人は天使にも悪魔になれない(三十と一夜の短篇第63回)
医師には男性もいれば女性もいると世の中の人たちは了解しているが、看護師に男性もいると了解している人は案外少ない。勿論、男性も看護師になれる、実際その職に就いている人がいるらしい、くらいの知識は皆さんお持ちだ。しかし、実際病院で男性看護師が出てくると、少なからず驚く患者さんがいる。そして男性が制服を着て病院内にいると、勘違いされることもある。
「先生、ウチのお父さん、大分良くなったみたいですけど、退院まだ駄目ですかねえ」
と医師と間違えて話し掛けられても、僕はこう答えるしかない。
「やあ、僕は看護師ですからそれはなんとも……。来週の退院と言われているのを早めるのでしたら、先生に診断してもらわないといけません。僕からも伝えておきますけど、回診の際にご相談してみてくださいね」
うっかり看護師に訴えてしまったと気付いて、ごめんなさい、お願いしますと言ってくれる人はまだいい。そちらから声を掛けてきたのに、むっと不機嫌を露わにする人がいる。
「なぁんだ医者じゃないのか。紛らわしい。看護師じゃなんにも判んないのかよ」
期待に応えられなかったからって、そこまで言わなくっていいじゃないか。こちらは仕事でも、結構心が削られる。それに看護師と医師とじゃ服が違ってるってきちんと気付いて欲しい。
男性看護師は割合としてはまだ少ない。職場では女性がほとんど。それを知り合いに明かすと女の園にいるのか、とからかわれるが、そこはそれ、女性のみで共有される知識とか雰囲気とかがあるので、それを乱さないように、また溶け込むように気を遣わなければいけない。生理的な事柄なんだからと、月経の話題になってあたふたした休憩時間での僕の心情を鑑みよ。カノジョができたら大切よと、言われて照れてる場合じゃないと聞いてたけど。
それに看護師は医師の小間使いではない。そりゃ診断やら処置やら、医師でなければできない事柄はある。それ以上に医療の現場での看護師の役割は大きい。
だいたい患者さんをベッドからベッドへ、あるいは車いすへと移動させるのはかなり大変だ。患者さんの体重の問題もあるが、容態を気遣いながら、衝撃を与えないように動かすのは気を遣うし、そっと扱うには腕力が必要だ。男の僕だって仲間と二人でやらないとどしんと着地させかねない。女性たちはもっと大変だ。
看護師は腕力もいる、気力もいる、優しさもいる、技術や経験もいる。愛想よくして、医師の指示を聞いていりゃいいなんて仕事じゃない。僕はきちんと学んで資格を取って、体力あるだろうからと夜勤を多くシフトで組まれようとも、頑張って病院で働いている。
男性に体を触れられるのを嫌がる女性や子どもがいるので、僕は男性の患者さんを担当するのが専らだ。それでもしょうがないことを言う人はいるもんだ。
「おねえちゃんにお世話してもらいたなあ」
女性看護師に世話してもらいたいって? 指名料を取るならどうするよ。
同僚は異性ばかり。そして相手をする患者さんはなんで男が処置をするの? といった顔をする。
濃度の濃い、責任ある仕事は誇りだ。でも疲れる。
夜勤中のナースステーション、一緒の当番の内一人は仮眠中。もう一人と僕で他愛のないお喋りをする。
ナースコールが鳴った。パッともう一人が応答する。
「どうなさいました?」
「なあんかおかしな感じがしてさ、痛いんだ」
それしか言ってくれない。症状を詳しく説明できる余裕がないのか、呼びつけたいだけなのかは判らない。
「はあい、今行きますよ」
と僕の方を向いて小さく笑った。部屋番号とカルテを素早く確認する。
「昨日手術した患者さんね。容態が安定していたし、麻酔から醒めてから気分も悪くないと言っていた。夜中に目が覚めて怖くなった程度ならいいんだけど」
「じゃあ僕が行ってきましょうか? 男の患者さんですから」
「じゃあお願い」
僕は病室に向かった。この患者さん、男が看護師かあと僕に言ってくれた人だ。それに女性看護師に警戒されるような冗談を叩く人でもある。
でも患者さんで僕は看護師だ。医療に携わる者としてきちんと症状を確認し、場合によっては医師を起こさなくてはならない。
「はい、失礼しますよ」
と病室に入った。
「どうしました。どこがおかしいんですか?」
「なあんか背中がぎゅうっとなったかと思うと、痛くなってきた」
「背中のどこらへんですか?」
近付いて体、背中に触れる。熱っぽい。患者さんの身のよじり方や声からして、かなりの苦痛だと伝わってくる。痛い、いだい! と悲鳴に近い。手術後の経過は順調だったのに、化膿していなければいいのだけど。
ふと頭に黒いものがよぎった。ここで様子を見てみましょう、朝まで痛みが止まなかったら先生を、と言ったら患者さんはその通りに我慢するかも知れない。女性看護師たちに性的な冗談をぶつけ、僕に男のくせにと、やたら高圧的な患者さん。少し困らせれば、いい薬になるじゃないか。看護師は患者さんのメイドでも小間使いでもない。医療のプロフェッショナルを小ばかにしてはいけない。
僕は患者さんの痛みに強張った体の動きにはっとした。
いや、いやいやいやいやいや。
そうだ、僕はプロフェッショナルだ。たとえどんな患者さんでも苦しんでいる人にそんな態度は許されない。僕はするべきことを行うのみ。
「熱があるようですから体温を測らせてください」
呼吸や脈拍も調べてナースステーションに患者さんの容態を報せ、同じく夜勤で部屋で休んでいる医師の指示を仰ぐようにお願いした。
報告すると、医師が来て、診察となった。
医師が来て、患者さんはいくらか神妙になった。でも苦しい、痛いと訴える。
「点滴に薬剤を追加するからね、それで朝まで様子を見ることにするから。すぐに準備するから」
医師は患者さんには幼児に言い聞かせるようにし、僕には厳しく点滴の薬剤の指示をした。僕は点滴の薬剤を準備しに、小走りで病室を出た。
準備して病室に行き、患者さんの点滴輸液に薬剤を追加した。
「やあ兄ちゃんは手際いいし、昨日一昨日も注射や点滴してくれてたよなあ。痛く感じなかったなあ。上手いんだね」
「有難うございます。
お薬入っても良くならなかったら、朝すぐに診てもらえるように伝えますからね」
「おう、夜中に有難うなあ」
痛みを堪えつつ、安心したように患者さんは言った。
良かった。
まだ経過に注意の状態は続くのだけど、こうして患者さんの苦しみをやわらげられ、こちらの処置に感謝してもらえる。
満足できる一瞬だ。
さっきよぎったのは気の迷い。疲れているから、態度の良くない患者さんだからなんて言い訳しちゃいけない。僕はそんな酷いことをして憂さ晴らしできたなんて感じられるような悪魔じゃない。天使でもないけれど。頼りにされているってことは大切なこと。自ら誇りを汚す真似はできないよ。