理想の男
「夢かな、これって」
月見里蛍が長年の妄想の中で常に思い描いていた〝理想の男〟を見つけたのは、就職活動中のことだった。
「いたんだ。やっと、見つけた!」
感動のあまり心の声が口をついて出た。
その男は夢のように美しく、清楚で可憐。そして、きっと……。
「あの、すみません」
蛍は男の背中に向かって躊躇なく声をかけた。
「はい」
機敏な動作で男は振り返り、柔らかな笑みを浮かべて応えた。
「何でしょう?」
「おおっ!」
胸の奥から湧き上がる歓声を蛍は抑えられなかった。
正面から改めて目にする男の美貌に心拍が尋常ならざる速さで暴れ始めた。じっと見つめられたが最後、並みの女なら卒倒しかねないだろう。男でさえも色を覚えるレベルだ。しかし、今は暢気に卒倒などしている場合ではない。
蛍は姿勢を正し、はきはきと大学名と氏名を告げ、単刀直入に斬り込んだ。
「誠にぶしつけな質問なのですが」
言葉を選んでいる余裕はない。ついに、探し求めていた〝理想の男〟と遭遇したのだ。二十余年の長きに亘る魂の彷徨に終止符を打つ時が来た。それが、今だ。
この千載一遇の好機を逃してなるものか。何としてもチャンスの前髪を掴め! 蛍は自らを鼓舞し、勇気を振り絞って続けた。
「私はあなたに就職したいのですが、もう既に決まった人はいますか?」
三月初旬。
此処は、翌年の新卒者を対象とした合同会社説明会の会場である。
新学期には四年生になる蛍もグレーのスーツに身を包み、履歴書を携えて参加していた。
蛍の質問を受けて男は一瞬戸惑ったような表情を見せながらも、すぐに営業スマイルに戻って淀みなく返答した。
「当社を志望されるのでしたら、こちらの整理券をお受け取りください。もちろん、内定者はまだ出ていませんよ」
「いいえ! 御社にではなく、あなた自身に。つまり、あなた様に永久就職させていただきたく存じます」
「……はい?」
初めて、男の顔から完全に笑みが消えた。
月見里蛍の魂の彷徨は、自分が性同一性障害であると自覚する前から始まっていた。
蛍には内なる性と外見の不一致という己が本質における違和感以上の葛藤が既にあった。それは、心は男といえども恋愛の対象は女性に非ずして、あくまでも男性に限られるという特殊性に由来する。つまり、精神的ホモセクシュアル。それこそが、蛍が追求する至高の愛の形なのである。加えて、性向においては更なる難問を呈す。
捻じれ精神的同性愛者としての蛍は所謂〝攻め〟に属する。したがって恋愛の対象となり得るのは、男に愛されたい男。つまり〝受け〟に限定されるのだった。
しかしながら、このメビウスの輪の如く捻じれた異形の本質を理解し、蛍を男と看做して恋人になってくれる粋狂な〝受け〟など果たしてこの世に存在するのかと自問したところで、その可能性はゼロに等しく、望まざる諦念を強いる『絶望』の二文字が何度も脳裡に浮かんでは消えた。
そんな煩悶を抱きながら長ずるに及んだある日、蛍は不思議な夢を見た。兎の夢だ。兎が人語で蛍に告げた。
目覚めた後も、夢の中で聞いたことは一言一句違わず思い出せた。
兎は蛍に言った。
『あなたの遠い過去世は月の女神の一柱。地球の若者を見染て月世界を後にした。竹を神籬として地上に降りるも、若者は既に不慮の事故で他界。出逢うことは叶わなかった。失意のうちに時を過ごし、やがて月に呼び戻された。
それから永き時を経て、あなたは人に生まれ変わる。闘技場。そこがあなたのステージ。拳闘。それがあなたの生業。あなたはグラディエーター。いつ果てるとも知れぬ過酷な闘いの日々を送る。死を以ってのみ、それを終わらせることができる。最期は猛獣と闘った。
その後、幾度も生まれ変わり死に変わりを繰り返し、時に男として生き、時に女として生きた。
そして今世、ようやくあなたはめぐり逢う。真に探し求めている人と。それは、遠からぬ未来――』
蛍はこれを夢のお告げとして心に留めた。