3・3 恋人さんかく
「嬉しいな、社君が誘ってくれるなんて」
米家さんは俺を見つめた。赤く頬を染めている。
俺は、女子ラクロス部でのマネージャー業が終わったあと、米家さんを喫茶店に誘っていた。昨日のことで話があると。
沈黙が始まる。
米家さんは紅茶の水面をスプーンの背でなぞり、俺はオレンジジュースをストローでゆっくりかき混ぜ続ける。
「これ、だよね」
米家さんはスプーンを水面に沈め、荷物から誓約書をだした。
テーブルに置かれたそれには『米家初夏』と書かれている。
「先に書いちゃったけど、提出するときは一緒だか――」
「――少し、話をしませんか?」
俺が提案すると、米家さんはわずかに驚いた。けどすぐに微笑んだ彼女は、もちろん、と返してくる。
「米家さんにとって、恋色エクリチュールって、どういう意味がありますか?」
「難しい質問だね、とっても」
俺は笑顔を作ってみた。ぎこちなかったのか、彼女はくすりと笑う。
「最初は嫌だなって思ってたけど、今は違うかな」
「どうして違うんですか?」
「ん、それは秘密だよ」
米家さんは歯を隠しながら笑う。
俺はオレンジジュースを飲んだ。「でも俺はそう思えなくて」と続ける。
「誓約書に記名して、生徒会に届けて、そのあとの手順も決められている。そんなことをしたら校則についていけない生徒がでてくると思うんです」
「そっか」
米家さんは声を弾ませた。「社君の言いたいことは分かるよ」
「かわいそうってことだよね。校則どおりにできない生徒が」
「……そう、ですね」
「でも、ある程度は仕方ないんじゃないかな? どんなことにも勝ち負けがある。勉強だってスポーツだって容姿だって」
俺は返事の代わりにジュースを口にした。
恋愛に勝ち負けがあるのですか、という言葉を呑み込むために。
「あの校則は、負けそうな人を助けてくれると思う。恋愛の仕方が分からない人に、上手なやりかたを教えてくれるから。やりすぎかもしれないけど退学っていうのもあるから真剣になっちゃうし。それっていいことじゃない?」
俺は否定しなかった。
米家さんの言ったことは事実だと思ったから。エクリチュールのおかげで恋愛をする生徒は多いはずだ。それが花園学園の売りになっているくらいなんだから。
「食事にはマナーがある。料理だって作りかたがある。スポーツにはルールがある。社会には法律がある。だったら恋愛にだって規則があるかもしれないでしょ?」
「じゃあ、自然な気持ちは、どうなるんですか」
「もちろん気持ちが一番大事だよ。ただ自然に任せるよりも、マニュアルがあったほうが効率がいいじゃない。失敗だって減るし」
「そう、ですね……」
エクリチュールは役に立つ。恋愛を助けてくれるから。
いろんなものにルールやマニュアルがあるのと一緒。恋愛で負けてしまう人を助けることだってできる。それが米家さんにとっての意味。
「じゃ、私から聞いてもいい?」
米家さんの声は喜びに満ちていた。俺は、もちろん、と答える。
「社君は校則がなくても平気なの? 恋愛の仕方を教えられなくて大丈夫だった?」
「……大丈夫、だと思っています」
「本当?」
俺は返事に詰まると、黙ってオレンジジュースを飲み干した。
「誓約書がないと相手にされないかもよ? 恋に落ちる義務があるから頑張ってるわけだし」
「……その可能性は高いと思います」
「もー、冗談だって」
すると米家さんは笑いだした。
「社君は優しいからもてるじゃない。それに、もうすぐ記名するんだから……」
彼女は恥ずかしそうに紅茶を口にした。
分かっている、俺だって。こんな禅問答を続けたって意味がないことくらい。花園学園の恋色エクリチュールは、きっとこれからも続いていく。米家さんのように求める人がいるかぎり。彼女が求めているのは記名ずみの誓約書だ。暇つぶしの議論じゃない。
「変なこと聞いてすみません」
「ううん」
けれど俺は伝えたかったんだ。
こんな校則がなければ、もっといい出会いだったかもしれないって。例外措置を取り消されるんじゃないかと怯えたり、恋に落ちるという義務を果たそうと躍起になったりしなかったかもしれないんだ。俺を想ってくれるその気持ちだって、きっと。
「あともう1つだけ、いいですか?」
「もちろん。なんでも」
俺は空になったグラスを見つめた。笑顔の米家さんが映り込んでいる。
「どうして嫌がらせの自作自演なんかしたんですか」
グラスの彼女は、両目を見開いた。
□■
――大丈夫だよね。
部活動を終えた紅莉栖光は、独り、夕焼けを見上げていた。
品近社のほうから、米家初夏を喫茶店に誘っている。すでに初夏は告白したのかもしれない。声をかけられたとき、あんなに喜んでいたんだから。
――しなちは、だって、しなちだし。
お昼休みに気持ちを伝えた。米家初夏のことを記名するようにって。
品近社だって彼女のことが好きなはずだ。大丈夫。2人は幸せになれる。私さえ諦めれば。
――はず、だよね。
それでも紅莉栖光の疑念は晴れなかった。
品近社が浮かない顔をしていたから。あれが告白に応えようという顔なのか。紅莉栖光は胸騒ぎを抱えたまま下校するしかなかった。




