SS #009 『 BEAUTY & STUPID 』 Chapter,03
ハッとした時には、ロドニーはそこにいた。
夕暮れ時の薄暗い教室に、ロドニーは一人で立っている。黒板の脇に貼られた月間スケジュールと薄汚れた教育理念標語を見て、ここが王立高校、騎士団員養成科の教室だと理解する。
開け放たれた窓から吹き込む風も、ふわりとなびくカーテンも、何もかもが『あの時』のまま。整然と並べられた机と椅子と、壁に立てかけられた訓練用の剣と槍。それらが作り出す幾何学的な陰影は不思議な美しさを湛え、ワックスの剥がれたボロボロの床板さえも、どこか洒落た芸術作品のように見せてしまう。
ここは自分の『心の世界』。記憶をもとに造られた、実在しない空間。
ロドニーは気持ちを落ち着けるように深呼吸する。
自分の記憶が正しければ、生まれて初めてマガツヒの声を聴いたのはこの場所だ。自分はこの日、ベイカーに呼び出されてこの教室に来た。そしてこの場所でベイカーの奇襲を受け――。
「……ああ、そっか。この記憶は、『なかったこと』にされた世界のほうか……」
無数に存在する並行世界の一つでは、自分はここで、ベイカーの手によって殺されている。
マガツヒとして覚醒する前、何の力も持たない人間のうちに殺しておこうと判断したのだろう。ロドニーとしても、ベイカーの判断に異論はない。マガツヒ化して家族や友人を殺してしまうくらいなら、自分が最も信頼する人間、サイト・ベイカーの手にかかって死んだほうがずっとましな『終わり方』だと思う。
けれどこの世界では、そんなささやかな願いすら叶わない。
「ロドニー、待たせたな」
扉が開けられる音、聞きなれたベイカーの声。この時点では、自分はまだ何の警戒もしていない。大好きな先輩からの呼び出しを受けて、何の用だろうとワクワクしていたのだから。
「サイト先輩! あの、今日は何の……」
笑顔で振り向いた瞬間、雷撃を食らった。
「がっ……!?」
感電状態で倒れ込んだところに魔剣《燭陰》での鋭い斬撃。自分は腹をバッサリ斬られ、内臓をはみ出させて無様にもがいていた。《燭陰》は炎の剣だ。斬ると同時に切創を焼き、血肉を凝固させてしまう。背骨近くまで深々と斬られているにもかかわらず、出血量は驚くほど少ない。
「なに……を……?」
「すまないロドニー。アル=マハ隊長とも、よく話し合ったのだが……これが、犠牲者を最も少なくできる最善の策だ……」
「先ぱ……いえ、ベイカー隊長……。すみません……」
「……謝るな……頼むから、謝らないでくれ……」
過去を変えてしまった影響で、自分たちは未来の記憶を保持したままこの時代を生きていた。だから互いに分かっている。『ロドニー・ハドソンの生存』を達成条件に含めないのであれば、たしかにこれが最善で最良の選択なのだ。
「……言い残すことは?」
「何も……いえ、一つだけ……」
「なんだ?」
「手、握っててください。一人で逝くのは怖いです……」
「……分かった……」
夕日に照らされた金色の世界で、自分は絶望していた。
自分はここで死ぬ。殺されること自体に恨みはない。ただ、みんなと同じ未来に進めなくなることだけが悲しくて仕方なかった。
(ああ……そうだ。これだよ、これ。このとき、この気持ちでマガツヒが生まれて……)
記憶の通りに進んでいく状況を、ロドニーは冷静に眺めている。
ダンテが自分に何をしたのかは分からない。ただ、わざわざこの並行世界の記憶を見せてくるのだから、これがマガツヒ攻略の手助けになるということだろう。
どんな些細な手がかりも見逃すまいと、ロドニーは神経を研ぎ澄ませる。
「ロドニー……ロドニー、すまない……俺は、こんな形でしかお前を守れない……」
ベイカーの涙が、自分の頬にポタポタと落ちてくる。激痛の中でも、それだけははっきりと感じられるのが不思議で仕方がなかった。
泣かないでくれと思った。
起き上がって、涙を拭ってやらなきゃと思った。
泣くほど本気で喧嘩した時は、いつもそうしていたから――。
喧嘩の理由が何だったかなんて、ほとんどの場合、殴り合っているうちにどうでもよくなる。途中から喧嘩していること自体が悲しくなってきて、耐えられなくて、互いにブチ切れながら「ごめん」と叫んで仲直りして、結局最後には、そんな自分たちが馬鹿ばかしくて吹き出してしまうのだ。
一度泣き出すとなかなか止まらなくなるベイカーの涙を、ハンカチやタオルでかなり乱暴にゴシゴシ拭いてやる。それが自分たちにとっての、仲直りの合図のようなものだ。
だが、それはもうできない。
ぼやけていく視界にはベイカーの泣き顔だけが映り続けている。早くこの涙を拭いて『いつも通り』に戻りたいのに、自分の手も足も、もう、少しも動かせないのだ。
(……そう、ここだ。ここで俺は、マガツヒの声を……)
薄れゆく意識の中で、確かにその声を聞いた。
俺が代わりにやってやる。だから寄越せよ、お前の身体を――。
自分は全てを委ねてしまった。ロドニー・ハドソンとしての存在のすべてを、マガツヒに譲り渡してしまったのだ。
瞬時に変貌を遂げる自身の体。ほぼ切断されていた上半身と下半身は何事もなかったようにつながって、皮膚は血の色、髪は闇の色へと変化する。
マガツヒはベイカーの胸座を掴み、起き上がる勢いのままに壁に向かって放り投げた。
壁に叩きつけられ、不自然な体勢で床に落ちるベイカー。咄嗟に魔剣を出現させるが、それを構えて立つより早く、マガツヒの放った《衝撃波》がベイカーの手に当たった。そしてこの際、不運にも魔剣の切っ先がベイカー自身の胸に突き刺さり――。
(間違いねえ……この瞬間だ。隊長と同化していたタケミカヅチは、このとき魔剣の中に取り込まれたんだ。神が自分の能力で自滅するなんてありえねえ。だからあの魔剣は、タケミカヅチじゃなくて、隊長自身の能力で……)
軍神の加護を失ったベイカーに、マガツヒと戦う術はない。マガツヒはベイカーを床に叩きつけ、馬乗りで殴り続けた。ベイカーが意識を失っても、頭蓋が砕けても、絶命して体がすっかり冷え切るころになっても、マガツヒはずっと殴り続けていた。
『別の世界の自分』としてこの光景を見ている今なら、マガツヒの行動の意味がわかる。ベイカーが死んでも、彼の体内に取り込まれた『魔剣化した神々』は死んでいない。だから気配はある。マガツヒはその気配に対して攻撃を行っているのだ。
しかし、ベイカーが死亡しているため、魔剣は具現化しない。同一次元に顕現していない神を攻撃することはできない。マガツヒは『魔剣として取り込まれた神』に対する攻撃手段を持たないのだ。
ではこの場にいないその他の神々はと言えば、彼らもこの状況に何の手出しもできない。タケミカヅチが魔剣化されてしまった以上、次の『器』を作ってベイカーの能力を引き継がせることは不可能である。そして魔剣能力の特性上、魔剣化した神々を、他の神の能力によって元に戻すことはできないのだ。
これはシステムのバグである。
そこに『神』という管理プログラムが存在するのに、それを実行できない『予期せぬエラー』が発生した。神に攻撃を仕掛けるマガツヒもそのエラーに巻き込まれ、破壊できるはずのないものをただ殴り続けるという、非常に不可解な挙動を見せている。
そしてこのような『世界の不具合』を修正・削除するオオカミナオシはもういない。
この並行世界は、ここで強制終了されている。
もう二度と動き出さない時間の中で、ロドニーだけが静かに首を振る。
「……マジで、そんなオチってアリか……?」
この世界の自分がマガツヒに呑まれた直後から、ロドニーの精神体は体の外に弾き出されていた。ロドニーはこの状況を第三者目線で眺めている。人間をやめた自分がベイカーを殴り殺す瞬間も、大好きな彼の顔が落としたトマトのようにぐちゃぐちゃに潰されていくさまも、何もかも、目を背けることなく直視し続けた。
そのうえでロドニーは確信した。
自分の能力も、ベイカーと同じ条件で付与されている。
ロドニーはマガツヒに近付き、そっと右手をかざす。
「もうよそうぜ、マガツヒ」
よくよく考えてみれば、他の仲間たちもそうだったではないか。レインの変身能力はコニラヤに由来するものだが、コニラヤが顕現していないときも自分の意思で自由に変身していた。トニーの分身能力もゴヤの霊的能力も、彼ら自身の判断で好きに使える能力であった。グレナシンも『神の眼』を自在に操っていたし、アル=マハも自分の都合で当たり前のように記憶操作を行っていた。
『神の器』だからこそ持ちえた能力であっても、その行使に神の許可は必要ない。誰もが独自の判断で己の力を使い、闇堕ちと戦っていた。
つまり、そういうことだったのだ。
ベイカーの『魔剣』が彼自身に備わった能力であるのと同様、オオカミナオシの能力と思われていた『不具合の修正・削除能力』もまた、ロドニー自身の能力であったのだ。
これまでそれに気付くことができなかったのは、ロドニーがその可能性に思い至らないよう、思考に制限がかけられていたためだ。なぜならこの『修正・削除能力』は人が持つにはあまりにも強大であり、使い方次第ではどんな不可能も可能にしてしまえる万能の力で――。
「ったく、本当にクソだな、この自動プログラムは……」
ロドニーが手をかざしたマガツヒは『本来あるべき姿』へと修正される。髪からも肌からも色素が抜け、存在自体が構成要素レベルにまで解体され、それから少しずつ、一つずつ再構築されていく。
模型を組み立てていくように慎重に、間違えないように時間をかけて、念入りに作り上げられていくマガツヒの身体。そうして取り戻された『本来あるべき姿』は、闇の怪物マガツヒではない。純白の神獣、オオカミナオシである。
オオカミナオシは感情のない目でロドニーを見る。「元に戻してくれてありがとう」とも「余計なことを」とも言わない。自動修正プログラムに、そんな感情と言葉は必要ないからだ。
「……そうなんだよな。お前は本来、感情なんて無いはずなんだ。じゃあ、時々現れていた『感情的な発言ができるオオカミナオシ』は何者かって話になるんだよ。少なくとも、玄武が闇堕ちになった創世期にはいなかった。イザナギが神生みに失敗した時代にもいなかった。あれが現れるのはごく最近、お前が人間を『器』として使うようになってからなんだ。てことは、つまりさ。あれはお前じゃなくて、お前が『器』に使った人間のほうだろ? オオカミの姿でみんなを助けてくれてたのは、お前じゃなくて、お前の中に保存されてる歴代の『器』の魂だった。……そういうことなんだろ?」
オオカミナオシは機械的に頷く。感情はないが、問われたことには答える。必要と判断すれば説明もする。それがオオカミナオシという自動修正プログラムである。
ロドニーは肩をすくめて、それから問う。
「答えてくれ。お前にとって、『器』ってなんだ?」
オオカミナオシは即答しない。それは人間にありがちな『気持ちを整理する時間』や『言葉を選ぶ時間』ではない。今回の出来事によってその後にどんな影響が出るか、シミュレートするための時間だ。
ロドニーはオオカミナオシの返答を期待してはいなかった。答えはすでに分かっている。自分はただの捨て駒だ。オオカミナオシは他の神とは性質が異なるため、愛や信頼、信仰心によって能力を引き上げることはできない。だから本来、『器』というものは必要ないはずなのだ。その証拠に、オオカミナオシは器を守ることもなければ、器からの呼び出しに応じることも無い。
自分は文字通りの『ただの器』。オオカミナオシの能力で処理しきれない闇を集めておいて、ほかの神々に攻撃させる。そのためだけに用意された単なる入れ物だ。ほかの『神の器』のように、愛や祝福を注がれる聖杯などではない。
三十秒経っても、四十秒待っても、オオカミナオシは何も言わない。この先の未来はその程度の時間ではとても計算しきれないほど、大きく変化してしまうのだろう。
ロドニーは首を横に振り、オオカミナオシに手のひらを向けた。
「……OK分かった。もう十分だ。なんも答えてくれなくていいぜ。俺はもう決めたからさ」
ロドニーは胸に手を当て、感謝の言葉を口にする。
「アーキタイプドラゴン、ダンテ・セロニアス。ありがとう。てめえの祝福が、俺を生かしてくれるぜ」
手の中に現れる光の剣。それはダンテの魔剣、《セロニアス》である。
ロドニーは切っ先を自分の胸に向け、心臓に突き刺した。
心臓からあふれる光。それは他の誰とも違う、ブラックライトのような機械的な色彩で――。
現実世界に戻ったロドニーは、自分に向かって襲い掛かるマガツヒの姿を見た。なぜ『自分の身体』が二つになっているのか、理由を考えている暇はない。浴びせられる拳の雨を闇の衝撃波で防ぎ、掴みかかってきた腕を取って投げ飛ばした。
視界に映る自分の腕は漆黒の防具を身に着けている。はじめは対戦相手のマガツヒとそっくり同じものかと思ったが、よくよく見ればそうでもない。あちらが重厚感のある古めかしい鎧なのに対し、こちらは素材もデザインも非常に軽く、鎧というよりはSF漫画のバトルスーツのようだった。
手足の太さも体の大きさも、マガツヒと比べるとずっと小さい。今の自分は『ロドニー・ハドソン』という人間として、通常時に近い姿で存在が切り離されているようだ。
(こりゃあ、いくら何でも間合いが違いすぎるか!? いや、でも……っ!)
大振りなマガツヒの攻撃を掻い潜り、懐に入り込んで掌底を打ち込む。
ロドニーの攻撃はマガツヒの顎に極まり、マガツヒの視線が上を向く。ロドニーはこの一瞬の隙に膝へのヒールキックを入れ、マガツヒの足元で《真空刃》を発動させた。
普通の人間であれば膝の皿を砕かれてアキレス腱を断たれたであろう。だが、マガツヒにこの程度の攻撃は効かない。《真空刃》を食らった衝撃で転倒しただけだ。
(チッ! ノーダメージか!? でもまあ、想定内だな! この速度ならいける! 反射速度はこっちが上だ!)
カウンターを警戒しつつヒット・アンド・アウェイを繰り返し、ロドニーは小刻みに打撃を入れていく。
負ける気はしない。
力任せに攻撃を仕掛けてくるマガツヒの拳を、肘を、ロドニーは難なく見切って躱してみせる。マガツヒの動きが奇妙なほどに緩やかに見えるのは、こちらの身体能力が高すぎるが故の現象であろう。パワーでは劣っていても、スピードではこちらが勝っている。どれだけ強い攻撃でも、当たらなければ意味が無いのだ。
何十発打ち込んでも一つも当たらず、かすりもしないことに苛立ち、マガツヒの攻撃はどんどん雑になっていく。
「ほーらどうしたマガツヒ? てめえは神的存在で、こっちはただの人間なんだぜ? なんでてめえに俺が殺れねえか、理由は分かるか?」
「うるさい小僧! チョロチョロと逃げまわるな!」
「ハッ! 勝手に吼えてろバーカ! このウスノロ間抜け! 悔しかったら一発でも当ててみやがれ!」
「この……っ!」
全方位から撃ち込まれる闇の刃。ロドニーはそれを同じ技で迎撃しながら間合いを詰める。
「どこ見てんだっつーの!」
「うっ!?」
真正面から迫るロドニーに対処しようとしていたマガツヒは、真後ろから伸ばされる触手に気付かなかった。
「先輩! 今です!」
「おうよ!」
降り注ぐ闇を掻い潜り懐へ。左右正拳、顎へのアッパー、腕を引き戻す動作から顔への回し蹴りへと続け、振り抜いた足に遠心力を乗せたまま跳び上がり、延髄浴びせ蹴りへのコンボを極める。
着地した足を軸に間髪入れず中段、上段蹴り。蹴り足を引いた反動でタメを作ってからのコークスクリュー・ブロー。いったん引いて体勢を整えてから再接近し、ボディーへの高速連打へとつなげる。
ロドニーはすべての攻撃に『修正・削除能力』を上乗せしている。マガツヒは攻撃を受けるごとに鎧を砕かれ、剥ぎ取られ、エネルギー源である闇をかき消されていった。
自分は処理しきれない闇を溜め込む『入れ物』。そのためだけに造られた存在。だからこそ闇への耐性は誰よりも強い。修正・削除能力で自分の属性を書き換えながら戦えば、闇も光もエネルギー源として使えるし、水も炎も風も土も、どんな属性の魔法も自在に操れるようになる。
万能すぎるが故に制限されていた思考力。それが解放されたロドニーに、もはや敵などいなかった。
「うらあああぁぁぁーっ!」
下から上へ振り上げるように繰り出した後方回し蹴りはマガツヒの頬に極まった。ヒットの瞬間の砕けるような手ごたえは下顎の骨か、それとも顎関節か。いずれにせよ、言霊を力に変えるマガツヒにとっては致命的な打撃に違いない。
「レイン! そろそろ離れろ! 大技使うぜ!」
「はい! って、うわっ!?」
「レイン!?」
レインの触手が掴まれた。
マガツヒがおとなしくやられていたのはこのチャンスを狙っていたからだ。ロドニーの攻撃に耐えながらも、手足に絡むレインの触手を掴めるよう、少しずつ体勢を整えていたらしい。
「わ、わわ、わあああぁぁぁーっ!?」
絡めていた中で一番太い触手を掴まれ、レインは綱引きのようにグイグイと引っ張られている。シーデビルの触手は自切可能なのだが、その場での再生は難しい。なんとかマガツヒの手から抜け出そうと、レインは粘液を大量分泌させて抵抗を試みる。
「うおぉぉぉーいっ! やめろレイーンッ! 汁まみれにすんじゃねえぇぇぇーっ!」
シーデビルの粘液はよく滑る。この粘液地獄から抜け出そうにも、ロドニーは既に立つことすらままならない有様だ。
「は、放してくださいぃぃぃーっ!」
レインは掴まれていない触手を使って床に張り付いていた。が、マガツヒの引っ張る力のほうが強い。
「あ……」
パチンと弾けるように剥がされた吸盤。ゴムのように引き延ばされていた触手は一気に収縮し、レインの身体はカタパルトに乗せられた戦闘機の如く、猛烈な勢いで射出された。
ドチャッという、湿っぽい衝突音が響く。
ロドニーは思わず目を閉じた。レインが原型を留めないほど滅茶苦茶につぶれていると思ったからだ。だがこの海棲種族は、いついかなる時も想像の上を行く。
「ぐ……き、貴様……」
「……へっ?」
マガツヒの苦悶の声に驚き、目を開けたロドニー。そこに繰り広げられていたのは、実にリアクションに困る光景であった。
バショウカジキに化けたレインが、マガツヒの腹に深々と突き刺さっている。
咄嗟の変身は大成功だったようで、尖った鼻先で見事に胴体を貫き、身体の半分くらいが背中側から飛び出していた。
「さ、ささ……作戦、成功っ! ですっ!」
「うおおおぉぉぉーいっ! 嘘つくなっつーのぉぉぉーっ!」
震えた声で強がって見せたレインだが、よほど怖かったのだろう。フナムシに化けて猛然とダッシュし、倉庫の隅まで行くとヒザラガイになって動かなくなってしまった。
胴体に大穴を開けられたマガツヒはというと、レインがまき散らした謎の汁の中でジタバタと無様にもがいている。
「え……マジかよ。この汁、マガツヒにも効くんだ……?」
これまでのシリアスな気持ちはどこに置いておけば良いのだろう。型破りすぎる後輩の挙動に何もかもをぶち壊されたロドニーは、腹の底から込み上げる妙な笑いを止めることができなかった。自分でもよくわからない乾いた笑い声を発するにつれて、自分の中で何かが吹っ切れていくような気がした。
「あー、もう、やめやめ! 暗いのなんて、らしくねえよな! おい、マガツヒ! いや、オオカミナオシ! いいか、耳の穴かっぽじってよく聞けよ? 今後、俺はお前の『器』としては動いてやらねえことにした! 俺は俺の好きなようにやらせてもらう! お前が処理しきれない闇は、お前が抱えて勝手に堕ちろ! 俺は自分の闇だけ抱えて、自分の人生を生きて死ぬ! わかったな!?」
オオカミナオシという神を見限っても、それでも自分は堕ちたりしない。なぜなら自分は『人間』だからだ。『神の器』でないごく普通の人間は、そもそも神など見えていない。時には道を踏み外すことも、間違えてしまうこともある。立ち止まってしまうことも、引き返してしまうこともある。それでもヒトは生きている。正しくなくても生きている。
神や天使を知らずとも、『生きること』ならできるのだ。
当たり前すぎる大前提に気付いたロドニーに、オオカミナオシという『何の役にも立たない神』は必要なかった。あちらが使い捨てるつもりで自分を作ったのなら、喜んでゴミ箱に飛び込んでやるまでだ。ボロボロになるまで使い古されてやる義理などない。壊れる前に飛び出して、自分で自分をリサイクルしてしまえば良いのだ。
「無駄な足掻きはやめろよマガツヒ! お前はもう、『俺の世界』のラスボスじゃねえんだからな!」
よく滑る汁の中、もがき苦しむマガツヒにどうにか接近し、ロドニーは能力を発動させる。
心の世界でそうしたように、マガツヒを『本来あるべき姿』へと作り直すのだ。
「あ……あが……あがががが……」
分解され、再構築されていくマガツヒの身体。音もなく組み替えられる構成要素が再び『カタチ』を取り戻した時、そこにいる存在は闇の怪物から純白の神獣に置き換えられている。
オオカミナオシは感情のない目でロドニーを見る。
そこには感謝も憎悪も羞恥も無い。
心の世界でも現実世界でも、これは『そういう存在』なのだ。
一部始終を見守っていたコニラヤは、大げさな拍手とともにオオカミナオシを揶揄する。
「すっごいなあ! 使い捨てるつもりだった自分の『器』に助けてもらって無反応!? お礼も言わないなんて、君、どんだけぶっ壊れたプログラムで動いてるの? 全然信じらんないよ! 本当に意味わかんない!」
コニラヤの足元には少年たちが横になっていた。コニラヤの力で眠らされ、風邪をひかないようにレインの上着がかけられている。
人を守り、慈しむ。それがコニラヤたちにプログラムされた『神としての基本動作』なのだ。だからコニラヤには、オオカミナオシの存在が許せなかった。
つかつかと歩み寄り、何のためらいもなくオオカミナオシを蹴り飛ばす。
「君みたいな糞プログラム、とっととぶっ壊して別の何かに置き換えたいよ」
オオカミナオシは反撃しない。避けようともしないし、防御もしない。それでも無傷で当たり前のようにそこにいるのは、コニラヤのキックが『攻撃』として定義されていないからだ。
オオカミナオシというプログラムにおいては『優しく撫でる』も『思い切り蹴り飛ばす』も、同じく『神的存在との接触動作』と定義づけられている。闇堕ち以外からの攻撃が想定されていないため、反応動作が用意されていないのだ。
一部始終を見ていたダンテも、防衛端末ではなく精神体を出現させてコメントした。
「ひどい欠陥品だな」
「そう思うよね? あ、そういえば自己紹介まだだったね? 僕はコニラヤ・ヴィラコチャ。地球で月の神をやっていたけど、文明が滅んでこっちに飛ばされてきたんだ。今は生物の進化と成長を守護するカミサマをやってるよん♪ よろしく♪」
「ダンテ・セロニアス。アーキタイプドラゴンの七体目だ。試作品ゆえ、同じ能力の竜は他にいない。与えられた役割はこの地を守護すること」
「えーと、竜と人が戦争やってた頃もここにいたんだよね? 竜族の味方はしなかったの?」
「私は竜族の守護神ではない。この土地の守護者だ。住民同士の揉め事ならば中立的立場で仲裁するが、あの時代の竜族に正当性など微塵も残されていなかった。竜は奴隷を使い捨ての道具として扱い、奴隷たちは生き残るために抗っていた。私は必死に生きようとする奴隷たちにこそ正義があると判断した。だから彼らを守った」
「奴隷を守るだけなら、革命戦争にはならなかったんじゃない?」
「その通り。正確に言うと、私は奴隷たちを率いるただ一人の人間、ヴァルキリーという女を守ることに決めたのだ。奴隷たちの先頭に立つ者が彼女でなければ、私は人間の味方はしなかった。私が守りたかったのは、彼女と、彼女が愛するすべてのものだ。それは今も変わっていない。彼女が築いたこの国は、私が守るべきもののままだ」
「へえ? なるほどね。初代魔女王が最初に落としたのは、無敵の要塞都市じゃなくて、君だったんだ……?」
「秒速でフラれたがな。それもまた彼女らしくて好きだった。要塞と錬金合成されていなければ、どこまでも追いかけていって、彼女が死ぬまでそばにいたと思う。今でも好きだ」
「うわー、それ超ワカル。性格キッツイ子ほど一度ハマると抜けらんないんだよねー。僕も今けっこう本気で狙ってる子がいてさぁ~……って、イヤイヤ、こんな話はいいんだ。話を戻そう。君、今どんな状態? もう錬金合成されてないの?」
「ああ。強制的に引き剥がされてしまった。要塞の維持管理には、バイオニックアーキテクトでいたほうが都合がよかったのだが……。あと、このあたり一帯に掛けられていた《封殺呪詛》も解除されてしまったようだな? これを掛け直すのに、どれだけの人手が必要か……」
「あー……ホントにクソ迷惑プログラム……」
「分離の際に生じた音や振動で、居住者たちもかなり大きな不安を抱いたようだ。彼らから発生した負の感情が『闇』となり、そこの青年に流れ込んでしまった。結果的に、君たちに苦痛を与えることになった。レガーラントブリッジの守護者としての不手際だ。誠に申し訳ない……」
「いやいや、いいって、いいって。悪いのは全部この白ワンコなんだから。君が謝らないでよ」
「かたじけない。それはそうと、君たちはその少年たちを迎えに来たのだったな? 本当に連れ帰る気か?」
「うん、まあ、レインとロドニーはそういう命令を受けてここまで来てるわけだし?」
「親元に返せば、死ぬまで虐げられることになる。そんなことは認められない」
「あー、うん。そうなんだよねー。そこは僕も同意見。でも連れて帰れないとなると、誰が聞いても『そりゃあしょうがないよねー』って納得するような理由を用意しないと、うちの子たちが悪者にされちゃいそうだし……」
「で、あれば……このような理由はどうだろう?」
「うん?」
ダンテはコニラヤの額に触れ、自分の思考を直接コニラヤに受け渡す。神的存在は個々の能力にばらつきはあるものの、基本的には言葉に頼らないコミュニケーションが可能である。情報のやり取りに齟齬が生じない点は大いに評価できる能力なのだが――。
「なあ、なんだよ。カミサマたちだけで勝手に話進めんなよ。俺たちにも説明しろって」
「連れ帰っていいんですか? 駄目なんですか? どっちです……?」
周りにいる人間たちに神々の会話は聞き取れないため、最終的には言葉による『ご神託』が必要となる。二度手間になるくらいなら、はじめから全員に聞こえるよう音声情報でやり取りしてほしいものである。
だが、月神と始祖竜の話し合いはなかなか終わらない。互いに真剣な顔で対案を投げ合い、補足案や詳細手順を詰めている様子だ。
ロドニーとレインは顔を見合わせ、倉庫に降りる前、コニラヤから脳内に直接情報を送り込まれた時のことを思い出す。
「ひょっとしてこれ、人間が会議室で話し合う内容の何十倍も濃いやつでしょうか?」
「かもな。さっきのだって、かなり加減してたみたいだけどよ……」
「正直、まだちょっと頭痛いです」
「俺も」
人間の脳の処理能力をはるかに超えた情報量をやり取りしているのだろう。それこそ、いちいち音声情報に直していたら何十時間、何百時間分に相当する量の情報に違いない。
ロドニーはオオカミナオシを捕まえて伏せさせ、ソファー代わりに腰掛けた。コニラヤが本気で蹴り飛ばしてもびくともしないのだから、このくらいはどうということも無いらしい。オオカミナオシはおとなしく椅子にされている。
レインもリラックスモードで待つことにしたようで、イトマキヒトデに化けてロドニーの小脇に滑り込む。少々磯臭くはあるが、白狼ソファーでくつろぐには丁度良い星型クッションである。
神々の話し合いはその後五分ほど続き、最終的にダンテが頭を押さえてよろめいたところで終了した。
「あ、ごめん! 大丈夫!? ちょっといっぺんに送りすぎたかな!?」
「いや……大丈夫、すべて把握した。では手筈通りに」
「面白いことになりそうだね~ん♪」
コニラヤのニヤついた笑顔には嫌な予感しかないが、人知を超えた存在がその能力の限界まで知恵を振り絞って考え抜いた『最高のシナリオ』だ。少なくとも、少年たちの今後の人生に少しはプラスになることを思いついたのだろう。
二人はそう信じ、神々の決定に従うことにした。
それから数十分後、朝焼けに照らされた中央市で『事件』が起こる。