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悪役王太子と好色女帝のざまぁルート婚姻譚

作者: 特になし

本格的な恋愛ものに挑戦しました! R15なので、あまり上品とは言い難い言葉、描写があります。申し訳ないのですが、予めご了承ください。

「ブリジット・カースティス! あなたとの婚約を破棄させてもらう!」


 王太子ジルベールは、貴族の面々が揃ったパーティー会場で、公爵令嬢ブリジットに向かってそう言い放った。もはや一般的な、婚約破棄の一場面だ。


 そして——これももうお決まりの展開だろう。不敵に微笑むブリジットの背後から、第二王子カエザルが現れる。そして、彼らによる反撃が始まった。次々に語られるジルベールの悪行と、その主張の破綻。ジルベールはどんどん追い詰められていく。


「愚かな奴とは思っていたが、貴様にはほとほと愛想が尽きた。このような場で、一方的にブリジット嬢に婚約破棄を言い渡すとは、身勝手にも程がある」


 いつの間に現れたのか、国王が怒りを込めた声でジルベールに告げる。


「そんな、父上! どうか、私の話を聞いてくだ……」


「黙らんか、ジルベール! 貴様は廃嫡とする。王位を継ぐのは、カエザル、そなただ。そして、ブリジット嬢は今よりカエザルの婚約者とする」


 その言葉に、カエザルとブリジットがうやうやしく礼をする。


「ジルベール、今回の騒動を引き起こした罰として、貴様はバルドザール二世のもとへ婿入りさせる」


 女帝バルドザール二世。彼女はその好色で名が知れ渡っている。若い男に目がなく、また女もいけるという彼女のもとには、婚約破棄を言い渡しざまぁされた王太子、そしてその真実の愛の相手という名の浮気相手が、今まで何十組と送り込まれている。


「貴様は顔だけはいいからな。せいぜいかわいがってもらえ」


「父上、お願いです! どうか今一度お考えを……」


 国王に縋りつこうとするジルベールは、しかしその前に衛兵に取り押さえられる。


「かわいい娘ブリジットへの非礼。私としても不愉快です。一刻も早く、この国から立ち去っていただきましょう。あなたはもはやウィンリックにとって害悪でしかない」


 そう言って衛兵の後ろから現れたのは、ブリジットの父、カースティス公だ。


「さあ、さっさとこの極悪王太子を連れていけ」


 貴族たちの冷たい笑いの中、衛兵がジルベールを引きずっていく。


「頼む、誰か、私の話を聞いてくれ……!」


 ジルベールは最後まで叫び続けていた。



 かくして、ジルベールは祖国ウィンリックを追放され、今、バルドザール帝国に到着した。


「君が私の新しい夫かね」


 迎え入れられた部屋では、女が一人、椅子に座って待ち構えていた。彼女がバルドザール二世、その人だ。年齢は二十六で、ジルベールより八つ上。見た目は——迫力のある美女とでもいうのだろうか。黄金色の長い髪の毛に、夜空のような藍色の瞳。自信に満ち溢れた表情は、ある種の男らしささえも感じさせる。


 だが、一番の特徴は、その凄まじいプロポーションだろうか。端正なドレスの下にあっても、彼女の肉体美はとどまることを知ろうとしない。いかにも好色というか、男を惑わしそうな見た目だな、とジルベールは思った。


「ところで、君の真実の愛のお相手はどこにいるんだね? 一向に姿が見当たらないが」


 女帝は不思議そうに首をかしげる。


「真実の愛……? 何のことです?」


 しかし、面食らったのはむしろジルベールの方だった。


「おや? 君、真実の愛を見つけたから、婚約者を捨てたんじゃないのかね? 私のもとには、婚約破棄に失敗した王子が大量に送られてきているが、彼らはみんな、真実の愛の相手という名の浮気女を連れてきたよ」


 女帝の言葉に、ジルベールはやや表情を固くする。


「真実の愛など、そのような一方的かつくだらない理由で、婚約を破棄するはずがございません。我が祖国の名にかけて、婚約破棄は正当であったと私は主張します」


 そして、ジルベールは語り始めた。


 ジルベールとブリジットは、生まれた時から定められた婚約者だった。ジルベールは、彼女に誠意をもって接していたし、本気で彼女と結婚し、国を治めていくつもりだった。


 ジルベールの母は、彼を出産後、すぐに亡くなっている。父は新しい王妃に心を移し、彼女との子である、第二王子カエザルを溺愛していた。それでもジルベールが王太子でいられたのは、外祖父である宰相の後見があったからだ。


 しかし、その祖父が突然死した。祖父の死後、新たな宰相となったのが、ブリジットの父、カースティス公だ。祖父の時代の政は全てひっくり返され、カースティス公による独裁、暴政が始まった。元来きつい性格のブリジットもまた、権力を手にした途端、他の貴族子弟への嫌がらせを強めていった。


 このままでは、自分は将来、傀儡の王として、カースティス公の暴政の片棒を担ぐ羽目になる。そうなれば、国はめちゃくちゃだ。危機感を抱いたジルベールは、ブリジットとの婚約を破棄し、その場で彼女、そしてカースティス公の断罪を行うことを決意した。


 しかし、婚約破棄は失敗した。知らぬ間に、カースティス家はカエザル派と手を組んでいたのだ——もっとも、ブリジットはそれ以前から、ジルベールよりカエザルに気がある様子だったが。集まった貴族たちも全員が、既にカエザルとブリジットの味方。そして——父さえも。


 かくしてジルベールは、婚約破棄に失敗しざまぁされた愚かな悪役王太子として、国を追われたのだった。


 ジルベールが語り終わったところで——


「いや、本当に君、悪くないじゃないか……!」


 女帝は濃紺色の瞳をこぼれんばかりに見開いた。


「冤罪とはかわいそうに。君はさぞ、私との結婚というこの処遇に不満だろうね」


 確かに、祖国にいられなくなったことは辛い。しかし——


「たとえ追放されたとして、私は王子としての役目を果たす所存です。祖国ウィンリックのためにも、誠心誠意、バルドザール二世陛下にお仕えいたします。どうか陛下、末永くよろしくかわいがってくださいませ」


「なるほど。しかし、まさか、君のようなタイプが来るとは……。君は私をほったらかして、国から連れてきた女といちゃついたりしないんだろうねえ……」


「もちろんです。夫となった以上、私は陛下に対して貞操義務を負う所存です。また、陛下にご満足いただけるよう、常に自己研鑽に励みたいと考えております。どのようなマニアックなご性癖、プレイにもお応えします。よろしければ、今この場で、かける時間、回数、頻度など、陛下のご希望を伺いたく存じます。それがすみましたら、さっそく今宵から臥所を共にさせてください」


 ジルベールの台詞に女帝は硬直した——かと思いきや、みるみるうちにその顔が赤く染まって、ぷるぷる震えだす。


「ななな、何だね、君! 性癖とか、プレイとか、ふふふ臥所とか! そういうことを真面目な顔で堂々と言うのはやめたまえ……!」


 ぷるぷるする女帝に、ジルベールはあっけにとられた。なんだ、この反応は。まるでうら若い少女、いや、それよりもはるかに初心なような……。


「お気に障る発言をしてしまい、申し訳ございませんでした」


 ジルベールは頭を下げる。


「いや、君は悪くない。悪いとしたら、それは私だ。君が私に真実を告げたように、私も君に真実を告げなければならない」


 頭を抱えたバルドザール二世は、すうっと息を吸い込むと、

「じ、実は、私はこの歳になるまで、一回もそういったことをしたことがなくてね……」

と、震える声で、目を泳がせる。


「そういったこと、というのは、即ちせいこ……」


「やめたまえ!」


「失礼いたしました」


 ジルベールは光の速さで謝罪した。


「まあ、君が驚くのも分かる。何と言っても、私は、そっちの方にたけた人物ということにされているからね。でも、これには訳があって……」


 そして、バルドザール二世は語り始めた。


「十年前。十六歳で即位した私は、他国から婿を取ることにした。しかし、私にあてがわれたのは、国にいられなくなった断罪王子。その上彼は、真実の愛の相手を連れてきた」


「女を追い返さなかったのですか?」


「もう完全に二人の世界に行ってしまっていてね。引き離せる雰囲気でもなかったから、そのまま三人で新婚生活を始めることにしたんだ」


 この方、お心が広すぎはしないか? ジルベールは思う。


「それで、まあ、一応結婚したから、夫としての義務は果たしてもらおうと思ったんだ。だけど、そうすると、おのれっ、このいやしい女が! 私たちの真実の愛を引き裂こうと! みたいな展開になってね。二人の愛を邪魔できなくて。だから、二人がベッドでよろしくやっている間、私はベランダで星を見ていた。一晩中さ。きれいだったねえ」


 遠い目をするバルドザール二世。だが、意味が分からなすぎる。ここまで意味が分からない初夜を、ジルベールは知らなかった。


「私にも体裁があるし、これ以上二人の評判を下げてもかわいそうだ。それで、私は二人とよろしくやっているということで、辻褄を合わせていたんだ。結果、三人でやるのが好きとか、女もいけるとか、好色とか、そういう設定になってね。そのせいで、これ幸いと、他国どもが、持て余した王子と令嬢を、セットで私のところに送り込むようになってきたんだ。


 以来、いちゃいちゃカップルと私、という訳の分からない新婚生活を繰り返すことになってしまってね。そして、お二人は私が正妻というのがご不満らしい。だから、私が一方的に飽きたということで離縁し、いい感じに取り計らって、二人の社会復帰の世話をしてやってるわけだ。


 そうしていたら、あっという間に十年さ。そういえば、君の前の王子が、私のこと、年増の娼婦とか、淫乱ばばあとか呼んできてねえ。私は口付けどころか、手を握られたことすらないというのに、おかしな話さ、まったく」


 はは、と女帝は軽く笑った。


「世の断罪ヒロインたちに、一言言いたいね。断罪するのはいい。だけど、断罪したら、その後の処分まで自分たちでやってくれたまえ。断罪したところで、彼らの性根は直っていないばかりか、さらに面倒になっている。それを押し付けられるのは、なかなかどうして骨が折れるんだよ」


 とんとん、と肩をたたいた後、

「そういうことで、私には君のような若者を取って食う趣味はないから、安心したまえ。私たちは、形式的な夫婦として付き合っていく。それでいいかね?」

と、女帝は親切な笑みを浮かべた。


「分かりました。同じ部屋で寝起きし、しかし契りを交わしはないということですね」


「だから、ち……契りとか、口にしないでくれたまえ!」


 女帝は相変わらずぷるぷるしていた。



 さて、互いに予想外の真実の判明から始まった夫婦生活は、しかし案外上手くいっていた。


 好色と浮名がたつくらいだ。奔放で周囲を振り回す気質の人物かと思いきや、女帝はひどく落ち着いた人だった。いつも仕事で忙しくしているので、顔を合わせるのは朝と夜のみ。夜は同じ部屋の、女帝はベッドで、ジルベールはソファで眠る。


 ジルベールはよく紅茶をいれて、彼女の帰りを待った。一緒に茶を飲みながら、穏やかに談笑する。二週間もたつ頃には、二人はすっかり仲良しの茶飲み友達になっていた。


「そういえば、君は昼間、何をしているのかね?」


 ある時、女帝はジルベールに尋ねた。


「孤児院や病院、学校などを訪れております。バルドザール王家に迎えられた者として、少しでも臣民に寄り添い、王家のイメージ向上に努める所存です。陛下はお忙しいでしょうから、私一人でこういった公務はこなしていければと」


「そうか。気を利かせてくれてありがとう。君が大変でないのなら、ぜひ続けてくれたまえ」


 微笑みながら、女帝は内心では驚いていた。今までの夫は恋人と部屋にこもってばかりだったが、今回の夫は意識が違うらしい。


 ジルベール・ウィンリック。彼の第一印象は、いかにもな王子様、だった。白銀の髪に、若葉色の瞳。ぱっと目を引く華やかな容貌は、まさに童話に出てくる王子様そのものだ。王子様——昨今のそれは、理想の男性というより、むしろ最大の地雷男だ。身勝手で、尊大で、そして中身がからっぽ。そんな王子たちを、女帝は誰よりも見続けてきた。


 しかし、共に過ごすうち、華やかな見た目と裏腹に、ジルベールが真面目で実直な人間であることに気付く。また、彼は馬鹿でもなさそうだ。茶を飲みながら何気なく話すだけでも、確かな知性と教養があるのが伝わってくる。


 もう少し、この子のことを知りたい。彼女はそう思い始めていた。



「君、少し付き合ってくれたまえ」


 ある朝、女帝はジルベールにそう声をかけた。


「今日は夫も同席させることにした。異論はあるかね?」


 連れていかれた場所は、重鎮たちの居並ぶ会議の間だった。臣下たちは異例の行動に驚きつつ、しかし反対する者はいなかった。


 そして、会議が始まる。議題は、セルランド侵攻を防ぐための、ウィンリックの確保について。バルドザールとセルランドは、ウィンリックを挟み、共に西方世界の覇権を争う大国だ。小国であるウィンリックは、常に双方の侵攻の危機にさらされつつ、長い歴史の中で存続を保ち続けていた。


「セルランドと渡り合うためには、ウィンリックの一刻も早い併合を目指すべきです。ウィンリックに派兵し、征服、バルドザール領にすることを、当面の主眼といたしましょう」


 参謀長官の意見を聞いた後、

「さて、君はどう思うかね? ウィンリックの元王太子君」

と、女帝はジルベールを見る。


「大国同士が隣り合えば、必ず争いがおこるもの。緩衝地帯であるウィンリックは、両帝国の存続のために不可欠。しかし、セルランドは今、対外進出を加速させ、戦さえ厭わぬ様子。とすれば、まずぶつかるのが、バルドザールであることは間違いない。そしてこの戦い、ウィンリックを取った国が、勝利をおさめるでしょう」

と、ジルベール。


「やはり、すぐにでも併合を……」


「しかし、この動きは、世界全体に大きな影響を与える。ウィンリックをバルドザールが掌握すれば、外国からの干渉があると睨んで間違いない。併合に反対されれば、戦費、人員の無駄となる。ウィンリックを手に入れるためには、早さより、いかに国際社会に承認させるかが決め手です。正当性など、後から担保されるものですから。よって、意識すべきはセルランドでなく、むしろ他の国々の動向でしょう。例えば、北方——」


 ジルベールは、いくつもの国の内情を事細かに語る。


「——と、今のうちにこれらの点につけ込み、恩を売っておく。そうやって後ろ盾を固めてから、時期を見計らってウィンリックを併合する。武力に任せ、いたずらに併合を焦るのは悪手かと」


 ジルベールが語り終えると、広間は、しん、と静まり返った。そんな中、ぱちぱちぱち、と手を叩く音が一つある。バルドザール二世、その人だ。


「なるほど。国の舵取りは、常に大局を見据えねばなるまい。セルランド一国との関係のみに注目しすぎては、判断を見誤る。私は彼の意見に納得したが、諸君はどう思うかね?」


 途端、割れんばかりの拍手が沸き上がる。


「思った通り、君は随分優秀なようだ。これからはぜひ会議に出席してくれたまえ」


「いやはや、驚きました」

「素晴らしい。そのご慧眼、ぜひ我々にもご教授願いたい」

「バルドザールによくぞいらっしゃった、王配殿下」


 臣下たちも口々にジルベールを称賛する。


「しかし、こんな優秀な王太子を捨てるなんて。貴族連中に、婚約者、果てには国王に至るまで、ウィンリックの奴らは、ことごとく見る目がないんだねえ。君もそう思わないか……って、おやおや、どうしたんだね?」


 頬を熱いものが伝うのを、ジルベールは感じていた。


「……申し訳ありません。ただ、嬉しくて。陛下が、私の話を真剣に聞いてくださったから……」


 身体を震わせるジルベールに、女帝は全てを悟った表情をした。


「今まで一人ぼっちで頑張ってきて、辛かったんだね」


『この計画書は何だ、カースティス公! 私は離宮の建設など許可した覚えはない! しかも、なぜ施工業者があなたの支援している団体なのだ? これは完全なる……』

『お黙りください、殿下。あなたの意見など、誰も必要としておりませんゆえ』


『ブリジット嬢、あなたは最近、下級貴族や召使いに辛く当たりすぎではないか? 流石に度を越して、もはやいじめ……』

『殿下のお説教は聞き飽きましたわ。顔を合わせる度、つまらない話ばかり。そんな殿下と婚約させられた、こちらの身にもなってくださいませ』

『はは、確かに。ジルベールとの結婚生活は、いかにもつまらなそうだ。ブリジット嬢、いっそのこと、私と婚約しなおそうか?』


『父上、進言申し上げます。最近のカースティス公とブリジットの行動には……』

『そばに寄るな、ジルベール。あの女に似た貴様の顔に、王妃が気分を悪くする。分かったら、さっさと目の前から失せ消えろ』


 そうか。自分は辛かったのだ。ようやくジルベールは胸の痛みに気が付いた。


「これからは、何でも私に話してくれたまえ。君の考えていること、私は何でも知りたいからね」


「ありがとうございます、陛下」


 彼女の言葉で、痛みがほぐれていく。背中をさすられ、ハンカチで涙を拭われるうち、気付けば涙は止まっていた。


「よしよし、いい子だね。泣きやめてえらいよ」


 最後、頭を撫でられる。なんだかひどく子供扱いされている気もするが、不思議と嫌ではなかった。むしろ……いや、自分は何を考えているのだろう。


「進行を中断させてしまい、申し訳ありませんでした」


 ジルベールは重鎮たちの方に目を向ける——が、いったいどうしたことだろう。一瞬のうちに、会議室からは、ものの見事に誰もいなくなっている。


「私たちを二人きりにしようと、いらぬ気を利かせたのだろう。まったく、おかしな誤解をして」


「誤解といいますと、この流れで、私たちが今からここで交合……」


「君、そういうことを言うのはやめたまえと言っているよね!」


「すみません」


 さて、二人がそうしている間。臣下たちは部屋の外で、「陛下は、今回の夫殿を抜群にお気に入りのようだ」と囁き合っていたのだった。



 会議室での一件から、女帝は今まで以上にジルベールに話しかけるようになった。日常のちょっとしたことから、政治への進言まで、どんな話でも彼女は真剣に耳を傾けてくれる。それだけのことが、本当に幸せだと、ジルベールは感じていた。


 そんな折、バルドザールで星祭りが開催された。朝から続いた祭りは、夜になって最高潮の盛り上がりを見せる。開放された王宮庭園では、諸侯も集まってのパーティーが開かれている。


 広場の中央では、この祭りの主眼である、華やかなダンスが行われている。挨拶を終えた人々は、次々と踊りの輪の中に加わっていく。


「陛下は踊られないのですか?」


 挨拶にくる人々への対応を続ける女帝に、ジルベールは尋ねる。


「私はいいよ。今までも、夫とその恋人が踊っているのを眺めるだけだったからね」


 相変わらず、この方の結婚生活は狂ってるな……。ジルベールは、遠い目をする二世を眺める。踊っている人々を眺める彼女の表情は、なぜだろう、少し寂しそうに見えた。


「君、踊りたいなら、適当に誰か誘ってくると……」


「陛下、いきましょう」


 気が付けば、ジルベールは彼女の手を引いて、ダンスの輪の中心に向かっていた。


「ま、待ちたまえ……! 言っておくけど、私は物凄く下手なんだよ」


 前のめりに引っ張られながら、女帝は言う。


「これでも一応は王子です。エスコートはお任せください」


 そして——女帝は本当に下手だった。恐ろしいほどに。彼女は思い切りジルベールの足を踏み続けたし、何度も転倒しそうになっては、よたよたと奇妙な動きをした。


「ご……ごめん。本当にだめだね、私は……」


 いつも余裕げな彼女が、今は一転あたふたしている。


「私の肩に手を置いて——そうです。そして、手はこうして握って。私の動きに合わせてくださいね」


 手取り足取り指南すると、やがて、軽やかでこそないが、ステップが踏めるようになってきた。


「そうそう、お上手ですよ」


「本当かね!」


 女帝が、小さな女の子みたいにぱっと笑った。瞬間、熱病に取りつかれたようにジルベールの身体が熱くなる。この方は、こんなにかわいかっただろうか……。


 そうするうち、曲が盛り上がりに入り、ダンスもまた佳境に入る。激しく動いているせいか、身体がどんどん熱くなってくる。


「陛下、私にお身体を預けてください」


「え……?」


 ジルベールは女帝の身体を抱き上げ、空中で回した後、華麗に抱き留める。そこで演奏が終わった。気が付けば、鼻と鼻が触れ合う位置に顔がある。女帝はまん丸く目を見開いたかと思うと——


「う、うん。ご苦労だった。私は戻るよ。君はもう少し踊っているといい」

と、逃げるように去っていった。


 やってしまった。馬鹿なことをして、彼女を引かせてしまった。


 ジルベールは噴水のところに行き、顔を洗った。身体はまだ火照ったままだった。この熱がいけない。これが自分を突き動かし、途方もないほどに陛下を求めさせる。


 陛下のことは好きだ。主人として慕っている。それは正しい感情だ。形式上の夫として、当然抱くべき感情だ。しかし——


 踊っていた時の彼女の姿を思い出すと、それだけで、かあっと身体が熱くなるのが分かった。瞼の裏に彼女が焼き付いて離れない。


 この気持ちは何だろう——などと考えるほど初心ではない。多分、本当はずっと前から気付いていた。自分は彼女に惹かれている。どうしようもなく恋焦がれている。それこそまるで、真実の愛に盲目になる、馬鹿な悪役王太子のように。


 いよいよ自分はおかしくなっている。



「なんだ、ここにいたのかね」


 祭りが終わり、ベランダで夜風に吹かれていたジルベールを、女帝は見つけ出した。夫婦の寝室にあるベッドの隣の窓は、ベランダがあって、外に出られるようになっていた。


「うーん。涼しくて気持ちいいね」


 自分もジルベールの隣に立って、女帝は思い切り伸びをする。祭典用の豪華な衣装を脱ぎ、今の彼女は薄い夜着一枚しかまとっていない。


「今日はとても楽しかった。あまりに君が素敵な王子様だから、年甲斐もなくはしゃいでしまったよ。君は今までの中で、間違いなく最高の夫だね」


 その言葉に、どくん、と心臓が脈打った。


「それで、どうだろう。君、愛人でも作ってみたら」


 しかし次の瞬間、ジルベールは地上に叩き付けられる。


「なんだか申し訳なくてね。君のような魅力的な若者を、私みたいなのがいつまでも独占しているのは。どうだろう、さっきの会場で、君に好意を持っていそうな若くてかわいい娘が数人いて……」


「嫌です。私は陛下の夫、他の誰の愛人になるつもりもありません」


「それはそうだけど……。君だって、その、若い男だし、楽しみたいという気持ちがあるだろう? 私じゃ、君を楽しませてあげられない。君には幸せになってほしいんだ」


「なぜ勝手に私の気持ちを決めつけるのです? 私の望みを、陛下は一度でもお知りになったことがあるのですか?」


 ジルベールは女帝の手を握った。


「き、きみ、おかしいよ。何をするんだね……?」


 こわばりが指を通して伝わってくる。


「そうですね。おかしいのかもしれません。こんなことは無礼だと理解しながら、止められそうにない。陛下を前にしては、私はただの馬鹿王子になってしまう」


「笑えない冗談だ」


「これでもまだ冗談と言われますか?」


 握った手をぐいと引っ張ると、ジルベールは倒れ込んでくる身体を抱き留め、そのまま強引に口付けた。瞬間、はっとして、ジルベールは唇を離す。目の前には、茫然自失した目をして立ち尽くすバルドザール二世がいた。最低だ。物凄く、取り返しのつかないことをしてしまった。


「不愉快な思いをさせてしまい、申し訳ありません。私はどうやら本当におかしくなっているようです。これ以上何かしでかす前に、今すぐ出ていきます」


 背を向けるジルベール。しかし——


「待ちたまえ」


 その後ろ手を掴む力があった。


「不愉快じゃ、ない。ただ、初めてで……。驚いただけなんだ。ほ、本当だよ。君にこういうことをされるのは、本当に……嫌じゃない。むしろ……」


 女帝は恥ずかしそうに口ごもる。


「な、何を言っているんだろうね、私は。だめだな。君に何かされる度、凄くどきどきしてしまって……。なんだかいつもの私じゃない。本当のことを言うと、一緒に踊っていた時から、ずっとそうなんだ。どきどきが収まりそうにない。私も、君と同じくおかしくなってるんだろうか……」


 振り向くと、彼女はうるんだ瞳でジルベールを見つめていた。ひどく震えながら、それでも手だけはいじらしく引っ張り続けて。その姿に、身体の奥底から熱いものがこみ上げてくる。


「陛下……」


 熱に突き動かされるまま、ジルベールは彼女の手を握り返す。今度、女帝は拒まなかった。そのまま一本ずつ指を絡めていくと、彼女もまた指を絡めて応じてくれる。


 彼女の瞳の中に、自分が映っているのが分かった。脳の奥がびりりと痺れる。痛くて苦しいのに、変に甘ったるくて、心地いい。瞳の魔力にとらわれるように、ジルベールは再び唇を重ねている。


「ずっと……こうしたかった。陛下の手を握って、口付けて、そしてそれ以上も」


 唇を離すと、ジルベールは女帝の身体にゆっくりと腕を回す。


「……本当だ。鼓動が早い。凄く、どきどきしていらっしゃるみたいだ」


 彼女の鼓動が肌を通して伝わってくる。


「もっと確かめたい。陛下がどれくらいどきどきされて、そしておかしくなられているのか」


 劣情をはらんだ声で呟いたかと思うと、ジルベールは彼女を抱きすくめたまま室内に入り、そのままベッドに押し倒した。しかし——


「や、やめて……!」


 甲高い声に、ジルベールはびくりとする。


「……申し訳ありません。あなたを怖がらせるつもりはなかったのです」


「ち、違う。そうじゃ、なくて……」


 女帝は首をふるふると横に振る。


「私は若くないし、全然かわいくない、から。結婚を罰にされた上、十年間、一回も相手にされなかった。君だって、私との結婚は無理やりだ。本当は私とこんなことしたくないのに、気を遣ってくれたんだよね。そんな優しい君に、夫婦関係を無理強いして、不快に、させたくない……」


 その姿はまるで、小さな女の子が一生懸命泣くのをこらえているようだった。


「陛下は……ずっとお辛かったのですね」


 この方はこんなにも傷ついていたのだ。夫とその恋人に蔑ろにされ、散々心ないことを言われ、傷つかないはずがない。それでも気丈に振る舞って、それどころか自分を傷つける他人のことまで思いやって——。


「世界中の国も、王子たちも、救いようのない大馬鹿野郎どもだ。どうかしている。こんなかわいい方との結婚を罰にするなど、どこまで見る目がないのでしょうか」


 ジルベールは声に怒りをにじませる。


「陛下、あなたはとても魅力的です。私が出会った中で、間違いなく最高の女性です」


 ジルベールは、もはや完全に憚りをかなぐり捨てていた。


「愛しています、陛下。心の底から、お慕いしております。だから、どうか、私がどれだけあなたを愛しているのか、お伝えさせてください」


 いくつもの感情が、女帝の瞳の中に浮かび上がった。彼女はそれら全てをかみしめるように閉じた後、再び目を開いてジルベールを見た。


「……陛下、じゃなくていい。アストレアだ。今は……そう呼んでくれたまえ」


 バルドザールでは、皇帝の名はみだりに呼ばれない。それを呼ぶことができるのは、皇帝に許された一部の者のみ。つまり、心からの信頼の証なのだ。


「アストレア、様」


 ジルベールは、感動に打ち震えながらその名を呼んだ。


「私の名前も、呼んでいただけますか?」


「ジ……ジルベール……」


 頬をそめてその名を呼ぶアストレアに、ジルベールはまた口付けた。



 次の日の朝、目を覚ましたジルベールは、隣ですやすやと寝息を立てている妻を見つけた。朝日にあたって、黄金色の髪の毛が輝いている。昨夜、この方と名実ともに夫婦になったのだ。そう思うと、ひどく感慨深く、不思議な気持ちがした。


 奇妙な運命の巡り合わせだ。婚約破棄のあの日、自分の運命は完全に狂ってしまったとばかり思っていた。しかし、全ては彼女と出会うため、導かれたことだったのだとさえ、今は思う。


 しばらくして、長いまつ毛に縁どられた瞳が静かに開く。


「おはようございます、陛下」


「おはよう。もう起きていたのか」


 アストレアはジルベールを見上げた後、ゆっくりと身体を起こす。


「陛下、よろしければ、昨夜の房事について、ご意見をお聞かせ願えませんか。私の反省点といたしましては……」


「また君は真面目な顔でそういうことを言う……!」


「すみません」


 しかし、彼女を満足させられたかどうかは、どうしても気になってしまうことではあった。


「君は優秀だったよ。人生で一番幸せな時間だった。ありがとう。そ、それでだね。もし君が良かったら、また、その……名前を呼んで、くれると嬉しい」


 言った後、アストレアは真っ赤になってうつむいた。名前を呼ぶ、か。精一杯の誘い文句がいじらしく、なんだかいじめたくなってしまう。


「ええ。これからも共に熱い夜を過ごさせてください」


「だから、そういうことを言うな……!」



 その後、自室で着替えた後、アストレアは一転、きりっとした顔で出かけていった。まったく、大したお方だ。


 彼女を見送った後、ジルベールもジルベールで、公務のために街に赴く。顔がすっかり広まってきたようで、歩いていると、王配殿下、と声をかけられる。王配殿下。その呼ばれ方にも大分馴染んできた。自分はいよいよバルドザールの人間になっているらしい。


 だが、ふとした瞬間に、ウィンリックのことがジルベールの頭によぎる。自分はあの国に必要とされなかった。国のためにできることも、もう限られている。そう分かっていても、どうしても忘れられないのだ。


 その日の夕方、いつもより早いうちに、アストレアは部屋に戻ってきた。


「君に客人だ」


 その台詞に、ジルベールがいぶかりながらついていくと——


「ジルベール殿下!」


「ガイウス卿ではないか……!」


 見知った顔がそこにあった。


「ああ、お懐かしゅうございます」


 ガイウス卿は涙を浮かべる。


 ガイウス卿は、祖父とも親交の深かった老将だ。ジルベール陣営として、忠実に仕えてくれたが、カースティス公に目をつけられ、祖父の死後、まっさきに辺境に左遷されてしまった。


「なぜあなた様がこのような憂き目に……。故宰相殿がご覧になったら、いかほどにお悲しみになることか……」


「そのような顔をするな。私は元気にやっている。ウィンリックにいられなくなったことは残念だが、こうしている間も、祖国とバルドザールの友好のために働けているのだ。この境遇に恨みは言うまい」


「友好……ですか」


 ガイウス卿が口ごもる。


「もはや婚姻による和平は持ちますまい。なぜなら……」


「カエザル派はセルランドと手を組んだ。そうなんだろう?」


 アストレアの台詞に、ガイウス卿は頷く。


「カエザル派は親セルランドの巣窟。今やウィンリックは、セルランドに中枢まで侵入され、蝕まれている。このままでは、いずれウィンリックはセルランドに乗っ取られるでしょう。


 実権を握る連中は、目先の利益に踊らされる者たちばかり。セルランドと繋がって、ウィンリック国民を苦しめ、しかし自分たちは遊興三昧。民衆の不満は日に日に高まって、王政打倒の機運が国中を支配しています。


 王太子派の一部は、革命軍を結成し、クーデターを起こすため潜伏しております。市井の者たちも、次々に蜂起を開始しております。彼らをまとめ上げ、新たなウィンリックを作る。そのために、あなた様が必要なのでございます、ジルベール王太子殿下」


 王太子殿下。懐かしいその呼び名が、ジルベールの背筋をびりりと震わせる。


「殿下がご帰国くだされば、その名のもとに、全国民が一致団結することでしょう。悪逆非道の現王政を討ち、ウィンリックを救う。廃嫡され、追放されたこの雪辱、今こそ晴らしましょうぞ。王国を、玉座を、あなた様の手に取り戻すのです」


「すまない、ガイウス卿」


 しかし、ジルベールはうつむく。


「私は既にウィンリックの王太子ではない。バルドザールの王配なのだ。祖国のためとはいえ、私一人が勝手に動くことはできない」


 国の危機を見捨てる。それでも自分は王子なのだろうか。ジルベールが拳を震わせた、その時——


「その通りだ。君一人を勝手にウィンリックにやりはしない。私も一緒に行くからね」


 見ると、アストレアが口角を持ち上げている。


「王政にセルランドがつくなら、革命軍には我がバルドザールが味方しよう」


 これは何よりも嬉しい申し出であるはずだ。しかし——


「見返りは、ウィンリックの併合ですか?」


 バルドザール二世という女帝のことを、ジルベールは分かっている。夫のためと、情にほだされて兵を貸すやわな女ではない。


「併合は、目下のところは考えていない。以前君が進言してくれた通り、国際社会の反感を買いたくないからね。私の目的は、君たちと同じ、現王政の打倒だよ。ウィンリックをセルランドに取られれば、いよいよ戦争——それも我々の負け戦が始まってしまう。セルランド分子を国内から一掃し、ウィンリックをバルドザールの保護国として存続させる。それがこちらの目論見だ」


「保護国化ですと!? ウィンリック王国千年の誇りはどうなるのです!?」


 声を荒げるガイウス卿を、ジルベールが制止する。


「堕落した貴族に寄生され、国をめちゃくちゃにして、何が誇りだ。もはやウィンリックが主権国家として存続することは不可能。ならば、ここは少しでも交渉の余地があるバルドザールと手を組むのが得策だろう」


「やっぱり君は頭がいいねえ」


 ゆったりと頬杖をつく女帝を、ジルベールは強い眼差しで見据える。


「だとして、祖国を好き勝手にさせるつもりはありません。民の安寧を守るため、私は徹底的に交渉させていただきます。これは、ウィンリック王国王太子としての意思表明です」


 厳しい顔のジルベールに、女帝はぷっと吹き出した。


「そんな怖い顔をしないでおくれ。かわいい夫に、私はすっかり籠絡されているんだ。セルランドなんぞより、余程良心的な条件を出すつもりだよ」


 そう言って、彼女は立ち上がる。


「さあ、会議だ。重臣たちを招集するとしよう」


 彼女が部屋を出ていき、残された二人はようやく一息つく。


「バルドザール二世陛下は、随分と殿下を気に入られているようですね」


「そうだと嬉しいが」


「しかし、そのために、殿下が夜ごと辱しめを受け、苦しまれているかと思うと、私は……」


 ガイウス卿は唇をかみしめ、拳を震わせる。ジルベールは目を丸くした後、どうやら自分が、国のために身を売って女帝に取り入る、哀れな王子と思われているらしいと気付く。


「はは、まさか。私はあの方と結婚出来て良かったと、心から思っている」


 心底愛おしげな笑みを浮かべたジルベールに、ガイウス卿は一瞬驚いたが、すぐに何かを察したらしい。


「遅くなりましたが、この度はご結婚、誠におめでとうございます」

と、深々と頭を下げた。



 その日、バルドザール帝国に、対ウィンリック本部が設置された。寝る間を惜しんで話し合いを続け、散々にぶつかり合った後、ようやく条件が合致した。三日後、バルドザール軍は、ウィンリック目指して出発した。その中にはアストレア、そしてジルベールの姿もあった。


 バルドザール軍は、ガイウスの同志たる革命軍と合流し、ついにウィンリック国内に侵入した。王太子ジルベールが挙兵した。その知らせに、次々と民たちの義勇兵が押し寄せてくる。軍を進めるうち、バルドザール軍は倍以上に膨れ上がった。


「ここまで民に慕われる王子様がいるとはねえ……」


 予想以上の結果に、アストレア以下、バルドザールの将校たちは目を見張る。しかし、彼らの感心をよそに、ジルベールは苦しんでいた。


「我々のために、ウィンリックに戻ってきてくださったのですね!」

「この命、殿下のために捧げる所存です!」


 目を輝かせる国民を前に、ジルベールは激しく罪の意識に駆られていた。この戦いは、自分の復讐なのではないか。王族貴族への私怨を晴らすため、国民に命をかけさせようとしているのではないか。


 その時、ウィンリック政府が、セルランドに出兵を要請したというの知らせが、バルドザール本営に飛び込んできた。


「このままいけば、中央平原で両軍がぶつかる。おそらく明日が決戦だろう」


 いよいよ戦が始まる。


 自分の役目が何なのか。何をなすべきなのか。ジルベールは、ついに覚悟を決めた。バルドザールがウィンリック政府と対立した今、もはや政略結婚の意味はない。自分が祖国にできることは、もはや一つ。命をなげうって戦を勝利に導く——それだけだ。


 会議が終わり、アストレアとジルベールは天幕に戻る。天幕に入るや否や、ジルベールはアストレアを抱きすくめた。これで陛下とは今生の別れだ。だから、最後に、少しでもその存在を感じたかった。彼女の心音が、触れ合った身体を通して伝わってくる。もうこの鼓動も感じられないのだ。そう思うと——


「い、いたいよ、ジルベール……」


 思わず力が入りすぎて、骨がきしむほど強く抱きしめてしまった。


「……すみません」


 ジルベールはアストレアの身体を放す。そして、そのまま一人ベッドに腰かけ、頭を抱えてうずくまった。


「何があったんだね? 辛いのなら、私に話しておくれよ。どんなことだって聞くからさ」


 アストレアはそう言って、そっと隣に腰を下ろした。


「……ずっと考えていたのです。私の命の使い方を。これは私が始めた戦い。民を盾にし、自分だけおめおめと生き延びることなどできません。国のため、民のため、この命を使い果たす。それが、王子としての私の役目……」


「私のことは、考えてくれないのかね?」


 アストレアは言った。


「夫に死なれ、一人残されるかわいそうな妻のことは、考えてくれないのかね?」


「……あなたの夫は、私でなくてもいい」


 瞬間、ジルベールは思い切り殴られた。今度の拳は、きちんと痛かった。


「君の代わりなんているわけない」


 アストレアの顔を、ジルベールは放心状態で眺めた。


「愛してるんだ、ジルベール。心の底から、君のこと、愛してるんだよ」


 アストレアはそう言って、ジルベールを抱きしめた。


 彼女に出会うまでの自分は、自分のすべきこと、正しいことだけをしてきたつもりだった。しかし、彼女と出会って、全てが変わった。いつの間にか自分は、一人の人間として、願いを、欲を抱くようになっていたのだ。


 王子としての役目など忘れ、今は彼女が愛おしいと、それしか考えられない。離れたくない。もっとずっと、この方の隣にいたい。心の声がそう叫び続けている。


 なんて愚かなのだろう。自分は最低の王太子だ。



 次の日の正午、ついに両軍は中央平原で対峙した。着々と戦の支度が整う中、バルドザール軍に数名の騎馬隊が向かってくる。


「祖国を戦火に巻き込むことは望まない! 王太子カエザル・ウィンリックの名において、講和を申し込もう!」


 やって来たのは、なんと、カエザル、そしてカースティス公だった。


「何か考えがあってのことでしょう。警戒される分に越したことはないかと」

と、ジルベール。


「そうだろうね。だけど、こちらはウィンリック千年の歴史に終止符を打たんとする侵略者なんだ。せいぜいあちらより誇り高くいくしかないさ」


 王太子、そして宰相直々に赴くなど、相手は誠意の限りを尽くしている。それを退けたとなれば、後々厄介なことになるのは間違いない。ここは体裁のため、応じるを得ないだろう。


「どうか私も臨席させてください」


 アストレア、ジルベールのバルドザール陣営は、ウィンリック陣営と、戦場の中心で向かい合った。


「おや、ジルベール廃太子殿下ではありませんか。恨みにまかせ祖国を蹂躙とは、相変わらず陰湿なことをなさる」

と、開口一番にカースティス公は言う。


「汚い売国奴が。もはやお前を兄とは思わない……いや、元々思ったことなどないがな」

と、カエザル。


「私の夫を侮辱するために、わざわざ呼び寄せたわけではあるまい。さっさと本題、講和の条件について話したまえ」


 その時、何かが彼らの手元できらっと輝く。鏡……? 合図を送っている——しまった! ジルベールは予感に貫かれ、アストレアを押し倒す。その胸に、どこからともなく飛んできた矢が、勢い良く突き刺さった。


 カエザルは、ちっ、と舌打ちをすると、

「これをもって宣戦布告とする」

と、素早く引き返していった。


「ジルベール様が撃たれた! 講和は中止だ!」


 ぐったりしたジルベールを抱え、アストレアたちがバルドザール本営へと戻ってくる。


「そ、そんな……」


 絶望に打ちのめされ、ウィンリック国民が地に膝をつく。しかしその時——


「総員、戦闘に備えろ」


 自分を抱える兵士を押しのけ、ジルベールが立ち上がった。


「で、殿下……?」

「お手当ては……?」


「聞こえなかったのか、戦闘準備だ」


 鋭くそう言い放つと、ジルベールは刺さった矢を自ら引き抜いた。真っ赤な血が胸から噴き出し、あまりの凄惨さに人々が凍りつく。


「私に流れるこの血は、ウィンリック王家に脈々と受け継がれる、由緒正しい尊い血だ。しかし、その尊さがどこにあるのか、私は今、ようやく気付くことができた」


 ジルベールは、平然と歩兵たちの前を歩いて行く。戦の直前、将として、最後の言葉をかけるつもりなのだ。


「愛する者のために流してこそ、この血は尊いものとなり得るのだ。私は今、この血を、バルドザール二世陛下のために流す。私の頼みに応じ、馳せ参じてくれた盟友に。そして、この血を、あなた方国民のために流す。共にこの地で育った兄弟たちに」


 誰もジルベールを止められなかった。それほどまでに鬼気迫るものが、彼にはあった。


「だが、覚えていてほしい。真に尊いのは、私でも、私の血でもない。この血を踏み越え、進んでいく、あなた方の不屈の意思だ。ウィンリックを作るのは、他でもない、あなた方なのだ」


 この方は、命をとして、我々の心に訴えているのだ。ウィンリック、果てにはバルドザール兵までが、気付けばその瞳から涙をこぼしている。


「私はこの血の一滴に至るまで、愛する同胞たちに捧げよう! ウィンリック千年の歴史の中、脈々と受け継がれた思いが、あなたたちに味方する! ウィンリックの未来は、あなたたちのものだ!」


 ジルベールは最後、口から血を吐きながら、そう叫んだ。途方もない熱に突き動かされ、人々は雄叫びをあげる。ジルベールのともした火は、今、どこまでも激しく大きく燃え盛る炎となった。


 自分の役目は終わったのだ。ジルベールは真っ逆さまに崩れ落ちた。


「殿下!」


 倒れたジルベールを、ガイウス卿が受け止める。


「ジルベール様、目を開けてください……!」

「出血がひどい。殿下は、もう……」

「立派でいらっしゃった……。最後まで、ウィンリックの王太子として……誇り高くいらっしゃった」


 将校たちが涙にくれる中、

「死なないよ」

と、一人、落ち着いた面持ちで歩み寄る人間がいる。アストレアだ。


「私の夫は優秀なんだ。妻を残して旅立つなんて、そんなひどいことはしない。そうだろう、夫殿」


 アストレアはしゃがみ込むと、ジルベールの血に濡れた唇に、そっと口付けた。


「大丈夫。後は私に任せて、ゆっくり休みたまえ」


 力強く微笑むや、彼女は手綱を取って、バルドザール軍の先頭へと馬を駆った。


「夫の戦いは、妻である私、バルドザール二世が引き継ごう! そして、その意思を継がんとする者は、私に続け! 全軍、突撃ぃいいい!」



 ジルベールが目を開けると、見知った天井が頭上に広がっていた。どうして、こんな場所に……。これは夢なのだろうか。


「懐かしいかね? 自分の城は」


 声の方向に顔を向けると——本当にこれは夢なのだろうか。ベッドの隣に、アストレアが座っていた。


「戦は終わった。我が軍、いや、君の勝利だ。現在、ウィンリック城には、バルドザール軍が駐留している」


 凛々しく微笑むアストレアに、ジルベールはようやく全てを理解した。あの致命傷から、自分は奇跡的に生還したのだ。


「……良かった。あなたとまた、こうしてお会いできて」


 ジルベールがその手に触れると、アストレアの凛々しい表情が、途端にぼろぼろと崩れ落ちた。


「ずっと、怖かった。人生で一番、怖かった。私をかばって、君が死んでしまったらと思うと、恐怖で心臓が止まりそうだった。君がいなければ、私はもう生きていけない。そう思った。だから……なんだろう? 君が戻ってきてくれたのは。ありがとう。本当にありがとう。生きていてくれて。私のところに戻ってきてくれて」


 アストレアは子供みたいにわんわん泣きながら、ジルベールの手を握り返す。


 なぜ死ななかったのか、分かった気がした。どうしても彼女を置いていけなかったのだ。彼女のそばにいたかったのだ。どうやら自分は、かなり執着の強い人間らしい。


 王太子という役目を終えても、自分は終わらない。これからは、彼女への愛が、自分に生きる意味を与えてくれるのだ。


「これからはずっと、あなたと共に生きさせてください。それが、私の心からの望みです」



 それから数日後。アストレアは大広間に、バルドザール、そしてウィンリックの代表を招集した。彼らが見守る中、アストレアは口を開く。


「さて、君たちの処分を言い渡そう」


 アストレアの前には、王、王妃、そしてカエザル、ブリジット——ウィンリック王家の面々、そしてカースティス公以下貴族が並んでいる。今、彼女によって、断罪が始まろうとしているのだ。


 人々は皆、苦虫を噛み潰したような顔をしている。その原因は、アストレアの隣にいるジルベールだった。自分たちが断罪し、追放した人間に、今、断罪される。これほど皮肉なことはそうないだろう。


「まず、現国王には責任を取って退位願おう」


「なんだと!? この私の働きなくしては、ウィンリックは成り立たない!」


「大丈夫。君にぴったりの仕事を用意した。辺境の小島に、由緒正しい神殿があるらしいね。ぜひ国の安寧のために祈ってくれたまえ。妻殿も一緒にね」


 それは実質的な流刑だった。


「さて、次は王太子夫妻だ。君らがジルベールにしたことに倣って、君らを別々にどっかのろくでなしにあてがってもいいんだが……」


 カエザルとブリジットが、途端に鼻白む。


「だけど、その兄上が、君を次期国王に推薦した。よって、君たちには即位してもらおう」


 カエザルは一瞬あっけにとられた後、顔を輝かせ、ブリジットと手を取り合った。


「お喜びのところ残念だけど、もはやウィンリックは、我がバルドザールの属国。簡単に言えば、君たちは一生私の言いなりということだ。宮廷費もこちらで指定するから、今まで通り遊興できると思ったら大間違いさねえ。


 ああ、文句をつけようとしても無駄だよ。私の怒りに触れれば即刻退位だ。せいぜい機嫌を取ってくれたまえ。私と、そして私の夫には最大限の敬意を払うんだ。ほら、練習だよ。言ってみたまえ、ジルベール王配殿下、どうか愚かな私めにお慈悲をおかけくださいませ」


「……ジルベール王配殿下、どうか愚かな私めにお慈悲をおかけくださいませ」


 カエザルとブリジットは、心底苦々しげにその台詞を読み上げた。


「まあまあだね。頼りない国王夫妻は、しっかり見てやらなければいけなそうだ。こちらから役人を送る他、これまでの腐敗分子は処分させてもらおう」


 カースティス公は、もはや何も言わなかった。自分の時代が終わったことを悟り、仲間の貴族たちと共に、虚ろな目で天井を仰いでいた。


「私の大切な夫を、今まで散々いじめてくれたんだ。これからはせいぜい私がいじめてやる。私は君たちと違って、誰かに面倒を押し付けたりはしない主義だからね。末永く、よろしくやっていこうねえ」


 アストレアの悪魔の笑みに、彼らは再び震え上がったのだった。かくして、かつてジルベールがざまぁされた場所で、ジルベールによるざまぁ返しは完遂されたのだった。



 ガイウスを臨時の総督に据えた後、アストレアは急ぎバルドザールに帰国した。この後、諸外国が一斉にウィンリック戦について干渉してくる。それに手を打つことを考えれば、いつまでものんびりしていられない。


「本当に国王にならなくて良かったのかね? そういう選択だって君にはあったはずだ」


 ウィンリックを発つ前日、アストレアはジルベールに尋ねた。


「私は国民を信じているのです。誰が王になろうと、彼らならきっと大丈夫だと」


 アストレアが置いた総督府は、貴族だけでなく、平民も役職につき、国政に意見できる仕組みが整っている。きっとウィンリックは大丈夫だろう。


「その点、陛下は私でなければいけないのでしょう?」


 アストレアは驚いたように目を見開いた後、

「ああ、そうだよ。私が愛する夫は、生涯かけて、ジルベール、君だけだ」

と、愛おしげに微笑んだ。


「身体が治って元気になったら、あの約束を果たしておくれ。私はずっと、待ってるんだから」


 約束。その言葉を、アストレアは恥ずかしそうに口にした。


「名前を呼ぶように、という約束でしたね。では、アストレア様。これでよろしいですか?」


 その様子に、ジルベールはまたからかいたくなってしまう。


「そういうことじゃなくて……って、君、絶対に分かってて、わざと意地悪してるよね。まったくひどい。とんだ極悪王太子だ」


「そう言う陛下も、すっかり好色女帝でいらっしゃいますよ。私との夜を、ここまで心待ちにしてくださっていたなど、身に余る光栄でございます。あの夜を超える交わりを目指し、技術を……」


「だから、真面目な顔でそういうことを言うのはやめたまえ!」

最後までお読みくださり、ありがとうございます! 今までとは違ったものに挑戦しようと、試行錯誤の末に完成した本作です。この経験を、今後にいかしていきたいです。よろしければ、アドバイスなどいただけるとありがたいです……!


追記を失礼します。3月7日に「清浄無垢の聖人様は、私が絶対おとしてみせます! 」という堕とす系?を投稿しました。よろしければ、そちらもお読みいただけると嬉しいです。

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― 新着の感想 ―
面白かったです。 しかし、何で女王は罰ゲームみたいな断罪王子たちを引き取ってたんだろう。 無能な王配がいいと、前王とかが、決めたのかな??
コミカルな出だしからの歴史ロマンを堪能させてもらいました。
断罪王子と元婚約者制限かかるけどそのまま? と思ったけど配下一掃もしくは反断罪王子派達据えるなら 立場としては王配殿下が祖国にいた頃みたいな扱いになるのか、 地位が有っても発言権は無い的な因果応報かな…
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