◇幕間劇九『天界での一日』(リリス視点)
私は、天界の図書館で悪魔の用いる魔術について調べていた。
例の殺人事件……確か生贄の使い方がとんでもない魔術の儀式にとても似ていたような……。
「学生時代に悪魔側の魔術なんて習わなかったからなぁ……」
机の上には何冊ものぶ厚い本。テレサに習った速読法がこんなところで活きることになるなんて思わなかったわ。
「いくら執念深く勉強してきた私でもこの情報量は手に余るわね……」
目の前に置かれた本の塊は、自らの重さを私に向かって主張しているようにさえ見える。
「おや、リリスではありませんか。卒業生がここに来るとは珍しいですね」
聞き慣れた声が後ろから聞こえてきた。
「ラファエラさん!」
私は嬉嬉として声を上げる。
「先生と呼びなさいと言ったでしょう。……それはともかく、元気にしていますか?」
「はい、それはとても!」
「それは良い事です」
先生の顔から柔和な笑みが零れた。
換気中の窓から吹き込んできた風が、本のページを次々と捲っていく。
「あなたがここに来てからしばらくの間は心配しましたが、テレサが助けになって、本当に変わりましたね」
話している間、まるで笑みを絶やさない。
「ええ。あの時は、ちょっとひねてましたから」
少し、あの時の話をしましょうか。
*
私は、とてつもなく長い時間を過ごしてきた。
けれど、そのほとんどが、真っ暗な海の底での、孤独な生活だった。
魂だけが深海を登り、寂しさから男児の魂を連れ去る。
その後長い時間をかけて育てるも、なかなか理想の男性にはならなかった。
そんなことを繰り返すうちに、私は、人さらいの妖怪、悪魔などと呼ばれるようになった。
かつては祀られていた偉い神様が、ほとんど信仰されなくなることで、低級霊になることは特に珍しいことではない。
私の場合、特に偉い存在だった訳では無いのだが、神代の魔法を使う事が出来たので、力だけは強かった。
私が地の底からすくい上げられ、守護天使に抜擢された時は、心底驚いた。私はもう二度と必要とされないものだと思っていたから。
多分、私特有の『回復能力』への適正が目当てだったのだろう。
それに、私には神代の魔法がある。限られた者にしか発音できない、古の魔法が。
尤も、幻想戦争のルールに則れば、戦闘では一つの能力しか使えないのだけれど。
結局慢性的に気の狂いそうな孤独感を感じていた私は、二つ返事でそれを了承した。
*
──守護天使養成学校。
天使の中でも、魔法士を守り、戦闘知識に特化した天使を育成する学校である。
私は地上に上がるどころか、天界に行けることに対して希望を持っていたのだけれど、実際に通い始めてからは、色々と大変だった。
どうやら私は近寄り難い雰囲気を纏っていたらしく、異様に最年長、元悪魔という経歴、抜群の実技試験結果も相まって、自分から私に話し掛けようとする者が居なかったのだ。
避けられてはいるものの、嫌われているわけではなく、陰口を言われている訳でもないようなので、私はあまり気にしていなかった。
それはそうだろう、たとえ多少の偏見があるとしても、それを態度や言動に表してしまっては、天使失格である。
……けれど。
深海から上がれば孤独ではなくなると勝手に思い込んでいた私は、少し──いや、かなり──その現状に、幻滅していた。
そんな中、ラファエラさんだけは私の事を気にかけてくれた。
図書館に篭っていると、しばしば彼女に話しかけられた。
嬉しい反面、なんだか惨めな気分にもなって、複雑な心境だった。
きっと私の無駄なプライドがそうさせたのだと思う。
そんなある日、テレサが守護天使養成学校に編入してきた。
彼女はほとんど死んだ直後で、人間界の功績が認められてここに編入したらしい。天使になってから日が浅いらしく、彼女は私の事を知らなかった。
偶然なのかどうなのか、彼女は私のルームメイトになった。
*
これをきっかけに友人を作ろう、と決意した私は、早速彼女に話しかけてみることにした。
私の知る限り、彼女はいつも部屋で本を読んでいた。
噂によると、彼女の座学の成績は抜群だったらしい。これだけ知的好奇心旺盛なら、それもそうかと思った。突然守護天使に引き抜かれたのも、本音としてはこれが理由だろう。
「ねえ、その本、面白い?」
彼女は私を一瞥すると、こくりと首肯した。
私は彼女のことを、小動物のようで可愛らしいと思った。
「オススメの本とか、ある?」
私の問いに、彼女は部屋の本棚を少し漁ったのち、一つの本を投げてよこした。
突然の出来事に、私は目を丸くして彼女を見つめた。
こくり、と、彼女。
読んでみろということなのだろうか。
私は渡された本を開いた。
私も暇な時は本ばっかり読んでたから、並の本だと半日で読み終わる。
そんな私でも、彼女の選んだ本はなかなか読み応えがあった。
硬いSFはあまり読んだことは無いが、これは面白いと感心した。
内容は、いわゆる終末系で、詳しく言うと、こうだ。
*
数年後に地球規模の地殻変動が起こり、天変地異になることを予測したインドの科学者が、アメリカ大統領にそのことを報告する。そして歴史的な美術品を後世に残す為に、世界各国の美術品を偽物と取り替え始めるプロジェクトが始まる……というところから物語は始まる。
そんな中、とある変人が流している野良ラジオから、世界の終末のことを知った主人公は、元妻と子供達を連れ、彼の知る避難場所の地図を入手するために、彼に会いに飛行場へと急ぐ。程なくして天変地異が始まる。
やがて彼らは、先進国が裏で進めていた「ノアの方舟計画」が唯一生き残る手段だと知ることになる。
彼らはノアの方舟の製造国、中国に向かう為に、飛行機のあるラスベガスへ向かうが、途中主人公の雇用主のプライベートジェットに便乗することになる。
しかし、給油予定地だったハワイは既に全滅しており、ジェットは目的地の手前で不時着し、歩いて目的地に向かっていたところ、通りかかった中国のヘリに、雇用主だけが救出される。
その後も徒歩でノアの方舟を目指す主人公達だが、途中でとあるチベット人僧侶のトラックに遭遇する。そして、彼らと共にノアの箱舟への密航を図ることに。
しかし、巨大地震の影響で数千メートル級の大津波がすぐに到達することが判明し、予定よりも早くノアの箱舟の出航を強行しようとしたため、取り残された雇用主達は暴動を起こす。
助けを求める人々を見たアメリカ大統領と各国首脳は、互いに合意し、ノアの箱舟のハッチを解放する決断を下す。しかし、箱舟の油圧室にいた主人公達が巻き込まれ、ハッチが閉鎖できなくなってしまう。
やがて箱舟は大津波に襲われ、ハッチから大量の海水が入ってくる。主人公はハッチを閉鎖するため水没した油圧室に向かい、機械に絡まっていたケーブルを取り除く。ハッチが閉鎖した箱舟はエンジンを始動し、無事に大津波を乗り切る。
一か月後、一行は、大陸が隆起して難を逃れたアフリカ大陸の喜望峰に向かって舵を取ることになるのだった。
*
「ありがとう。凄く……面白かった」
出来る限りの笑顔でテレサに話し掛ける。
私、引きつった笑顔浮かべたり、してないだろうか。
「そう、良かった」
相変わらず表情の変化が少ない。でも、なんとなく、口角が若干上がっているように思えた。
……人見知りなんだろうか?
「じゃあ、私からはこれを勧めるわ」
私は自分の本棚から、一つの本を取り出した。
前半は冒険譚、後半になると本を読んでいた主人公が本の中に吸い込まれ、主人公自身が冒険するという内容のファンタジーだ。
「ん、読んでみます」
その後、彼女からはなかなかの高評価を得た。
*
それから、彼女は私の唯一無二の親友になった。
こちらが好意的で人畜無害だと分かると、そこからは加速度的に仲良くしてくれた。
彼女は人間界のニホンという国の話をよくした。
この国は幻想戦争の舞台になる場所だったので、私も少しだけ興味があった。
何故舞台がニホンなのかと言うと、霊山が多く、「時に取り残された空間」の制御が比較的楽だからだそうだ。
彼女の話によると、とにかく日本の人は親切だという話だった。
私は少しニホンに行くのが楽しみになった。
そこで今度は、仲のいい人間を沢山作れればいいな、と思った。
本来建前と絶望しかない『戦争』を通して、人との絆を築こうとする自分を、少しだけ嫌悪した。
けれど私には、希望だけがあった。
――落ちてしまった以上、もう上がるしかないのだから。
きっとそうだって、信じるしかないの。
本気で信じれば、きっとそれは叶う。
私は、新しい自分を生きるんだ。
*
「本当に、短い間に色々な事が起きたと思います。だけど私は、回り道をすることでそれだけ多くを経験する事が出来た。今ではそう思います」
どこか遠くを見つめながら、私は言った。
「成長しましたね、リリス。それで、地上で友達は作れましたか?」
ラファエラさんは朗らかな笑顔を私に向けながら言う。
「沢山出来ました。それに、それ以上の関係になりたい人も出来ました」
私の返答を聞いて、彼女は大きく目を見開く。
「それは良いことですね! ……リリス、あなたは普通の守護天使と違って、幻想戦争が終わると、自由なのです。それから先は、あなたが決めなさい」
私は答えあぐねていると、その間にラファエラさんは去っていった。
……そうか。
私はいつまでもみんなと居られるわけじゃないんだ……。
…………。
「いけない、いけない! 早く調べ物を終わらせて章のところに戻らないと!」
考える時間はまだ沢山ある。
──でもそれはきっと、今じゃない。
でも……。
幻想戦争が終わったら、私は一体、どうすればいいのだろう……?
ぼんやりとそんなことを考えながら、私は調べ物を続けた。
*
……数時間後。
「! あった! これだ!」
机の上に大量に置かれた本の中から、例の殺人事件の内容とほぼ合致する儀式の記述を見つけ出した。
「……え……嘘でしょ……」
守護天使にしか閲覧することが許されない本、『禁呪』にそれは載せられていた。
「これが本当なら、早く伝えないと……!」
私は急いで図書館を出た。




