激闘と苦戦と【黒騎士】
ゆったりと。
銀の弓は王城の中を歩く。
そのことに、居合わせた者たちは全く意識を向けない。
本来であれば、このような異形が王城の中に存在すれば、たちまち大騒ぎになるだろう。いや、王城に近づいただけで──いやいや、王都に近づいただけでもただで済むはずがない。
だが、王城まで来る途中でも、王城の中に入っても、誰も気にも留めない。
王城の中を警備する騎士や兵士、あちこちで忙しなく働く侍従や侍女などなど。誰もその異形に視線さえ向けないのだ。
「げろげろげげっげっげげ。けろろんけろけろけろげろげろけ(訳:我は水面を揺蕩うただの水草。誰も我に注意を払うことなし)」
そう。それが銀の弓が有する特殊な能力。他のガルガリバンボンたちは持っていない、彼を異形の英雄たらしめる異能。
流れゆく河の水面に浮かぶ水藻のごとく。あるいは、路傍に転がる石のごとく。
確かにそこにあるのに、誰も注意を払うこともない。誰も気にも留めない。
確かにそこにいるのに、当たり前すぎて誰も何とも思わない。
それが銀の弓の異能。誰にでも、どんな場所でも「そこにあって当たり前」と思わせる恐るべき能力。
認識攪乱系の特殊能力としては、最高位に位置すると言っても過言ではないだろう。
その強力な異能を発揮させ、銀の弓は王城の中を堂々と歩いていく。
「げぇぇろ、けろろげげげろんけろ?(訳:さぁて、猿の長はどこにいる?)」
左右の剣を巧みに使い、ストラムは銀の杖を攻め立てる。
だが、その猛攻を銀の杖は得物である棍を使って簡単にいなしてしまう。
しかし、そんなことはストラムも端から承知。彼は自分で銀の杖を倒すつもりはない。ただ、無謀なまでに攻め立てて、僅かでも隙を作ることが目的だ。
「けけけ、けろろろ! げろろけろげ! けろけけけけろ、げろんげろげろけろけろけろけけ!(訳:おお、見事だ! 角のある猿よ! 我をここまで攻める貴様の技量、この銀の杖が認めてやろう!)」
竜巻のごとく攻め立てるストラムに、銀の杖が実に楽し気に告げる。もちろん、対峙するネルガティスとストラムにはカエルの感情など全く伝わらないが。
「けろ、げげげろろ! けろげろげろけ!(訳:だが、我には及ばぬ! 届かぬ!)」
銀の杖が棍を振るう速度を更に上げ、一際力強くストラムが操る双剣を弾き上げた。
きん、という甲高い音と共に、二振りの剣が砕け散る。そして、得物を失って無防備になったストラムへ、銀の杖が今度は自分の番とばかりに連続攻撃を叩き込む。
「────────────っ!!」
全身の至る所に痛打を受けて、ストラムが無言のまま吹っ飛ばされる。
放り投げられた人形のように、何度か地面で弾んだストラムはそのまま動かなくなる。
「けけけけろろけげろろげげげろ、けろんけろろろげろんげろけけろ!(訳:貴様の戦士としての技量を称賛し、苦しむことなく息の根を止めてやろう!)」
倒れたストラムへと近づいた銀の杖が、手にした凶器を大上段に振りかぶる。
その時だ。
それまで銀色の大カエルの隙を窺っていたネルガティスが、銀の杖の背後へと回り込み両手剣を横に一閃させた。
「けろろん! けけけろげろげげげけろろ!(訳:愚か! 貴様の魂胆などお見通しよ!)」
くるりと背後へと振り返った銀の杖が、自分を襲う両手剣を易々と弾き上げた。
同時に、 硬質な何かがへし折れる音が、地下の空洞内に響く。
「ぐ……うぅぅ……っ!!」
手にしていた両手剣を弾き飛ばされたネルガティスが、顔を歪めながらふらふらと数歩後退する。そんな彼の右手は、力なくだらりと垂れ下がっていた。
どうやら、剣を弾かれた際に骨まで砕かれたようだ。
「けろろろろけろ。げろん、けろげろけろろげろけろんけろげろ(訳:貴様は後で始末してやる。だが、まずは角のある猿の息の根を止めてやろうではないか)」
銀の杖が手にした凶器を改めて大上段に振りかぶる。そして、そのまま渾身の力を込めて倒れたままのストラムの頭へと振り下ろした。
「なあ、何か臭くねえか?」
自分の執務室で対銀邪竜戦に関する相談をしていたシャイルード・シン・ガラルドが、突然そんなことを言い出した。
「どうした、ルード。突然何を言い出す?」
「いや、ルードが突拍子もないことをするのはいつものことだが……」
「特に変な臭いはしないと思いますよ、父上」
室内にいるのは、シャイルード以外には王太子であるジェイルトール、筆頭宮廷魔術師のサルマン、王国騎士団将軍のトライゾンの三人である。
彼らは突然変なことを言い出す国王に対し、じっとりとした目を向けた。
「いや、間違いなく臭うって! 何ていうか、こう……生臭い臭いがするだろ?」
「私は何も感じないが……二人はどうだ?」
サルマンがジェイルトーンとトライゾンに問う。
「我らは特に…………そうですな、殿下?」
「ええ、将軍の言う通りです。あなたはどうですか?」
と、ジェイルトーンが問うのは、この部屋の中にいる五人目の人物。
だが、問われたその五人目は、ジェイルトーンの質問に答えることなく、無言のまますたすたとシャイルードへと近づいていく。
その五人目の背丈は人間とほぼ変わりない。長身であるジェイルトーンよりも、やや高いぐらいだろうか。
だが、その体形は明らかに人間とは異なる。平たい頭とその両脇に突き出した眼。左右に大きく広がる口。そして、異様に長い両手と異様に短い両足。
見るからに人間ではないソレがすぐ傍にいても、シャイルードたちは何とも思わない。それどころか、そこにいるのが当たり前とまで思っている。
それをいいことに、ソレは左右に大きく広がる口をかっと開くと、そこから何かを吐き出した。
それは歯──いや、牙だ。
二十本近い小さくも鋭い牙が、至近距離からガラルド王国の国王へと一斉に浴びせかけられた。
銀の杖が操る、素材不明の銀色の棍。その棍が倒れたまま動かないストラムの頭部を粉砕した──いや、粉砕するその直前。
どこからともなく飛来した一本の矢が、銀の杖の腕を貫いた。
突然腕に走る激痛に、さすがの銀の杖も手元を狂わせ、ストラムの頭ではなくすぐ近くの地面──この地下空洞の地面は硬質な岩である──を粉砕した。
「げ、げ? げこここっ!?(訳:む、む? 何奴っ!?)」
「…………間に合ったか……」
不機嫌そうな声を上げる銀の杖。一方、腕を骨折したネルガティスは安堵の息を吐き出した。
一人と一体が見つめる先。そこには弓を構える女性の姿。その女性を、ネルガティスはとてもよく知っている。
「ハーデ殿!」
そう。突然現れたのは、ストラムの妻にしてレディルたち姉弟の母であるハーデだ。
本来なら鬼人族「白鹿の氏族」の集落で、ガラルド王国の騎士たちと氏族の鬼人族たちとの通訳を兼ねた仲介役をしているはず。
そのハーデがこの地下に現われたのには、もちろん理由がある。
先ほど、ストラムが砕いた宝石のようなもの。あれは緊急時に使用する援軍要請の合図だったのである。
あの宝石は「伝達の秘石」といい、二対一組の遺産として扱われる。
対となっている一方を砕くと、もう片方も砕けるというただそれだけの能力の遺産だが、その能力を利用して緊急を伝達する目的でよく利用されている。
予め、地底に向かうネルガティスたちと地上に残るハーデたちとの間で、もしもこの秘石が砕けたら、それは救援要請だということを取り決めていたのだ。
「助かったぞ、ハーデ殿!」
「間に合ったようでなによりです、ネルガティス様」
救援が間に合ったと知り、にこりと微笑むハーデ。だが、彼女の表情は倒れている夫の姿を見て不安そうにしかめられた。
「あ、あなたっ!? 大丈夫なのっ!?」
「うぅ……そ、その声……ハーデ……か……?」
妻の声で意識を取り戻したストラムは、頭を振りながらもゆっくりと立ち上がろうとする。
しかし、まだ朦朧としているらしく立ち上がることさえ難しい。ふらふらとよろめきながら立ち上がろうとするも、すぐにまた倒れ込んでしまう。
そこへ、銀の杖は再び棍を振り上げた。今度こそストラムにとどめを刺すつもりなのだろう。
だが、やはりその棍が振り下ろされることはなかった。先ほどの光景を繰り返すように、またもや矢が飛来したからだ。
今度は一本ではなく、無数の矢が銀の杖へと浴びせかけられる。
「ふふ。援軍は私一人じゃないわよ?」
にっこりと。
微笑むハーデの背後から、十人以上の王国騎士たちが現れる。それぞれの手に、見るからに魔力を秘めた弓を構えながら。
地上に残っていた騎士たちが援軍として現れたのは、ネルガティスの想定内である。前もってそのように打ち合わせておいたのだから。
だが、彼らが装備している魔力を秘めた弓までは、ネルガティスも知らない。
そして、想定外なことはまだあった。
騎士に交じって「白鹿の氏族」の者たちの姿もあったのだ。彼らもまた、騎士たちと同じように魔力を秘めた弓を持っている。
「白鹿の氏族」の参戦はありがたい。だが、同時にネルガティスとしては彼らの参戦は避けたかった。この地を訪れた時、「白鹿の氏族」の戦力はあてにしないと約束した以上、彼らの力を借りるわけにもいかなかったからだ。
だが、万が一の時は僅かでもいいので力を貸して欲しいと、族長のエルカトに頼んでおいた。自分たちの矜持にばかり拘った結果、銀邪竜の復活を早めてしまうってのは意味がないのだから。
ネルガティスとしては、「白鹿の氏族」の参戦は精々数名程度と思っていた。だが、二十人近い「白鹿の氏族」の戦士や狩人たちが、援軍として力を貸してくれたのである。
「は、ハーデ殿……これほど『白鹿の氏族』の戦力を貸り受けても良かったのか? それにその弓は……?」
「ええ、構いません。『白鹿の氏族』にとっても、銀邪竜の復活は他人事ではありませんし。それに、ネルガティス様が危機に陥っているのに、助力もしなかったなんてことがあの方に知れたら──なんて、エルカトたちは思っているのでしょうね」
ふふふ、と微笑むハーデ。どうやら彼女は、「白鹿の氏族」にとっては恩人であり、また絶対的な恐怖の対象でもある某黒騎士のことを持ち出して、氏族の戦士や狩人たちを動かしたのだろう。
「あの弓に関しても、密かにジルガ様からお借りしておきました。ああ、騎士様たちの荷馬車にこっそりと忍ばせて、ここまで運んでもらったんです」
更に笑みを深めるハーデを見て、ネルガティスは何ともいえない複雑な表情を浮かべるのだった。