かぷかぷの川辺
川は夜を呑み込み、かぷかぷと泡を浮かべていた。
月光は届かず、水面は墨のごとく沈んでいる。泡がひとつ弾け、また新しい泡が昇る。
それが笑いか、嗤いか――見る者の心で色を変える。
川沿いの廃屋の前、右京は銀灰色のクラムボンを見下ろした。
透きとおる鰭は震えを失い、宿るはずの光はない。首筋に残るかすかな線が、静謐な残酷を物語っていた。
「構造色じゃないですね」
冠城の声は、寒さに押し出された息のように低い。
右京は答えず、魚体を見つめ続けた。風が割れた窓を鳴らす。
「川蝉じゃないんです。色を奪ったんじゃない。もっと長く澱んでいた……感情の色です」
自分へ言い聞かせるような響きだった。冠城は視線を落とし、右京の横顔をちらと見る。その目は死を見てはいない。死の中にまだ残る何かを探していた。
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染料の匂いが工房に瀰漫している。
戸籍上は白石空。港町では浅井透、湖畔では淡海渉。古い仲間は白間静と呼び、宿帳には灰原朔の名が残る。
――幾度名を変えても、その瞳は曇天のままだ。
翡翠色を再現しようと、幾たび筆を執ったか。
乾けば色は鈍く沈み、机上には失敗の布が積もる。それは年月の層であり、諦念の堆積でもあった。
ポケットの底、小刀が掌に馴染む。もはや取り出す理由すら不要な、生活の一部だった。
窓の外――かぷ、かぷ。
かつては心を解きほぐす湯気のようだったその音が、今は頭蓋骨に障る。
冬の川は鉄の青を湛え、泡音は金属質に響く。銀灰色のクラムボンが水の重みに抗いながら揺れている。
男は足を止めた。
それは嗤っていた――間違いなく、自分を。
積み重ねた年月の疲れが、遠い雪崩のように音もなく崩れていく。掌の中、小刀の重みがすべての理由を呑み込み、残ったのは翡翠の幻影だけだった。
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取調室。
男は椅子にもたれ、視線を宙に置き去りにしていた。
名前を変え、町を変えても、翡翠色は最後まで指の間から零れ落ちた。
耳の奥で、あの夜の泡音が滲む。静かに、頭蓋の内側を叩く。
「……嗤ったんだ。俺を」
爪で指先の染みをこすりながら、噛みしめるように続けた。
「翡翠は……石の色だと思ってた。鳥の翡翠みたいに光るって」
ひと呼吸の沈黙。
「嗤ったんだよ。俺を」
右京は小刀を持ち上げ、刃の根元を冠城に示す。
「角度で転ばない色は、構造色ではありません。ここに、染料が凝っています」
冠城は短く頷く。
「自然のせいじゃない」
「ええ。誤解が、クラムボンを殺したんです」
時計の針は戻らず、泡音だけが霏々と落ち続ける幻聴のように耳を満たした。
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帰り道、川面を覗き込んだ冠城が足を止める。
「誤解で失われた命ほど、やりきれないものはないですね」
右京は短く息を吐き、泡がひとつずつ消えていくのを見届けた。
「冠城君……川は今日も、かぷかぷですよ」
冠城は川面から視線を外し、「……はい」とだけ応じた。その声音には、右京を真似たような、疑問を孕むトォウンがあった。
クラムボンはかぷかぷ笑い、夜風が最後の泡を攫って、音は静かに闇へ溶けていった。