樹海の底 ③
義樹の手記②
歳をとると季節の流れに敏感だ。すっかり暖かくなり、いや、むしろ暑くなり、春は過ぎていったのだ。空気は湿っぽくなり、草木の青さが美しく、太陽の光も眩しく感じるが、私の気持ちは一切晴れない。娘の心は不透明だ。一体何を考えているのか、私には想像もつかない。私が勤めている図書館には若い娘を見かけるが、誰もが未来に向かって、読書や勉強をしている。輝いているのが私にはわかる。定年までの教員生活も、少女たちは朗らかに笑い、積極的に勉学に取り組んでいた。そんな生徒たちを見ると、私は活力が湧いて仕事にも熱が入ったものだ。教養を身につけることは、その後の人生を左右する。物事の良し悪しから、生きていく逞しさと頭脳を知り、自分なりによく理解して成長をしていくのだ。私はいい子が好きだった。勉強ができ、私の言うことを素直に聞き、物事に前向きに取り組む、そんな少年少女が好きだった。教員を職にしている者は誰でもそうだろう。
神は、我々の元に、なぜか『悪魔』を与えた。あの娘はまぎれもなく悪魔なのだ。生まれていて、妻を困らせるだけ困らせ、私自身にも悪い影響を与える。貴重な生を終わりにしようとする。私は父から腺病質だと言われたことがあったが、私は娘に一言も言ったこともなく、困難なことや悩みも耐え、生きることを突き進んできた。まして二十歳過ぎて麗しい時期を正しく歩むことができないとは一体どういうことなのだろうか。私の理解の限界を超えるというものだ。この世に生まれてきた限り、生を全うするのが当然ではあるまいか。私自身が信心深く神社に足を運んでも、あのような娘の風変りな心情をどう捉えてよいやら困惑するばかりだ。神はなぜ教えてはくれないのか。『悪魔』のような娘を我々に与え、その試練をどう乗り越えてよいのか。この世は不公平でしかない。
青春は青い春と書く。春の次は燃えるような暑い夏が来るのだ。青臭い思考は消え、熱を帯びた体は行動を起こして生きるために邁進する。私自身、生きるために苦悩したことがある。けれども、その度に腹に力を入れて一日一日を生きてきた。常に前を見つめて生き抜いてきたのだ。いかに私が幸福を感じられるか。それを追い求めた。継母は言った。
「親を不幸にする子供は地獄に堕ちるのよ」
と。それは私自身を脅かすための言葉であったと思うが、今はそのくらいの厳しさが必要なのだと思う。親を幸せにするために生きることが、自分自身のための幸福を追うことなのだと痛感する。親が満足げな顔をすれば、私自身の心も満ちていったのだ。それが基準であり、生活の仕方であった。それこそ家の中の過ごし方である。良し悪しは極端であるが、自分の正しい生き方を知る術でもあるのだ。
一方、父は無口な人間であったが、子供の頃こんなことを言った。
「勉学に励み、生を全うすることがどれだけのことかわかるだろう。私は一生懸命勉学に努めて医者となり、人のために生きている。患者が私に頭を下げる理由がわかるだろう。それだけに自分を犠牲にしているわけなのだ。他人に犠牲を払うという生きる姿勢は尊敬されるものなのだ。けれども、義樹はそうではない。私のような偉い人間にはなれっこないわけだから、人のために犠牲になる必要はなく、自分のために生きなさい。自分のために生き、自分の幸福を感じれば、それでよい。義樹には私ほどの器もなく、父親としての期待はしていないのだから。将来の職業も当初は期待をしていたが、少年となった今の姿を見ていると、多くは望めない。だから、自分のために生きればそれでよい」
そのような内容だった。
少年だった私は何の解釈もできず、勝手に生きればいいのだと思い込んだ。けれども、その勝手が理解できず、継母の言葉に従って生きた。親を不幸にしたくないと思って学校に行き、勉強をした。地獄に堕ちないように自分が進む足元に気を付け、思春期を過ごしたのだ。静かな青年であったが、あの娘のような悪さはしなかった。私にとって記憶の薄い青年時代でもあったが、泥臭さではなく、青臭さであったのだ。春とは言えず、冬であったかもしれない。その厳しさを生き抜くことは耐えることであり、私は忍耐強くもあったと思う。
継母は私の成績をよく褒め称えたものだ。
「お父様に似て、あなたは優秀で素晴らしいわね。あなたのお父様というより、先生と言ったほうがよいかしら。あのかたは先生なのですものね。お医者という立派な先生であるのよ。あなたはまだまだ追いつかないものがあるけれど、父親という正しい基準を持ったかたが傍にいるのだから、そこを目指して頑張ってくださいね。でも、お父様はそれほど期待をしていないとおっしゃっていましたから、あなたは自分自身の人生を見つけて選んで生きてほしいの。私はあなたを誇りに思いますわ」
父親が神々しかった。私は父を偉人とつい言いたくなってしまうのだ。自分を犠牲にし、家族ではなく他人を救うための職業に就いたことを誇らしく思えてならない。私はあのような父親の元で過ごせたことを幸せに思う。
あの娘が息子であったら、私の人生は順風満帆だったかもしれない。勇ましい生き方をしてくれたかもしれない。私の想像は意味がないだろうか。間違って生まれた『悪魔』が、これからも私の自身を不運にさせるのだ。それとも、今後一新して天使にでもなってくれようか。天使のような娘になって、まだ始まったばかりの大人の世界を生きてくれるというのだろうか。全くわからない。これは私の全くの空想だ。
私はあの娘に何も言わなかった。咎めなかった。理由も聞かずにいた。あのような失態をし、私と妻に恥ずかしい思いをさせたにも関わらず、私はあの娘を追い詰めるような言葉を発しなかった。下手に刺激をしてはならない。刺激をすればまた余計な行動を起こすような気がしたからである。平凡な生活に戻し、気を正して私が接すれば自然と生きる術を身につけてくれるものと信じている。乱さない生活が一番でもある。今は泥船に乗ったようなもので、過去となったアクシデントも緩和し、記憶が曖昧になるのを待っている時期でもある。一日一日が過去になっていくのだ。今日の日も明日には過去になる。だから、過去のものとして、未来という風が荒い砂さえ綺麗に取り去ってくれるのだ。静寂な気持ちでじっと耐え、待つのだ。すべてが過去になり、あの悪魔の娘が天使と感じられる瞬間を私は辛抱するのだ。
私個人の気持ちをここに記そう。
私は父親として、あの娘にとってはよい経験をしたと思っている。私や妻の立場とは対極ではあるが、人としての経験値があがったのだ。死を見ること、病院で横になること、近づく終末を身をもって感じたと思う。そのお陰で、生にたいする意欲を湧かせたのではないか。あの娘の本心は知らないが、私は思う。悪い経験がよい経験になることはよくあることだ。死を目の当たりにして生きるチャンスが与えられたのだから、これは喜ぶことではないだろうか。ああいう軟弱な娘には厳しい罰が必要で、そこから生還する力を感じとって生活に結びつけることが正しいのだ。何もせずに、こんなよい環境で生活させてやっているというのだから、厳しい仕打ちだったのだ。それがよい経験になるとはなんとも皮肉なことだ。その代わり、私と妻は恥をかいた。病院なんぞの死の臭いを嗅ぎ、空気を吸ってしまった。不吉な救急車のサイレンも妻は耳にしてしまったのだ。病院なんぞ出入りはしたくない。誰も好まないだろう。私は心底嫌いなのだ。あの死臭漂うどんよりとした空間が……。あんなところのベッドに横たわる娘は悪魔そのものだ。川西家の歴史の汚点だ。土下座をして謝罪してほしい、あの娘には。父親にたいして、偉人であった人間にたいして、私ではなく故人にたいして、頭を下げてほしいものだ。なんて恥をかかせてしまったのか。
もしも、私の本当の母親、私が四才のときこの世を去ったママは何を言うだろう。生きていたら心の声を聞いてみたい。ママの記憶はないが、心の美しい人であったに違いない。モノクロではあるが、着物を着た、弓のような眉をしてやや細い目をしたママが映った写真を眺めては思う。口角があがり、少し笑んでいるように映る。少しばかり豊かな体形をしたママの姿は柔らかで、外面も内面の優しげで美しい。それが写真に表れている。私の妻とはかけ離れた人だ。
私はこの歳になっても、憧れている。願っても願っても、祈りに祈っても叶わない。それでも、私はママに会いたい……。
六月になると、和子宛に赤野美代子から葉書が毎年届く。
赤野と和子は飯能出身であり、大学と学部も同じであり、同じ教員を目指していることから学生時代からの友人でもあった。大学を卒業すると、市内のそれぞれの小学校の教員にストレートで就いた。和子は赤野のタフで力強さ、教育熱心さに魅力を感じて一目置いていたが、由依が大学を中退して家にいる日々が続いてからは自ら距離を置くようになっていた。
毎年届くのは和紙の葉書だ。表には川西和子様と筆で書き慣れた流れるような字体で書かれている。和子はまだ暑中見舞いには早すぎ、この梅雨の始まりのうっとうしい時期にと毎年のように思う。葉書の裏を見ると、筆で滲んだ水色の雨粒の絵が背景に書かれ、中央には決まって創作したとみれる句が添えられていた。
『この雨音 聞けば必ず 鮮明な 炎燃ゆる 鎮火せずに』
和子は意味がわからずにいた。夏の近づく熱を帯びたコンクリートの道路に、六月の雨が降ろうとも熱いものだと勝手に解釈した。赤野は男勝りで男の義樹より遥かに強く、逞しさと気の強さを持ち合わせていた。和子はそれをよく理解していて、教員という職にエネルギーを注ぐ赤野には敵わないと思っていた。けれども、こんな句をわざわざ寄せてくるのは不思議であった。赤野が季節に敏感に生きる人のようには思えず、また句を寄せる繊細さとは無縁の人間に思えていたからだ。
和子は本棚の下の引き出しから、ここ数年とってあったこの季節に送られてくる赤野からの葉書を探した。三枚ほど見つかった。あとは記憶にはなかったが、有難く感じずに捨ててしまった。やはり和紙の葉書で、裏は雨粒の背景が筆で描かれている。和子は洋間のソファに座り、三枚の葉書をまじまじと見た。
『しとしとと 心の雨は 降りやまず 激しく荒く 心は燃ゆる』
『暗闇に 火を灯しては 天に向かう 熱い心に 誰も触れずに』
『誰だろう 荒れていくのだ 突く君へ 雨音だけに 激しさが増す』
和子の目には、どの句も荒々しく映った。梅雨時で鬱屈しているのだろうか。それとも、自慢の句なのだろうか。赤野のことだから、季節の自慢の句をしたためたのではないかとも頭を過る。けれども、和子にはなんだか不気味に思えた。ぼんやりと四枚の葉書を見ていながら、全く関係のないことを思い出した。由依が小学校三年生のときに赤野が一年間担任をし、世話になったことだ。遠い過去のことであり、さほど気にもとめなかった。しかし、それは偶然でもあり、和子は友人の赤野に自分の娘を指導してもらうのは嬉しかった。幼稚園の頃から交流があり、由依は知っている人だからととても喜んでいた姿を思い出す。
当時、由依は学校に大人しく通っていた。家に帰るといつも寡黙であったが、たまにこんなことをよく言っていた。
「赤野先生は、とても怖い。今日は皆ほっぺたを叩かれた。悔しそうに唇を噛むんだ。怒る前は唇を噛むの、だからこれから怒られるってわかるの。毎日日記を提出して、先生は私たちの生活を見張っているみたい。思い通りにならないと怒るの。放課後遊んでいかないと次の日理由を聞かれる。正しい理由でないと、頬を叩くの」
和子には由依がどんな学校生活を送っていたのか思い出せない。由依の断片的な、怖いとか叩かれて痛かったという内容は愛情の証だと思っていた。学生時代から、赤野は子供には厳しい躾が必要だと口にしていた。和子が教員をしていたときも、子供に手をあげたことも多く、躾と言って厳しく言い聞かせては子供の体に触れた。それが日常だった。そのせいか、由依の言葉も聞き流していた。教育とはそんなもので、躾とは愛という厳しさなのだと思っていたのだ。赤野は学生時代から気性が荒いことで有名であったが、すべてが熱意ある行動のゆえと和子は思い込んでいた。男性よりも男らしい、そんな女性であった。
「由依は赤野先生を信じればいい。先生って間違いがないんだから。先生の言うことを聞いていれば強くなれる。なんだって頑張れる。頑張って強い子になれる。だから、学校では先生の言うことに従ってほしい。そうすればすべてがうまくいくから」
そんな内容のことを由依に言って聞かせた。
和子は今の娘の状態を見ていると、子供時代の教育はあれでよかったのだろうかと振り返った。だいたい先生に任せきりで、自分は日々の生活に追われていた。家事もパートの仕事も、由依の学費や生活費、金銭にまつわることに重きを置いていた。子供らしい喜びや楽しみを与えていたか思い出せなかった。由依が中学生くらいになってからは、娘の笑顔を見た記憶がない。気にも留めずに年月が経ち、二十歳を迎えていた。
由依がずっと幼いときに和子の母は亡くなったが、和子の記憶には母の言葉が残っていた。
「子供を育てるのは大変。でもあっという間。夢中で過ごしてしまった、失敗も沢山。でも、子育てはそんなもんよ」
母親の言葉は、自分が子育てという年月を終えようとしている今は理解ができる。何もかもがむしゃらで夢中で走ってきてしまった。気づけば年月だけが過ぎている。腕に抱えられるほどの大きさだった娘の体はすっかり大きくなった。ただ、心の成長は見られなかった。そして、目に見えないものほど掴めぬものはないのだと心から思う。やはり失敗だったのか。由依はこの世界を捨てようと自らしたのだから。和子は心配と不安だらけになり、やはり過去もそんな気持ちを抱き続けていたことに心が浸った。なぜ、どうして……そんな疑問しかない。
和子は赤野からの葉書をテーブルにそっと置き、机の引き出しから新しい葉書を取り出し、ペンを手にした。
『お元気でしょうか。
梅雨時の鬱陶しい季節になりましたね。桜の花もあっという間に散っていき、季節の移り変わりを感じ、時の早さを実感する年齢になりました。
子育ても一段落し、娘の由依も立派な大人になりました。大人の社会に揉まれながら、日々自分自身のため、社会生活を苦しくも楽しくも送っております。私共夫婦は安心し、娘の成長を静かに見守っています。
お互い、体に気を付けたい年齢でもありますね。日々の健康に気配りながら、この梅雨空を乗り越えたいですね。』
そう書いた。和子はこんな嘘を記すことに迷いはなかった。赤野の負けず嫌いの性格や詮索癖をよく知っていたからだ。由依を傷つけるわけでも、見栄でもなかった。すべては私たち家族を守るためだ。生きることに手探りの由依にたいする不安を抱きながら、今後も生活を続けていかねばならない。だから守るのだ。そして、誰からも邪魔されずに静かに過ごしたかった。
和子は書き終わると、赤野から届いた葉書を手にし、また眺めた。雨粒の絵も何の意味もなさないような句にしても、気味悪く思えてならない。
「赤野さん、体の具合でも悪くしたのかしら……」
和子はなんとなく呟いた。妙に気になったが、理由を探すことはやめた。今は由依のことで頭が一杯だったからだ。二階の自室に篭ってしまった娘のことを、今も胸がざわついて落ち着かない。一度あったことが、二度もあってはならない。和子は赤野からの葉書を乱暴にテーブルに置き、階段の下から大きな声をあげた。
「由依! ねぇ、ケーキ買ってきたら一緒に食べない?」
本当はケーキなんて買ってきてはいない。寝ていてもいい。声を聞きたかった。生きていることを確認したい。和子は胸だけが高鳴り、二階に上がる階段に足を掛けた。
和子は、赤野美代子に宛てた葉書を書いたものの、結局投函することはなかった。
義樹は由依を洋間に呼び出した。できることなら娘と話をしたくなかったが、和子から忠告をしてほしいと懇願されたからだ。自分たちが安心して家で生活できない日々に区切りを早くつけ、部屋でだらだらと過ごしている娘に、余計な考えに耽らせてはいけないと思った。
「由依、ちょっと洋間に来てくれる?」
由依の自室のドアの外から和子は声をかける。
由依はベッドで布団に包まり、これからのことを考えながらもがんじがらめになっていた。毎日がその繰り返しで、遠い未来のことも明日のこともわからなくなっていた。一体どうすれば、心の鉛を取り去ることができきるのか。悶々としていた。
「由依、下におりてきよ、早く」
母親の声が次第に大きくなるので、由依が重い体を起こし、ベッドに腰かけた。父親の仕事は今日は休みのはずで、気が苦しく沈む。ただ逃げることもできず、立ち上がって体を引きずるように部屋を出た。
「由依、お父さんから話があるって」
それを聞いて由依は一瞬顔を歪めたが、母に腕を掴まれたことで何事も観念して階段を下りて洋間に足を踏み入れた。義樹は背筋を正し、ソファに座っている。由依はその姿勢を見て、胸の鼓動が少しずつ速くなり、体が固くなるのを感じた。沈黙しかない部屋のテーブルの前に由依は迷いもなく正座をした。
「家にいて、これからどうするつもりだ」
義樹の声は冷静を装っていたが、心の声を押し殺しているかに由依の耳には届いた。いつもの父親。昔から変わることのない父親。由依は、父親から醸し出される圧力的な雰囲気と冷静沈着な物々しい低い声、しかめ面しい表情に圧倒され、いつも何も言えない。一言何か言えば私を呪うような目で見る。自分の敵だ、そんな心の声が聞こえてくるようだった。
「将来についてどう考えているのか、私は聞きたい」
義樹はそう言い切った。
由依は肩を縮こませ、小声で答えた。
「……まだ何も決まってないし、本当に、何も……」
和子は由依の傍に座り、義樹の顔をじっと見ていた。こんなにも険しい夫の顔を見たことがなかったからだ。抑えている怒りが手に取るようにわかった。由依は泣きそうで泣いてはいない。下を向き、ここからいつ抜け出してベッドに潜り込めるか考えていた。今この瞬間から一刻も逃げたかった。
「家にいるつもりなのか、このままずっと。仕事もしないで、アルバイトさえしないで、家に居続けていいと思っているのか。将来の設計くらいあるはずだ」
義樹はそう言い切った。答えられないことはわかっていたが、どこまでもどこまでも追いつめしまいたい心情に駆られる。自分が娘を追いつめ、娘を死に追いやって楽になれたらと心の底のどこかでで微かに思っていた。
「お母さんだって仕事をしてるだろう。私も定年まで苦しいことがあっても一生懸命働いてきたんだ。由依の何倍も何倍も努力をして働いてきたんだ、この家を守るために。これから、私が稼いだ金で生きていくつもりなのか。そんなだらしのない娘に育てたつもりはないねぇ。それとも、立派な男にしがみついて、生きる器量が由依にはあるというのかね? ないだろう。大学だって中途半端に辞めてしまうし、仕事もしていない娘などお断りなんだよ。この世界はそうなんだ、そういうものなんだ。生きていくために苦しい思いをして、前に進むんだ、それがどういうことかわかるだろ?」
そこまで言うと、義樹は溜息混じりに一息ついた。
和子は黙っていたが、由依の背中に軽く手を当てた。俯いているだけの由依が不憫に思ったからだ。由依は聞いているようで聞いてはいなかった。先生たちがよくする説教のように聞こえた。耳から耳へ通り過ぎる雑音で、なんだか眠たくなる。正しい意見は正しく、すべてにおいて正しいのだ。しかし、その正しさが自分とは違うと感じていた。父親の言う正論は世間一般では当たり前の正しい世界であり、誰もが頷くだろう。けれども、試験の模範解答のようにはならない。心の奥を正義で埋められないように、生き方も埋められない。誰もが納得のいく生き方を演じることもできない。由依はわかっていた。わかっていたから、泣くことはできなかった。
「黙っていないで、意見があるなら言ってみなさい」
「お父さん、そんなに声を大きくしないでも」
和子が慌てて丁寧な口調で言い、義樹に目で訴えかける。義樹はなんとなく掛時計を見ては、額に皺を寄せた。この娘のために無駄な時間を割いている。今この時間、堅実に働いている若者が多いというのに、この娘には根性すらないのだ。なんて、情けない。みっともない。何度も心の中で呟いた。
「じゃぁ、家事をやりなさい。料理、洗濯、風呂掃除、他にもいろいろあるだろう? お母さんが仕事している夕方は忙しい、料理は最低できなきゃいけない。それは女の仕事でもあるし、由依にとってもいずれ生きるための仕事になる。わかったか?」
「由依には今まで食事を作らせてるし、それでいいんじゃないかしら。やってくれれば助かるけど」
和子はなぜかホッとした顔をし、由依の背中を軽くトントンと叩いた。
「じゃ、お願いね、料理」
和子は義樹の意見に同意し、微笑んでは由依の顔を覗き込んだ。由依は相変わらず頑なではあったが、仕方なく小さく頷いた。
「だけどもな、それでいいんじゃない。将来のことを考えるんだ、自分で。誰もが自分の人生を切り開いてきたように、自分自身のことは自分で決めるんだ。私はね、まだ納得なんかしてないから。由依の意見をしっかり聞いてないから。何の指針もないんだからな、まだまだだよ、これはな、今の私の妥協案だから」
そう言うと、義樹は立ち上がった。誰かが玄関の方に歩いてくる。
「あら、誰かしら。郵便局の人のようね」
和子は立ち上がり、玄関へ走っていく。
由依は正座をしたまま俯いている。その姿を見て、義樹は憎らしくなった。娘というよりも人間として、情けなさと怒りが混在していた。二十一歳の若さ溢れる過去の自分は、生への恐怖を拭い去りながら、明日への一歩踏み出していったものだ。その努力を怠らなかった。それがこの娘にはできない。両親が二人しっかり揃い、金銭面にも困らず、何が一体不満なのか。
「こんな悪い子はほっぽりだせ!」
義樹は力に任せに大声で怒鳴った。
「え、どうかされましたか?」
玄関のほうでひそひそと声が聞こえる。
「何でもないんです、何でもありませんから」
和子が慌てて言い、郵便局の男は玄関を丁寧に閉めて去っていった。
「そんな大きな声出さないでよ、聞こえるじゃない」
「もう、知らんよ。……もう、何もない」
義樹はスリッパの音をバタバタたて、二階の自室に向かっていった。
由依は頭の中が停止してしまったように動けずにいる。家も外もどこにも自分の居場所はない。ふと死の世界に憧れはしたが、そのための行動をする気はなかった。生と死もない、生まれては固まったサンドイッチに挟まれた卵みたいに、由依の心は硬直していた。
「由依、しっかりしなさい」
和子は娘の肩に両手を掛ける。
「もっとしっかりして、頑張りなさい」
由依は心許なくうんと言い、立ち上がった。固くなった体全体が一気に縮んだ気がした。しっかり頑張る。その意味がわからない。考えても答えがでない。由依は茫然としていた。
窓の外では雨が降り始めている。どんどん激しく雨が落ちていく。天から落ちてきた雨粒はコンクリートの上に直撃して一瞬で弾け飛ぶ。それが自分の命のように思う。生まれて終わる。一粒の雨は、決して二度は繰り返さない。呆気ないんだ、そう思った。
水曜日の午前中、由依は西クリニックに足を運んだ。
相変わらず誰もいない待合室。カウンセリングの予約をしてからだいぶ日にちが経っていた。一時間六千円するのだという。由依は身構えた。勧められるがままにカウンセリングの流れになったが、自分が一体どんな悩みを抱えていて、カウンセラーに理解してもらうための言葉を選ぶことに戸惑っていた。悩みは沢山あるにも関わらず、いざとなると頭が真っ白になった。ただそわそわし、椅子に座って名前が呼ばれるのを待った。カウンセラーに叱られるのではないかと由依は思い、体を固くし、呼吸が浅くなる。何を話そう、どうしようか……と頭の中をぐるぐると巡らせてしまう。とても場が持たない気がする。そうこうしているうちに、名前が呼ばれ、診察室の左側のカウンセリング室にお入りくださいと受付で言われた。由依は観念して、立ち上がり、細い廊下を歩いてカウンセリング室と書かれた簡素なドアの前で立ちどまっては息を呑む。やはり何も頭に思い浮かばないまま、ノックしてはドアをゆっくりと開ける。
中には丸テーブルに椅子がふたつある。小太りな白いワイシャツ姿の男が座っている。由依の姿を見ては、立ち上がり、どうぞどうぞと言って椅子に座るよう促した。由依は言われるままに黙って座り、まるで生徒のような受け身の姿勢にしかならなかった。目に微かにかかるほどの黒髪と、ぱっちりとした大きな目が印象的だ。
「いやぁ、予約をだいぶ前にとられたようですけど、私は他のクリニックにも出入りしてましてね。遅くなって申し訳ありませんね」
そう言って少し笑いながら、由依の顔を見た。由依にはどこにでもいる四十代のおじさんにしか見えない。
「カウンセラーの橋本と申します。えぇと、一時間はあっという間なので、本題に入りますが、川西由依さんね……。緊張して食事が食べるのが辛い、ストレスとかそういった問題があるんですね」
カウンセラーの橋本学は院長が記したカルテを事前に確認し、メモ程度にノートに記していた。だが、それ以上は何も知らない。目の前の川西由依は二十一歳という年齢より幼く見える。長めの前髪や、肩より長い真っ直ぐな髪が痩せぎみの顔にかかって少し隠れ、伏し目がちだ。黒いTシャツを着ているが、肩のあたりが骨ばって見えた。スポーツに励んでいる中学生のように見える。カウンセリングを受ける患者は話に熱心になる傾向があるが、橋本には川西由依が内向的で話をしないタイプに映った。
「ご両親に言われてここに来たのですか? カウンセリングを院長はよく勧めますしね。何を解決したいとか、悩みを改善するためのお手伝いを私はするのでね、何でも……まぁ、気楽に話してくれるといいんですよ」
由依は仕方ないように口を微かに動かした。乗り気ではない。おじさんのような橋本というカウンセラーを目の前にし、一気に緊張はほどけたが、話となると何も思い浮かばない気がした。
「……はい。親に言われて。で、解決したい内容もよくわからないんです。先生にカウンセリング受けるように言われただけで、私は具体的なものは何もわからないんです」
「でも、食べるのに緊張してしまったり、何かあるんでしょ? それはやっぱり何かあるからだと私は思いますよ。それはいつからのことなんですか?」
橋本は内心困ったと思った。本人が話に積極的でないのは、自分で聞き出さねばならない。心の奥に眠っている出来事を引き出せない場合、バラバラのパズルが散らばったままで収拾がつかなくなり、自分自身が手に負えなくなるのだ。カウンセラーを盲信したり、依存したりするタイプの人も多く、それだけに口論や喧嘩になることもある。川西由依の意欲のない顔や声の低いトーンから察して、厄介な子に思えた。
「……きっと、子供の時からです。私は生まれつきそんな感じの子だったし、食が細いし、元気のいい子ではなかったし、喉を食べ物が通っていかないような、そんな子だったんです。先生には叱られたし、問題児だって言われたし、かわいげのない子だったし」
由依は小声でぼそぼそと話した。
「……先生に問題児だって、それはひどいなぁ。子供を問題児と表現してしまうのはよくないですよね」
橋本はわざと大げさに同情して見せた。そうしないと、相手は心を開いてくれない気がした。誰にたいしても心を閉鎖してしまっているかに映る。
「私はあなたよりずっと年上だけど、いじめられた過去があります。未だに心に傷を負っているんですよ。いじめた奴の名前だって覚えているし、されたことなんて忘れられないんです。でも、紆余曲折で生きてきました。楽じゃないですって。でも、人間ってそんなもんでしょう?」
橋本はそう言って嘘をついた。いじめの過去はない。ありがちなことを言った。それで川西由依の気持ちが揺れて変わっていくのならいいと思った。しかし、相手は無表情だ。伏し目がちで、橋本と目を合わすを避けている。
橋本は声をかける言葉を失った。どうしたらよいのか考えながら、天井の方を向いて、小さく息を吐いた。カウンセラーいう仕事は難しいものだとつくづく思う。今まで何人の人が自分と関わっていったか。数えきれない。その中の誰もが解決しなかった。人の心は見えず、明確ではない。そして、自分自身もただの人間だ。正しい心の尺度など持ち合わせていない。算数のように正確ではないのだ。逆に自分の言葉で相手を傷つけ、余計なトラウマを作って終わりにしてしまうこともあった。反省しても吐いた言葉は取り消せない。真剣に考えても解決の糸口を考え出せないことも多い。相手の心に寄り添い、手助けなど不可能にすら感じる。それでもなぜこの職に就いているのか。当初は人の心の苦しみを救いたいという純粋な気持ちもあったが、次第に自分の心の負担をなくして楽になりたいとさえ思うようになった。この幼さの残るまだ若い川西由依を目の前にし、どうしていいやら迷うばかりだった。
「……きっといろいろ考えているんでしょう? そう、食事っていうか食べるっていうか。心に残っていることを今度紙に書いてきてもらえませんか? 言葉ではなく、紙にね。出来事とか、整理するといいのかもしれないです。言葉で説明したりするのは意外と難しいもので、家で時間をかけて書いてきてほしいんです。そうすれば、私も少しは理解できる部分があると思いますし」
橋本はこれではカウンセリングにすらならないと思い、優しく丁寧に言った。そのほうがいいし、もしからしたらこのままカウンセリングを終了するかもしれないという淡い期待もあった。
由依は頷いた。何しにここに来たのだろうと思った。父や母が抱く期待を裏切っていると思った。六千円の大金も、あっという間に消えていく。ただ、カウンセラーに嫌な印象は抱かなかった。高圧的に物を言うタイプではなく、話口調や体型からもどこか緩さがあった。自分の父とは違う人であった。
「今度、紙に書いてきてくださいね」
橋本はとりあえず言った。
「……わかりました」
由依は気の抜けたような返事をし、礼を言ってカウンセリング室を後にした。新しい発見も収穫もない。期待外れではあったが、橋本というカウンセラーを憎めずにいた。自分と向き合ってくれたからであろうか。緊張がほどけていったからであろうか。明確な理由はわからなかったが、次回のカウンセリングの予約をした。それまでに紙に過去の出来事を書こうと思った。
雑居ビルの前を歩く人々は幸せそうに見える。帽子に眼鏡姿で変装している自分が異様だった。一歩一歩歩きながら、次元の違う世界を歩いていることを実感する。誰も知らない自分。二十歳前後の男女の姿を見ると、やはり違うと思う。そして、羨ましげな視線を向けることしかできなかった。
土曜の夜、自宅に田村咲から電話があった。電話に出たのは和子であり、由依に友達から電話がかかってくるのを嬉しく思った。その反面、由依は少し斜めに逸れていきそうなレールを歩き始めている自分を人に知られそうで嫌な気分がした。田村咲と会って以来、自分を壊して自ら痛めつけ、沼に落ちて這い上がれない状態が続いている。田村咲と食事をした時間の苦痛や他人とのすれ違いを体の細かな神経にまで感じ、それが恐怖しか感じられなくなっていた今は、あの時間を忘れられずに心が震えるのだ。かつての友人を懐かしむわけでもなく、まだまだ記憶に新しい高校時代を振り返って郷愁に浸るなどありえなかった。
受話器を握った由依に向かって、和子は娘の耳元で囁いた。
「よかったわね、今度遊びに行きなさいよ、お金あげるから」
由依は無表情のまま母親から視線を逸らし、受話器を持って立ち竦んだ。
「ごめんね、出るの遅くて」
「え、ちっとも遅くないよ。あれから随分経ったね、もう夏になるんだよ、夏。学生時代が懐かしい気がする、社会人って夏休みなんてないし。旅行行く時間もないなぁ。で、川西さんは何してるの?」
田村咲のあっけらかんとした声に押され、由依は怯む。自分だけ後ろを向き、闇に足を突っ込んでいる。精神科に行ってカウンセリングを受けているなんて到底口にすることはできない。
「この前、美容院に行ってね、私の髪ってちょっと癖毛じゃない。縮毛矯正を初めてかけてもらったけど、もうサラッサラで。触って触ってってくらいきれいな髪になったんだ。川西さんは癖毛じゃないから大丈夫だろうけど。あのときは感動したなぁ。こんなに変わるんだって思っちゃった」
由依は黙っていた。
田村咲とは、高校三年のときの級友でさほど仲がよいわけではなかった。親友のような人は由依にはおらず、休み時間少し話をする程度の人だった。友人と知り合いの中間のような人。それが田村咲でもあった。相手はどう思っているかは知らない。由依は自分の意見をテキパキ言うわけでもなく、相手の話に静かに笑って頷いているだけだった。そんな学校生活は終わっていったが、自分が二十歳を過ぎて、互いに大人になってからもなんとなく繋がっている関係だった。
「まだプー太郎やってるんだ」
田村咲はさらりと言ってのけた。
由依は急にファミレスのトイレに閉じこもった自分を思い出した。逃げられない感覚と体の神経が壊れていく恐怖。たった今再現できそうなくらい過去の記憶を引き戻している。私が悪いのだ。私が生きることを棄てられなかったから、恐怖が蘇る。心が暗く底のない深い穴に落ちていく感覚がする。
「ハローワークに行ってるの?」
納得がいかないのか、少し強い声で迫る。なぜ?どうして?そんな声が由依には届く気がしてならない。由依はなんて答えようか迷いながら、受話器を強く握った。脇から汗が流れる。なぜ人は私をこう問い詰めるのだろうか。由依の手は微かに震えた。
「……ハローワークには行ってるよ。なかなかないんだ、仕事。氷河期だから。それにハローワークにでてる会社って、申し込んでもろくな反応してこないんだ。履歴書送ったって三週間待たせておいて落とされちゃうんだから。そんなもん。だからずるずるだらだらになっちゃう。それっていけないの?」
由依は一気に嘘をつく。自分でもよくこんなに悪気もなくつらつらと嘘を並べられるものだと感心する。田村咲はふーんとぼんやり言い、同情してくれそうでしない。自分に都合のよい嘘をついてしまう由依は自分自身を責めながら、さらに気まずくなった。
「……だからさぁ、大学卒業してればよかったじゃん。それって自己責任。大学だったらいろんな職種だって選べるし、ちゃんとした会社がほとんどなのに。それを捨てたんだから、仕方がないよ。ハローワークってそんなもんなんでしょ」
由依は何も言い返せない。ハローワークに一度も足を踏み入れたこともなく、すべて想像の世界。受話器の向こうの人間を納得させるための嘘。そして、私が悪い。
「……じゃぁ、まだプー太郎でいるんだ、継続ってことなんだ」
田村咲はそう言って、小さな声で笑った。
「田村さんは楽しいんだね、人生が。……私とは違うし、だけど、私をプー太郎って言うんだ。それが楽しいんだね」
由依は目に涙をほんの少しだけ溜めたが、口調だけは怒りを含んでいた。プー太郎か。そんなことを言う人が友人なのだ。自分にとって誰もいないから、親友でも友人でもない田村咲にどこかですがっている。独りになりたくないからだ。たとえ相手が電話をかけてきたとしても、由依自身も反抗しつつも会話を続け、断ち切れないという関係に至っているのだ。
「気分悪いなら悪いけどさ、世間一般では、そういう人のことをプー太郎って言うんだよ。私はね、仕事してないとか、学校行ってないとかそういう人をそう呼ぶから。それっていけないことなの? 私はただの単語だと思うけどなぁ。悪気は全然ないんだけど」
「……なら悪くない。履歴書に穴をあけてる私が悪いんだから。テストで空欄作ると先生怒るよね。それと一緒で何かなくっちゃいけないし。何もないのがダメだって、私だってわかってるよ」
なぜこういう話になるのか自分自身でも理解できずにいる。田村咲が電話してきた理由もわからず、責められたり、怒って反抗してみたり、そんな具合だ。友達と仲良くするための術は難しい。言葉を並べるのは簡単だが、心は何も通じ合わない。環境も親も、学校生活もまったく違いながら、それでもどこかが繋がり、そしていずれは離れていくもののように思えた。けれども、田村咲と断つ覚悟が今はなかった。独りになりたくないという自分勝手な気持ちで相手と会話をするだけだった。
「川西さんさぁ、何歳のときに戻りたい? もしやり直せるならさぁ」
田村咲はふとそんなことを言いだす。由依の怒りはすっかり消え、懐かしくもない過去を難しく捉えた。
「……記憶がないときから。でもね、どうせ同じことの繰り返し。繰り返して同じ人生を歩いて、今になる。そんな気がするよ」
思いついたことを言葉にしただけだったが、人生とはそんなものだろうと由依は思った。やり直すことも面倒臭い。また今に至り、それまでに自殺未遂をして心の傷を深めるだけだろう。大きな荷物を子供の頃から背負うのだ。
「真面目だなぁ、川西さんって。笑っちゃうくらいの冗談もないし。正確な答えなんて私は求めてないからさ。でも、それがいいって人もいるんだろうなぁ。……今日は暇だったから電話したんだ。どうしてるかなって思って。仕事決まったのかと思ってね。何かあったら電話してよ。仕事で忙しいときもあるけど、夜だったらまぁだいたいいるからさぁ」
図星だった。自分の欠点を言い当てられることほど辛いものはない。真面目という言葉が頭を過る。そんなつもりで生きてきたはずはないが、いつも笑えない自分はそうなんだと思っていた。その反面、心から笑えるわけがない。笑えたらおかしいとも思った。
電話を切って受話器を置くと、傍らから和子が由依の顔を覗き込んだ。
「ハローワークなんて行ったことないじゃない。立派な嘘ついちゃって。そんなに焦るならハローワークに行って仕事を探しなさいな。パートのおばさんたちに交じってやるのもいいかもよ。可愛がってくれるだろうし。変なプライドなんて持たないでいいから」
「……持ってないよ、プライドなんて」
「あら、嘘をつくってのはプライドがあるからでしょ」
和子はいやらしい口調で由依に言葉を投げかける。
「そんなのないってば!」
由依はそのまま二階の階段を駆けあがった。
「怒って、変なことしないでよ、恥ずかしい思いをさせないでよ」
下から和子の声が追いかけてくる。由依は乱暴にドアを閉め、真っ暗な部屋に立ち竦んだ。暗闇は何も見えなくていい。窓からの星も見えない。それがいい。それがとても心地よく、悲しくもあった。
由依は小学校時代のアルバムを手にした。静寂な空間は由依の心をより一層鮮明にさせる。アルバムを開きたいようで開きたくない。けれども、時折目にしたくなるのだ。そんなときは、大抵将来のことが不安で心が潰されそうになり、胸のつかえが落ちない。八方塞がりで今の時間を過ごせなくなる。誰にも邪魔されない部屋の中で、じっくりと過去に浸るのだ。
由依はアルバムの中のれいの付箋が貼られているページを開いた。三年二組の集合写真。目につくのは先生の顔が二重画鋲でしっかりと隠れている。由依は爪先を画鋲に引っ掛け、抜こうとした。なかなか取れない二重画鋲を取り去る行為は、小学生のときを思い出す。絵や書道やその他の多くの紙を二重画鋲で壁の留めたものだ。貼り付けては剥がす。そんな行為をどれだけ繰り返しただろう。やっと画鋲は取れたが、先生の顔にぽっかり穴が開いていて表情は見えない。目も潰されてしまった。由依は冷静だった。残酷だなんて微塵も思わず、もう戻ることができない過去を憎んだ。赤野美代子の潰れた顔をしばらく見つめ、由依は悔しそうにまた二重画鋲の針でまた顔を潰した。そして、アルバムを閉じた。
由依の憎しみは静かだった。家の中の閉ざされた部屋の閉ざされたアルバムの中の写真。写真を破り捨てることもせず、由依自身が今生きているように、写真の中の赤野美代子も生きている。だから、捨てることはできずにいた。何度でも画鋲の針で刺すことはできるのだ。その度に由依は自分自身のことが嫌になる。憎む労力が明日からの負のエネルギーにしかならないことを知っていたからだ。明日からこの先ずっと毎日のように呪うのだろう。由依の心は闇に支配されていた。
由依は、カウンセラーの橋本に紙に書いてきてほしいと言われたことを思い出した。机の引き出しに置きっぱなしの便箋を取り出した。机の上に転がっていたボールペンを手にし、椅子に座って姿勢を正す。何を書こう……。事務的で可愛げのない真っ白な便箋を見つめ、ボールペンを握った手はとまる。橋本に伝えることを書けばよいのか、それとも過去の出来事を書けばいいのか迷う。記憶に一番残っていることを記すことが正しいと由依は思った。
『小学3年生のこと
毎日のように給食のある日は泣いていた。食べられない私を先生は毎日なじった。私がいかにダメで、どうしようもない子かを皆の前で言った。皆が頷いてくれるのを待っているように、先生は私がいかにダメか説明をした。私はいつも泣いていて食べることができなかった。先生は給食の時間になると、私のもとに怒った顔をしてやってきて、私の胸ぐらを掴んで突き飛ばした。なんだかんだ言って食べない、赤ん坊よりひどいと言った。無理やり椅子に座らせ、口を開けなさいと言って私の顎を左手で強く掴んだ。開けろ、口を開けろって何度も言う。私はずっと泣いていたけれど、少し口を開くと、そこから給食をスプーンで取って私の口をこじ開けて無理に入れ、飲み込めと言った。皆が私を見ていて、とても恥ずかしかった。先生は私を別の教室で一人で食べさせた時期があった。給食の時間になると、指定された教室にお盆を持って行った。誰もいない教室で給食の時間を過ごした。私はなぜ自分はこんななんだろうといつも思っていた。給食の時間が終わると、先生は私の元にやってきた。どうして食べないんだって私の頬を叩いて、悔しそうに唇を噛んで私の口を開けさせては給食をスプーンで詰めこんだ。私は緊張して気持ち悪くなり、怖くて死ぬ寸前の気持ちに追い込まれた。殺されてしまうようで、怖くて怖くて泣いても許してくれない先生の顔を見つめながら、許してくれるのを待った。でも、先生は許してくれなかった。次の時間がプールだったときは、置き去りにされた。一時間ずっと誰もいない教室にいた。先生の許可がないと私は何もできなかったし、給食の時間が終わることもなかった。私は自分を責めて、この世の中が終わってくれればいいと思った。友達もいなかった。誰もが私を不思議な子だと思っているようで、仲良くすることはできずにいた。私はずっとひとりだった。朝は毎日憂鬱で学校には行きたくなかった。勉強も運動も嫌いではない。給食の時間が一番嫌いだった。母には学校に行きたくないと何度も言ったけれど、許してはくれない。行かなくていいよなんて言わない。私は行くしかなかった。毎日行って、死刑を待つようにお昼の時間がくることに恐怖で震え、吐きそうになりながら、給食の時間を迎えた。やはり食べられない。一口も食べたくなかった。吐いてしまいそうだったから、食べるのが怖くてたまらなかった。先生は何も変わらない。私の胸ぐらを掴んで突き飛ばすこと、口に食べ物を詰めこむこと、皆の前でいかにこの子がダメか語ること、その毎日がずっと続いた。先生とうどん屋に行ったときもある。行きたくなかったのに、先生は土曜のお昼を先生とうどんを食べようと急に言った。私は断ることなんてできなかった。学校が終わって、先生と二人でうどん屋に行った。でも、私が食べられることなんてない。私は泣いてしまった。食べられない私を先生は許してくれないから。泣いている私を見て、店員の女の人は言った。「先生の前じゃ緊張して食べられないわよね」って。先生は店員の耳に口を近づけ、「この子はおかしいから。食べられない変な子だから」とこそこそと言っていたけれど、私には何を言っているか聞こえていた。先生は私に聞こえるようにわざと言っているようにしか思えなかった。帰り際、先生は「お母さんには食べられたって言いなさい」と言った。だから、食べられたって聞いた母に、食べられたと言った。でも、母は不審に思ったのか先生に電話をした。先生は食べられなかったと言ってしまったようだ。私は母に「嘘をついた、嘘つきな子に育てた覚えはない」と言って罵った。私は先生にそう言うよう言われたと言ったけれど、母は信じてはくれなかった。私は部屋で泣いた。誰もが私を信じてくれる人がいないように思えた。父は私と他人のように何も関わりをもたなかった。母は単純で怒ったり、責めたり、ときに思うようにいかないと叩くこともあった。そして、先生と私の関係は終わりがなかった。勉強や運動に関しては特別怒られたことはない。元々食が細かった私を叱りつけた。怒ったとか、怖かったとか、叩かれて痛かったとかではない。私はダメなんだって思い込んだ。生きている意味を失っていった。だんだん、少しずつ、生きるためのエネルギーが尽きていく気持ちになった。生きる資格がないように思った。小学校3年の一年間、私はずっと泣いていて、先生の顔色を窺う生活だった。たった一年かもしれない。でも、それが私をダメにした気がする。その気持ちは今も変わらなくて、私は先生を憎んでいる。忘れられない記憶が映像のように頭に残っている。忘れられるなら、忘れたい。先生を憎みたくない。私は今も食べられない。人と一緒に食べるのが辛い。不安で緊張して、逃げたいからトイレに閉じこもったり。だけど逃げられないから、体がおかしくなる。レストランでもテーブルに置かれる食べ物の入った皿を見てはドキドキする。そこから逃げられない。食べられないと怒られるような気持ちがする。なぜかわからない。あのときから何年も経っているのに、私は壊れてしまったんだ。何も解決できない。私の気持ちなんて誰も知らない。これからどう生きていったらいいかわからない。いっそ消えてしまいたい。だけど、そんなことはできない。私は生きてしまっているのだし、生きなきゃいけない気持ちもあるから。やっぱり過去の記憶を忘れられない。忘れられたら私の生き方も変わったかもしれないけれど、何も変わらない気持ちもする。』
由依はそこまで一気に書き、ボールペンを乱暴に捨てるように机に置いた。敢えて読み返しはしなかった。これが自分の思いなのだ。橋本というカウンセラーに見せるには恥ずかしさもあったが、繕うのもバカバカしく思えた。綴り続けた五枚もの便箋を折りたたみ、封筒に入れた。不思議なくらいすっきりした。けれども、それと同時に空虚な気分にも覆われた。
義樹の定年後の図書館勤務は週三回と、和子の学童保育所のパート勤務は変わらず続いていた。母からは今日はシチューを作るように言われていた。材料は近所のスーパーで買ってきた。昼間、スーパーに出入りをするのは少し恥ずかしかった。由依のような若い女が昼間買い物に出かけても、主婦ではない。堂々とできない自分を、由依は後ろめたく感じていた。家に帰っては、誰もいない台所で材料を広げ、野菜を切り、鍋に入れて煮込む。そのうちに洗濯物を取り入れる。母親が自分が二十歳になるまでやってきたルーティンは根気強く、非常に疲れるものであることを由依は思い知った。毎日毎日家族のためだけにやり続け、何の労いもない。由依はそれが当たり前だと思っていた。けれども、いざ自分がやるとなると終わりのないルーティンに溜息しかでない。母親という立場は遥かに遠く、自分とはまったくかけ離れていて、そんな精神や意識が芽生えるわけもなかった。
台所にある大きな食器棚から、シチューを入れるにちょうどいい大きさの皿を二枚見つけた。汚れのない真っ白な器。これに盛り付ければ自分が作った下手なシチューも美味しく見えるに違いない。父や母が喜んでくれる気がした。そして、その皿を台所のテーブルの上に置いておいた。
家の横の道路からは子供たちの声が聞こえてくる。無邪気で悪気のない声。そんな声を発していた自分もかつていたはずだが、その声にそぐわない泥を被った内面を抱えていた。子供でありながら、険しい時代を生き抜いて疲れ切った老女のような心を持ち合わせていた。今は、世間からはキラキラと輝いた春を生きる年齢でありながら、心は死に向かっていく。あらゆる矛盾を、由依は受け入れられずにいた。早く抜け出したかった。世間が一致する一人の人間になりたかった。
風呂掃除をしながら、由依は玄関のドアが開く音を聞いた。ただいまと不貞腐れたような父の声が聞こえてくる。由依はそのまま黙って浴槽をスポンジでごしごしと擦って何も知らないふりをした。父はいつも冷淡な声をしていて、由依自身に不機嫌そうな顔を向けるのが日常だった。
「あぁ、なんだこれは!」
台所のほうから父の大きな声がして、由依は驚いて風呂場から出た。
「由依、何してるんだ」
台所に現れた由依を、義樹は歯を食いしばって眉間に皺を寄せて白い皿を手にしていた。
「これ、どこから持ってきた」
「……そこの、食器棚から」
「ダメじゃないか!」
義樹が大声を出したので、由依はびくりとした。その皿が一体なんであるのか、由依にはさっぱりわからなかった。
「これは、結婚したとき頂いた大事な皿なんだ。棚に飾ってあっただけなんだぞ。どこを見てるんだ。普段使ってるのは柄物の皿だろう? 毎日ボーッとしてるからいけない。白い皿の意味がわかるのか? 何にも染まっていない皿をこれから彩っていきましょうっていう思いが込められてるんだ、そういう記念の皿なんだ。まったく、ちゃんと見てないからこうなる」
由依にとっては初耳だった。食器棚に入っている皿はどれもただの皿だと思っていた。
「なんか言ったらどうなんだ、悪いことをしたら謝る。学校の先生に教わらなかったのか」
義樹は迷いもなく言った。中学の教師をしていたとき、そんな態度でいつも生徒に接していたのだろうと由依は想像しながら、謝ることにひどく躊躇っていた。
「ご……」
ようやく口にできたのが『ご』のみで、先が続かなかった。家族である父に謝ることがまるで他人のようで、抵抗がある。赤の他人だったら素直に謝るのに、由依はそれができずにいた。
「ごめんなさいではないだろ、申し訳ありませんでした、だろう。もっと素直な態度をとりなさい。まったく……本当に足りん子だ」
義樹は白い皿を食器棚に丁寧に戻した。そして、取り残された由依には見向きもせず、台所を後にした。由依は下を向いて突っ立っていた。謝ることにひどく抵抗がある理由を探していた。ご機嫌をとるのも自分の非を認めて口にするのも、どこか違うと思っていた。それは家族であるからで、家族という組織の中で許されるものだと思っていた。けれども、父は許してくれない。やはり素直に謝るべきだったのかと頭の中をちらつく。
「あぁ、こんな暑いのにシチューかい。冷やし中華とか素麺でよかったのに。シチューじゃお母さんだって疲れて帰ってきて、よく思わないんじゃないかね。シチューなんて子供が食べるものだよ。由依は子供だからそれでいいかもしれないがね。私を何歳だと思ってる? もう六十過ぎのいい年齢の人間なんだよ」
義樹は鼻で笑いながら、皮肉を込めて言った。
由依は悔しくなり、顔を歪めながら、声を振り絞るように言葉を並べた。
「……申し訳……ありません」
「なにぃ? 聞こえないぞ」
義樹は大きな声で笑いながら、由依をからかって面白がるような調子で言う。由依は感情が噴き出るのを押し殺した。義樹の冗談は人を突くものであり、教員時代から人にたいしてそんな態度だった。自分では当たり前で、大人のありがちな皮肉を込めた冗談でしかなかった。そのせいか、まったく悪い気もなく、むしろ爽快だった。由依がどう受けとめるかなんて理解もない。謝るのが正解で、謝らねばならない。悪を認めることで事は終わるものだと信じていた。
「……申し訳ありませんでしたっ」
由依は叫ぶように言いたくない言葉を思い切り発した。これでいいのだろう。これで父は満足してくれるのだと思った。
「よし、よく言った、いい子だ」
義樹はやはり笑っていた。
由依はそそくさと二階に駆け上がり、自室に入ってドアを閉めた。父と顔を合わせたくなかった。自分が作ったシチューも喜んで食べはしないだろう。結婚記念の真っ白な皿。だんだんシミだらけになり、今ではヒビが入って真っ黒になってしまった。料理だって映えない。父や母が結婚してそのうち自分が生まれ、二人が三人になり、汚れて壊れ、割れかけている。彩り豊かな花なんて描けなかった白い皿。それでも大事にしたい? 由依は問うた。真っ白な皿を今も大事に二人の記念に抱いていたいものなのか。二人の始まりの時を大切に守りたいものなのか。由依は疑問だった。父と母は自分たちの子供を理想に近づけられなかった。思い通りにいかない心を満たせない現実に苛立ち、その憎しみをこの私に向けるのだ。由依は地面に叩きつけられる心が沈んでいくのを感じていた。自分には恋人もおらず、無償の愛で抱きしめてくれる人はいない。我儘も言えない。自らを傷つけた事実が唯一の我儘だと思った。それは建設的でなく、失望の底に堕ちているだけの行為を、由依自身のどうすることもできない最後の選択でもあったのだ。
由依はふと本棚のれいのアルバムを手に取りたい衝動に駆られた。すると、階段の下から和子の声が聞こえて体がとまった。
「シチュー作ってくれたんだね、ありがとねぇ」
気の抜けた、朗らかな声。
由依の額からは汗が流れ落ちた。素直に台所に行く気分にはなれず、エアコンをつけてはベッドに腰かけて俯いた。背中にも汗が流れる。由依は剥き出しの細い左腕を右手の指の短い爪で乱暴に搔きむしった。