SS #009 『 BEAUTY & STUPID 』 Chapter,04
いつもと同じ、平和な一日が始まろうとしていた。
新聞配達の自転車が路地裏を駆け抜け、駅員たちは駅舎のシャッターを開ける。家々の窓からは顔を洗う水音や、朝食の支度をする美味しそうな香りが広がっていく。
鳥のさえずりを聞きながら庭木に水を撒き始めたガーデナーは、空を見上げて凍り付いた。
早朝トレーニングに励んでいた市民ランナーは、胸いっぱいに吸い込んだ朝の空気で、この世の終わりのような悲鳴を上げた。
夜勤明けの看護師は過労のあまりついに幻覚を見たと思ったし、朝帰りのホストとホステスは路上で反省会を始めた。
日課の健康体操をしていた老人も、犬の散歩に出た高校生も、誰もがそれを見て我が目を疑った。
街の上空を、全長300mのドラゴンが飛んでいく。
事態を理解できずに呆然とする人々の鼓膜を、けたたましい警報音がノックする。
この日、この瞬間、中央市には実に五百五十年ぶりとなる『特殊警戒令』が発令された。
公共施設に設置されたすべてのスピーカーからサイレンが鳴り響き、国営放送以外の全ラジオ放送が遮断される。
何事かと飛び起き、家の外に駆け出してくる市民たち。この警報は何か、いったい何が元凶なのか。誰もが事情を知る者を求めて右往左往しているところに、街頭スピーカーから、ラジオから、緊急放送用の通信ゴーレムから、王立騎士団の一斉アナウンスが流される。
「こちらは王立騎士団特務部隊です。本日未明、レガーラントブリッジ空中エリアに竜族と思しき巨大生物が出現しました。現在、我々特務部隊が巨大生物と交戦中です。これより中央市内の全支部と協力し、巨大生物への一斉砲撃を行います。非常に大きな音、衝撃、落下物などが発生すると予想されます。小さなお子様や持病をお持ちの方、ご高齢の方は頑丈な建物の中に避難してください。中級以上の防御魔法習得者、並びにゴーレム巫術習得者はシールド構築にご協力ください。繰り返します。こちらは王立騎士団特務部隊です。本日未明、レガーラントブリッジ空中エリアに……」
市民は気付いた。
この声はマルコ王子だ。
ダウンタウンで二度も竜退治をした特務部隊の面々が、まさに今、この瞬間、リアルタイムで竜族と交戦中だというのだ。
竜族が滅んで五百五十余年。誰もが竜族の脅威を知らないこの時代、『建物の中に避難しろ』という指示に従う者などいなかった。
「一斉砲撃だってよ! おい! 見に行こうぜ!」
「でも、建物の中に入れって言ってたじゃん? 危なくない?」
「バカか! こんな現場見逃せるかよ! カメラ! カメラどこだ!?」
「たしか隣のアパートの屋上からなら、空中要塞も見えたよな!?」
「双眼鏡どこに仕舞ったかしら!?」
「もっと近くまで行かなきゃ見えないじゃない! ちょっとパパ! 馬車出してよ!」
「みんなー! 荷台に乗れーっ! 高台まで行くぞーっ!」
「あ! 酒屋さんだ! 俺たちも乗せてもらおうぜ!」
「おかーさーん! いってきまーす!」
「あらやだ、ちょっと! あんたたち! 今日学校あるでしょ!?」
「じゃあ学校の屋上から見ればいいんじゃね!?」
「それな!」
そうして始まった民族大移動に、騎士団本部では溜息の大合唱が巻き起こっていた。
偵察用ゴーレムから送られてくる映像を見ながら、一足先に帰還したシアンがぼやく。
「頼むから、避難しろと言ったらしてくれよ……」
作戦本部として使われているのは緊急放送機材が置かれた『中央総司令部』である。この部屋は騎士団長室の隣に存在し、各地の支部を同時に動かす広域作戦の指揮に使用される。基本的にはテロ、民族紛争、甚大な自然災害などが発生した際にしか使用されないため、シアンもマルコもこの部屋に入るのは初めてである。
柔らかすぎて居心地の悪い『総司令席』に何度も座り直しながら、マルコはシアンに尋ねる。
「あの、シアンさん。非常にどうでもいいことが気になっているのですが、よろしいでしょうか?」
「はい、なんでしょう?」
「この前の野外ライブといい、今回といい、ここに映っているホットドッグの屋台は移動が速すぎると思いませんか? もう商売を始めているようなのですが……いったいどこから情報を得ているのでしょう? ひょっとして、機密情報が漏洩しているのでは……」
「いえ、その心配はご無用です。王子にはお知らせしておりませんでしたが、そのホットドッグ屋はコード・グリーンが経営する店の一つです」
「え? では、こちらの方は……」
「コード・グリーンのライムです」
「ライムさん!? この方が!? ……実に洗練されたトングさばきですね……」
「ソーセージを焼かせたら彼の右に出る者はいません。パンに塗るバターソースの味も、移動販売業者の中では一番だと思います」
「そうですか。えーと……ピクルスの増量は別料金でしょうか……? さすがにこの映像では料金表までは見えませんね……」
「王子、お願いですからやめてください。王子が小銭握りしめてホットドッグ買いに行くなんて、どこのコントのネタですか。そういうご要望はガル坊かベイカー経由でこちらにお伝えくだされば、コード・ブルーの所属隊員が買いに行きますから」
「いえ、ですが、たまには自分で買い物を……」
「あきらめてください」
「公園のベンチで、出来立てアツアツのホットドッグを……」
「気ままな一人暮らしをされていた大学時代は綺麗さっぱりお忘れください。今のあなたは『王子』です」
「王子ですか……」
「ええ、王子です」
「……王子……」
マルコはクエンティン子爵の『愛人の子』として、陽の当たらない場所で生きてきた。子爵家の家名を守るために引き籠りの兄の分まで努力はしていたが、法的な話をすれば、実は何の責任も負わない自由な立場にあったのだ。それが突然、どういうわけか、『女王の隠し子』として世間の目にさらされることになった。ただ注目されるだけでも大変なストレスがかかるのに、王子という立場には恐ろしく重く、膨大な数の責任がついて回る。これが『正当な跡取り』が背負うプレッシャーなのかと、今更ながらに痛感しているところである。
マルコは息を吐きつつ、天井を見上げた。
少年たちを連れて帰還したシアンから、レガーラントブリッジでのいきさつは聞いている。正当な跡取りとして育てられてきたのに、ある日突然『愛人の子』として差別的扱いを受けるようになった少年たち。彼らはどうやら、自分とは真逆の立場に置かれているらしい。
自分は子爵家を出て行く人間として、一般市民が使用する簡略文字も、買い物の仕方も、家事も雑事も教わってきた。大学時代は家を継ぐことがない前提で自由にどこへでも行けた。だからある日『あなたは王子です』と言われても、『一通り何でもできる人』が『何もしなくていい状態』になっただけで、これといった苦労はなかったのだが――。
「……シアンさん。あの少年たちの身柄は、本当に私が引き受けて構わないのですね?」
「はい。王子の侍従にでもしなければ、彼らは家に戻されますから」
「なかなか皮肉なめぐり合わせですね」
「現状では役立たずでしょうが、すべては教育次第です。どうぞ王子のご随意に」
「努力します」
二人はモニターに目をやり、偵察用ゴーレムからの映像を確認する。
空中要塞の周囲にスパークするいくつもの光。属性カテゴリーを無視した多属性同時発動は現代魔法学の常識を完全に超越していた。ロドニーとダンテは『神の次元』で手合わせしているのだ。地上から見ている市民たちには、実際に繰り出した手数の十分の一も見えていない。
「……速すぎてよく見えませんね。これで市民が納得してくれるかどうか……」
「大丈夫です。大技が極まる瞬間さえ見えていれば問題ありません。よほどのマニア以外には、戦闘中の細かい駆け引きの意味は分かりませんから」
「まあ、それもそうですね。なによりこれは八百長試合ですし……」
これは台本通りに進行する『お芝居』なのだ。ロドニーは永い眠りから目覚めた竜と戦い、苦戦の末に勝利する。仲間との連携攻撃、各支部からの援護射撃、増援部隊による防御・回復支援など、ありとあらゆる手を使いつくし、もう本当にあとがない状況に追い込まれてから勝利するという実にベタなシナリオである。
ミュージカルで言えば、今は第一幕の終盤に差し掛かっていた。空中要塞で竜とエンカウントしたロドニー、レイン、チョコの三名が勇敢に戦うが、強大な力を誇る竜になすすべもなく叩き落されるというシーンだ。
乱舞する光の中で幾度も交錯する竜とイトマキエイ。エイに変化したレインはその背にロドニーを乗せ、風に乗って滑空している。風を操っているのも攻撃しているのもロドニーで、レインは最低限の姿勢維持しか行っていない。イトマキエイになっている理由は、地上から見えやすいからだ。実際の戦闘だったら、こんなに無防備で小回りの利かない姿にはならない。
ロドニーはイトマキエイの背に立ち、芝居とは思えない強さの《衝撃波》を撃ち続けている。優美なエイの背から派手な攻撃を放つ姿は最高に決まっている。ダンテとコニラヤの狙い通り、『いかにもヒーロー』といった雰囲気だ。
チョコはそんなロドニーの後ろをペガサスで追尾しながら《炎の矢》を射込み続けている。火力や手数はそれほどでもないが、火炎系魔法は見た目が派手だ。市民目線では実際以上に有効打を入れているように見えていることだろう。
しかし、何かがおかしい。
「これは……予定より攻撃が強いようですね……?」
「シナリオ通りならば、この時点でダンテは《衝撃波》以外使わないはず……?」
ダンテは《衝撃波》の合間に《下降気流》を織り交ぜている。同系上級呪文の《急速下降気流》や《局所下降気流》に比べればはるかに弱い風力だが、空中戦をしている最中に真上から頭を押さえつけるような風に見舞われるのだ。姿勢制御に係る負荷は通常時の数倍に跳ね上がっているだろう。
ロドニーたちの動作と表情を見ていたマルコとシアンは、まさかという目で顔を見合わせた。
全員、本気で戦っている。
マルコは通信端末を手に取り、チョコに掛ける。
「チョコさん、マルコです。あの、念のため確認しておきたいのですが、これはお芝居ですよね?」
「マルコさん、大変です! ものすごく大変なんです! ダンテさんが、『生ぬるい芝居で全滅するような国家ならおとなしく滅べ』とか言ってるんです!」
「えっ!? もしや、彼には竜の帝国を復活させる狙いが……っ!?」
「いえ! そうではなくて! 生ぬるくない本気の演技が見たいとか、そんなことで人の心が動かせるかとか、なんか面倒くさい映画監督のようなことを口走りはじめまして!」
「我々が試されているのは火力ではなく、演技力ですか!?」
「はい! でも、ぶっちゃけ俺たち、芝居なんてできませんから! マジに見せるには全力で戦わないと胡散臭くなるんで……マルコさんも本気でお願いします! 監督にダメ出しされるんで!」
「わかりました! では、本気で援護射撃を入れさせていただきます! ちゃんと避けてくださいね!」
「了解です! あ、でも、ちょっとはお手柔らかに……それじゃ、お願いします!」
通信を切ったマルコは、事前に渡された『あらすじ』のメモ書きを見て真面目な顔で呟いた。
「本気の援護射撃というと……魔導変性劣化ウラン弾は、さすがに市街地では……いや、でも、衛星軌道上からのレーザー照射よりはシールド防御も容易ですし……どの程度本気を出せば……?」
「王子、お願いですから、やりすぎない程度でお願いします」
ヤバそうな発射ボタンは一通り隠しておこう。
この瞬間、本気でそう思ったシアンだった。