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真剣勝負!

空白2

作者: sadakun_d

WBC世界バンタム級タイトルマッチは満員の会場だった。


日本タイトルを返上しての覚悟の挑戦。半年前日本バンタムチャンピオンになり波に乗る若武者であった。


「よし落ち着いて入場しよう。世界タイトルマッチなんざ滅多に来れるもんじゃあねぇ。楽しく入場してやれ。いいなっ落ち着き払えや」

セコンドのジム会長が自ら育てたボクサーに声をかけた。控えにいた挑戦者はコックリと頷く。

「ああ楽しみたい。WBC世界タイトル戦なんて俺にとってもテレビ中継でしかみたことのない世界だ」


会場は(まばゆ)いばかりのカクテル光線が交差。白いリングを綺麗に描き出していた。


まもなくゴング。野獣(けもの)野獣(けもの)獰猛(どうもう)な殴り合いが始まる。


挑戦者は色鮮やかなガウンを会長さんから羽織らせてもらう。

「このガウンはお前の支援者さんが(あつら)えてくれた」


控え室には挑戦者の母親のお守りが置かれていた。

「お母さんのお守り。身につけて戦いたいが」

挑戦者はお守りをグローブで不器用に握りしめた。が御守りは小さな袋だからうまくはつかめない。

「お母さん(試合に)言って来るよ。大丈夫さっ俺は強いんだ。チャンピオンベルトを奪取して戻ってくる。お母さん俺は約束したよ」

母親のお守りに頭までつけて祈った。


セコンドの会長もトレーナーも黙って後ろに立っていた。


時間がきた。セコンド役の会長とトレーナーが、


「よし行こう」


選手控え室から会場への扉を開く。


ワアッ〜ワアと会場の観客の大歓声が鳴り響いた。静寂な控えから野獣の住む世界に引き入れられていく。


リングまでの花道を俺はガウンをスッポリ被り一歩一歩進む。

「頑張ってやぁ。チャンピオン奪取してやあ。日本にバンタムの栄光あれ」

観客の声援は幾つかの山びこになって挑戦者の耳に届いた。


「ああっ任せてくれ。俺はこの試合(マッチ)に勝つためにやってきた。だからハードなトレーニングに耐えたんだ。必ずやチャンピオンになってやる。俺を育ててくれたジムの会長さんのためにもな」


リングに上がり両者の紹介アナウンス。マイクをリングアナが持った。


チャンピオンはベネズエラの伝説のボクサー。

「チャンピオンは俺が中学生の時からずっと防衛してやがる。強い弱いの前に負けないチャンピオンだ」


両者の紹介アナウンスが終わる。セコンドがリングから外に出る。


リング上には野獣と野獣だけが残り今や早しとゴングを待った。


「よしやるぜ。お母さん見ていてくれ」


試合開始ゴングは鳴った。


カァーン!


ボクシング会場に詰め掛けた観客はやれ行けっそれ行けっと大声援を送る。

「ラッシュでいけよ。世界だからってキヨッたりすんなっ。日本にバンタムの栄光を。バンタムだけは日本が(から)ではいけない」


ボクシングの興奮のるつぼ世界タイトルマッチが始まった。今夜の試合はボクシングファンに人気の中軽量級世界WBCバンタム級タイトルマッチ。栄光のバンタムとも言われ最もランカーが多いクラスである。


WBCバンタムのチャンピオンはボクシング先進国ベネズエラだった。中南米諸国ではボクシングは国技とさえ言われるくらい盛ん。中南米の選手層の厚い中から這い上がった本物のチャンピオンだった。


チャンピオンはゴングと共に体をロープに低く沈めた。

「こんな2流のマッチに長く付き合いはしない。俺のペース俺の試合(マッチ)で決めてやる」

万全なる試合のシナリオを考えてグローブを交えた。


チャンピオン防御を固め挑戦者の出方を見た。

「このジャパンはまったく(世界戦の)データがない。繰り返し見た録画は日本だけのマッチばかり。トロトロ打ち合うお嬢さまみたいなマッチばかりだった。本当に強いかどうかわかりゃあしない」

チャンピオンは危険な道は敢えて踏み切りはせず様子見に徹する。


一方挑戦者は気合い充分に猛アタックをかけていた。当たって砕けちまぇっジャブやクロスを数々出した。だがチャンピオンにはひとつとして当たらない。カスリさえしなかった。

「なんて身のこなしの早い奴なんだ。見える姿は見えるがグローブが捉えない。さすが世界だぜ」


これが第一印象である。挑戦者には空振りをするたびに焦る気持ちが涌いてしまう。


ゴングが鳴り数秒が経過した。

「チャンピオンは強い。空振りばかりしてやがらあ。サンドバッグとダンスしているようだ。やけにレベルに差があるじゃあないか。チャンピオンに適当に遊んでもらって何ラウンド持つかどうか程度だぜ。だから高々日本チャンピオンになったぐらいでいきなり世界なんざ挑戦することに無理があんだ。あっいかんパンチまともにもらっちまった」

熱狂するボクシングファンの中に冷静に戦況を見つめるボクシングファンもいた。


ガッツーン


チャンピオンが狙いすませた一撃を顔面に。クリーンヒットしてしまう。会場の観衆はオオッ〜とどよめいた。

「あかんなっ格の違いは否めない」

1ラウンドは運よくチャンピオンが様子見の姿勢をみせたからなんとか試合にはなった感じである。


挑戦者の日本ボクサーは世界戦初挑戦であった。日本チャンピオン王座に春先に就き防衛をせずそのまま王座を返上をしてしまう。王座返上は世界ランキングが手に入りそのままチャンピオンから試合興行のオファーをもらえるとわかったからだった。世界戦は半年後だと決まっていた。

「俺にはチンタラチンタラと日本で戦う暇なんざねぇんだ」


日本チャンピオンになった祝賀会で新チャンピオンはマイク片手に本心をぶちまけた。

「本日祝賀会にお越しになられました皆様ようこそおいでくださいました。私の所属をするジムの関係の皆様ようこそ来ていただけました。また私を支えていただいたファンの皆様ありがとうございました」

長い挨拶となるようで途中グラスにつがれたオレンジジュースをゴクリと飲む。顔には試合で殴られた痛々しいアザが残っていた。

「私はジムの皆様のお陰で運よく日本ランキングをあげて行くことができました」


関係者からは、

「ランキングアップはお前の努力の賜物(たまもの)だぞ。照れるな照れるな」

盛んに声が飛んでその場は和やかなものとなり新日本チャンピオンも笑って答えた。

「ランキングは日本8位まであげていただきました。そして王座挑戦者となることができました。まったくの素人から2年なる短期。ただガムシャラにサンドバッグを叩きロードワークをして参りました。その結果でございます。そして本日嬉しいことに喉から手が出る程欲しかった日本タイトルを奪取することができました。大変光栄だと思っています」

会場にいる祝賀会の参加者は拍手をする。

「いいぞいいぞ日本一だぜ。待ってました日本チャンピオン。強い強いぞ。お前は素質が違う頑張った。よく頑張ったからなんだぞ」

声援もあっちこっちから飛んだ。


マイクを持ち挨拶をするその新・日本チャンピオンの横にジムの会長が座る。ジッと感慨深い面持ちで愛弟子の話を聞いていた。ジムの会長にしては3人目の日本チャンピオン輩出。大変な名誉を愛弟子からいただいた勲章になる。

「前の日本チャンピオン2人は世界タイトルに挑戦をして失敗をしてしまった」

ジム会長は当時まだまだ若いこともあり焦りから世界をよく知らぬまま挑戦させてしまう。

「今度こそ3度目の正直だ。世界は失敗なんぞさせるものか。じっくりと育てて確実に世界をつかんでやる。日本タイトルは2〜3防衛をしてから返上。それから世界へ挑戦だ」


会長の腹は約1年のインターバルから世界挑戦であった。


前の2人日本チャンピオンは会長の焦る気持ちを恩義と取り間違え練習や経験不足のままタイトルを戦うことに同意してしまう。結果として返り血を浴びてしまったのだった。


敗戦は選手の力不足だとは思うがジムとしては対戦相手の研究を怠り充分な対策を練らなかったのではないかとマスコミに叩かれた。


会長は一人責任を追い悩み苦しんだ。


「私は今ここに宣言をしたいと思います」

会長はクルッと愛弟子の新・日本チャンピオンを見た。

「なんだって。何を宣言する気なんだ。私は何も聞いてはいない。おいおい悪いことをペラペラしゃべってくれるなよ頼むぜ(私の嫌いなマスコミもいるからな)」


新・日本チャンピオンは会長の不安な顔を解せず続ける。

「私は宣言致します。日本の王座チャンピオンはこの場で返上したいと思います」

会長は血の気がサァーと引く。まったくもって破天荒な宣言である。聞いた会長は頭がボォーとした。何も考えがまとまらず目の前のコーヒーカップをヒョイと持ち上げた。決して飲むつもりはなかった。


会場はざわめいた。

「日本チャンピオン返上をするって言いますと。まだ奪取したばかりのベルトに名前が刻まれていないぐらいの話だよ。返上すればどうなるか」

観客はボクシングに精通する者ばかり。チャンピオンベルト返上は意味がすぐわかる。

「早い早過ぎだ。せめて2回は防衛してくれ。お前には経験を詰む時間が必要なんだ」

会場からは王座返上宣言に野次が飛ぶ。

「やめよ無謀なこったぜ。お前はたまたま日本8位からチャンピオンになれただけのシンデレラボーイに過ぎない。今日倒された旧チャンピオンだってリターンマッチされたらお前なんざ負けちまうぜ。なあ(ぶん)をしっかりとワキマエろよ。おい会長はどうなんだ。会長にマイク持たせろよ。会長のんびりコーヒーなんか飲むな。ったくチャンピオンになったからっと逆上せ上がりゃあがって。だから最近の日本ボクシングはダメなんだ」


祝賀会の喜びムードお祝いの会場が一変してしまった。


新・日本チャンピオンはざわめいた会場を無視するかのようにマイクを握って高らかに宣言をする。


「私は世界を視野に入れて今度は(こぶし)を交えていきたいと考えています」

会場はざわめきから怒号に変わる。先程行われた日本チャンピオンの試合の続きのようである。


会長は血の気が引いて目の前が暗闇になってしまっていた。一瞬今春に幼稚園に入園する娘の孫が頭に浮かび上がってしまう。

「おじいちゃん好きよっ。おボクシング格好もん」と孫娘が微笑みかけて来た。孫娘には幼稚園のお絵描き色鉛筆をプレゼントしなくてはと思った。


「私は真面目に言ってます。皆さん静粛に静粛に。どうか聞いてください」

怒号の中に埋もれてしまい頭を下げた新・日本チャンピオンだった。両手を突き出してまで、

「黙ってくださいね」

会場の観客観衆に頼む。


改めて話を聞いてもらいたいと繰り返し静粛を求めた。 

「静粛にお願い致します。私はいいですか。静かになさってくださいね。私は世界をっ、ダメだやかましくて聞いてもらえない」

怒号はやまない。やまないだけでなくさらにひどくなった。後ろ席にいたファンや関係者がズンズンと前に詰め掛けてしまう。

「どうしたんだ。なぜ日本チャンピオンを返上なんかしゃがる。お前ちょっとチャンピオンになったと思って生意気だぞ。負けた旧チャンピオンのコメント聞いたか。再試合を望みたいって言ってんだぜ。お前答えたれっ。返上するくらいなら再試合で負けちまぇ。栄光の日本チャンピオン・バンタムを汚すな」

血の気の多い後援者たちは舞台の前に詰め掛け直接に押し問答をした。

「おい日本王座返上は取り消せや。お前はチャンピオンとしてリングに立ちコテンパンにやられるまで戦えや。それが恩義ってもんだぜ」

一瞬にして殺気立つまずい雰囲気が漂う。暗黒の暴力組織になって行く。


後援者は新・日本チャンピオンの胸ぐらをグイッと持ち上げたがスッと下ろした。

「ケッ俺らはよっ。いくらテメェに出資させたと思っていやがんだ。数字を聞いて気絶するなや。お前がベルト返上しやがったら会長から金返してもらうぜ。耳揃えて利子つけるんだぞ。なあ皆さんもそう思うでしょう」

せっかく資金をジムのために注ぎ込んでやっても日本チャンピオンを簡単に返上されちゃあ元を取れるものが取れやしないという理屈だった。


名指しされた会長は横のテーブルから身動きひとつせず固まったままである。

「金を返してくれだって。銀行から借りるにゃあ担保がないし。ボクシングジム経営の命綱は生徒さんからの月謝だった。

「生徒さんの月の練習代だっていきなり値上げしたら辞められてしまうだろう」


会長今度は金銭で頭が痛い。この新・日本チャンピオンのベルトで一稼ぎ目論んでいた算盤勘定はガタガタと音を立て崩れていく。


会長の頭にまた孫娘が浮かびあがる。

「おじいちゃん頑張ったね。チャンピオン格好いいなあ。私大きくなったらチャンピオンのお嫁さんになりたいでちゅ」


「静粛に願います。どうか皆さんお席にお戻りください。後援の皆さん冷静になりましょう。ここはおとなにならないといけません。お席について僕の話を聞いてください」


胸ぐらを掴んだ後援者はキッと睨みつけて席に戻ってはいく。

「僕は僕なりに考えてのことなんですから。聞いてくださいお願い致します」


新・日本チャンピオンは深く頭を下げた。まさかこれほど非難を浴びるとは想像すらしていなかった。独断先行はまずかったと思ったが後の祭りである。会長は黙り続け愛弟子の暴走を止めようという気配もなかった。

「おいお前っ。本当に王座返上するんかっ。だったら旧チャンピオンに謝れやぁ。頭床につけて土下座して謝れやぁ。日本王座にお前なんかふさわしくないんだ」


世界タイトルマッチは第1ラウンド後半になる。


ベネズエラのチャンピオンが攻めてくる。初回ラウンド。チャンピオンは挑戦者の様子を見ていたが行けると判断をした。

「日本のボクシングはこんなもんか。コソバイようなパンチしか出ないのか」

チャンピオンは上体に力をためて狙いを定めた。


バシッ


的確なパンチを顔面に放つ。

「クッやりゃあがったなあ」

挑戦者はちくしょうと反撃にパンチを出した。


すると見事なフットワークと上体のスゥエイで挑戦者からの反撃をものの見事に避ける。撃つ避ける撃つ避ける。攻撃と防御が華麗にして優雅に繰り返された。


チャンピオンだけのワンマンショーでボクシングの模範演技をチャンピオンには見せてもらったかのようであった。


カーン


1ラウンドが終了をする。挑戦者は傍目から見てもかなりチャンピオンには殴られたなあと感じる。


挑戦者はコーナーに戻って椅子に座るとドッと痛みが増した。セコンドの会長は、

「出足としちゃああんな感じさ。どうなんだパンチはたいしたことないだろ。ベネズエラだ世界チャンピオンだというのはハッタリに過ぎない。あの年齢(34)はスタミナが持ちはしない。ラウンドを稼ぎながら体力の消耗を狙うんだ。間違えんなや。奴さんはお前よりもキャリアもテクニックも格上なんだ。倒してやろうなんざ思いなさんなや」

(会長の)言う通りやればお前なら勝てるとまずはゲキを飛ばしておく。


セコンドの会長からの声は気持ちとしては嬉しかった。テクニックも経験も劣ると言われたとしても。


テレビ解説者の第一ラウンド採点は9-10。チャンピオンリードとなる。


チャンピオンのコーナーでは余裕を持ってセコンドに、

「(挑戦者は)ヘナヘナした野郎だぜ。2ラウンドは早すぎるくらいだがまあなっ、そろそろお寝んねしてもらうか」

チャンピオンの顔がキリッと光った。


第2ラウンド


カーン


チャンピオンはコーナーから勢いよく飛び出した。

「タラタラしたボクシングは金を払ったお客様に目障りなんだ。スカッと倒して成敗(せいばい)してやる」

チャンピオンは冷静に挑戦者のパンチをかわし王者のボクシングを展開していく。右左のフックを出したらフットワークよろしくスゥエイを多用。まったく挑戦者にはボクシングをさせていない。

「ちくしょうめうまく体をかわすから撃ち込めやしない」

焦りから一発狙いで大きくブローを振った。


ボゴッ〜ドスン


挑戦者が生まれて初めて喰う強烈な(ストマック)への一発一撃だった。鈍い痛みがじんわりと伝わる。苦渋の表情が浮かびあがる。

「ああっなんだありゃあ。ボディを綺麗に喰らっちまったな。決まりだわ。えっ2ラウンドでおしまいかい。セコンド早くタオル出せやあ。見ちゃあいられない。つまらない試合になった。金を返してもらうぜ」


チャンピオンはニヤリとしたり顔。

「これで倒れろっマットに沈めっ」

渾身のブローをジャブと取り混ぜてカウンターに綺麗に決める。


ウグッ


カウンターにめり込んだ一発は鈍い感覚でじわじわきた。


今まで日本ランカーとしか対戦をしていなかったツケが回ってきた格好になる。経験不足からの防御ミスだった。


スパーリングはかなりこなしたつもりだがこのチャンピオンには通じはしなかった。


「あかん終わりだあ」


観衆からの声援がため息に変わる。これだけ好きに殴られたらもう倒されるのは時間の問題だった。

「セコンドはシロタオル握って見ていやがるぜ」

腹を殴られた勢いから思い余ってよろけてしまう。コーナーにジリジリ後退し背を向けて盛んにガードを固めた。

「ああっ情けない。あれじゃっサンドバッグ状態だ。お好きなように殴ってくださいと言うようなもんさ」

案の定ボコボコになりそうな一方的防戦であった。会場にいた数少ない婦人方は思わず目を覆う。

「とてもではないが見てはいられないわ。かわいそうもう試合はやめて」

レフリーはコーナーに背をつけた挑戦者を見る。チャンピオンから殴られる様子を注意深く見つめていた。いつTKOを決めてもおかしくなかった。


セコンドにいる会長はそれでも気丈なことか、

「よしよしそこを耐えてくれ。レフリーよドクターストップさせんなよ。余計なことはしないでもらいたい。いくらロープを背にしたとも倒れないんだから止めようなんざしなさんなよ。ゴングが鳴るまで立ってさえいたらこっちのもんさ。格好は悪いがこっちとしては作戦なんだ」

会長は手に白いタオルは持たなかった。タオルはずっと首に巻かれたままである。


新・日本チャンピオンはマイクを握り大きく肩で息をした。落ち着きさえしたらうまく話ができるのだろうと思った。祝賀会の騒然さが少しやんできた。ザワザワがなくなったかなとテーブルの前で落胆している会長は顔をあげて周りを見渡す。

「騒ぎは暴動はなくなったのか。金は返してやらんといけないのか」


頭をあげ会長の見渡す視線にはまだ見たくもないものがいた。

「どうだったんだ。あいつだけは夢には収まらないようだ」

ヒョイと顔をあげたら愛弟子と目が合ってしまう。

「会長どうしたんだ。顔いろ悪いぜっしっかりしなっ。なにっ俺なら大丈夫だ。これしきの野次なんざ試合でいくらでも飛ばされているから慣れているアッハハ」

会長またまた頭が痛くなり抱えこんでしまう。そんな会長にはトンと気がつないままマイクを握り直す。

「僕には夢の実現に向け邁進しなくてならない事情があります」

野次を飛ばしていた後援者がピタッと黙り会場は鎮まり返る。新・日本チャンピオンは今から重大発言をしますとなった。


マイクを片手にもちかえながらスゥーと遠くを見つめた。ボクシングと出合う前のあの頃を光輝く瞳に思い出していく。


生まれた故郷は地方都市であった。オギャアオギャアはお産婆さんが取り上げてくれた。

「まあまあ奥さん。玉のような男の子ですよ。元気いっぱいアッハハ。この子は大物になりそうだわ」

その取り上げてくれたお産婆さんの予測は当たり俺はスクスクと育つ。風邪ひとつ引かない子供だと言えるかな。


元気に育つのは育つのだがお袋の女手だけであった。


物心のつく頃俺はお袋に聞いた。

「母ちゃんなんで僕のお父ちゃん一緒に住まないの。たまに家にやってきてすぐ帰ってしまう。友達はさお父ちゃんお母ちゃん一緒に住んでる」

子供の俺の質問にお袋はまったく答えてくれなかった。まあお袋が嫌がって答えてくれなくてもなぜか自然とその答えはわかってしまうんだが。


「おいお前お父ちゃんいないだろっ」

普段からの遊び仲間からこんな形でよくからかわれしまう。

「お父ちゃんいるよ」

親父はいる。ちゃんといる。ただ親父には戸籍に入った家庭が他所にあり俺の親父だとはおおぴらに名乗れなかっただけだった。

「じゃあお前のウチにさ皆で遊びに行かせろよ。お父ちゃんに会わせろよ」

遊び仲間が寄ってたかって俺を苛めの対象とする。

「僕のウチ?いや狭いからそんなにたくさん遊びに来ては無理だよ。お母ちゃんが怒るからダメさ。なんならお前のウチに遊びに行こうや。でっけーウチなんだろ」

ちゃんと断りをしておかないと後をついて来られたら厄介だ。家なんか誰も彼も連れてなんか行きたくなかった。

「嘘つけ。お父ちゃんいないから嫌がっているだけだろっ。ウチのお母ちゃんがな言ってたけどさ」

俺はその時初めて聞かされた。

「コイツさ母子家庭なんだぜ。お父ちゃんいないくせにさ生意気言ってやがらあ」


母子家庭?ボシってなんだろうか。近所の遊び仲間が言うには俺のお袋は母子家庭の申請を出して市役所か国から経済援助をもらっているらしい。だが親父がいるのに母子家庭とは法律ではおかしいだとか言い出した。言われた俺はまだまだ子供だったからさっぱりわけがわかってはいなかった。


ただわかったのは、


「僕のお母ちゃんを悪く言うな」


ワアッと俺はわめいたと同時に仲間の子供に殴りかかっていた。その時の拳は今でもしっかり覚えている。右のストレート一発。ちゃんと腰の捻りが入った素晴らしい一撃だった。


殴られた子供は鼻から血を流し倒れた。簡単にのびてしまったなあとは思ったが。


子供の仲間は騒ぎ出してすぐ大人がやってきた。

「なんてことするんだ救急車だ救急車を呼ばなくては」

倒れた子供は病院へ搬送された。そして俺は殴った子供だとして警察署に連れて行かれた。

「どうもすいません。ウチの子供が大変な御迷惑をおかけしました」

お袋が保護者として呼ばれてやってきた。


警察では暴力はいかんよと諭された。さらになぜあんなにも強烈に殴ったのかと殴った理由を聞く。警察のおっちゃんは俺にだけ聞いたら素直に話が出来たであろうが。なんせ子供だから保護者のお袋を同じ席に置く。俺は何も話たくないとプイッと横を向いてふて腐れていた。警察署の小さな窓から外を眺めたら無性にウチに帰りたくなった。

「ちゃんと理由を刑事さんに話なさい。お母ちゃんは恥ずかしいわ」

お袋はワアーッと泣いてしまう。仕方ないからと俺は、

「だってアイツ生意気なこと言うんだもん」

俺のお袋を(けな)すようなさ。


警察署では散々に叱られて夕方やっと帰り道になる。幼い俺はお袋さんと手を繋いで夜道を帰って嬉しかったが。


それからがまた大変だった。右ストレートをかました子供はなんと鼻底骨骨折だとかで入院をしてしまう。さらには鼻がひんまがり形成手術を受けたと聞いた。

「お前のパンチつぇえなあ。一発でノックアウトだもんな」

小学生仲間からは番長扱いをされた。遊び仲間からは英雄だかヒーローだかに奉りあげてもらってよかった(笑)


しかし実情は違う。

「さあ今から病院にお見舞いに行かないといけないわ。いいこと、ちゃんとごめんなさい、御迷惑をおかけしました、もう二度と暴力は振るいません、許してください、と言うのよ」

お袋は珍しく俺に怒る顔を見せた。


入院する子供をお見舞いに行くと、

「なんだと謝ったらなんでも済むと思いやがって。おい見舞いに来たって言いやがったなあ。いくら包んできた。ええっキサマいくら持って来たんだ。いくらかと聞いたらいくらいくらですと答えんかボケ」


子供が子供なら親父も親父だった。お袋は見舞い金など持たなかったし小さな菓子箱をひとつ買って持参しただけだった。


生活保護の身の上からはそれでも精一杯の心差しであったはずだった。


警察からはお前の子供が加害者だからあれこれと嫌な事を言われてしまうがまあ自業自得だなあとかお袋は諭されたらしい。被害者の子供の家庭環境もなぜか警察署から教えてもらえた。被害者の父親は前科があったからだ。


「私が担当した事件の加害者なんですよ奥さん」


担当の刑事の言うにはかなりなゴロツキであるらしかった。

「前の事件もそうなんですがね。なんかかんかと因縁をつけて賠償金をせびり取るんです。賠償から慰謝料とかなんでもとにかく名目をつけては金を出せってね。前の事件はたまたま程度がひどく新聞ダネの詐欺でやったんですけどね。ちゃんとした大学を出ている。だから余計に始末に負えない」

お袋は神妙な顔で刑事の話を聞かされた。

「なんでも若い頃交通事故に遭ってね。本人はぶっつけられて入院していたそうですが。その入院がとんでもない賠償金や慰謝料を支払ってもらったとの話です。濡れ手に粟ということです。それからはこの手の事件屋で味をしめるようになったらしいんですよ。仕事はやったりやらなかったりと転職を繰り返していたらしいんですけどね」

子供が加害者でなく被害に遭ったのでまた事件屋の気分になる。

「あれこれとセビって来ますから気をつけてください。そのやり方も巧妙になってますから。詐欺で前科がついてしまいましたからまともな仕事はしていないでしょう」


お見舞いをした病院の子供は鼻から何から包帯でグルグル巻き。まるでエジプトのミイラのようだった。

「奥さんあなたには誠意というものがないなあ」

父親はお袋に喰ってかかる。お見舞い金がないことにまずはイチャモンをつける。

「どうもこのたびのことはウチの子供がとんだことを」

頭をお袋は低くして謝った。横にいた俺も一緒になって、

「どうもすいませんでした。もう暴力は致しません。許してください」


母子で謝ったが。


「勘弁ならねぇな。ちょっとここではなんだから奥さん来てくれるかい」

父親はお袋の手をギュと握り病室から出てしまう。


俺は病室にポツンと置かれた。グルグル包帯のやつには別になんにも話すこともないからそのまま寝たままにしてやった。

「コイツが俺のお袋をバカにしなければこんなことにはならなかったぜ」


第2ラウンドは3分の残り時間が僅かになる。


俺はロープを背にしながらチャンピオンの嵐のようなパンチに堪えた。セコンドの会長が言うには的確なパンチばかりいつまでもヒットすることはない。

「いいかよく聞け。必ず気の抜けたようなパンチが来る。風で前髪をなでる感じのパンチもある。チャンピオンは歳なんだ。活きのいい強いパンチはスタミナのある間だけのことさ。スタミナ消耗が来たらこっちのもんさ。そこを見極めろ。どうせ打ち合い殴り合いをしたってお前には勝てない。100回やっても100回勝てない相手なんだ」

会長は力説した。

「勝てない相手なんだとは酷いぜ。俺だって日本チャンピオンのプライドってもんがある」

会長の作戦を聞く。まともには勝てないチャンピオンに勝ちたい気持ちはさらに強くなる。


「まともなボクシングはしてはならない。打ち合いは年寄りに負けている。だからあの年寄りに好きなように打たせてやれ。スタミナ消耗を効率よくさせてやれ。ハアハア息が切れるまで打たせたれ」


俺はロープを背負いパンチを浴びせられた。

「2ラウンドだが確かにパンチが効かない感じもする。ただなそれが俺の体がパンチに馴れただけのことかもしれない」

会場の観客はワアワアと声援を送ってくれた。

「危ない危ない。しっかり相手にクリンチしろ。一方的に殴られたらあかん。反撃しろ」


チャンピオンが連打を繰り出す間僅かだがリズムが狂いブランクが生まれた。

「よし今だ」


チャンピオンの顔がクッキリ見えた。


ボッカーン


狙いを定めた右ストレートを出した。なんとあの逃げ足のあるスゥエィのうまいチャンピオンが、

「オッとチャンピオンまともに右ストレートを顔面に喰いました」

放送席アナウンサーが絶叫した。


絶叫と同時にチャンピオンは棒立ちとなってダウンをしてしまう。


レフリーは挑戦者をニュートラルコーナーに分けた。ゆっくりとカウントを取る。手を上げオーバーアクションで、

「ワンっツーっ」

カウントは続くがそこで、


カァーン


第2ラウンドを終了する。チャンピオンはゴングに救われた。


放送席の採点は、9-10チャンピオンリードであった。


挑戦者は自陣コーナーに戻ると、

「会長どうだい」

右ストレートの感触はまだ拳が覚えていた。会長は褒めてくれるだろうかと思ったが。

「ああっ見事だな。惚れ惚れするストレートだぜ。だがな油断は禁物だ。今の右はたまたま当たっただけさ。ラッキーパンチだな。あくまでスタミナ消耗に徹しろ。パンチはだんだん柔らかくなってくるはずさ」


会長からマウスピースを受けゴングを待つ。1ラウンドはかなり殴られたから体が重い感じだった。しかし2ラウンドはなぜか軽いと感じた。

「軽いのはお前がエンジンかかってきた証拠さ。いいぜ言いやがったな。体が軽いだとよ」

会長は喜んだ。口には出さぬがひょっとしてがあるかなっ。ワクワクしていた。


カァーン


第3ラウンドである。


ゴングが鳴るがチャンピオンはなかなかコーナーから出ては来ない。

「どうしたんだ。ダウンの後遺症か」

挑戦者は一瞬ニヤッとした。


いえいえ違います。チャンピオンサイドは故意にダウン後遺症のフリをしただけ。挑戦者を騙すテクニックとなる。


3ラウンドはチャンピオンまた様子見に徹してきた。

「あんまり殴ったから腕が疲れたのか。パンチが飛ばないならばこっちからガンガン行くまでさ」

挑戦者は目の色を変えてチャンピオンに襲いかかった。


グキッ


なにやら鈍い音が場内に響く。


チャンピオンの狙いすましたアッパーが挑戦者の顎を的確にヒット。


周りの景色はまず会場の照明燈がパッと視野に入った。次にゆらゆらとあらゆるものが揺れていつの間にかダウンをした。


レフリーがチャンピオンをニュートラルコーナーに分けた。カウントを取る。大きなジェスチャーから入った。会場の観客は総立ちになった。ヤンヤヤンヤと大歓声が聞こえた。


「ワンっ」


「ツゥっ」


レフリーは両手を開いたり閉じたりとカウントをいかにもドラマチックに見せた。

「決まってしまったな。チャンピオンのアッパーは腰が入ったいいブローだった。3ラウンドか。よく頑張った部類だな」

場内は諦めムードで満たされた。


俺はレフリーのカウントの数がちゃんと耳に入った。気は確かだった。

「よしダメージは回復されたぜ。いやよもやのアッパーだった。まさか視界から消えたらガッツーンだからな」

レフリーが7、8とカウントする頃にスクッと立つ。


「大丈夫ですか」

レフリーの優しい声が俺の両グローブをギュと握った。

「ファイティングポーズを取ってください」

言われた通りグローブを決めて構えた。


お袋はグイグイと力任せに連れて行かれてしまう。

「あのぅお話ってなんでしょうか」

話だけなら病室でいくらでもできる。だから息子のいる病室でお話がしたい。

「私は別に病室でも構いませんわ」

俺のお袋は病室から手をギュと握りしめられてなにやら人気(ひとけ)のない病棟裏に連れて行かれてしまった。

「あんたねお見舞い金なしでよくノコノコやって来るなあ。恥ずかしいと思わないか」


被害者の父親は金の話を持ち掛けた。お袋が生活保護の身であることは前から知ってる。俺の実の父親がどんな社会的な身分にあるのかも下調べをしての脅迫だった。

「私の子供の治療費と慰謝料もちゃんと支払ってくれるんだろうな。また私は息子の看病のため働けない。母親は生憎さ里帰りしていてね。休業補償はちゃんとやってくれるんだろうな。証文を書いてもらうよ」 


この場合に女とは法律にまた状況に弱いものであった。後から弁護士さんと相談しますと言って逃げればよかった。


「わかりました」


被害者の父親の示した示談証文という紙切れに綺麗なサインと印鑑を押してしまう。

「これで宜しいでしょうか」

お袋のサインした示談書は具体的な補償金額がまったく書いていなかった。相手の言いなりにいくらでも補償を致しますという契約である。

「ああっこれでよい。これで息子も救われたアッハハ」


俺はお袋と手を繋いで病院を後にする。父親とお袋がどんな話をしたのかは子供の俺にはまったく知るよしもなかった。


1週間もした頃ミイラの奴は退院をしてきた。顔には丁寧にも包帯をグルグル巻いてミイラそのまま学校に通い始めた。俺はミイラの奴を見ても決して謝りはしない。悪いのは奴だ。俺の大好きなお袋の悪口をほざいた天罰が神様から落ちたに過ぎない。


学校のクラスの連中も今は英雄となった俺の子分や家来たちばかりだ。

「ミイラの奴また威張りゃあがったらただじゃあおかないぜ」

俺の子分の下家来の下にランキングさせて虫けらのように扱ってやった。


だから学校では取り立てて不自由な思いはなかった。ガキ大将という有難い王様がやれたからだ。


あれは俺が土曜に家に帰った時のことだった。いつもの土曜日は授業が終わっても子分たちと学校の運動場で野球したりサッカーしたり。女の子が居たらスカートを好きなだけめくったりと悪ガキしてから遅く帰っていた。

「夕方にならないで帰ったらお袋には叱られるんじゃなあないかとねアッハハ」


土曜日の昼。この時は学校で遊ぶ友達があまりいなかった。仕方ないからウチに帰ってテレビゲームやろうかと思ったんだ。

「ただいま」

家の玄関には珍しく男の革靴が脱いで置かれていた。

「お母さんにお客さんか誰かな。珍しいな男のお客さんだなんて」

見馴れない靴は俺の父親ではなかった。父親はいつも家の前に黒いキャデラックを停めている。お抱え運転手が羽根モップを持ってご主人の帰りを待っていた。


俺はお客様は誰かなとランドセルを背負ったまま茶の間に行く。茶の間はテレビがあり俺のゲーム機も置かれていた。


茶の間に俺は足が進めなくなってしまった。茶の間の扉からチラッとお袋の姿が見て取れたのだ。


俺はまずいものを見てしまったと咄嗟に判断。お袋やどこの誰かわからない男にも気づかれないようにコッソリと玄関から出た。


ランドセルを玄関に置き夢中で河原に走った。

「お母さんは裸で何していたんだ。あの男は何を母さんにしていたんだ」

この子供心の傷は一回だけではなかった。


「あらっ息子帰ったのかしら。玄関にランドセルがあるから」

お袋は男に体を抱きしめられていた。

「ランドセルがあるのか。だったら学校から帰ったんだろ。たぶん友達と遊ぶのに夢中でまた出かけたんだろ」

男はお袋のスカートに荒々しく手を入れながら頷いた。


それが始まりだった。男が家に転がり込んでいるのをよく見ることになる。お袋とは毎日顔を合わせるが男が来たことは一切話はしない。


後になり薄々ながらあの靴の男がミイラの父親だとわかる。


「奥さん悪いがね。入院費用や賠償金支払えないんだろ。アンタ収入はいくらあんだい。なんだったらアンタの旦那と直接掛け合ってやってもいいんだぜ」

ミイラの父親は俺のウチに押し掛けては金の支払いを強要にやってくる。

「すいませんお金は今からすぐとは参りませんが必ずお支払いを致します。旦那様は関係のないことでございますから」

お袋は働いて稼ぐつもりだったらしい。

「今から稼ぎますって言ってもなあ遅い遅い」

男は勝手に部屋に上がり込んでしまう。

「ところで旦那さんの会社って。あの有名なとこだろ一流企業の取締役さんになっていらっしゃる。今は常務なんだってな会社四季報にデンッと掲載されている。というと先々の取締役会議によっては常務から専務に昇格だ」

話をしながら男はお袋の肩に手を持って行く。嫌ですと意思表示はするが。

「旦那さんは横浜国大卒業だからなあ。昇格はこの辺りで止まりそうだ。同じ常務10人の中では可能性が高いことは高いがね。果ては代表取締役つまり社長にもなる可能性があるかどうかってやつかなアッハハ」


お袋の体をギュと抱きしめ居間のフロアに押し倒す。

「まあね奥さん。賠償金や治療費用は旦那さんからいただきましょう。なんせ旦那さんの息子がオイタをされたんですから。父親としては当然に金は支払ってもらわなくちゃあね」

フロアに押し倒されたお袋は僅かに抵抗をするがそのまま男に体を開いた。


「私としては悪いようにはいたしませんからアッハハ。なんせまたとない格好のいい金ヅルを見つけたんだから。金の成る木として大切に使わせてもらいます」


翌日に男は父親の会社に堂々と出向いた。

「取締役にお逢いしたいものですなあ。私はこのような者でございます。取締役さまに直接渡していただきましたら幸いです。同じ息子を持つ父親としてお逢いしたいでございます」 

男は白い封筒を常務の女性秘書に手渡した。封筒の裏には俺の名前を書いいやがった。

「かしこまりました。常務に封筒をお渡しておけば宜しいでしょうか」

白い封筒には男の携帯番号と支払ってもらう金額が書いてあった。


常務からの連絡は夕方だった。

「おいこれは何の真似だ」

常務からは威圧感のある威厳のある声だった。いかにも不快感を現す電話であった。

「いやぁ旦那さまでございますか。お電話ありがとうございます。お手数ですが手紙に書かれたような次第でございますからお支払いをよろしくお願い致します。父親としましては当然の義務でございましょうしね」


男はこの手の揺すりは手慣れたもの。

「キサマ恐喝なんぞしたら警察呼ぶぞ、弁護士出すぞ」

などと司法や法律の手に委ねられたら儲けモノであった。

「あの奥さまから示談承諾書がもらってございますからね」

契約は成立をしているとタカをくくった。


常務は会議が終わり次第お抱え運転手のリンカーンコンチネンタルスーパーサルーンでやって来た。お袋の家に怒鳴り込んで来たのだ。


「おいなんてことやっているんだ。お前のお陰で事件屋が俺を会社までユスって来たぞ」

お袋はただひたすら謝るだけだった。

「同級生に怪我させたんだとぉ。どんな程度の怪我だ。ちゃんと診断書を見たのか。その医者は信頼ができるのか。事件屋のグルだとも考えられるんだ」

常務は企業ユスリの実態を知ってる。この程度の作り話は必ずどこかに(ほころ)びがあると睨む。

「おい子供はどこだ寝てるのか。仕方ないな。どうして怪我なんかさせ子供から事情聴取しなくてはな。だいたい小学生が鼻を叩いたぐらいで大袈裟なことだ。怪しいな。まったく持って怪しいだけだな」

常務は少し喉が渇いた。冷蔵庫からビールを出せとお袋に言った。

「おいことの経緯をちゃんと説明してみろ」

父親の常務は腹心の弁護士に車の中から相談をしていた。弁護士の入れ知恵があったのだ。

「いわゆる子供同士の遊びの中での怪我なんだろ。なんぞ賠償金や慰謝料だとご託を並べようがそんなもんは聞いたことがない」

ハラワタが煮えくり返る思いであった。


お袋が出したビールをグラスに並々手酌で注ぐ。オツマミに野菜ツナサラダと簡単な煮物を出した。ツナサラダをパクついたらグイッグイッと一気に飲み干した。

「あの事件屋は俺に金を支払えと言いやがる。お前に尋ねるが示談書にサインをしたというが本当にしてしまったのか。なんでも示談は成立しているから裁判になろうが構わないとかほざきゃあがる。ふざけやがってバカ野郎」


顧問弁護士が介入したら話は早かった。

「問題解決は簡単です。申し訳ありませんがこの書類に名前とサインいただきます」

弁護士の出した書類は俺の認知不承諾の一筆であった。

「医者からは書類をもらっていますから。医学的にDNA鑑定で不親子関係を証明されています。ですから法定上でも認知は解消となります」 

顧問弁護士は事務的に説明をした。

「認知を解消されてしまいますと私たちはどうなるのですか」

お袋は不安げな顔で尋ねる。

「何も変わりませんね。母子家庭は母子家庭で父親のいないままでしょう。奥さんと呼ばれて少し違和感があるかなですかね。どうぞ御自由に恋愛されてはいかがでしょうか。御自分の人生なんですから」

顧問弁護士はチラッとお袋の年齢を確かめた。まだ30歳手前であった。


この書類を認めたとなると事件屋からのタカリは父親である常務とは一切無関係となる。法定でも医学でもというカラクリだった。

「残るのは道義的責任ぐらいでしょうかね。こちらの話は常務の裁量に委ねられることなんですが。まあ弁護士としましてはまったく関心ございません」


弁護士は後少し事務的に話を進めいよいよ帰る。

「奥さんこちらは常務からのお心差しとなります。長年のお付き合いありがとうという意味でございます」

紫の風呂敷に包まれた白い封筒が提示された。

「何ですかこちらは」


お袋は封筒を手に取ってみた。内袋の肉厚さ加減から札束であるとすぐにわかる。お袋はサッと顔いろを変えた。

「酷い酷いわ」

こんな手切れ金の端金でお袋との内縁関係を解消したいというとは。

「以上で私の方からのお話は終わりでございます。しかし大変な奴に睨まれましたなあ。ご同情を申し上げます」

弁護士の話だと事件屋の男はこのタカリや詐欺の世界ではかなり有名な存在であるらしい。

「会社として法廷で争うなんてことなりましたらそれこそ厄介千万でございます。決して相手などなさらぬが幸いです」


会場の観客は全員が立ち上がった。ヤンヤヤンヤの大声援はやむことがない。目の前の挑戦者ダウンがダメージの少ないことを祈りながら、

「立て立てくれ。こんなパンチぐらいで倒れるなんて情けないぜ。立て立ちやがれっチクチョウ。

あまりの不甲斐なさに涙が出ちまうぜ」


レフリーは大きなジェスチャーでカウントを8まで数えた。カウント8の声が会場内に響き渡るとやおら起き上がってきた。

「まだ大丈夫だ。さすがはチャンピオンだぜ。きついアッパーを喰ってしまった。このお礼はたっぷりさせてもらうぜ」

挑戦者はレフリーにアピール。グローブを構えファイティングポーズを取る。

「ファイト行けますか。大丈夫ですね。戦えますね」


ニュートラルコーナーからチャンピオンは呼ばれて、


ファイト。


チャンピオンはアッパーひとつで決まったと思ったから、

「なんだ起き上がってきやがって。俺はベネズエラ行きチケットを早めに用意し損ねたぜ。パンチが不足なのかい。なら欲しいだけいくらでもくれてやるよっ。今度こそちゃんと寝ていなっお坊っちゃま」

必殺の右グローブにグイッグイッと力を溜め込む。


レフリーが両者をリング中央に呼びっ、さあファイト。


挑戦者は顎をグローブでプロテクトした。2度もアッパーは喰わないと構えた。チャンピオンの顔をキッと睨み冷酷な瞳を投げつけていた。


睨まれたチャンピオンはなんとしたか背筋がゾォ〜。またあの華麗にして軽やかなフットワーク足運びは止まりベタな感じが多くなった。


第3ラウンドは両者睨み合いが多くなる。

「いいですかファイトしてください。手数を出さないと減点対象になります」

レフリーが注意を促すシーンが見られた。


「挑戦者がお見合いはわかる。チャンピオンがお付き合いするってのはなんだ。撃ち疲れたのか」

観客はしっかり殴れとヤンヤヤンヤである。このラウンドは睨み睨まれが多くまた一発二発殴ればクリンチになった。


カァーン


第3ラウンド終了する。放送席の採点は9-8。初めて挑戦者がポイントを取った。


挑戦者のセコンドはニコニコした。

「年寄りのチャンピオンいよいよ足に来たな。あのベタ足は疲れたぜの証拠さ。チャンス到来ってやつさ。いいかゆっくり相手を見ていけ。焦ったらいけない。とにかく見ていくんだ。あれだけ足が止まれば勝機はこっちに傾く」

セコンドの会長はタオルで顔を拭き気合いを入れた。瞼の上にワセリンを少し塗った。目尻のあたりが切れそうな具合だった。

「年寄りのチャンピオンは疲労が蓄積してきたからな。カミソリパンチもなりを潜めるさ。だから殴られても平気。痛くねぇぜ。平凡なボクサーになり下がりゃあがった」

会長は目論見が当たったなっと満足をする。この中盤のラウンドでチャンピオンのスタミナを消耗させ一気に倒しに行く腹であった。


第4ラウンド。


カァーン


挑戦者はグローブをしっかりと構えギラギラとチャンピオンを睨む。


百獣の王ライオンが獲物を狙う勇姿があった。


お袋は顧問弁護士からの白い封筒を持ってみた。ズッシリと重みがあり肉厚から察して数百万であろうかと思った。

「旦那さまが手切れ金を渡した」


お袋は京都の祇園で俺の父親と知り合う。知り合ったのは若い舞妓(17歳)と筋のいいお客様(55歳)の関係だったらしい。


祇園のお茶屋にあがった父親はいっぺんに若くて可愛い舞妓を好きになった。お袋もお袋で満更でもないことだったらしい。


年齢差とお(めかけ)さんになるという後ろめたさが気にならないくらいの純情さが後々には仇となる。


父親は京都に寄るたびに舞妓のお袋を呼びやがて深い関係になった。

「旦那はんウチなお話がありますんやわあ」

俺ができたと父親に告げた。父親は小さな声で、


「できたのか」


お茶屋のお座敷。父親は一言だけ答え徳利の酒をただチビりチビりと呑むだけだった。子供は嬉しいとも卸せとも何ら感情を現しはしなかった。


やや子(赤ちゃん)ができたとお茶屋の女将にお袋は知らせると、

「そりゃあようございました。おめでたいことぇ。早ような旦那さん(パトロン)になってもらいやぁ」

お袋は舞妓から襟替えをして半玉・芸伎さんへの出世コースを歩むことを夢に見た。

「旦那さはんができたさかいの話ですぇ」


お茶屋女将はさっそくに俺の父親に連絡を取りパトロンとしての旦那さんになることを勧めた。

「旦那はんおめでとうさんでございます。やや子さんどすぇハッピーなことでございます。これであの娘も襟替えができまして一人前の芸伎になれますわ。おおきに」

女将は具体的にいくらいくらの金が必要だから銀行に振り込みを頼みますと言った。数千万だったらしい。


俺の父親は同族会社の常務。まあっ俺自身が父親のことは詳しく知らないから困ったもんだが。


父親は本妻と結婚をして婿養子さんに入った。この娘さんになったお蔭で同族会社の取締役になれたという理屈さ。本妻は今の会長のひとり娘さん。写真だけ見たがなんか気の強い感じのババアだった。


本妻との間には娘さんがいらっしゃる。俺の異母姉さんとなるらしい。歳はかなり上だそうだ。


祇園にやや子ができた数千万用意しろと父親はいきなり言われてシドロモドロ。当時は平の取締役だったらしくそれまでの金は用意できなかったらしい。

「お義理父(おとう)さんちょっとお話がございます」

義理の父親の会長さんに相談を持ち掛けた。父親はこっぴどく叱られるかと心配をした。最悪婿養子縁組み解消かとも。

「何っ祇園に子供がいるのか」

会長は叱るどころか大喜びをした。

「婿さんにしてはアッハハ。やることはやるじゅあないか。どんな芸伎さんだい。何っ舞妓だって」


さっそく会長と俺の父親は新幹線に乗り込む。京都祇園に真一文字に向かう。会長は数千万をポケットマネーとして用意をしていた。


「あらまぁ会長さんどすかっ。旦那さはんのお父さんになられますのぇ」

祇園お茶屋の女将は喜んで会長を迎えた。なんせ金を払ってくれる上客さまだった。

「舞妓だと聞いて最初は驚きましたがな。いやあ(婿義理)息子も大した奴だと感心したところです」


その場に舞妓のお袋は呼ばれて会長とご対面となった。

「これはこれは可愛いらしい娘さんでいらっしゃる」

会長も気に入ったそうだ。

「わかりました。お腹にいる子供のことも半伎の襟替えも面倒を見させてもらいましょう。ただねひとつ条件がございます」

会長はできたやや子が男児ならば面倒をみたい。女児ならば話はなかったことにしたいとビジネスライクに契約をつきつけた。


言われた女将は口をポカンっと開けたまま黙ってしまった。


第4ラウンドのゴング。挑戦者はノシノシとリング中央に歩み寄る。グローブはしっかりと顎をガードして目だけがギラギラと輝いていた。

「チャンピオンさんよ。あんたにはよ俺憧れていたんだ。俺が中学校の時にバンタムのチャンピオンになったんだもんなあ」


ベネズエラから彗星のごとくあらわれ当時は世界ランキング8位で挑戦者として世界タイトルに挑戦をした。ベネズエラの若武者は闇雲にパンチを浴びせ華々しきノックアウトを演じた。


「俺は中学の坊主だった。微かにあの試合は覚えている。挑戦者のがむしゃらなパンチが次々にヒットしやがった。ありゃあ神がかり的だったな。アナウンサーが言いやがった。バンタムの歴史が動きましたとな」

ベネズエラのチャンピオンはそれ以後ボクサーとしてのテクニックを研鑽しまさに神の領域に入った。強さにテクニックさらにはそら恐ろしいほどの集中力。何を取っても優るボクサーは現れて来なかった。


「だがアンタの全盛期は終わりだ。気力も充実していたのは4〜5年も前なんだぜ」


リング中央で両者は睨み合う。軽くジャブをお互いに繰り出す。どうしたことかチャンピオンは挑戦者にあの鋭いブローを出さなくなった。まったくなりを潜めてしまう。


「だからチャンピオンは歳なんだ。俺は繰り返し繰り返しアンタのビデオを見たんだ。若い時は確かに手がつけられない強さだった。ありゃあ対戦相手が嫌がるぜ。負けると覚悟してまでボクサーは誰もリングにゃあ上がりたくはない」


挑戦者の狙いすました一撃が(ボディ)に決まる。チャンピオンは苦悩の顔をシカメた顔を珍しく見せた。

「おいおいチャンピオンどうした。様子がおかしいぜ。あんなイージーなパンチ喰うなんざおかしいぜ」会場の観客も異変に気がつく。挑戦者に対する情けない情けないの野次がなくなって頑張れに変わった。

「気になるのはさっ、チャンピオンの足がピタッと止まり撃ち合いを望んでいる。ありゃあチャンピオンらしくないな」


チャンピオンは撃つ(ブロー)逃げる(スゥエィ)撃つ逃げるの見事なコンビネーションが持ち味だった。


4ラウンドには持ち味がまったくなかった。


「チャンピオンは疲れが見えるのか。まだ4ラウンドだ」


カァーン


第4ラウンドが終了する。放送席の採点は10-9。挑戦者リードになった。


コーナーに戻って会長がニコニコしていた。

「よしいいボディだったな。チャンピオンは鳩が豆喰らった顔してやがるぜアッハハ」


俺はセコンドの会長の笑い声が嬉しかった。会長はいつも勝ちを意識すると笑いが絶えない。俺の親父代わりだからな。

「会長がケラケラと笑うのは孫娘と遊ぶか俺のボクシングのセコンドにつくかしかない」


会長は入念に俺の体をマッサージしてくれる。このラウンドは明らかに手応えを感じていたと言える。

「ラウンドが増すとチャンピオンは疲労が目につくな。チャンスはチャンスだが焦ったらいけない。いいか冷静に冷静になるんだ」

会長のマッサージはちゃんと俺の体のツボを押してくれた。会長の指先は的確にツボを押していた。俺は楽な気分になった。殴られて頭は痛かった。

「オヤッサン。マッサージ効くなあっ。体が軽くなったぜ」

会長はさらにニコニコ笑顔だった。まったく幼稚園児の孫娘とそっくりな笑い顔をしていやがる。

「ありがとう会長。俺の新しいオヤッサンのためにこのタイトルは手に入れたい」


孫娘は幼稚園児になって会長に、

「ワタチッね幼稚園でいっぱいお絵描きするのよ。おじいちゃんのお絵描きしたいなあ」


孫娘はおじいちゃんである会長のボクシングジムでの姿を幼稚園のお絵描きで披露した。幼稚園の先生は、

「これは素晴らしいですわ」

園児のための文部科学省部門お絵描きコンクールに出展させた。その結果金賞を受ける。日本全国の一番だと言われた。


会長は孫娘の達筆な『会長の自画像』に涙した。


「孫からみたらワシはこんなになるんか。ワシはこんなに見えるんか」


孫娘の描いた会長はリングの中でグローブをはめていた。孫娘の描いたグローブは真っ赤であった。


会長は両手を高々と挙げ首にはトレードマークの黄色タオル。その絵は試合に勝利したボクサーであった。決して黒子に徹するセコンドのオヤジではなかった。


第5ラウンド。


カァーン


挑戦者は余裕を得た。足の止まったチャンピオン。カミソリさを失ったブロー。

「怖くねぇぜちっともよ。俺が中学坊主だった頃に憧れた強いベネズエラのチャンピオンの片鱗はもうアンタのボクシングにはありゃあしない。並みのボクサー。何処にでも転がっているボクサークラス。いやあ日本ランキングにいてもおかしくないぜ」


挑戦者はリングの中を練り歩く。じわじわとチャンピオンをコーナーに追い詰めていく。


チャンピオンは攻めてこない。そのまま後退を繰り返した。顔には焦りが見える。陽気なラテン系は陽気さが消えかけていた。

「よし勝負いくぜ」


挑戦者の右が空に舞う。的確にチャンピオンの顔面を狙いすまし放たれた。


京都の白川通り。さらさらと綺麗な水が小川には流れていた。石畳の小路には京都に憧れてやって来た修学旅行の学生でごったがえしていた。

「京都の祇園はいいとこだ。まったくなっいつ来ても心が安らぐ。ビジネスを忘れて暮らしたいものさ」

白川通りを眼下に見る祇園のお茶屋さん。新幹線で乗り込んだ義理父・会長と俺の父親はお茶屋の女将と俺の母親・舞妓と同席をしていた。


「お前にはもったいない水揚げなんだぞ。よくわかったか」

俺の父親は義理の父・会長から頭をポンポン叩かれて盛んに照れていた。


母親は父親に水揚げされて父親と一緒に住むことになった。京都の街で形ばかりの所帯を持つ。

「旦那さま嬉しいでございます。私のような舞妓を襟替えしていただけて」

母親はお腹が目立ち始めたからお茶屋の座敷には呼ばれない。座敷が掛からないから収入も見込めかった。

「ああ私と一緒になろうな。とりあえずは狭い部屋で申し訳ないがね。子供が生まれたら私の近くのマンションに引っ越して貰うよ」


引っ越しは生まれた子供が男である場合だけであった。


父親は義理の父・会長から言われた。

「男児ならば認知して戸籍に入れよ。娘には因果を含めて文句を言わないようにしてやる。ワシには喉から手が出るほど欲しい跡継ぎになる」

男を待望する岳父の顔は喜びであった。例え血の繋がらない婿養子がお妾に子供を作ったとしても。


翌春にお袋は俺を産んだ。俺の誕生を一番喜んでくれたのは、

「でかしたぞよくやった。男の子か間違いはないなっ。えらいぞ上出来じゃあ。嬉しい」

会長だった。あまりにも嬉しいかったらしくわざわざ新幹線に乗って俺を見に来てくれたらしい。父親には会長職の仕事を押しつけた。

「生まれたのは男かっ。たいしたもんだよく産んでくれた。本当だなっ、かわいいおちんこがついているアッハハ。ワシは娘しか出来なかったからな」

会長は俺のちんちんをコチョと触った。本当の孫が生まれような喜びだったらしい。


お袋は喜んでいる会長を微笑ましく眺めた。

「それでな男の子の名前なんじゃが」

会長は長年温めていた男児の名前をつけさせてくれないかとお袋に頼んだ。

「ワシの子は娘だった。生まれた時に使えなかったしな。孫も娘だったし」

こうして会長さんは俺の名づけ親になってくれた。


俺が誕生したら約束通り

父親の近くのマンションに引っ越しをする。かなり高級マンションだったらしくお袋は快適な生活が望めたらしい。


マンションに俺とお袋のふたり住まい。たまに父親が訪ねる感じだった。


さらには、

「いらっしゃいませおじいちゃん。嫌だっ私って。すいませんねっ会長さんをつかまえて」


会長さんは俺を本当の孫だと思って可愛がってくれた。お袋の言うには3日と空けず通って来たらしい。

「いやぁっ男の孫がこんなにもかわいいとは思ってもみなかった。ハイッベロベロバァ〜」

会長さんはマンションを訪問するたびにお袋や俺にプレゼントを置いていく。


俺としてはずいぶん可愛がってもらったらしいが残念ながら幼すぎて記憶がない。ハイっハイっドウドウのお馬さんごっこも会長さんにしてもらった写真が残るがダメだなっまったく覚えていない。


そんなささやかな幸せも長くは続きはしなかった。

「えっなんですって。おじいちゃんが、会長さんがお亡くなりになられたんですか」

会長の訃報は突然だった。


会社の会合パーティで夕飯を食べていたら急に苦しみ出した。持病は心臓から肝臓・高血圧と病いのデパートみたいな不健康さであったらしい。強心剤にはニトログリセリンを常備する。


お袋さんは悲しみから泣いてしまう。

「いろいろおじいちゃんにはお世話になっていますからね。子供をあんなにも可愛がっていただきありがとうございます」

だからお葬式にはどうしても出たいと思う。最後のお別れの挨拶をして行きたい。


父親は泣き崩れたお袋を抱きしめて、

「葬式は勘弁してもらうよ。そのうちほとぼりが覚めたら墓参りに連れていくから。だから泣かないでおくれ」

父親は癒めるつもりがガックリと肩を落とした。


同族会社の会長が亡くなった。では人事はどうなったか。俺の父親は婿養子なんだから代表取締の社長になれるのではないかと思ったが。


「我が社は同族の会長という柱を今失った。今後は亡き会長の期待に応えられる企業を目指していかなければならない」

同族と無関係な社長は声を荒々しくした。


手を振りながらチラッと視線を婿養子の俺の父親に向けた。


父親の役職は平の取締役。社長の裁量ひとつで専務・常務と出世して抜擢される。

「取締役のスタッフは現状のまま行こう。役員会議では人事移動はなきものとしていきたい」

同族会社を嫌う社長は最後にこう締め括る。


ショックなのは父親だった。あの社長から『社長の椅子』を奪わなければ勝ち目がない。今の年齢からせめては常務取締役員になっておかないと次のステップが困難になる。


会社は思うに任せられずであった。さらに問題が降りかかる。

「ちょっとアナタ!私の部屋まで来てくださるかしら」

呼び出されたのは故人・会長の娘だった。婿養子は辛かった。

「お父さんが亡くなりましたからここで申し上げますが」

父親はギクッとする。胸騒ぎは悪夢を呼び込んだ。


「会社近くの高級マンションに囲っているお妾さんは縁を切ってもらいます。私の父がなにかと援助していたそうね。私も見て見ぬ振りでしたから知ってはいましたわ。でも今日限り綺麗に縁を切ってもらいます。できないとおっしゃるのでしたらアナタがこの邸宅から出てお行きなさい。私は引き留めなんぞいたしません」


会長は会社の経理を不正に流用してマンション代からお袋に渡す生活費を捻出していたらしい。顧問の会計士は頭を抱えながら帳簿を遣り繰りしていた。


会長が支えてくれた高級マンションでの生活は瞬く間に崩れてしまう。お袋は乳飲み子の俺を抱え安アパートに住むことになる。

「済まない。資金援助が思うに任せなくて」

父親は女房に金銭から生活態度からと監視されてしまう。お袋と逢うもなんとビクビクしながらとなった。


父親は市役所に行き母子家庭の手続きを進めた。お袋は月々僅かな受給金額で俺を育てる道に追い込まれてしまう。


あれだけ華やかな世界祇園の舞妓が今では母子家庭の生活保護を受給される身分に落ちてしまった。


挑戦者は右のグローブを高々と振り上げた。会場を照らすカクテル光線にグローブは映え鮮やかな色を見せた。


バシッ


鈍い音が会場に響く。チャンピオンがグォーンと蛯反りロープに飛ばされた。会心の一撃であった。

「手応え充分だ」

チャンピオンはロープに背でもたれ掛かる。ダウンはしなかった。持ちこたえたのだ。


レフリーはチャンピオンの目を確認した。しっかり前を見据えていないとスタンディングのままカウントをダウンするつもりである。

「おい今のはなんだった。カウンターかストレートかチャンピオンが喰うなんて妙に感じる。わざと喰う振りして後からガッツンとやられるんじゃあないだろうなあ」

鮮やかに決まってしまいかえって不気味さを感じてしまう。

「アリャ変だなっ。チャンピオンはわざと狙い撃たれたぜ。なにか狙った感じだ。何かって聞かれてもおいらにゃあアッハハわからないけどよ」

いや観客もなにか違和感を感じていた。

「強いチャンピオンが激しくロープに飛ばされたなんてお笑い草だせ。アリャあなボクシングが退屈だから少し顔を撫で撫でしてもらったんだぜ」


両者はレフリーの指示でリング中央に戻っていく。


「いいですね大丈夫ですか。試合をファイト」


両者仕切り直しになりお互いにグローブを合わせた。


「なんかチャンピオンは変は変だ。あんな程度のパンチでロープまで吹っ飛ぶなんて。パンチは効いてないがわざとフリしていやがるのか。俺を安心させて油断を狙ったのか。ちくしょう経験がないから余計なこと考えちまうぜ」


チャンピオンはどうやら術中に挑戦者をはめたなとシタリ顔になる。

「ハハッ考えてやがるな。ロープに飛ばされたのは我ながら名演技だった。奴は悩んでいる。ボクシングの経験の浅い奴は必ず引っ掛かるトリックさ。あの程度のパンチを喰って天下のWBCバンタムのチャンピオンが飛ばされたなんてなあ(理解不可能だろ)」


第5ラウンドはチャンピオンの遊びのラウンドになった。


チャンピオン自身足にスタミナが切れた。回復をすることを見越し遊び心が出て来た。


チャンピオンは完全な余裕で挑戦者を見下した。

「コイツ(挑戦者)はフラフラし始めた俺を完全にグロッキーだと勘違いしてやがる。そうだその気で向かってくれ」


敵をカウンターで打ちのめしてやるぞと大振りなパンチが出始めたらガードは下がりカウンターが打ちやすくなる。チャンピオンは足こそ疲れたがパンチのそれはまだまだ健在であった。

「おいお坊っちゃま向かってこいよ。ブルンブルンと腕振りながら向かってこい。俺は見たとおりのフラフラ状態なのさ」


挑戦者は首をかしげる。自身の繰り出すパンチがあまり当たらないのにと。

「罠なのか。こいつが百戦錬磨のベネズエラ・チャンピオンの巧妙な罠か。このまま攻めたら危険なのか」

グローブを交えながら不安な気持ちが涌いてしまう。


セコンドの会長は肩から黄色いタオルを巻き、

「どうした攻めろっ叩き潰してやれ。カウンターをいけ。がら空きのカウンターだ」

強気の指示を大きな声で出す。チラッと見た会長の姿は孫娘のお絵描きさんそのものであった。文部科学省幼稚園児お絵描きコンクール日本一の晴れ姿。


「会長カウンターは危ないぜ。なぜか嫌な予感がしてくる。チャンピオンはやたらカウンターをがら空きにして俺を呼び込みやがる。罠だな罠。経験がないから理屈はわからないがありゃおかしい」

挑戦者はカウンターは攻めあぐむ。

「そう考えりゃあ」

挑戦者はハタッと思い出した。

「チャンピオンのビデオに同じようなシーンがあった。挑戦者があのがら空きカウンターを潜るようにして打ちこんだら」


カウンターが奪えずだった。

「わかった。カウンターを狙った隙にうまくスゥエイで返され空振りの嵐だった。大振りの最中チャンピオンはいたって冷静に挑戦者を見据えて徹底して叩きのめしていきゃがった。そうかやっぱり罠だったのか」


カァーン


第5ラウンド終了する。放送席の採点は10-10のイーブンであった。


ゴングと共にセコンドの会長が飛び出してくる。

「おいどうしたんだ。カウンターをしっかり打てと言っているだろ。カウンターだ。見て見ろよっあんなに奴さんくたびれていやがるぜ」

チャンピオンは自陣コーナーでよろけるようにして座り込んだ。さもスタミナが消耗されたと言わんばかりであった。


会長にも老かいなるチャンピオンのトリッキーさは見抜けはしないらしい。


「次は6ラウンドか。胸つき八丁ってやつだな。お前も疲れたんだろうがここを踏ん張っていけば勝ちがあるんだ。しっかりグローブを構えて押して行こうな。正直ここまでお前があのベネズエラの偉人を相手に戦うとは想像すらできなかった。驚きだっまったく」

会長は俺の顔にワセリンを塗りながらしみじみと感謝を言う。5ラウンドと違い笑ってはいなかった。


第6ラウンド


カァーン


両者勢いよくリングの中に駆ける。6ラウンドは12ラウンドの折り返し点。お互いにスタミナが切れて苦しみを感ずるところであった。


スタミナ勝負ならばと無駄なパンチもフットワークもやりたくはなかった。


30歳を越えた天才ベネズエラのチャンピオンはこの6ラウンドあたりのペース配分を充分に熟知をしていたようで的確なパンチしか繰り出すことはしなかった。


悪く言えば採点に加算されるパンチだけ叩き出していた。ノックアウトを狙った一発勝負はなりを潜めてしまう。観客は面白くもなんともない中弛(たる)みのラウンドに見えた。

「チャンピオンは狙ったパンチしか繰り出さなくなったな。奴さん最終12ラウンドまでこの調子で戦う腹を決めたようだな。見てみろよっ足はベタだしパンチはピストルだ。ポツンっポツンと忘れたころに打ち出していやがる。あれだけ迫力のあった攻めのボクシングはどこに消えちまったんだい。つまんねぇ」


チャンピオンがF-1のレーシングカーから安全運転に切り替えた。ならば挑戦者はどうだったか。

「チャンピオンは疲れたのか。いや死んだ振りしているだけだろ」

どうにも警戒心が強めに出てしまい攻めあぐむ。


ベネズエラというボクシング先進国。10年近くも栄光のバンタムのベルトを守っている威圧感と恐怖心。


グローブを交えながらも少しずつ挑戦者のヒョッコさが顔を出してくる。

「なんとも言えない威圧感はある。だがそんなもんに負けていたら俺ら挑戦者は永遠にチャンピオンになれねぇ」

威圧感がと思っていたら腹に一発喰らった。


ウグッ〜


ボクシングと言えば日本ランカーしか対戦がない未熟さがモロに出ていた。

「このラウンドからチャンピオンは何を仕掛けてきゃがるかわかりゃあしねぇ。なんせ用心に越したことはねぇぜ。会長のアドバイスみたいなイケイケは御法度だぜ」


チャンピオンは打ち合う内にさらに冷静さを取り戻していく。

「慌てない慌てない。慌ててもこの獲物は逃げたりはしない。最終12ラウンドまでじっくりかけて料理してやるさ。迷っているかい子羊ちゃん。メリーさんの子羊ちゃんならばちゃんとした家を紹介してやるぜ。オヤッ迷子のメリーじゃあねぇと言うのかい。ならばよわかりずらいからダウンを喰らったら楽になりますよと(つら)に書いておけや」


チャンピオンの右ストレートが繰り出された。


「オッと危ないなあ。いきなり右が来るとはな」

挑戦者は体を回してチャンピオンを交い潜った。


チャンピオンのパンチは辛うじて避けられた。よく見えていた証拠である。


折り返し点の6ラウンドの俺の疲労は足に来ていた。ふくらはぎや太ももあたりがパンパンに腫れてしまった。

「会長がマッサージしてくれたが効かない。ちくしょ足が動かない。いわゆるベタ足ってやつか。しっかり相手を見て無駄に動きをしないよう気をつけていかないけない」

俺は足の動きを悟られないようにフットワークを使わずに打ち合いに出た。幸いなことに腕だけは大丈夫だった。


まだまだボクシングができる。


赤ん坊の俺を可愛がってくれた会長の死去はとんでもない不幸が待っていた。


俺を実の孫のように可愛がってくれた会長。お袋を実の娘のように可愛がってくれた会長は偉大だった。


「そんなっ私たちはもうマンションには住めないって言うのですか。明日にでも出ていけとおっしゃるのですか」

俺の父親は冷たく言い放つ。言葉では済まない済まないとは言うが。

「妻に縁を切れと言われたからにはどうにもならなくてなっ。わかってくれよ」

妾のお袋と縁を切らないならば婿養子縁組みを解消されてしまうと泣きついた。60を越えようかとする初老がワンワンと泣いた。

「わかりました」

お袋さんは俺の手を引いて渋々と安アパートに移った。


幼かった俺はこの安アパート生活からなんとなく記憶が繋がる。お袋との二人だけの生活は幸せだった。


たまに父親がお忍びでやって来た。初めて見た父親はかっこいい初老の紳士だった。


父親というイメージはなく優しいおじいちゃんだった。俺のアパートの前に黒塗りのリンカーンコンチネンタルを停めた父親。ビシッと白髪を決めた紳士だった。俺はリンカーンなんていう高級車街でも見掛けたことがないから驚きだった。


父親のお抱え運転手は俺とよく遊んでくれた。なんでも息子と俺が同じ歳だからとかで。高い高いは運転手がよくしてくれたなあ。運転手からはよく菓子やジュースをもらえた。高級な菓子はどれを食べても甘くうまい。


今ではボクシングをやっているから減量の苦しみってやつで菓子やジュース一切口にはできない。大人になった今でもこの高級菓子は思い出す。


その父親からお袋は手切れ金をもらって関係を解消されてしまう。当時小学生だった俺には大人の世界というやつはまったくわかっちゃあいない。


ただその日を境に父親がパタッと姿を消したことぐらいしかわかんねぇ。


俺の父親が姿を消したと思ったらアイツがお袋にチョッカイを出して来やがった。当時のお袋は30前の女盛り。俺というコブがなけりゃあスリムな優しいお姉さんで充分に通る。今考えたら俺みたいなコブツキの餓鬼がいなけりゃかわいいお袋のことだ幸せな結婚生活が待っていたかもしれない。


その日も俺は学校から帰って来た。俺がただいまと言う前に玄関にあの男の靴を見た。

「ちょっコイツまた上がり込んでいやがる」

俺は子供ながら男と顔を合わせたくない。ランドセルを玄関に置いてすぐに遊びに出て行こうとした。友達と遊ぶ約束していたしお袋がまた居間で男と裸でいるのを見たくはなかった。


「帰って来たの」

お袋の声だった。お袋は俺にちょっと話があるから家に上がりなさいと言う。あの男も一緒だった。俺は嫌な予感が全身を駆けめくった。あの男がお袋と親しげにしている様子は一瞬で全てがわかる。

「ヨッ久しぶりだなボウズ」


俺は男の顔を見た。男の靴はいつも見ていたが顔は初めてだった。


驚いた。


驚きもヘッタクレもありゃあしない。男は俺の同級生の父親だ。散々にいじめてやったミイラの父親じゃあないか。ミイラは俺が鼻をぶん殴って入院させたやつだ。


お袋はなにかモジモジとしながら盛んに男の顔を覗く。

「お母さんね今度からこちらの方と一緒になることにしたの」

男はお袋の痩せた肩に手を回していかにも親しげだと言わんばかりであった。

「ヘヘッボウズよろしくな」


俺は頭が真っ白になる。目の前にある事実はまったく受け入れたくはなかった。


大好きなお袋がよりによってあんなミイラの父親と仲良くなったなんて。


俺は頭が変になったのかと思うくらい大きな声を出した。


おまえなんか大嫌いダァ〜


そのまま家を飛び出した。遊び仲間がいる学校や広場には行きたくなかった。遊び仲間は誰ひとり片親なんていやしない。


ただ一人だけになりたかった。力いっぱい泣き声をあげたかっただけかもしれない。


小学生の俺は日が沈み暗くなるとトボトボと家に帰っていく。玄関にはあの男の靴はなかった。正直ホッとした。あの男には会いたくはなかった。


「お帰りなさい遅かったわね」

お袋はそう一言だけ言ってすぐ夕飯の準備に取り掛かった。後からも男のことは何も言わなかった。


男は俺が気に入ったらこの家に転がり込むつもりだったらしい。運悪く俺が反発したからそれはなかった。不幸中の幸いになった。


だがお袋の元にはこそこそと通って来た。俺が学校から早く帰ってしまうと昼間に転がり込んだ男と鉢合わせになった。


「ようボウズ元気か」


にやにやしながら男は挨拶をして来やがる。だが俺はコイツは大嫌いな男だ返事しない。でそのままプイッと遊びに出て行く。男もさして気にも止めない様子だ追い掛けもしない。一度も待てと呼び止められたこともなかった。


俺に蛇蝎(だかつ)のごとく嫌われていると男はわかっていた。俺が小学生でなく中学生ぐらいなら男を追い払う知恵があったかもしれない。


男はお袋の若い体を散々に(もてあそ)びやがった。たまにお袋の声が居間から聞こえてくるとそれがよくわかった。


俺は気が狂いそうだった。俺の父親の時にはそんなことはただの一度とさえなかった。だから俺は男を心底憎んだ。

「アイツだけは許してやらない」


男が出入りするようになり半年が過ぎようかとしていた。俺が学校から帰って来たらお袋が台所でうずくまっていた。かなり狂い顔だった。

「お母さん大丈夫か。病院に行こう。ねっ病院のお医者さんに診てもらったら治るから」

がお袋は狂しみながらも、

「大丈夫だからっ寝てると治るから」

俺の差し出した手を振り払ってしまう。

「お母さんお願いだからね、僕と一緒に病院に行こうっねっ。頼むから」

俺はお袋がこのまま死んでしまうんじゃあないかと本当に思った。真っ白な顔は血の通ってあるお袋には見えなかった。

「お母さん隣のおばちゃん呼んでくるわ」

子供の俺には救急車を呼ぶ知恵がなかった。

「大丈夫だってばアッハハ。男の癖に心配症なんだなあ」

とお袋は俺の肩に手をやる。泣きじゃくる俺の肩にそっと手を当てて気絶をしてしまった。


俺は気が動転してしまう。泣きながらも隣のおばちゃんにお袋を頼みますと駆け込んだ。

「すいませんすいません。おばちゃんいるかい。お母さんがお母さんが」

玄関の戸が壊れるくらい泣きじゃくりながら叩いたであろうか。

「おやなんだい何事だい」


お袋は直に救急車に搬送されて病院に入院をする。


子供の俺にはお袋の病名ははっきりとは教えてはもらえない。

「お母さん大変だったわね。お医者さんの言うにはね栄養のバランスが崩れて貧血になったらしいよ」

子供にはもっともらしい病名になった。お袋は貧血だと。


だが事実は違う。近所のおばちゃん連中の噂話を偶然に俺は聞いてしまう。

「あたしゃあ驚いたのなんのって」

俺の隣のおばちゃんが得意になってお袋の噂話をしていた。やれ救急車だ倒れたとか聞いてピンっときた。

「アタシが駆けつけた時にゃあさ下血がひどくてさ。見てすぐわかったよ」


お袋はあの台所で流産をした。あの真っ白な顔は赤ん坊が流れた後だったらしい。


近所のおばちゃんはさらに続ける。

「母子家庭なんだけどね。最近男の出入りが激しいから大変だわ」


餓鬼である俺はますますあの嫌いな男を憎んだ。

「アイツがいるからお母さんはあんな酷い目に遇ったんだ。生きるか死ぬかの目にさ。入院することになったのも元はアイツさ。あの男さえいなくなりさえすれば」


お袋が入院した病院に男は姿を見せることはなかった。御見舞いにすら来なかった。


俺にはいたって平和な毎日が訪れていた。学校が終わり走ってお袋の病院に駆けつけていた。なんせ毎日お袋を見ていないと不安で不安でたまらなかった。


「お兄ちゃん偉いわね。いつも学校帰りにお母さんを御見舞いして。いい子だね。どうっオバサンお林檎剥くけど食べる」


このお袋と相部屋だったおばちゃん。いや御婦人さんかな。子供の俺に林檎を剥いてくれたことが運命だった。


お袋も入院して暇だったから一日中この御婦人と世間話に花を咲かせていた。

「まっそうどすか。あらっごめんなさいね。へぇ綺麗な方だなあと思ってはいたんですのよ。まさか京都の祇園の舞妓さんだったなんて」

二人部屋におしゃべりな女が二人。お互いに退屈していたからもう大変なやかましさであった。


お互いの身の上話から種が撒かれ茎が成長して話の花が咲くようである。

「私は京都の舞妓(まいこ)に憧れていました。だから舞妓になったことは後悔もありません。ですが今を思えばその後に大変な脱線事故を起こしたようですわ。とんでもない人生になってしまいましたオホホ」


同じ部屋の御婦人は親身になってお袋の話を聞いてくれた。お袋にしてみたら人生で初めて出合う心の扉となったようだった。


「そうでしたか大変だったわね。そんなことがあったんですか。奥さんはお若いのに苦労苦労の連続でしたわね。京都時代がよろしいから後はつまらないと感じるかもしれませんわ」


流産したこともわだかまりなく御婦人には話すことができた。

「女にとっては赤ちゃんはそれはそれは大切なものですから。残念なことでございました」


お袋はすっかり御婦人に甘えてしまう。子供ができた経緯もお袋自身の中では御婦人との出合いで氷解をしていく。

「いろんな人生がございます。でもあれこれと後悔ばかりとなってはつまらないですわ」


この御婦人の勇気づけからお袋は日増しに明るさを取り戻していった。

「あらっいらっしゃい。お兄ちゃん偉い偉い。今日は学校で何勉強されたのかしら。オバサン夏ミカンもらったの。ひとつ食べてみる」

俺にとっても大好きなオバサン御婦人となった。


「おーいどうだ。どんな様子だ。退院は来週だと医者から聞かされているがどうだ」

相部屋の病棟に御婦人の旦那さんが御見舞いにやってきた。旦那さんは小柄でがっかりとした男だった。

「あなたこちらの奥さんを紹介致しますわ。こちらね祇園の舞妓さんでしたのよ」

俺とお袋を紹介してくれた。旦那さんはジッと俺とお袋を見つめた。

「ホォ奥さんは舞妓さんでしたか。かわいい舞妓さんでしたなあ。お坊っちゃんはいくつ。小学生ですか」

旦那は大きな手を出して俺の頭を撫でてくれた。

「オッお兄ちゃんなかなかがっかりした体格だね。学校では何かスポーツやっているの」

頭を撫でられ夏ミカンをもらった俺は嬉しくなってしまう。

「友達と野球とサッカー」

旦那はニコニコとした。

「そうかそうか。男の子だもんな。野球とサッカーはいいなあ。お兄ちゃんかっこいいから女の子にもてもてだろうアッハハ」

また頭を撫でもらった。

「まあっあなた。なんですかっモテルかなんて。お母さんの前ですよ。奥さん大変な失礼すいませんね。もうあなたって人は遠慮がないんだから」


この旦那がボクシングジムの会長さんだと後からわかる。そっ俺の人生にボクシングを刻んでくれた有難い恩人さ。


「お兄ちゃん学校では野球やサッカーだけどな。男には格闘技という真剣勝負な世界があるんだよ」

旦那さんいやジムの会長は小学生の俺にボクシングを話してくれた。グローブの構えからパンチの出しかた、逃げかた。日本ランキングと世界ランキング。そしてチャンピオン。ジムの会長は目をキラキラさせて俺にボクシングを伝授してくれた。

「あなた。もうお止めになって。お兄ちゃんはそんなボクシングなんていう殴り合いに興味ございませんことよ。お兄ちゃんは甘いマスクだから歌って踊っての芸能界がお似合いですよ。さあさあっ、お兄ちゃん夏ミカンっ剥いたわっ。はいどうぞ」


確かに御婦人、女将さんの言うとおりだった。小学生の俺は野球にサッカーに夢中で将来はどっちかのプロ選手になりたいと夢を見ていた。ただ細い体だったからどうなるかなとは思った。


歌って踊って?


隣で寝てるお袋はニコニコと笑っていた。なんせ自慢のひとり息子があれこれと褒められたのだから嬉しかったのだろう。


「ウチの子は甘いマスクでしょうか。お褒めいただきありがとうございます。嬉しくお言葉をいただきますわ。芸能界ですか。歌は確かに上手ですわね」

お袋は優しく笑った。


俺のお袋は唄、踊り、三味線、お琴と舞妓時代に修業を重ねただけあって得意でうまかった。その遺伝を受け継ぐ俺だからその気になって頑張ったらそれなりの成果は芸能界でも得られるかもしれない。自慢ではないがクラスの女の子からは確かにモテた。いくらスカートをめくってやっても嫌だとは言われたこともなかったアッハハ。


だが興味はからっきしない。


「お兄ちゃんは芸能界じゃあないよなあ。男なら歌や踊りよりボクシングだ」

会長はなんだろうか俺の将来をビシッと決めてくれた。俺はまだ小学生だというのに。


まもなくお袋は体調が戻り退院をする。御婦人も翌日には退院予定だと言った。

「退院おめでとう。しばらくは自宅で養生(ようじょう)されてご無理ならさないようにね。私も他人のことは言えないけれども」


お袋の退院の日たまたまだがジムの会長が御見舞いにやって来ていた。見知らぬ男をひとり連れて。


「あの子供さんだ。俺からみたら見込みありだと言える。母子家庭で幸せを味わったことがない。ハングリーさが求められるボクシングにはよくありがちなストーリーだろ」

会長は目を細めた。

「あの母は元は舞妓さんらしい。女房の話だと芸事はお手の物でリズム感はかなりあるらしい。息子はリズム感を受け継ぐだろう。この前にあの子供を病院の屋上に連れていって基礎体力をみたがなかなかのもんだったぜ。どうだ鍛えたら"モノ"になりそうだろ」

会長が連れてきた男はジム所属のトレーナーだった。

「おやっさんいくらなんでも小学生からトレーニングはね(考えものだ)」

トレーナーの男はあまり乗り気ではなかった。


「奥さん退院おめでとうございます。よろしければ御自宅までお送り致します。いえね私としましては奥さんにお話したいことがありましてね」

トレーナーの男はうんざりな顔をした。

「またおやっさんの(誰でもジムにスカウトする)悪い病気が始まった」


自宅までの帰りはジム会長の車に俺とお袋は乗った。お袋は盛んに会長から、

「奥さん退院したらどうされますか。働くつもりはありませんか。いえねウチのやつから奥さんの事情は聞いていますからね」


トレーナーはトレーナーで俺にあれこれスポーツや運動のことを聞いてくる。走って早いか、鉄棒は得意か。学校の体育の成績は5なのか。


お袋はともかく俺はうんざりしていた。つまりはボクシングジムに来いという話だった。しかも小学生の今から。


子供の俺はボクシングというものはまったくの無縁。学校ではボクシングなんかないし友達同士は野球とサッカーだ。


例えば相撲なんか同じ格闘技で似ているとしても同級生と比べ体が細めでちびっこの部類の俺はまったく勝てない。冬には相撲をやらされているが嫌で嫌でたまらなかった。

「へぇ学校の相撲はダメなんかい」

トレーナーはやっと俺が格闘には不向きだとわかったらしい。相撲が弱いと知り笑った。

「そうなんです。学校の相撲大会は勝ったことがないくらい」

やれやれトレーナーはあきらめてくれた。

「アッハハ。そりゃあ気の毒なことだったな。実はな俺もなっガキンチョの時はな相撲大嫌い。体が小さい体重軽いでクラスの奴らには勝てなかった。お兄ちゃんと一緒だなあ」


ギクッ


「つまり体格の異なる者同士戦わせたら痩せやチビは不利になるのは当然さ。その点ボクシングは体重別のランキングになっているから痩せチビって言ったところで不利にはならないさ」

トレーナーはポンッと俺の肩を叩いた。


ジムの会長は俺のお袋をなんとか口説いたらしい。退院をしてからのお袋はことあるたびに、

「会長さんがねジムに遊びに来て欲しいって言っているの。お母さんもどうですかだって。でもお母さんボクシングなんかわからないからって申しあげたらね」

俺はまさかお袋からボクシングのことが出るとは思ってもいなかった。

「会長さんはねっシロウトのお母さんにもちゃんと説明をしてあげますからというの。一度ジムに行きましょか。お母さんを連れて行ってちょうだいね」


連れて行ってって。お袋はボクシングジムをハイキングか遊園地に行く気分で言いやがる。


ジムの会長はあの手この手で俺をジムに引っ張ろとしていた。その決め手のフィニッシュ・ブローが放たれた。


「奥さん話を聞いてください。私はボクシングジム経営に携わりかれこれと20年となる。その間には様々な後援会の方々に支えられて今があるんだ。奥さんがもし望まれるのであらば」


お袋の舞妓時代に修得をした唄や踊り全般の名取としての資格を取らせましょう。資格を得られたらお師匠さまとして芸技学校(唄踊り)を開校させます。

「えっというとお母さんはお唄や踊りの先生になるの。お母さんが前々からやってみたいなあと言っていたヤツだね」


俺はお袋が嬉しそうに話す笑顔がたまらなかった。

「俺が会長さんのボクシングジムに所属したらお母さんは昔からの夢、お唄の踊りのお師匠さんになることができる」

俺はお袋の子守唄を思い出した。お唄はお袋の得意中の得意だ。


俺はジムの会長の鮮やかな手腕にまざまざと降参することなる。


お袋に連れて行かれ会長のジムを訪れた。

「よぉっよく来てくれたな。おい誰かいないか。ウチのやつ探して来てくれないか。かわいい孫がジムに来たと言えば飛んでくるさアッハハ」


退院以来久しぶりに会った御婦人、会長の女将さんは俺ら親子をそれはそれは大歓迎をしてくれた。

「いらっしゃいよく来てくれたね。ボクシングジムなんて男だけのむさ苦しい世界だけどね。住んでみたら結構気楽なもんだから」

女将さんは直ちに俺にボクシング用具を用意し会長さんの元に行くようにと命じた。


はかされたパンツは少しでっかいかなだった。グローブはブカブカで情けないものだった。

「ボクシングシューズは特別にこさえなくちゃあね。しばらくは運動靴で我慢してね」


お袋は女将さんと事務所で昔話に花が咲く。いや昔だけではなかった。

「奥さん主人、会長から聞いていますわ。芸技学校(唄・踊り)是非開校しましょうよ。いえね後援の方にねプロダクションの方がいらっしてね」


女将さんの話だと芸技学校開校にはお袋さんだけの芸事ではなく様々な習い事の芸技をスクールとしてやりたいとおっしゃる方がいる。その芸技芸能の師範先生にお袋の元舞妓という肩書きは棄てがたいと言われたらしい。

「よろしくお願い致します。私も長く芸技から離れてしまいましたが再度習得し直して頑張ってみたいと思います」

お袋はこうして会長さんに拾われた格好となった。俺が嬉しかったことはお袋が久しぶりに笑顔を見せてくれたことだった。

「お母さんよかったね。お母さんお唄上手だもんね。教えてもらう生徒さん喜んでくれるよ。頑張ってよお母さん」


お袋と俺は安アパートを引き払い会長さんの住むマンションに転がり込んだ。

「狭い部屋だけど申し訳ない。芸技学校が開校したら新しいマンションに移ってもらうわ」


お袋は女将さんや賄いの女性たちと共にジムに所属する若いボクサーの世話役となった。会長の奥さんは女将さんと呼ばれていたんだけど。


「祇園さん祇園さん」


えっなぜかお袋は祇園になっていた。


ジムの賄いを女将さんや世話役の女性たちとお袋はこなす。手隙きとなった昼に芸技の講習会に出掛けた。小唄・三味線・琴・日本舞踊。名取さんになるお稽古はお袋の青春時代そのものだった。お袋が久しぶりに扇子を持ち日本舞踊を舞った瞬間に人知れず涙がハラハラこぼれ落ちたらしい。

「また踊れるなんて信じてもいいのかしらね」


お袋にはイキイキとした毎日が訪れた。


マンションでは一緒に住む会長や女将さんから、

「ちょっと三味線やってみて。日舞ってどんなものだった。見たいね」

なんてお袋は言われて。

「まだ昔の勘は戻っていませんわ。祇園の芸技学校時代には厳しく三味線のお師匠さまから(しつけ)られたのでそれはもう自信はございましたが」

お袋は三味線を袋から取り出した。

「この三味線は私が舞妓さんになった記念にお茶屋の女将さんがプレゼントしてくれました」

しっかりと弦の()を合わせ準備に入る。

不束(ふつつか)なものでございますが少しの間御時間をいただきたく思います」


お袋は座布団を用意して上座を作った。思い出の三味線を構えた。


「お母さんかっこいいなあ」

俺はパチッパチッと拍手をしてやった。会長も女将さんも、

「よっひとつ頼みますゃ。こんなところで京都の祇園が楽しめるなんて夢みたい」

拍手に拍手だった。お袋は照れながら、

「まあっ会長も女将さんまでっそんなっ。あまり期待されても困りますわ。まだ無作法なものでございますから」

オホホっと笑いシャンリンシャンと三味線を触る。


座布団に座りちゃんとした三味線弾きの格好になると見違えてしまう。お袋は着物さえ着てはいなかったが祇園の売れっ子芸技そのものとなって見えた。


「ではよろしくお願い致します」


ピィーンと張り詰めた緊張感の中バチを捌きながら弾き始めた。


ガキンチョの俺は恥ずかしながらお袋の三味線なんてまったく知らなかった。だからシャキっと背中を伸ばし三味線を構えたらどこぞの三味線のお師匠さまかなと間違えたほどだった。


聴いた会長はお袋の三味線に聴き惚れてしまう。もちろん女将さんもだった。

「三味線の音色が違っているね。素晴らしい素晴らしい」

会長は祇園の芸者遊び気分で美味しい晩酌を楽しんだ。

「本当に素晴らしいわ。早く名取さんになられてお弟子さんに教えなくてはね」


お袋はバチを捌きながらうっすらと目に涙が浮かんでしまった。


ガキンチョの俺はとにかくお袋が可愛らしく素敵な女性にしか見えなかった。


会長のジムでは小学生の俺は徹底したボクシングの基礎体力を仕込まれていく。

「いいか坊主。成長過程にある今から基礎体力をみっちり仕込んでやればボクシングなんざ朝飯前のお茶の子さいさいさ」


ジムではサンドバッグ打ち・縄跳び・シャドウ・腹筋トレ。時間にしてどうかな1時間もやらされたかな。

「そうそうそんな調子で毎日欠かさず繰り返し練習していくんだ。大切なのは継続とリズムだ」


ジムトレーニングは会長やトレーナーのお兄ちゃんが笑いをまじえながら

楽しく俺に仕込んでくれた。他にも小学生や中学生がいたがみんな同じメニューをこなし和気合い合いとした楽しいだけの時間だった。

「ボクシングって楽しいなあ。ジムって会長さんがいい人だから楽しくトレーニングができるや」

俺の楽しいジムトレーニングは小学の卒業式のその日まで続いた。


第6ラウンドは半ばあたり。


俺はやたら足が重くて重くて悲鳴をあげた。

「足にに来たのはスタミナ切れなんか。ちくしょう動きやぁがれ。足に根が生えてきゃあがった」


ベタ足にしてチャンピオンと打ち合うのはあまり望まれてはいない展開だ。

「腰を据えてチャンピオンと打ち合うのはなんとか避けたい。足がなんとかならぬことには避けたくても避けれない」


カァーン


第6ラウンド終了する。放送席の採点は10-10のイーブンだった。

「チャンピオンも挑戦者も疲れたな。足がピタッと止まった。次ラウンドあたり波乱があるかもしれない」

観衆は唸った。いよいよ足にベタっと根が生えての殴り合いが予想された。


「会長悪い。しっかりマッサージしてくれ。足が象さんだぜ」

会長は黄色いタオルで俺顔の汗を拭いた。

「足なのか」

首に巻いた黄色いタオルを俺の太股とふくらはぎに置く。

「オッ足かっ。よし任せておけ。お前の足はな小学生からずっと面倒を見ているんだ。ちょっとやそっとぐらい言うこと聞かないならお仕置きをしてやらぁ。痛てぇかっ我慢してくれや。痛いならまだ足は死んではいない」

会長は両手に力を貯めてグイッグイッとマッサージをしてくれる。太股は真っ赤になり硬直していた。ふくらはぎは痙攣の前兆が触ってわかった。

「こいつぁ堅いや。鉄みたいな固さだ。だがな(ほぐ)してやるぜ。かわいいお前のためにな」

トレーナーの資格を持つ会長はこの1分の休憩で完全に両足を解せなければ俺の責任だとさえ感じた。

「ボクサーをボクシングに集中させるのが会長であるワシの責任。セコンドについた今はどんなことがあろうともボクサーをリフレッシュさせてやる。リングにワシの思うがままのボクサーを送り込んでやる」


会長の気迫は俺の足に乗り移ってくれた。

「会長さん足は軽々だぜ。象さんからカモシカになってくれたぜ。あんがと」


会長のトレーナーのテクニックは俺の体を知り尽くしていたからの神業(かみわざ)だった。実際には筋肉の疲労なんざ取れるわけがない。だが俺の大好きなおっちゃん会長がマッサージしてくれたら痛みや疲れた感覚が払拭(ふっしょく)をされてしまう。言葉ではなんと形容したものか。


言いにくいが『(やまい)は気から』のあんなもんかな。


俺は会長からカモシカの足をいただいてリングに飛び出した。


カァーン


第7ラウンド。


カモシカ足の俺。軽快なフットワークを駆使してチャンピオンのパンチを避け攻撃していく。

「チャンピオンは年寄り。ラウンドも後半に入るとガクッとスタミナが落ちる。打ち疲れたとか走り疲れたとかさ。あんたの頭の中にはじっくりと足をベタにして打ち合うの図式が登場をしているはずだ。フットワークは死んだも当然だからな。足はもう限界だろう」


俺は左右スゥエィしてチャンピオンをワザと振ってみた。フットワークがまだまだ健在ならばついて来れるはずだ。

「チャンピオンは反応しない」

俺はしてやったりと思った。

「やっぱりダメだったな(足が動かない)」

チャンピオンはベタ足のまま上体を俺に向けたに過ぎなかった。


「しめたチャンスだ」


俺は得意の右をカクテル光線の中振り上げた。チャンピオンニヤリッと笑ったかのように見えた。


お袋は三味線を習い始めたら人が変わった。ジムの賄いさんでも一際可愛い若い奥さんという風情から昔の芸技の面影が見て取れる。

「奥さん綺麗になられたね。なんかジムの賄いなんかさせてしまって申し訳ないなあ」

会長は恐縮をした。

「いえとんでもないですわ。息子も私も面倒を見ていただけて。これくらいのこと当たり前でございます」


お袋は昔の技量がだいぶ戻ってきたようで芸技講習も順調に進む。約1年ぐらいから名取の免許というやつをひとつ2つと取得をしていった。

「お母さんたいしたもんだね。名取さんだね。お母さんというよりさお師匠さまと呼ばなくちゃあ」

お袋はそれはそれは嬉しい顔だった。

「名取さんになれたのは運が良かっただけよ。本当に実力をつけるのはこれからの話だから」


三味線の名取さん、お琴の名取さん。我がお袋はどんどん成長をしていった。


俺が中学生になった頃。いよいよ念願の芸技学校(唄・踊り)の文化教室を開校した。お袋は名実共にお師匠さんになれた。


開校にはジムの会長さんや芸能人のいらっしゃるプロダクションの社長さんとかも出席をしてくれた。プロダクションの関連施設にお袋の芸技学校は含まれた。


「ねぇねぇお兄ちゃん。あの女の子知ってるでしょ」

ジムの女将さんに指差された先にはテレビでよく見掛ける売れっ子タレントも出席していた。

「ヒェやっぱ実物は可愛いなあ」

ジムのボクサーたちはあんぐりと口を開けて今人気の女性タレントを遠くから眺めた。

「何言っているの。あんたたちがチャンピオンにさえなればいくらだって女の子はついてくるよ。これだけジムに若い子がいるんだから。ひとりぐらい芸能人と結婚してくれないかしら。タレント・歌手・宝塚。仲人は会長と私がちゃんと務めますから。間違っても女子プロレスラーは連れて来ないでちょうだいね。プロレスラーはこのジムには私ひとりで十分だから」

ジムの練習仲間は大笑いであった。


俺はこの女将さんのジョークがかなり気に入った。

「チャンピオンになれば芸能人と結婚か」

俺にとっては憧れの女性とはお袋さんだがいつまでもお袋が唯一の女性だとは情けない。中学生の俺は母親離れを感じる。


「女将さん。僕もチャンピオンになってカワイコチャンと結婚したいなあ」

ハハッ中学生の俺はかなりオマセだった。つまらないガキンチョだったなあ。

「おやっお兄ちゃんもそう思ったかい。でもさあお兄ちゃんのお母さんがあれだけ綺麗な女性だからね。

カワイコチャンって言ってもお兄ちゃんに似合う娘さんはねぇ。なかなかいないわ。私も気になって探してあげますからね」

真面目な話で返されてしまった。


お袋の芸技学校(唄・踊り)は開校と同時に人気だった。会長の所有された雑居ビルの一室だったがビルの前に花飾りが幾つも並ぶとほぼ同時に生徒希望が列を作った。


会長さんが言うには、

「お母さんは元舞妓さんだ。まずこのあたりに京都の舞妓や芸者さんが何人住んでるかだよ。物珍しさから集まってくる。ワシだって舞妓がいるなんて噂があれば見に行きたい。後は師匠になられたお母さんがいかにうまく教授をされていくかだね。生徒さんの心をつかむのは至難の技だぞ」

お袋が師匠となり自分で稼ぎが取れるとなったら俺はお袋と二人だけのマンションに引っ越した。マンションは会長の所有だった。


お袋と俺の母子水いらずの生活に久しぶりに戻った。マンションに入居の初日にお袋は改まって俺に話をした。


「お母さんは今日からお師匠さんよ。会長さんのおかげで好きな芸技の道を切り拓いてもらえました。大変に感謝をしています。芸技学校の師範だなんてちょっと恥ずかしいなあ。お母さんには夢の夢だったんだから。だから今度はあなたの番よ」

お袋は俺の手を握った。


会長さんの言う通りにボクサーになってください


中学生の俺は会長についていつも一緒だった。ジムのトレーニングから出先の用事までも。他にも中学生や小学生はジム練習生にいたが俺は特別だった。

「おいお兄ちゃん来週に4回戦ボーイがあるからワシについて来い」


会長のジムの若手が4回戦ライセンスを取得したからその試合がマッチがあるらしい。

「4回戦って。プロの試合だね」


トレーニングジムの中でも練習生同士の練習マッチはいつもある。ヘッドギアをガチッとはめてガードは万全な練習試合。だから対外試合は始めて観戦をする。ただ見ているだけなら気楽だなと俺は思った。

「なんだって。のんびりボクシング観戦じゃあないぞ。ちゃんとしたセコンドだぞ」


会長さんは会長さんの考えがあった。

「あんまり年端(としは)のいかないうちから壮絶な殴り合いを子供たちには見せてやりたくない。お兄ちゃんは中学生になったからな。もういいだろう」


都心にあるボクシング会場。俺は会長とトレーナーのあんちゃんに連れていかれた。


当日の試合は会長のジムからは4回戦ボーイだけが出場した。会長の方針でジムの練習生はちゃんとトレーニングを積んで来ないことには試合(マッチ)に出場させてもらえなかった。ダラダラ数をこなすことはできない。

「へぇ試合(マッチ)は4回戦・6回戦・8回戦なんてあるんだ。みんなプロボクサーなんだ」

俺はのんびりとしたもんだった。まったくノー天気な遠足気分だった。

「将来有名ボクサーになる選手からサインもらえたら最高だなあ」

本気で考えていた。


会長はジムの練習生を盛んに元気づけていた。

「しっかりせいや。4回ボーイなんざ強い奴なんお前しかいない。チョイチョイと顔を撫でてやれば勝てない相手じゃあないさ」

会長にハッパをかけられた4回戦ボーイは緊張感から真っ青な顔であった。

「本当に僕は強いんでしょうか。なんかあの相手みたら自信なくなってしまいます」

プロ4回戦テストを合格したばかりの高校生。会長のジム入門は中学生時代にいじめに遭ったから。自分をボクシングで鍛えたらいじめられないだろうが動機になる。高校は進学高校。

「大丈夫さ。会長の俺が太鼓判を押すよ。お前だったら軽々とワンツーを放しおしまいさ。ゴング間近だ。気合い入れて勝ってこい。ジムはお前の(4回戦勝利)祝賀会を楽しみにしている。だけどさ年寄りのワシの楽しみを奪わないでくれよ」


トレーナーは俺にウインクをした。

「ウチのジムだけじゃあないけどさ。ジム練習生が全員プロボクシングに行きたいとは限らないんだ。あの高校生みたいに健康のため護身術のためになんてのがかなりあるんだ」

トレーニングジムの経営のために様々な練習生を受け入れなくてはならなかった。


「ジム練習生が増えてくれないと経営が苦しいからな。練習生がわんさか来るにはいかにたくさんチャンピオンを輩出(はいしゅつ)させるかだ。残念ながら我がジムからは日本チャンピオンも東洋太平洋チャンピオンも輩出していない。世界チャンピオンなんてやつは雲の上の話さ。もしかしてお兄ちゃんが一番最初のチャンピオンになるかもなアッハハ」


ボクシング会場の4回戦は始まった。会長のジムからは全員で6人がエントリーしていた。


俺は会長とトレーナーのあんちゃんに挟まれてリングのコーナーで待機をした。セコンドは会長がやるから俺は小間使いだった。


バケツもってこい。バンテージ出せ。おいハサミ早く早く。ワセリン缶出してこい。バカ野郎そんな缶ごと持って来やがって、ちょっとでいいんだちょっとで。俺のタオルどこだい。えっ頭にある、アッ!


セコンドは戦場化していた。


俺は会長とトレーナーの罵声ばかりに気を取られ試合(マッチ)をひとつとして見れる余裕がなかった。

「4回戦にジムからは6人参戦したが誰ひとりとして倒れなかった。となると判定で勝負決まっていたわけか。結果はどうなったのかな」

帰りのワゴン車の中会長さんは上機嫌だった。

「イヤァー嬉しい。ワシはとてもとても嬉しい。6人のワシの孫たち(練習生)が全員勝ちだとは」

会長が機嫌よいのも頷けた。


それからも4回戦や6回戦は会長について試合(マッチ)に俺は行く。たいてい勝って帰ってくる。 

「なあお兄ちゃんウチのジムは強いだろうアッハハ」

会長は勝ち試合(マッチ)のカラクリを簡単に説明してくれた。


「トレーナーからも聞いているだろうがな。ジム経営は練習生で成り立っている。プロ志向の練習生なんざほとんどいやしない。ならば楽しみでボクシングをしてもらいたいと思ってなあ。4回戦ボーイや6回戦ボーイぐらいなら必ず勝てる試合(マッチ)だけを用意してやるんだ。ワシの力量と眼力だぜ」


痛い思いをして殴られて負けたら練習生は次の日から来ない。どうしても勝たせなければならなかった。


だから4回戦や6回戦の祝賀会は豪勢にジムで開催された。

「僕は本当に嬉しいです。4回戦ライセンス取れてこうして初勝利がいただけて」

進学高の高校生4回戦ボーイは感慨深い喜びを現した。


中学生の俺はジムトレーニングも徐々に本格化をしてきた。リングにあがってスパーリングこそないものの他の練習生メニューは4回戦や6回戦ボーイとまったく同じものを消化させられた。


小学生から基礎体力だけは溜め込まれていたためかジムの与えるメニューはさして苦痛だということもなかった。

「お兄ちゃんまあまあ慌てなさんな。徐々に練習生のメニューを増やしてやるからさ。今はボクサーというものを楽しくしなさい。ボクシングとはなんなのかを感じながら基礎体力向上だな。無理なことはしてはいけないぞ。途中で苦しいと思えばどんどん休め。体壊れちゃったらなんにもならない」

トレーナーのあんちゃんがそうアドバイスしてくれた。


この頃はイメージとしてはジムでサンドバック叩いて縄跳びやって帰りにジムの雑巾(ぞうきん)かけて帰ってくるようなものだった。


お袋の芸技学校はお弟子・生徒さんが集まっていた。

「まあっこんなにもお集まりになられて。私みたいな不束な者が(教えても)大丈夫かしら。なにやら心配です」

お弟子さんが集まるかどうかの心配もあったがお袋自身がより心配だった。

「お母さん大丈夫か。体が細いからさあんまり無理しちゃあいけないよ。疲れたら休みをちゃんと取ってよ。お母さんが倒れたりしたら代わりのお師匠さんがいないんだから」


お袋は芸事の免許皆伝のためにどれだけ無理をしていたか俺は知ってる。


朝晩はジムの賄い。ジムと寮の練習生の洗濯物。


それで手が開けばお袋の習い事。習い事は夜帰ってくるなりマンションの屋上で三味線の練習。毎日一体何時間働いていたというんだ。

「大丈夫よ。芸技事は全部大好きですから。楽しくてたまらないわ。夢の中でも三味線や日舞やっているみたいなお母さんよアッハハ」


免許皆伝となれば時間がもらえたかと言えば、

「芸技学校の開校準備に手がかかるわ」

教室はどんな間取りにするか。座敷は日本間はどこにパーティーションさせるか。貸出し用の三味線はどうするか。教えたくなるであろうお琴はどうするか。


いずれもお袋がいないことには回らないことばかりであった。

「心配ですか。やだなあっお母さんそんな(やわ)い女だと思っていたの。大丈夫よ頑丈だから。なんだったら確認しましょうか。私とボクシングしてみる」


そりゃあなあっ戦車で引いても死なない体なら心配しないけどさ。


芸技学校はお袋の頑張ったお蔭で順調に船出ができた。お弟子さんも若い師匠のお袋を慕ってくれた。楽しくお稽古を続けることに決めてくれた。


「この調子なら会長さんから借りた開業資金もすぐに返せそうだわ」

マンションに帰ってくるお袋はいつも楽しくて笑顔だった。

「お母さんは楽しい毎日だね。明るくなっているね」


俺と一緒に夕飯を食べてからお袋は屋上の三味線のお稽古は毎晩欠かさなかった。

「ちょっと聞いて。昨晩ねマンションの屋上でね」


夕飯を食べながらお袋が俺に言うには、

「三味線を弾いていたらマンションの大家さんに見つかってしまったの。アチャアやかましいから屋上は辞めてくださいと言われるかなとお母さんシオってしたのね。ごめんなさい許してくださいって。ところがでございます」

マンションの大家さんはニコニコしながら、

「三味線のお稽古ですか大変ですなあ。あのぉどうせなら」


マンションの中に集会場所があるからそこで定期的に弾くことをしてもらえないか。


「お母さんね三味線のリサイタル頼まれちゃったエヘヘ」


三味線お稽古がリサイタルになる。一石二鳥(いっせきにちょう)となった。


お袋は嬉しかったんだね毎晩リサイタルを頑張って開いていく。そのうちに芸技学校のお弟子さんも初級程度なら弾くことができたからとマンションのリサイタルに参加されてくるんだ。俺もたまには聴きにいくんだけどね。嬉しかったのは聴衆がいるということ。

「だって誰も聴いてなかったら淋しいじゃあないか。ポツポツだけどお年寄りさんがちゃんと座り聴いていた」


お袋はいつものように背中をピンっと伸ばしかっこいい三味線だった。

「祇園の芸技そのものだね。なんか三味線のバチさえ握りしめていたら後は何も要らないという人だなあ。お母さんが後10年若いならばあのまま三味線で芸技さんになれそうだ」

俺の自慢なお袋さん。

「私のお弟子さんは芸技学校で習いマンションのリサイタルで実力を発揮する。なんか夢みたいな話だわ。私としても腕が研かれいくから一石三鳥(いっせきさんちょう)くらいかしら」

長生きしますよお袋さん。俺が世界チャンピオンになるまで頑張ってください。


お袋の芸技学校には芸能人も所属するプロダクションが資金提供をしていた。ジムの会長が援助を申し出ていただいて協賛になってくれていた。

「やあ奥さん立派な学校になっていますね。感心感心だ。このまま教室の規模を拡大したら単なる芸技学校つまり習い事の教室程度から専修学校の許認可も申請できるかもしれませんね」

プロダクション社長だった。

「専修学校になさるには三味線専任講師・お琴専任講師と必要な人員を揃えなければなりませんけども」


プロダクション社長はお袋に儲かるからと業務拡大を勧めた。

「ウチとしましてはタレント養成の一環として芸技学校(唄・三味線・日舞)さんとも提携を結びたいかなと思っています。資金提供は確かに私も会長さんとの付き合いからしてはいますけども。まあ提供は提供でジムの会長さんとの取り決めです。まったく違う話ですなあ。よろしいのならば私と同じお弟子さん生徒さん養成の立場で手を結びませんか」


社長の本業はタレント養成。歌唱とダンスレッスン。どちらかと言えばテレビ向きの華やかな養成であった。

「社長さんの仰るタレントさん養成と私の始めたばかりの芸技全般のお稽古とはどのような感じで関わりますのかしら」


お袋としては、いや芸技のお師匠さんとしては和の芸技を教えていくのが守備範囲だと思っている。ところが社長さんのタレント養成は洋なる分野、カタカナ横文字のポピュラーミュージックやミュジカル・ダンスと西洋楽器の世界ばかりではないのかと思った。接点を見つけることが難しく感じられた。

「和の芸技と言うと日本伝統文化の世界でしょうか。洋のタレントは戦後アメリカやヨーロッパから輸入された異文化でございますから。この両者の接点は戦後の芸能がサブカルチャー化してしまいまして」


なにやら社長はシドロモドロな説明に終始し始めた。先程のビジネスライクな話とは明らかに様子がおかしい。

「社長さんどうかなさいましたか。なにか御気分でも」

お袋に言われた社長は急に顔を手で覆い隠した。

「失礼致します。何か急に気分っ、そうですね気分が悪くなりました。空調のせいかなアッハハ」

社長は逃げるように立ち去っていく。


お袋やお弟子さんたちはなんでしょうかと首をかしげた。


第7ラウンド。


俺は渾身の力を込めて右ストレートを放つ。チャンピオンの顔面に目がけて右を繰り出してやった。チャンピオンは足が止まり動きはないと見たからだ。


バシッ


ウグッ


そんなバカな。俺のストレートは当たらずチャンピオンはスゥエィをして切り返し逆に俺の(ストマック)を一発見舞いやがった。

「チャンピオンは死んだふりしてやがった」


俺の腹を殴ったチャンピオンはニヤリとしてやったりの顔をした。

「油断していた割にはショックが少ない。さあさあもっと攻めて攻めてこい」

チャンピオンはガードを下げていく。いくらでも踏み込んでこい。俺の懐に飛び込んだら最後だ。クライマックスがパックリ大きな穴を開けて待っている。キサマのノックアウトがな」


俺はこの(ストマック)を喰らいチャンピオンの恐ろしさを感じてしまった。

「殴っても殴っても立ち上がって来やがる。まるでサンドバックじゃあねぇか」


カァーン

第7ラウンド終了する。放送席の採点は10-10のイーブンだった。


「どうだ足は。さあ座れ。さあしっかり(ほぐ)してやるからな。軽快なフットワークをチャンピオンさんにお見せしなくちゃあな」

会長は足を入念にグイッグイッとマッサージしてくれた。過熱しちまった足はおとなしくしてさえすればいくらでも回復をする。ただ放っておけないのがボクサーの(さが)ってところかな。

「会長さん気持ちいいよ。ああ最高の気分だぜ。気のせいか足に羽根が生えた気分だ。さあもうひと踏ん張りしてくるか」

俺の棒のような足に鎮痛湿布薬も効果が出た。俺の足であって足ではない感覚だった。


「これだけしっかりと揉んでやれば最後のラウンドまで持つ」

会長は黄色タオルを足から取った。俺の足は柔らかな筋肉に戻っていた。

「会長は魔法使ってくれた。足に羽根が生えた気分だ。さあもうひと踏ん張りしてくるか」


第9ラウンド。


カァーン


「ラウンドもここまで来るとなんとなく我慢比べだ。チャンピオンさんよアンタも苦しいだろうな。なんとなく顔いろが悪くなっている」

チャンピオンの苦痛に堪えている顔を見た。

「ならよっこんなリングにいてはいけない。さっさとマットの上にグテンッとお寝んねしていな。顔いろの悪い時は横になって寝るのが一番だと教えてやる。俺が今から優しく撫でさしあげる」


俺はフットワーク軽く右左と体をリズミカルに振ってみた。時折ジャブを出してチャンピオンの出方を見てやる。チャンピオンに対する恐怖心はそれでもなかなか消えてはくれなかった。

「ボクサーがボクサーを怖いだと。会場に詰め掛けたファンの皆様にそんなことを言ってみろ。笑ってもらって石投げつけられちまう」


両者軽くジャブの打ち合いとなっていく。


「この終盤のラウンドは苦しいぜ。スタミナ勝負というとこか。おいチャンピオンはグラグラしていたのに盛り返してきたぜ。足がベタになってしまった。それでもベタなりにボクシングしていやがる。老かいな奴だまったく」

観衆はラウンドが進む、チャンピオンは年齢が高いからもはやスタミナはないだろうと見た。

「再度打ち合いになればチャンピオンは倒れる」

一瞬のチャンスを観衆は待つ。


「確かにチャンピオンはスタミナは切れている。フットワークが完全に消えていやがるからさ。俺の軽快な足にはついては来れない」

俺は打ち込みのチャンス、連打を確実にチャンピオンの顔面に打ち込める時を狙い済ました。


ベネズエラのチャンピオンは俺の憧れの伝説の人だった。


お袋の芸技学校は開校以来お弟子さん生徒さんがわんさか押し掛け大盛況。

「嬉しいことね。だったら私が一人で教授しているだけでは手一杯。講師さん新しい師匠さんを頼みましょう」

お袋は自分の好きな三味線のお師匠さんだけに専念して日本舞踊やお琴は他人に任せた。

「お師匠(お袋)さまよろしくお願い致します。私は日本舞踊は20年教えて参りました。お弟子さんを任せていただき光栄でございます」

日本舞踊の名取さんがさっそくに手伝うことになった。

「お師匠さま。お琴を私に指導させていただき嬉しいですわ。そんなお琴伝習場で知り合っただけの私に。この光栄を胸にしてしっかりとお弟子さんを教えたいと思っております。よろしくお願い致します」


芸技学校の師匠としてのお袋は負担が軽くなった。好きな三味線に没頭できるとお袋は師匠としてまあ喜びもあったかな。


日本舞踊やお琴と講師さんを雇いお袋は芸技学校の校長先生に収まる。さらに教室は増やしていく。日本舞踊もお琴も。お唄(歌謡・長唄)や茶道(お茶)・華道(お花)まで手を広げた。教室が手狭になってしまえばジムの会長に隣のフロアを解放してもらった。


受付嬢を昼間雇い簡単な経理のできるオバチャンも雇用できた。


「あの芸技学校は京都の祇園さん仕込みよ。優雅な芸技の風情を味わいながらお稽古されるみたい。ねぇ行ってみましょうか」

お弟子さんや生徒さんは口コミから簡単に集まってくれた。


全てがうまく行き順風満帆な教室経営、お稽古学校経営だった。その理由のひとつが近くには同じ芸技学校がまったくなかったことだった。子供さんが習うピアノやエレクトーンは幾つかはあった。社交ダンスやフラメンコもあったが三味線やお琴そして日本舞踊は幸いなことになかった。

「私も子育てに手が離れたから何か習い事したいなあと思っていましたの」

中年過ぎの御婦人には好評を博す。

「これだけ盛況ならお弟子さんに腕前の発表の場を設けたいわ」


お袋は習い事は楽しみという趣味の域とは考えていなかった。とにかく三味線は人前で弾き楽しんでもらう。日本舞踊は観客に喜びを与えるものだと考えていたらしい。

「祇園なら舞子さん芸子さんとして御座敷がかかるものだけど」

お稽古の成果が発揮できないのは歯痒(はがゆ)いお袋だった。


そこで相談したのが例の芸能プロダクションの社長さんだった。芸能人を扱い馴れていらっしゃるんだから芸技ぐらい簡単ではないかとお袋は考えた。

「芸技の発表の場っていうと」

相談された社長は腕組みして考えてしまった。

「急に言われたって三味線やお琴はタレントに関係ないから。芸能人にはそりゃあ三味線弾きもお琴さんもいらっしゃるけど」

使い(みち)はNHK教育テレビ趣味の時間程度しかないと判断した。つまりはシロウト三味線では使えない。

「お師匠さん少し時間をいただきたい。三味線やお琴は日本伝統文化の芸技の大切なもの。タレントのような人気商売と異なり流行り廃りがまずないから」

社長は頭をハンカチで拭き拭きしながら丁重に断った。

「ウチのような華やかな世界の芸能人タレントと辛気(しんき)臭い三味線なんか合わないぜ。まったくなに考えていやがるんだこの芸者崩れは。三味線なんてありゃあ年寄りの聴くもんだぜっ、年寄りの音楽だっ。うんっ年寄りの聴く世界ってかっ」


社長は再度腕組みをする。


2〜3日置いてお袋に電話が入った。

「お師匠さんありました」


社長は芸技学校とのタイアップを見事に考えついた。

「ウチのタレントを売り出す際にデパートやスーパーの催し会場で歌や踊りのアトラクションを披露いたします。そのターゲットは若い層なんですが」

アトラクションの中身に三味線を入れてみようかと言い出した。


※実際に三味線にエレキコードを繋ぎロック調でコンサートを開いているミュージシャンもいる。


三味線やお琴は若い孫を連れているおじいちゃんおばあちゃんをターゲットにとした。

「構わないだろ。どうせギャラは払わないのだから」


話を聞いたお袋はちょっとがっかり。

「何もあんなざわざわしたデパートでやらなくても」

お袋は難色を示したがお弟子さんたちは、

「お師匠さんデパートなんて愉しそう。たくさんのアトラクションの縫いぐるみの横で三味線やってみたい。お琴を弾きたい」


現代っ子には勝てないね。


こうして和洋折衷のアトラクションの催しが決まる。さっそくお稽古が始まった。三味線やお琴に現代風の曲相をアレンジする必要が生じたからだ。若いお弟子さんを中心にしてこのアレンジは好評になっていく。

「いいなあっ三味線でポップスできるなんて。私着物でさあ三味線持って三味線女忍者(くのいち)やりたいアッハハ」

普段のお稽古より熱が入った。


ところがお袋は嫌だらしい。

「そんな三味線で歌謡曲をやるなんて。ポップスを三味線でやるんですか。三味線女忍者(くのいち)ですかっ!ああっ頭が割れそう」


歌謡曲やポピュラー音楽は聴くだけのもの。三味線はあくまで日本伝統の文化を(かたく)なに守るものと認識していた。

「祇園のお母さんが聞いたら叱られますわっまったく」

お袋は頭が割れてしまったが(笑)デパートのアトラクションは大盛況になった。

「チビッコたちは縫いぐるみのキャラクターに夢中になってワイワイキャアキャア。若いタレントが歌って踊るダンスにも関心を寄せていた。


子供の親御さんたちは、

「へぇこのアトラクションは三味線とお琴でキャラクターが踊りまくっているのか珍しいなあ」

違和感を感じながらも三味線やお琴を聴いてはいた。

「できたら三味線は三味線で楽しんでみたい。お琴はお琴でじっくり聴かせてもらいたいね」

親御さんの要望が社長には届く。

「わかりました。お任せください」


それからはアトラクション+芸技(三味線・お琴)と二部構成のイベントになる。

「まあ三味線だけお琴だけとしていただいたのなら」


お袋はまずは一安心であった。


第9ラウンド。


俺は軽快なフットワークでチャンピオンを右左と振り回す。足が完全に止まったチャンピオンは骨折をした家鴨(アヒル)のようにもがき苦しんだ表情だった。


「この第9ラウンドが倒すチャンス」


俺は得意の右を当ててワンツーと畳みかけてやることを考えた。今なら倒すことができる。今が倒す時だ。


チャンピオンが軽くジャブをワンツーと繰り返し出してくる。老かいなベネズエラは採点をなんとかよくしたいとやたら手数だけは稼ぎにくるらしかった。

「だから負けないチャンピオンになっていたわけだな」

チャンピオンはスタミナは切れてしまい俺を倒すパンチも気力も喪失していた。


「チャンスを待て。タイミングをはかれ。俺がいよいよバンタムのヒーローになるときがやって来たぜ」

観客は俺の心中を見透かしたかのごとく声援を送った。

「倒せ倒せノックアウトしちまぇ。ヨレヨレの年寄りなんざとっとと倒せ」

歓声には罵声(ばせい)(まざ)った。

「今夜はつまんねぇ試合だからよっ最後にバシッと決めてやれやぁ」


つまらないだとっ凡戦だと。俺の耳にはこんなくだらぬ野次はストレートにガンガン入ってきゃがる。

「金払って観に来てくれて恩に着るぜお客様よ。ならば俺様の試合はチャンピオンロード黄金のカードだということをしかと教えてやるぜっお客様たちよ」


チャンピオンの左右のジャブが途切れた。一瞬だがガードが下がり隙が見えた。


「今だ」


俺は渾身の力を右ストレートに溜め込み放つ。


ガックッ


まずは簡単にヒットした。チャンピオンはヨレヨレと一歩後退しゃあがった。


後は俺もよくは覚えていやしない。無我夢中となりチャンピオンとは腰を据えて殴りあったらしい。お互いにスタミナがないらしくパンチがそこそこしか効かない。

「ハッハハ殴っても殴っても効かないんだぜ。笑ってくれよ」


カァーン


第9ラウンド終了する。放送席の採点は10-9で挑戦者リードであった。


「よくやったよく攻めた褒めてやる。いよいよ奴さん息の根止まるようだぜ。いいかノックアウトができると思って焦るな。仕留めたくなるっていうとどうしても頭デッカチになりがちだ。しっかりチャンピオンを見てやるんだ。あの年輩のチャンピオンにさようならを言わせてやるんだ」


セコンドの会長がグダグダ俺にアドバイスをくれたのは微かに覚えてはいる。だが大半は、

「会長眠くなっちまうぜ。よしてくれ子守り歌はよ」


俺は意識が朦朧(もうろう)として視点が定まらない。

「どうしちまったんだかわからない。リングが(ゆが)(ひず)んで見えてやがるぜ。ロープはまっすぐになっていないぜ。会場は地震があったのかい。震度はどのくらいなんだ。Yahooニュースで確認しなくちゃあな」

俺はすでに限界を越えたらしい。会長がいけっと肩を押し掛けくれなければリングには入れやしなかった。

「おい話を聞いているか。おいしっかりするんだ」


バシッ


会長が頬を叩いた。俺は夢か(うつつ)か幻しかとわけのわからぬエアーポケットにぼっかり落ちちまった。会長のビンタひとつでハッとして目覚めた。幻覚が襲ってきやがったらしい。極度の緊張感と体力の消耗。体が脳下垂体からもう限界だから休みなさいとキツい指令をガンガン出しゃあがる。

「辛れぇのはやまやまだがな。お前も辛いところでチャンピオンも辛いんだ。残り3ラウンド気をつけて戦うんだっいいな。チャンピオンのアッパーは気をつけていくんだぞ。死に物狂いで繰り出して来やがるぜ」

会長はこの第10ラウンドまでやってくればもう倒せだとか打ち合えと一切言わなくなった。言葉を変えたら無理はするなっだろう。


判定での決着に俺への覚悟はできているようだった。


第10ラウンド


カァーン


ゴングが鳴りさえすればボクサーの習性が目を醒ます。俺はシャキッとしちまった。寝惚(ねぼ)(まなこ)に痛い一発をチャンピオンから喰らっちゃあ嫌でも目覚めやがる。それまでぼんやりとした視界が霧の晴れたようにクリアに見えてきた。


チャンピオンはベタ足を隠すこともなくひたすら打ち合え殴り合えと誘いをかけてきゃがる。わざとガードを下げ俺の右を出させる算段だった。

「打ち合いはチャンピオンのお得意な手段。第10ラウンドで頑張って殴り合えば俺は倒れてしまう。今の俺にパンチを出す気力はあってもスタミナがない」


会場からは罵声が飛ぶ。タラタラとした試合運びは退屈にしか見えない。

「打て打て殴り合え」

気がついたらお互いに様子見をしていた。手数がめっきりと減ってしまった。


そうなるとレフリーが登場しちまう。

「どうかしましたか。しっかり試合(マッチ)をしてください。これは世界タイトルマッチです。お忘れないようにお願い致します。両者に減点1をつけます。ファイト」


減点かよっと俺はカッとしちまった。チャンピオンめがけ大振りな右をつい出してしまった。


右のストレートが空拳になるとチャンピオンの怒濤の反撃がバックリと口を開け待っていた。


お袋の芸技学校は様変わりをした。芸能プロダクションとの提携からパッとイメージチェンジをしていく。

「三味線でポピュラー演奏は若いお師匠さんに頼みます。私はあまり勧めたくありませんから」


お袋はお袋京都の祇園の三味線を守る姿勢を崩しはしなかった。

「私が日本伝統だとか言うのもおこがましいのですけども」


こうしてお弟子さんはお袋に指導される年輩の御婦人方と若いお師匠さんの歌謡曲三味線と分野が分かれてしまう。

「まったく嫌になってしまう。教室の看板は芸技学校って書いてますのに。中に入ったら芸技全般のお稽古と歌謡曲やポピュラー音楽のレッスンと分かれていて。皆さん驚きますわ。驚いて帰りませんかしら」


お袋は歌謡曲三味線には文句ばかり並べたがそれでもお弟子さんは喜んでいらっしゃるのだから我慢ができた。


「お師匠さんよろしいですか」

芸能プロダクション社長さんからの電話であった。


デパートやスーパーのアトラクションや公民館などのちょっとした座興でお袋と業務提携を結んだ社長である。


社長は商才が長けていたらしく三味線やお琴を日本伝統文化に相応しい場所を見つけてはタレントの卵とタイアップをさせて送り込んでいた。

「三味線はまったく知らない分野だった。だが探してみたらあるものだ。こちらが勉強しなくてはならいくらいだった」


結婚式場を含む祝いの場所は社長が強引ともとれる営業手腕で送り込んでしまった。


歌謡曲を奏でる三味線は人気が高くそれなりの実入りが見込まれた。社長はお袋に感謝をしていた。


ビジネスとして歌謡曲三味線は軌道に乗ってはいたがギャラは支払わなかった。その社長がビジネスの話を持ってきた。


「タレントや縫いぐるみのキャラクターとの歌謡曲三味線は大盛況でございます。ウチとしましても生バンドを雇うより安上がりでよかったと喜んでます」


※生バンドは目の飛び出るくらいの費用金額だった。社長は一度新人タレント売り出しに試しに契約をしたが、懲りてしまった。


「さようでございましたか。それはそれはようござんした」

お袋はつまらない。歌謡曲三味線は人気あれど芸技三味線があんまり芳しくはないとまたまた御立腹である。

「つきましてはまたですね新しい企画を立案しました。私どもの主催するコンサートホールでのお土産ものなどの商品でございます。立案の段階で申し訳ありませんが御賛同願いたいと思います」


お袋は商品とはなんですかっと気楽に答えた。


2〜3日して社長の会社から顧問弁護士と名乗る女が現れた。お袋はまったく弁護士の来校訪問を社長から聞いてはいなかった。


「はじめまして私は社長さんから依頼をされた顧問弁護士です。つきましてはコンサートでのお土産物産関連の商品のことで契約を締結したいと思います」


なにやら難しい単語をちらつかせながらお袋に契約書に判を押せと女弁護士は迫ってきた。

「お師匠さまが商品納入の同意書に判を押されますと商品が物品されるたびにロイヤリティが発生をいたします。ロイヤリティは我が社とはハーフハーフと考えておりましたが」

女弁護士は早口で(まく)し立てた。


とてもではないがお袋には到底理解のならぬ話となってしまう。最後には嫌気が差してしまう。


「判はどこに押されますのかしら」

なんでもよいから契約してしまえ。そんな気持ちだったであろう。

「ハイッこちらの連写式書類の上でございます。判は会社印をお願い致します」

この台詞(せりふ)は聞き取れた。


女弁護士の差し出した契約書類はコンサートでのお土産物品の購入納入手続き書類。お土産商品はすべて3掛けの納入品で買い取りが基本と明記されていた。お土産商品の売値値札には1万とか2万とかの高額値札であった。


コンサート会場のお客様が全部購入をしてくれなければ赤字が見込まれた。


さらに連写式書類の二枚目は恐ろしいことに『連帯保証人』書類となっていた。プロダクション社長はお土産商品が売れ残るであろうと想定していたフシがある。その危険回避の目的に何も知らないお袋に白羽の矢を当てたということになる。連帯保証人はいかにあがいてみても逃れることは出来ない。


「はい結構でございます。私の任務はこれだけでございます。しかしお師匠さま」


女弁護士は母親が芸者だったと身の上話を始めた。小さな時から三味線や日舞には興味がたぶんにあった。

「私も若ければ習いたいですわ」

世間話を少しして退座していく。女弁護士がスゥッと鞄に入れた連写式書類はとんでもない重みを持っていた。


翌朝に社長からお礼の電話があった。

「もしもしお師匠さんですか。お土産商品購入のサインありがとうございました。おかげさまで助かります。コンサートの売り上げは好調でございます。半期ごとに売り上げ利益を計算致します。銀行口座を楽しみにお待ちください。ではよろしゅうに」

この電話の時点では1万や2万もするお土産が売り上げられていた。社長もまともな商売ではあったと言えた。かなりある売り上げ金額から仕入れ値を引かれるため赤字補填にまでは至らなかった。つまりお袋には何も災難は降りかかりはしなかったとなる。


「あのもしもし。そちらにお師匠さんはいらっしゃいますか。私は消費者被害の会顧問弁護士でございます」

お袋の取り次いだ電話は地獄への第1歩だった。


お土産物品商売が焦げ付いたと知らせてきた。

「被害の会だと言われましても私にはさっぱりわからないのですが。お土産とはなんでございましょうか」 


被害の会弁護士は手短に商品買い取りシステムの悪用さを説明をした。

「端的に申し上げますがお土産品の支払いをお師匠さまがなさらないから(土産物の)生産者が賃金未払となって困っております。私は被害者の会の立ち上げ発起人となる弁護士でございます。支払いに応じないのであらば法的手段にも出ます。つまり訴訟を起こし法廷で争うことになります。よろしいでしょうか」


お袋は訴訟だ法廷だと聞いて青くなってしまう。無理もない身に覚えのない話だから。


慌てプロダクション社長に連絡を取ったが。

「えっ電話通じないわ。事務所も携帯もダメだわ」

計画的に夜逃げをされてしまった。残ったのは連帯保証人としての証文と借金であった。


「どうしたんだいお母さん。元気ないじゃあないか。また何かい歌謡曲三味線にいじめられて悔しい思いしているんかな」


お袋の心配を余所に無邪気なボウズだったなあ俺はさ。


騙された話を聞いて俺は直にジムの会長さん女将さんに相談をする。


「なんだって騙されたのか。あの社長が連帯保証人に判を押したんだって」

会長は金銭にはかなり苦労を強いられた人だった。連帯の二文字がいかような重みなのか充分に知っていた。

「お師匠さんそりゃあ迂濶(うかつ)だったな。判を押すサインをするは気をつけてやらないといけない。でいくらなんだい赤字補填か弁償補填金額っていうのは。弁護士は耳を揃えて支払えと言うんだろ」

会長はお袋から子細に話を聞いた。

「う〜んどうにもワシひとり手に負えぬな。被害者の会の弁護士がいきなり登場されてはな。こちらも立てざるを得ぬだろう」

ボクシングジムの協会の弁護士に相談をまずしてみた。ボクシング協会の弁護士からの電話がすぐ返ってくる。

「お師匠さんですか。被害者の会と連絡を取ったんですが。まず結論から申し上げます。損害補填は免れることが出来ないです。連帯保証人のその芸能プロダクション社長を捕まえぬ限りお師匠さんが全補填となります。以上ですよろしくお願い致します」

せっかちな弁護士は協会業務以外はつまらないなあっという有り様だった。業務的にガチャンと電話が切れてしまった。


ことは大袈裟になってしまったようだった。


当時のお袋は芸技学校の経営は順調そのもの。会長さんからの負債を月々ちゃんと返済をしていた。学校の入ったマンションも教室の備品の数々もまだ自分のものにはなってはいない。


※プロダクション社長への借金は自動的に消滅させた。


お袋は身に覚えのない借金を背負わされてしまう連帯保証人にされてしまった。


「弱ってしまうわ。私どうしたらいいのかしら」


心配をしたジムの会長さん。たびたびお袋を気にして芸技学校に足を運んではくれた。

「借金というやつはあったらあったで励みにはなる」

会長も信頼をしていた知人の保証人になって火傷(やけど)をしたことが数回ほどあった。ただし連帯保証人は予防知識があったために経験はなかった。


会長はお袋の親代わりとなり被害者の会と交渉の窓口となる。またプロダクション社長を詐欺罪で告訴をしてもくれた。

「何度も交渉しても話は平行線を辿ってしまうな。お土産商品が売れたら利益が出てなんのトラブルにもならなかったであろうに。だから売れもしないお土産を作った生産者(被害者)にも責任があるような気がするが、まあそれは屁理屈とかいうやつか」

会長もガックリと肩を落としてしまう。


会長はお袋とはどんな話し合いを持っていたか定かでないが借金の肩代わりを申し出てくれた。

「ワシが払える範囲ならば肩代わりしてやる。元々はあんなプロダクションのチンピラ社長を協賛にしたがための災難だからな。責任の一旦はないとも言えない」


お袋は泣いてお礼をした。

「会長さんありがとうございます。この御恩は一生忘れはしませんわ」


その恩を忘れていなかったのは俺様も同じさっエヘヘ。


「会長さんお母さんの借金ってさ」

俺はガキのくせにやたら大人の世界に顔を出して見たくなる性格がどうやらあったらしい。


「ボクシングのチャンピオンになったら耳を揃えて返したい」


会長さんはキョトンとして中学生の俺を見ていた。

「よしよしいい子だ。おっそうだベネズエラからもらったチョコレートがあったな。あれをやるから持っていけなアッハハ」

中学生の俺を子供扱いされてしまった。子供は確かに子供だが。


それからはお袋はガムシャラに働いた。三味線のお声の掛かる座敷にはどれひとつ断りなく出向いていく。勢いとしては酒の席でコンパニオンまでもやりたいそうな雰囲気であった。


ジムの会長さんへの借金返済を一日でも早くという気概であった。

「お師匠さん。借金は肩代わりしたんだからそんなにも(こん)を詰めなくてもよいではないではありませんか。芸技学校のことだって充分にワシは元が取れているから」


お袋はそうも参りませんわと月々の返済金額を倍にした。芸技学校に関連の負債は1年と半年で完済の日を見た。


「奥さんお師匠さんよく頑張ってくれましたな。しかも短期の間でキッチとして。ワシはこれだけで充分じゃよ。幸いジム経営もうまく軌道に乗っているから。ワシからみたらお師匠さんは娘も同然もうな他人行儀はやめてもらえたい。ウチの奴も同じ気持ちでいる。なっだからもう充分じゃて」

会長は涙してお袋に感謝をしてくれた。お袋はホッとした顔だったらしい。


会長に芸技学校援助を完済した夜お袋は俺と二人っきりでホテルのディナーに出掛けた。お袋は頑張った自分へのご褒美のつもりだった。


「やっと会長さんに完済したわ。ただしね教室の分だけだけどね。お母さんまだまだ頑張って行かなくちゃならないわ。よし頑張っていくぞ〜」

陽気なお袋はレストランのラウンジでも腕を(まく)って元気さをアピールした。お袋の腕は細く青白かった。

「ここのフランス料理は美味しいわ」

お袋は元舞妓だけあって京都の高級料理屋・ホテルの料理には精通をしていた。純和風な雰囲気ではあったが和食から中華やフランス料理となんでも好き嫌いなく食べていた。

「オマールの海老なんてほっぺたが(とろ)けそうだわ。どういかがかしら」

魚料理などもかなり好きでまた詳しい。

「あっそうそう会長さんがおっしゃっていたけどね。来月からお兄ちゃん体重リミットを考えてくださいねって。デブデブさんではジムに来てくれるなぁ〜だってアッハハ。会長さんから食べていいものといけないものの一覧をもらったの。残念なことに海老や蟹入ってないなあ」

おいおい俺の大好物が食べてはいけないなんて。

「痩せてジムに寄越してちょうだいって言われたの。だからねもう少しで好きな食べ物がいただけなくなっちゃうの。わかるかなっ。わかりましたかぁオホホ」 

お袋はイタズラっ子のように笑った。今宵の晩餐はお袋の借金完済と俺の減量前最後の贅沢っていうやつだったのか。

「食べていけないの。だって海老さんは大好物だって」

俺はムシャブリついた。

「この味覚がボクシングのために禁止されてしまうのか、ちくしょう」


夕飯を済ませたらお袋がカラオケで歌いたいと言うんだ。

「おっ珍しいなあ。あれだけ歌謡曲は毛嫌いしていたはずなのに」

お袋はワインを飲み陽気さを振り撒いていた。カラオケではマイク片手に今時の歌を歌う。俺にも歌いなさいとそれはやかましかった。

「どの歌手が好きなの。どのカワイコチャンがお気に入りなの。お兄ちゃん私の気に入らない女連れてきたらただじゃあおかないからねっフンッだ」

お袋には珍しいことに酔って絡んできた。


カラオケの帰り道はお袋と手を繋いで仲良くご帰宅だった。


幸せなのはここまでだった。


深夜にお袋は急に苦しみ出してしまった。

「くっ苦しい。お水っお水ちょうだい。喉が渇くの」

俺はミネラルをお袋に飲ませた。電気を点けたお袋の顔は真っ青だった。

「さては料理が当たったかな。馴れないワインを飲ませたからかな」


俺は救急車を呼んだ。お袋はモゾモゾとした。

「ヤダよ隣近所に恥ずかしいから」

なんて駄々(だだ)を()ねた。


病院に搬送されたら食あたりじゃあないか食中毒ではないかと疑いがまず掛かる。俺に夕飯で何を食べたかとお医者さんに聞かれた。

「海老とワインねぇ。他に何があるかな」

海老ならば俺にだってなにか自覚があってしかるべきだ。何もわからぬまま入院となった。


翌日に俺が病院に行くと医療事務の方から話があると言われた。お袋を交えて話を聞いた。

「奥さん膠原病(こうげんびょう)の疑いがございます」


膠原病(こうげんびょう)はいろいろな病状がありいちがいにこれが膠原だとは言えない。身体障害者手帳配布の対象になる場合もある。


膠原病(こうげんびょう)と言われそのまま救急指定病院から近くの市民病院に移転をした。病棟では会長の女将さんが付き添い人をしてくれた。俺もお袋も大助かりだった。

「女将さんありがとうございます。助かります」

どうやらお袋は働き過ぎからくる過労が原因ではないかと診断をされた。

「お師匠さん頑張ったもんね。ご苦労様ですわ。この入院でしっかりと体のオーバーホールをしなくちゃあね。健康が一番だから。お兄ちゃんも心配していますよ。頑張ってねお母さん」

お袋は女将さんに林檎を()いてもらいながら恐縮をした。

「すいませんね迷惑ばかりかけて。私恥ずかしい」

このお袋の入院費用が実は大変なものだった。


お袋は預貯金というものがさしてなく当面の俺の生活はジムの会長さんに助けてもらうことになった。

「何っ医者は膠原病(こうげんびょう)だって言ったのか。おいおい大丈夫なのか」

会長は腕組みして考えてしまう。


お師匠さんが入院したとしても学校の講師は数人がいるから当面の問題はないとなるが。

「あの元舞妓さんが教授するからお稽古したいというお弟子さんもいらっしゃるからな。辞められないことを祈ってしまう」


お袋が入院をして金がかさむことばかりであった。入院先の市民病院は母子家庭の身分を考慮してもらえた。だから多少は助かった面はあったが。


入院費用の請求は会長さん宛に届いた。会長さんはお袋と俺の身元引き受け人であったからだ。

「膠原病ってな保険対象外の治療がかなりあるんだな」

会長は月々送られる請求書を眺めながら呟く。


俺はお袋の入院と同時にジムの本格的なトレーニングに入った。中学を終えお袋を見舞いジムへ走る。トレーニングが終わりお袋の病棟に行き女将さんかジムの女性の方と付き添いを代わる。


夜はお袋のベッドで寝てるだけだったけど。


お袋の入院が長引き入院費用が気になってしかたがない俺。会長にいくらなのか月々の支払いはと尋ねたが、

「アッハハ金のことなら心配するな。お前の母さんぐらいワシが面倒を見てやる。どうしても費用が心配ならお前がチャンピオンになって返してくれアッハハ。期日は定めはしないからさ」


俺はこの会長さんが大好きになってしまった。俺はトレーニングを会長の言いなりトレーナーの言いなりにこなしやっと4回戦ボーイのプロテストを受験する。

「いいかお前は世界を狙うボクサーなんだ。受験ボクサーの中最高得点一番で受かって来い。この年寄りのワシを今夜お前のお祝いパーティーでワンワンと嬉し泣きさせてくれ」

会長は華奢な俺の両腕をガッチと握り小さな低い声で言った。


期待している。


俺は4回戦はトップで合格をしてやった。同じ受験ボクサーの動きがまるでスローモーションに見えたのは今でもはっきり覚えている。4回戦を突破したら6回戦・8回戦。俺は自慢ではないが余裕を持って望み勝ち抜いた。

「プロライセンスは簡単に取れたなボウズ。とりあえずは褒めてやる。今からは違う。いいかよく聞きな。今からは会長とボクサーとの付き合いになる。ボクサーってのはなリングで戦う野獣だ。野獣にならなければリングから勝って降りられやしない」

会長はプロボクサーになった俺にギラギラ光る目で野獣になれとぶちまけた。


それからはハードなトレーニングだけが待っていた。俺は推薦で入った高校があったがほとんど通うことができなくなっちまった。

「せめて高校に行きてぇ〜」


会長は人が変わり俺を徹底して鍛えあげた。これでもかこれでもかと。


「お兄ちゃん顔つき変わったね。精悍なハンサムになってきたね」

入院をするお袋は俺の顔を細く青白い手で撫でた。

「毎日見ているけど大丈夫なの。お食事はちゃんと食べているの」

高校の時分は俺も減量には苦しみはなかった。バンタムのリミットにはかなりの余裕であった。しかし会長さんはいずれ背が伸び体重は自然に増すだろうと言った。

「今から気をつけていかないと減量が苦しい」

毎晩野菜スープと半膳のご飯だけだった。だからお袋の病室の林檎・蜜柑・バナナ・パイナップル・グレープフルーツ。喉から手が出ちまう。


会長は俺の調子を的確に判断して試合(マッチ)を組んでくれた。会長お得意の必ず勝てる相手だけの試合(マッチ)メイク。


いや確かに試合でグローブを交えてたらやりやすい相手ばかりだった。


俺はKO(ノックアウト)こそは少ないが確実に採点ポイントを稼ぐ技を備えつけるボクサーだったらしい。


「判定だろうとなんだろうと勝てば官軍だ。さあ次のマッチメイクに備えて行くぞ」


俺は気がついたら日本ランキング8位になっていた。一度も負けないままここまで知らない間にあがった。

「よく聞け一度しか言わない。次の試合(マッチ)は日本タイトルマッチだ。日本チャンピオンに挑戦する」

日本チャンピオンと聞いて俺は腰から力が抜けてしまった。

「会長さん冗談はよして。まだ俺日本8位ランキングなんですよ」


お袋に日本タイトルを報告した。

「わあっ凄い。日本一になるのね。日本一は富士山と日本チャンピオンよ。あれなんで2つかな」

お袋の無邪気な顔を見ているとファイトが湧くのはなぜか。


俺はお袋のために日本タイトルを取り世界タイトルへの階段を駆け上がる。

「お袋のために世界タイトルマッチを」


第10ラウンド。


俺は意識朦朧(もうろう)の中で右ストレートを炸裂させた。

「このやろうくたばりゃあがれ」

鈍い感触がグローブから伝えられた。チャンピオンの苦悩に歪む顔面に俺の右はめり込んだ。

「当たった。しかもクリーンヒットだ」


これをチャンスと俺は畳み掛ける。


ワンツー・ワンツー


それっ行けワンツースリ〜だぁ


バシッ


最後右のパンチ手応え覚えている。チャンピオンがゆっくりゆっくりと床に倒れていくシーンだった。


観客はワアワア騒ぐ。

「決まった。決まっちまった。伝説のベネズエラが伝説がおわっちまった」

ダウンしたからレフリーがカウントを取り始めた。チャンピオンはのびたまま動けない。


じっくり様子を見た。カウントは取らない。そのままダメだと首を振るレフリーだった。


「テクニカルノックアウト」


レフリーは手をあげ試合終了のゴングとドクターを要請した。会場はヤンヤヤンヤの大騒ぎとなる。


コーナーからは会長さんとトレーナーが小躍りし喜んで飛んできた。会長さんは泣いてしまい顔がクシャクシャ。俺に何か言いたいらしいがなにひとつ言葉にゃあならない。トレーナーのあんちゃんが泣き崩れた会長の肩を抱きしめていた。


お袋は病室のテレビで中継を見ているな。あの病棟だと面接室の長椅子テレビあたりか。病棟の患者さんや医者・ナースさんたちからおめでとうと祝福されているんじゃあないか。


お袋は俺が子供だった頃からの思い出をフラッシュバックして泣いているかも。この試合かなり殴られたから最後まで見ていられなかったかもしれない。そう考えたら親不孝しちゃったかな。


ボクシングの世界チャンピオンになるってのは大変なこったぜ。

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