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SS #009 『 BEAUTY & STUPID 』  作者: 柳田喜八郎
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SS #009 『 BEAUTY & STUPID 』 Chapter,02

 三人が装備を整えて情報部庁舎に行くと、有無を言わさず屋上に連れていかれた。屋上に係留されていたのは最新のヘリウムガス気球。温めた空気を貯めて浮上していく熱気球と違い、気球本体への引火や酸素不足による自然消火のおそれはない。このタイプの気球は成層圏付近の気象観測にも使用されるため、耐久性も十分だ。

 気球の下には五~六人乗りの中型ゴンドラと、方向転換用の大型送風ファンが四基。推進装置がついているからには『飛行船』に分類されそうなものだが、よく見れば送風ファンは取り外せる構造になっている。そしてゴンドラの内側には一人用の小型パラシュートが四人分。

 ロドニーとチョコとレインは顔を見合わせ、シアンに尋ねる。

「あの、これ、もしかして……」

「帰りは……」

「モーターパラグライダーになる構造ですか?」

 シアンは各部の最終チェックを行いながら、不承不承といった様子で答える。

「ガキどもと俺たちが一緒に乗れる大型気球はない。飛行船は動力系統が魔導式で、《封殺呪詛》発動エリア内では使用不能。備品の管理担当者から『これしかない』と言われてしまったんだ……」

 ロドニーたちはもう一度顔を見合わせる。パラシュート降下訓練もモーターパラグライダーの実技講習も受けたことはある。が、本当にそれで移動する日が来るとは。実質初心者レベルの三人は、小声で不安を口にしあった。緊急時の予備パラシュートは見当たらないし、実技講習に使われたエンジンとはメーカーも製造年代も異なる。そもそも訓練や講習は昼間に行われているため、夜間のスカイダイビングは経験がない。


 魔法が使えない環境で、自分たちは本当に捜索任務をこなせるのか?


 普段は強気・陽気・暢気な三人だが、今回ばかりは顔が引きつっていた。

「空中エリアって、ひょっとしなくても寒いところですよね?」

「雲の上ですから、やっぱりそれなりに乾燥してますよねぇ……?」

「お、おう。だと思うぜ? 高さ的に……」

 レガーラントブリッジの空中エリアは高度一千メートル付近に浮遊している。騎士団本部から空中エリアまでの標高差は八百メートル少々。上空の気温はかなり低いはずだ。そこからほぼ通常装備のまま、風を切って降下してくるとなると――。

「やべえな。俺いま夏毛だから、風邪ひくかも……」

「俺なんか最初から南方系種族なんですよ? 寒いところはなぁ~……」

「私は低温のほうが動きやすいのですが、乾燥しているところは苦手で……」

 人狼、山蛭、シーデビルのそれぞれの感想である。

 しかしシアンには、不安げな後輩たちを気に掛ける様子などまるで無い。ゴヤ以外にはどこまでもドライな男なのだ。

「点検終了。各部異常なし。全員乗り込め」

「おう!」

「了解!」

「はい!」

 繋留ロープをほどくと、気球は一気に上昇を始めた。星空に吸い込まれていくような不思議な浮遊感。それは魔法では絶対に体感できない『決定権のない夜間飛行』だった。

 風の魔法もゴーレム巫術も、自分の意志で自由に操作できる移動手段である。ところがどうだ。この気球というやつは穴が開けばガスが漏れるし、送風ファンはどこか一か所でも配線が切れればそれまでだし、移動も方向転換も非常に遅く、思ったようには動かせない。飛行中になんらかのトラブルが起こったら、リカバリーの手立てが何もないのだ。

 生まれも育ちも魔法文明のネーディルランド人たちにとって、行動のすべてを科学的な機器類に託すことは裸で荒野に放り出されるくらい不安なことだった。シアン以外の三人は無意識のうちに肩を寄せ合っていた。

 冷や汗をかきながら飛行すること三十分少々。進行方向に目的の構造物が見えてきた。


 レガーラントブリッジ空中エリア、正式名称『セロニアスベース』である。


 竜族の中でも特に変わった性質を持つセロニアスドラゴンが建造を請け負ったという空中要塞は、どこか軍艦に似た形状をしている。移動することはできないらしいが、風を受け流す流線型のフォルムも水平を保つために上下に突き出した大きな柱も、ヨットのマストやフィンを思い起こさせた。

 船ならば甲板に当たる部分は翼竜と飛行タイプゴーレムの離発着場になっている。シアンはガス圧を調整して気球を下ろし、ロープで係留。全員が気球から降りた後、周囲に簡易型の電撃トラップを仕掛けておいた。

 ここで暮らす人々はいまさら騎士団の気球を盗もうとはしないが、中学生たちがこれを見つけ、勝手に動かしても困る。デタラメ操作でジェット気流にでも乗られたら、それこそ確実に命を落としてしまうからだ。

 やっと自分の足で移動できるようになったロドニーは、ほっとした顔で周囲の状況を確認しはじめた。

「ええと……中学生たちが乗ってきたのって、もしかしてこれか?」

 離発着場の隅のほうに、おもちゃの風船を大量に結び付けた十人乗りのゴムボートがあった。風船とゴムボートの両方にヘリウムガスを充填して、最低限必要な浮力を確保したようだ。

 ボートの中には割れた風船の欠片と、まだ空気を入れていない予備の風船、ガムテープ、ヘリウムガスの小型ボンベなどがある。中学生は中学生なりに不測の事態を想定していたらしいが、しぼんだゴムボートを見る限り、着地場所に突起物があった場合の対処法までは思いつかなかったようだ。

「なんつーか、浅知恵全開だな……これだから貴族のガキは……」

 自身も伯爵家の子弟ながら、ロドニーはぼやかずにいられなかった。同じく『貴族』と呼ばれていても、戦闘種族とその他種族とでは受ける基礎教育が違う。人狼や雷獣、人虎、獅子などの種族は非常に好戦的であるため、士族と同等かそれ以上の戦闘訓練を積まねば『長の一族』として認めてもらえないのだ。当然のように狩りや野営の技能を叩き込まれ、中学校に上がるころには一人で鹿や猪を仕留められるようになっていた。若さゆえの軽挙や浅慮には覚えがあるが、こんな場所にろくな装備もなく突っ込んでいくような馬鹿な真似は記憶にない。

 チョコとレインはボートの脇にしゃがみ込み、メーカー名や穴の開いた箇所を確認していく。

「チョコ、こっち照らしてください。多分ここが原因です」

「あ、これ穴じゃなくて、完全に裂けちゃってるな。内圧上げすぎたかな?」

「でしょうね。適切なガス注入量を調べなかったか、調べたけれど間違えたのか……?」

 ロドニーは肩をすくめて言う。

「説明書なんか端から読まなかったんじゃねえか? そこの空気弁見てみろよ」

「え? ……あれ? これ、先にこっちに空気入れるやつですよね? 出荷検品シールがついたまま……?」

「ってことは、セーフティーバルーンは使わなかったんですかね……?」

 このゴムボートは二重構造になっていて、先に内側のバルーンに空気を充填し、それから外周を膨らませる仕様の製品だ。セーフティーバルーンは外側と同等かそれ以上に丈夫な素材で作られており、外側のバルーンに穴が開いても最低限の浮力は確保できるよう設計されている。

よほどの馬鹿でなければ、自分の命を預ける道具の説明書くらいは読む。ということはつまり、このボートで空中要塞まで来てしまった中学二年生たちは――。

 三人は視線を交わし、無言のまま立ち上がった。そしてよく目を凝らし、ゴムボートから続く痕跡をたどり始めた。

 ここは定期的な清掃がなされていない。経年により自然と積もった粉塵には、中学生たちの足跡がくっきりと残されている。子供よりは大きく、大人の足としては小さい靴跡。五人分の足跡はいったん縁の部分に向かい、それから建物の入り口のほうに向かっていた。

「ホントに来れちゃったねー……なぁんて言いながら下を覗いて、それからダンジョン探検か……うん、ワカルワカル。俺も似たようなことやってたぜ。装備と予備知識はもうちょっとましだったけどな」

「先輩、俺、自分の中二時代思い出してツラくなってきました」

「私もなんか、胃のあたりがキリキリと……」

「言うなよ。俺だって黒歴史の扉が強行突破されそうだっての」

 三人の発言に、現場の記録映像を撮影していたシアンがため息交じりにこぼす。

「フロンティア精神全開のガル坊を保護しまくっていた俺のほうが、よっぽど胃が痛い」

 あ、はい、そうですね。三人はそんな顔で納得した。

 シアンはドライでクールな男だ。それをここまで過保護な人間にしてしまったのだから、ガルボナード・ゴヤという男は少年時代、相当滅茶苦茶なことをやらかし続けていたに違いない。

「で? 貴様らの中二マインドは、中坊グループが真っ先に向かう場所はどこだと言っている?」

 シアンの問いに、三人は無言で一点を指差す。


 軍艦風フォルムの空中要塞の中で最も高い場所、『職員食堂』である。


 軍艦ならば艦橋に当たる部分だが、ここはあくまでも座標固定型の空中要塞。当時の技術力ではこの要塞と同じ高さ、または上空からの攻撃は不可能だった。敵対勢力からの攻撃は下方向からに限られていたことから、要塞の戦闘関連設備は下層階に集中しているのだ。

 シアンはマップを取り出し、ルートを確認する。騎士団員にとってここは未知のダンジョンではない。長年にわたって実施されてきた内部調査に基づき、詳細な構造図が描き起こされている。

「あー……この時間だと、棟屋内部は真っ暗で移動しづらいな。裏手の梯子で外から最上階に上がって、上から順に捜索していこう」

「棟屋部分に住人は?」

「いたとしても一人か二人だ。すべての部屋の扉は完全にロックされているし、要塞の上半分は空調が入っていない。居心地の良さを求めて下層階に集まっているはずだ」

「へぇ~……って、え? 空調生きてんのかよ?」

「ああ。この要塞はバイオニックアーキテクトだからな。建物と錬金合成されたセロニアスドラゴンの寿命が尽きるまでは『呼吸』を続けるそうだ」

「バイオ……って、あれ? なんか今、さらっと怖いこと言わなかったか?」

「この要塞のベースはセロニアスドラゴンという世界最大の竜族だ。錬金術で要塞と融合させることにより、呼吸と体温調節による全館一括空調、損傷部分の自己修復が行える。消化液による廃棄物の完全溶解処理が可能であるため、小スペースでも衛生状態を良好に保てる……という仕様のようだが?」

「待って。ちょっと脳ミソの処理が追い付かない……」

「だろうな。移動しながら処理しておけ」

「お、おう……」

 三人はシアンに促されるままに裏手に回り、建物の壁面に取り付けられた梯子を登る。建造から五百五十年以上経過しているにもかかわらず、壁も梯子も朽ちていない。シアンの言うとおり、損傷部分が自己修復された形跡もある。

 ロドニーたちは少しずつ理解し始めていた。


 ここは『廃墟』ではない。


 行き場のない人々のためにいくつかの部屋は解放してあるが、ロックされた部屋に入ってシステムを起動させれば、今も空中要塞として使用可能なのだろう。その証拠にシアンの持つマップの大部分は黒く塗りつぶされ、あちこちに危険度を示す数字が書き込まれている。それに何より、この建物は――。

「あの……先輩? この梯子、なんか暖かくないですか……?」

「微妙に脈打ってる気がしますよねぇ……?」

「お、おう……動いてる……よな?」

 前を行く三人が顔を引きつらせていても、最後尾のシアンは何も解説してくれない。『先ほどの説明で完全に理解した』との判断のようだ。

 低所得層向け公営住宅だったら十階分くらいの高さを登ると、そこは『職員食堂』の外のバルコニーになっていた。食堂のガラス戸はすべて閉まっていて、開けられるのはバルコニーの隅の扉のみ。ロドニーとシアンは耳を澄まし、扉の向こうに誰もいないことを確認してからそっとノブを回す。

「……近くには、それらしい気配は無いな。においは?」

「ゴムボートについてたのと同じのがハッキリと。一度ここに来たのは間違いねえな」

「よし、探しながら降りていこう。入れる部屋が一つもない以上、途中ですれ違うことは無いはずだ」

「だな」

 ロドニー、レイン、チョコ、シアンの順で進む。

 廊下には何とも言えない歩き心地の赤い絨毯が敷かれていて、塵やホコリは一つも落ちていない。壁にも天井にも同じような毛足の長い赤い何かが使われていて、廃墟にありがちな蜘蛛の巣や虫の死骸は見当たらない。

 まるで誰かが、きめ細やかな手入れを行っているような清潔な空間。

 ここがバイオニックアーキテクトだと聞かされた後でなら、その理由は察しが付く。

「なあシアン? もしかしてこの床の、絨毯じゃなくて、もっと生物的なアレか?」

「そうだ。人体で言うところの鼻毛や繊毛に近い器官らしい。廊下に落ちた微細なゴミはこの毛に絡めとられ、胃袋に送られて消化液で溶解処理される。人間くらいの重量があれば胃袋送りにされることは無いから安心して進め」

「あ、いや、その……うん……?」

 鼻毛に包囲された状態で何を安心すればいいのだろう。シアン以外の三人は、何とも言えない表情のまま歩みを進める。

 念のためすべての扉を確認しながら降りていくこと七階層。階段の踊り場に第一村人――もとい、第一居住者を発見した。

「あれ? その服、騎士団の人? どうしたのこんな時間に。抜き打ち調査?」

 懐中電灯の明かりに照らし出されたのは、四十代前半と思しき長髪の男だった。だらしなく伸びた髭と着古した服だけ見ればホームレスそのものだが、彼からは汗臭さも汚らしさも感じられない。定期的にシャワーを浴びているようで、その辺の下層労働者よりもずっと清潔そうに見えた。

 寝袋に下半身を収めたまま、彼は上体を起こして四人の顔を見る。

「えっと……? はじめまして? だよね? もしかして会ったことある?」

 人懐こい笑みを向けてくるが、彼の目は気まずそうに宙を泳いでいる。シアンはポケットから住人のリストを取り出し、顔写真と彼の顔を見比べた。

「……テリー?」

「うん、そうだよ。僕はテリー。君は……?」

「はじめまして、テリー。俺は情報部のシアンだ。今日は迷子を探しに来た。それらしい人間を見なかったか?」

「迷子? それって何人?」

「五人だ。全員男」

「ああ、それなら会ったと思うよ。五人だったから、たぶん会った」

「水を分けてやったんだって?」

「うん。この前の配給でもらったやつを」

「一本だけ?」

「そうだよ。今日はたまたま上で寝ようかって気分だったから、一本しか持ってきてなかったんだ」

「行きと帰り、二回会ったのか?」

「いや、一回だ。僕がここに来た時、彼らはバルコニーまで行って、戻ってきたところだったみたいで。でも、夜だからね。雲と星以外何も見えないから、面白くなかったんじゃないかなぁ……」

「なにか話していたか?」

「思ってたのと違うって言ってた。あと、なんで人が住んでるんだって……うん。ちょっと申し訳ない感じだね。伝説の空中要塞で遭遇したのが、こんな格好のオジサンじゃあ……ねえ?」

「そうか。ありがとうテリー、起こしてしまってすまなかった」

「いや、いいんだ。それじゃ」

 テリーは人の目など気にせず、当たり前のように横になって寝てしまった。実にマイペースな男である。

 四人はテリーの横を通り抜け、一階まで下りた。

 念のため一旦外に出て、離発着場を見渡す。月明かりに照らされた平面にはガス気球のシルエットだけがくっきりと浮かびあがっている。中学生たちはいない。

「さて、下層階に行ったことは確かなようだが、問題はどこにいるかだな……」

 広げたマップ上にはおびただしい数の部屋が記されており、その入口には施錠されていることを示す赤い×印が書き込まれている。しかしその部屋に続く廊下は解放されているし、中学生たちは館内マップなど所持していない。テリーのようにある程度清潔で、会話が可能で、水も分けてくれる『優しい住人』に遭遇したせいで、中学生たちの警戒心はすっかり解けてしまっただろう。

 ならばその後はどうするか。

 竜族の亡霊が現れるようなドキドキ感はなくなっても、危険がないと判断したなら、親が手配したお迎えが来るまで冒険ごっこを継続するのではなかろうか。

 シアンは十数年にわたる『ガル坊の保護者経験』を活かし、中学生たちが向かいそうな場所を推理する。

「いきなり最下層は無いとして……まずはB1フロアの中央通路だな。突き当りの階段は確実に降りる。で、降りた先は……中央市福祉課職員の一時滞在スペースか。この部屋を使う居住者はいないから、鉢合わせの可能性はないな。ここに留まっていてくれればいいんだが……」

「なあ、シアン? さっきから気になってんだけどよ、あのテリーってやつはどういう人間なんだ? 悪い奴じゃなさそうだけど、なんか受け答えがおかしかったよな?」

 小声で尋ねるロドニーに、シアンは先ほど参照したリストを見せる。

「えっと……あ、そういうことか……」

 レインとチョコもリストに記載された注釈を見て納得した。


〈コミュニケーション能力に問題なし。ただし相貌失認であるため他人の顔の識別、表情の認識は不可能。後天的障害であるらしく、義務教育課程の通常学級修了記録は残されている。

 家族無し。市内で行き倒れているところを保護されるも、遠縁の親類は身柄の引き受けを拒否。中央市と本人とで話し合いを重ねた末、レガーラントブリッジに送られる。〉


 ロドニーたちは顔を見合わせた後、小声で尋ねた。

「もしかして、全員こんな感じか……?」

「自力で来たわけではない人もいるんですね?」

「なんてゆーか、もう、完全に隔離施設じゃないですか……」

 シアンは肩をすくめ、コード・グリーンが作成したリストの別のページを開く。

「こういうのもいるらしい。最初の一人が『大当たり』で良かったな」

「え? うわ……マジかよ……」

「そんな……」

「これは……」


〈食糞癖、飲尿癖あり。自分の排泄物に異常なまでの執着を見せる。

 ただしそれを他人に強要することなどはなく、基本的には友好的。

 知能指数やコミュニケーション能力に問題はないが、世間と自分との間にある嗜好や価値観の違いからレガーラントブリッジに移住。〉


 ほかのページにも、社会生活を送れなさそうな人々がこれでもかという勢いで掲載されていた。

 音楽性の違いを理由に小学校を中退した自称天才ミュージシャン、宇宙人の声が聞こえる男、前世の記憶に呑まれてときどき自分を見失う男、正しい文法にこだわりすぎるあまり会話ができない男、蛍光ピンクの服以外着られない男、自分は魔法少女だと信じ切っている男、別の世界から来た人間兵器と自称する男などなど。リストを眺めているだけで謎の笑いが込み上げてくる。個性が強いにも限度があろうというものだ。

 そして笑えば笑うほど、胸の奥底から、曰く言い難い不安が沸き起こってくる。

 こんな連中の真っただ中に突っ込んでいった中学生たちは、心の健康を保っていられるだろうか。

 下層階への階段室に向かいながら、チョコが言う。

「当初の予想以上の衛生状態ですね」

「ああ。特に精神衛生のほうがな」

「いきなりウンコ食べてる人に遭遇したら、俺、走って逃げますからね?」

「俺だって逃げるっつーの! 置いてくなよ!?」

「もちろんみんなで逃げましょう!」

「あのー、もしかして、そんな状態でも重度精神障害と認定されないということは、ここの人たちは心を病んでいるわけでなくて、ただの性癖でやってるんでしょうか?」

「レイン、それ……」

「核心だぁ~……」

「『ただの性癖』って、一番救いがありませんよね……?」

 視線を向けられたシアンは、硬い声で忠告する。

「中央市福祉課が半世紀かけて支援し続けて、ついに匙を投げたヤバい連中の巣窟だ。気を抜くなよ」

 凍り付く表情。

 階段を降りるたびに下がるテンション。

 高鳴る鼓動に一切の期待は含まれず、ただただ困惑が渦を巻く。

 さあ、第二村人はどこだ。

 真顔で降り立つB1フロア。するとそこにいたのは、ロドニーたちの予想を大きく外れるタイプの人間だった。

 B1フロア中央通路の中ほどに、足元にランタンを置き、何かの作業をしている老人がいる。

「こんばんは。ええと、通っても大丈夫か……?」

「ん? ああ! 騎士団の方ですか! やあやあどうもどうも、ようこそようこそ。いやぁ、今日はお客様の多い日ですねえ!」

 通路の柱をせっせと磨いていた老人は、一見するとただの清掃員だ。灰色の作業着とそれらしいロゴの入ったキャップ、傍らには清掃用具が入れられたワゴン。手にしている雑巾の使い込み具合も手慣れた動作も、清掃員と思って疑う者はいないだろう。

 だが忘れてはならない。ここはレガーラントブリッジの空中エリア、セロニアスベースの中なのだ。そんな職業の人間がいるはずはない。

「『清掃係のスティーヴ』だよな?」

「はい、そうです!」

「こんな時間まで仕事をしているのか? もうあと二時間もしたら日が昇ってしまうぞ?」

「いやあ、ははは。やり始めると止まらないたちでしてねぇ。この柱の汚れが、この間からどうにも気になっていまして……」

「根を詰めすぎるなよ。病気になっても、次の定期健診まで医者は来ないからな」

「いやいや、どうも、お気遣いありがとうございます。本当にねえ、みんなからもそう言われているんですけど、気になり始めると眠れなくて……。それはそうと、騎士団の方までどうなさったんです? さっきの子供たちのお迎えですか?」

「ああ、そうだ。どっちに行った?」

「廊下をまっすぐ奥に行ったきり、戻ってきていませんよ」

「じゃあ、やっぱり下に降りたんだな。ありがとうスティーヴ。もしほかの住人に何か聞かれたら、迷子の中学生とその捜索隊だと説明してもらえるか?」

「はい、わかりました」

「あと、中学生たちが別のルートから上がってきたら、離発着場で待機するように伝えてくれ。頼んだぞ」

 何度も何度も頷き、ぺこぺこと頭を下げる老人。一行は彼の前を通り過ぎ、廊下を進む

 説明されずとも分かる。彼は一つのことが気になり始めると、それ以外のことが何もできなくなってしまうタイプの人間だ。だから就業規則に従って働くことも、スケジュール通りに作業工程をこなすこともできない。会話がまともに成立する分、周囲に理解されづらい障害である。

 しばらく進んだところで、ロドニーは声をひそめて問う。

「なあ、シアン? あのじいちゃん、趣味でやってんだよな? 誰かにやらされてるとかじゃなくて……」

「ああ……いや、自発的な行動ではあるが、趣味ではないな。本人は『職務』と認識しているはずだ」

「え? 給料も出てないのに?」

「ああいう人間は一度インプットされた情報を書き換えることができない。だから最初に清掃員として就職したら、その職場をクビになってもアイデンティティは『清掃員』のままだ。あの清掃作業も、福祉課の職員が置いていった道具と作業着を見つけて、勝手に始めたことらしい」

「あー……なんか、色々と大変なんだな? ぱっと見、人の良いじいちゃんだけど……」

「実際、人柄そのものに問題はない。コード・グリーンのリストにも『非常に友好的』と書かれている。まあ、ここで生き甲斐もなく燻っていられるより、掃除でもしていてくれたほうが何百倍もましだが……。あ、その扉が下への階段だ。左側の」

「右は?」

「ロックされている。何の部屋かは分からない」

「へえ? 情報部でも把握してねえのか……?」

 シアンの指示に従って左側の扉を開けると、そこには階段というには急すぎる梯子のようなものがかけられていた。一応は手すりと背板があるので、区分としては『階段』なのだろうが――。

「うっひゃ~! 急だなぁ~! 先輩、よく普通に歩けますね。これ、前向いたまま降りるの怖くないですか……?」

「二足歩行なら余裕だろ? 狼のときだったらちょっと降りづらかったと思うけど……てゆーか、そもそもこれ、階段か? 手すりじゃなくてレールじゃねえか?」

「あ、そう言われてみれば、どことなく貨物用リフトっぽい……?」

「天井にもそれらしいワイヤーの跡がありますよね?」

 最後尾のシアンから何らかの解説が入ると期待した一同だが、シアンは疑問形で返してきた。

「築何年だと思う?」

「で・す・よ・ねー」

「古い要塞だもんなー」

「改装くらいされてますよねー」

 貨物用リフトのような階段を下りていくと、そこには十メートル四方の部屋があった。隅のほうには何の変哲もない会議机とパイプ椅子が置かれ、壁には何枚もの掲示物がある。近づいてみると、それは次回の食糧配給日、健康診断や知能テストの実施日のお知らせだった。

「なるほど。福祉課からの伝達事項はここに掲示されるのか……」

 マップを見ながら納得したシアンだが、室内を見渡して首をかしげた。

「……いや、どういうことだ……?」

「どうしたんだ?」

「扉がない」

「は?」

「見ろ」

 マップには確かに『仮眠室』と『便所』と『浴室』が記載されている。が、それらがあるはずの壁には何もない。壁紙やカーテンで隠されているわけでも、扉が埋められたわけでもなかった。石造りの壁はどっしりとそこに聳え立ち、それ以外の何かである可能性を完全に否定している。

 四人は壁に触れ、あちこち押したり叩いたり、石材の凹凸に爪をかけて引いてみたりした。けれども壁はびくともしない。隠し扉の類ではなさそうだ。

「えーと……マップが間違ってる……とか?」

「いや、そんなはずは……」

 シアンはナイフを取り出し、石材の隙間に差し込んでみた。漆喰のような目地材は驚くほど柔らかく、ナイフで簡単に突き刺すことができる。

「……脆すぎるな……?」

 シアンは何度か抜き差しを繰り返し、目地材に穴を開けた。そして隙間からナイフを抜き、ペンライトで照らす。すると石の壁の向こう側に、何か白いものが見えた。

「あれは……便器……かな? この壁の向こう側は便所になっているようだが……」

「え? マジか!?」

「本当ですか?」

「便器って……」

 ロドニーたちも順に隙間を覗き込み、確かに便器があることを確認した。マップは間違っていない。ここには間違いなく、便所に続く扉があったはずなのだ。

 ではなぜ、扉が消えて石の壁になってしまったのか。彼らはしばらく周囲を調べて回ったが、特にこれといった手掛かりは得られなかった。どうやらこの現象の答えを求めるには、人間の力では限界があるようだ。

「これはもしかすると……例の反則技を使う場面か?」

「『神の眼』のことか? だったら俺は無理だぜ。オオカミナオシは呼んでも来てくれねえヤツだからさ」

「アシュラと俺も、実際のところ相性はそれほど良くないからな。気軽に呼び出せるものでもないし……」

「俺とヤム・カァシュも似たようなもんですよ? 歌って盛り上げるくらいしかできませんし」

 シアン、ロドニー、チョコの視線を受け、レインが前に出る。

「お任せください! 私とコニラヤさんが何とかします! コニラヤさん!」

 名前を呼ばれ、月神コニラヤが姿を現す。

「はーい! 呼ばれて飛び出てパンパカパーン! インカの月神、コニラヤ・ヴィラコチャでぇ~す! 良い子のみんなー? こーんばーんわーっ! ヒャッホーウッ!」

 レインそっくりな顔貌。けれども身に着けているのは騎士団の制服ではなく闇色のローブと翡翠の宝冠、革紐を編んだサンダルである。神と呼ばれるだけあって、こんなテンションでも一応は後光が差している。

「話は聞いていたよ! 大丈夫、僕に任せて! 僕にかかれば、トイレの中を覗き見することくらい造作もないことさっ! 個室の中までずずずいぃ~っと、フルハイビジョン映像でお届けするよ!」

「お、おう? ここまで爽やかな便所盗撮宣言はなかなかねえよな……??」

「なんというか、ええと、妙な頼もしさが……??」

 首をかしげるロドニーとチョコ、冷たい目でノーコメントのシアン、コニラヤの珍発言に気付いていない天然レイン。そんな人間たちの前で、コニラヤは壁の向こうを透かし見る。

「んー……? いや、特に変わったことは無いけどなぁ……? 誰もいないし、荒らされてもいないし……」

 首をかしげるコニラヤにシアンが訊ねる。

「扉は? 壁の向こうにあるのか?」

「うん、あるね。内開きの扉があって、全開の状態。その隙間からじゃ見えない感じで、こう、向かって右側の壁にぴったり押し付けられて……っていうか、面倒だから直接見てくれる?」

 コニラヤはシアンの額に手をかざし、『神の眼』で見ている光景を直接脳へと送り込んだ。

「これは……なるほど。ドアストッパーに『中央市福祉課』と書かれているな……」

「湿気がこもらないように、福祉課の人が開けていったんじゃないかな? でも、なんで壁ができちゃったんだろうね?」

「『神の眼』でも原因は分からないか」

「ここを見た限りではね」

「ならば、中学生たちの現在地は? そっちは分かるよな?」

「もちろん。彼らは下の階の倉庫にいるよ。たぶんあっちのドアから隣の部屋に移動して、隅っこの梯子を下りたんじゃないかな? 何をしているのかは分からないけど、五人で一か所にしゃがみこんでるね」

「そうか。そのままじっとしていてくれればすれ違わずに済むだろうが……中学生の他には誰かいるか? ヤバい住人とは鉢合わせさせたくないんだが……」

「ええと、とりあえず人間らしき生命反応は……んっ!?」

「どうした?」

「壁ができた!?」

「え?」

「なにこれ!? 変なところにどんどん壁が……扉がみんな封鎖されてく!? って、嘘でしょ!? この要塞、起動してる! シアン! 今すぐ走って! 気球を置いたところまで振り向かずに! 帰りの移動手段を確保して!」

「!」

 コニラヤの話がどれだけ説明不足でも、非常事態が発生したことだけは伝わった。問い質す時間的猶予はないと判断し、シアンは装備品をその場に投げ出し、空身で駆け出した。

 三人はその荷物を拾い上げ、中身を確認しつつ、できるだけ負担が分散するように身に着けていく。

「コニラヤさん、要塞が起動しているって、どういうことなんです?」

「そのまんまだよ。セロニアスドラゴンが目を覚ましている。多分、原因は僕たち……というか、ロドニーだと思うけど……」

「えっ!? 俺!?」

「オオカミナオシは君の呼びかけに応じない。必要だと思えば向こうから勝手にやってくる。そういう性質の神でしょ?」

「おう。団体行動ができねえタイプの奴だぜ」

「でも、基本的に君のそばからは離れない。だから今も、この空中要塞についてきている」

「え? そうなのか? 俺には全然分かんねえけど……?」

「彼は自動修正プログラムだ。君が赴いた先に『異常』があれば、創造主から課された役割に従って修正作業を開始する。つまり、そういうことだよ」

「そういう……えぇ~と……? そういうことって、何だ? ここにどんな『異常』があるって?」

「あれ? 分からない? この要塞はバイオニックアーキテクトなんだよ? 本来くっつくはずのない有機物と無機物が融合しているんだから、これはかなり大きな『異常』に分類されていると思う。君だって、この状態を『正常』とは思わないよね?」

「あ! なるほど! そっか。そう言われてみれば普通じゃねえや……って、えっ!? それってヤバくないか!? それを修正するってことは、竜と要塞を分離するってことだろ!? 落っこちたりしねえのか!?」

「うぅ~ん……だからね? その可能性がゼロじゃないから、シアンを走らせたわけで……あぁ~、もう! オオカミナオシの奴、また『器』に思考制限かけてるな?! メチャクチャ知能指数下がってるじゃないか!」

「あれ? もしかして俺、バカになってる?」

「うん、かなりね?」

「そっか。ごめん」

「大丈夫、気にしないで。そういう仕様だと思って割り切ってるから。まあ、それはともかくさ。オオカミナオシの性質上、ここにいる人間を見殺しにすることは無いはずなんだ。だからこの変な石壁は、人間が安全な区画から出ないように隔壁として出現させてるんだと思う。一応、オオカミナオシなりに配慮してくれてるんだろうけど……」

「いやいやいや! 勝手にこんな壁作るくらいなら、事前予告してくれたほうがよっぽど配慮っぽい感じだっつーの!」

「だよねぇ? まったくさぁ、ホントに厄介なんだよね、あの自動修正プログラム。話は通じないし、時々挙動がおかしくなるし、僕みたいな『地上の神』からはアクセスできないし。強制介入して止めさせたいけど、この要塞の制御機構、複雑すぎてすぐには把握できそうにないしなぁ……。制御中枢ってどれだろう? せめて事前の警報くらいは流して欲しかっ……」

 コニラヤの声にかぶさるように、どこからともなくサイレンの音が響き渡った。

 オオカミナオシにはこちらの会話が聞こえているらしい。配慮の方向性を批判されてから流す緊急警報の無意味さに、神も人間もそろって膝から崩れ落ちる。

「マジでなんなんだあいつ!」

「これだから自動修正プログラムは!」

「意味ない! これ、超意味ない!」

「私いま、生まれてはじめて素でズッコケましたよ!?」

 震え始める空中要塞。何かが駆動する機械音に、人間三人は今にも泣きそうな顔になる。

「肝試しの中学生を保護しに来ただけなのに……オオカミナオシの奴……」

「俺、ウンコ食べる人とか魔法少女オジサンの話だけでいっぱいいっぱいなんですけど……」

「セロニアスドラゴンて、体長三百メートル……でしたっけ?」

「無理! そんなの戦えない! せめてマンモスさん……いや、ゾウさんサイズまで!」

「俺はクマさんサイズでも無理です! ヒグマじゃなくてツキノワグマのほうでも無理!」

「私、いざとなったらジャクソン湾の海底谷に逃げます。陸棲種族はエラ呼吸できませんからね……ふふ……私は生き残りますよ……」

「レインが裏切った!?」

「この海棲種族め!」

「なんとでも言ってください。私は難破船を住処にモモイロサンゴと手を振りあうハッピーライフを満喫します。そしてゆくゆくは『およげ! シーデビルくん』になりますよ!」

「マジかよ! お腹の中身はアンコかよ!」

「うらやましいなこの野郎!」

 混乱気味の三人が訳の分からない現実逃避をキメている間にも、チョコから抜け出たトウモロコシの神、ヤム・カァシュはコニラヤと共に要塞内の状況を確認している。

 現在の時刻は午前三時二十分。何の娯楽も無いこの場所では人々は夜明けとともに起き出し、日没とともに就寝する。居住者の大部分はB6~B8の通路や小部屋にいて、ほぼ全員が就寝中だった。おかげで石壁の内側に隔離されて安全が確保されているようだが、問題はテリーとスティーヴだ。彼らは石壁の外にいる。このまま切り離しが進めば、最悪の場合、空中に放り出されてしまうだろう。

「うっわぁ~……なにこのずさんなやり方。ツッコミ入れに行きたいけど、肝心のオオカミナオシの居場所がなぁ……」

「なんも見えねえべなぁ……?」

 オオカミナオシはほかの神と異なる特性を持つ。本人が自分から居場所を知らせようとしていないと、どこで何をしていても、何の気配も感知できないのだ。

「しょうがないなぁ。あんまり別れたくないけど、手分けして行くしかなさそうだね?」

「そんだら、オラとチョコはさっきのジッチャンさ助けに行くだ」

「じゃあ、シアンへの説明とテリーの回収もお願い」

「チョコ、しばらく体借りるだよ!」

「え、うわっ!?」

 体の制御権をヤム・カァシュに取られ、チョコの意識は心の内側に押し込められる。ヤム・カァシュはチョコの体で階段を駆け上がり、来た道を引き返していった。

 コニラヤはロドニーとレインの額に手をかざし、情報を脳に直接送り込む。

「わあああぁぁぁーっ! ちょ、待て待て待て! 俺の脳ミソの処理能力超える! もうちょっと分割して流し込めっての!」

「時間がないんだってば。状況はだいたい分かったでしょ? 行くよ」

「ああ、クッソ! これだから神って奴は! 人の都合も考えろっつーの!」

「これでもそれなりに考えてるんだけどなぁ……? ま、いいや。僕が先に行くから、ちゃんとついてきてね! はぐれないように! 見たことないチョウチョとかカナブンとかいても、ついて行っちゃ駄目だよ!?」

「チビッコじゃねえっつーの! 思考制限と幼児退行は別!」

「えっ!? そうなの!? だっていつも、お子様向けビスケットのオマケ集めたりしてるじゃない!?」

「あれは幼児退行じゃなくてそういう趣味! ステッカーコレクターだっつーの!」

「あ、『ただの性癖』ってやつ? う~ん、それは……救いようがないね……?」

「んだコラ喧嘩売ってんのかオォーイッ!」

 コニラヤの後頭部をバシバシ引っ叩きながらも、ロドニーは素直に後ろをついていく。

 隣室に移動し、部屋の隅の梯子へ。下層階へと続く梯子は正規の移動ルートというよりは天井裏や床下に入る点検口であるらしく、真っ直ぐ下には伸びていない。一階層に満たない中途半端な高さに小さな踊り場があり、そこには腰高窓のようなハーフサイズの扉が取り付けられている。

 シアンの置いていったマップを確認してみたが、スキップフロア構造が八層続いていること以外は何も分からない。各層に存在する扉について、詳細は真っ黒に塗りつぶされていた。

「黒塗りばっかで全っ然分かんねえな、このマップ……」

「先に言っておくけど、黒いところは僕の目でも何にも見えないし、封印の解除もできないよ。どこのカミサマの仕業かは分からないけど、とにかくものすごく強固な封印だね」

「マジかよ。本当に意味不明だな、この要塞……」

「だよね。まあ、戦闘用の設備なんて封印したままのほうがいいんだけどさ……」

 そんな話をしながら梯子を降りていくと、突然目の前に石の壁が立ちはだかった。行く手を塞がれ、コニラヤは首をかしげる。

「この壁、オオカミナオシの仕業じゃない……? てことは、竜の仕業なのかな? いや、でも、僕の存在を感知しているとなると……?」

 出現のタイミングといい、距離感といい、こちらの行動を察知しているとしか思えない。しかし、いかに強大な魔力を持つ竜族といえども、『普通の生命体』であることに変わりはないのだ。神の気配を察知し、先んじて石壁を出現させることなどできようはずもない。

「……まさか、ね……?」

 コニラヤは次から次へと現れる石壁をことごとく叩き壊していく。タコやイカの触手と同じく、彼の触手に詰まっているのは強靭な筋繊維である。骨格による制限がかからない分、どんな角度からも強烈な打撃を繰り出せる。この程度の障害物ではコニラヤ・ヴィラコチャの歩みを止めることはできない。

 だが、相手の狙いは足止めではないようだ。石壁の強度も出現速度も、一枚ごとに微妙なブレがある。コニラヤはこの壁の挙動から、相手がこちらの能力と正体を探っているような、なんとも不快な思惑を感じ取っていた。

 普段のフワフワした雰囲気をかき消して、コニラヤは淡々と告げる。

「もうちょっとで中学生たちのところにつくけど、一人は怪我をしていて歩けないみたいだ。ロドニー、君が背負って連れ帰るんだ」

「あとの四人は自力で歩けるのか?」

「一応ね。それと、彼らは普通の人間だから『神』を認識できない。誰もいない場所に向かって話しかけてたんじゃ変な人だと思われちゃうだろうし、僕は次の壁を破壊したら消えるよ。この先はちょっと大変かもしれないけど……ま、頑張ってね! 本調子じゃなくても、君ならなんとかなるから!」

「ん? それってどういう……」

 ロドニーの問いに答えることなく、コニラヤは最後の一枚を破壊した。そしてその瞬間、宣言通りフッと姿を消す。

「……頑張って……って、なんか嫌な予感がするな、おい……」

 ロドニーは頬を引きつらせながらも、ひとまず捜索に専念することにした。

 梯子を下りた先は見通しの良い倉庫だった。奥のほうに支援物資の箱が積み上げられているが、一辺が五十メートル以上ある広大な空間に対し、置かれている荷物の量は非常に少ない。人が隠れられるような場所は柱の陰か箱の後ろしかないだろう。

 ロドニーは懐中電灯で倉庫の暗がりを照らした。

「……ん? あれ? 誰もいねえ……? おーい、誰かいないかー? いるだろー? 俺は特務部隊のロドニー・ハドソンだ! 親父さんたちからの通報で、お前らを助けに来た! 隠れてないで、出てきてくれねえか!? おぉ~い?」

 しばらく声をかけ続けていると、隅のほうで何かが動いた気がした。

「おっ? そこか?」

 ロドニーがそちらに灯りを向けると、柱の陰から少年が顔をのぞかせた。

 中学二年生と聞いていたが、顔立ちも体つきも、人狼族の基準で見れば小学校の三、四年生くらいにしか見えない。ピンと立った耳と雪のように真っ白な肌、白に近い銀髪、青みのあるごく薄い灰色の瞳。そして何より、額に錬金合成された大きなサファイア。

 どこからどう見てもスノウエルフと呼ばれるエルフの山岳亜種、それも族長の息子だった。

「あー……ブールレニア男爵家の長男……だよな? ベルナルディーノ、だったか……?」

 王宮主催のパーティーで紹介されたことがある。パーティー会場では似たような年頃の少年を何人も紹介されたため、顔そのものは覚えていない。記憶にあるのは額のサファイアだ。スノウエルフの長、もしくはその後継者であることを表す青い魔宝石は一度錬金合成されると一生外すことはできず、それ自体が唯一無二の身分証明書として機能する。

 レインは小声で耳打ちする。

「あの、先輩。だからシアンさんは、『一般報道されない』って念押ししてたんでしょうか?」

「ああ、そうかもな。今あいつが『長男』として報道されたら、ちょっとまずいもんな……」

 ロドニーがそう答えたのは、ブールレニア家を含むいくつかの家に公文書偽造疑惑が浮上しているためだ。

 ブールレニア家は正妻に子供が出来ず、愛人が産んだ子供を『正妻の子』として届け出た疑惑がある。なぜそれが明るみに出たかといえば、結婚から二十年が経過した今年、あきらめることなく不妊治療を受け続けた正妻が男児を懐妊。女王に面会を求め、『長男とされている子供は私が産んだ子ではない』と真実を話してしまったからだ。

 ベイカーとグレナシンが貴族らの意見調整に奔走しているのも、この件に関する根回しのためである。実のところ、どこの家でも男児が産まれない場合には兄弟姉妹の子、愛人の子を実子として届け出てきた事実がある。正妻とその実家にとって赤の他人となる子を次期当主として認めるか否かは、長年にわたって議論されてきた問題なのだ。

 父親との血縁の濃さでは愛人の子のほうが上となるが、ほとんどの場合、愛人は爵位を持たない下級貴族か市民階級。対して兄弟姉妹が正式な婚姻の末に産んだ子供であれば、正妻側との血縁はなくとも、両親と育て親の全員が由緒正しい貴族の血筋ということになる。君主制国家の根幹をなす身分制度を守るためには後者を選択することが好ましいのだが、人の心は法律通りには動かない。どうしても、より愛着のある子供を跡取りにと考えてしまうのだ。

 物陰から顔をのぞかせた残る四人を見て、ロドニーは舌打ちした。

「全員、『疑惑の家』のガキどもか……」

 怯えた目をした少年たちは物陰から出てこようとしない。全員、少なくとも一度はロドニーと顔を合わせ、挨拶を交わしたことがある。それでも素直に出てこようとしないのだ。その様子を見てレインも首を横に振る。

「これ、ただの冒険ごっこじゃなさそうですね……」

「家出だよな、たぶん。……いや、絶対……」

 貴族の長男として育てられた彼らはそれ以外の生き方を知らない。このまま廃嫡されたら市民階級以下の無戸籍民になるかもしれないのだ。今後のことを思い悩み、同じ立場の仲間たちと一緒に逃げ出すことを選んだようだ。

「うわぁ……どうすっかな、これ……」

「学校での立場とか、使用人から向けられる目とか……もう、今の時点でも生活メチャクチャになってますよね? 父親の希望通り連れ帰って良いものでしょうか……?」

「想像以上のクソ案件だな、これ」

「ですね」

 大人たちの勝手な行為と判断に振り回されている少年たちだ。中途半端な嘘やごまかしは通じない。二人は少年たちに近づきながら、可能な限り正直に、ありのままの現状を話した。

「あー……まず、俺たちに与えられた任務内容から話そうか。俺たちは肝試しだか冒険ごっこだか、とにかく親に黙って遊びに行った中学生を連れ戻すようにしか言われていない。行方不明になった子供の名前も、捜索願を出した親の名前も知らされなかった。なんか変な任務だなーって思ってたんだけど、お前らの顔見て、なんとなくわかったよ。遊びに来たわけじゃなかったんだな?」

「保護者の方に連絡した際、『助けてパパ、レガーラントブリッジから帰れない』と言ったそうですが、本当ですか? 『帰れない』ではなく、『帰らない』だったのでは?」

 レインの問いにはスノウエルフの少年、ベルナルディーノが答えた。

「その……そうです。僕は父に、ちゃんと言いました。もう家には帰りませんって。それに、『助けて』なんて言ってません。僕は、助けに来なくていいと言ったんです……」

 一番背の低い彼が五人のリーダーなのか、ベルナルディーノは仲間たちの顔を見回してから、ロドニーの前に進み出て懇願した。

「お願いします。僕らを見つけなかったことにしてください。僕らは家に帰っても、義母から虐待されるだけなんです。僕らをあの地獄に戻さないでください」

 ベルナルディーノはロドニーとレインに見せつけるようにシャツの裾をたくし上げる。するとそこには、新しいものから古いものまで、大小さまざまな傷跡があった。

 戦闘訓練と実戦で生傷の絶えないロドニーとレインだが、彼の傷跡はそんなものとはわけが違う。痣の大きさも、処置のずさんさも、この傷がどのような経緯でつけられたものかを如実に物語っていた。

「……やったのは、義理の母親だけか?」

「はい、僕はそうです。みんなも似たような境遇ですが……レオンは、父親からも虐待されています」

 視線を向けられたファイアエルフの少年、レオン・ブレイザーは、表情のない顔で淡々と答える。

「僕は、祖父とされている人が自分の愛人に産ませた子供です。みんなが僕の父親だと思っている人は、本当は父親じゃなくて、腹違いの兄なんです。でも……半年前に祖父が他界してからは、もう……」

 レオンは左腕を骨折している様子だが、まともな治療は施されていない。骨を正しい位置に戻すこともなく、添え木も当てずに長期間放置されていたようだ。肘と手首の間が外側を向いたまま固まっている。

 ほかの少年たちも黙って腹や足、背中につけられた傷跡を見せる。鈍器で殴られたような打撲痕、剥がされた足の爪、背中に押し当てられた煙草の焦げ跡。

 すぐにでも治療してやりたいところだが、あいにくここでは魔法が使えない。ロドニーは少年たち一人一人の目を見て、嘘偽りない本心を述べる。

「必ず助ける。もう少しだけ、耐えていてくれ」

 レインも静かに頷く。

 体に残された傷痕だけでも家庭内暴力の証拠にはなるだろうが、告発したところで、彼らの置かれた境遇が変わるわけでもない。次期当主としての身分が剥奪された後も、機密保持を理由にそれぞれの領地に軟禁され続ける事が目に見えている。

 彼らを家に帰すわけにはいかない。けれども、この場所に置いて行くわけにもいかない。彼らの身の振り方は一度騎士団本部に保護したのち、正規の手順を踏んで決める必要がある。

 二人は頷きあい、彼らに向かって手を伸ばした。

「とりあえず、ここは安全とは言い難い。お前らの身柄は騎士団本部で預からせてもらうぞ」

「こちらへ」

 レインの手がベルナルディーノの肩に触れた、その時だった。


 レインが弾き飛ばされた。


 真下から放たれた《衝撃波》の直撃を受け、レインは倉庫の天井に叩き付けられる。

「ぐっ……!?」

「レイン!」

 ピンボールのように跳ね返ったレインの体は床にバウンドし、そのままポヨンポヨンと弾み続けている。咄嗟にジャクソン湾固有種、ジャクソンクサフグに化けてダメージを軽減したらしい。

「先輩! ここ、何かいますよ!」

「ああ! いや、つーかむしろお前がなんだ?! 弾みすぎ!! ちょっと止まれ!!」

 跳ね回る巨大クサフグを受け止めつつ、ロドニーは周囲に視線を走らせる。

 何もいない。それは間違いない。ここには自分たちと少年五人のほかには誰もいないのだ。

「い、今のって何が……」

「大丈夫、ですか……?」

「ここ、魔法、使えないはずじゃ……」

 ここには《封殺呪詛》が作用している。この少年たちが攻撃魔法を放った可能性は無い。それに、放たれた《衝撃波》から感じた魔力は神的存在のそれだった。


 ここには未知の『神』がいる。


 そう判断した二人の行動は早かった。

「レイン、魔法なしで防御力高い生き物ってなんだ?」

「カブトガニです!」

「じゃあそれで!」

「はい!」

 レインは巨大カブトガニに変化し少年たちに覆いかぶさる。その瞬間、その背に向かって《真空刃》が撃ち込まれた。

「くっ……!」

「耐えられるか?!」

「モチ! 余裕だね!」

 レインの声だが、喋っているのはコニラヤだ。微かに見える後光から、体の制御権が神に移ったことがわかる。

「そいつらは任せたぞ! おい! ここにいるなんか変なの! 聞いてんだろ糞野郎! とりあえず姿を見せろ卑怯者! それでも神か!?」

 ひとまず挑発してみたものの、この程度で姿を見せるとも思えない。ロドニーは次の手を考えてもいたのだが——。

「卑怯者とは聞き捨てならない。私のどこが卑怯だと?」

 その声は背後から聞こえた。ロドニーはためらいなく剣を抜き、抜いた勢いのままに斬りかかる。

 しかし、当たらない。背後にいた『それ』はヒョイと身を引き、攻撃を躱す。

「チッ……!!」

「野蛮だな」

 それはロドニーの攻撃をやすやすと躱し、軽い足取りでロドニーの周りを周回する。

「ふむ? 君は何だ? 神か? 人か? それとも闇堕ちか? 分からないな。君の気配は酷く揺らいでいる。なぜ君から闇の気配を感じる……?」

 観察するようにジロジロと視線を浴びせられ、ロドニーは確信する。

 この相手は神そのものではない。神的存在であることは間違いないのだが、コニラヤやツクヨミのように触れることなく人の心を読む技は持たないようだ。

「お前、何者だ?」

「それはこちらの質問だ。君はなんだ? 人間ではないのか?」

「はあっ!? 人間だっつーの! そっちこそ、なんでこれが避けられるんだ!? けっこうスピード乗ってるはずだぜ!?」

「さて、なぜだろうな?」

 攻撃を当てるどころか、正確な位置を把握することすら難しい。どうやらこの相手は幻覚魔法と同系の能力を有しているらしい。自分の目で見ているはずなのに、どうにも『それ』の顔や姿を認識できない。声を聞く限りでは男性のようだが、本当にそうかと考えると、自分の脳が正しく動作しているか確信が持てなかった。

「あー、クソ。面倒くさいタイプのアレか! おい、てめえ! レインを攻撃した理由は!?」

「決まっている。私の民を連れ去ろうとしたからだ」

「私の民? 何言ってんだてめえ」

「そのままの意味だが?」

「っ?!」

 敵の位置を見失った次の瞬間、ロドニーの体は宙に浮いていた。

「……のぉっ!!」

 食らったのは単純な足払いだ。ロドニーは素早く体勢を立て直し、反撃を試みる。だが、相手はもうそこにいない。五メートルほど離れたところに移動し、相変わらず観察者の目でロドニーを見ていた。

(ん? なんで追撃してこねえんだ? 戦闘力が低いのか、それとも……?)

 軍神や信徒の多い神ほど人間相手の戦闘を嫌う。殺さないよう力を抑えることが難しいからだ。この『敵』が戦闘力の不足を幻覚でカバーしているわけでないのなら、かなりの苦戦が予想されるが――。

(こいつはどっちだ? 次はどう来る……?)

 剣を構えて敵を見据える。相手はロドニーの視線を受け、眉をひそめた。

「話し合う気はないのか?」

「先に攻撃してきたのはてめえだろ?」

「あれはただの自己紹介だ」

「あ?」

「これから話すことを納得してもらうには、私の力を示しておく必要があった。それだけのことだ」

「つーことは、基本的には危害を加える気がないんだな……?」

「一応はな」

 ロドニーは剣をおろす。

 手放すことも鞘に収めることもしていないが、ひとまず話を聞く態度を表した形だ。

「俺は王立騎士団特務部隊所属、ロドニー・ハドソン。お前は?」

「ダンテ・セロニアス。アーキタイプドラゴンの七体目」

「アーキタイプ……?」

「私は竜という生物の開発途上に誕生した、竜とも神とも言い切れない存在だ。人間にとっては、上位種である竜族よりさらに一段上の存在ということになる。この話し合いが物別れに終わっても、無駄な攻撃は謹んでもらいたい。弱い者いじめはしたくないのでな」

「あー……喧嘩売ってんのか?」

「そのつもりはないが、ありのままを話すとそういうことになる」

「もう一回確認しとくけど、神そのものではないんだな?」

「そう言っている」

「カミサマではなくとも、一応は神的存在なんだろ? だったらカミサマたちと同じように、『役割』もあるよな?」

「ああ」

「それはなんだ?」

「この地を守護することだ」

「この地ってのは、具体的にどこまでだ? 空中エリア? 地上エリア? それとも、レガーラントブリッジの全域?」

「天の頂から地の底まで、レガーラントと呼ばれる範囲のすべてが私の守護対象となる」

「つーことは、てめえは土地の守り神ってやつだな? だったら邪魔しねえでくれよ。こっちはあのガキども連れ帰って、ひとまずこの任務を終わらせなくちゃならねえんだ」

「それは許可できない」

「どうして?」

「君たちの話は聞いていた。あの少年たちは、私がここで守る」

「いや、大丈夫だって! 元の家に帰したりしねえから! 一度騎士団のほうで保護して、それからどっか、ちゃんとした施設に……」

「そんなものがあるのか?」

「え?」

「君たちは真に彼らの身を案じている。その気持ちを疑うつもりはない。だが、それでも君たちに任せることはできない。なぜならば、君たちにそれだけの力はないからだ」

「……否定はしない。けどよ、だったらなんだ? てめえなら守れるってのか?」

「少なくとも、身の安全は保障できる。ここには彼らを虐げる者はいない。私はレガーラントの守護者として、彼らを含めたこの地のすべてを守る。私にはそれが可能だ」

「へぇ~、そうかよ。つーことはアレか? ここで一生、メシだけ与えて飼い殺す気か?」

「どういう意味だ?」

「そのまんまだよ。だってお前、そう言ってんだろ? ここは確かに安全かもしれねえけど、子供たちに必要なものが何にもねえ。あいつらにはこの先、すっげぇ長い人生があるんだ。いろんなところに行って、いろんな人間に出会って、いろんなことを体験して、好きなものも嫌いなものもちゃんと自覚して、バカな黒歴史も最高の思い出も、たくさん作って自分の一部にしていかなきゃなんねえんだよ。たしかに今のあいつらはクソみてえな大人にいいように振り回されちまってるけど、世の中にはクソじゃねえ大人もいっぱいいるんだ。奴らはまだそれを知らねえ。知らないまんま生きていくって、それ、幸せか? 不幸から目を背けてるだけで幸せになれんのか? 幸せをつかむから、不幸な過去なんてどうでもよくできるんじゃねえのか? 俺、なんか間違ったこと言ってるか? お前はその辺どう考えてんだ? あぁ?」

 一気にまくしたてるロドニーだが、心は驚くほど静かだった。

 ダンテはロドニーの目を見て、スッと目を細めた。

「そうだな。君の言うことには一理も二理もある。けれど、やはり私は許可できない。私に課された役割は『ここを守ること』だ」

「頭の堅ぇ神だな」

「神ではない。アーキタイプドラゴンだ。そう言っている」

「そうかよ」

 互いに一歩、足を引いた。それが合図だった。

 同時に繰り出される拳と剣。衝突の瞬間、ダンテの拳からは青白い光、ロドニーの剣からは闇が噴出する。


 反発した二つの力は爆発を引き起こした。


 ドンという衝撃が奔り、二人はその音が響き終わらぬうちに二撃目、三撃目を打ち合っている。目にもとまらぬ超速打撃戦。それはロドニーが『人間』としての能力限界を突破していることを示していた。

「く……やはり君は闇堕ちか!?」

「違えよ! 堕ちそうだけどギリ違え!」

 ロドニーは髪の半分が闇色に、両腕の肌は火のように赤くなっている。しかし、まだ瞳は本来の茶色のままだ。理性は失われていない。

(クソ! なんか分かんねえけどヤベエ! この闇、どこから流れ込んできてる!? 俺から出てる闇じゃねえぞ!?)

 体の中に流れ込んでくる負の感情。それはこの倉庫の床からにじみ出していた。

(床!? いや、下の階か! っつーことは、これは居住者の……っ!)

 ここに住み着いていた人々は石壁の内側に閉じ込められている。コニラヤによっておおよその事情を説明されたロドニーたちですら振動や物音に驚き、何が起こるのかと身構えたのだ。何も知らない人間たちが恐怖や不安を抱かないはずがなかった。

 ダンテと刃を交えながらも、ロドニーは必死に心を鎮めようとしていた。この『闇』は自分のものではない。他者から流れ込んでくる負の感情だけでは、直ちに堕ちることは無いのだが――。

(ヤベエ……こいつ、まだ本気出してねえ! やっぱり軍神並みの戦闘力……っ!)

 剣を振り下ろしたタイミングで側面から《衝撃波》を食らった。容易くへし折られた剣を投げ捨て、ロドニーは素手での戦闘を余儀なくされる。

 落ち着いて精神統一できる状況ではないし、半マガツヒ化したこの姿で『俺は人間だ』と言っても説得力がなさすぎる。打ち込まれる攻撃を受け流し、打ち返すたび、闘争本能がマガツヒの攻撃性と共鳴しているのも事実だ。

 ダンテはこちらを『闇堕ち』と認識している。攻撃をやめてくれそうな気配は微塵も無い。誤解を解くには、ひとまずこの戦いに勝利するしかなさそうだが――。

(このままじゃ、『闇』がどんどん強く……早く……早く決着をつけねえと……っ!)


 そうだ、早く殺せ。


 脳内に響くマガツヒの声に、ロドニーは必死にあらがう。違う、そうじゃない。殺す必要は無いのだ。意見は割れているが、どちらも少年たちの保護を目的としている。今は力ずくで奪取することになっても、時間をかけて話し合えば、必ず分かり合える相手なのだ。

「なあ、頼むよ! ここは引いてくれねえか!?」

「できぬ相談だ! 君が闇堕ちと分かった今は、なおのこと!」

「だから違えっつーの!」

 同時に床を蹴り、空中で交錯する。

 ダンテがまっすぐ突き込んだ光の拳はロドニーのガードをはねのけ、深く鳩尾をえぐった。


 青白い光が炸裂し、ロドニーの心臓を貫く。


 そう、確かに当たったはずなのだ。しかし、無様に床に叩きつけられたのはダンテのほうだった。

「な……なにが……」

 体を起こそうとしたダンテだったが、それは不可能である。

「ぐっ! がはっ……!?」

 伏したダンテの背に強烈なストンピングを食らわせながら、ロドニーは叫ぶ。

「やめろマガツヒ! もう攻撃すんじゃねえええぇぇぇーっ!」

 胸に届いたダンテの光。その光が貫いた心臓はマガツヒ化した部分ではなく、ロドニー本来の肉体なのだ。神の光で人間の体を貫いたところで何の変化も起こらない。なぜマガツヒが心臓と脳を『闇』に取り込まずに残したか、その理由に気付いてロドニーは戦慄した。

「クソ……マジかよ! やめろ! やめてくれよ! マガツヒ! おい! やめろおおおぉぉぉーっ!」

 マガツヒはあえて頭と胴を『人間』のまま残していた。こうしておけば浄化の光で致命傷を負うことは無く、最高のタイミングでカウンターを仕掛けられるからだ。

 マガツヒはストンピングをやめ、ダンテの脇腹を蹴って上を向かせた。わざわざ体位を変えさせるのだから、何か仕掛けようとしていることは違いない。

「ダンテ! お願いだ! 今すぐ逃げてくれ! 俺は単なる『闇堕ち』じゃねえ! お前ひとりじゃ、マガツヒ化した俺は倒せねえんだよ!」

「貴様、何を言っ……うっ!? ぎ……あああぁぁぁーっ!?」

「な……そんな……おい。嘘……だろ?」

 大きく振りかぶって、深々と突き立てられた右腕。それはダンテの腹部にめり込んでいた。

「マジ……かよ……?」

 手足の制御権は奪われているのに、皮膚感覚だけは残されていた。

 血液の温かさと、脈打つ臓器の柔らかな感触。それらの感覚は非常に鮮明な神経刺激として脳へと届けられ、ロドニーを絶望の淵へと叩き落す。マガツヒが指を一本ずつ曲げ伸ばすたび、ダンテは痛みに身じろぎ悲鳴を上げる。そのさまを、ロドニーは誰より近くで見せつけられるのだ。

 自分の手が握りつぶそうとしているものが誰かの内臓だなんて、信じたくはなかった。けれども五感のすべてが告げる。


 これは嘘ではない。幻でもない。何もかもが現実だ。


 自分の手足が勝手に動き、止めることができない。こんな悪夢があるだろうか。

「やめろ……やめてくれ……やめてくれマガツヒ……頼むから……」

 震える声を絞り出すロドニーに、マガツヒが囁く。


 早く決着をつけたいんだろう?


 ゆっくりと握られていく指。その手の中にある物は肝臓だろうか、膵臓だろうか、それとも別の臓器だろうか。ねじ込まれた手首から先に、全方位から熱と拍動を感じている。

 頭の中が真っ白になった。


 誰でもいいから助けてくれ。このバケモノを止めてくれ。


 声にならない悲鳴を上げるロドニーの心に、この瞬間、何かがするりと入り込んだ。

(ふむ……そうか、理解した。なるほど、君はそういう存在か)

「……え?」

 脳に直接送り込まれた声。それは自分が攻撃を加えているダンテのものだった。

「お、おい、おまえ、なんで……いったいどういう……!?」

(アーキタイプドラゴンには制限が多くてな。互いの血液を接触させねば、記憶を読むことも力を与えることもできない。だから君に触れさせた。君はもう逃げられない)

「逃げるって、なんだよ。なにが……?」

(君には分かるまい。さあ、マガツヒとやら、私を殺すがいい。闇堕ちごときにアーキタイプドラゴンが殺せるものならな)

「おい、何言ってんだ!? だからこいつはその辺の『闇堕ち』とは違うんだっつーの! マガツヒを挑発するんじゃねえ!」

(君は黙っていたまえ。マガツヒよ、人間を盾に使うとは、いかにも小物の発想だ。たかだか寄生虫の分際で、竜の始祖たる私に何ができると考えた? 己の愚かさと浅はかさを、せいぜい地獄で悔いるがいい)

 自分の中で、マガツヒが激昂するのが分かった。


 握りつぶされる臓器。噴き出す血液。動かなくなるダンテの体。


 自分の手がそれを行うさまを、ロドニーはなす術も無く見つめていた。

「……だから……やめろって、言ったじゃねえか……」

 ゆっくり引き抜かれていく血まみれの右手。そこに握られていたのは、心臓でも肝臓でもない。それはこれまでに一度も見たことがない、ひどく奇妙な形をした臓器で――。

「……え? これ、なんだ……?」

 どこかで見たことがある。いや、間違いなくこれを知っている。ロドニーはこの空中要塞に着いてからこれと同じものを何度も手に握り、動かないことを確認して回っていた。

 けれども、それが人の形をした生き物から出てくるはずはない。あまりにも想定外の物体を前に、ロドニーは思考停止した。

「……あっ!? いや、まさかっ!?」

 しばしぽかんとしていたロドニーだったが、やがて『それ』の名前を思い出し、なにもかもを理解した。


 これはドアノブだ。そしてここは、バイオニックアーキテクトの内部である。


「ってことは、おい、嘘だろ!? それじゃお前……っ!?」

「私の姿をうまく認識できなかったのだろう? 当然だ。私はこの要塞そのものなのだからな。たった一切れの肉片を見て、個人として認識することなどできまい」

「うわ、増えてる!?」

 ドアノブを握るロドニーの周りに、正体不明の人影が数十体出現している。そのすべてがダンテであることは気配で分かるのだが、やはり正確な姿は視認できない。原因は本人の言うとおり、これが『一切れの肉片』であるからだ。幻覚能力で感覚を狂わされているわけではなく、この『肉片』にはもともと顔などの詳細情報が存在しなかったのである。

 ロドニーを包囲し、ジリジリと距離を詰めてくるダンテ。認識できない曖昧な人影が、全員同時に声を発する。

「私だけが魔法を使える理由も、君に説明するべきか?」

「必要ねえよ! そりゃそうだよな! 空調と自己修復機能が生きてたんだから、自己防衛機能だって……!」

「その通り。我々はこの要塞の防衛端末。《封殺呪詛》に制限される人間とは身体構造が異なる。さあ、マガツヒとやら。少し遊んでやろう」

 全方位から浴びせられる《衝撃波》と《真空刃》の波状攻撃。ロドニーと同じ風属性攻撃でありながら、一撃ごとの重さ、鋭さは比べ物にならない。圧倒的な攻撃力を前に、ロドニーはただただ感心していた。

「うっわ……強えっ! これが竜族の力か! ……って、おい! クソ! マガツヒ……てめえ今さら……っ!」

 保身のためにロドニーの意思を残していたマガツヒだが、今のままでは勝てないと気付いたのだろう。ロドニーの意識を呑み込み、完全体へと変貌を遂げる。

 鮮血よりも赤い肌、闇より暗い漆黒の髪。巨大化した身体に墨色の鎧を纏い、マガツヒは吼える。

「アーキタイプドラゴンだと!? 笑わせるな! 試作品ごときが、この俺を殺せるものかあああぁぁぁーっ!」

 声がそのまま空気の壁となり、ダンテの《衝撃波》を防いだ。

 マガツヒは『言霊』を戦闘に利用する。「殺す」と言えば武器になり、「効かぬ」と言えば防壁と化すのだ。これはマガツヒの特殊性を示す最も分かりやすい特徴である。世界の自動修正プログラム・オオカミナオシが闇に呑まれて生まれた存在だからこそ、自らの『言霊』のみで自在に力を行使できるのだ。

 だが、その特殊性はダンテには通じない。ダンテはもうそれを知っている。マガツヒに端末の一つをあえて破壊させ、互いの血が触れあっている間に必要なデータを抜き取ったのだ。ダンテは何もかも理解し、計算しつくしたうえでマガツヒに勝てると判断した。

 マガツヒが己のミスに気付くまで、それほど時間はかからなかった。


 血肉の網に絡めとられ、動きを封じられる。


「うぬっ!? こ、これは……っ!?」

 ダンテが狙っていたのはマガツヒではない。マガツヒの足元に転がる自身の『死体』だ。《衝撃波》と《真空刃》によって切り刻まれた端末の断片は、マガツヒの構築した言霊の防壁によって周囲に飛散している。ダンテはその断片に『自己修復』を作用させたのだ。

 中心に立つマガツヒを巻き込み、断片は元の形に戻ろうと収束する。竜族の強靭な筋繊維は、今はマガツヒの行動を制限する拘束具として作用していた。

 ダンテはこの隙に呪文を読み上げ、風属性最強魔法、《無名数(ベールナンバー)》を放つ。

 この魔法の効果は少々特殊で、風属性でありながら、風以外の全属性の効果も併せ持つと解釈されている。魔法学者によっても意見が割れているのだが、風属性の魔法を習得した者でないと扱うことができないため暫定的に『風属性魔法』に分類されているという、実に曖昧な魔法である。

 そんな《無名数》の効果を一言で説明するならば、『空気の流れを止める魔法』ということになるだろうか。有効範囲内にあるすべての物質は少しも動くことができず、生物は呼吸を止められ、やがて酸欠でブラックアウトする。止める力の強さは『ちょっと息苦しく感じるレベル』から『0.1mmも動けない』まで様々だが、ダンテが使用したのは間違いなく世界最強レベルの《無名数》だった。

 マガツヒは周囲の空気ごと動きを止められ、言霊を使うこともできずに目だけでダンテを睨む。ダンテの端末たちは動けないマガツヒの周囲をスタスタと周回し、その様子を観察者の目でしげしげと眺めた。

「ふむ……無酸素状態でもブラックアウトしないとは……? 身体構造的には人間を強化しただけに見えるが……しかし、君の耐久時間を試すには日が悪いな。保護すると宣言した以上、私はあの子供たちに適切な食事と睡眠を与えてやらねばならない。決着を急がせてもらおう」

 ダンテが右手を掲げると、その手に光の剣が現れた。実体を伴わないその武器は、ベイカーの『魔剣』と瓜二つだった。

 ロドニーは心の声でこう叫んだ。

(ちょっと待て! それ『魔剣』だろ!? 『魔剣』は斬った相手の魂を喰っちまうんだよな!? だったらそれで吸収されんのは俺のほうだ! マガツヒに魂はねえ!)

 一度血を交わした相手の心の声は届くらしい。ダンテはピタリと手を止め、首をかしげた。

「確かにこれは『魔剣』だが、そのような性質は持ち合わせていない」

(え?)

「我が力、魔剣セロニアスはその名が示す通り祝福(セロン)の剣。闇を斬れば浄化し、人を斬れば『生きる力』を与える。魂を奪うとは穏やかでないが、君が知る魔剣は、名を何という?」

(は? 名前? 色なしのノーマル魔剣にも名前あんのかよ?)

「無色の魔剣は使い手の名を持つ。剣の能力はその名の言霊によって決まる」

(えーと……隊長の名前は『サイト・ベイカー』だけど……?)

「サイト? 古い言葉だな。福音、あるいは聖人の語源となった言葉だが……魂を吸収……? まさか、斬った相手を強制的に列聖しているのか……?」

(なんだよ? 見た目おんなじでも、人によって中身が違うのか?)

「その問いに対する回答は保留する。ともかく今は君を斬らせてもらおう。君に生きる力を与えるが、生き残れるかどうかは君次第だ。君に『逃げる』という選択肢は存在しない。絶対に負けるな」

(え、ちょ、ま、待て! 負けるなとか急に言われても……わあああぁぁぁーっ!?)

 心臓に突き立てられる魔剣。それが『刺さった』と自覚した瞬間、ロドニーは意識を失う。そしてロドニーのブラックアウトと同時にマガツヒも活動を停止。ダンテが《無名数(ベールナンバー)》を解除すると、ドサリとその場に倒れ込んだ。

「……マガツヒの正体に、君が気付いていれば良いのだがな……」

 呟き声をその場に残し、ダンテは姿を消した。


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