◆第五十八話『目覚めと喪失Ⅰ』
次の日の朝。僕は置き電話の音で目を覚ました。
ベッドから出ようとするが、あまりの寒さに尻込みする。
「出ないと……」
気力を振り絞り、なんとかベッドを抜け出した。そして階段を降り、急ぎ足でリビングへと向かう。
「なんだろう……珍しいな、電話なんて」
リビングに着き置き電話を取ると、聞き慣れた声が聞こえてきた。
「はい、もしもし」
「もしもし、能源さんのお宅ですか?」
「その声は……テレサさんですか?」
「はい、そうです。今病院の公衆電話から掛けているのですが、急いで来て欲しいのです!」
「はぁ……。……もしかして詩織の目が覚めたんですか!?」
「はい、そうなのですが何がなんだか……とにかく来て下さい! お願いします! では!」
ガチャリ、と電話を一方的に切られてしまった。
こんなに慌ただしいテレサさんは初めて見たと思う。
詩織の目が覚めたのは良かったが、もしかして他に何かあったのか……?
何やら、胸騒ぎがする。
「身支度をしたらすぐに行かなきゃね」
リリスが背後から話しかけてきた。
いつの間にリビングに入ってきたのやら。
「詩織ちゃんの目が覚めたんでしょう?」
「確かにそうなんだけど、妙にテレサさんが焦ってたんだ。それだけじゃないかもしれない」
リリスの顔が曇る。恐らく心配になったのだろう。
まだ照明も付けていない室内は、悪天候のせいか、いつもより少し暗く見えた。
*
病室のドアを叩く。詩織は意識不明の間、個室で療養生活を送っていた。
「アキラですか? どうぞ」
扉は音もなく滑らかに横に滑る。部屋の中に入ると、窓の外を見ていた詩織がこちらへと目を向けた。
「アキ君……」
「詩織! 良かった、目が覚めたんだな!」
僕の言葉に、彼女はどこか曖昧な笑みを見せる。その表情からは、命を取り留めた喜ばしさが感じられず、心なしか、むしろ物憂げな印象を受けた。
「……どうかしたのか?」
「アキラ、落ち着いて聞いて下さい」
これから何か重大な宣告をするかのような物言いに、僕は思わず気を張った。
「詩織のここ最近の記憶が……全く無いのです。まるで抜け落ちてしまったかのように」
「なんだって……?」
予想だにしていなかった告知に、驚きを隠しきれない。
「一体それはいつから?」
「どうやら約2週間前かららしく……」
「記憶喪失……? まさか……」
隣でリリスが目を見開いている。
言動が引っかかったので、少し訊いてみることにした。
「何か心当たりがあるのか? リリス」
「……どうしよう、私のせいかもしれないわ」
「え?」
リリスは目に見えて動揺している。
しかし、何がどうしたらこれがリリスのせいになるというのだろう。
言っている意味が少しよく分からない。
僕が疑問に思っていると、彼女から事を話し始めた。
「私の回復魔法が原因で、引き起こされた現象かもしれない」
「なんでそうなるんだ?」
「私の回復魔法はね、治癒魔法とは違うの。治癒魔法っていうのは、人間本来の治癒能力を底上げするもの。要するに、治癒のスピードを大幅に上げるものなの。でも、回復魔法は違う。回復魔法は、治癒魔法よりもずっと強力なの。アカシックレコードにアクセスして、傷を受ける前の状態に時を巻き戻す、それが回復魔法。だから多用すると、記憶の混乱を引き起こす」
「……そうだったのか」
「ごめんなさい、私、すっかり忘れてて……」
彼女は、珍しく自責の念に駆られているように見えた。
「あの時はああするしかなかった。あれで命を取り留めたんだから、謝る必要なんて無いよ」
「そうですよ、リリス。そんな表情をする必要はありません。まだ記憶が戻らないと決まった訳で…は……。…………!」
歯切れの悪いテレサさんの言い草に、僕は思わず彼女の方へと目をやる。
彼女は信じられないという表情で口元を押さえていた。
「な、なんなんですか!? 他に何かあるんですか!?」
「約2週間前という事は、ちょうど幻想戦争が始まった辺りではないでしょうか……? そして、六大原則、第六条……」
「あっ」
リリスが不意に声を上げた。何かに気付いたらしい。
「〝例外として、戦闘はどちらかが降参するか、もしくは停戦を合意した時点で終結する。ただし前者の場合、その際に、負けた側は一切の能力と幻想戦争の一切の記憶を奪われる〟」
「まさかそんな……じゃあ竜人は詩織が降参した上であんな仕打ちをしたっていうのか!?」
「まだ可能性の段階ですが、可能性としては十分あるかと……」
「クソっ!」
僕は思わず壁を思いっきり叩いた。
拳よりも壁の方がずっと硬く、拳にじんじんと痛みを感じる。
すると、不意にドアがノックされ、扉が開いた。
「病院内ではお静かに」
「……すいません」
何をやっているのだろう、僕は。
冷静にならないと。
頭を冷やそう。
僕は深呼吸をした。
少し、落ち着いた気がする。
「……もう詩織は、戦線離脱しても……いいんじゃないかな」
口にしたのは、自分でも想定していなかったような言葉だった。
背後で、何かが落ちる音がした。




