婚約破棄されたので、好きなことだけやって生きることにしました
婚約破棄を告げられたのは、王城の中庭だった。
夕暮れの光が噴水を赤く染め、石畳の向こうでは宴の音楽がまだ続いていた。リーナ・ヴァンホルトは、十七歳のころから三年間、ほとんど毎日顔を合わせてきた婚約者の口元を見つめながら、ぼんやりとそんなことを考えていた。
「――以上が、僕の意思だ。父上にはもう話してある。君の家にも明日、使者を送る」
エドゥアール・クレスト侯爵子息は、礼節正しく、端正な顔立ちをしていた。仕立ての良い上着の胸元に飾り布をつけ、淡い茶色の髪を丁寧に整えている。彼が「以上」と言うとき、それはいつも本当に以上なのだった。付け加える言葉も、感情の揺らぎも、何もない。
「……わかりました」
リーナはそれだけ答えた。
胸が痛いかと問われれば、正直なところよくわからなかった。悲しいというより、長い時間をかけて心が少しずつ遠くなっていくような感覚を、もうずっと前から覚えていた気がする。彼が自分のことを「侯爵家に見合う令嬢」として見ていて、自分もそれに応えようとしていて、でもお互いが本当に何を考えているのかはわからないままで――そういう日々が三年間続いていたのだ。
「整理がつかないなら、少し時間を――」
「いいえ」
リーナは彼の言葉を遮った。
「もう整理はついています。ご縁がなかったということですね」
エドゥアールが微かに目を見開いた。彼が驚くのは珍しかった。リーナはその顔を記憶に焼きつけるでもなく、ただ軽く頭を下げて、宴の明かりとは逆の方向へ歩き出した。
涙は、出なかった。
翌朝、リーナは夜明けとともに起き出して、荷造りを始めた。
実家はヴァンホルト男爵家。王都に屋敷を構えてはいるが、もともとは地方の小貴族だ。婚約が整ってから三年、リーナは「侯爵家の未来の妻」として王都の社交界に適応しようと努めてきた。ドレスの選び方、食事の作法、会話の運び方。薬草の知識など田舎くさいと思われるからと、なるべく話題にしないようにしていた。
でも、もうそうしなくていい。
その思いが、不思議なほど軽かった。
革の鞄に詰め込んだのは、着替えが数枚と、薬草の図鑑が二冊と、乳鉢と乳棒と調合道具の一式だった。ドレスはほとんど置いていった。刺繍の入った上等なものより、動きやすい麻の服の方が今の自分には似合う気がした。
母が部屋に来たのは、荷造りが半分ほど済んだころだった。
「リーナ、どこへ行くの」
「ヴァルム村です。お父様の旧知のかたが診療所を営んでいると聞いていたので、そこで働かせてもらえないか手紙を書きました。昨夜のうちに使いを出したので、返事が来る前に発つことになりますが」
「昨夜のうちに……」
母は言葉を失ったようだった。
「あなたって子は、本当に」
「心配をかけてごめんなさい。でも、ここにいても何もできないし、このまま王都で次の縁談を探すというのも気が乗らなくて。少し遠くで、自分の好きなことをしてみたいんです」
母はしばらく沈黙してから、ため息をついて、それからリーナの頬に手を当てた。
「泣いてないの」
「泣くほど悲しくなかったみたい。それが少し、寂しいです」
馬車は昼前に出た。王都の石畳の道がやがて土道に変わり、街並みが農村の風景に溶け込んでいくのを、リーナは窓から眺めていた。車窓に揺れる野原に、もう春の薬草が芽吹き始めているのが見えた。
スズシロ、ヤナギラン、イタドリの若芽。
自然に、名前が浮かんだ。久しぶりに、それが嬉しかった。
ヴァルム村は、王都から馬車で二日ほどの距離にある小さな集落だった。
山の裾野に寄り添うように家々が建ち並び、村の中央には石造りの教会と小さな広場がある。診療所は村はずれの少し高いところにあって、白壁に蔦が絡んでいた。庭には薬草が整然と植えられており、リーナは馬車を降りた瞬間に、その匂いを深く吸い込んだ。
土と草と、かすかに苦みのある蒸気の香り。
ここだ、と思った。ここなら息ができる。
返事も来ないまま押しかけてきたことを詫びようとしたが、出てきたのは父の旧知の老医師ではなく、三十歳前後と思しき男性だった。背が高く、肩幅があって、白い診察衣を纏っている。髪は黒く、少し乱れていて、眼鏡の奥の目は鋭いが、険しいというより何かを正確に見ようとしている目だった。
「ヴァンホルト家の令嬢か」
彼は言った。敬称も枕詞もない。
「手紙は読んだ。師匠は三月前に引退して、今は私が引き継いでいる。クロード・アッシュ。王都の医師免許を持っている」
「突然押しかけてしまって申し訳ありません。リーナ・ヴァンホルトと申します。薬草の知識があります。調合もできます。給金は要りません、住む場所さえいただければ」
「給金は出す。それと」
彼はリーナの鞄をちらりと見た。
「その鞄の中に乳棒が入っているな」
「はい」
「なら試してみろ。ガレット草とマリーホワイトを八対二で合わせて、錠剤を百粒作れ。それができたら採用する」
リーナは少し考えた。ガレット草の成分は揮発しやすい。乾燥の度合いで配合を微調整する必要がある。
「草の乾燥状態によって割合が変わります。今日入手できる草を先に確認させてもらえますか」
クロードが初めて、ほんの少しだけ表情を動かした。それが笑みだったのかどうかは、よくわからなかった。
「庭を見てきていい。道具はそこの棚を使え」
リーナはそれから三時間、無心に薬草と向き合った。久しぶりに、時間を忘れた。
クロードは、無口だった。
朝は夜明けとともに起き出して診療の準備をし、午前中に往診、午後は診察、夕方は記録をつける。食事は素朴で、会話は最小限だった。リーナが何か尋ねたときだけ答えるが、その答えは正確で、余分なものがない。
リーナは最初、扱いにくい人だと思っていた。
でも日が経つにつれて、彼が無口なのではなく、必要なことだけを話す人なのだとわかってきた。患者に対しては違った。老人の手を握りながらじっくりと話を聞き、子どもが怖がれば膝をついて目線を合わせた。難しい病状を抱えた若い母親に、彼が丁寧な言葉で病名と治療の見通しを説明しているのをリーナが廊下から聞いてしまったとき、その声の穏やかさに少し驚いた。
ある夕方、薬の瓶を棚に並べながらリーナは尋ねた。
「先生は、どうして王都ではなくここに来たんですか」
「王都の病院は嫌いだ」
クロードはカルテに目を落としたまま言った。
「金のある患者しか診ない。そうでない者には粗雑な治療をして終わる。ここでは全員を診られる」
「……そういう理由ですか」
「他に理由がいるか」
リーナは少し笑った。彼は顔を上げて、「なぜ笑う」と言った。
「いえ、シンプルだと思って。私が王都にいたときは、もっとたくさんのことを考えて、いろいろと理由をつけて動いていたので。先生みたいに一本筋が通っているのが、羨ましいというか」
クロードはしばらく黙った。
「君は薬草の扱いが丁寧だ。理由がある動き方をする」
それはどういう意味か問おうとしたが、彼はもうカルテに戻っていた。
村人たちは、リーナをよく受け入れてくれた。はじめのうちは「お嬢様が診療所に?」と不思議がられたが、薬草のことなら誰より詳しく、調合は確かで、何より患者に寄り添おうとする姿勢が伝わったのだと思う。老婆のオルガは、リーナが膝の痛みに効く湿布薬を作ると、毎週採れたてのハーブを持ってきてくれた。農夫のクラウスは「先生より話しかけやすい」と言って、些細な体調の変化を相談してくれた。
村に来て一ヶ月が経つころ、リーナはここに来てよかったと、はっきりと思った。
五月の終わりに、大雨が続く夜があった。
川沿いの農家が浸水し、一家が診療所に避難してきた。子どもが三人、老人が一人、母親が一人。リーナはタオルと乾いた着替えを用意し、温かいスープを作り、子どもたちが眠れるよう寝床の準備をした。クロードは老人の足の傷を手当てしながら、淡々と指示を出した。
日が変わるころ、ようやく全員が落ち着いた。
クロードとリーナは台所で、残ったスープを啜った。雨音だけが続いていた。
「疲れたか」
「少し。でも充実しています」
「慣れない仕事だったろう」
「もともとこういうことは嫌いじゃないんです。王都では場違いな気がしてやらなかっただけで」
クロードは湯気の立つカップを両手で包んで、窓の外の雨を見ていた。
「王都で何があったんだ」
リーナは少し驚いた。彼が個人的なことを聞くのは初めてだった。
「婚約が破棄されました」
正直に言った。
「三年間、侯爵子息の婚約者として、その家に見合う女性でいようとしていて。でもそれが、どうしても自分には合わなくて。向こうもそれがわかったんだと思います」
「合わなかったとはどういうことだ」
「私、本当は薬草とか、こういう地道な仕事が好きで。でも王都では、それを言うのが恥ずかしいような気がして。田舎くさいと思われるとか、相手の格にふさわしくないとか、そういうことばかり考えていたので」
クロードはしばらく黙っていた。
「田舎くさいの意味がわからない」
彼はようやく言った。
「薬草の知識は専門技術だ。王都の医師で、君ほど配合に精通している者はほとんどいない」
リーナは思わず笑った。笑いながら、目の奥がじわりと熱くなった。三年間、誰かにそう言ってもらいたかったのかもしれない。
「ありがとうございます」
「礼を言うことではない。事実を言った」
彼は相変わらず素っ気なかった。でも、その素っ気なさが今夜は少し違う色に見えた。
六月の晴れた午後に、見知らぬ馬車が村に入ってきた。
診療所の庭で薬草の剪定をしていたリーナは、その紋章を目にして手を止めた。クレスト侯爵家の紋章だった。
馬車から降りてきたのは、エドゥアールではなく、彼の母親――侯爵夫人だった。五十代の端正な女性で、リーナに婚約の礼儀作法をあれこれ指導してきた人だ。
「ヴァンホルト嬢。少し話を聞いてもらえるかしら」
診療所の前の石のベンチに並んで座った。村の子どもたちが遠巻きに侯爵夫人の豪奢なドレスを見物している。
「エドゥアールが、あなたのことを後悔していると言っていたわ」
リーナは驚かなかった。ただ、少し考えてから言った。
「後悔の理由を教えてもらえますか」
侯爵夫人は目を細めた。
「あなたの代わりに選んだ令嬢が、家の采配に向かないとわかってきたのよ。あなたは三年間、うちの屋敷をよく切り盛りしてくれていたから」
「……なるほど」
リーナは庭の薬草を見た。スズシロの白い花が、午後の光の中に揺れている。
「私への気持ちではなく、私の能力が惜しい、ということですね」
侯爵夫人は一瞬、言葉に詰まった。
「正直に申し上げます」
リーナは続けた。
「私は今、毎日がとても充実しています。王都にいたころより、ずっと。戻るつもりはありません」
「でも、ここは辺境の村よ。貴族の令嬢が一生暮らす場所では――」
「どこで暮らすかは、私が決めることだと思います」
侯爵夫人は長い沈黙のあと、ため息をついた。
「……あの子は本当に、大事なものを手放す判断だけは一丁前なのね」
それは息子への嘆きなのか、リーナへの賛辞なのか、判別しがたかった。夫人が馬車に乗り込んでいくのを見送ってから、リーナは剪定ばさみを持ち直して、作業を再開した。
心が揺れなかったことを、少し不思議に思った。
三年前ならば、侯爵家に戻れる可能性に飛びついたかもしれない。でも今は、それより午後の薬草仕事の方が気がかりだった。
侯爵夫人が訪ねてきた翌日、クロードは朝から機嫌が悪かった。
正確には、機嫌が悪いというより、何かを考えている顔だった。黙って患者を診て、黙ってカルテをつけて、リーナが声をかけても返事が短い。
夕方、薬棚の整理をしながらリーナが「昨日の来客のこと、気になっていますか」と問うと、彼は少しの間があってから「ああ」と言った。
「戻ろうと思ったか」
直球だった。リーナは苦笑した。
「思いませんでした」
「なぜ」
「ここの方が好きだから、というのが一番の理由です」
クロードは棚に視線を向けたまま、しばらく何も言わなかった。窓から夕暮れの橙色の光が差し込んで、薬の瓶の列をきらきらと照らしていた。
「私は、君に長くいてほしいと思っている」
彼は言った。
「診療所の助手として、という意味だけではない」
リーナは手を止めた。
「……もう少し、詳しく聞かせてもらえますか」
「わかりにくかったか」
「はい、とても」
クロードはリーナの方を向いた。眼鏡の奥の目が、いつもより少し困ったような色をしていた。
「君と話すのが、嫌いではない。君がいる診療所の方が、機能している。君の薬草への向き合い方を、尊重している。――そういうことを全部まとめると、傍にいてほしいということになると思う」
リーナは、笑った。自分でも気づかないうちに、笑っていた。
「先生は、言葉を無駄にしない方なのに、今のは少し遠回りでしたね」
「慣れていないんだ、こういう話は」
彼はわずかに目を逸らした。それが照れなのだとわかるまで、少し時間がかかった。
「私も」
リーナは言った。
「王都にいたころは、気持ちを言葉にすることを怖がっていたので。慣れていないのは同じです」
夕暮れの光の中で、二人はしばらく向かい合っていた。
「……もう少し、考えさせてください」
リーナはようやく言った。
「嫌だというわけじゃないんです。ただ、私自身のことをまだちゃんとわかっていない気がしていて」
「それでいい」
クロードは頷いた。
「急がない」
その言葉が、不思議なほど温かく聞こえた。
七月になると、野の花が一斉に咲いた。
リーナは早朝に草を摘みに出るのが習慣になっていた。朝露の残る野道を歩きながら、薬草を選んで、村人と挨拶を交わす。小鳥が鳴き、遠くで川が光っている。
ある朝、クロードが珍しく後ろからついてきた。
「往診の前に少し時間がある」と彼は言った。それが「一緒に行く」という意味なのだと、今なら自然にわかった。
二人で並んで歩きながら、リーナは言った。
「先生が野道を歩くのは初めて見ました」
「いつもは時間がない」
「今日はどうして」
「君が毎朝ここへ来ているのが気になっていた」
「気になるなら来ればよかったのに」
「来た」
「……そうですね」
野原の真ん中で立ち止まって、リーナはスズシロの群生を指さした。
「この白い花、調合に使うと鎮痛の効果があって。でも量を間違えると逆効果になるので、採るときに状態を見極める必要があって」
クロードは黙って聞いていた。リーナが話すのを、じゃましない。ただ、聞いている。
それが嬉しかった。三年間、自分の好きな話を誰かにこれほど自由にできた記憶がなかった。
「先生」
「なんだ」
「私、ここが好きです。この村も、診療所も、薬草の仕事も」
少し間を置いて、続けた。
「先生のことも」
朝の風が草を揺らした。
クロードは前を向いたまま、しばらく黙っていた。それからゆっくりと、「わかった」と言った。
「返事はそれだけですか」
「あとは」
彼は少し考えた。
「嬉しい」
たったひとこと。でもそれが、今まで受け取った言葉の中で一番、真っすぐに届いた気がした。
夏の朝の光の中で、リーナはもう一度笑った。今度は声に出して。
王都では、クレスト侯爵子息がひっそりと婚約を解消したという話が流れた。新しい婚約者が侯爵家の采配に慣れず、家中が混乱しているとも聞いた。
リーナがそれを知ったのは、母からの手紙によってだった。手紙にはいくつかの近況と、「あなたは正しい選択をしたと思っています」という一文が添えられていた。
彼女はその手紙を、診療所の窓辺でクロードに読み上げた。
「……母が、ここへ遊びに来たいと言っています。困りますか」
「困らない」
クロードは言った。
「宿はないが、ここに部屋は余っている」
「先生は本当に、無駄なことを言わないですね」
「君が嬉しそうだから、来ていい」
リーナはまた笑った。最近、笑う回数が増えた。クロードはそれを「表情が増えた」と表現した。正確な言い方だと思う。
窓の外では、村の子どもたちが広場を走り回っている。オルガ婆さんが縁側でハーブを干している。遠くの山が夏の雲を背負ってくっきりと立っている。
ここに来て、まだ半年も経っていない。
でもリーナには、これが自分の場所だと確かにわかっていた。
婚約破棄の翌朝、荷物をまとめて王都を出た。あの選択が正しかったかどうかは、きっとずっと後になってもわからないかもしれない。でも少なくとも今、毎朝草を摘む野道の気持ちよさと、薬の匂いが染み込んだ診療所の静けさと、隣にいる不器用な医師の存在が、全部本物だと感じていた。
それで、十分だった。




