◆第三十六話『鍛錬の初日』
その日の朝は、さっぱりとした気持ちで目が覚めた。
昨日の疲れはほとんど残っておらず、自らの生命力溢れる若々しい肉体に感謝する。
窓の外からは、既に冬の淡い朝日が差し込んできていた。
「おはよう、章」
珍しくリリスが先に起きている。
「おはよう、リリス。お前が先に起きてるなんて、珍しいな」
僕の言葉に、彼女は少しむっとした。
「たまには先に目が覚めててもおかしくないでしょ? 仮にも私はあなたのお目付け役のようなものなんだから。それに、今日早く起きたのはあなたの鍛錬の準備をしていたからなの。少しは感謝してもらわないと」
『あなたの』の部分にアクセントを付けて、リリスは言った。
「ははは、ごめんごめん」
誤魔化すように空笑いをし、本棚の上の置き時計を見る。時計の短針は、七時をわずかに回っていた。
そうして、僕はおもむろに部屋の窓を開けると、朝の清涼な空気を、身体全体で感じ取る。
雲一つない青空。本日は快い晴天だ。
「いつも朝起きると窓を開けるわよね、章って。いつもそれで私も目が覚めるわ」
「朝の日課なんだよ。いつもこれをすると、朝が爽やかに迎えられて、一日眠くならずに済むんだ」
「へぇ、良い日課ね。いつからやってるの?」
「それはちょっと、覚えてない」
「そう」
僕は窓を閉じ、軽く伸びをすると、階下へと降りた。
守護天使の生態はあまりよくわからないが、娯楽として摂取することは出来ても、食事そのものは摂らなくても平気らしい。
我が家のエンゲル係数は出来る限り抑えたいので、リリスには普段は食事は摂らないでおいて貰っている。
ちなみに今日の朝食は、トーストにスクランブルエッグ、ウィンナーにサラダ……と、これ以上ないほどありきたりなものだ。
「そう言えば、リリスって好きな食べ物とかあるのか?」
「好きな食べ物……そうね、あまり摂取したことが無いから、特になんとも……」
「なら食べてみるか?」
僕はさっき作ったスクランブルエッグを、スプーンの上に乗せて彼女に近付ける。
「……いいの?」
「別にいいよ、そんなに高価なものでもないしな」
髪を掻き上げ、それを口に運ぶリリス。
「…………」
彼女は無言で咀嚼している。
「美味いか?」
「もう一口」
「……わかったよ」
僕は再びスプーンの上にスクランブルエッグを載せると、彼女に近付ける。
すると彼女は、再び無言で咀嚼し始めた。
そしてしばらく味わった後、それを飲み込むと、彼女は感想を口にする。
「非常に美味ね。柔らかな食感が口の中を優しげに刺激して、玉子そのものの甘さがよく出ている。更に味付けの塩胡椒がアクセントになっていて、個人的には好みだわ」
初めて食べたのだから月並みな感想になるのだろうと予想していたのだが、それとは対照的な、リポーター顔負けの彼女の感想に、僕ははてと疑問を持った。
「……初めて食べたにしては随分と具体的な感想だな」
リリスはギクリとして目を逸らすと、必死で口元に笑顔を作りながら、言葉を紡いだ。
「さっきの言葉、半分嘘なの。現代の食べ物はあまり食べたことが無いのは事実だけど、スクランブルエッグくらいなら、昔からあったから」
「じゃあなんで嘘なんか付いたんだよ」
「そんなの、決まってるじゃない」
疑問に思い、訝しげに見つめる僕に、彼女はこう言い放つ。
「美味しいスクランブルエッグが好物なのよ」
ああなるほどなと思いつつ、ナチュラルにスルーしてみせたら、少し怒ったらしく、頬を膨らませていた。
さて、廃ビルのある山へと向かうため、身支度を調える。
持ち物は、財布やハンカチ、携帯音楽機器、文庫本に携帯電話、そして、先ほどポストから回収した、一通の手紙。それらをポシェットに入れて身に付け、上着にトレンチコートを着込んだ。
自転車に乗るとすぐ着くが、リリスが居るので、僕は徒歩で山へと向かうことにしていた。
僕が自転車、リリスが空からだと苦労が無いのだが、あまり目立ち過ぎるのも良くない。
以前出掛けた時は深夜だったから良かったものの、天下の真っ昼間に空なんか飛んでいたら、話題に飢えた地元の新聞に取り上げられてしまう。……もしくは、うちの学校の新聞部による新聞。彼らの方が、よっぽど話題には飢えているかもしれない。
「……それで、何でお前は俺の自転車の後部座席に乗っているんだ」
彼女はポンポンとサドルを叩く。
「いやサドル叩かれてましても」
「空じゃ駄目なんでしょ?」
「いや徒歩で行くつもりだったんだけども」
「自転車の方が速いじゃない」
「自転車のニケツは法律違反だ、あと登り坂きついから却下」
「え〜」
「いいから、事故起こしたらどうすんだよ」
僕の言葉に、渋々自転車から降りるリリス。
「よし、じゃあ行こうか」
ゲートを開けて、歩き出す。
「男の夢なんじゃないのかしら……」
「ん? 何か言ったか?」
「何でもないわよ、バーカ!」
悪い事したわけじゃないのになんで悪態を突かれなきゃいけないんだ……?
………………。
…………。
……。
廃ビル前に着くと、将大が既に到着しており、彼は柔軟体操をしていた。
腕時計を見ると、まだ九時半だった。
「よう将大、早いな」
僕に気が付くと、一旦柔軟体操を止め、応答する将大。
「九時半で早いは無いぜアッキー」
「はは、まぁそうかもな。でも、集合時間に比べると随分早い」
「まぁ、それは確かだな」
「レシムさんは?」
「あっちで瞑想してるよ」
将大はレシムさんを親指で指差した。
彼は目を瞑り、呼吸に集中しているようだった。
「……邪魔しない方が良さそうだな」
「毎日欠かさずやってるらしい。よく飽きないもんだぜ」
「それだけ真面目なんだろ」
「まぁ、良いところではあるわな」
不意にリリスが手を叩く。
「全員揃ったら一斉に始めましょう。それまで各自自由ね」
「「了解」」
僕は文庫本を読み始め、将大は柔軟体操を再開した。
今回の鍛錬は、僕が火炎の右手の自動詠唱を習得するために行われる。
僕の場合、屋内で発動させることが難しいため、屋上で訓練を行っている。
具体的な内容としては、
①リリスが持って来た三つの『動く的』を、省略された詠唱と共に撃ち抜く。
②慣れてきたら、頭の中で詠唱を唱えるように持っていく。
③最終的に、頭の中の詠唱が念のようなスピードに至る。
というものらしい。
最短一日で習得出来るらしいが、一日中鍛錬を行う必要があり、体力はともかく精神力が疲弊していく。
三十分に五分程度の休憩を挟みながら、軽くリリスと取り留めのない雑談をする。
「そういえば、あなたに絆の話はしたかしら?」
唐突な彼女の質問に、頭を捻る僕。
「リンク? 聞き覚えがないな……」
「それなら一応説明しておくわね」
リリスは軽く咳払いをすると、話を続けた。
「絆っていうのは、一言で言うと、『守護天使と魔法士の仲の良さの度合い』のことよ。これを高めると、同時にシンクロ率が高まって、私からあなたに流れる魔力が増えて、その結果、使う魔法が強くなるの」
「ふむ、つまりお前との親密度は高めた方がいいって事か」
「単純に言うと、そういうことね」
「…………」
遠回しに言って流したはいいが、結構気恥ずかしい話な気がする。
守護天使と同性の詩織や将大ならともかく、僕とリリスが仲良くするって言うのは、なんだかむず痒さを覚える。男女間の友情というものを、僕はあまり信じていない。
あ、でも文先輩とレンも異性だな……。
…………。
あれよりはマシか……。
文先輩、頑張れ。
僕は手を合わせて静かに黙祷する。
そんな僕を、リリスは怪訝そうに見ていた。
やがて時間が十二時を周り、昼休みになった。
結局午前中の間に、三つの的を省略詠唱で撃ち抜ける程度の成果を出すことは出来たが、まだ正確さでは少しぎこちない。
しかし、リリスからは筋が良いと褒められ、僕はそんな彼女に感謝した。
さて、昼休みの間に、朝食を食べ終わった後にポストから回収した、この手紙の内容を告知しなくては。




