1 交錯する運命
板張りの床に、席の間を歩く教師の靴音がコツコツと響く。教室には二十人あまりの様々な年齢の子どもたちが机に書を並べ、じっと授業に耳を傾けていた。
「今から約二千年前。衰えた国津神を救い、この瑞穂国を創造した天津神・伊波礼命は、六つの血族に自らの神力と、氏と色を与えた。帝の直下に置かれ六氏族と呼ばれる彼らのうち、最も高位にあるのはどの氏族か?」
教師が足を止め視線で回答を促すと、当てられた少年が「阿智家です」と答える。軽く頷いてから再開された足音を聞きながら、俺は次に当てられるのが自分だということを確信して小さく溜息を吐いた。
「では次の質問」
俯いて書を睨む俺の視界に教師の靴の先が映り、案の定ピタリと止まる。頭を上げると嘲るような目で間近から見下ろされていた。こういう視線には慣れっこだが、何度向けられても気分のいいものではない。それでも嫌な顔をすれば相手の思うつぼだということも分かるので、俺は感情を排した瞳でその視線を受け止めた。
「阿智家について答えよ」
「……はい。伊波礼命より賜った色は深紫、家紋は桔梗で烏を神使としています。現在の当主は十二代目の阿智菖蒲様です」
「よく知っているな。さすがは図々しくも、御名に紫を戴くだけのことはある」
恒例の文句に、クスクスと嘲笑が教室に満ちた。俺達平民からすれば六氏族は、雲の上のそのまた上ぐらいの存在だ。各氏族が賜った色は禁色とされ、血族以外が身に纏うことを固く禁じられている。また彼らは色を表す言葉を名に使い、これは初代から続く伝統で伊波礼命への敬意と忠誠を示す意があった。禁色と違いこちらは明確に禁止されているわけではないが、恐れ多いため常識のある者ならば普通は真似しようとも思わないし、逸脱した場合はこのとおり恥知らずの烙印を押され一生馬鹿にされながら生きていくことになる。
(杜若なんて、何だってこんな名前付けたんだ)
由来を尋ねたくても、両親は三年前に他界しているので聞きようがない。母は生前名付け親についてやんごとない身分の方だと言っていたが、その方の正体も何の意図があって付けられた名前なのかも「いずれ分かる」の一点張りで教えてはくれなかった。
(母さんやそのやんごとない身分の方には悪いけど、俺は普通の名前がよかったよ)
笑い声が止むと興味が失せたのか教師は書を捲り、再びコツコツと靴音を鳴らして歩き始めた。
*
授業が終わると、急いで学舎を出て裏山を駆け上がった。早く帰らなければ夕食の支度が遅いとまたおばさんに叱られてしまう。山道は舗装されておらず山肌は急で、生い茂る木々で真っ昼間でも薄暗いので気味悪がって誰もこの山には近づかないのだが、迂回するよりずっと早道なのでいつもここを通っていた。人に会わずにすむし、頂上からの眺めも結構きれいで俺は気に入っている。
両親の葬儀のあと身寄りのなくなった俺の保護者を引き受けると突然うちに転がり込んできた父方の遠縁の夫婦は、保護者とは名ばかりの金にしか執着のない最低の人たちだった。生活費の工面を名目に家の中の物は勝手にどんどん売られていき、家族三人で暮らしていた頃の面影はもうどこにも残っていない。家自体が売られてしまうのも時間の問題だろうが、子どもである自分に打てる手があるはずもなく、周囲に頼れる大人もいなかった。
近頃は、家の次は自分だろうかという怖い考えまでよぎる。人身売買は法で禁じられているけれど、あの人たちならやりかねないとこれまでの言動を見ていたら思わずにはいられなかった。
(帰りたくないな……)
急がなければという気持ちと相反する本音が足取りを重くさせる。心なしかいつもより息が切れるような気もしてきて、登るのが更に億劫になった。このまま足を止めたら二度と歩き出せなくなってしまいそうだ。
(頂上で少し休憩しよう)
景色を見れば少しは気分も上向くだろうと頑張って足を動かしていると、しばらくして視界が開けた。瞬間、目を開けていられないほどの強い風がザァッと吹いて、俺は体を支えきれずに地面にペタリと尻餅をついた。
「いって……何だ今の風……」
「大丈夫?」
「うわぁっ!?」
誰もいないと思っていたのに声を掛けられたものだからびっくりして弾かれたように顔を上げると、目の前にしゃがんでいたのはとんでもない美貌の青年だった。紺色の官服から覗く肌は白磁のように真っ白で、耳の上あたりの高さで一つに束ねられた長い髪は漆よりも光沢のある漆黒。これ以上無いぐらいに整った中性的な顔立ちに浮かぶ瞳は、星の降る夜を閉じ込めたように煌めいている。
完璧すぎる容姿にこの世の者ならざる何かを感じた俺の鼓動は、今にも飛び出してしまいそうなほど狂ったように脈打っていた。
(神様ってのがもし本当にいるなら、きっとこういうキラキラした見た目をしてるんだろうな……)
呆然として口がきけなくなっている俺に、その人がヒラヒラと手をかざして「おーい」と呼びかける。我に返って立ち上がり真っ先に気付いたのは、位階を表す帯の色が深縹であることだった。
(貴族じゃないか! どうしてこんな片田舎の山の上に!?)
宮中で働く官吏は大きく六つに位が分かれていて、貴族と呼ばれるのは四位以上の人たちである。位は官服に締める帯の色で判別することができ、目の前の御仁が着けている地紋の無い深縹の帯が示す位は四位だった。考試ーー官吏になるための試験は凄く難しくて、十年がかりでも合格できないなんてこともざらである。見たところまだ元服したてぐらいのようなのに四位だなんて、相当頭がいいか親の位が高いのだろう。考試の成績により登用時に叙位される位は四位から無位のどれかに決まるが、親が貴族であれば蔭位が適用され、位が一つ上乗せとなるのだ。
無礼を詫びようとすると、その人は俺が腰を折るより早くしゃがんだまま視線を合わせて「君、名前は?」と親しげに聞いてきた。物凄く答えたくなかったけれど貴族の言葉を無視するわけにもいかず、渋々名を名乗る。
「……一ノ瀬、杜若です」
「杜若?」
不敬だと叱責を受けはしないだろうかとヒヤヒヤしながら様子を伺うと、酷く驚いた顔をしたあとで意外にもフッと相好を崩した。いつも教師から向けられる嘲笑とは違う優しい笑みに、見間違いだろうかと思わず目をしばたたく。
「カキツバタか。へぇ、いい名だね」
親以外に名前を褒められたのなんて初めてのことだ。ぽかんと口を開けて見返すと「面白い顔」と笑いながら頬をつつかれる。さっきから気安さ全開だけど、貴族って皆こんな感じなのだろうか。もっとお堅い雰囲気を想像していた俺は、拍子抜けした気分で口を閉じた。
「ところでさ、それってもしかして笛?」
白く長い指が差した先には、俺の鞄から少しだけ見えている細い布の袋があった。しっかり中に入れておいたのに、尻餅をついた時に飛び出してしまったみたいだ。中身は指摘のとおり笛で、俺が生まれるまでは都で宮廷楽士をしていた母の形見である。母が笛を吹くと『母さんの龍笛の腕前は都で一番だったんだぞ』と父は俺に自慢げに話し、『あら、今でも一番のつもりよ』と母が軽口を返すのが我が家の恒例のやり取りだった。
変わり果てた家へ帰り、あの日々が二度と戻って来ないことを目の当たりにするたび胸の奥がヒリヒリと痛む。
「あ……はい」
笛を鞄に仕舞いながら、込み上げてきた暗い感情もついでに心の隅の方に追いやって蓋をした。三年経ってもまだ、二人のことを思い出すのは辛い。記憶の中の両親は最初こそ楽しそうに笑っていても、決まって最後は死ぬ間際の苦痛に満ちた表情に変わってしまうのだ。
(……嫌だな。今日もまたあの日の夢をみてしまいそうだ)
憂鬱な気持ちを押し出すように深く息を吐いて前を向くと、貴族の御仁はニッコリ笑って両手の平を胸の前で合わせていた。
「持ち歩いてるってことは吹けるんだよね? よかったらぜひ一曲聴かせてよ」
「えぇ……」
勘弁してくれよ……という本音がつい出そうになって、慌てて口を噤んだ。確かに吹けはするし師である母からは筋がいいと褒められることも多かったが、今まで周囲に比べる対象がいなかったので自分の水準が耳の肥えた貴族に聴かせられる程度に達しているのかどうかは分からない。気に入らないからと罰せられたりしないだろうかという不安もあったが、気が進まない一番の理由はこの笛を見られたくないからだった。
「……平民の子供の演奏なんて、貴族の方にはお耳汚しにしかならないと思いますけど…」
「まぁまぁ、そんなこと言わずにさ。貴族の道楽にちょっとだけ付き合ってよ。お礼もちゃんとするし、ね?」
(貴族なら命令すればいいじゃないか。何だよ「ね?」って……)
そこまで言われたら断れるわけもなくて、黙って笛の入った袋を手に取った。紐を解いて取り出した龍笛は煤竹で作られた一級品で、ともすれば平民の子供には勿体ないと取り上げられてしまいかねない代物である。チラリと様子を窺ってみたが笛には特に反応を示す素振りはなく、俺はホッとして歌口に唇を当てると目を伏せて静かに息を吹き込んだ。
選んだ曲は『凪』。初めて母に教えてもらい、最も演奏し慣れている曲だ。その名のとおり凪いだ海を彷彿とさせる穏やかな旋律を、ゆったりとした速度で奏でる。人に聴かせるための演奏は久しぶりで始めは緊張したが、吹き終える頃には観客がいることを忘れていた。
「驚いたな。もう凪を修得してるのか。君、まだ袴着の儀を終えたぐらいの年齢だろう?」
吹き終わったあとの感想はそんな失礼極まりない言葉だった。袴着の儀は五歳の行事で、貴族の男児が初めて袴を身に着ける祝いの儀式である。この儀を終えるまでは、男児は魔除けのため女児の衣装を着せられて育つのだ。
(確かに背は低い方だけど! あんまりじゃないか!?)
「俺、今年で九歳です」
不満を露わにしてそう答えると、「ごめんごめん! 小さいからてっきり!」と追い打ちをかけられた。なんて無神経な人なんだろう。貴族じゃなかったら渾身の頭突きをお見舞いしていたところだ。
「でも、惜しいなぁ。その笛はまだ起きていないね」
「……どういう意味ですか?」
「言葉のままの意味さ。君、笛の名前を知らないんじゃないかい?」
(笛の名前?)
「これは母の形見で……名前があるなんて聞いたことありません」
訝しげな顔で否定する俺に「それだけの名器に名前が付いていないなんてありえないよ」とその人は首を振った。
「普通は名をもって御するものなんだけど、君は順番があべこべになっている。凄く興味深いよ」
一体何の話をしているのか、さっぱり理解できない。褒められてるんだか貶されてるんだがさえもよく分からなくて複雑な心境になっているとガサガサと枝葉が揺れる音がして、視線を向ければ黒々とした大きな烏が一羽、近くの木に止まっていた。そしてその背後にある橙がかった空の色が目に入った途端、俺は自分が急いでいたことを思い出して「あっ!」と声を上げた。
「あの、もう俺帰ってもいいですか? 遅くなると家の人に叱られてしまいます」
「あぁ。引き止めて悪かったね」
手早く笛を片付けて一礼し山を下ろうとすると、二、三歩駆け出したところで「ちょっと待って」と呼び止められた。振り返るとあっという間に距離を詰められている。さっきまではしゃがんでいたから気付かなかったが、近くに立たれると首が痛くなるぐらい頭が上の方にあった。
「演奏のお礼、うっかり忘れるところだった。左手出して」
言われたとおりに差し出すと袖を捲られ、手首に細い糸で編んだ紐を結ばれた。金色の小さな鈴が中程に一つ付いている。
「これ、何ですか?」
「お守り。肌に触れてないと効果がないから、外しちゃダメだよ」
家事をする時邪魔になりそうだなと考えていたのを読まれたのか、釘を刺されてしまった。勝手に着けておいて外すなとは、いささか横暴ではなかろうかとムッとする。
「もし外したらどうなりますか?」
「死んじゃうかもしれないね」
間髪入れずに真面目な声でそう返されて、ゾクリと一瞬寒気を感じた。『外したら死ぬかもしれないお守りなんて、むしろそれ呪いって言わないか!?』と、心の中で悲鳴を上げる。出来上がった結び目は見るからに固そうで簡単には解けそうになかった。
(なんか俺、めちゃくちゃ厄介な貴族に目をつけられてしまったような気がする……)
引きつった顔でお礼を言って、全力疾走で山を駆け下りた。
タイトルの読みは「かみやいんのたましずめ」です。
ご覧いただきありがとうございます!