saucy student
遅くなりました。
時間軸は第二話の後になっています。
「それで、それで!? その後の展開はどうなったの!?」
結城詩織が興味津々といった顔で身を乗り出している。思わず世良和彦はため息を吐いた。
「お前さあ、何で俺がここに来てるか分かってんのか?」
――家庭教師として、お前に勉強を教えるためであって、お前と恋愛話をするためじゃねぇっての!
「あれ? 約束を破るつもりなの?」
そう言って詩織が和彦につきつけてみせたのは、全ての問いに赤い丸が施された解答用紙。途端に和彦は苦虫を噛み潰したような表情でぐっと押し黙る。
「先生が言ったんだよ。この問題で全問正解したら、先週の続きを聞かせてくれるって」
対する詩織はふふんと余裕の表情。反論をあきらめたように和彦はもう一つため息を吐く。
「何で全問正解するかな。難関国公立大の数学の過去問から厳選したってのに……」
「そりゃあ、先生の教え方がうまいから」
恋愛に関してはドへたくそみたいだけどと、余計な一言を付け加えて、詩織は小さく噴き出した。和彦は今日何回目になるか分からないため息をつく。
和彦が家庭教師として詩織に勉強を教え始めて、もう半年になる。最初の方は勉強しかしてなかったというのに、いつからこんな話をする関係になってしまったのか……。
「で、俺どこまで話したっけ?」
「穂乃花先輩と夕食を一緒に食べたところまで」
子犬のような顔をして続きをせかす詩織をぼんやりと見ながら、そういえば詩織は穂乃花の高校の後輩って言ってたっけと和彦は思い出す。実際二人は会ったことがなかったが、穂乃花はその高校で起こっていたとある抗争を治めた生徒会長として、後輩の間でも有名だったらしいのだが、それはまた別のお話。
「ほら、早く話してよぉ」
「わかったって」
別のことに集中していた意識を本題に戻し、和彦はあの日のことを思い出す。
* * *
「ごめん、パスタ茹ですぎちゃったみたいで……」
いつもはもっとおいしくできるんだけどと、強がりを言いながらもしょんぼりしている穂乃花。トマトクリームパスタ、グラタン、ミニサラダ。この日テーブルに並んでいた手料理は見事なものだった。たしかにパスタはソースがうまく絡まってはなかったが、穂乃花お手製のソースは濃厚でありながら後味はさっぱりしていて、とてもここまで落胆するようなものじゃなく、むしろ和彦はおいしいと思った。
「いやいや、むちゃくちゃうまかったって。ありかとな。洗い物は俺がやっとくから」
食器類を持ってキッチンへ向かおうとする和彦を、穂乃花が両手を肩において制する。
「いいよ。勉強教えるの疲れたでしょ。あたしが洗っておくから」
どちらかというと、詩織がなぜ夕食と取らずに帰るのかをしつこく聞いてくることに気疲れしたのだが……。もちろんそんなことは口に出さずに黙っている和彦を横目に、穂乃花は和彦の手にあった食器を持ってキッチンに消えていく。しばらくぼけっとしていた和彦だったが、はっと思い出したようにあわててキッチンへ動いた。
「やめとけって。手、荒れるぞ」
「そんなこと気にするんだったら、最初から料理なんかしないから。……はら、ここ狭いから、二人で作業すると逆に非効率的になっちゃう」
たしかに一般的な一人暮らし用の物件のキッチンは、二人で作業するには狭すぎる。隣に立つと驚くほどお互いが接近している。思わず無言になる二人。シンクの蛇口から流れる水の音だけが、この空間を支配している。
「ねえ」
隣で手持ちぶたさに佇んでいた和彦に、穂乃花が声をかける。目線は泡だらけの両手に持った食器とスポンジに向いていて、和彦には彼女がどんな表情をしているのか分からない。
「……あたしの手料理、本当においしかった?」
「当たり前だろ。まずいものにうまいって嘘ついてどうなるんだよ」
自信なさ気にかすかに震える問いに、和彦は即答する。すると穂乃花はふっと微笑み、和彦を見上げた。
「よかった」
こぼれた安堵の笑顔。儚げでそれでいて心をぐっとつかむような。
――それは反則だろ……。
今すぐ抱きしめてしまいたい。この両腕で包み込んで、自分の想いを伝えることができたなら。けれど和彦の心の奥底の願望に反して、理性に支配された体はなかなか動かない。やっと動き出した手は布巾を手にして、穂乃花が洗い終わった食器類を拭くことに専念しだした。他には何もしないまま、何も言えないまま、時間はゆっくり確実に過ぎてゆく。
* * *
「で、結局何もしなかったと」
詩織は呆れたように肩をすくめ、盛大にため息をついた。
「本当にヘタレなんだから。そんなんじゃ、一生穂乃花先輩に振り向いてもらえないよ」
もっと男らしく時には強引に、などと熱弁をふるう詩織を横目に、和彦は込みあがるいらいらを隠せないでいた。たしかに詩織の言うことはもっともで、和彦自身感じていることではあるのだが、頭で分かってても行動できないのだからしょうがないではないか。
「ちょっと、先生聞いてるの?」
「……じゃあ、お前はどうなんだよ?」
一方的にまくし立てる詩織に反撃しようと、和彦は逆に聞き返してみることにした。たいした反撃にはならないだろうと思っていたのだが、和彦の予想に反して詩織はうろたえ始めた。
「……え、わ、わたしは別に、そ、そんなんじゃないんだから!」
「ふーん、まじで恋する乙女だったと」
形勢逆転とばかりににやりと笑う和彦に、詩織は頬を赤らめて下を向いている。
「相手は誰だよ? 女子高だから、先輩とかじゃなさそうだし……。ま、まさか、学校の先生との禁断の恋とかじゃないよな!?」
「そ、そんな訳ないでしょ! っていうか先生には先生には関係ないことじゃない!!」
顔を真っ赤にして抗議する詩織は、とても普段和彦に恋愛講座を勝手に開く、生意気な生徒に見えない。彼女も女子高生として、年相応の恋を経験しているのだ。
「そうだな。別に無理に詳細まで教えてくれなんて言わねぇよ」
興味がないといえば嘘になるが、いくら自分のことをさらけ出している状態であるといっても、和彦には詩織のプライバシーを侵害する気など更々ない。本人が言いたくないのなら、外野は黙って口を噤むべきである。
時計の針が今日の授業がそろそろ終わることを告げている。この後、結城家の一同はレストランへ出向くと聞いていたため、和彦は長居はせずに帰ろうと、荷物をまとめて立ち上がる。
「じゃあ、今日の授業はここまで。課題については、このルーズリーフにまとめてあるから。それと」
座ったまま下を向いている詩織の頭にそっと手を置く。驚いたように顔を上げる詩織にそっと和彦は微笑む。詩織に対する愛しいという思いは、穂乃花に対して向ける『それ』ではなく、どちらかというと、妹に対して向ける感情に似ていた。
「もし恋愛に関して相談したいことがあるんだったら、いつでも俺が聞いてやるから。男心は男にしか分からないってな」
にかっと笑う和彦と対照的に、詩織の目はどんどん冷めていく。まるで怒っているみたいに。
「なんだよ。俺じゃ不満なのか?」
「……別に」
ぷいっとそっぽを向いた詩織に、和彦は首をかしげながら、結城家をあとにしたのだった。
ここまで読了ありがとうございます。
次回は美紗子と泰邦の馴れ初め話を予定しています。