけるのも、赤ん坊の血抜きを行うのも、あいつが自らの悲しみから逃れるための方法なのだろう。それはできる限り狂っている方が良い。似非ででも狂人になって一つのことに夢中になれば、死にたいなんて考えることはなくなるだろうからだ。

 とりとめもなくそんなことを考えて、それが良かったのだろう。俺はようやくうとうととすることができた。自分より哀れな奴のことを考えるのは良い、擬似的な安心感が手に入る。……そんなことを考えながら眠りに落ちようとしていると。

 がたんと、何かが壁にぶつかるような音がした。

 簡単に無視してしまえるような小さな音だ。祖母のアパートに預けられた時のことを思い出す。壁を一枚隔てて、隣の部屋で喧嘩か何かとにかくおだやかではないことが起こっていて、みしみしと壁を叩く音が聞こえてくるのだ。

 がたんがたんと、壁に何かがぶつかるような音が連続する。防音はばっちりのはずの家で、それでも強くその音は聞こえてきた。鳴らした傍から吸収されていく音の僅かな残滓は、消え入るような声で喋る哀れな妹を彷彿とさせた。

 俺はいい加減に苛々として目を覚ました。もともと寝付きの良いほうではないのだ。アタマをかきむしりながらぼんやりと立ち上がり、音のするほうへと耳を済ませる。ベッドの置かれた部屋の角の、脚側の壁からその音はこだましているようだ。よく耳を澄ませば、それは隣の部屋から壁にものをぶつけられる音だということが分かる。

 隣の部屋。確かそう、いのりがベッドでうずくまっているあの部屋だ。俺は奇妙な胸騒ぎを覚え、ベッドを起き上がった。

 隣の部屋に行き、扉をノックする。返事の代わりに聞こえてきたのは、悲痛を極めた叫び声だった。

 「痛いっ、痛いよっ! なんで……」

 俺は思わず扉を開け放ち、暗いその部屋の中へと飛び込んでいった。

 「痛い……、痛いよ……。お母さん……お母さんお母さん。なんであたしが。なんであたし、あたし……。憎いよ、しんじゃえよぉ……」

 言って泣きじゃくりながら、声を出すことを恐れるように口元に手をやり、息を飲んでいる。

 布団の中で両足を抱え、もだえ苦しむいのりの姿に、俺は圧倒されて立ちすくんだ。「たすけて、許して……誰か……」言いながら壁を叩き、ベッドのそばの机に置かれた小物やらを投げつけまくる。

 「くっそぉっ。ちくしょう、ちくしょぉうっ!」

 狂ったように絶叫し、しかしその声すらも押し殺し、しかし耐え切れないように「痛い、痛いっ」ともだえる。俺は息を飲んだ。目の前の少女が恐ろしく、途方もなく意味不明なもののように感じられた。

 近付くこともできずに呆然として、我に返るのにどれだけ時間がかかっただろうか。

 「おまえっ」

 言って駆け寄ると、いのりは救いを求めるように、泣きじゃくった顔でこちらを見た。

 「文也……っ、文也。助けて。クスリ、クスリ切れた。痛い、痛いの……っ」

 言っていのりが俺の背後を指差す。そこには自分で立ち上がることができないいのりには、絶対に取り出せない高さの棚が備わっていた。

 「その一番上……早く。たすけて、痛いのっ」

 必死の形相で懇願され、俺はそれに従うしかなかった。俺は言われた棚から様々な形状の薬を取り出す。形と良い色といい多種多様な薬だったが、それらを全ていのりのベッドにぶちまけてやった。

 「水は?」

 「なくて良い……っ」

 いのりは息も絶え絶えに言って、薬の山の中から一つを取り出すと、息を荒くしながら飲み下した。それから残りを俺の手のひらに突き出す。

 「もう良い……ありがとう」

 「あ。あぁ……」

 これで大丈夫なのだろうか。いのりは薬を飲んでも以前と苦しそうに、自分の足を抱え込んで絶叫を飲み込んでいる。

 「それ……」

 いのりは俺の手の中の無数の薬を指さした。

 「元のところに戻しといて。……できたら、その、同じ並び方で。……無理かな?」

 懇願するように言ういのり。俺は尋ね返した。

 「どういうことだよ? なんでそんな……」

 「お母さんが隠してるの。そうしないと、あたし、見境なく飲むから」

 俺は考える。薬というなら当然、楽になるばかりのものではないはずだ。飲むことで体調に支障をきたしたり、中毒性や興奮を伴うものもある。例の『何も痛くなくなる薬』というのも、この中に含まれているのだろうか。そんなもんがあるならこいつの手の届くところにおいておけないんだろうが、だからって肝心なときに飲めずに苦しむのなら本末転倒だ。

 「だったら母親を呼べよ。電話あんだろ。それか、ちゃんと大声で叫べば……」

 「……今お母さん、あの人と寝てるし」

 いのりはぼそぼそと、痛みに耐えながら言った。

 「邪魔したら、すごく怒るんだよ? それに、万が一あの人にうるさがられたら、たいへんなことになる。そうなったら、お母さん、あたし、どうなるか、やだ。怖いもん」

 「だからって……」

 こいつは身も心も完全に自分の母親に支配されている。そりゃそうだ、こいつが生きるために頼れるのは、あのあばずれの母親ただ一人なのだから。常に顔色を伺い、甘えることも許されず、肝心な時には頼れば頬を叩かれる。

 「文也。ごめん……起こしちゃったよね。ごめん、ごめんね……。迷惑かけたよね、あたし」

 「いいんだよ」

 俺はそういうしかなかった。他になんと言える? 自分がだらだらとくだらないことを考えながら眠ってる隣で、地獄そのもののような叫びをあげながら泣いている女の子がいる。それを知らされもせずにいる方がよっぽど気持ち悪い。

 「痛い……痛い……」

 いのりは以前として自分の足を抱え込んでいる。歯を食いしばって、口から漏れる言葉を制しようと勤めるのがなんともいじましい。

 脚に打ち込まれた釘の跡を見る。こんなことをしても何も感じないくらいに薬漬けにして、それでようやく耐えられるほどの、比べ物にならない大きな痛み。それを抱え込み、誰に対するものとも知れぬ呪詛をはき続けながら、こいつはいったいどれだけの夜を過ごしてきたのだろう。

 「大丈夫か?」

 俺は軽くいのりの手に、自分の手を重ねた。

 「文也……?」

 「脚、さすった方が良いか?」

 「えっと……やって」

 自分でやるのと実際には大差もないはずだ。それでもいのりは自分の足をこちらに差し出してくる。こんなものでまともに立ち上がれるとは思えぬほど、酷い肉付きの哀れに細い足。俺はそいつを撫でてやる。

 こうしてやることで、少しはこいつの孤独な夜も癒えるのだろうか。分からない。俺は泣きはらしたいのりの顔を見る。自分自身の脚にこれほどまで苦しめられるいのり、母親にさえ助けを呼べなかったいのり。来るかどうかも分からない俺に期待して、あんなふうに壁に向かって暴れてみせることしかできなかったいのり。

 小さく哀れで何もできない、布団の中で芋虫のように丸まって、鬱々とした感情をもてあます。救いは狂ってみせることだけ。なんだこの生き物は。俺は思った。こんな哀れな生き物が、この世にはいるのか。

 「なぁいのり」

 いたたまれなくなって、俺は口を開いた。

 「前、話したよな。キャタピラってタイトルの映画だったか? あのほら、手足ふっとんだ野郎が鬼畜の介護人にこっぴどく虐待されるっつー話。おまえ言ったっけ? その男は苦しみながら日々なにを願うんだろうかって。あれ、俺もちょっと考えたんだよ」

 「どう、思ったの?」

 ……そりゃ、人思いに殺してほしいんじゃないのか、やっぱり?

 俺はそうは言わない。

 「いや答えは出ないよ。わかんないよそんなこと。……でもおまえ言ってたじゃん、そいつの考えはきっと自分と一緒だって。偉い陰気な顔で言ったじゃん?」

 「…………」

 「けど違うだろ、おまえ。……脚、動かないけどさ。車椅子、乗れるんだし、おまえまだ若いし。なんかできるだろ、がんばれよ。何でも良いから、くだらないことでも良いから……やりたいこと」

 いのりはそこでどこか後ろめたいような顔になった。情けないというような、痛みによるそれとは違う涙を流しそうな顔に。

 そういえば、本当に追い込まれている奴に『がんばれ』は禁句だってどっかで聞いた気がする。もうダメだと思いつめている奴に、がんばれと要求するようなことを口にして、余計に追い込んでしまうだけなのだ。

 「……文也」

 「なんだ」

 「文也の言うとおりだと思う」

 その発言に、俺は少しだけ救われたような気持ちになった。

 「だからあたしやる、がんばってる。あたしへっぽこだから、ダメだから。……怖いし、わかんないこと一杯だけど、やるから。くだらないすごいこと」

 「……なにをだよ?」

 「全部、壊すんだ」

 いのりはへらへらと、らしくない笑みを浮かべて、天井を仰いで片手を伸ばした。

 空にある何かを掴み取ろうとするような仕草だったが、その目はおどろくほどほの暗く濁りきっている。混沌としたその目には、熟すところまで熟しきった狂気の炎が青黒くくすぶっていた。

 「みんなしんじゃうんだ……生まれてきたことを後悔して、死ぬんだ。あたしがそうするんだ、あたしが。……あたし、あたし」

 そう言って、くふふっ、と年頃の少女らしい爛漫とした笑みを浮かべた。それからすぐに、我に帰ったように目をむいて、俺の視線に気付いて恥ずかしそうに目をそらす。それから、失言を詫びるように、気まずそうな視線を送って来た。

 俺はあっけにとられていた。


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