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この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。
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異常個体を瞬殺できる私ですが、好きな人からは全力で逃げます

作者: よねさん
掲載日:2026/10/10

 地下ダンジョン第七十二層。


 白石ひかりの正面で、三メートルを超える巨体が石造りの柱を粉砕した。

 砕けた石材が床へ降り注ぎ、衝撃で周囲の壁に亀裂が走る。


 魔物は四本の太い脚で床を踏みしめ、頭部から伸びる二本の角をひかりへ向けた。

 同じ魔物が、あと六体。


 七体すべてがひかりを取り囲み、逃げ道を塞ぐように距離を詰めていた。

 硬い外殻を持つこの魔物は、一体を倒すだけでも熟練の探索者数名による連携が必要になる。


「……七体か」


 ひかりは周囲を見回し、右手を持ち上げた。


「《イグニス・ダーツ》」


 七つの炎が同時に放たれた。


 正面の魔物が角を突き出して突進し、左右の二体が大きく跳び上がる。

 しかし、炎はそれぞれの動きに合わせて軌道を変え、七体の急所へ正確に命中した。


 爆発音が連続し、七つの巨体が床へ崩れ落ちる。


「……よし、終わり!」


 ひかりは周囲に動く魔物がいないことを確かめると、探索者端末を取り出した。

 画面に表示された時刻は午後五時四十分を少し過ぎたところで、夕飯までにはまだ余裕がある。


「もう少しだけ奥まで行こうかな」


 白石ひかりは、国内でも数えるほどしかいない最高位探索者である。

 高校生であることを理由に資格情報は非公開とされているが、第七十二層で七体の魔物を倒しても、本人にとっては予定どおりの探索だった。


 ただし、そんな彼女にも、どうしても勝てない相手が一人だけいる。


     ◇ ◇ ◇


 時間は少し遡り、同じ日の午後三時三十分。


 放課後の教室で、ひかりは帰り支度をしていた。


「白石、今日もダンジョン?」


 その声を聞いた瞬間、ひかりは鞄の持ち手を握ったまま固まった。

 振り返ると、同じクラスの相沢蓮が机の横に立っている。


 ひかりが、ずっと好きな人だった。


「……う、うん。蓮たちも?」


 ひかりはどうにか返事をしたが、蓮の顔をまともに見られなかった。

 魔物を前にしても落ち着いていられるのに、蓮から話しかけられると、何を言えばいいのか分からなくなる。


「ああ。今日は十八層まで行く予定。余裕があれば二十層かな」

「十八層……」


 ひかりは蓮の装備を見て、最後に右足へ視線を向けた。

 半年ほど前に捻挫した箇所だったが、今は普通に歩けている。


「蓮、足はもう大丈夫?」

「とっくに治ってるって」

「前もそう言って、帰ってきたら腫れてたよね」

「あれ、半年も前だぞ?」


 蓮が笑うと、ひかりは少しだけ唇を尖らせた。

 本人が忘れかけている怪我を自分だけ覚えていることには、触れない方がよさそうだった。


「十八層で戦闘が続いたら、二十層はやめてね」

「分かってるよ」

「知らない魔物が出たら、戦わないで逃げること」

「はいはい。白石は心配性だな」


 直人がひかりの机に肘をついた。


「なあ、白石。俺たちにも何かないの?」

「二人も無理しないでね」

「蓮への注意と随分違うな」

「違わないよ!」


 翔太が笑いながら手を挙げた。


「じゃあ質問。俺が怪我したら?」

「治すよ」

「蓮が怪我したら?」

「怪我しないでほしい!」


 言い切ってから、ひかりは口を閉じた。

 直人が吹き出し、翔太は蓮の肩を軽く叩く。


「……なあ、蓮。今の聞いた?」

「聞いたけど?」

「いや、何でもない」


 蓮は首を傾げたが、それ以上は追及しなかった。


 ひかりが自分の怪我を気にしていることは、以前から知っていた。

 ただ、他の友人には気軽に冗談を返すのに、自分と話すときだけ急に真剣な顔になる理由は、まだ分かっていない。


「じゃあ、行ってくる。また明日な」

「……うん。気をつけてね」

「白石は何時まで潜るんだ?」

「夕飯までには帰るつもりだよ」

「そっか。じゃあ、お互い無事に帰ろうな」

「……うん!」


 蓮は手を振り、直人たちと教室を出ていった。


 ひかりは三人の姿が見えなくなったところで、机へ両手を置いた。


「……また怪我の話しかできなかった」


 せっかく蓮から話しかけてくれたのだから、休日の予定くらい聞けばよかった。

 そう思っても、次に会ったときには同じことを繰り返す気がする。


 ひかりは鞄から探索者端末を取り出し、今日の予定を開いた。


「……私も行こう」


 魔物を相手にする方が、よほど気楽だった。


     ◇ ◇ ◇


 放課後、ひかりは電車でダンジョンの管理施設へ向かった。


 この地下ダンジョンでは、地上の転移装置から探索者本人の到達記録がある階層を指定できる。

 帰還するときは各階層に設けられた転移地点から地上へ直接戻れるが、階層同士を転移で移動することはできない。


 ひかりは更衣室で探索服に着替えると、入場ゲートで端末を認証させ、第七十二層への転移装置に乗った。

 足元の魔法陣が輝き、次の瞬間には、見慣れた石造りの通路が目の前に広がっていた。


 ひかりは周囲の安全を確かめ、今日の目的地へ向かって歩き出した。


     ◇ ◇ ◇


 午後五時四十二分。


 その頃、ダンジョン第十八層では、蓮たちが探索を切り上げようとしていた。


 獣型の魔物を五体倒し、三人とも魔力をそれなりに消費している。

 帰還用の余力を考えれば、二十層へ進まずに戻る方が安全だった。


「そろそろ帰ろう」

「賛成。今日はもう十分だ」

「蓮、帰ったら白石に連絡してやれよ」


 直人が探索者端末で帰還地点までの経路を表示しながら言った。


「何で?」

「心配してただろ」

「……まあ、そうだな」


 蓮は端末を取り出し、ひかりとのメッセージ画面を開いた。

 まだ何も入力していないうちに、翔太が横から覗き込む。


「おっ、素直じゃん」

「別に。無事に帰ったって送るだけだろ」

「はいはい」


 蓮がメッセージを打とうとした、そのときだった。


 通路の奥から、石を引きずるような音が聞こえてきた。

 三人が顔を上げると、曲がり角の向こうから二メートルを超える黒い巨体が姿を現す。


 全身は硬い外殻に覆われ、異様に長い両腕が床の近くまで垂れ下がっていた。

 十八層で確認されている魔物とは、明らかに異なる外見だった。


「……あれ、知ってるか?」

「いや。直人、照合してくれ」

「分かった!」


 直人は端末で撮影し、管理局のデータベースへ画像を送信した。

 数秒後、画面に表示された結果を見て、その顔が強張る。


【該当個体なし】

【未登録個体】

【危険度:判定不能】

【異常個体として自動通報】


「異常個体だ! 撤退するぞ!」


 三人が駆け出した直後、異常個体の右腕が伸び、通路の壁を突き破った。

 蓮が身を屈めると、頭上を巨大な腕が通過し、反対側の壁へ激突する。


「うわっ!」

「壁ごと壊してくるぞ!」

「西側の帰還地点へ走れ!」


 直人が先頭に立ったが、帰還地点へ続く通路は、先ほどの衝撃で崩れた天井の瓦礫に塞がれていた。


「くそっ、通れない!」

「東側へ回るぞ! 保守用通路を使え!」


 直人は端末の地図を切り替え、東側の帰還地点へ続く保守用通路を指さした。

 外側には広い通路も並走しているが、保守用通路の方が距離は短い。


 三人は狭い入口へ飛び込んだ。

 異常個体は肩をぶつけて足を止めたものの、右腕を差し込み、壁を内側から砕き始めた。


「直人、隔壁は!?」

「今閉める!」


 直人が端末を操作すると、天井から防火隔壁が降りた。

 重い金属板が通路を塞いだ直後、向こう側から強い衝撃が響く。


「……あれ、何分持つと思う?」

「分からない! 今のうちに帰還地点まで行くぞ!」


 三人は隔壁を背にして走り出した。


 保守用通路は一般の探索路より狭く、途中には資材搬入口や点検室がいくつも設けられている。

 直人は地図に示された分岐を見ながら、帰還地点へ向かう道を選んだ。


「次の角を右! その先の階段を上がれば東側の通路に出る!」

「あとどれくらいだ!?」

「もう半分は来てる!」


 翔太が振り返ると、隔壁の向こうから二度目の衝撃が響いた。

 金属板が軋み、固定具の一つが床へ落ちる音が聞こえる。


「……おい、今の音」

「振り返るな! 走れ!」


 蓮は二人の後ろを走りながら、探索者端末を取り出そうとした。

 画面には、先ほど開いたひかりとのメッセージがそのまま残っている。


「……白石に、まだ連絡してなかったな」


 直人が振り返った。


「今はそんなこと気にしてる場合か!」

「分かってる!」


 蓮は端末をしまい、二人の後を追った。

 無事に地上へ戻ってから連絡すればいいと考えたが、背後で響く衝撃音は次第に大きくなっていた。


 その頃、管理局は自動通報を受け、第十八層を中心とする三階層への新規進入を禁止していた。

 地上から第十七層、第十八層、第十九層への転移は停止されたが、各階層に滞在している探索者が地上へ脱出するための帰還転移は引き続き利用できる。


 ただし、帰還するには各階層の転移地点まで到達し、装置の認証と起動処理を完了させなければならない。


     ◇ ◇ ◇


 第七十二層。


 ひかりが通路を進んでいると、探索者端末から鋭い警報音が響いた。


【緊急警報:第十八層】

【未登録異常個体を確認】

【危険度:判定不能】

【第十七層~第十九層:新規侵入禁止】

【対象階層への転移:停止】

【地上への帰還転移:使用可能】

【滞在探索者は速やかに退避】


「……十八層?」


 ひかりは画面を見たまま動きを止めた。


『今日は十八層まで行く予定』


 放課後の蓮の声が蘇る。

 ひかりはすぐに電話を掛けたが、呼び出し音が続くだけで応答はなかった。


「……蓮、出て」


 もう一度掛け直しても、結果は同じだった。


 すでに退避している可能性はある。

 けれど、蓮がまだ第十八層にいるかもしれない。

 電話にも出ない以上、無事を確かめるまで待っているわけにはいかなかった。


「……行かなきゃ!」


 ひかりは探索者端末の階層図を開き、第十八層までの経路を調べた。


 地上へ戻ってから第二十層へ転移する方法もあるが、第七十二層の帰還地点までの移動と、二度の転移装置の起動や認証を考えると、十五分ほど掛かる。


 一方、現在地の近くには、第十八層まで続く非常階段があった。

 補助魔法を使えば、五十四階層を駆け上がる方が速い。


 ひかりは最高位探索者に認められた緊急救援権限を使い、現場情報を照会した。

 この権限では、救援活動に必要な範囲に限り、通報に関係する探索者の位置情報と移動履歴を確認できる。


 通報した直人の端末に加え、同行者として登録されている蓮と翔太の端末も、第十八層で位置情報を更新し続けていた。

 三人は西側の帰還地点へ向かったあと、東側の保守用通路へ進路を変更している。


 ひかりは現在位置を把握すると、非常階段の出口から東側の帰還地点へ向かう経路を表示した。


「……だったら、走った方が速い!」


 ひかりは端末をしまい、非常階段へ向き直った。


 魔力を全身へ巡らせ、走行に必要な補助魔法を順番に発動していく。


「《フィジカル・ブースト》」

「《アクセル・センス》」

「《クイック・コグニション》」

「《マルチ・プロセス》」

「《エアロ・ヴェール》」

「《インパクト・ガード》」

「《グラウンド・グリップ》」

「《サウンド・フィルター》」

「《クイック・アクセル》!」


 九つ目の魔法が発動した瞬間、ひかりは床を蹴った。

 凄まじい突風が通路を吹き抜け、積もっていた砂埃が背後へ舞い上がる。


 非常階段は階層間を徒歩で移動するための設備で、途中の階層を経由しながら上下へ続いている。

 ひかりは踊り場へ達する直前に壁へ足をつき、身体を倒し込むように向きを変え、減速することなく次の階段へ飛び込んでいく。


 曲がり角では《グラウンド・グリップ》で足裏を床へ固定し、《インパクト・ガード》で着地の衝撃を抑えた。

 さらに《アクセル・センス》と《クイック・コグニション》で進路上の障害物を捉え、次の足場を判断しながら駆け上がる。


 魔法で強化された脚力によって、階段の数段分を一度に跳び越えていく。

 《エアロ・ヴェール》が身体の周囲を流れる空気を整え、速度を上げるほど大きくなる空気抵抗を軽減していた。


 それでも、長距離を全力で走り続ける負担まで消えるわけではない。

 ひかりは呼吸の回数が増えていくのを自覚しながら、階層表示を見て次の踊り場へ飛び込んだ。


 何度目かの踊り場で、ひかりは壁際に残された資材箱を避けようと身体を傾けた。

 右手を壁へついて進行方向を修正した際、ざらついた石の表面で指先を擦ったが、足を止めることなく走り続ける。


 階段を上るほど脚への負担は増していたが、今は速度を落としている時間さえ惜しかった。


 途中で第十九層へ到達すると、壁面の案内表示が赤く点滅していた。


【第十九層:新規侵入禁止】

【異常個体発生に伴う警戒区域】


 ひかりは表示を一瞥し、非常階段をさらに駆け上がった。

 最高位探索者には緊急時の救援活動を行う権限が認められており、規制区域への進入も許可されている。


 ひかりは足を止めず、第十八層へ続く階段を見据えた。


「……待ってて、蓮!」


     ◇ ◇ ◇


 第十八層の保守用通路では、直人たちが東側の帰還地点を目指して走り続けていた。


 翔太が端末を見ると、帰還地点までの距離はかなり縮まっていた。

 残るのは二つの曲がり角だけだったが、背後では隔壁を叩く音が止まらない。


「直人、あと少しだ!」

「ああ! ここを抜ければ――」


 その言葉を遮るように、金属が裂ける音が響いた。


 隔壁の固定具が破壊され、続いて重い金属板が床へ落下する。

 三人が振り返ると、通路の奥に黒い巨体が姿を現していた。


「……嘘だろ。もう壊したのかよ!」


 異常個体は長い腕を壁へ突き立て、身体を引き寄せるように前進してきた。

 狭い通路では肩を擦りながらの移動になるものの、その速度は三人が予想していたより速い。


「走れ! 帰還地点まで行けば転移できる!」


 三人は再び駆け出した。


 しかし、背後から伸びてきた右腕が壁を砕き、通路の先まで届いた。


「翔太、伏せろ!」


 蓮は翔太の肩を引き寄せ、自分も身を屈めた。

 だが、飛び散った石片を避けようとした際に右足を捻り、激しい痛みで膝をついてしまう。


「ぐっ……!」

「蓮!」


 翔太が蓮の肩を支え、直人が異常個体の足元へ牽制攻撃を放った。

 魔力弾は黒い外殻へ直撃したが、表面に小さな火花を散らしただけで弾かれてしまう。


「嘘だろ!? 全然効いてない!」

「もういい、逃げるぞ!」


 直人は床へ攻撃を切り替え、異常個体の足元を崩した。

 相手が体勢を立て直す隙に、二人は蓮を支えて帰還地点へ向かう。


「悪い、足が……!」

「謝るな! もう少しだ!」


 蓮が右足を地面につくたびに痛みで身体を強張らせるため、三人の移動速度は大きく落ちていた。

 直人と翔太が両側から支えても、走ることはできない。


 帰還地点へ続く通路は、もう目の前だった。

 直人は蓮の肩を支える腕に力を込め、最後の曲がり角へ向かう。


「……あとどれくらいだ?」

「百メートルちょっと! 蓮、もう少し我慢してくれ!」

「分かった……!」


 蓮は左足へ体重を掛け、二人の肩を借りながら進んだ。

 しかし、痛めた右足が床へ触れるたびに激痛が走り、何度も立ち止まりそうになる。


 翔太が背後を振り返った。


「……直人、あいつがいない」

「何?」


 さっきまで通路の奥に見えていた異常個体の姿が消えていた。

 壁を砕く音も聞こえなくなっている。


「諦めた……わけないよな?」

「そんな都合のいいこと、あるかよ!」


 直人は保守用通路の外側を並走する広い通路を思い出した。

 異常個体がそちらへ出たなら、障害物の少ない経路を使って先回りできる。


 その直後、右側の壁の向こうから、何かが床を強く叩く音が響いた。

 続いて石材が崩れる音が聞こえ、壁面に細かな亀裂が走る。


「……おい、今の音!」

「広い通路の方だ! あいつ、外へ出たんだ!」


 直人は蓮を支え直し、帰還地点へ続く曲がり角を指さした。


「急げ! 合流地点まで来られたら逃げられない!」


 三人は必死に進んだが、蓮の右足が限界だった。


 帰還地点へ続く通路へ入ろうとした瞬間、前方の壁が砕け散った。

 黒い巨体が広い通路から合流し、三人の進路を塞ぐ。


「……先回りされた!?」


 直人が足を止める。

 異常個体は通路を塞ぐように立ち、左右の腕をゆっくりと持ち上げた。


「翔太、蓮を連れて行け!」

「お前はどうするんだよ!」

「俺が引きつける!」


 直人は横へ走り、異常個体の注意を自分へ向けようとした。

 だが、右腕に弾き飛ばされ、壁際へ倒れ込む。


「ぐあっ!」


 翔太が蓮を支えたまま後退する。

 しかし、左腕が伸び、翔太の肩を強く打った。


「翔太!」


 蓮は支えを失い、床へ倒れた。

 右足に力を入れようとしたものの、痛みで立ち上がれない。


 直人は壁際から起き上がろうとしたが、打ちつけた腕に力が入らなかった。

 翔太も肩を押さえたまま膝をつき、蓮のところまで戻れずにいる。


「……蓮! 逃げろ!」

「無理だ……足が!」


 蓮は床へ手をつき、身体を引きずるように後退した。

 しかし、異常個体の長い腕が通路を塞ぎ、逃げられる方向は残されていなかった。


 異常個体は蓮へ向き直り、右腕を持ち上げた。


「……くそっ」


 蓮は床へ手をつき、身体を動かそうとした。

 しかし、異常個体の右腕はすでに振り下ろされようとしていた。


     ◇ ◇ ◇


 第十八層の非常階段出口。


 ひかりは最後の踊り場を駆け上がり、階層扉を押し開けた。

 端末には蓮たちの位置情報が表示されており、三人が東側の帰還地点へ続く通路にいることが分かる。


 ひかりは端末を片手に通路へ飛び出し、表示された経路に従って角を曲がった。

 その先から、石材が砕ける音と誰かの叫び声が聞こえてくる。


「……蓮!」


 ひかりは端末をしまい、最後の直線を一気に駆け抜けた。

 曲がり角を抜けた瞬間、床に倒れた蓮と、その頭上へ右腕を振り下ろそうとしている異常個体が視界に入った。


「《ディバイン・レイ》!」


 通路の奥から白い光が走った。


 光が異常個体の右肘を貫き、振り下ろされかけていた腕を切断する。

 黒い外殻に覆われた右肘から先が床へ落ちた直後、猛烈な突風が通路を吹き抜けた。


 砂埃が舞い上がる中、ひかりは蓮と異常個体の間へ滑り込んだ。


「はぁっ……! はぁっ……!」


 ひかりは両膝へ手をつき、肩を大きく上下させていた。

 汗で探索服の襟元が濡れ、呼吸をするたびに身体が揺れている。


「……白石?」


 蓮が呟くと、ひかりが顔を上げた。


「蓮……!」


 ひかりは蓮の右足を見て、表情を変えた。

 靴下には飛散した石片で切ったらしい傷から血が滲み、足首も腫れ始めている。


 すぐに駆け寄りたかったが、ひかりはその場から動かなかった。


 異常個体はまだ生きている。

 先に倒さなければ、蓮を治療している間に再び襲われる可能性があった。


「……少しだけ、待ってて」


 ひかりは蓮へ声を掛け、異常個体へ向き直った。

 相手は残った左腕を振り上げ、ひかりへ突進してくる。


「《ディバイン・レイ》!」


 白い閃光が放たれた。


 だが、五十四階層を全力で走ってきた疲労で、ひかりの右腕は普段よりわずかに遅れていた。

 呼吸に合わせて肩が上下した瞬間に放ったため、狙った胸の中心から光の軌道が少しだけ外れる。


 異常個体はそのずれに反応し、横へ跳んだ。

 閃光は肩を貫いたものの、胴体への直撃には至らなかった。


「……外した」


 ひかりは呼吸を整えながら、相手の動きを見た。

 単発の光をもう一度撃っても、同じように避けられる可能性がある。


 それなら、逃げる方向ごと攻撃すればいい。


「《ディバイン・エッジ》!」


 ひかりの右手から、細く収束した白い光が伸びた。

 光は実体のある剣ではなく、魔力を持続的に放出する攻撃であり、ひかりが出力を維持する限り消えることはない。


 異常個体は再び横へ跳び、光の正面から外れようとした。

 ひかりはその動きに合わせて右腕を横へ振り、持続する白光を通路の端まで薙ぎ払う。


 白光が黒い外殻を横切り、異常個体の胴体を切断した。

 巨体は上下に分かれて床へ落ち、そのまま動かなくなった。


 ひかりが最初の《ディバイン・レイ》を放ってから、決着まで十秒も掛かっていなかった。


 ひかりは倒れた個体を一度見ると、すぐに蓮へ向き直った。


「蓮、足を見せて!」


 蓮の前へ膝をつき、右足の腫れと傷を調べる。

 ひかりの手は落ち着いていたが、呼吸だけはまだ整っていなかった。


「……白石、お前」

「動かさないで。骨も確認するから」

「いや、そうじゃなくて」

「痛みは? 足首以外にもある?」

「……右肩を少し打った」

「分かった」


 ひかりは右足と肩の状態を調べ、手をかざした。


「《ヒール》」


 柔らかな光が蓮の身体を包み、傷と腫れが治まっていく。

 蓮が足首を動かせることを確かめると、ひかりは立ち上がり、直人と翔太のところへ向かった。


「二人とも、怪我を見せて」

「俺は腕だけ」

「こっちは肩をやられた」

「分かった。順番に治すね」


 ひかりは直人の腕、続いて翔太の肩へ《ヒール》を掛けた。

 三人の怪我が治ったところで、ようやく壁へ片手をつき、深呼吸を繰り返した。


 五十四階層を全力で駆け上がった負担は大きく、息切れはなかなか収まらなかった。


「……はぁっ……はぁっ……」


 蓮はひかりの様子を見て、慌てて近づいた。


「白石、大丈夫か!?」

「……うん。ちょっと……走りすぎちゃった、かな……」


 ひかりは笑って答えようとしたが、まだ呼吸が整わず、言葉が途切れてしまった。

 もう一度ゆっくり息を吐き、壁から手を離そうとしたところで、疲労の残る脚がふらついた。


「危ない!」


 蓮が腕を伸ばし、ひかりの身体を支えた。


「……っ!」


 ひかりは蓮の腕に支えられたまま動きを止めた。

 目の前には蓮の顔があり、肩へ添えられた手は倒れないようにしっかり支えている。


「ほら、まだ無理するなって」

「……う、うん」


 ひかりは小さく頷いた。

 蓮は彼女の呼吸が落ち着くまで、支えている腕を離さなかった。


「白石、ありがとう。俺たちを助けてくれて」

「……うん」

「でも、今度はお前も無理しないでくれよ」


 蓮はひかりの肩を支えたまま、少し困ったように笑った。


「俺だって、白石が怪我したら嫌だし」


 ひかりは返事をしようとしたが、言葉が出てこなかった。

 自分が蓮を心配するのはいつものことなのに、蓮から同じように心配されるとは思っていなかった。


「……ありがとう」


 ひかりはそれだけ答え、蓮の腕からゆっくり離れた。


     ◇ ◇ ◇


 異常個体の討伐からしばらくして、管理局の職員と救護班が到着した。


 ひかりはその間、壁際に腰を下ろして休んでいた。

 息切れはまだ完全には収まっていなかったが、呼吸は少しずつ落ち着いてきていた。


「負傷者は三名と聞いていますが――」


 職員の一人が端末を見ながら近づいてきた。

 ひかりの顔を見た瞬間、わずかに目を見開いたが、すぐに表情を戻す。


「……現場で対応された探索者の方ですね」

「はい。負傷者三名は《ヒール》で治療済みです」

「承知しました。念のため、救護班による確認をお願いいたします」


 職員は端末の記録に目を通し、ひかりへ小さく会釈した。

 その後、周囲に聞こえないよう声を落とす。


「白石さん、資格情報の取り扱いは通常どおり非公開で進めます」

「ありがとうございます。学校の友達なので、お願いします」

「承知しております」


 ひかりは頷き、端末に表示された戦闘記録を開いた。


「異常個体の討伐データは送信済みです。映像も残っています」

「確認できております。個体の回収と調査を行い、討伐報奨金は査定後に登録口座へお振り込みいたします」

「よろしくお願いします」


 職員は必要な項目を端末へ入力し、回収班へ個体の位置情報を送信した。

 ひかりは討伐に使用した魔法と異常個体の動きについて簡潔に説明し、残りの詳細は提出済みの戦闘データで確認してもらうことになった。


 そのやり取りを見ていた蓮は、ひかりの右手に目を留めた。

 端末を操作する指先に、小さな擦り傷が残っている。


「白石、その手」

「え?」


 ひかりが自分の右手を見下ろした。


「ああ、階段で壁に触ったときかな。これくらいなら大丈夫だよ」

「……治さないのか?」

「うん。小さい傷だし、放っておいてもすぐ治るから」


 蓮は鞄から小さな救急ポーチを取り出した。

 探索用に持ち歩いているもので、消毒シートと絆創膏が入っている。


「手、貸して」

「……え?」

「傷、開いてるから」


 蓮はひかりの返事を待ち、差し出された右手をそっと取った。

 傷口を消毒して絆創膏を貼る間、ひかりは何も言わず、その手元を見つめていた。


「……蓮、これくらいなら自分でできるよ」

「知ってる。でも、今日は俺にやらせて」


 蓮は絆創膏の端を押さえ、剥がれないことを確かめた。


「さっきは助けてもらうだけだったからさ。これくらいは、俺にもさせてほしい」


 ひかりは右手の絆創膏を見下ろした。

 魔法を使えば数秒で治せる傷だったが、蓮が貼ってくれたものをすぐに剥がす気にはなれなかった。


「……ありがとう。大事にするね」

「いや、絆創膏だぞ?」

「……うん。分かってる」


 蓮は笑いかけたが、ひかりは右手を胸元へ引き寄せたままだった。


 蓮は救急ポーチをしまいながら、ひかりへもう一度声を掛けた。


「白石、今日はもう走らなくていいからな」

「……うん」

「帰りはゆっくり歩こう」


 ひかりは少し驚いた顔をしてから、小さく笑った。


「……ありがとう」


     ◇ ◇ ◇


 現場での確認が終わると、四人は管理局の待機室へ案内された。

 救護班による最終確認も済み、直人と翔太はようやく落ち着いてひかりへ質問できるようになった。


「なあ、白石。さっきの職員さん、明らかにお前への対応が違ったよな」

「……そうかな」

「そうだろ。何者なんだよ?」


 ひかりは少し考え、鞄から探索者端末を取り出した。

 登録情報のうち、公開しても問題のない部分だけを表示して三人へ見せる。


【探索者資格:最高位】


「…………」


 直人が画面を見たまま固まった。

 翔太は二度見してから、ひかりへ顔を向ける。


「……最高位?」

「うん」

「国内でも数えるほどしかいない、あの最高位?」

「そうだよ」


 直人は深く息を吐いた。


「……なるほど。あの異常個体を瞬殺できたわけだ」


 翔太は椅子の背もたれへ身体を預けた。


「俺たち、何も知らずに白石をからかってたのか……」

「それは別にいいけど」

「いや、よくない気がしてきた」


 ひかりは苦笑しながら端末をしまおうとした。

 すると、蓮が口を開く。


「白石、今日どこにいたんだ?」

「……七十二層」

「七十二層!?」


 直人と翔太が同時に声を上げた。


「じゃあ、十八層までどうやって来たんだ?」

「走って」

「……走って?」

「うん。補助魔法を九つ使ったから」


 直人は端末の階層図を開き、七十二層から十八層まで指でなぞった。


「五十四階層……」

「移動時間は?」

「五分ちょっと走ったかな。正確には測ってないけど」


 直人は画面に残っていた通報時刻と、救助時の記録を照合した。

 異常個体の通報からひかりの到着までは六分四十七秒で、その間にひかりは警報を確認し、二度の通話と補助魔法の準備を済ませていた。


「……本当に走って来たのか」

「うん」

「俺たち、あの六分がなかったら死んでたぞ」


 翔太が静かに言った。

 ひかりは何も答えず、蓮の右足へ視線を落とした。


「……あのね、三人にお願いがあるんだけど」


 ひかりが改めて顔を上げると、三人は揃って彼女へ向き直った。


「私が最高位探索者だってこと、学校では内緒にしてほしいの。高校生だから、管理局でも非公開扱いになってるんだ」

「もちろん。勝手に話したりしないよ」

「俺も。白石が困るようなことはしない」

「……俺も約束する」


 直人、翔太、蓮の順に答えると、ひかりはほっとしたように笑った。


「ありがとう」


 蓮はひかりが端末を鞄へしまうのを待ち、自分から声を掛けた。


「白石、今日はもう探索しないよな?」

「え? うん。帰るつもりだけど」

「じゃあ、駅まで一緒に帰ろう」

「……え?」


 ひかりが顔を上げる。


「俺もそっち方面だからさ。よかったら」

「……う、うん。いいよ」


 ひかりは小さく頷いた。

 蓮は立ち上がり、彼女が鞄を持つまで待った。


 直人が二人を交互に見た。


「……あれ? 俺たちは?」

「一緒に帰るだろ?」

「……いや、何でもない」


 翔太が直人の脇腹を肘でつついた。

 二人は顔を見合わせ、何やら小声で相談を始める。


     ◇ ◇ ◇


 ダンジョンを出る頃には、外はすっかり暗くなっていた。


 ひかりは管理施設を出る前に、家族へ帰宅が遅くなることを連絡していた。

 異常個体の救援に向かったことは詳しく書かず、管理局での確認に時間が掛かったとだけ伝える。


 四人は駅へ向かって歩いていたが、途中の交差点で直人と翔太が足を止めた。


「俺たち、こっちだから」

「え? 二人とも同じ方向じゃなかった?」


 ひかりが聞くと、翔太が笑った。


「今日はこっちから帰ることにした」

「何それ?」

「じゃあな、蓮。白石も」

「また明日な!」


 二人はひかりの返事を待たずに歩いていった。

 蓮は曲がり角の向こうへ消えていく二人を見て、呆れたように笑った。


「……あいつら、分かりやすいな」


 ひかりは鞄の持ち手を握り直した。

 蓮と二人きりになるのは初めてではないが、今日は自分から誘われている。


「白石、歩くの速くない?」

「……え?」

「さっき、ゆっくり帰ろうって言っただろ」


 ひかりは自分の足元を見た。

 無意識のうちに歩く速度が上がっていたらしく、蓮より半歩ほど前に出ている。


「……ごめん」

「謝らなくていいよ。俺がもう少しゆっくり歩きたいだけだから」


 蓮が歩幅を緩めると、ひかりもそれに合わせた。

 二人は並んで歩き始め、駅前の明るい通りへ出る。


「白石、ちょっと寄り道してもいい?」

「……どこ?」

「そこのコンビニ。飲み物買いたくて」

「うん。いいよ」


 二人は駅前のコンビニへ入り、飲み物の棚へ向かった。

 蓮はスポーツドリンクを一本取り、隣に並ぶひかりへ顔を向ける。


「白石は何飲む?」

「私は大丈夫。まだ水が残ってるから」

「じゃあ、甘いものは? 今日、夕飯までに帰る予定だったんだろ」

「……覚えてたの?」

「放課後に言ってただろ」


 ひかりは少し驚いた。

 蓮が自分の予定を覚えていたことが嬉しくて、つい口元が緩む。


「……じゃあ、プリン」

「プリン?」

「うん。疲れたときに食べると、おいしいから」

「分かった。俺も買おうかな」


 蓮は冷蔵棚からプリンを二つ取り、レジへ向かった。

 ひかりが財布を出そうとすると、蓮は軽く首を振る。


「今日は俺に出させて」

「でも……」

「お礼。これじゃ全然足りないけど」


 ひかりは少し迷ったあと、財布を鞄へ戻した。


「……じゃあ、ごちそうになります」

「どういたしまして」


 店を出ると、蓮は駅前のベンチを指さした。


「少し座っていかない?」

「……うん」


 二人は並んで腰を下ろした。

 ひかりはプリンの蓋を開け、付属のスプーンを取り出す。


 蓮も同じように蓋を開けたが、一口食べたところで思わず笑った。


「……甘っ」

「え? そう?」

「白石、これ好きなの?」

「うん。甘いもの、結構好きだよ」

「知らなかった」


 蓮はもう一口食べてから、ひかりの方を見た。


「今度、別の店のプリンも食べてみない?」

「……え?」

「駅の反対側に新しい店ができたんだ。前から気になってたんだけど、一人で入るのも何となくな」


 ひかりはスプーンを持ったまま、蓮を見つめた。


「……それって、二人で?」

「うん。白石がよければ」


 蓮はひかりの返事を待ちながら、プリンの容器を持ち直した。

 放課後に教室で話すときは、いつも周囲に直人や翔太がいる。


 こうして二人で座ってみると、ひかりが甘いものを好きなことも、食べる前に小さく笑うことも、初めて知ることばかりだった。


「……私で、いいの?」

「もちろん。白石と話すの、前から結構好きだったんだよ」


 ひかりの手から、スプーンが滑り落ちそうになった。


「……っ!」


 慌てて持ち直したひかりは、プリンの容器を膝の上へ置いた。

 蓮はそんな彼女を見て、少し笑う。


「嫌だった?」

「嫌じゃない! 全然、嫌じゃない!」

「じゃあ、決まりだな」

「……うん」


 ひかりはプリンを一口食べた。

 蓮はその横顔を見て、次はどんな話をしようかと考えた。


 しばらくして、蓮がひかりの右手へ視線を向けた。


「絆創膏、まだ貼ってるんだな」

「……うん」

「もう治せるだろ?」

「治せるけど……今日は、このままでいいかなって」


 ひかりは右手を膝の上へ置き、絆創膏の端を指で押さえた。

 蓮はそれを見て、自分が貼った絆創膏を彼女がまだ大切にしていることに気づいた。


「……白石って、そういうところあるよな」

「そういうところ?」

「人がしてくれたこと、ちゃんと覚えてるところ」


 ひかりは蓮の顔を見た。


「……蓮だって、覚えてるよ」

「俺が?」

「うん。私が夕飯までに帰る予定だったことも、覚えててくれたし」


 蓮は少し照れくさくなり、プリンの容器へ視線を落とした。


「……そりゃ、白石のことだから」


 ひかりの手が止まった。


「…………え?」

「いや、別に変な意味じゃなくて……」


 蓮は言いかけて、口を閉じた。

 ひかりが自分の顔を見つめていることに気づき、今度は目を逸らさずに話す。


「……教室だと、いつも怪我の心配ばっかりされるけどさ」

「だ、だって蓮、前に無理して――」

「うん。だから、心配してくれてるのは分かってる」


 蓮はプリンの容器をベンチの横へ置いた。


「でも、今日は別の話もできたし。白石がプリン好きなのも知れたし」

「……うん」

「だから、また二人で出かけたいなって思った」


 ひかりはゆっくりと容器をベンチへ置いた。

 蓮はその様子を見て、少しだけ身を乗り出す。


「……白石?」

「……う、うん」

「もし迷ってるなら、無理にとは言わないけど」


 ひかりは慌てて首を振った。


「迷ってない! 行きたい!」

「よかった」


 蓮は安心したように笑い、ひかりへ続けた。


「俺は、白石がいいんだけど」


 ひかりは両手で頬を押さえた。


「……ま、待って」

「うん」

「ちょっとだけ、待って……!」


 ひかりは立ち上がり、何度も深呼吸を繰り返した。

 蓮は驚いて顔を上げる。


「白石?」

「……ごめん。今、頭の中が大変なことになってる」

「……大変?」

「うん。魔法を九つ同時に使うより、ずっと大変!」


 蓮は思わず笑った。


「そんなに?」

「そんなに!」


 ひかりはもう一度深呼吸をして、蓮へ向き直ろうとした。

 しかし、目が合った瞬間、さっきの言葉がもう一度頭に浮かんでしまう。


『俺は、白石がいいんだけど』


「……っ、無理!」


 ひかりは鞄を掴み、ベンチから離れた。


「えっ、白石!?」

「ごめん! 今日はもう帰る!」


 次の瞬間、足元へ魔力が集まる。


「《クイック・アクセル》!」


 蓮が何か言いかけた瞬間、ひかりは地面を蹴った。

 猛烈な突風が吹き抜け、蓮の前髪が大きく乱れる。


 再び目を開けたとき、ひかりはすでに遠くの交差点を曲がるところだった。


「……速っ!」


 蓮は呆然と立ち尽くした。

 隣のベンチには、食べかけのプリンが残されている。


 しばらくして、蓮はそれを見下ろし、思わず笑った。


「……プリン、忘れてるし」


 蓮はひかりのプリンを片づけ、ゴミ箱へ容器を捨てた。

 そして、もう一度コンビニへ戻ると、同じ種類のプリンを一つ購入した。


 明日、学校で渡せばいい。


 蓮は袋を持ち直し、ひかりへメッセージを送った。


『今日はありがとう。ちゃんと帰れた?』


 少しして、返信が届く。


『帰れた! ごめんね!』


 蓮は画面を見て笑い、もう一通送った。


『プリン、明日渡すからな』


 すぐに既読がついたものの、返事が来るまでには少し時間が掛かった。


『……ありがとう』


 蓮は端末をしまい、駅へ向かって歩き出した。


     ◇ ◇ ◇


 翌朝。


 ひかりは教室の前で足を止め、扉の小窓から中を覗いた。

 蓮はすでに登校しており、直人と翔太を相手に何か話している。


 昨日の帰り道を思い出したひかりは、廊下の壁へ額を寄せた。


「……どうしよう」


 異常個体を倒したときは、相手の動きを見てすぐに攻撃方法を切り替えられた。

 それなのに、蓮から二人で出かけたいと言われたときには、返事をする前に逃げてしまった。


 ひかりは鞄の持ち手を握り、もう一度深呼吸した。


「……今日は、ちゃんと話す」


 覚悟を決めて教室へ入ると、蓮がこちらを向いた。


「おはよう、白石」

「……おはよう」


 蓮は自分の鞄から小さな袋を取り出し、ひかりへ差し出した。


「これ、昨日のプリンと同じやつ」

「……え?」


 袋の中には、未開封のプリンが入っていた。


「昨日、帰りに買っておいたんだ。家の冷蔵庫に入れておいたから大丈夫。今朝は保冷剤も入れてきた」

「……ありがとう」


 ひかりは袋を受け取り、胸元へ抱えた。


「それと、昨日の店の話なんだけど」

「……うん」


 ひかりは蓮を見上げた。

 今度は逃げずに、最後まで聞くつもりだった。


「今度の日曜、空いてる?」

「……空いてる」

「じゃあ、一緒に行こう」

「……うん!」


 ひかりは大きく頷いた。

 蓮が嬉しそうに笑うのを見て、ようやく肩の力が抜ける。


 直人が横から顔を出した。


「おっ、デート決定?」

「……直人!」

「何だよ。違うのか?」

「……違わないけど!」


 翔太が吹き出し、直人は満足そうに頷いた。


「じゃあ、日曜は十八層に誘わない方がいいな」

「当たり前だろ」


 蓮が即答すると、ひかりは驚いて彼を見た。

 蓮は少し照れくさそうに笑い、ひかりへ顔を向ける。


「日曜、楽しみにしてるから」

「……私も!」


 ひかりは今度こそ、はっきりと答えた。


 そのとき、蓮がひかりの右手へ視線を向けた。


「白石、その絆創膏、まだ貼ってたの?」

「……うん」

「もう傷、治ってるだろ?」

「……治ってるけど、もう少しだけ」


 ひかりは右手を隠すように机の下へ引っ込めた。

 蓮はそれ以上何も言わず、笑ったまま自分の席へ戻っていく。


 机の上には、蓮が買ってくれたプリンがある。

 ひかりは袋の中を覗き込み、思わず頬を緩めた。


「……日曜日、何着ていこうかな」


 小さく呟いたところで、背後から翔太の声がした。


「白石、今からデートの服考えてるの?」

「ひゃっ!? き、聞いてたの!?」

「いや、普通に聞こえたけど」


 ひかりは慌てて振り返り、翔太の口元に浮かぶ笑みを見て、頬を赤くした。

 翔太は笑いを堪えながら、直人の方へ顔を向ける。


「……なあ、蓮。白石、相当楽しみにしてるみたいだぞ」

「……そうなの?」


 蓮がこちらを向くと、ひかりは慌てて首を振った。


「ち、違う! 違わないけど、そういう意味じゃなくて……!」


 蓮は少し笑い、ひかりへ声を掛けた。


「日曜の待ち合わせ、あとで相談しような」

「……う、うん!」


 ひかりは小さく頷き、机の上のプリンを鞄へしまった。


 日曜日は、絶対に逃げない。


 そう決めたところで、蓮がもう一度こちらへ笑いかけてきた。


「……っ!」


 ひかりは反射的に足へ魔力を集めかけ、慌てて両膝を押さえた。


 どうやら、日曜日までに練習が必要らしい。

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