月天使トト
「ったく、人がせっかく専業主婦の醍醐味を味わおうとしている時に」
蛍は渋々インターフォンを取った。
「はい。どなた?」
昼寝の邪魔をされ不機嫌な声で応対すると、溌溂とした若い男の声が返って来た。
「ご注文の品をお届けに参りました」
そう言われても蛍には何も注文した憶えがない。翔太郎からも聞いていない。なので、もしかしてこれは宅配を装ったセールスか、あるいは強盗の類かもしれないと警戒心を抱いた。
「新聞は読まないし、保険には入らないし、浄水器は間に合ってるし」
「あっ、違います。私は月よりの使者、月天使トトという者です。香月蛍様に男性の身体をお届けに参りました」
「トト? 便器なら間に合って……ええーっ! なんですとォ⁉」
「夢よね、これ。私、昼寝しようとしてたんだもん。夢オチだわ、きっと」
「そんな使い古されたオチ、今どきあるわけないですよ」
蛍は月天使トトと名乗る若者と玄関で対峙していた。
「でも、怪しい。なんで急に私の願いを叶えてくれるわけ? 幼気な子どもの頃、さんざんモチくれってお願いしても無視してたくせに」
「そういうのは親御さんから貰えたでしょう。わざわざ月が出しゃばらなくてもいい事案です」
「ふ~ん。で、男の身体って、どこにあるの? アバター的なものすごいテクノロジーで私がその身体になれるとか?」
「男性の身体とは、この私。つまり、あなたと私が入れ替わるのです」
「はぁ? ちょっと待ってよ。自分のままで……つまり、香月翔太郎の奥さんである香月蛍のままで男の身体にはなれないの?」
「はい。なれません。日本の現行法では同性婚は認められておりませんので」
「別人になったら意味ないじゃん。私たち、仲良し夫婦なのよ。翔ちゃんはね、男なら誰でもいいってわけじゃないのよ」
「そう言われましても、法律の改定は管轄外でありまして」
「じゃあいいわよ。翔ちゃんに説明してわかってもらうから。月天使とかいうのが来て、そいつと入れ替わって男になった、って。だから、見た目は知らない男だけど中身は翔ちゃんの奥さんの蛍なのよ、って言うもん」
「それはできません。私の姿になったあなたが他の人間に自分の正体を明かすと、その途端に効力は失われ、元の姿に戻ってしまいます。そして、それ以降、二度と入れ替わることはできなくなるのです」
「どうしてそんなことになるのよ? ってか、そんなこと誰が決めたの?」
「正体を知られたら一巻の終わり、全てがオジャン、元の木阿弥、悲劇的なエンディングになることは、昔からのお約束ですので」
「何それ? 日本昔話じゃあるまいし。それに、守れそうもない約束を課すのは女で、その約束を破るのは男って、いつも相場が決まってるのよ。それこそ昔からのお約束だわ。だから、私の場合は当てはまらないわね」
「いいえ。入れ替わるんですから、あなたが男になった瞬間からこの約束は効力を発揮します。したがいまして、自分が香月蛍であること、それは言わない約束なのです」
「それは言わない約束? おとっつあん、お粥が……」
「そういうのとは違います。これは一つの試練、もしくは代価のようなものだと理解してください。この約束が守られる限り、あなたの願いは永続的に叶えられます。いつでも好きな時に私と入れ替わることができるのです。文字通り一人二役を演じて、愛しい香月氏とアバンチュールなど存分にお楽しみください」
「なんだか複雑。私という妻がありながら、翔ちゃんが他の人とあんなコトこんなコト……。でも、その他の人ってのは私(男)なんだけど。事情を知らない翔ちゃんにとっては不貞行為も同然……」
翔太郎の清廉な気質からすれば、言い寄って来た男がたとえ好みに合っていたとしても、簡単には気を許したりはしないだろう。しかし、それでは自分が男になった意味がない。蛍は頭を抱えた。
「あまり深く考えなくてもなんとかなりますって」
「簡単に言ってくれるわね、他人事だと思って。……まっ、いいわ。じゃあ、どうやって入れ替わるの? 変身ベルトとかあるの?」
「強く願って指パッチンで」
「激ダサっ!」