第八話 疾走
ハンナの拳が固く握り締められた瞬間、洞窟の空気が一変した。怒りというより、もっと深い――身の内で渦巻く何かが噴き上がる。その圧に近い感覚を、テオは思わず肌で感じ、言いようのない悪寒が背筋を走った。だが、それを悟られまいと短く鼻で笑う。
「許さない……? どうするつもりだ?」
軽口のつもりだった。挑発すれば単純に突っ込んでくる。それを刺し戻して、やり直せばいい。いつものように。
「こうするのよッ!」
叫んだ瞬間、ハンナは飛び出した。地面を蹴る音が、ひどく近い。まっすぐ来る――そう思ったテオは、当然のように未来を“巻き戻す”気でいた。
だが次の瞬間、拳は空を切った。
直後には、ハンナの拳は別の角度、テオが避けた先へと振り下ろされていた。
「なにィ!?」
不可解。ありえない。
テオは遅れて巻き戻しを発動させる。だが結果は変わらない。避ける。殴られる。避ける。殴られる。避けても、避けても、次の瞬間には拳がめり込む。
「バカな……! なにが起きてる……!? こんなこと人生で一度も……!?」
動揺という言葉では足りない。彼の人生で初めて、“やり直しても回避不能な未来”が存在していた。
「アンタが後悔するまで……何度でも……何度でも……! 殴り続けてやる……ッ!」
ハンナの声音は震えている。怒りでではない。守れなかった悔しさ、理不尽への怒号――それが拳に乗ってテオを打つ。
「ぐおっ!? 貴様……ァッ!」
巻き戻しても攻撃は止まらない。ハンナは状況を読んで、瞬時に角度を変え、反射のように打ち込んでくる。それはもはや“天性の戦闘勘”の領域だった。
テオはついに大きく巻き戻った。ライリーを撃ち殺した直後――起点に戻れば帳消しになるはずだ。ここならハンナもまだ何も知らない。
「ここなら……」
そう思った瞬間――
鈍い音とともに視界が揺れた。ハンナの拳が、容赦なく顔面を捉えていた。頬骨が嫌な音を立てる。
「何故だ……何故……!」
「わからない……? 私の魔法を甘く見て見下してるからわからないのよッ」
「貴様の……魔法だと……!? くっつける程度のカス能力がなにを――」
そこで、テオの脳裏に電撃のような閃きが走った。
焦ったようにポケットへ手を伸ばす。だが、指先に触れたものに息が止まる。ハンナから渡された“楔”が――彼自身の身体に深く食い込み、肉と混ざり、同化していた。
「こ、こんなことをーッ! ふざけやがってーッ!!」
理解してしまった。
ハンナの魔法は“楔を撃ち込んだもの同士を引き寄せる”力。今や彼とハンナは肉体的にも因果的にも繋がっている。
つまり――
テオが巻き戻れば、ハンナも巻き戻る。
そして“巻き戻り後のハンナ”は、今のハンナの怒りと戦闘状態をそのまま保持している。
「お前が後悔して謝るまで何度でもッ! お前を殴り続けるッ!!」
「ぐあっ!? バカな……こんな、こんな外のことを何も知らないようなクソガキにィ! この俺が……!?」
「少しは反省した!?」
「はあ……はあ……ぐう……」
テオは顔を押さえ、膝をついた。呼吸は乱れ、視界が揺れる。
「わかった……俺が悪かった……ライリーが死ぬ前に戻す……だが一つだけ教えてくれ」
「……なに?」
「どうして俺の魔法のカラクリがわかった? お前は何も知らないはず……」
「リアムって魔族が教えてくれたのよ。彼女は……お前の能力の秘密を暴いたから」
「……は? 奴は死んで――」
言いかけたところで、雷撃のような衝撃が脳裏を貫いた。
「あのクソオカマ野郎……! 脳の位置をずらしてたなッ!」
リアムの能力――“魔物、ひいては生物の構造を自在に操る力”。
死んだと思われていたのは擬態だ。肉体の一部――つまり脳をずらして生き延びたのだ。生物を操る彼にとっては造作もないことだろう。
それならば、やけにあっさりと引き下がって死んだことにも納得がいく。
「ふざけやがってぇ……!」
「……まだ反省してなかったみたいね」
ハンナが拳を持ち上げた。
彼女の前では、その拳は正義であり、怒りであり、誰かを守るという決意そのものだった。
しかし、その瞬間。
洞窟の空間が揺らぎ、ハンナの目の前に巨大な影が現れた。
大型のバル・ガロ――その巨体が咆哮とともに姿を現す。
「ッ!? こ、これは……!?」
ハンナの瞳が見開かれた。ここは、かつてバル•ガロと戦った森だったからだ。
「ここまで巻き戻せるのか……!」
ここは鉱脈に辿り着く2、3日前。つまりテオの魔法はかなりの時間を超越できることに他ならない。
「ヤツを追うッ! だけどその前に――」
目の前のバル•ガロだ。だが、これの対処法は既に知っている。
「邪魔だッ! どけッ!!」
ハンナは咆哮した。
時間を巻き戻すと、テオはライリーと共に小型のバル•ガロに囲まれていた。
テオはすぐに踵を返すと、一目散に逃げ出した。
「え……えっ!?」
困惑するライリーに背を向け、とにかく逃げる――ハンナから。
「くそっ……! 何故俺がこんな目に……!」
暗い森の中を、テオが駆けていた。
夜風は湿り気を帯び、彼の頬を斬るように冷たい。木々のざわめきが、まるで嘲笑のように耳を刺す。
酷く憔悴した様子で、独りにも関わらず呪詛が口から漏れていた。
ハンナには勝てない――今のままでは。リアムの指摘通り、テオの戦闘能力自体は魔族に劣る。実質魔法を封じられた状態での戦闘は圧倒的に不利だ。
「俺は……俺は幸せになりたかっただけなのに……!!」
荒い息の合間に漏れた叫びが、夜の森を切り裂く。
あと一歩だった。ほんの僅かで手が届くはずだった。
だがその夢は踏みにじられ、彼の未来は無惨にも閉ざされた。
胸の奥で、燃え盛るような怒りが煮え滾る。
――必ず復讐してやる。
「見ていろ……俺は必ず……!」
「いた! ヤツだッ!」
背後から女の声が響いた。
追いつかれたことを悟ったテオは、がむしゃらに草木をかき分ける。
泥臭く、生き臭く、ただ本能のままに逃げる。
ハンナはバル•ガロを片付け、ライリーを救い出し、駆けていた。ただ、テオを打ちのめすために。
「絶対に逃さない……! お前は……ここで倒すッ!」
「ここで捕まってたまるか……! 俺は……俺はッ!」
2人の思惑が交差する。逃げ切るか、捕まるか――2人の全てをかけた追いかけっこが、始まった。




