◆第五十二話『束の間の休息』
「能力引き上げ訓練――効果があることが判明したので実験ではありません――には準備が必要なので、また明日改めてお越しください。……それと、これからは忙しくなるので、今のうちに休んでおいた方がいいかもしれません」
麻夜さんにそう告げられた僕は、家に帰ってくると、自室のベッドで横になり、暇を持て余していた。
「なんか小説読む気にもならないんだよなぁ……」
僕は特に何かがしたいという気にもなれなかった。ただ無気力に横になっていたいのだろうか。自分でもよく分からない心理的弛緩が、僕の心を支配していた。
「あら、あれだけ『どれだけ速く強くなれるか』なんてこと言ってたのに、呑気なものね」
リリスが嫌味ったらしく言い放つ。まぁ、あれだけ悲しい思いをさせてしまったのだから、少しは言わせてやるべきだろう。
「ところで、他の仲間には連絡しなくていいの? 彼ら、詩織ちゃんが入院したことさえ知らないじゃない」
暖房の温風が部屋の中を駆け巡る。今頃外では厚着をした人々が白い息を吐きながら歩いているのだろう。
「僕、ちょっと考えたんだけどさ、今回、詩織が狙われた件については、完全に故意だと思う。僕がシェマグリグを引き抜いたこと、その場に詩織が居たことがなんらかの事情でバレたんだ」
「……それで?」
「でも、勘だけど、将大や文先輩が仲間であることはまだバレてない気がする。だけど、これからも仲良くしたら、その先に、僕を引きずり出す為に、将大たちや文先輩が狙われることもあるんじゃないかって」
「……そうね。その可能性が無いとは言いきれないわね」
腕を組みながら冷静に状況を分析するリリス。
「だから、詩織と同じような目に遭わせるくらいなら、いっそ距離を取った方がいいんじゃないかと思う」
僕の発言に、彼女は額に手を当てて溜息をついた。
「偽善だわ」
「なっ……!」
頭に血が上るのを感じる。
「偽善だって……?」
「あなたは、少しも、それをやられる側のことを考えていない。……信用されない側の気持ちが、分かっていない」
「…………」
僕は昂る気持ちを抑えた。ここで言い争ったところで、何の生産性もない。
そして何より……彼女の言葉が引っかかった。
「悪い、一人にさせてくれ」
リリスは欧米人のように肩を竦めると、意外にも素直にドアへと向かった。
「最後に一つだけ」
「…………?」
「この話、テレサにしていいかしら?」
「別に構わないけど、将大たちにはするなよ」
「……わかったわ」
彼女はそのまま部屋の外へと出ていく。
一人部屋に取り残された僕は、思わず独りごちた。
「やられる側の、気持ち、か……」
人を危険から遠ざけておくことが偽善だとは、僕は思わない。
傷付くのは僕だけで十分だ。
詩織が、みんなが、僕に振り回された。
僕のために、頑張った。
その結果、詩織はああなった。
叶のことも詩織のことも、僕が背負うべきことだ。
皆は僕に付いてきてくれたのだから。
これ以上、被害者を増やしてはいけない……。
でも……これが本当に正しいんだろうか……?
叶……僕は……どうすればいい……?
*
ここは、どこだ?
白黒の写真が、見える。これは……遺影?
ああ、そうか。
叶が、死んだ時だ。
あの頃の僕が見える。
そうか、僕は、こんなに悲痛な顔をして、泣いていたのか……。
詩織も居るみたいだ。哀れみの表情を浮かべながら狼狽している。何て言葉を掛けていいのか分からないんだろう。
……こんなこと、当時気付かなかったな。この時は自分のことだけで精一杯で、周りのことなんて考えられてなかった。
「何で……置いていっちゃったんだよ……叶……!」
僕、こんなこと言ってたっけ。
「叶は……僕の……代わりになって……! 僕が……僕がしっかりしていれば……!」
僕は、こんなにも悲痛な表情で、こんなにも悲痛な言葉を、吐いていたんだ……。
「僕は、あいつに酷いことを……!」
姉は憐れみの表情を浮かべながら、僕を抱きしめる。
「叶ちゃんは命を張ってあなたのことを助けてくれたのよ。嫌いだったら、絶対にそんなことはしない。そんなに泣いてたら、叶ちゃん心配するわよ」
僕は何も言えずに、嗚咽を出しながら、とてつもなく長い時間、泣いた。
*
ふと、僕は目を覚ました。
目には涙が溜まっている。
やたらと抽象的なことを考えていたせいか、いつの間にか眠りについてしまったらしい。
そういえば、あの後から詩織がよそよそしくなったんだっけ。
原因は分からなかったけど……。
今こんなに仲良く出来てるのが信じられない。
……時間が僕らの隙間を、埋めてくれたのだろうか。
さて、やられる側の、気持ち、か。
正直、僕は叶に少なからず感謝していた。
でも一方で、叶に対する罪の意識も内在している。
僕が身を呈して詩織を守ったら、彼女は僕に感謝してくれるだろうか。
それこそ、美談にでも、なるだろうか。
そんなことを考えていると、玄関のチャイムが鳴った。
時計を見ると、午後五時。
もう外も暗くなっているが、こんな時間に誰だろう。
僕は一階に降り、「はい!」と言いながらドアを開けると、いきなり視界が暗転した。
……なんだ……? いきなり……?
頭がじんじんと痛む。
思わず僕は、その場に仰向けに倒れ込んだ。




