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二日おき六時に更新(予約済み)
「これ。なんて読むの? ブンヤくん?」
五人目の母親は唐突にそんなことを言って父を笑わせた。俺はそれに合わせて一緒に笑うべきかどうか一瞬だけ、迷って、結局嫌味にならない程度の綺麗な微笑を選択した。
決して上手く笑えてはいないだろうことは、その五人目の母親の表情からも見て取れた。まだ俺にはこういう場面をそつなくこなせはしない。二番目の母親の時と比べて成長した点はといえば、それでも何とかこなしていこうとそう諦められることだけだった。
「フミヤです。倉科文也。倉科の苗字は……今日からカナエさんと一緒になりますね」
「そうね、ブンヤくん。今日から私たち、家族なんだから」
言って、カナエさんは俺に向かって生徒手帳を投げ返す。俺が机に置いていた新しい高校の生徒手帳を、この人は勝手に手に取ったのだ。
「新しい高校にはなれたか、文也」
女を替えると同時に住居も替えるのが父の流儀だった。日本中あちこちにある別荘を転々としつつ、かれこれ六回の転校を経験していた俺は、なるだけつっけんどんにならないように答える。
「問題ないよ、父さん」
「なら、良かった。いやなに、おまえの人見知りもそろそろ直るころだろうと思ってな」
「もともと人見知りなんてなかったじゃないか」
「そんなことはないだろう。小さい頃から、母親が変わるたびに部屋に引きこもっていたのは誰だ」
「あら文昭さん。私以外の女の話はしないって言ったでしょう?」
そこでカナエさんが口を挟む。唇を尖らせ、少女のように魅力的な表情だった。
「今はおまえだけだよ、カナエ。前の女房とも別れたし、こうして籍だって入れたじゃないか」
「でも、また飽きたら私だって捨てられるんでしょう?」
「そんなことするもんか。俺はおまえこそ世界一の女だと見込んだから、鬱陶しいマスコミを黙らせてまでおまえと結婚したんだぞ。こうして新しい別荘だって買ったし、新婚旅行にだって行ったじゃないか」
「分かってるわよ、もう、冗談に決まってるでしょ。あなたと二人のハネムーン、楽しかったわよ。ブンヤくんも来れば良かったのに」
「フミヤです」
俺はそう言って曖昧に微笑む。
「俺だって父さんとカナエさんには上手く行って欲しいですから、ガキの分際で邪魔なんてできませんよ。それに、十五泊十七日でしょう? そんなバカみたいな日数、学校、休めますか」
よくそんなにスケジュールを調整できるものだと思う。社長の仕事なんて究極、誰にでも肩代わりさせられるんじゃないかと、この父を見ていると思わなくもない。最早会社の経営は起動に乗り、部下に丸投げしておけば問題ないのだろう。
「まぁこいつにはおれの後を継いでもらわねばならん。そうそう学校なんてサボらせはせんよ。しかしカナエ、おまえの娘は大丈夫だったのか?」
娘……と聞いて俺は少しだけ目をむいた。
「ああ。大丈夫よ、あの子だってもう中三よ。十分大人じゃない」
「それはそうだが」
「心配しすぎよ。枕元に必要なものはちゃんとおいといたから……」
その娘とやらの話をされるのが不愉快なのか、カナエさんは僅かに目を伏せている。父はそれを慮るように俺のほうに視線を向けてこう言った。
「おまえ。いのりちゃんのことは知っているのか?」
「知りません」
今までしらされていなかったのかが不思議でならなかった。中三と言えば、義妹ということになるだろう。年頃で、一つ違い。やりにくいことこの上なかった。
俺にはこれまで兄貴が二人と姉と妹が一人ずついたことがある。この親父はどうにもそういう趣味なのかなんなのか、人妻だの未亡人だのばかりを捕まえてくるところがあった。財力にものを言わせた気前の良い『パパ』になるのが得意技で、新しい子供にもなんだかんだ好かれることが多かった。
「娘さんがいるのですか、カナエさんには」
「ええ。いちおう、ブンヤくんのいもうとってことになるわ。粗相があったら謝るわね」
「いえ、こちらこそ」
粗相でいうならきちんとフミヤと呼んで欲しかった。父は苦笑を浮かべると、俺に向かってこう言った。
「ちょっと変わった子みたいでな。今はまだ、部屋から出てこられないんだが……」
「部屋から出られない?」
「足が悪いんだそうだ。事故にあって両足の骨が折れた後、措置が遅れた所為で変形治癒してしまい、酷く痛むらしい。ほとんど寝たきりだ。自力で車椅子にも乗れない」
「へぇ」
らしい、だの、そうだ、など。会ったこともないような言いようだ。俺はふとカナエさんのほうを見る。娘の話をされるのが憂鬱なのか、酷く情けない表情を浮かべてじっとしていた。
「障害者のいもうとができちゃって、ごめんね」
そのあまりの言い方に、俺は一瞬だけ息を飲む。
「いえ」
なんとかそう答えると、父が優しげな表情で俺に言った。
「あとで挨拶してきなさい」
「はい」
俺は殊勝にそう答える。はっきり言って憂鬱だった。
包丁を手繰る音が聞こえる。カナエさんが俺たちの為に料理をしてくれているのだ。
その後姿を、父は満足した様子でにやにやと見詰めていた。父があまり若すぎる女を嫁にしないのには、こういう理由があるのだろうと思っていた。嫁がかいがいしく自分の世話をするのが、この人は嬉しくて仕方がないのだろう。事業においてあらゆる困難を自力で突破してきた父だからこそ、家庭的なところで自分を甘やかしてくれる女を求めるのだ。使用人を雇わないのも、このためだ。
「できたわよ」
そう言ってカナエさんが料理の載った皿を運んでくる。カレーライスは父の好物だ。偏食気味な父だったが、子供の好きなものはだいたい好きなのだった。
「いただきます」
父は食前に必ずこれをする。家で嫁と飯を食っている感じを演出するためなのだろう。
俺は五人目の母親のカレーを頬張る。これまでのどの母親のものよりも美味かった。俺が正直な感想を述べると、カナエさんは美しくはにかんで笑った。
結局、カナエさんの娘……おれのいもうとは夕食の席に訪れなかった。
食事が終わり、カナエさんが後片付けを済ませる。それから父とカナエさんは腕を組んで二階の寝室へと向かっていった。
これから毎日繰り広げられるであろう、聞きなれたおぞましい音を決して耳にしないよう、俺は自分の部屋にそっと引きこもる。新たな別荘に引っ越しを済ませたばかりの殺風景な部屋。小さい頃から欲しいものはなんでも手に入った俺だったが、引っ越しを繰り返す中で、自然とものを多く持ちすぎない癖を付けてしまった。
妹には一度も会っていない。今にして思えば、引っ越しの際に一度くらいは顔を合わせるのが当然だと考えられるのだが、何ものかの悪意が働いたかのように、なんの接点も持ちえていなかった。
どうにも俺が一人で留守番をしている最中に、早めに帰ってきた父とカナエさんがとっととこちらの別荘に引越しを済ませ、そのうちに妹もここに来ているらしいのだ。最後に遅れてやってきた俺が、どうやら部屋に引きこもりっぱなしらしい妹に会わないのは当然といえば当然で、おかしいといえばおかしな話だった。
今日はカナエさんと俺の顔見せの日のはずだった。ならば同時に、彼女の娘であるところのその少女とも同時に合わせるのが道理だろう。それが勝手に挨拶をしておけなどと言われたところで、困惑してしまう。
それでも俺は意を決して、その妹に会いに行くことにした。どうせいつかは顔を合わせねばならない関係だ。
二階では互いの両親が今も肌を重ねているところなのだろう。その様子をなるべく想像しないようにしつつ、俺はとなりの部屋の扉の前に立つ。確かこの部屋だったはずだ。俺はそっと扉をノックすると、返事があるまで待つことにした。
しかし。何も返ってこない。
いぶかしく思いつつ、もう一度ノックをする。今度も何もない。部屋を間違えたかなと思って部屋の扉を静かに開けると、暗闇がぼんやりと眼前に広がった。
灯りが消えている。やはりここではないのかと思ったが、そうではないらしかった。薄く開けた視界の中には、確かに人が生活しているらしき形跡もあった。顔を差し込んで中を覗き見ると、部屋の隅に置かれたベッドの上で横たわる少女の姿が目に入った。
「なんでぇ」
眠っているのか。そう思い、少しだけ安心している自分に気がつく。それはもちろん、新しくできた義妹に初めて会うという気力のいる行為を、先送りにできたという喜びのためだった。
それに。俺は思う。仮に義妹などでなかったところで、足が悪くて寝たきりの相手にどう接して良いのかなんて、分かったものではないのだった。どうしたって哀れみのような感情は抱いてしまうし、腫れ物に触るような態度を隠せはしない。それが失礼に当たるのかどうかもバカな俺には分からないし、万が一そんな態度の切っ先が彼女の心を抉ってしまったらと思うと、会う前から情けなくなる。
だから今は。そっと扉を閉めようと顔を引っ込めると、暗闇の奥から透明な声が聞こえてきた。
「……誰?」
おそるおそるといった、しかしそれでいて何かを期待したような声だった。俺は思わず身震いしてしまう。少女の声は何かを求めるように、暗い部屋の中を反響して俺の耳に届く。
「おかあさん?」
俺は意を決して口を開いた。
「違うよ」
心臓が跳ねるのを抑えながら、どうにか続ける。
「おやすみ」
もう少し言うことがあっただろうに、俺はその扉を閉めてしまった。それから逃げるようにしてその場を去る。
扉の向こうからは以前と何も変わらない静寂があるだけだった。ただ一つ違っていたのは、この向こう側に確かに俺の妹となる少女がいることが実感できてしまっていたこと。そして彼女が母親を期待して投げかけた声が、生々しく耳の奥に残ってしまったことだった。
部屋を勝手に覗き見た負い目もあった。しかし扉を閉めてしまった本当の理由は、ここでこれ以上少女と言葉を交わすことを、俺は恐れていたのだ。
きょうだいができた時なんかは、昔から俺はいつもこうだ。
高校生にもなってこんな逃げ腰の振る舞いしかできないことに、俺は自嘲の念を禁じえない。明日以降、また顔を合わせることに、いっそうの憂鬱を抱えながら、俺は自分の部屋に戻った。
その日は父の会社の専務が家に来ていた。父よりも一回り年上の、もしかしたら父以上に豪快な性格の男である。
そいつがどうして父の別荘を訪れたのかと言えば、初めて生まれた孫を自慢するというのがその理由らしい。父は自らの部下の孫をさんざんかわいがり、頬にキスまでしたところで、専務にこう言って話しかけた。
「おまえももう孫を持つ年になったのか。早いもんだな」
「まぁな。いつもおまえから無茶な仕事を丸投げされて、楽しみと言えば子供の成長くらいしかないもんでよ。さっさと引退して孫一筋で生活していきたいもんだ」
「そういうなよ。おまえにはまだまだやってもらいたいことがあるんだ。特にこいつが……」
父は俺の頭をむちゃくちゃに撫でる。
「こいつがまともに仕事できるようになるまでは、会社にいてもらわにゃ困る」
俺は曖昧に微笑むしかない。専務は豪快に笑って
「坊ちゃんを任されるとはな。こいつは困ったもんだ」
「アタマは良いし、ちゃっかりしてんだが、ちょいと人見知りでよ」
「なに。文也くんならすぐにおまえの背中なんか追い越すさ……。それよりおめぇ、また偉いべっぴんさんを嫁にもらったもんだな。ころころ変えられて、うらやましいよ。内の女房なんか……」
年齢差など感じられない仲睦ましいやり取りに、カナエさんは一人目を剥いている。実際、二人は竹馬の友なのだろう。会社の創立からずっと一緒にいるのだ。当然と言えば当然だ。
「いやなに。本当にすっげぇ美人だな。子供がいるとは思えねぇよ」
専務が言うと、カナエさんは気をよくしたようにはにかむ。「そうだろう、そうだろう」父が微笑んで言う。それからカナエさんが二人の会話に溶け込んでいくのはすぐだった。この人の社交性の高さは折り紙つきだ。
それから三人は柄の悪い大学生のようなアホ面で肩を組み合うと、外で飲むんだとか言いつつ出かけていってしまった。当然、専務のお孫さんは家で俺に預けっぱなしだ。豪快とかいう次元の話ではない。
俺はほっぽかされた孫のぷよぷよとした顔を見る。生後何ヶ月もたっていないそいつは、それでも自分のほっぽかされたことは分かっているらしい。酷く憂鬱そうなしかめっ面を浮かべて、赤子としてのかわいらしさを損失していた。
「お互い。苦労するね」
そう言って笑う。赤ん坊はなんだか分からないままに「だぁっ」と答えた。
専務の孫が相手だ。社長様からじきじきにお世話を申し付かっていることだし、粗相があるようではならない。俺は気を引き締めた。
赤ん坊の相手をするのには慣れていた。そうでなければ、いくらあの父でも俺一人に世話は任せないだろう。おしめくらいは代えられる。
専務の鞄の中を漁ると、仕事の書類の合間に、ぞんざいに哺乳瓶が差し込まれている。ぬるくなったそれを取り出して、温めなおしてやろうと俺は孫を置いて立ち上がった。台所は違う部屋にある。
家が広すぎるというのも難点だ。俺が元いた部屋の扉を閉めると、ぞんがいに大きな音が響いた。台所に向かい、お湯の中に哺乳瓶を放り込む。いくら社長の息子だからといっても、この手の雑用から開放される訳ではないのだ。うちには使用人がいないし、仕事と女ばかりの無茶苦茶な親の負担は、そのまま俺に圧し掛かる。
ちょうど良い温度になったところで、俺は哺乳瓶を持って元の部屋に戻ろうとした。今度はそっと扉を開くと、思わぬことに俺は立ち止まった。
見知らぬ女が部屋にいた。
女と形容するにはそいつの肢体は子供染みていて、そいつの表情はあどけなさ過ぎた。今にも泣き出しそうなほどおどおどとした挙動で、それでも精一杯唇を真面目に引き結び、赤ん坊の傍で何やら妙なことをしている。どこから持ってきたのかも分からぬ、明らかに大げさな巨大な料理包丁を手に持って、その赤ん坊のやわらかい腕にそっと押し当てているのだ。
赤ん坊の鳴き声がこだましている。
そいつは大きな瓶をもう片方の手に持って、赤ん坊から滴る血液をそこに一生懸命詰め込んでいるようだ。裂けた傷口を引き絞り、鳴き出す赤ん坊に顔を顰め、自分も泣きそうになりながら一心不乱に血を集めている。あまりに真剣にそんなことをしているものだから、俺は脚が震えてどうして良いのか分からなくなった。
何をしていると怒鳴り込んでは、混乱した女の子が赤ん坊を傷付けるかもしれない。女の子は今にも手が震えそうな危うさがあった。
そっと近付いて、女の子が俺に気付くのを待った。しかし彼女は目の前のことに集中しすぎてそれに気付かない。手を伸ばせば届く距離まで来て、俺は自分でも分かるほどびくびくしながらこう口を開いた。
「おまえさ……」
女の子が目を向いてこちらを見た。蒼白な表情になったその女の子の目は、しかし一瞬のうちに強く据わったそれに変化した。
狂人の目は驚くほど澄んでいるか、或いはおぞましい程に濁っているという。
そこからいうならその少女の目は後者だった。混沌と濁りきったその瞳は、これまでのどんな人間にも見られないもので、俺は思わず竦みあがった。
「……おまえさ」
俺はなんとか口を開く。
「俺の、いもうとだろ……。何をしているんだ……?」
手に持つ包丁の向きが変わった。それからそいつはバネのようにして立ち上がると、逆手に持った包丁を向けてこちらに飛び込んできた。
「うおっ」
決して敏捷とは言えない不恰好なその動き。脚の動かし方を分かっていないようですらあった。あわててかわすと、そいつはあろうことかその場で足をもつれさせ、転がる。俺が思わずそこに近寄ろうとすると、そいつはそのままがむしゃらに包丁を振るってきた。
「あっ」
包丁が俺の頬を撫で、鮮血を迸らせた。たちまちどろどろとした血液が床に滴る、深く切ったらしい。俺がのけぞる間にそいつはばたばた立ち上がって、必死の形相で再び俺に食らいついてきた。
情けないことに、俺はそのままその女の子に組み伏せられてしまった。自分より頭ひとつ分以上小さい女の子にだ。下手に抵抗するのはまずいと思ったのも理由だったが、それだけその女の子が必死だったというのが一番だろう。
俺の上に覆いかぶさった女の子は、今にも泣き出しそうな顔をしていた。一瞬前の、いつ人を殺してもおかしくない表情とは打って変わって、哀れなほど困惑した表情を浮かべている。ただ、小さなその顔に見合わぬほど大きな二つの目だけは、マーカーで塗りつぶしたみたいに黒々と濁っていた。
「どうしよう……」
そいつは世にも情けない声で口にした。
「ばれちゃった……見られちゃった……どうしよう」
そのあまりの発言に、俺は面食らって何もいえなくなった。女の子は全身を恐怖で震えさせている。右手に持った包丁は小刻みにゆれ、俺の頭の上で今にも落ちてきそうだった。
「どうしよう……どうしよう……。あなた……その。見ちゃったよね……気付いちゃったよね、今の……」
視界の真ん中で揺れる包丁に、俺はうなずく。少女は絶望的な表情を浮かべると、次にその唇を強く引き結ぶ。たちまち包丁の奮えが止まった。
「殺すから」
遠いところから聞こえてきた声のような気がした。しかしその声は息のかかる距離で発せられたものであり、発した少女はそれを本当に実行しそうなほど狂った目をしていた。
俺に覆いかぶさるその体は驚くほど華奢で柔らかい。一見中学生に達さないほど軽い体で、布団でもひっぺかすようにすれば、簡単に跳ね除けられそうだ。しかし俺は一抹残った冷静さでそうしたいのを制する。そんなことをしてもまた何度でも暴れだすだけだ。
「おまえ……俺の妹なんだよな」
女の子はちょんとうなずいてみせる。そうしている間も、包丁は俺の喉を狙っているようだった。いつでも突き出せる、ただこの子の覚悟が決まっていないだけなのだ。
「これが……お母さんにバレるのが怖いのか?」
女の子は意図が分からぬように俺のほうを覗き込み、はっとしたようにうなずいた。
「……うん。そうだよ……あの人の子供切っちゃったなんて……まずいよね。でも、しょうがないじゃない、見られちゃったんだから。……でもこのままじゃ……お母さんに殺される、あたし」
「告げ口はしないよ」
俺は強く言い聞かせるようにそう言った。
「したら君が殺されちゃうんだろう? だったら何も言わないよ、君があの赤ちゃんにしてたことも含めて……」
「ほんとうに?」
すがりつくような視線だった。疑うことを知らない無垢な視線。俺はとにかくうなずいてみせるしかなかった。この子をあやして、とにかく喉に突きつけられている包丁をどかす為には、うなずいてみせるしかなかった。
「誰にも言わない? 黙っててくれる?」
「本当だよ。……だからその物騒なものはしまえよ」
女の子は悩むそぶりも見せずに、そっとナイフを俺の喉元から離した。それからそっと俺の元から、よろよろとした様子で立ち上がる。
体を開放されて、俺も同じように立ち上がった。並んで立ってみるとその子は中学生とは思えないほどに小柄で、子供のような体つきをしていた。あどけない顔は怯えと困惑でくしゃくしゃで、息も荒く、こちらのほうをおどおどと上目でうかがってくる。身長は俺の肩ほどもない。こんなのに組み伏せられていたのかと思うと、新鮮な驚きが訪れた。
「あの……」
びくびくと、女の子は俺の頬に手を触れ、血を拭った。ぴりりとした痛みが訪れて、俺は思わず顔を顰める。
「これ……ごめんなさい。あたし、夢中で……」
泣き出しそうに言うもんだから、無理して微笑んで見せしかなかった。尚も不安そうにしている少女の頭を撫でてやる。本当にただのガキみたいだ。
しばしそうしてやっていると、女の子の方の緊張もほぐれたのだろう。次第に呼吸も落ち着いてきた。相変わらず肩は奮えてはいたものの、見た目相応の何もできなさそうな小さな女の子の雰囲気が戻っている。
「ありがとう」
女の子は最後にそう言って、俺のもとを離れた。それから今度は赤ん坊の方におどおどと近寄って、何やら口の中に手を差し込んでいる。意味不明な行為だが、先ほどの血抜き同様に、この子にとっては何らかの意味のある行為なのだろう。
「待てよ」
俺は言った。女の子ははっとした様子でこちらを振り向く。
「そこまでだ。……告げ口したりはしないが、俺に見付かった以上これ以上のことはしちゃいけない。わかったな」
「……はい」
女の子は素直に従った。
「あの……」
「なにかな?」
「部屋……戻っていいですか? その」
「いいよ」
俺は言った。
「あとのことは全部やっとくから。いつお母さん、帰ってくるか分からないしね。傷のことも上手いこと言って誤魔化しとく。それだけ」
少女の手に握られている物騒な包丁を指差す。
「それだけ忘れないように隠しておいて」
「とりあげないんですか?」
女の子は言う。もっともな話だった。
俺が頷くと、少女は刃の方を手に持ってそっと包丁を手渡してきた。そのあまりに従順な姿に、俺は拍子抜けするものさえ感じていた。素直すぎるのだ。
がくんと、少女がいきなりしりもちをついた。
「あ……っ」
女の子はそんな声をあげて、その場で足を抑えてうずくまる。「うぅ……」悲痛な声を絞り出し、泣き出しそうにその場で身悶えた。少女は何とか立ち上がろうとその場に手を付けてふんばるが、両足が微動だにしないままではどうにもならない。
「どうしたんだ?」
俺が尋ねると、少女は歯を食いしばったままこちらを向いて
「……クスリ切れたんです」
それからはっとした表情を浮かべると
「大丈夫、自分で戻れますから。ごめんなさい」
言って、這うようにして自分の部屋の扉を向かっていく。動かない両足を引き摺って、その様子はあまりにも悲痛だった。
……そうだ。この子は足が悪いんだ。
父から聞かされていたことを思い出す。これまであまりにもアクティブに動かれていたものだから、すっかり失念してしまっていた。
「待てよ」
俺は女の子に追いすがる。それからその芋虫のようになった体を持ち上げて、自分の体の後ろに回した。
「つかまって」
「えっと……」
女の子は困惑したような声を出した。それでも意味は分かっているらしく、おれの首元に腕を回した。
女の子をおんぶして彼女の部屋へと向かう。女の子はその間中、驚くほど大人しく、強い力で俺にしがみ付いていた。
暴れまわってほてった体を密着させる。互いの汗の感触を感じているだろう。少女の体は小さく儚いほどに軽かったが、その体温はきちんと人間らしいそれだった。ぎゅっと俺の肩に力を込めてくるその感触が、あまり哀れを誘うものだから、俺は思わず溜息を吐いてしまう。
「あの……」
少女がおどおどと口を開いた。
「ありがとう、ございます」
俺は何も答えられずに、少女を部屋へと運んでいった。