表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。

かぷかぷの川辺

作者: 若葉茂

 川は夜を呑み込み、かぷかぷと泡を浮かべていた。

 月光は届かず、水面は墨のごとく沈んでいる。泡がひとつ弾け、また新しい泡が昇る。

 それが笑いか、嗤いか――見る者の心で色を変える。


 川沿いの廃屋の前、右京は銀灰色のクラムボンを見下ろした。

 透きとおる鰭は震えを失い、宿るはずの光はない。首筋に残るかすかな線が、静謐な残酷を物語っていた。


「構造色じゃないですね」

 冠城の声は、寒さに押し出された息のように低い。

 右京は答えず、魚体を見つめ続けた。風が割れた窓を鳴らす。


「川蝉じゃないんです。色を奪ったんじゃない。もっと長く澱んでいた……感情の色です」

 自分へ言い聞かせるような響きだった。冠城は視線を落とし、右京の横顔をちらと見る。その目は死を見てはいない。死の中にまだ残る何かを探していた。


---


 染料の匂いが工房に瀰漫している。


 戸籍上は白石空。港町では浅井透、湖畔では淡海渉。古い仲間は白間静と呼び、宿帳には灰原朔の名が残る。

 ――幾度名を変えても、その瞳は曇天のままだ。


 翡翠色を再現しようと、幾たび筆を執ったか。

 乾けば色は鈍く沈み、机上には失敗の布が積もる。それは年月の層であり、諦念の堆積でもあった。


 ポケットの底、小刀が掌に馴染む。もはや取り出す理由すら不要な、生活の一部だった。


 窓の外――かぷ、かぷ。

 かつては心を解きほぐす湯気のようだったその音が、今は頭蓋骨に障る。


 冬の川は鉄の青を湛え、泡音は金属質に響く。銀灰色のクラムボンが水の重みに抗いながら揺れている。


 男は足を止めた。

 それは嗤っていた――間違いなく、自分を。


 積み重ねた年月の疲れが、遠い雪崩のように音もなく崩れていく。掌の中、小刀の重みがすべての理由を呑み込み、残ったのは翡翠の幻影だけだった。


---


 取調室。

 男は椅子にもたれ、視線を宙に置き去りにしていた。

 名前を変え、町を変えても、翡翠色は最後まで指の間から零れ落ちた。


 耳の奥で、あの夜の泡音が滲む。静かに、頭蓋の内側を叩く。

「……嗤ったんだ。俺を」


 爪で指先の染みをこすりながら、噛みしめるように続けた。

「翡翠は……石の色だと思ってた。鳥の翡翠みたいに光るって」

 ひと呼吸の沈黙。

「嗤ったんだよ。俺を」


 右京は小刀を持ち上げ、刃の根元を冠城に示す。

「角度で転ばない色は、構造色ではありません。ここに、染料が凝っています」

 冠城は短く頷く。

「自然のせいじゃない」

「ええ。誤解が、クラムボンを殺したんです」


 時計の針は戻らず、泡音だけが霏々と落ち続ける幻聴のように耳を満たした。


---


 帰り道、川面を覗き込んだ冠城が足を止める。

「誤解で失われた命ほど、やりきれないものはないですね」


 右京は短く息を吐き、泡がひとつずつ消えていくのを見届けた。

「冠城君……川は今日も、かぷかぷですよ」


 冠城は川面から視線を外し、「……はい」とだけ応じた。その声音には、右京を真似たような、疑問を孕むトォウンがあった。


 クラムボンはかぷかぷ笑い、夜風が最後の泡を攫って、音は静かに闇へ溶けていった。


評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ